2023/02/04 - 2023/02/04
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gianiさん
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この旅行記スケジュールを元に
2つの市立博物館と実地を巡って、歴史を辿ります。
大友宗麟と府内城をメインに巡ります。
前編はコチラ↓
https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/11811636/
- 旅行の満足度
- 5.0
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大分市歴史資料館
豊後国分寺駅にあります。
お約束通り、辺鄙な場所にあります。 -
何故かというと、国分寺跡に建てるという定番のロケーションだから。
741年の聖武天皇の勅令で、各律令国に官寺が建てられました。
背景には、パンデミック(天然痘)が日本中で深刻な問題だったから。
七重の塔跡には、お堂が。 -
中はこんな感じ
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回廊跡
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金堂跡
本尊が安置されたお堂です。 -
中は、こんな感じ。
治癒に効く薬師如来。現在は天台宗。
※勅令では、東大寺と同じ釈迦如来をという内容でしたが、現在は全国的に薬師如来を継承。 -
当時はこんな感じ。
予算等の関係もあって、中途半端。 -
ちょっと前後しますが、
701年の大宝律令で、現在の大分県は豊後国に。
8つの郡で構成され、平成の大合併前の大分市は大分郡に相当する(写真)。
日本史に沿って、荘園と国司が併存する社会が築かれ、武士層が出現する定番の展開。 -
高瀬石仏(レプリカ)
平安時代後半に末法思想(終末論の一種)が流行し、
浄土信仰がブームになる。豊後の富裕者は、こぞって石仏を彫らせる。
一つの要因としては、彫刻しやすい硬さの岩質という背景がある。 -
大友氏
1196年に大友能直(よしなお)は、豊後国守護に任命。源頼朝と親戚という家柄もあって幕閣として鎌倉勤務、現地は守護代に委ねる。
3代頼泰:鎮西奉行(九州のトップ)を兼任し、元寇等もあって豊後に赴任。
そのまま21代当主の大友宗麟まで続く。 -
高崎城
サル園で有名な高崎山に城を築きの本拠地としたのは、8代の大友氏時。
南北朝期に北朝方の九州拠点として築かれました。安定の政治決定です。
その後、本拠地は上野の丘に戻されます。
鎌倉・室町と、九州の名門として君臨します。
幕府の代行・独自にアジア諸国と貿易を行い、大いに栄えた。 -
ここから大友氏館跡にあるBVNGO交流館の割り込み。
・西洋との出会い(1545)
大友宗麟(1530-86)は10歳で世継とされる。
15歳の時に中国船の乗組員として来日したポルトガル人を手厚くもてなし、西洋世界に触れる。
※父の義鑑は盗賊的に、財産を身ぐるみ剥がした後、殺処分しようとしていた。
大友家は内紛が続く時期で、20歳の時に父義鑑による廃嫡クーデターに直面するが、事態を上手く収めて、宗麟は予定通り当主となる。大友氏館跡 名所・史跡
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・ザビエルとの出会い(1551)
天皇と将軍から布教許可はかなわなかったものの、それに次ぐ大内氏の許可を得たザビエルは、インド支部へ戻る際に、豊後を経由する。2か月間、宗麟は手厚くもてなし、ポルトガル国王への親書を託し、外交関係を結ぶ。
※その直前に政治的大事件が起こる。
当時実力ナンバーワンにして超名門の大内義隆(山口を地盤)が、家臣の陶隆房の謀反で敗走自害。隆房は、中国の名門大内家の当主に相応しい人物として、西国の名門大友宗麟に打診。宗麟は、実弟の晴英を送り、傀儡君主大友義長となる(~1557)。 -
南蛮貿易(1552-)
南蛮(ポルトガル)船が大分に来るようになる。長崎に先ずること20年以上。
多くの南蛮人が住み着き、富と知識が大分を潤します。
というわけで、大分には「西洋○○発祥の地」が多々あります。
※ポルトガルはマラッカを本部にしてアジア全体の物資を集め、マカオの支店で最大顧客の(基本密貿易なので明国ではなく)中国との取引を総括しました。明と国交関係のある日本も、中継点(営業所)としての役割が大きいです。 -
大友氏の貿易
室町幕府の貿易のマネージメントを行った。大内・大友氏らは博多商人を雇って、実務に当たらせた。コネとノウハウを得ると、独自で貿易を行った。明・朝鮮・クメールといった国々と取引した。
南蛮貿易では、西洋品のみならずマラッカに集まった東南アジア物資を手にした。日中貿易の中継点として、中国の物資も多く流れ込んだ。 -
最盛期(1560s)
大内氏の領土は毛利氏に奪われるが、貿易で得たマネーを元手に北九州を征服し、大陸貿易の拠点だった博多も含まれる。幕府や朝廷への献金も継続し、九州のうち六州の守護兼九州探題(九州のトップ)に任じられ、名実ともに西国の雄となる。
大分は、イエズス会の日本拠点として機能する。 -
現在は内陸ですが、南蛮貿易場の跡があります。
神宮寺浦公園 公園・植物園
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西洋医術が伝わったのも大分。外科手術は、革命的でした。
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大友宗麟像
1578年(48歳)の時に洗礼を受けます。クリスチャンネームは、敬愛するザビエルのファーストネーム「フランシスコ」を選びます。
写真を見て、違和感を覚えませんか?実は30歳の頃(ザビエルに遭った約10年後)に大徳寺(臨済宗・京都)の高僧を招聘して、出家していたんです。本名は義鎮(義は10代将軍の名前から頂いた字)で、周知の「宗麟」は法号です。
上野の丘巡りで分かるように、仏教の各宗派や有名神社を保護していました。天草島原のように神仏破壊はしない、世俗的支配者でした。 -
BVNGO館に再現された茶室
宗麟は一級の文化人で、茶の湯も極めました。歴代大友氏が領内に誘致した寺社は京都の名門の枝分かれ。朝廷や幕府といった時の中央権力者とのパイプの重要性を一番理解し、寺社を保護しました。 -
顛末
家督を息子の義統に譲り、洗礼を受けて余生10年を信仰の道に邁進する義鎮(宗麟)。
義統は台頭する島津氏に抗しきれず、豊臣の家臣になることで生き残りを図ります。しかし朝鮮出兵の不手際で改易(1593)。歴史の舞台から姿を消します。 -
歴代藩主
徳川政権下で、豊後国は細かく分割された。
豊臣家滅亡後も目まぐるしく藩主が交代したが、府内(大分)の1657年以降は松平氏の統治。 -
モザイク
豊後国大分郡は、府内藩、臼杵藩、岡藩、延岡藩(日向国)、熊本藩(肥後国)、幕府領の6つが入り乱れ、1つの村が3分割される事態も生じた。最古参は加藤清正が江戸航路の港を得るために天草2万石と交換した例。岡藩も参勤交代用の港を得るため。残りは、加増に伴い天領を譲り受けたため。 -
写真は、日豊本線から見る大野川河口。
大野川河口部の鶴崎(平成の大合併で大分市の一部に)は、熊本藩や上流部の岡藩の港が設置されていました。 -
宗教政策
江戸幕府はキリシタンを取締り、高札(左)で公示。その際に踏絵(右:耐久性を考えて金属製に変更)を用いた。領民全員はいずれかの寺院の檀家になることが義務付けられた。 -
府内城
政庁は大友氏居館から、府内城に代わった。1597年に着工し、1601年に一応の完成。城下町も引き続き整備された。当時は内堀、中堀、外堀に囲まれ、背後は海である。 -
現在の府内城
内堀は残るが、大手門へ通じる内々堀は利便のために埋め立てられる。大分城址公園 府内城跡 名所・史跡
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上の写真を撮った地点
右枠外が内堀で、通路の上に建っている。左のマンションがある部分は海だった。 -
中堀(L字)は、現在の中央通りと赤レンガ通りに相当。
内堀と中堀の間は、藩重臣の屋敷や役所が建ちました。跡地には県庁、国の機関、市の施設が建ちます。写真は中央通りを挟んで、中央警察署のビル。 -
上記の海側には、島状に舟入(港・倉庫)が立地。
現在は司法関係の役所と緑地になっています。 -
外堀
右の長浜神社は、名前の通り当時は海に面した神社。
ちなみに、左折車は中堀の延長線から外堀跡へ向かっています。
青信号の先は海でした。長浜神社 寺・神社・教会
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外堀の2辺目は、祝祭の広場の南側の通り。写真だと東横インと大分リーガルホテルに挟まれた通り。
祝祭の広場 公園・植物園
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外堀跡の3辺目は、西新町通り。
中堀と内堀の間は、下級武士・職人・町人が生活しました。 -
特産品:七島筵
橋本五郎左衛門が17世紀に琉球から苗を持ち込んだ藺草の一種を栽培。大坂で高値で取引された。 -
おまけ
鉄絵魚文盤
14-15世紀タイ北部で焼かれたもの。 -
関ブリ
一本釣りしたものが名乗れます。健康的で筋肉質な身から、歯応えと深い味わいが。メニューに載っている商品で600円。
続いては国宝臼杵石仏↓
https://4travel.jp/travelogue/11813004
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