2022/10/28 - 2022/10/28
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gianiさん
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古来より中央政権と縁の深かった若狭エリア。
博物館の展示と実地見学で迫ります。
歴史年代順に並んだ一筆書きの地図情報もぜひ参照してください。
- 旅行の満足度
- 5.0
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今回の舞台は、県立若狭歴史博物館。
福井県の嶺南地区(若狭湾沿い)に特化。越前(嶺北地区)とは違う歴史を歩んだことを尊重する素晴らしい内容です。 -
縄文時代
生業は、狩猟漁撈採集。
季節に応じて食糧は変化し、保存食も作っていました。
狩猟漁撈採集は、単独で行うよりも組織的に行うと効率的なので、村落を作るのが一般的。 -
丸木舟(杉・鳥浜貝塚)
船首を欠いた状態で、608cmの長さ。
杉は湿った土壌に適しています。 -
鳥浜貝塚
1962年に発見。発掘後埋め戻されて公園に。
なので、殺風景です。鳥浜貝塚公園 名所・史跡
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23年にわたる発掘調査で、緑豆を栽培していたことなど、当時の定説を覆す発見が続きました。
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赤色漆塗櫛(縄文前期:鳥浜貝塚)
ベンガラ塗や漆文化を持っていた証拠の品。
赤漆を使用したものとしては、日本最古の品です。 -
木工品も、適性を考えて使う木を選択しています。
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弥生時代
大陸から伝来した稲作と鉄器が、大きな特徴です。
若狭は、前期に稲作が到達した最東端でした。
寒冷化に伴い、水田耕作に適した平野部が増えたことが大きな要因です。 -
木棺
死者を木製の棺に入れて埋葬するのは、大陸伝来の文化です。
稲作により余剰の食糧を生産できるようになり、富の蓄積、転じて権力を持つ支配層が現れました。 -
古墳時代
各地に豪族が台頭し、豪族の中で一歩頭を抜いたヤマト王権も樹立。
若狭は4世紀中にヤマト王権の傘下に入る。 -
旧上中町は、古墳銀座です。
JR上中駅付近の三宅が、当時の若狭の中心でした。
北川(熊川宿~小浜城)流域に位置し、都と若狭を結んだ鯖街道に通じるロケーションです。 -
脇袋古墳群
上中古墳群の中で最も密なエリア。膳部山の扇状地に分布します。
若狭で前方後円墳が造られた5世紀初頭に、ヤマト王権は各地の豪族を国造に任じました。若狭の国造は、天皇に近い膳(かしわで)氏と姻戚関係を結び、関係を強化しました。 -
上ノ塚古墳(じょうのつか 5世紀初め)
若狭最初かつ最大の前方後円墳。
全長100m、奥の曲線が後円部で直径64m。
水田の部分に濠が存在した。上の塚古墳 名所・史跡
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西塚古墳(5世紀後半)
全長74m。大正5年の発掘調査で土が取られ、前方部と後円部の一部しか残っていない。西塚古墳 名所・史跡
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西塚古墳では多くの副葬品が発見され、それらは宮内庁書陵部に保管されている。なので、展示品は全てイミテーション。
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中塚古墳(5世紀末)
全長72mの前方後円墳。
脇袋古墳群は、現在全て民有地に立つが、ここは邸宅内からアプローチするので、この距離が一般的な限界。中塚古墳 名所・史跡
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糠塚古墳(5世紀末)
中塚古墳の後に建設された前方後円墳。
現在は、ごく一部が地表に現れるのみ。 -
十善の森古墳(6世紀初め)
全長68mの前方後円墳。国道27号線沿いに位置します。
奥が前方部、手前が後円部で、両方に石室がある。
副葬品は百済産のものが含まれ、朝鮮半島との交流を暗示。
近所には、本州最古の横穴式石室を持つ向山1号墳(5世紀半ば)もあります。十善の森古墳 名所・史跡
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下船塚古墳(6世紀半ば)
民家に挟まれた丘で、左側が前方部右側が後円部、全長85m。
若狭地方最後の前方後円墳です。以後、円形の古墳が造られます。
上船塚古墳(6世紀前半)
下船塚古墳の奥の林の様な部分。全長70m。下船塚古墳 名所・史跡
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若狭の古墳の様式・大きさ、年代をまとめると、こんな感じ。
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余談ですが、古墳のことなら若狭町歴史文化館でも学べます。
JR上中駅近く、若狭町役場庁舎の1階に入っています。 -
膳(かしわで)氏
天皇の食の材料調達と調理を司った一族。毒を盛ることも可能な立場のため、重要なポストだった。側近として軍事外交までこなした。初代若狭国造は、膳余磯。海産物の豊かな若狭湾は、天皇家の食卓を支える面でも重要な役割を担った。 -
大宝律令(飛鳥時代・701年)
地元の有力者が軍事行政裁判を司る小さな国王「国造」による統治から、中央政府から派遣された非世襲の役人「国司」が赴任する形に変化した。
都と各国を結ぶ幹線道路(六道)が整備され、若狭国は北陸道と枝線(若狭枝路)で繋がっていました。国府と都を結ぶルートには、16km毎に馬を備えた駅家が設置されました。 -
地方行政(国郡郷制)
大宝律令で誕生した若狭国の国府は遠敷(おにゅう 当博物館付近)に置かれました。
国の下に郡(遠敷郡・三方郡)が組織され、地方豪族が世襲で郡司を務めた。
郡の下には、50戸を単位とする里が組織された。751年に、里は郷に改められた。
税制(租庸調)も整備され、租は地方政府(律令国)の財源となった。納税手段は、原則米だった。 -
美食国(みけつくに)
天皇の食を支えた国のことで、若狭・志摩・淡路の3国が該当。海の幸が豊富なのが共通項。 -
贄(にえ)木簡
贄とは、天皇に献上する生鮮品や加工品のことで、海産物・肉・果実等が含まれます。木簡は荷札の役割を果たし、品名と産地が記載されました。
若狭は青郷中心に海産物が献上されました。
その伝統は、今も続いています。 -
中央政府の財源
庸:元々は労役だったが、米塩布で納めるのが一般的。
調:布・特産品・現金で納めた。
調塩木簡
若狭は調のほとんどを塩で納めました。 -
製塩遺跡
製塩土器の様式から、遅くとも4世紀には始まり、奈良時代に生産量のピークだったことが分かります。平城の都や宮殿で発掘される調塩木簡は、若狭国が圧倒的です。奈良時代の製塩遺跡が最も多く、土器の大型化と標準化が図られていることから、中央政府のリーダーシップで塩の生産量が割り当てられていたことが分かります。 -
古代の製塩
岩塩の採れない日本では、海水から塩を得ました。多雨多湿なために天日干しはNGで、煮詰める必要がありました。海水の塩分は僅か3%。まず濃い塩水を作りました。干して塩の結晶の付いた海藻に海水をかけて塩分を溶かし出しました(採鹹)。 -
煎熬
加熱して煮詰めます。
体積が初めの1/8になるまで煮詰めると、エグ味の原因となる硫酸カルシウムが結晶化し始めるので、取り除きます。
体積が初めの1/10になるまで煮詰めると、塩化ナトリウムが結晶化し始めます。 -
体積が初めの1/20になるまで煮詰めて火を止めます。強い苦みの原因になる硫酸マグネシウムが結晶化し始める直前の濃度です。同じく、強い苦みの原因となる塩化マグネシウムも溶けています。
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焼塩
火を止めた溶液を脱水(詳細は不明)し、粗塩を得ます。
粗塩を丸底土器へ入れて加熱すると、湿気を吸いやすい塩化マグネシウムが酸化マグネシウムに化学変化し、しけらない・苦くない焼塩になります。 -
丸型土器から出して、塩籠に入れて出荷します。
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敦賀の塩
政治的思惑で越前国に組み入れられた敦賀。こちらも製塩業が盛んで、奈良の都は敦賀産の木簡が大量に見つかっています。 -
平安時代の天皇の食卓
905-967年にかけて編纂された『延喜式』に基づく再現。盤(メインディッシュ)は雉の干肉など6皿、窪杯(小鉢)は2つ。食材を味付けせず、好みで四種(塩・醤・酢・酒)が添え置かれた。 -
天皇家ゆかりの土地をプロットすると、幾何学的配置になります。
若狭彦・姫神社と沖合の御神島も配列の一つです。 -
若狭姫神社(721年)および彦神社(715年)は、鯖街道沿いに位置します。初代神武天皇の祖父母を祀っています。
若狭姫神社 寺・神社・教会
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仏教と神事
7世紀以降、仏教寺も建立されます。天皇家ゆかりの寺で、神道の伝説が伴います。754年に若狭の遠敷明神は、東大寺で開かれる修二会(しゅにえ・2/1-15)に大遅刻しました。お詫びのしるしに境内の岩を打って水を出し、若狭の水を献じました。
以降、遠敷の神宮寺では3/2に「水送り」の神事を行います。地下を10日掛けて東大寺まで到着するとされ、奈良東大寺では3/12に「水取り」の神事を行います。神宮寺 寺・神社・教会
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荘園
若狭の国でも、奈良時代以降に荘園が発達しました。京都奈良の有力寺院の荘園が発達します。都の寺院に資金供給する一方で、仏教文化(仏像等)や祭り等を若狭にもたらしました。律令制と荘園は、ずっと共存しました。
鎌倉幕府が任命した地頭も荘園の権益を認め、室町幕府の守護も収穫の半分を課税する代わりに荘園の権益を認めました。応仁の乱以降に荘園制度は衰退し、太閤検地を以て終了します。 -
都に一番近い日本海側の港というロケーションゆえに、多くの人やモノが行き交いました。大陸との往来も、10世紀以降の記録でも唐・渤海・宋・南宋等が登場します。
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象が初上陸(1408年)
室町幕府と明との貿易船は小浜にも発着しています。例えば1408年は、インドネシア華僑が請け負い、象が日本に初上陸しました。他にもクジャクやオウム等も来日しました。 -
武家政権
鎌倉時代に若狭国の守護は執権北条氏(直轄領)でした。とはいえ、領地運営に携わったのは地頭職でした。
室町時代は、足利氏一門の一色氏が代々守護を務めますが、6代将軍義教の命で一色義貫は暗殺、その功で武田信栄が守護になります。若狭武田氏最盛期の元信の治世に、本拠地を小浜へ移します。 -
武家政権2
織田・豊臣・徳川政権下で若狭の領主は目まぐるしく変わったが、各政権のトップに近い重臣たちが割り当てられ、若狭の重要性が見て取れる。1634年以降は、大老を輩出する酒井家が治めた。
1682年には小浜藩の支藩として敦賀藩が誕生し、1759年には完全独立を果たす。 -
明治以降
若狭と越前で福井県が誕生、関西圏と北陸圏を一つにする超荒業。途中消滅して石川県と滋賀県に編入された時期もあった(こちらの方が実情に合っている)が、現在に至る。地形と文化を考慮して、敦賀と旧若狭国は嶺南地区に、残りの旧越前国は嶺北地区と区分する。福井旅行時に知っておくと便利な地域区分。
以上が、大ざっぱな政治行政史。ちなみに嶺南は北陸電力ではなく、関西電力のエリアです。 -
鎌倉時代の沿岸部
刺し網等の先端技術を導入した漁業、背後の山林の薪を燃料に製塩が栄えた。船で山陰や北陸に繰り出し、商取引(廻船)を行った。富が蓄積し、各浦は刀祢(とね)と呼ばれるリーダーを中心にまとまった。 -
過所船旗(1272年)
執権かつ若狭国守護だった北条時宗が、田島浦の秦家へ与えた旗。描かれた北条氏の家紋を盾に、この旗を立てた舟「徳勝」号をどの港も受け入れるようにという文面が。 -
日引石の分布から見る交易範囲
高浜町日引産の安山岩で制作された石塔は14・15世紀の様式を反映しているので、当時の交易範囲が特定できる。青森県の十三湊から鹿児島県の坊津まで分布していることから、日本海一円を股に掛けていたと推察される。 -
都市型港
浦毎に行われた廻船も、政治的安定が増すにつれて小浜と敦賀の2港に集約されるようになる。キリスト教の宣教師も上陸しています。 -
江戸時代には、日本海側の各港を経由して大坂へ向かう北前船航路が整備され、内陸都市京都への外港として、小浜と敦賀は大いに繁栄します。しかし、鉄道網の発達により、昭和には廃れます。若狭は歴史に取り残され、良くも悪くも昔ながらの景観や風習が継承されました。
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遠敷の光景
丹後街道(旧道)と鯖街道(針畑越え)が交差する地点。丹後若狭に共通する、時代に取り残された光景が残ります。 -
JR小浜線内某駅の張り紙。
時代に取り残されたのは経済だけでなく、人間も含まれます。自戒の意味を込めて、、、 -
おまけ
迦楼羅(かるら)王立像
1990年に赤い布に包まれた状態で、小浜に漂着。中身は700年以上昔、13世紀の南宋で作られた仏像でした。若狭湾には、漂着系の仏像が結構多いです。私が子供の頃は、海が荒れる季節に入ると、韓国からのプラスチックごみが沢山打ち上げられたものです。
次の旅行記↓
https://4travel.jp/travelogue/11790361
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