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夏に、「平泉~象潟」間の「おくのほそ道」を旅してきました。皆様の旅の参考になれば幸いです。

おくのほそ道一人旅~2日目(尿前、尾花沢、新庄)~

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2022/08/20 - 2022/08/23

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あるさん

夏に、「平泉~象潟」間の「おくのほそ道」を旅してきました。皆様の旅の参考になれば幸いです。

  •  おくのほそ道1人旅、2日目のスタートは宮城県の古川駅からです。朝9時、駅前のニッポンレンタカーで車を借りて、山形県の新庄を目指します。

     おくのほそ道1人旅、2日目のスタートは宮城県の古川駅からです。朝9時、駅前のニッポンレンタカーで車を借りて、山形県の新庄を目指します。

  •  駅から40分程で、尿前の関の駐車場に到着しました。芭蕉一行は平泉を発った後、5月14日に岩出山に宿泊、15日にこの仙台領西端の尿前の関を通り、一気に国境を越えて新庄領堺田へと入って行きました。

     駅から40分程で、尿前の関の駐車場に到着しました。芭蕉一行は平泉を発った後、5月14日に岩出山に宿泊、15日にこの仙台領西端の尿前の関を通り、一気に国境を越えて新庄領堺田へと入って行きました。

  •  駐車場は尿前の関裏の崖上に位置していますので、写真のような坂を降る必要があります。かなり急です。<br />

     駐車場は尿前の関裏の崖上に位置していますので、写真のような坂を降る必要があります。かなり急です。

  •  夏ということもあり、階段は草が生え放題です。ここは正規のルートなのかとても心配になるレベルです。夏に来る方は、汚れてもいい靴と、虫除けが必携です…。

     夏ということもあり、階段は草が生え放題です。ここは正規のルートなのかとても心配になるレベルです。夏に来る方は、汚れてもいい靴と、虫除けが必携です…。

  •  坂を下から撮影しました。結構しっかりと急なのが分かります。時間としては、5分ほどで降りきれる長さでした。

     坂を下から撮影しました。結構しっかりと急なのが分かります。時間としては、5分ほどで降りきれる長さでした。

  • 坂を降りきると、「出羽街道 中山越」という石碑がありました。当時は中山越は難所として有名だったそうです。芭蕉がここを通った際には、前日が雷雨でその日も小雨。かなり足場が悪い中でこの道を歩くことは、大変な困難だったでしょう。

    坂を降りきると、「出羽街道 中山越」という石碑がありました。当時は中山越は難所として有名だったそうです。芭蕉がここを通った際には、前日が雷雨でその日も小雨。かなり足場が悪い中でこの道を歩くことは、大変な困難だったでしょう。

  •  尿前の関は、写真のような柵が復元されていました。看板には、伊達藩は「馬、金属、兵器、鳥類、女性」の出国と、「米、大豆、雑穀、塩」の入国を制限していたと書かれていました。それぞれ現代の感覚でも税関で制限を受ける理由は想像できるものもありますが、鳥類の持ち出しの制限というのは何故だったのでしょう…?

     尿前の関は、写真のような柵が復元されていました。看板には、伊達藩は「馬、金属、兵器、鳥類、女性」の出国と、「米、大豆、雑穀、塩」の入国を制限していたと書かれていました。それぞれ現代の感覚でも税関で制限を受ける理由は想像できるものもありますが、鳥類の持ち出しの制限というのは何故だったのでしょう…?

  •  かつての尿前の関の想像図が描かれていました。<br /><br /> 芭蕉はこの関所で怪しまれて、通過に苦労したと書いています。ここで時間がかかったからか?前日に一ノ関~岩出山間(41キロ)を歩いたにも関わらず、この日は岩出山~堺田間(32キロ)を歩いたところで日が暮れ、宿泊しています。山道ということを考慮しつつ雑な計算ですが、距離換算するとロスした時間は2時間ほどだったのかもしれません。ちなみに堺田からもう5キロ程進むと、笹森関(新庄領側の関所)があり、堺田で宿を求めたのは、日暮れで関所が閉まるため、通過できないことが分かっていたから、という一面もあったかもしれません。

     かつての尿前の関の想像図が描かれていました。

     芭蕉はこの関所で怪しまれて、通過に苦労したと書いています。ここで時間がかかったからか?前日に一ノ関~岩出山間(41キロ)を歩いたにも関わらず、この日は岩出山~堺田間(32キロ)を歩いたところで日が暮れ、宿泊しています。山道ということを考慮しつつ雑な計算ですが、距離換算するとロスした時間は2時間ほどだったのかもしれません。ちなみに堺田からもう5キロ程進むと、笹森関(新庄領側の関所)があり、堺田で宿を求めたのは、日暮れで関所が閉まるため、通過できないことが分かっていたから、という一面もあったかもしれません。

  •  近くに「蚤虱 馬の尿する 枕元」の句碑がありました。解説によると、芭蕉一行の通過から約80年後の1712年に、この句碑が建てられたそうです。<br /><br /> 前述のとおり、この関所での時間ロスが原因で、芭蕉が「よしなき山中」で蚤虱の苦しみを味わった可能性もあるのですが、句碑を建てた地元の方々は、自分の先祖の職務勤勉により、あの名句が生まれたという思いも、あるのかもしれませんね笑

     近くに「蚤虱 馬の尿する 枕元」の句碑がありました。解説によると、芭蕉一行の通過から約80年後の1712年に、この句碑が建てられたそうです。

     前述のとおり、この関所での時間ロスが原因で、芭蕉が「よしなき山中」で蚤虱の苦しみを味わった可能性もあるのですが、句碑を建てた地元の方々は、自分の先祖の職務勤勉により、あの名句が生まれたという思いも、あるのかもしれませんね笑

  •  尿前の関から車で10分ほどで、堺田の旧有路家住宅(封人の家)に到着しました。新庄領の東端だから堺田村、そして封人とは、国境を守る役人のこと、これぞ辺境という感じの名前ですね笑<br /><br /> 出羽国に入ったものの、日が暮れてしまったため、芭蕉一行はここに宿泊することとなります。

     尿前の関から車で10分ほどで、堺田の旧有路家住宅(封人の家)に到着しました。新庄領の東端だから堺田村、そして封人とは、国境を守る役人のこと、これぞ辺境という感じの名前ですね笑

     出羽国に入ったものの、日が暮れてしまったため、芭蕉一行はここに宿泊することとなります。

  •  封人の家は、築300年以上と推定されており、芭蕉もまさにこの建物に宿泊した可能性があるようです。入館料は250円で、建物内に入ることができました。<br /><br /> ちなみに「おくのほそ道」では「三日風雨あれて」ここに足止めをされたと書かれていますが、「曾良旅日記」では15日小雨(堺田着)、16日大雨、17日快晴(堺田発)とありますので、実質、雨で余計な逗留となったのは一泊分のみとなります。

     封人の家は、築300年以上と推定されており、芭蕉もまさにこの建物に宿泊した可能性があるようです。入館料は250円で、建物内に入ることができました。

     ちなみに「おくのほそ道」では「三日風雨あれて」ここに足止めをされたと書かれていますが、「曾良旅日記」では15日小雨(堺田着)、16日大雨、17日快晴(堺田発)とありますので、実質、雨で余計な逗留となったのは一泊分のみとなります。

  •  施設パンフレットによると、この地域は藩の奨励を受けて、小国駒(おぐにごま)と呼ばれる牡馬の産地として発展していたそうです。<br /><br /> あの名句に馬が登場するのは、ただ脈絡なく馬への愚痴を述べるため(だけ)ではなく、平泉で金色堂に触れるのと同様に、この馬産地堺田では馬に触れること自体に、紀行文としての意味があったのかもしれません。

     施設パンフレットによると、この地域は藩の奨励を受けて、小国駒(おぐにごま)と呼ばれる牡馬の産地として発展していたそうです。

     あの名句に馬が登場するのは、ただ脈絡なく馬への愚痴を述べるため(だけ)ではなく、平泉で金色堂に触れるのと同様に、この馬産地堺田では馬に触れること自体に、紀行文としての意味があったのかもしれません。

  •  封人の家前に、「蚤虱~」の句碑がありました。<br /><br /> ちなみに尿の読みは「しと」か「ばり」かで論争があるようです。素人考えですが、直前の尿前の関でのエピソードを受けて、ここでの句が生まれているのは明らかですので、素直に「しと」とす読むのが順当な気がします。<br /><br /> また、15、16日は雨だったことを考えると、枕元に尿の音がどの程度聞こえたのかも、疑問が残るところではあります笑

     封人の家前に、「蚤虱~」の句碑がありました。

     ちなみに尿の読みは「しと」か「ばり」かで論争があるようです。素人考えですが、直前の尿前の関でのエピソードを受けて、ここでの句が生まれているのは明らかですので、素直に「しと」とす読むのが順当な気がします。

     また、15、16日は雨だったことを考えると、枕元に尿の音がどの程度聞こえたのかも、疑問が残るところではあります笑

  •  封人の家から5分ほど歩くと、分水嶺がありました。芭蕉がここに立ち寄った記録はありませんが、せっかくなので見学してみます。

     封人の家から5分ほど歩くと、分水嶺がありました。芭蕉がここに立ち寄った記録はありませんが、せっかくなので見学してみます。

  •  この正面から流れてきた水が、左に行くと102.6キロ先で日本海へと流れ込み、右に行くと116.2キロ先で太平洋へと流れ込みます。まさに分岐点というところだそうです。

     この正面から流れてきた水が、左に行くと102.6キロ先で日本海へと流れ込み、右に行くと116.2キロ先で太平洋へと流れ込みます。まさに分岐点というところだそうです。

  •  封人の家から分水嶺の間は、写真の様な散歩道がありました。きれいな小川に沿った、のんびりで美しい、素敵な道でした。<br /><br /> ちなみに岩波の「曾良旅日記」の解説によると、封人の家は、家の裏に清水が流れており和泉屋敷とも呼ばれていたそうです。清水というのは、まさにこの小川のことではないかと思うのです。芭蕉の時代には、川の先が分水嶺となっていることは知らなかったかもしれませんが、逗留の中で、川の存在自体は話題になって、見る機会があったかもしれませんね。(大雨の影響で濁流だったかもしれませんが笑)

     封人の家から分水嶺の間は、写真の様な散歩道がありました。きれいな小川に沿った、のんびりで美しい、素敵な道でした。

     ちなみに岩波の「曾良旅日記」の解説によると、封人の家は、家の裏に清水が流れており和泉屋敷とも呼ばれていたそうです。清水というのは、まさにこの小川のことではないかと思うのです。芭蕉の時代には、川の先が分水嶺となっていることは知らなかったかもしれませんが、逗留の中で、川の存在自体は話題になって、見る機会があったかもしれませんね。(大雨の影響で濁流だったかもしれませんが笑)

  •  堺田を後にして車で10分、県道28号線を進むとふいに写真のような駐車スペースと脇道がありました。17日に堺田を出発した芭蕉一行は、道案内の若者を伴って、山越えをします。<br /><br /> その始点がまさにこの写真、「山刀伐(なたぎり)峠」の入口です。峠の途中に芭蕉の碑があるということなので、車を停めて、小登山にトライしました!

     堺田を後にして車で10分、県道28号線を進むとふいに写真のような駐車スペースと脇道がありました。17日に堺田を出発した芭蕉一行は、道案内の若者を伴って、山越えをします。

     その始点がまさにこの写真、「山刀伐(なたぎり)峠」の入口です。峠の途中に芭蕉の碑があるということなので、車を停めて、小登山にトライしました!

  •  芭蕉曰く、「高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて、夜行くがごとし」。まさにそのとおりで、写真のような陰気な山道が続きます笑<br />

     芭蕉曰く、「高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて、夜行くがごとし」。まさにそのとおりで、写真のような陰気な山道が続きます笑

  •  峠道は、写真のように車一台が通れる道は整備されています。しかし対向車とすれ違えるような場所は頂上までほとんどなく、対向車がもしきたらどこまで戻らないといけないのか、想像するだけでも恐ろしいです。

     峠道は、写真のように車一台が通れる道は整備されています。しかし対向車とすれ違えるような場所は頂上までほとんどなく、対向車がもしきたらどこまで戻らないといけないのか、想像するだけでも恐ろしいです。

  •  整備された車道を縫うように、歩道もあります。が、そこまできれいに整備されている訳ではないので、軽い登山のような感じです。<br /><br /> 芭蕉の道案内をした若者は、この峠道は「必ず不要の事」が起きる道だと言っています。「不要の事」は色々な解釈ができそうですが、もしこんな人もほとんど通らない暗い山道で盗賊に出会ったら、どうしようもないですね。

     整備された車道を縫うように、歩道もあります。が、そこまできれいに整備されている訳ではないので、軽い登山のような感じです。

     芭蕉の道案内をした若者は、この峠道は「必ず不要の事」が起きる道だと言っています。「不要の事」は色々な解釈ができそうですが、もしこんな人もほとんど通らない暗い山道で盗賊に出会ったら、どうしようもないですね。

  •  峠を上りきると、広場がありました。峠の入口から徒歩で30分ほどかかりました。写真左手の建物は、お手洗いです。

     峠を上りきると、広場がありました。峠の入口から徒歩で30分ほどかかりました。写真左手の建物は、お手洗いです。

  •  広場の少し奥に、おくのほそ道の石碑がありました。蚊が多すぎて、写真を撮ってすぐさま逃亡しました笑

     広場の少し奥に、おくのほそ道の石碑がありました。蚊が多すぎて、写真を撮ってすぐさま逃亡しました笑

  •  山刀伐峠の解説がありました。写真ではわかりにくいですが、今自分が上ってきた北側が急で短く、南側がなだらなかで長い峠道なので、その姿が猟師の帽子「ナタギリ」に似ているということで、この名前がついたそうです。<br /><br /> ちなみに「曾良旅日記」と照らして考えるに、芭蕉一行は、午前8時頃に堺田を出発、午前9時30分頃笹森の関通過、午前10時頃から3~4時間ほどかけてこの山刀伐峠を越え(午後1時頃、峠を越えきった正厳で夕立にあい)、午後2時頃に尾花沢に到着したのではないかと思います。<br /><br /> 今回自分は徒歩では峠越えをせず、ここで来た道を戻り、車で峠を越えます。

     山刀伐峠の解説がありました。写真ではわかりにくいですが、今自分が上ってきた北側が急で短く、南側がなだらなかで長い峠道なので、その姿が猟師の帽子「ナタギリ」に似ているということで、この名前がついたそうです。

     ちなみに「曾良旅日記」と照らして考えるに、芭蕉一行は、午前8時頃に堺田を出発、午前9時30分頃笹森の関通過、午前10時頃から3~4時間ほどかけてこの山刀伐峠を越え(午後1時頃、峠を越えきった正厳で夕立にあい)、午後2時頃に尾花沢に到着したのではないかと思います。

     今回自分は徒歩では峠越えをせず、ここで来た道を戻り、車で峠を越えます。

  •  芭蕉一行が峠越えに苦労してる時間帯、自分は車を1時間とばして南下、午後1時過ぎ、山形県村山市の「あらきそば」さんに到着しました。<br /><br /> この地区はそばの名所で、特に「あらきそば」さんは、そば好きにはとても有名なお店ですね。何としても食べてみたいということで、無理やり旅程に組み込んでみました笑

     芭蕉一行が峠越えに苦労してる時間帯、自分は車を1時間とばして南下、午後1時過ぎ、山形県村山市の「あらきそば」さんに到着しました。

     この地区はそばの名所で、特に「あらきそば」さんは、そば好きにはとても有名なお店ですね。何としても食べてみたいということで、無理やり旅程に組み込んでみました笑

  •  店内は、田舎の親戚の家に立ち寄っているかのような、温かく心落ち着く雰囲気です。にしんの味噌煮、板そば、野菜盛り合わせのセット(2060円)を注文しました。まずはにしんの味噌煮、うまい…。

     店内は、田舎の親戚の家に立ち寄っているかのような、温かく心落ち着く雰囲気です。にしんの味噌煮、板そば、野菜盛り合わせのセット(2060円)を注文しました。まずはにしんの味噌煮、うまい…。

  •  山形と言えば板そばですね。しっかりとしたお蕎麦で、蕎麦自体の味がきちんと伝わってきて、美味しかったです。暑い夏の日に、冷たいお蕎麦は本当に最高ですね。

     山形と言えば板そばですね。しっかりとしたお蕎麦で、蕎麦自体の味がきちんと伝わってきて、美味しかったです。暑い夏の日に、冷たいお蕎麦は本当に最高ですね。

  •  お腹一杯になり元気回復したところで、続いて尾花沢の芭蕉清風歴史資料館に到着、見学しました(入館料210円)。<br /><br /> 鈴木清風は出羽の豪商にして俳人。江戸にいた頃、芭蕉とも交流があり、ここ尾花沢にて再会を果たしました。芭蕉は地元の俳人との交流を行うなどゆっくりと過ごし、ここ尾花沢が余程気に入ったのか、ついに10泊の長期滞在をすることになります。

     お腹一杯になり元気回復したところで、続いて尾花沢の芭蕉清風歴史資料館に到着、見学しました(入館料210円)。

     鈴木清風は出羽の豪商にして俳人。江戸にいた頃、芭蕉とも交流があり、ここ尾花沢にて再会を果たしました。芭蕉は地元の俳人との交流を行うなどゆっくりと過ごし、ここ尾花沢が余程気に入ったのか、ついに10泊の長期滞在をすることになります。

  •  資料館の裏手に、清風邸跡の看板がありました。先の資料館は、清風の家の横に、別の旧商家の建物を移築したものだそうです。<br /> <br /> 芭蕉は清風のことを「富めるものなれども、志いやしからず」と評しています。尾花沢10泊のうち3泊は清風宅に泊まっており、本当に気ごころ知れた仲間だったのでしょう。

     資料館の裏手に、清風邸跡の看板がありました。先の資料館は、清風の家の横に、別の旧商家の建物を移築したものだそうです。
     
     芭蕉は清風のことを「富めるものなれども、志いやしからず」と評しています。尾花沢10泊のうち3泊は清風宅に泊まっており、本当に気ごころ知れた仲間だったのでしょう。

  •  清風邸から徒歩5分ほどで、養泉寺に到着しました。こちらは芭蕉が尾花沢での7泊を過ごしたお寺です。

     清風邸から徒歩5分ほどで、養泉寺に到着しました。こちらは芭蕉が尾花沢での7泊を過ごしたお寺です。

  •  寺は、明治に焼失してしまったそうです。看板によると、この井戸だけが往時を偲ぶ唯一のものだそうで、芭蕉ゆかりの井戸として残されていました。

     寺は、明治に焼失してしまったそうです。看板によると、この井戸だけが往時を偲ぶ唯一のものだそうで、芭蕉ゆかりの井戸として残されていました。

  •  境内には「涼し塚」という小屋があり、中に「涼しさを 我が宿にして ねまる也」の石碑が置かれていました。<br /><br /> 「ねまる」とはこの土地の方言で「くつろいで座る」ことだそうです。また久富哲雄氏の「おくのほそ道」解説によれば、「涼しさ」は「清風」を意識した伏線か、とのこと。芭蕉がこの土地を満喫した様子がわかる、何ともおしゃれで楽しげな句ですね。

     境内には「涼し塚」という小屋があり、中に「涼しさを 我が宿にして ねまる也」の石碑が置かれていました。

     「ねまる」とはこの土地の方言で「くつろいで座る」ことだそうです。また久富哲雄氏の「おくのほそ道」解説によれば、「涼しさ」は「清風」を意識した伏線か、とのこと。芭蕉がこの土地を満喫した様子がわかる、何ともおしゃれで楽しげな句ですね。

  •  養泉寺の裏手に周ると、絶景が広がっていました。左手奥には月山、右手遠くには鳥海山の山影が見え、手前には美しい田畑が広がっています。<br /><br /> いいところですね、尾花沢は。名残惜しいですが、私の本日の宿、新庄へと向かいます。

     養泉寺の裏手に周ると、絶景が広がっていました。左手奥には月山、右手遠くには鳥海山の山影が見え、手前には美しい田畑が広がっています。

     いいところですね、尾花沢は。名残惜しいですが、私の本日の宿、新庄へと向かいます。

  •  尾花沢から車で40分ほどで、新庄城跡に到着しました。<br /><br /> 芭蕉は尾花沢を27に出発、一度南下して立石寺に立ち寄った後、来た道を戻り北進をし、6月1日に新庄に入りました。自分は立石寺は一度訪れたことがあるので、今回は時間的制限から泣く泣くパスしました。

     尾花沢から車で40分ほどで、新庄城跡に到着しました。

     芭蕉は尾花沢を27に出発、一度南下して立石寺に立ち寄った後、来た道を戻り北進をし、6月1日に新庄に入りました。自分は立石寺は一度訪れたことがあるので、今回は時間的制限から泣く泣くパスしました。

  •  新庄城は新庄藩6万石の居城でしたが、明治維新の際、新政府方についたために、庄内藩の猛攻を受け、城と城下町は焼失してしまったそうです。今では本丸跡に護国神社等の施設が建っていました。社名の石碑は、新庄市出身の小磯国昭の謹書でした。<br /><br /> 芭蕉は新庄では2泊し、土地の俳人と交流したようですが、「おくのほそ道」では完全にスルーされています。最上川の章で、大石田から白糸の滝まで一連の流れで述べる文章の中に、「ちなみに途中陸路移動で新庄に2泊してます」というのは情報として入る余地がないですね笑<br /><br /> というところで、明日に備えて本日は新庄で早めに休息です。「おくのほそ道」旅は2日目はここで終了です!

     新庄城は新庄藩6万石の居城でしたが、明治維新の際、新政府方についたために、庄内藩の猛攻を受け、城と城下町は焼失してしまったそうです。今では本丸跡に護国神社等の施設が建っていました。社名の石碑は、新庄市出身の小磯国昭の謹書でした。

     芭蕉は新庄では2泊し、土地の俳人と交流したようですが、「おくのほそ道」では完全にスルーされています。最上川の章で、大石田から白糸の滝まで一連の流れで述べる文章の中に、「ちなみに途中陸路移動で新庄に2泊してます」というのは情報として入る余地がないですね笑

     というところで、明日に備えて本日は新庄で早めに休息です。「おくのほそ道」旅は2日目はここで終了です!

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