2022/12/27 - 2022/12/27
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gianiさん
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2022/12/27
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明治前半の大規模干拓事業で誕生した宇品。
海軍の呉と共に、陸軍の広島として、軍都の一面を持ちます。
陸軍の意外な副産物は、戦前のアヲハタと戦後のカルビー。
最近では、岸田首相が2023G7サミットの会場として、地元選挙区の宇品を誘致。
広島城や平和記念公園と比べて地味だけど、
噛めば噛むほど深い味わいと出会えるスポットです。
時代順(土地開発順)に線を引いた地図情報も必見です。
- 旅行の満足度
- 5.0
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旅の始まりは広島城。
戦後に再建された天守閣が印象的。 -
なぜ広島城下というと、日清戦争中(1894-95)ここに大本営が設置されたからです。軍の総帥である明治天皇も、皇后らを伴って277日間滞在。宮中移動です。
広島大本営跡 名所・史跡
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南を向いて撮った当時の写真。北西角に天守閣、南東方向に洋風の大本営の庁舎が写っています。
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戦争中は、国会も移動。
帝国議会も広島で開かれました。仮議事堂が設置された場所は、水道局の庁舎になっています。帝都広島でした。 -
当時の絵画も残っています。
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城下の干拓
1600年頃、現在の広島市街の大半は海の中でした。白神社には、1591年に海岸線だったころの岩礁の上に建っています。白神社 寺・神社・教会
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とうかさん(稲荷さんの別読み)でお馴染みのお寺も、城下町最南端でした。
圓隆寺 寺・神社・教会
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大ざっぱに言えば、現在の平和大通りが当時の海岸線でした。
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17世紀に積極的に埋立(干拓)が促進され耕作面積が増えますが、それ以降は緩やかでした。
幕末の海岸線は、現在の美幸橋や対岸のゆめタウン広島付近まで後退しました。御幸橋停留場 駅
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江戸時代に広島は、江戸・京・大坂・名古屋・金沢に次ぐ国内第6の都市に成長。
ゆめタウン広島 ショッピングモール
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明治になると、旧薩摩藩士の千田貞暁が県令になり、旧士族の失業対策に巨費を投じて、宇品干拓と築港(1884-89)を敢行します。当初の予算の3倍以上を費やしたことから酷評され、新潟へ左遷させられます。彼の功績は、千田廟公園(写真)に顕彰されています。
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この事業で、遥か沖合にあった宇品島は短い橋で陸続きになり(写真)、元宇品と呼ばれるようになります。
写真には、岸田首相が広島サミットの会場に選んだグランドプリンスホテル広島が写り込んでいますね。セレブは、海上タクシーでアクセスします。島に立地するので、警備もしやすいです。宇品港 名所・史跡
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明治期には、宇品港~宇品波止場公園のラインまで海退します。
宇品港 名所・史跡
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日清戦争(1894-95)
竣工から5年後に、日清戦争が勃発。大型船に対応できる宇品築港は軍港として、陸軍の大陸輸送の拠点に華麗なる変身。波止場公園には、軍港の桟橋遺構が残ります。
※港湾設備は拡張して宇品地区を飛び出し、現在は広島港と呼ばれます。宇品波止場公園 公園・植物園
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鉄道の伸張
開戦の1か月前に、山陽鉄道が広島まで伸張。8月には僅か17日間で、広島~宇品間に軍用鉄道を敷設。宇品新開の東の境界線(堤防)の上を走りました。
大本営も広島城に移転し、広島は軍都の道を歩み始まます。 -
写真は宇品新開の堤防跡。芝生の部分が堤防兼線路跡です。右側の宇品新開は、海面よりも低い土地だと分かります。写真枠外(左方向)の海だった部分も戦後に埋め立てられ、こうした経緯を知らないと、意味不明の土手道に映ります。
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広島には軍事施設が多く存在しました。昭和期の宇品地区には運輸部、兵器支廠、砲兵連隊駐屯地等7施設が存在しました。
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桟橋に隣接する宇品駅のホームは全長560mで日本一の長さ。物資を迅速に積み下ろしするための設備です。ホーム沿いには軍需物資を保管する倉庫が並んでいました。
終戦翌年に大本営は解散しますが、翌97年の軍用水道敷設を始め、陸軍の設備投資が続きます。
※現在は京都駅の0番ホームが全長558mで日本最長。広島陸軍糧秣支廠倉庫 名所・史跡
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宇品みなと公園に、倉庫の壁の一部が移設保存されています。1910年竣工で、戦後は1997年まで日通の倉庫として使用されました。
宇品は陸軍の輸送拠点として、日露戦争でも活躍します。それに伴い、千田貞暁は再評価され、琵琶湖疎水と並ぶ二大事業を成し遂げた人物として男爵に叙位されます。
宇品新開の広大な未開発地は、巨大な軍需工場を建設するのにも最適でした。 -
陸軍被服支廠
3棟のレンガ造りの建物が300mに渡って続く。もう一辺には4棟目が並び、2辺合わせて500mほどの長さの壮観な光景。布や豚革を調達し、陸軍兵士の軍服・軍靴等の製造・貯蔵を行った。1913年竣工。宇品線沿いに立地。出汐倉庫 (旧広島陸軍被服支廠倉庫) 美術館・博物館
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陸軍糧秣支廠
糧秣とは兵士の食糧と軍馬の飼料のこと。宇品では、牛肉大和煮の缶詰工場が1911年に竣工。宇品新開の西側の堤防に沿う立地。現在は、広島市郷土資料館としてリノベ。広島市郷土資料館 美術館・博物館
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写真は、美幸通り。宇品新開の西側の堤防跡です。写真枠外(右方向)が海面より低い土地になっています。左側の低地は、大正期に建設した堤防によって干拓された土地。上の糧秣支廠も、大正期の干拓地に建設されました。
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細長い干拓地だったので、東西100m南北800mに渉る立地。
北から順に牛舎、食肉解体工場、缶詰工場が並びます。
西の堤防が大正期の干拓に際して建設されたもの。堤防には、広電宇品線が通っています。(現在の線路は、明治期の宇品新開側に移設。) -
缶詰工場の南には事務所、倉庫群が並びます。工場西の御幸通りが、明治期の宇品新開の堤防跡です。
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余談
宇品新開の堤防を北進すると、御幸橋の手前で左右に広がる堤防にぶつかります。これは、江戸前期に干拓した仁保島西新開の堤防跡です。仁保島が内陸化して、現在は黄金山と呼ばれています。 -
終戦後陸軍は解体され、工場も民間に売却。食肉解体工場はカルビーの本社工場になります。1973年に本社は東京へ移っています。写真は1978年のもの。
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食肉解体工場→カルビー本社工場跡地
現在はマンションが建っていました。2006年に広島工場は廿日市に移転し、翌07年に解体されました。 -
広島市郷土博物館では、広島発祥の有名企業を特集した面白い企画展が。
まずは、前出のカルビー。 -
創業者は松尾孝(1912-2003)。
現在の西区で18歳の時に家業を継いで砕米を糖化した水飴を製造するも、日中戦争の物資不足に直面。陸軍から米糠を仕入れて胚芽を利用した代用食・健康食を研究するが、被爆で工場家屋を失う。
正直多難だった。実は家業=負債の相続。酒蔵元から砕米と米糠を仕入れ、糠は農家へ飼料として転売、砕米を糊に加工して染物屋へ卸してコツコツ返済。その後戦争に突入して精米が手に入らず、陸軍から米糠を仕入れて代用食研究に邁進。
胚芽のビタミンB1にカルシウムを混ぜると身体に良いと知り、それぞれの語頭を繋げて「カルビー」という名前を思いつきます。 -
会社設立(1949)
被爆で工場家屋を失い、戦後はサツマイモや小麦から作ったキャラメルがヒットし、1949年に宇品の旧陸軍食肉解体工場を買い取って松尾糧食工業株式会社を設立。食品工場の廃棄物を食材に変える半生だった。写真は、線路わきの雑草を食品化できないか研究している様子。 -
挫折
主力商品カルビーキャラメルは、1953年頃から売れ行きが鈍化し経営が傾きます。9月には主要マーケットだった九州で大水害が発生、会社は、あっさり倒産します。
※資産を債権者に差し押さえられる清算ではなく、2度目の手形不渡を起こして事実上の取引停止という意味かと思われます。 -
再出発(1955)
米不足は解消されず、未だに配給制。一方アメリカでは余剰小麦が深刻な問題で、食糧が足りない日本に大量に輸出していた。米菓あられを小麦粉で作れないだろうか?と松尾は試行錯誤。松尾の研究によると「米と小麦の成分は似ている」そうで、1955年に「かっぱあられ」を発売開始、社名もカルビー製菓株式会社で再出発です。 -
かっぱえびせん(1964)
様々なフレーバーによる[かっぱ~]シリーズ。決め手は、27作目のかっぱえびせん。国民食ですね。きっかけは松尾の幼児体験。子供の頃えび獲り名人として名を馳せ、母親が揚げてくれた川エビが絶品だったとのこと。小エビを干している瀬戸内で一般的な光景を目にして思いついたことです。松尾のこだわりは、エビを丸ごと使用して、食品ロスを出さない且つエビの栄養素の逃さないこと。
広島工場は2006年に廿日市に移動し、現在もかっぱえびせんを生産しています。 -
続いてはアヲハタ。
お馴染みのマークは、創業者の中島薫一郎が1912-16年に英米で実業訓練を受けた際に、大学対抗のボートレースで見かけた応援旗がルーツです。1932年に旗道園という会社を立ち上げました。 -
設立(1932)
中島薫一郎は中島薫商店を経営し、忠海町(現竹原市)で缶詰輸出の仲介を行っていたが、メーカーが先方と直接取引を行うようになった。そこで、中島薫商店が全額出資して株式会社旗道園を立ち上げ、缶詰製造に乗り出す。中身は、地元名産のミカン。大正時代に皮と果実を苛性ソーダで剥離する技術が確立され、みかんの缶詰が人気を博していた。旗道園は、廿日出要之進に任せます。 -
要之進は、缶ミカンのほかにジャムやマーマレードの缶詰も商品化します。
「缶詰は中身が見えないからこそ、製造する人は正直でなければならない。」という信念の下、高品質の良いものに青旗印を付けたのが始まりで、後に全製品のマークになります。 -
1938年の国家総動員法成立に伴い戦争色が濃くなると、缶や砂糖の入手が難しくなります。1941年には缶詰瓶詰業者は各県に1社のみという条件が付され、旗道園も他社と合併、解散します。
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再出発
戦後の1948年に、廿日出要之進は青旗缶詰株式会社を設立し、缶詰製造を再開します。主力商品の缶ミカンが経営を支えますが、昭和50年代に急速に進行した円高でほぼ絶滅します。瓶詰のジャム・マーマレードが生き残り、現在に至ります。1988年には、社名をアヲハタ株式会社に変更しています。 -
余談
中島薫一郎は英米帰国後、1918年に中島薫商店を設立して缶詰の販売を行う一方で、翌19年には食品工業株式会社を設立して瓶詰マヨネーズの製造を始めています。同社は1962年にキューピー株式会社に改称しています。現在アヲハタは、密封保存技術を活かして、キューピーブランドの介護食も製造しています。
缶詰と広島
広島で初めて缶詰製造に乗り出した脇隆景は陸軍に営業をかけて、1885年に初めて陸軍に缶詰(牛肉)が導入されました。 -
海苔養殖
いままで宇品開発の明るい面を取り上げましたが、影も存在します。
-千田貞暁の宇品開発に最初に反対したのは、地元の漁業従事者でした。明治3-5
年(1870-72)にかけての庚午新開の造成で、草津(現西区)の海苔漁場の大半が失われました。
広島湾の広大な干潟では江戸時代から海苔や牡蠣の養殖が行われ、藩の貴重な財源でした。幕末まで藩の専売品で、明治以降も大坂(西日本)の市場を独占していました。1879~1968年まで生産量全国一位を断続的に維持していました。 -
太田川デルタ
太田川は広島で6本に分岐して広島湾へ注ぎます。そもそも江戸湾の干潟で海苔養殖が栄えたのは、巨大都市江戸市民の排出した食べカスに含まれる栄養分を隅田川が運んでくれたから。江戸時代屈指の大都市広島城下を流れる太田川も、広島湾の干潟に栄養分を供給したことが背景にあります。草津、江波、仁保(宇品も含まれる)が3大生産地でした。 -
海苔養殖の様子
干潟に刺した竹(「篊(ひび)」という)に海苔の胞子・幼生を付着させ、11-12月にかけて生育します。
企画展では、1950年代の様子が紹介されています。
まずは、愛媛から女竹を仕入れます。9-10月にかけて海水に浸けておき、乾かしてから葉を毟り取ります(写真)。笹毟り(ささむしり)と呼ばれる作業です。 -
自宅で葉を除去した竹を、干潟の篊場まで運びます。
人力、荷車を使用しました。 -
篊を立てるための穴を、ブリという道具で開けます。10月末~11月上旬の大潮の日の干潮時に行います。
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一番右の竹馬のような形をしているのがブリ。突起の部分に足をかけて、その力で穴を開ける。先端は細く重くなっている。
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竹篊は水深の深いところには真っすぐ、浅いところは斜めにして立てます。
篊立て法は、享保年間(1716-36)に江戸から伝わりました。 -
こちらは戦後誕生の進化系で、竹篊を簾(すだれ)状にして海面に平行に配置する簾篊。
上は、簾篊を敷くための支柱を立てる準備。
下は、巻かれた状態の簾篊を船で現場まで運んでいます。 -
海底に柱を立て、横に梁を通し、その上に簾篊を広げます。
潮が満ちるまでの短時間で作業を終えなければなりません。
海苔の生態は長年神秘に包まれていましたが、1949年にイギリスで解明され、海中の胞子が篊に付着・成長すること等が判明しました。それまでは、経験則に基づいて養殖が行われました。 -
古来から海苔は海中の固定物に付着することが知られ、竹篊や簾篊を干潟に設置して海中の海苔の胞子を付着させて養殖しました。2ヶ月ほどすると、十分に成長して収穫を迎えます。上の写真では、竹篊が重みでしなっています。
下の写真は、干潮時の簾篊。海苔は満潮(水中)干潮(空気にさらされる)を繰り返すことで、美味しくなります。その点で、簾篊は竹篊よりも理にかなった養殖法です。 -
上の写真は、簾篊の進化系に当たる網篊。網という規格化製品を使うことで、労力が削減され、現在主流となる養殖法です。写真では網目は15cm、幅は12m、長さは9ないし18m。
下の写真では新旧(簾篊・網篊)が一緒に写り込んでいます。 -
収穫
ゴム製の胴長着用とはいえ、真冬の極寒作業です。
腰を屈めて、竹篊に付着した海苔を桶に入れます。
一定量貯まると、桶から背負い籠へ移します。
所有権を表す旗印のようなものも写り込んでいます。 -
簾篊は、船上で収穫作業。
海苔は根元を残しておけば、あと数回成長・収穫できます。
とはいえ、初摘みは味・香り・食感等が格段に良く、高値で取引されます。 -
収穫した海苔を潮漬け籠に移し替え、潮水を注ぎながら洗浄。海岸線近くには、潮水を貯める共同の「潮かい堀」が掘られていた。続いて洗い籠に移して、真水で洗浄。水を切ってゴミを除き、翌日の海苔すきに備えます。
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海苔抄(す)き
早朝からの作業。収穫後下処理した海苔を、海苔繰り器(写真)に入れてハンドルを回す。右側から細かく刻まれたミンチ状になって出て来る。 -
ミンチ状の海苔を盥(たらい)の水に溶き、簀の子(すのこ)を挟んだ簀枠で海苔をすくい取って(紙漉きと同じ要領)海苔を抄きます。熟練すると、1時間当たり400枚ほどを抄きます。海苔抄きは、1813年に江戸から伝わりました。
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簀枠から簀の子を外し、流し(写真)の上に載せて、水を切ります。
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乾燥
水を切った簀の子を1帖(5×2枚)毎にカケヤに載せて、天日干しします。冬至の頃の作業なので、日照を有効活用するために海苔抄きは早朝から始める。日の当たる場所なら、屋根でもなんでも活用する。公共広場等の一等地は、くじ引きで決めます。 -
えびら(1658-1813 写真)
海苔抄きが伝わるまでは、篊から摘み取った海苔を直接えびらの上に敷いて成形乾燥させていました。 -
実物写真
1帖のうち、4列目まで写り込んでいます。
乾燥が進むにつれてピシッという音が出て、冬の風物詩でした。
東日本で簀の子は葦製でしたが、広島では竹ひご製でした。乾燥した海苔がきれいに剥がれるように油を塗りました。そのため風味が犠牲になり、安値で取引されました。 -
高度経済成長期の埋立でついには干潟が消滅し、ノリ養殖は沖合で継続。支柱の代わりにブイを浮かべて網篊を固定する方法を採用。収穫後の作業も機械化されています。水質汚染の影響を受けて、細々と行われています。
次の旅行記↓
https://4travel.jp/travelogue/11808395
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