2023/01/04 - 2023/01/05
1位(同エリア377件中)
noelさん
この旅行記のスケジュール
2023/01/04
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飛行機での移動
12月26日 羽田空港:12時30分→長崎空港:14時35分(JAL609便)
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車での移動
諫早駅近く10時30分頃→平戸12時頃(車)
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車での移動
あまちゃん12時50分頃→島原城13時頃(車)
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車での移動
教会14時15分頃→平戸港交流広場14時20分頃(車)→オランダ商館14時30分頃(徒歩)
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徒歩での移動
オランダ商館15時頃→平戸城下の街並み15時10分頃→広場15時20分頃
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車での移動
広場15時20分頃→ホテル15時25分頃(車)
2023/01/05
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車での移動
平戸海上ホテル8時40分頃→生島9時5分頃(車)
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車での移動
生月10時05分頃→有田11時45分頃(車)
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波佐見・陶芸の館
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車での移動
波佐見13時30分頃→ランチ→諫早駅付近15時頃
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飛行機での移動
1月6日 長崎空港:12時50分→羽田空港:14時20分(JAL610便)
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この旅行記スケジュールを元に
令和5年早々、平戸に行くことになりました。
平戸には随分前に行ったことがあるのですが、記憶にあるのは寺院と教会のある風景と海ぐらい・・・。(-_-;)
今回は平戸の帰りに、有田・波佐見にも立ち寄ることにしました。
できれば旅割でお得な旅をしたかったのですが・・・。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.5
- ショッピング
- 4.5
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 家族旅行
- 交通手段
- レンタカー JALグループ 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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平戸大橋です。
平戸と本土を結ぶ赤い橋 by noelさん平戸大橋 名所・史跡
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平戸大橋からの眺めです。
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まずは平戸港の交流広場に来ました。
観光案内所です。
ちょうどランチの時間でした。 -
この付近はお店がたくさんあります。
ただ、年明け早々のためか、お休みしているお店もありました。 -
海鮮めし処「あまちゃん」へ
海鮮めし処 あまちゃん グルメ・レストラン
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私は魚の煮付け定食にしました。
あらだったので、ちょっと食べにくくはありましたが、お味は美味しかったです。
主人と義姉はアジフライ定食にしてました。 -
平戸港です。
綺麗に整備されていました。
まずは平戸城を見に行くことにしました。
この写真の右上にちょっとだけ見えているのが平戸城です。 -
平戸城のそばにある亀岡神社です。
平戸城のそばにあります by noelさん亀岡神社 寺・神社・教会
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亀岡神社の歴史
宝永5年(1708年)、第30代松浦棟氏が建立した松浦家の祖廟霊椿山神社が、居城亀岡 の低湿の位置(現在の護国神社付近)にありました。
年々破損が大きくなったため、平戸藩最後の藩主、松浦家第37代松浦詮氏は、新築遷座の計画を立てました。
郷社七郎神社、乙宮神社、八幡神社も老朽化が進んでいましたが、それぞれの建て替えには莫大な経費を要するため、氏子たちの財力だけでは無理でした。
そのため氏子たちのたっての願いにより4社を合祀し、二の丸跡の高台の地に神社を新築し遷座することにしました。
そして亀岡神社としました。
現在、亀岡神社を含む旧二の丸一帯は亀岡公園となってます。平戸城のそばにあります by noelさん亀岡神社 寺・神社・教会
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例祭には、昭和62年1月、国の重要無形民俗文化財に指定された「平戸神楽」 24番全てが奉納されました。
神官橘三喜は藩主第29代松浦鎮信の命により延宝3年(1675年)全国各地の一の宮巡詣の旅に出ました。
帰藩後、在来の神楽に各神社の神楽の枠を取り入れ「平戸 」「神楽」を完成させました。
社宝として大正5年5付に国の重要文化財に指定された「環頭太刀」 他に「明治天皇産着」などを所有しています。
平成24年8月3日、長崎県景観資産に登録、同8月13日、亀岡神社本殿・拝殿・登 廊・神楽殿が国登録有形文化財に指定されました。 -
馬の像がありますが、何を意味しているのでしょう・・・。
明治22年、稗田谷集金組合として発足し、大正4年稗田谷慈善財団に改組しました。
松浦公より拝領した99島中の14島7を中心に応分の出捐をし、家族中困難に殉し或いは天災等に遭遇して生計困難に陥りたる者あるとき、もしくは死亡者あるとき相互扶助の目的を果たしつつ今日まで98年を経過しました。
今般14島は金子岩三奨学財団に譲渡し、昭和62年解散するのを止むなきに至りその記念として神馬一体をここに奉献する・・・というものです。 -
亀岡神社の御朱印です。
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亀岡神社から平戸城へ向かう途中、面白い記念碑がありました。
日本初のたばこ種子渡来の地なのだそうです。
この記念碑が作られたのは、昭和49年(1974年) です。
慶長6年(1601年) 、マニラから平戸港に入ったポルトガル船によって タバコの種子がこの地に伝えられました。
徳川家康に献上された記録があります。
思えば1543年、種子島にポルトガル船が漂着し、鉄砲が伝来しました。
その後、天文19年(1550年)ポルトガル船が初めて平戸に入港しました。
1551年には教会が建設されるなど、平戸は貿易の中心の地となっていきました。 -
狸櫓です。
この付近に狸でも出るから名前がついたのかと思っていたら、売店の方が教えてくれました。
狸櫓はもともと「多門蔵」と呼ばれていましたが、櫓の床下に狸が住みだしました。
天保初年(1830年頃)櫓の修理のため床板を全てはずしました。
すると・・・ある夜、小姓に化けた狸が松浦藩主の殿様の寝所にやってきて「我らが狸一族を櫓に住ませて下さい。そうすれば城をずっと護ります。」と嘆願したそうです。
翌日、殿様は床を元通りに戻してやったそうです。
それ以降「狸櫓」と呼ばれるようになりました。
本来は多門蔵なのですが、今までも狸櫓とばかり呼ばれてきました。
この由来は第35代藩主松浦観中公煕が亀岡随筆36に記しているそうです。 -
他には類を見ない狭間です。
石垣の中に狭間があるのは、数あるお城でもこの平戸城だけなのだそうです。
通常は漆喰の壁に作られています。
この平戸城だけというのは、何か意味があるのでしょうか。
そもそも石垣は城の防衛のために、とても重要です。
狭間を作ることによって、崩れやすくなるのではないのでしょうか・・・。
個人的には不思議です。
・・・と思って調べていたら、かつては狭間が白壁にもあったようです。
つまり二重になっていたようです。
それは、海側からの防衛が乏しかったため、海からの敵から防御するためだったのだそうです。
通常は海が要塞となっている場合がありますが、登れてしまったんですね。(汗) -
狸櫓の謂れを教えてくれた方です。
なんと勇ましく刀を持って再登場。
お願いしてポーズをとってもらったら、ばっちりこの凛々しいポーズ!
ありがとうございました。(*^-^*) -
本丸櫓門
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いよいよ本丸です。
この平戸城の入場料は自販機で購入しました。
他に窓口などは、ありませんでした。
ゲートもチケットをかざして入場しました。 -
平戸城は修復されたのか、外観はとても綺麗でした。
インスタ映えします。
ちなみに夜にはライトアップも行っているようでした。綺麗なお城です by noelさん平戸城 名所・史跡
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ご覧のように美しい平戸城ですが、残念ながら城内に入ると、ちょっと残念な結果に・・・。
アミューズメントパークにでも来たかのような感じがしました。
そんな雰囲気がお好きな方なら楽しめると思います・・・。(-_-;) -
天守閣からの眺めです。
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島が見えます。
黒子島だそうです。 -
平戸城は海に囲まれたまさに海城です。
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遠くにぽっこり山が見えました。
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真下の様子です。
天守閣から外に出て撮影しましたが、風がかなり強いです。 -
石垣を積むことができます。
パズルみたいです。
大手御門の模型です。 -
「紋額」
松浦家家紋「梶の葉」紋額 -
1718年再築城時の「鯱瓦」
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1810年製作の平戸城のジオラマ
とりあえず、デジタル書道体験をしました。
他に刀を使う体験や狭間体験などもありました。
松浦家26代と29代の2人の鎮信が、平戸城築城について語り合うドラマティックなシアターのようなものもありました。
子どもにとっては、楽しく学習できていいと思います。 -
再築城時の「北虎口門」
1718年に再築された平戸城内の北虎口門の一部です。 -
二の丸北部を守る見奏櫓は、「五段ハグチ」と呼ばれる急な崖の上にあります。
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漆喰の綺麗な白壁です。
こちらの狭間は普通のものです。
三角、四角、半月状のものが見えます。 -
見奏櫓
これから中に入ります。 -
螺鈿蒔絵宝づくし文箪笥
ヨーロッパ向けの輸出品として制作された漆器です。
これに似たものをポルトガルのシントラ見たような・・・・。 -
燧石式の騎兵銃
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市営相撲場
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懐柔櫓
ちなみに城に泊まることもできるらしいです。
お値段は高いのですが。
泊まれるのはこの懐柔櫓です。
追記:令和5年6月3日
この日放送のテレビ朝日の「旅サラダ」によると、5名まで利用可能で、1泊40万円からのようです。
海に面してお風呂があって、気持ち良さそうでした。 -
お城が綺麗に見えます。
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平戸護国神社
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かなり大きな鳥居でした。
さて、次はザビエル教会に向かいます。 -
平戸ザビエル記念教会です。
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聖母マリア様です。
ルルドの泉のようです。
75周年とザビエル生誕500周年を記念して作られたようです。
フランスのルルドを模して作られました。
ルルドはフランスとスペインの間のピレネー山麓の小さな村のことです。
この村が聖地となったのは19世紀のことです。
貧しい少女の前に聖母マリアが出現し、奇蹟が起きたことがきっかけとされています。
少女は、マサビエル洞窟の岩のくぼみの中に、白い衣装を着た婦人(聖母マリア)を見ました。これが最初の出現で、その後、17回の出現がありました。
聖母マリアの 告げによって少女が手を触れた地面から泉が湧き出しました。
そして、その水を飲んだ人は病気が治るという奇蹟が起こりました。
この話はまたたく間にフランス中に広が り、ヨーロッパ各地から奇蹟を求める人々が訪れるようになりました。
19世紀半ばからこれまでに66の奇蹟が起こったと言われます。 -
綺麗なペパーミントグリーンの教会です。
この建物が落成したのは、昭和6年(1931年)です。
完成当初はカトリック教会と呼ばれていましたが、昭和46年(1971年)聖堂の脇にザビエル記念像が建立され、「聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂」と変化し、現在は「平戸ザビエル記念教会」と呼ばれています。
明治の初期には平戸の中心地にはカトリック信者はいませんでした。1900年に五島列島から7家族が平戸山中に移住し、その後は外海からの移住者も増えました。ペパーミントグリーンの綺麗な教会 by noelさん平戸ザビエル記念教会 寺・神社・教会
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イエスキリスト像
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平戸殉教者顕彰慰霊之碑
日本で最初にキリスト教文化が花開いた土地ですが、迫害も早くに始まり、殉教者も多くいました。 -
ザビエル像
昭和46年(1971年)建設されたようです。
【フランシスコ・ザビエル】
Francisco de Xavier(Francisco de Jasso y Azpilicueta)
1506年頃4月7日~ 1552年12月3日
スペインのナバラ王国生まれのカトリック教会の司祭であり、宣教師でもあります。
イエズス会の創設メンバーの1人です。
バスク人です。
ポルトガル王のジョアン3世の依頼でインドのゴアに派遣されました。
その後天文18年(1549年)日本に初めてキリスト教を伝えました。
日本やインドなどで宣教活動を行いました。
聖パウロを超える位、多くの人々をキリスト教信仰に導いたそうです。 -
美しいファサードです。
明治43年(1910年)に、木造2階建ての教会が建てられました。この教会は今も「平戸修道院」として残っています。
ただ、そこからも信者があふれ出すようになりました。
このため資金を積み立て、信徒たちの手で昭和5年(1930年)に着工しました。
そしてこのゴシック様式の美しい教会が完成したのです。 -
白い尖塔も印象的です。
ただ、実はよく見るとわかりますが、中央の高い塔があり、少し下の左側には低めの塔があります。
でも右側には塔がありません。
その理由は資金不足のためでした。
せっかく設計されていたのですが、計画が変更されたようです。
なんとも残念でした。
今ならクラウドファンディングで、資金が調達できたかもしれません。
ただ、これも教会にとっては大事な歴史かもしれません。 -
撮影は外観のみです。
内部は白を基調としています。
入口付近から見ただけですが、ステンドグラスにはイエスキリストの物語が描かれていました。外からの光が差し込んできていました。
リブ・ヴォールト天井も美しいです。
そして主祭壇には大天使ミカエルの像がありました。 -
実は後で知ったことですが、教会の駐車場方向から先へ行くと、かつての平戸修道院があったようです。
少しだけ先だったのですが、気付かずに、そのまま寺院から見える坂道方向に移動してしまったため、見ることはできませんでした。 -
聖母子像です。
実はこの他に、平戸には有名な紐差教会、宝亀教会などがあります。
また、平戸大橋を渡る手前の田平町には田平天主堂があります。
実はこちらにも行ってみたかったのですが・・・。
それと生月に向かう県道42号線の左に春日集落の案内板を見ました。
こちらにも行きたかったのですが・・・・。
潜伏キリシタンは、19世紀のキリスト教の解禁後もカトリックには復帰することなく、かくれキリシタン信仰を継続したため、集落に教会堂はありません。 -
こちらが、寺院と教会の見える風景です。
昔、ここには来ましたが、残念なから教会やお寺は見ませんでした。平戸ザビエル記念教会と近隣のお寺が織りなす美しい景色 by noelさん寺院と教会の見える風景 名所・史跡
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「寺院と教会の見える風景」とざっくりと言ってますが、教会はわかるものの、この近くにあるお寺というのは、「正宗寺」「光明寺」「瑞雲寺」です。
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こちらは瑞雲寺の山門です。
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こちらは、その小径です。坂道になっています。
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光明寺の山門です。
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山門を見上げている様子です。
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お寺の中から教会を見た眺めです。
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お寺の塀が低めなので、教会が綺麗に浮かび上がっています。
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御本堂です。
経堂と山門は弘化2年から万延元年(1860年)に造られました。
現在のものは、19世紀中頃に整備されました。 -
鐘楼です。
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鐘です。
ふと、思ったのですが、この鐘の音と、教会の鐘の音が同時に奏でることがあるのでしょうか・・・・?
そもそも音色も鳴らし方も教会とお寺では違いますが。
少しだけ疑問に思いました。 -
港が見えました。
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港のそばにやって来ました。
これからオランダ商館に向かいます。
オランダ商館には駐車場はありません。
そのため車は港交流広場の駐車場に止めて、歩いてきました。
信号機のある交差点です。 -
このお店の小窓には、聖母子像などがありました。
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燈篭ごしに見える海が綺麗です。
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この先にオランダ井戸があります。
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井戸は深さが約8mあります。
海岸のすぐそばですが、海水の浸水はありません。
大小2つの石枠を組み合わせてます。
大きな井戸枠は水汲み用、小さな井戸枠は屋内から調理用に用いられました。 -
平戸オランダ商館
1609年に平戸オランダ商館が設置されました。
貿易額が増加し、石造りの倉庫を建設することになりました。
その中で最大のものが、1639年に造られたものです。
ただ、江戸幕府より西暦年号(キリスト紀元)を建物に使用していることを理由に破壊を命じられました。
そして、1641年出島に移転しました。
その後、370年余りの後、再び復元されました。 -
白い建物が綺麗です。
港から約5-6分です。オランダとの貿易の歴史がわかる白亜の商館 by noelさん平戸オランダ商館1639年築造倉庫(復元) 名所・史跡
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2階は上がれませんでした。
入館料は310円でした。 -
では、こちらから見ていきます。
倉庫を支える柱です。
1639年に築造されています。
巨大な柱は、約50cm四方のもので、この1階に11本、2階に10本あります。
なお、2階には行けませんでした。
これはオランダ本国にも同様の倉庫によく見られるようです。
木材は樹齢700年相当のものを使用しているそうです。 -
デ・リーフデ号の模型
日本に初めて漂着したオランダ船デ・リーフデ号の模型です。
ウィリアム・アダムス(三浦按針)は、オランダの東洋遠征艦隊に参加し、結果的にこのデ・リーフデ号で日本にやって来ることになりました。
1600年4月、豊後国(大分県)に白杵に漂着しました。
これを機に、日蘭交流が行われるようになりました。 -
リーフデ号の漂着とその航路
乗組員の1人である英国人のウィリアム・アダムスは、やがて徳川家康に重用されて、三浦按針という日本名を名乗ることになりました。
また、ほかの生存者は1605年に平戸松浦家の用意した船でオランダ船の来航を求める手紙とともにパタゴニアへと送還されました。
リーフデ号の漂着は、後にオランダと日本の交流の契機となる出来事でした。
また、ウイリアム・アダムスの存在は1613年から1623年まで平戸に設置された「平戸イギリス商館」にも影響を及ぼすものでした。 -
インド、インドネシア近隣の地図
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オランダ錨証明書 1782年
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オランダ船船首飾木像
笛吹と手に巻物を持つ木像2体
これは帆船の周りに飾られたもので、船の守り神として海難を防ぎ、航海の安全を祈ったものです。
塗料が剥げ落ち、傷ついた姿に当時の厳しい航海の様相が偲ばれます。
平戸オランダ商館と取引していた小川理右衛門が建立した寺院に伝来しました。 -
天球儀
地球儀と同様にオランダ・アムステルダムのファルク工房で製作されたものです。
製造番号番と刻銘がされています。
現在の星座には入っていない「北のはえ座」がおうし座の上に描かれています。
大航海時代、安全な航海を行う上で、恒星(北極星等)や惑星(太陽等)の位置を測り、海上において自船の位置を知ることが重要でした。 -
地球儀
オランダ・アムステルダムのファルク工房で製作された地球儀です。長崎の出島より松浦家家34代松浦静山が入手しました。特徴としては現在の地球儀にはないもので、当時航海のための方角をはっきり知るために必要とされたポルトラーノという放射状の線が多数描かれています。 -
艦載砲
当時のオランダ船に搭載されていた標準的な大砲です。
大型の帆船になると1隻で数十問もの大砲が搭載されました。
VOCの船は基本的には軍艦ではなく、武装商戦とでも言うものでしたが、こうした大砲を備えていました。
また、1610年には、こうした大砲の修理が平戸商館で行われていたことが史料から確認できます。 -
ジャックス・スペックス
江戸時代はじめの日蘭交流において重要な役割を果たした人物です。
初代と第3代の平戸オランダ商館長を務め、極めて困難な初期の日蘭交流の推進に努力しました。
初代館長時代にはアダムスと密接に文通を行い、敵対国であるスペイン・ポルトガルの動向について詳細な情報を得ていました。 -
徳川家康朱印状
1609年に来航したオランダ使節に対して、徳川家康が発給した渡航許可証です。
日本のどこの港に寄港してもよいことなどが保障されました。
オランダ船2隻が平戸に入港したことを知ったアダムスは、この船を臨検するために平戸を訪れています。 -
東インド会社遣日使節紀行
1669年にアムステルダムで刊行されました。
モンタヌスの「日本誌」です。
初めて本格的に日本を紹介したものです。誇張があると言われていますが、17世紀の日本の様子が紹介されており、その中に平戸オランダ商館の絵も描かれています。
ただ著者のモンタヌスは1度も日本を訪れていませんでした。
宣教師たちの記録やオランダ商館関係記録等の情報をもとに製作されたようです。 -
新刻世界地図帳
1700年ころに出版された地図帳です。ヨーロッパをはじめとした世界各大陸・地図が所蔵されています。地図上の日本部分を見てみると、島々の大きさが現在と異なっており、不完全な部分を残していますが、九州の北西部に平戸島も確認できます。
また、漢字で書きこまれた部分は、「長崎のオランダ通詞によるものと考えられます。 -
南蛮漆器
16世紀後半から17世紀初めごろ、多くはヨーロッパへの輸出品として制作されました。装飾は黒漆塗地に蒔絵や螺鈿が施されています。形状はかまぼこ型の洋櫃(聖櫃)です。
このような日本の工芸品は、平戸の西洋貿易時代に数多くヨーロッパへ輸出され、宣教師や上流階級に好まれました。 -
VOCアーチ石
平戸オランダ商館の建造部材として現存する唯一の資料です。
オランダ東インド会社のVOCマークが刻まれています。どの建物に使用されていたかは不明ですが、洋風建造物の扉のアーチの要石と思われます。 -
平戸オランダ商館図
平戸オランダ商館を具体的に描いた資料は、モンタヌスの「日本誌」しかありません。本人が商館を見たわけではありませんが、その絵は現在の商館跡と非常によく合致しています。 -
香辛料(スパイス)
中世のヨーロッパでは肉や魚を長期保存し、内陸まで食材を運んだり冬季にそなえたりするため、胡椒などの香辛料が必要でした。
大航海時代、ポルトガルやスペインはヨーロッパでは高額で取引された香辛料を求めてアジアへ進出し、通商航路を開拓すると香辛料貿易によって大きな利益を得ました。
また、ポルトガルとスペインは貿易と対抗宗教改革としての布教活動を結び付け、宣教師たちは東洋へのキリスト教の布教に貿易を役立たせました。 -
交易の中心だった東南アジアでは、ヨーロパ諸国が高額で取引される香辛料などを求めて激しい争奪戦を繰り広げていました。
そうした中、オランダは遠く離れた地域の効率的運営のため、1609年に東インド政庁及び東インド総督を設置し、東南アジア全体を統括させました。
そして1619年、VOCはジャワ島北西岸のジャカトラ(1621年、パタヴィアと改称しました。)
現在のインドネシア首都ジャカルタを占領し、アジアにおける本拠地としました。 -
ゼーランディア城絵図
1624年台南を占拠したオランダは拠点となるゼーランディア城は台湾(現在の台南)に置かれたオランダ東インド会社の拠点です。 -
タイ アユタヤの眺望
アユタヤはオランダをはじめポルトガル、イギリス等が東南アジアの貿易拠点の1つとしていました。中国、インドとヨーロッパを結ぶ中間地点に位置しているのを生かし、多くの外国人町が形成され、日本も日本人町を形成していました。 -
マラバル海岸にあるコーチンの眺望
1663年、VOCはポルトガルを排除し、ケララ州のコーチン(現インド)を占拠しました。
スパイス・コースト(香辛料海岸)として有名なケララ州は、胡椒を主とした香辛料貿易の中心地でした。 -
唐船之図(シャム船)
中国のジャンク船をはじめ、日本に来航した外国船が描かれています。
各船図とも詳細に寸法が書き込まれており、暹羅船(シャム船)は1間につき8分の割合で、縮尺が正確に行われています。
また、色彩についても非常にリアル描かかれており、単なる絵図資料というより、設計図的要素を含む研究資料として描かれました。 -
秋篠宮同妃殿下のご観覧
開館記念式典の際、ご覧になりました。
秋篠宮殿下は「日蘭協会」の名誉総裁をお勤めであり、オランダと日本の文化を相互に紹介し、理解を促進することで両国民の友好親善関係の増進に寄与する活動をされておられます。
ご見学の際は、日蘭協階の名誉館長でもある吉森重隆様とご一緒に、日蘭協会より寄贈されました。 -
ギヤマン
ヨーロッパ製のカットガラスの器で、平戸城下の商家に伝来したものです。
貿易時代は輸入品の主たるものではありませんでした。日本にもたらされると、貴重品として本国の数倍の値段で売買されました。 -
オランダ焼皿
オランダ・マーストリヒトの製陶会社ペトルス・レグー社で製作されたプリントウエアの皿です。 -
渡馬図
絵図には日本に輸入されたジャワ・アラビア・ペルシャ産の馬頭が描かれており、原産国や毛の色、年齢、特徴などが記されています。 -
阿蘭陀正月料理図
オランダ正月の献立が描かれています。
オランダ正月とは、江戸幕府によるキリスト教禁制の中、表だってクリスマスを祝うことができなかったオランダ人が、代わりとして冬至に合わせて「オランダ冬至」として開催し、また日本の正月祝いを真似て、太陽暦による1月1日に日本人を招いて、西洋料理をふるまい、オランダ式の祝宴を催したのが始まりです。 -
産科解剖図(初版)
1754年、スコットランドの産科医であるスメリー(Smellie Wiliam 1697-1763年)が著した産科医学書です。
出産について記述された本書が日本に輸入されると、片倉元周ら日本の産科医に影響を与え、産科鉗子の導入や逆子の出産の手順など、日本の産科学の発達に貢献しました。 -
更紗
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外科全書
1627年、フランス外科学の父といわれるパレが記した蘭訳版です。
16、7世紀にヨーロッパ全土で翻訳されました。
本書は17世紀前半より日本にもたらされました。
近世日本における翻訳外科書最高峰である「解体新書」が生まれました。 -
デザルグ氏の透視図法及び測量技術
デザルグはフランスの数学者。遠近法、幾何学、測量術に関する著述で、版画家ボス(1602-1676年)が編集しました。
本書はその蘭訳版です。 -
平戸金銀線細工
平戸細工は金、銀などの金属を糸状にし極細の線を縒り合わせ、精巧なレース模様を作る手法です。 -
平戸オランダ商館出土遺物
1610年代の中国製陶磁器片が大量に出土してます。他にも少量ですが、ガラス製品の破片、商館使節に使用したと思われるオランダや台湾製のレンガなどが出土しています。 -
ピューター製品
19世紀、ピューターとは錫を主体とした合金のことです。
当時のヨーロッパで日常的に使用されていました。
当時イギリス統治下にあったマレーシアのスランゴール州に錫鉱山が発見されるとヨーロッパからの需要を受け、ピューターの生産が拡大しました。
中国から大量の労働者がマレーシアに渡ってくると、ピューター産業はマレーシアの伝統工芸として成長し、世界中に知られることになり、今日の多民族社会が形成されるに至りました。 -
臼砲
オランダ商館が将軍に献上するために、平戸で製作した大砲です。
オリジナルは戦前までに靖国神社に展示されていましたが、現在は不明です。
製作の際はかなり苦心した様子が記録に見えますが、幕府の評価は非常に高いものでした。 -
オランダ短銃
全長1.5cm、口径1.1cm、 -
金唐革煙草入(江戸時代)
西洋装飾革で、金銀を含んだ合金箔を動物の革に貼り、高圧でプレスして文様を浮きだたせ、油系の塗料で着彩したものです。
1630年代にオランダで大量生産の技術が確立されたといわれます。
オランダが主産国となり、オランダ商館を通して日本にももたらされました。輸入された革はたばこの装飾品として加工され、日本人に好まれました。 -
西洋甲冑
将軍や平戸藩主などへの贈り物として持ち込まれました。
こうした様式の甲冑は17世紀の西洋では実戦用ではなく、儀式や贈答用に用いられました。
松浦家にはこうした甲冑と思われる資料が伝存しています。 -
商館の生活
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商館を出て、まっすぐにこの通りまでやってきました。
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途中で角を曲がったところに面白いものがありました。
平戸のうた
紅のつつじは「きりしま」「ひらど」
昔なつかし カピタン様の
国へたよりの 押し花か
海のむこうの ジャガタラ国の
土にこぼれて 咲いたげな
ほんと咲いたげな -
平戸温泉 うで湯・あし湯
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もちらは「うで湯」です。
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こちらは「足湯」です。
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こちらも足湯です。
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Richard Cocs(リチャード・コックス)
1556-1624年 -
Wiliam Adams(ウィリアム・アダムス)
1564-1620年 -
鄭成功
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ホテルにやってきました。
「平戸海上ホテル」平戸の中心地に近いホテル by noelさん平戸海上ホテル 宿・ホテル
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ロビー
海が見えます。 -
この先はお部屋です。
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お部屋です。
もう既にお布団が敷いてありました。
夕食中、準備しなくていいのは良いのですが、
でも、ちょっと早すぎないかなぁ~~~。
今まで利用した温泉旅館(ホテル)で、お布団が敷いてあったのは初めてです。 -
お部屋
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部屋風呂からも海が眺められます。
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お部屋の隣にもう1つ小さな部屋がありました。
姿見もありました。 -
洗面所はシンクが2つありました。
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温泉です。
残念ながら、この日はボイラーの故障のため、露天風呂が使えず、この水族館のような水槽付きのお風呂だけでした。 -
こちらはお風呂の隣にある湯上り処です。
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月が見えます。
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食事は夜も朝もこちらでした。
なんだか宴会が始まりそうな雰囲気です。 -
夕食です。
【先付】
平戸牛と山芋すり流し
柚子胡椒 べっ甲玉子
【前菜】
季節の前菜四種盛り合わせ
・ 子持ち昆布
・ 鮟肝おろし
・ 焼湯葉と雲丹
・ 県産酢蛸
【刺身】
地魚盛り合わせ
・ 平戸鮃
・ 県産鮪
・ 夏香平政
・ 烏賊鳴門
【火床】
鮑踊り焼きと酢橘
【台の物】
平戸牛のしゃぶしゃぶ
夏香ポン酢と胡麻だれ
【凌ぎ】
夏香鯛だし茶漬け
【香の物】
漬物三種盛り合わせ
【デザート】
黒胡麻のパンナコッタ -
鮑が私のために踊ってくれています。
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しゃぶしゃぶのお肉です。
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鯛のお茶漬けですが、一切れそのままいただきました。
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鯛茶漬けです。
サラサラ・・・・いくらでも食べられそう。 -
デザートです。
和風パンナコッタといった感じ。 -
ホテルからいただいた平戸の地図です。
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朝ごはんです。
この日はまだ松の内だったからか、おせち盛り合わせのメニューでした。
・ ポークパストラミ
・ さつま芋甘露煮 昆布巻き
・ 黒豆 白胡麻牛蒡
・ 厚焼き玉子
・ あごだしお雑煮
・ 坂野水産イワシの味醂干し
・ 納豆 海苔 -
朝の様子です。
日の出は遅いです。部屋からの眺めです。 -
チェックアウトし、この日は有田・波佐見にも立ち寄る予定です。
ホテルのすぐ横に小さな薬師堂がありました。
観音様です。 -
松浦家29代天祥公、30代雄香公の発願により、元禄8年(1695年)盤珪国師を請じ、開山として雄香寺が創建されました。以後は香華所となりました。
時の藩主は平戸城より小舟にて右手20m先の石段に着岸され、この堂にお参りされ、右手奥の120段の石段を登り、雄香寺へ参詣されました。
この堂は、中央に薬師如来、脇侍に日光菩薩、月光菩薩を法安してます。
薬師瑠璃光如来、又醫王佛とも稱されます。
12の誓願を発して、衆生の病根を救い、無明を除去する包容を授きます。
手に薬壺を持って右手には施無畏の印を結ばれます。
中央の印を結びます。中央の扁額は35代観中公の手蹟です。
昭和61年、海上ホテル会長の吉武米吉氏の好意により當堂の屋根葺替、土塀の修理をしました。
けさみれば つゆおかでらの にわのこけ
さながらるりの ひかりなりけり -
朝日が昇ってきました
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生月大橋です。
平戸といい、生月といい、橋がなければ、本当に孤島です。
長崎には島が多いとはいえ・・・。
でも、この橋があることで、とても便利です。
この橋がなかった頃は、フェリーで往来していたようです。平戸と生月島を結ぶ水色の橋 by noelさん生月大橋 道の駅
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この橋は水色です。
実はこの日は、そのまま有田方向に向かう予定でした。
私だけでなく義姉も焼き物を見たかったのですが・・・・。
夫が生月島に行きたいと言いだしました。(-_-;) -
生月島サンセットウェイを目指します。
島を右方向から周遊する予定でしたが、時間が遅くならないように、ナビに従って近道を通ったところ、畑のあぜ道のような道を通りました。
放牧している場所や、なぜかカラスの群れに囲まれてギョッとしたことも・・。 -
この日は残念ながら、霧が立ち込め、曇っていました。
生月サンセットウェイ 名所・史跡
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切り立った崖のようになっています。
なんだか何を見たかったのか、はっきりしませんでしたが・・・。(-_-;)(-_-;) -
生月大橋の下の公園にやってきました。
記念碑がありました。 -
この橋が開通したのは、平成3年(1991年)7月31日でした。
当初は有料道路でしたが、2010年4月には無料となりました。
この公園内には道の駅もあります。 -
全長960m、幅員6.5m、海面上31mです。
主要梁部800mで、3径間連続トラス橋が採用されてます。
中央径間の支間400mです。
この形式では世界一となっています。
淡い水色が、この日の天気のように霞んだ感じで美しいです。 -
潮見神社がありました。
海の安全を見守ってくれているのでしょうね。 -
潮見神社の鳥居
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こちらは平戸大橋です。
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有田にやってきました。
この建物には土産物屋さんが入ってます。「蔵」有田ポーセリンパーク テーマパーク
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この施設は
Arita Porcelain Park(有田ポーセリンパーク)
有田焼のテーマパークと言えばいいでしょうか。
ただ、コロナのためなのか経年のためなのか、閉まっている施設も多かったです。 -
洋風の素敵な館です。
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この館は営業していました。
敷地内は結構広いです。
そして風も強く寒く感じました。 -
ドイツのドレスデンのツヴィンガー宮殿を模して1993年4月18日に建設されました。
香蘭社や地元の有志や企業が出資した磁器の公園です。 -
ツヴィンガー(Zwinger)宮殿
ドイツのザクセン選帝候フリードリヒ・アウグスト1世であり、またポーランド・リトアニア共和国の王でもあったアウグスト2世が、ドレスデン市に建てられた宮殿を模して建設されています。
紛らわしいのでアウグスト王とします。
ツヴィンガー宮殿は、1719年に宮殿の落成しましたが、その後も建設は続きました。
ちなみに当時のザクセンは1618年からの30年戦争やペストによる人口の減少等、大変な時期でした。ただ、アウグスト王が君主となってからは、繁栄の時がやって来ます。
当時はまだ磁器を作る技術がなく、アウグスト王は最大のコレクターでした。
東洋の白い磁器は「白い黄金」と呼ばれ王侯貴族の人気となっていました。
中国やインドや日本などからコレクションしていました。
中でも柿右衛門や伊万里など評判が高かったようです。
あの有名なマイセンは、このアウグスト王の命で作られました。 -
バロック庭園
バロック様式ですが、その先にある景色は、どう見ても日本です。(笑)
以前のことは知りませんが、今はちょっと殺風景です。 -
アウグスト王は、錬金術師のヨハン・フリードリッヒ・ベトガーを幽閉して、白磁を作るように命令しました。
秘密が漏洩しないようにしたのです。当時は磁器の謎に包まれた製法をいち早く解明しようと競い合っていたのです。
ベトガーは物理学者・数学者・哲学者らの協力を得て、1709年にザクセン・フォークラント地方のアウエ鉱山のカオリンを原料とした白磁の製造に成功しました。
アウグスト王はこのことに満足し、西洋磁器マイセンの歴史が始まりました。 -
では、いい陶器がないか見に行きます。
だいぶお安くなっていました。
食品も多く扱っていましたので、全体的には思ったより陶器は多くありませんでした。そしてよく見ると、このすぐ近くの波佐見焼の物も扱っていました。
ここでは、小さな小物入れを購入しました。 -
次にやってきたのが、すぐ隣の波佐見です。
有田は佐賀県ですが、波佐見は長崎県です。
高速道路の波佐見で下車すると、右と左に分かれていますが、すぐ近くです。
ちなみに伊万里も、そんなに離れていません。
この広い駐車場が、焼き物のイベントの際には、お店がたくさん出て賑やかになるのだそうです。
小高い丘に釜があるようです。 -
波佐見焼の陶芸の館 観光交流センターです。
波佐見やきを求めて by noelさん陶芸の館 美術館・博物館
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入口にディスプレイされたお正月用のお飾りです。
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この写真の付近の物は、だいぶお安くなっていました。
奥の方にもたくさんあります。
この後は、買い物に夢中だったのと、人が多かったのとで撮影はしませんでした。
ちなみに、蕎麦猪口とサラダ用のお皿を購入しました。
さっそく使っています。
今までにも旅行の際に、色々な物を購入していますが、それらの物を使うたびに、様々なことを思い出します。
特に陶器などの場合は、荷物が重くなってしまうので、海外旅行の時は買い控えることがありますが、後になると、やっぱり買って良かった~と思います。
そろそろ海の外にも出かけたいです。
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この旅行記へのコメント (2)
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- くわさん 2023/03/04 17:41:27
- すごく詳しい旅行記、参考になりました
- noelさん、とても詳しい旅行記、ありがとうございました。
まるでガイドさんに説明を受けているようでした。
noelさんの旅行記はどれもこのようにガイドさんが語っているようですけど、事前調査や現地でメモを取ったりされているのですか? ガイドブックもここまで詳しく書かれていません。
平戸ザビエル記念教会の左右の塔にそんな違いがあったとは。
自分の旅行記を見直しましたが確かに左がありませんね。
https://4travel.jp/travelogue/11242664
ありがとうございました。
くわ
- noelさん からの返信 2023/03/04 19:38:39
- Re: すごく詳しい旅行記、参考になりました
- くわさん
ありがとうございます。
今回は計画して出かけたわけではありませんでしたが、ツアーなどの時には、ガイドさんの話は一応メモしてます。
ただ、どちらかと言うと旅行から戻ってから、色々気になって調べることの方が多いです。(-_-;)
それにしても、くわさんは私が行きたかった宝亀教会、紐差教会にも行かれたんですね。
私は家族に色々言われて、残念ながら行けませんでした。
ちなみに山野カトリック教会の案内も、無視されてしまいました。(悲)
それにしても、大バエ灯台と断崖、凄いですね。
写真を拝見したら、夫がここに行きたかったのに、私がサンセットウェイ方向にナビしたせいで、行けなかったと恨みがましく言われました。
確かに私も後悔してます。島自体はそれほど広くなかったので、行けば良かったです。
しかも、くわさんは写真の撮り方が凄すぎです。
私はいつもテキトーに撮っているので、バカにされてますが、同じ場所を撮ったとは思えませんでした。
私の方こそ参考になりました。
今後ともよろしくお願いします。
noel
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