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2022年10月29日(土)、武蔵野文化協会主催の「国史跡鎌倉街道上道と武蔵武士ゆかりの史跡を巡る」に参加して埼玉県を巡りました。<br />順路は、東武東上線坂戸駅―苦林野合戦場跡・苦原古墳―十社神社・大類古墳群―大楽寺・大類氏館跡―毛呂山町歴史民俗資料館―鎌倉街道上道・崇徳寺跡・延慶の板碑―堂山下遺跡ーおしゃもじ山公園展望台―笛吹峠―大蔵館跡―源義賢墓―菅谷館跡―三門館跡―宗悟寺―安楽寺―金剛寺―東武東上線・JR川越線川越駅、です。<br />写真は菅谷館跡説明板です。

鎌倉街道上道と武蔵武士史跡

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2022/10/29 - 2022/10/29

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km45

km45さん

2022年10月29日(土)、武蔵野文化協会主催の「国史跡鎌倉街道上道と武蔵武士ゆかりの史跡を巡る」に参加して埼玉県を巡りました。
順路は、東武東上線坂戸駅―苦林野合戦場跡・苦原古墳―十社神社・大類古墳群―大楽寺・大類氏館跡―毛呂山町歴史民俗資料館―鎌倉街道上道・崇徳寺跡・延慶の板碑―堂山下遺跡ーおしゃもじ山公園展望台―笛吹峠―大蔵館跡―源義賢墓―菅谷館跡―三門館跡―宗悟寺―安楽寺―金剛寺―東武東上線・JR川越線川越駅、です。
写真は菅谷館跡説明板です。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
観光バス
旅行の手配内容
団体旅行
  • 最初の訪問地は、大類古墳群1号墳の苦林古墳(入間郡毛呂山町川角2238)です。現在の長約23mの前方後円墳で、後円部から撮ったものです。頂部に石碑が見えます。

    最初の訪問地は、大類古墳群1号墳の苦林古墳(入間郡毛呂山町川角2238)です。現在の長約23mの前方後円墳で、後円部から撮ったものです。頂部に石碑が見えます。

  • 1931年に立てられた「苦林野古戦場之遺蹟」碑です。ここは貞治2年(1362)6月に鎌倉公方足利基氏と宇都宮氏綱重臣芳賀禅阿子息との合戦地です。

    1931年に立てられた「苦林野古戦場之遺蹟」碑です。ここは貞治2年(1362)6月に鎌倉公方足利基氏と宇都宮氏綱重臣芳賀禅阿子息との合戦地です。

  • 奥の前方部に立つ文化10年(1813)銘のある千手観音石仏像です。苦林野合戦の戦死者供養のため里人が建立したものです。

    奥の前方部に立つ文化10年(1813)銘のある千手観音石仏像です。苦林野合戦の戦死者供養のため里人が建立したものです。

  • 次の訪問地は十社神社(入間郡毛呂山町大類29)です。神社入口から奥に社殿です。本神社は苦林野合戦で芳賀軍の武将岡本信濃守と刺し違い戦死した基氏軍の金井新佐衛門等の10名の戦死者の慰霊のため祀ったもので、当初は十首神社と呼ばれていました。

    次の訪問地は十社神社(入間郡毛呂山町大類29)です。神社入口から奥に社殿です。本神社は苦林野合戦で芳賀軍の武将岡本信濃守と刺し違い戦死した基氏軍の金井新佐衛門等の10名の戦死者の慰霊のため祀ったもので、当初は十首神社と呼ばれていました。

  • 社殿です。社殿右奥の盛り上がった所は古墳です。「神社境内を含めこの周辺には古墳が群集しており大類古墳群です。、

    社殿です。社殿右奥の盛り上がった所は古墳です。「神社境内を含めこの周辺には古墳が群集しており大類古墳群です。、

  • 次いで大類寺(入間郡毛呂山町大類112)です。越生町の新義真言宗の報恩寺の末寺です。

    次いで大類寺(入間郡毛呂山町大類112)です。越生町の新義真言宗の報恩寺の末寺です。

  • 本寺墓地にある板碑です。この他に随所に板碑があります。

    本寺墓地にある板碑です。この他に随所に板碑があります。

  • 宝篋印塔です。上から相輪・傘・塔身・基礎・反花座と揃っています。右脇に板碑もあります。

    宝篋印塔です。上から相輪・傘・塔身・基礎・反花座と揃っています。右脇に板碑もあります。

  • 寺から南に撮ったものです。寺の辺りは児玉党の大類氏館跡とされています。大類氏は上野国群馬郡大類を名乗りの地とされる小武士です。

    寺から南に撮ったものです。寺の辺りは児玉党の大類氏館跡とされています。大類氏は上野国群馬郡大類を名乗りの地とされる小武士です。

  • 毛呂山町歴史民俗資料館を見学後、学芸員の案内で発掘調査がされ国史跡に指定予定の毛呂山町の鎌倉街道上道(毛呂山町大類)を巡ります。写真は、発掘調査で石畳があったことが確認された所で、現在は埋め戻されています。

    毛呂山町歴史民俗資料館を見学後、学芸員の案内で発掘調査がされ国史跡に指定予定の毛呂山町の鎌倉街道上道(毛呂山町大類)を巡ります。写真は、発掘調査で石畳があったことが確認された所で、現在は埋め戻されています。

  • これから少し行った所にある案内標識から見た延宝4年(1676)建立の庚申塚で、川角古墳群の円墳上に立っています。

    これから少し行った所にある案内標識から見た延宝4年(1676)建立の庚申塚で、川角古墳群の円墳上に立っています。

  • 街道から離れ左に入ると、写真の川角古墳群(入間郡毛呂山町川角)です。

    街道から離れ左に入ると、写真の川角古墳群(入間郡毛呂山町川角)です。

  • 川角古墳群内に立つ延慶の板碑です。延慶3年(1310)の銘があり、約3mの大型板碑で、朝妻氏夫妻の供養塔とみられます。

    川角古墳群内に立つ延慶の板碑です。延慶3年(1310)の銘があり、約3mの大型板碑で、朝妻氏夫妻の供養塔とみられます。

  • 川角古墳群の地は崇徳寺跡です。この地からは多量の板碑等が発掘された、他の発掘物からも、この地が中世の墓地であったことが確認できます。

    川角古墳群の地は崇徳寺跡です。この地からは多量の板碑等が発掘された、他の発掘物からも、この地が中世の墓地であったことが確認できます。

  • 毛呂山町大類グランド(入間郡毛呂山町大類717)の立つ堂山下遺跡説明板です。ここらは街道の越辺川渡河点の苦林宿でした。

    毛呂山町大類グランド(入間郡毛呂山町大類717)の立つ堂山下遺跡説明板です。ここらは街道の越辺川渡河点の苦林宿でした。

  • 昼食の場としたおしゃもじ山公園(比企郡鳩山町赤沼2430)の展望台から南に撮ったものです。写真中間に越辺川が左右に流れているのが見えます。西方の山麓を鎌倉街道上道が通っていました。

    昼食の場としたおしゃもじ山公園(比企郡鳩山町赤沼2430)の展望台から南に撮ったものです。写真中間に越辺川が左右に流れているのが見えます。西方の山麓を鎌倉街道上道が通っていました。

    おしゃもじ山公園 公園・植物園

  • 昼食後に、北上した最初の地が笛吹峠(比企郡鳩山町須江)です。正平7年(1352)に宗良親王を奉じた新田義宗が峠に陣して足利尊氏と合戦を行っています。写真1は、戦前に県が立てた「史蹟笛吹峠」石碑です。実際の鎌倉街道上道の峠は道路の東に行った将軍沢の谷間であり、現在は廃道となっています。

    昼食後に、北上した最初の地が笛吹峠(比企郡鳩山町須江)です。正平7年(1352)に宗良親王を奉じた新田義宗が峠に陣して足利尊氏と合戦を行っています。写真1は、戦前に県が立てた「史蹟笛吹峠」石碑です。実際の鎌倉街道上道の峠は道路の東に行った将軍沢の谷間であり、現在は廃道となっています。

    笛吹峠 名所・史跡

  • さらに北上して、大蔵館跡(比企郡嵐山町大蔵522)に至ります。大蔵神社となっています。源義賢の館跡とされており、現存の遺構から東西170m、南北220m、面積4万㎡の規模を持つ土塁と堀を巡らした方形館です。現存する大館と発掘調査で確認された方70mの小館(北西面)からなっています。発掘調査により12~15世紀にかけて活動していたことが確認されます。場所的には東約100mに鎌倉街道が南北に走り、北に都幾川の河川交通の交わる大蔵宿がありました。ここは、久寿2年(1155)8月、源義朝の長男義平が攻撃し、叔父義賢と養君とした秩父重隆を討取った大蔵合戦の地です。これにより義平は悪源太の威名を轟かします。

    さらに北上して、大蔵館跡(比企郡嵐山町大蔵522)に至ります。大蔵神社となっています。源義賢の館跡とされており、現存の遺構から東西170m、南北220m、面積4万㎡の規模を持つ土塁と堀を巡らした方形館です。現存する大館と発掘調査で確認された方70mの小館(北西面)からなっています。発掘調査により12~15世紀にかけて活動していたことが確認されます。場所的には東約100mに鎌倉街道が南北に走り、北に都幾川の河川交通の交わる大蔵宿がありました。ここは、久寿2年(1155)8月、源義朝の長男義平が攻撃し、叔父義賢と養君とした秩父重隆を討取った大蔵合戦の地です。これにより義平は悪源太の威名を轟かします。

    大蔵館跡 名所・史跡

  • 大蔵神社内から見た西南角の土塁跡です。西南角は一段と高く、館の中心と考えられます。

    大蔵神社内から見た西南角の土塁跡です。西南角は一段と高く、館の中心と考えられます。

    大蔵館跡 名所・史跡

  • 大蔵館跡の東に位置する源義賢墓(比企郡嵐山町大蔵66)の五輪塔です。火輪・水輪部のみ現存し、風輪部は欠損し、空輪・地輪部は後から補ったものです。県内最古の部類に属します。コンクリートの覆堂内にあります。左側から撮ったものです。

    大蔵館跡の東に位置する源義賢墓(比企郡嵐山町大蔵66)の五輪塔です。火輪・水輪部のみ現存し、風輪部は欠損し、空輪・地輪部は後から補ったものです。県内最古の部類に属します。コンクリートの覆堂内にあります。左側から撮ったものです。

  • 右側上から撮ったものです。

    右側上から撮ったものです。

  • 菅谷館跡(比企郡嵐山町菅谷757)へと移動し、写真6二郭土塁上にある畠山重忠像です。本館跡は武蔵国最大の武士団である秩父一族の長男流の畠山重忠の居館とされた地です。ただ、発掘調査では鎌倉期の遺構等は確認されておらず、現遺構は戦国時代の城跡といえます。

    菅谷館跡(比企郡嵐山町菅谷757)へと移動し、写真6二郭土塁上にある畠山重忠像です。本館跡は武蔵国最大の武士団である秩父一族の長男流の畠山重忠の居館とされた地です。ただ、発掘調査では鎌倉期の遺構等は確認されておらず、現遺構は戦国時代の城跡といえます。

    菅谷館跡 名所・史跡

  • 時間の関係で本郭、一ノ郭、二ノ郭、西ノ郭、南ノ郭からなる館跡全体を見学することはできず、本郭のみです。門土橋前から右へと土塁と空堀を撮りました。

    時間の関係で本郭、一ノ郭、二ノ郭、西ノ郭、南ノ郭からなる館跡全体を見学することはできず、本郭のみです。門土橋前から右へと土塁と空堀を撮りました。

    菅谷館跡 名所・史跡

  • 本郭南部から北へと土塁を撮りました。

    本郭南部から北へと土塁を撮りました。

    菅谷館跡 名所・史跡

  • 次いで、三門館跡(比企郡滑川町和泉1237)です。源頼朝の乳母比企尼の夫比企遠宗の館との伝承のある所です。北西と南東を丘陵で囲まれた地で、発掘調査で北西丘陵上に南北に180mの空堀が認められ、北端から東に50mほど延びています。空堀の両側には土塁が認められます。但し、平地ではなく東西の丘陵地に土塁・空堀を設けた館は例がなく、極めて特異な館跡といえます。西の丘陵上で撮ったものです。。

    次いで、三門館跡(比企郡滑川町和泉1237)です。源頼朝の乳母比企尼の夫比企遠宗の館との伝承のある所です。北西と南東を丘陵で囲まれた地で、発掘調査で北西丘陵上に南北に180mの空堀が認められ、北端から東に50mほど延びています。空堀の両側には土塁が認められます。但し、平地ではなく東西の丘陵地に土塁・空堀を設けた館は例がなく、極めて特異な館跡といえます。西の丘陵上で撮ったものです。。

  • さらに進み、写真は曹洞宗扇谷山宗悟寺山門(東松山市大谷400)です。本寺は当地を知行した旗本森川氏の菩提寺です。比企尼の居宅があったとの伝承のある、寺西北の比丘尼山にあった大谷山寿福寺を天正20年(1592)に移転し寺号を変えました。

    さらに進み、写真は曹洞宗扇谷山宗悟寺山門(東松山市大谷400)です。本寺は当地を知行した旗本森川氏の菩提寺です。比企尼の居宅があったとの伝承のある、寺西北の比丘尼山にあった大谷山寿福寺を天正20年(1592)に移転し寺号を変えました。

  • 本堂です。

    本堂です。

  • 源頼家の妾比企能員の娘若狭局が逃れて持ち帰ったと伝承のある源頼家位牌です。本堂本仏の右前脇にあります。3行にわたって、「鎌倉二世源姓頼家」「長福寺殿當寺開基大相国公一品寿福義仁大居士」「元久元年甲子七月一八日」、記されています。明らかに江戸時代のものと思われます。

    源頼家の妾比企能員の娘若狭局が逃れて持ち帰ったと伝承のある源頼家位牌です。本堂本仏の右前脇にあります。3行にわたって、「鎌倉二世源姓頼家」「長福寺殿當寺開基大相国公一品寿福義仁大居士」「元久元年甲子七月一八日」、記されています。明らかに江戸時代のものと思われます。

  • 左前脇のある蛇苦止観音像です。若狭局が夫頼家を失った苦しみから逃れるために祀ったとの伝承のあるものです。なお、比企尼が若狭局の悲しみを去らせるため、頼家形見の櫛を沼に沈めさせたとの伝承のある串引き沼が本寺の北、比丘尼山の北東に接してあります。

    左前脇のある蛇苦止観音像です。若狭局が夫頼家を失った苦しみから逃れるために祀ったとの伝承のあるものです。なお、比企尼が若狭局の悲しみを去らせるため、頼家形見の櫛を沼に沈めさせたとの伝承のある串引き沼が本寺の北、比丘尼山の北東に接してあります。

  • 本堂左前に立つ「比企一族顕彰碑」です。1994年建立です。

    本堂左前に立つ「比企一族顕彰碑」です。1994年建立です。

  • 宗悟寺に入る道から見た比丘尼山で、右の奥の丘陵です。

    宗悟寺に入る道から見た比丘尼山で、右の奥の丘陵です。

  • 坂東十一番札所の吉見観音として親しまれている真言宗智山派岩殿山安楽寺(比企郡吉見町御所374)に移動しました。源範頼が本寺で幼少期を過ごしたとの伝承があります。写真は仁王門です。本寺は天文6年(1537)の上杉憲政と北条氏康との松山城合戦で全山消失しています。元禄15年(1703)に再建されました。

    坂東十一番札所の吉見観音として親しまれている真言宗智山派岩殿山安楽寺(比企郡吉見町御所374)に移動しました。源範頼が本寺で幼少期を過ごしたとの伝承があります。写真は仁王門です。本寺は天文6年(1537)の上杉憲政と北条氏康との松山城合戦で全山消失しています。元禄15年(1703)に再建されました。

    吉見観音(安楽寺) 寺・神社・教会

  • 本堂です。寛文元年(1661)に再建されたものです。本堂と次の三重塔は範頼が建立したと伝えられています。

    本堂です。寛文元年(1661)に再建されたものです。本堂と次の三重塔は範頼が建立したと伝えられています。

    吉見観音(安楽寺) 寺・神社・教会

  • 三重塔です。寛永年間(1624~8)の再建で、現存する最も古い建築物で、総高24.3mです。

    三重塔です。寛永年間(1624~8)の再建で、現存する最も古い建築物で、総高24.3mです。

    吉見観音(安楽寺) 寺・神社・教会

  • 最後の訪問地は真言宗智山派清月山金剛寺(比企郡川島町中山1198)です。本寺は比企左馬助政員・則員親子が中興しました。則員は比企能員の孫員茂の子孫と称していて、旗本となりました。これによりこの地は比企氏館跡とされています。写真18は、本堂の右に入った所にある比企氏の位牌堂である大日堂です。

    最後の訪問地は真言宗智山派清月山金剛寺(比企郡川島町中山1198)です。本寺は比企左馬助政員・則員親子が中興しました。則員は比企能員の孫員茂の子孫と称していて、旗本となりました。これによりこの地は比企氏館跡とされています。写真18は、本堂の右に入った所にある比企氏の位牌堂である大日堂です。

    金剛寺 寺・神社・教会

  • 大日堂の裏にある比企氏の墓地です。左から3番目が比企則員墓(1557~1616)です。

    大日堂の裏にある比企氏の墓地です。左から3番目が比企則員墓(1557~1616)です。

    金剛寺 寺・神社・教会

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