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 河村城址から下って来ると麓の山北町岸に「河村館跡」の大きな看板が立っている。ここが河村館跡なのだ。<br /> この看板によると、248mの山上にある山城の河村城の根小屋(普段生活する場所)として営まれたのが河村館である。<br /> これまでに、部分的に発掘調査が行われ、東西250m、南北150mに及ぶ居館を囲む方形の堀らしき遺構が発見されており、15世紀から16世紀にかけての遺構であると考えられている。すなわち、後北条氏の時代になるとこの場所に河村館が大々的に営まれたと考えられよう。<br /> なお、平安時代後期になると河村秀高が河村氏の祖とされ、その子の義秀は石橋山の合戦(治承4年(1180年))で平家方の大庭景親、伊東祐親らにつき勝利したが、その後、平家方は源氏に敗れ、捕らえられた大庭景親は処刑され、捕らえられた義秀は大庭景能の許に預けられ、領地を没収された。しかし、 建久2年(1191年)、鶴岡八幡宮例祭において、義秀は源頼朝の前で流鏑馬を披露し、領地復帰を許されたと『吾妻鏡』に記されていることが確認出来、室生神社の流鏑馬神事の起源であると考えられている。<br />(表紙写真は「河村館跡」の大きな看板)

河村館跡(神奈川県山北町岸)

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2022/11/03 - 2022/11/03

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ドクターキムル

ドクターキムルさん

 河村城址から下って来ると麓の山北町岸に「河村館跡」の大きな看板が立っている。ここが河村館跡なのだ。
 この看板によると、248mの山上にある山城の河村城の根小屋(普段生活する場所)として営まれたのが河村館である。
 これまでに、部分的に発掘調査が行われ、東西250m、南北150mに及ぶ居館を囲む方形の堀らしき遺構が発見されており、15世紀から16世紀にかけての遺構であると考えられている。すなわち、後北条氏の時代になるとこの場所に河村館が大々的に営まれたと考えられよう。
 なお、平安時代後期になると河村秀高が河村氏の祖とされ、その子の義秀は石橋山の合戦(治承4年(1180年))で平家方の大庭景親、伊東祐親らにつき勝利したが、その後、平家方は源氏に敗れ、捕らえられた大庭景親は処刑され、捕らえられた義秀は大庭景能の許に預けられ、領地を没収された。しかし、 建久2年(1191年)、鶴岡八幡宮例祭において、義秀は源頼朝の前で流鏑馬を披露し、領地復帰を許されたと『吾妻鏡』に記されていることが確認出来、室生神社の流鏑馬神事の起源であると考えられている。
(表紙写真は「河村館跡」の大きな看板)

  • 「河村館跡<br /> 河村館跡は山城である河村城の根小屋(普段生活する場所)だと考えられます。<br /> 河村館跡と称される遺跡の範囲は酒匂川河岸段丘上の岸・湯坂地区一帯に広がり、江戸時代の絵図には、「秀清屋敷」「土佐屋敷」「内記屋敷」などの 記載があります。<br /> これまで、部分的に発掘調査が行われ、東西二五〇m、南北一五〇mに及ぶ居館を方形に囲むと想定される溝が見つかりました。 また、区画の内部からは建物跡なども見つかりました。出土遺物から室町時代後半、十五世紀から十六世紀頃の跡だと考えられています。<br /> 平安時代後期、平将門の乱鎮圧に功績のあった藤原秀郷を祖とし、秦野地方を支配していた、波多野遠義の次男、秀高が当時の山北の地名であった 「河村郷」から名前をとり、「河村秀高」と名乗ったことが、河村氏の始まりだと言われています。<br /> 秀高の子、義秀は石橋山の合戦で平氏側につき、勝利しましたが、その後、平氏が源氏に敗れたため、河村氏は領地を没収されました。しかし、一一九〇(建久元)年、鶴岡八幡宮例祭において、義秀は源頼朝の前で流鏑馬を披露し、領地復帰を許されたと『吾妻鏡』に記されています。<br /> 一三三三(元弘三)年、足利尊氏が鎌倉幕府に反すると、河村氏は新田義貞に従い、倒幕に加わりました。 翌一三三四(建武元)年、後醍醐天皇による建武の申請が始まりますが、足利尊氏らの北朝方と新田義貞らの南朝方の争いが激しくなる中、 一三五二(正平七)年、新田義貞、脇屋義治の軍勢が、河村氏の勧めにより河村城に籠城しますが、翌一三五三(正平八)年には、河村城から 退去したことが『太平記』に記されています。<br />  山北町教育委員会」。

    「河村館跡
     河村館跡は山城である河村城の根小屋(普段生活する場所)だと考えられます。
     河村館跡と称される遺跡の範囲は酒匂川河岸段丘上の岸・湯坂地区一帯に広がり、江戸時代の絵図には、「秀清屋敷」「土佐屋敷」「内記屋敷」などの 記載があります。
     これまで、部分的に発掘調査が行われ、東西二五〇m、南北一五〇mに及ぶ居館を方形に囲むと想定される溝が見つかりました。 また、区画の内部からは建物跡なども見つかりました。出土遺物から室町時代後半、十五世紀から十六世紀頃の跡だと考えられています。
     平安時代後期、平将門の乱鎮圧に功績のあった藤原秀郷を祖とし、秦野地方を支配していた、波多野遠義の次男、秀高が当時の山北の地名であった 「河村郷」から名前をとり、「河村秀高」と名乗ったことが、河村氏の始まりだと言われています。
     秀高の子、義秀は石橋山の合戦で平氏側につき、勝利しましたが、その後、平氏が源氏に敗れたため、河村氏は領地を没収されました。しかし、一一九〇(建久元)年、鶴岡八幡宮例祭において、義秀は源頼朝の前で流鏑馬を披露し、領地復帰を許されたと『吾妻鏡』に記されています。
     一三三三(元弘三)年、足利尊氏が鎌倉幕府に反すると、河村氏は新田義貞に従い、倒幕に加わりました。 翌一三三四(建武元)年、後醍醐天皇による建武の申請が始まりますが、足利尊氏らの北朝方と新田義貞らの南朝方の争いが激しくなる中、 一三五二(正平七)年、新田義貞、脇屋義治の軍勢が、河村氏の勧めにより河村城に籠城しますが、翌一三五三(正平八)年には、河村城から 退去したことが『太平記』に記されています。
      山北町教育委員会」。

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