2022/12/28 - 2022/12/28
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gianiさん
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マツダの企業城下町の色合いが濃い南区ですが、
漁村の痕跡があちこちに残る興味深い景観です。
神話の時代から平清盛に至る伝説を持つ歴史の街でもあります。
- 旅行の満足度
- 5.0
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旅の始めは向洋(むかいなだ)駅。
広島から2駅です。
微妙に市内をはみ出していて、厳密には安芸郡府中町。隣接するマツダ本社も府中町。向洋駅 駅
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駅前のラーメン店で、腹ごしらえ。
写真は、看板メニューのアナゴだしラーメン。
広島広しといえど、名物アナゴをラーメンの出汁にするのはここだけかと。麺や 時風 グルメ・レストラン
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駅前のパン店。
天然酵母パンがおいしいチェーン店です。
ここが広島であることを感じさせる光景です。 -
神戸方向へ線路沿いを歩き、この飲み屋が見えたら、県道164号線を右折します。
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見た目、普通の生活道路です。
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壁の看板
ここは、厳島神社でお馴染みの平清盛ゆかりの地です。
天女姫は、清盛と常盤御前の間にできたとされる娘です。 -
今歩いてきた小径は、清盛が建設した堀の跡です。
端的に言えば、堀に海の水を引いて向洋半島を分断し、道路の右側の部分を聖地として隔離するためです。 -
後ろを振り返ると、こんな景色。電柱に堀越1丁目と。
現在は埋められて道路になっている堀が、地名として残っています。 -
堀越公園のプレート。
周囲を丘に囲まれ、水が集まる場所として
溜池だった場所が公園になっています。 -
という訳で、井戸が多いです。
写真右下は、本川井戸。堀を建設する際に労働者へ水を提供する場所でした。
ほかに阿弥陀井戸も、飲み水を提供しました。 -
堀越の丘に直面し、坂道になります。
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左手には日新製鋼と的場川。
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こんな崖路を上ると
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丘の上に神社が。
疱瘡神社と言います。
境内には、神社の由来(天女姫伝説)が長編漫画で展示されていました。
内容を掻い摘むと、疱瘡神社 寺・神社・教会
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平治の乱で夫源義朝を失った常盤御前は、牛若丸ら3名の息子の命乞いをする。
(清盛は、京一番の美人として有名だった常盤御前を妾にする条件で受け入れた…、と庶民は邪推した。両者の間に女子が産まれ、)清盛は天女姫と名付けて溺愛した。 -
ところが姫は疱瘡(天然痘)を患う。
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当時は不治の病で、天下人清盛と言えども為す術がなかった。
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そこで姫を連れて、平氏の守り神である厳島神社へ祈祷へ向かう。
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3日間祈るも、姫は息を引き取る。
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清盛は、姫の埋葬場所を諮る。
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すると厳島明神は、東方に赤い旗が立っているので、そこへ埋めよと告げる。それが現在の堀越の丘。
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清盛は、姫を愛用の鞠と共に葬った。
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狸や狐が墓を荒らすのは忍びないと堀を掘って、半島を本土から切り離した。
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神社の横は、こんな長閑な光景。
近所には、マツダの創業者松田重次郎の墓もあります。 -
疱瘡神社麓の向洋橋を渡って、国道2号線を横断します。
南側は歴史エリア。
「イワシの舟」「小豆餅(アズキモチ)」という謎の地名が存在します。 -
まずは、明治11年築の澤田七右衛門宅。
仁保島村向洋の戸長で、ここには伊藤博文も滞在しています。 -
広い敷地で、火災に強い白壁も素敵です。
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こちらのお宅の壁は、廃船の船板を再利用しています。
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蔵が多いのも特徴。港町としての繁栄ぶりがうかがえます。
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上の窓の部分を拡大
左官鏝(こて)があります。
左官が施主へのお礼と、家の幸せを願って描いたものです。 -
軒下の防火バケツ
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細い路地は消防車が入りにくく、防火バケツが火の用心を呼び掛けています。
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丘を下り、大原ポンプ場の向かいにある向洋牡蠣供養碑と魚海藻碑。
戦後までここは海で、向洋漁港から船団は遠く対馬沖まで遠征しました。カキ養殖も盛んでした。 -
漁港
停泊するのは遊漁船(いわゆる釣り船)で、漁師は絶滅しました。 -
漁港の先端には古い雁木が残り、向かいから渡し舟が出ていました。
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渡し舟は役目を終え、国道2号線の黄金橋で猿猴川を渡ります。
6本ある太田川デルタのうち、最東端の流れです。 -
対岸には、黄金山が。1662年に干拓されるまでは、仁保島と呼ばれ、山麓には後に毛利水軍に編入された白井氏水軍の本拠地でした。
黄金山 自然・景勝地
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仁保地区へ突入。
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似た構図で撮った昭和30年頃の光景。
猿猴川で海苔の養殖を行っています。 -
仁保旧道
黄金山の山麓に沿って続く道です。昭和33-39年にかけての埋立前は、この道沿いが海岸線でした。
今は陸続きですが、黄金山は海に浮かぶ島で仁保島と呼ばれました。 -
沿道には、レンガ壁や土蔵が立ち並びます。繁栄した港だった名残です。
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さりげなく蔵が、、、
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昭和30年頃の写真。蔵の前で抄いた海苔を干しています。
仁保は、海苔の養殖が盛んでした。 -
1959年撮影の仁保の光景。牡蠣養殖も盛んでした。
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仁保本町では、中級以上の武家に見られる長屋門も2棟見つけました。
といっても、明治以降に身分制度が無くなってから富裕層が建てたものです。 -
邇保(にほ)姫神社
地名の基になった神社。爾保都比売神(にほつひめのかみ)を主に祀ります。
神功皇后が三韓征伐へ向かう際、爾保都比売神は必勝法をアドバイスして自分を祀るよう指示します。神功皇后はアドバイスに従って無事に征伐。その折に当地に宿泊して、爾保都比売神をここに祀りました。邇保姫神社 寺・神社・教会
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黄金山に建つ神社です。
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黄金山の西側には旧陸軍の被服支廠が。
出汐倉庫 (旧広島陸軍被服支廠倉庫) 美術館・博物館
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ちなみに比治山も、江戸時代まで島でした。
比治山神社 寺・神社・教会
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比治山下電停から郷土博物館へ移動。
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海辺の開発と漁業
広島湾の漁業は干潟を活用したスタイルなので、埋立によって沖へ移動します。
図の緑の部分は、江戸時代前の陸地。星印を付けた黄金山と比治山が島だったことが分かります。市街地を走る平和大通りの南側は海でした。
橙は江戸前期の埋立地域。藩の政策で精力的に埋め立てられ、島だったところは全て陸続きに。
他の凡例は、黄緑:江戸後期、桃:明治、茶:大正~、黄:戦後~。
黄金山の南部分は、専らマツダ宇品工場です。 -
江戸時代に比治島と仁保島周辺の干拓が進み、1662年の東仁保島新開・西仁保島新開によって両島が地続きになり、猿猴川と京橋川も誕生しました。
太田川が運ぶ栄養豊かな水が広島湾の地形で滞留し、広大な干潟では牡蠣や海苔の養殖が行われました。 -
殻付牡蠣の生産量は、今も広島県がダントツの1位です。
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牡蠣の養殖の歴史
石蒔き養殖法
最も原始的な方法で、海中の固定物に付着する牡蠣の習性を利用する。
海中に蒔いた石に牡蠣の幼生を付着させ成長させる。夏に石を拾って干潟へ移し、肥育します。 -
篊(ひび)立て養殖法
干潟に竹や雑木(篊)を立てて幼生を付着させ、生育を待って収穫する。「海田式(向洋半島の東側)」「仁保式」「草津式(西区)」に分かれる。
以下は、仁保式の詳細。
①5月以降、竹篊を立てて海中を浮遊する幼生を付着(採苗)させる。
※海田式は最もシンプルで、①の状態で育成まで全てを行う。
②8月下旬に、稚貝の付いた竹篊を塒(とや)場に移して育成。 -
③1年間育成させた後、竹篊から牡蠣を打ち落とす。
④打ち落とした牡蠣を養育場へ移す。地蒔きする。
⑤大きな牡蠣はその冬、小さい牡蠣は次の冬まで養育場で育成する。ムツゴ・ヤツゴ等で、時々かき混ぜる。
※草津式は、夏置き場、冬置き場、実入れ場の順に移動させる。
⑥収穫する。 -
篊立て養殖法の道具
手前より、
ブリ:竹篊を刺し込む穴を開ける。竹馬のように足を掛けて、その力で穴を開ける。
カイカキ:風や波から塒場の牡蠣を守るための簾を立てるための穴を掘る道具。
ムツゴ、ヤツゴ:上記⑤の掻き混ぜ用
コマザラエ:上記⑥の収穫時、網の部分を海床に当てて掻き集める。
他には、④打ち落としの際に牡蠣を傷めないようにカシボウを用いたり、てこの原理を用いて老朽化した竹篊を引き抜くクイヌキ等がある。 -
上記②篊場の写真(仁保・昭和初期)。
お椀を逆さにしたような円形に篊を配置(丸塒)。牡蠣を日差しから守るためのデザイン。 -
夏置き場(草津・昭和初期)
草津式は、①を翌年の夏前まで育成し、竹篊から打ち落される。
産卵を促進するために、浅瀬の夏置き場へ地蒔きする。 -
すだれ立て
塒場に地蒔きされた牡蠣を風や波から守るために立てられた。例えば、草津は夏に南からの風波が強かった。 -
牡蠣船
篊立て法の導入で生産量が飛躍的に増えると、草津村等では牡蠣船を仕立てて牡蠣を大坂まで運び、牡蠣打ちして販売する漁民が増えた(1688以降)。後に船の中に座敷を設けて、牡蠣料理を食べさせるようになった。
明治~昭和初期にかけては、瀬戸内海沿岸、九州、日本海沿岸まで出かけて営業したが、輸送手段の発達や河川改修の影響で衰退し、戦後には見られなくなった。 -
船の中とは思えないような造り(大正~昭和初期)
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大阪市内で牡蠣船が営業していた地点
淀川を遡り、堀(水路)に入って、市街地で営業していた。 -
牡蠣船のメニュー
矢野(現安芸区)から和歌山へ営業した船のもの。 -
簡易垂下養殖法
1927年に広島県水産試験場で試験を開始し、急速に普及。合理的に海の垂直利用ができ、篊立て法と比べて収穫量が飛躍的に伸びた。 -
写真は昭和20年頃の矢野
浅瀬や干潟に杭を打ち、高さ1.3~1.8m(現場の潮位差に合わせる)の棚を作ります。針金に貝殻と竹管を交互に通したものを連ね、棚に吊り下げます。別名は杭打ち式で、幼生は蛎殻に付着します。 -
筏式垂下養殖法
1932年に広島県水産試験場で試験開始するも、風や波に耐えられる筏の材料が見つからずに難航。1953年に孟宗竹が、安い・強いの条件を満たすことが分かり、急速に普及。干潟を必要とせず、簡易法に代わって主流となる。
簡易法では海底に杭を打つが、こちらは筏を沖合に浮かべたブイで固定する。現在、竹管はビニール管に代わる。 -
垂下養殖設備用の道具
手前右:貝穴開け器。牡蠣を付着させる貝殻に穴を開け、針金を通せるようにする。裁断機のように操作する。
手前左:針金曲げ器。貝殻・竹管を通した針金(このまとまりを連という)の先端をフック状に曲げて、連を垂直に繋げ(吊るせ)るようにする。
中央:槌。簡易法で杭を打ち込む際に使用。
上:荷籠。牡蠣を荷揚げする際や牡蠣打ちした殻を捨てる際に使用。天秤に吊り下げる。 -
養殖の流れ
①採苗
牡蠣の産卵は6-9月。孵化後は2週間ほど海中を彷徨い、固形物を見つけて付着する。針金でホタテの貝殻を海中に垂らして採苗する。
②抑制
浅瀬の抑制棚(写真)で生育。棚は干潮の水位より高い位置にあるため、生育は遅れるが環境の変化に強くなる。 -
③本垂下
ホタテの貝殻を一枚ずつ外して新しい針金に移し替えて、垂下連を作り筏に吊るす。針金は長さ9mで40枚のホタテの貝殻を連ねる。
④育成
水温の高い夏季は、冷たく有害生物が付着しない水深の深いところに垂下する(深吊育成)。秋に水温が下がり有害生物も少なくなると水面近くに垂下し、餌を食べて牡蠣を大きくする(直吊垂下)。
⑤収穫
船に10mの柱を立て、ウインチを用いて垂下連を巻き上げる。外側を洗浄し、きれいな海水に浸けて泥抜きする。打ち娘が1個ずつ剥き身にする(写真)。今も手作業です。 -
養殖法
ワカ(若):採苗から1年以内に収穫。広島では1943-68年にかけて行われた。
イキス(生け簀):1970年以降に普及。育成に1年かける。シーズン前半に収穫。
ヨクセイ(抑制):イキスよりも長い期間抑制する。シーズン後半に収穫。
ノコシ(残し):ヨクセイを翌シーズン初頭(初物)として収穫する。
フルセ(古瀬):1年間抑制し続け、あとはイキスに準じる。大ぶりの身になる。 -
海苔の養殖
仁保は、草津・江波と並ぶ一大産地でした。牡蠣と同じく、篊立てによる養殖法が行われました。
竹篊(ひび)による養殖法
①11月初め頃の大潮の日に干潟に篊を立てる。篊にする女竹は、予め葉を落としておく(笹毟り)。
②深いところでは真っすぐに、浅いところでは斜めに篊を立てて、海苔の胞子が付着するのを待つ。 -
③12月下旬頃、15cm程に成長したものを収穫する。摘み取る際に根元を残しておくと、そこからまた成長する。
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④収穫した海苔を潮漬け籠に入れ、潮水を注ぎながら洗浄する。海岸線近くには、潮水を貯める共同の潮かい堀が掘られていた。洗浄した海苔を家に持ち帰り、水を切ってゴミを除き、翌日の海苔すきに備える。
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⑤海苔漉き。海苔を細かく刻み真水で洗ったものを盥(たらい)の中で水に溶き、簀を挟んだ簀枠で海苔をすくい取る要領で漉いた。
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⑥海苔の付いた簀をカケヤに並べて掛け、天日乾燥させる。乾燥した海苔は10枚(1帖)単位でまとめられ、出荷された。
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