2020/02/08 - 2020/02/11
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ヨーロッパに住んでいて今更、ロンドン観光。いつでも行けると思っていると結局行っていない典型的な例。この旅行記は2020年2月のもので、世界的に、コロナ・パンデミックが始まったころ。まだ、ヨーロッパは自由に旅行できていました。ロンドン滞在4日目は、ロンドン塔、テンプル教会、テート・ブリテンをまわります。
この旅行記では、第2部、ロンドン塔のホワイトタワー以外をメインにしています。
ロンドン塔
Tower of London
https://www.hrp.org.uk/tower-of-london/#gs.esc81e
https://www.hrp.org.uk/tower-of-london/#gs.ezl3nv
テンプル教会
Temple Church
テート・ブリテン
Tate Britain
タワー・ブリッジ
Tower Bridge
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
Execution Memorial
ホワイトタワーの外へ。
広場にこんなモニュメントがあり、何かと近づいてみると、昔の処刑場跡でした。 -
Execution Memorial
王妃アン・ブーリンは1536年にこのあたりで処刑されました。
1861年にヴィクトリア女王がロンドン塔を訪れてアン・ブーリンの物語に感銘を受け、記念版を置くように命じたことから、この場所に処刑された人々をしのぶ記念碑が置かれることになりました。このオブジェは、2007年にブライアン・キャトリングが製作しました。(説明板より)
この付近で10名の囚人が処刑されました。斬首刑を受けた7名の中には、キャサリン・ハワード(上)、アン・ブーリン、ジェイン・グレイなど、王妃や女王も混じっています。1743年には反逆兵3名が銃殺刑に処せされました。従来ロンドン塔内で処刑されるのは特別な囚人に限られていました。ほとんどの処刑はロンドン塔外のタワー・ヒルで、大群衆の嘲りや野次が飛び交う中で執行されました。(説明板より) -
Execution Memorial
アン・ブーリン(Anne Boleyn,1501年頃 - 1536年5月19日)
イングランド王ヘンリー8世の2番目の王妃(1533年結婚、1536年離婚)、エリザベス1世の生母である。父の代で名字の綴りを Bullen から Boleyn に変更したが、アン自身も Nan Bullen と呼ばれることがあった。 Nan はアンという名前の当時の愛称であり、日本語でもアン・ブリンと表記されることもある。
父は駐仏大使、のちウィルトシャー及びオーモンド伯爵となったトマス・ブーリン、母は第2代ノーフォーク公トマス・ハワードの娘エリザベス・ハワード。ヘンリー8世の3番目の王妃ジェーン・シーモアは又従妹、5番目の王妃キャサリン・ハワードは従妹に当たる。
王妃の侍女から国王の愛人へ
アンは幼少期にメヘレンのマルグリット・ドートリッシュの私設学校で教育を受けた後、フランス宮廷に戻った。1526年頃に帰国し、ヘンリー8世の最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンの侍女となった。オーモンド伯爵の相続争いを収めるため、もう一人の相続人ピアス・バトラーとの結婚の話もあったが、立ち消えになった。他に詩人のサー・トマス・ワイアットや後のノーサンバランド伯ヘンリー(ハル)・パーシーとのロマンスもあったといわれるが、ジョアンナ・デニー(Joanna Denny)のようにロマンスはいずれも根拠がないとする歴史家もいる。同時代のフランス側の一次史料によれば、アンは魅力に乏しい女性であり、国王のお気に入りという以外にこれといった特徴がなかったと記録されている(In the early 1530s, the Venetian ambassador Savorgnano wrote)。
やがてアンは、ヘンリー8世の愛人になるよう求められた。
ヘンリー8世とキャサリンとの間には王女メアリー(後のメアリー1世)しか子がなく(早世した男子がいたともされる)、ヘンリー8世は男子の王位継承者を切望していたものの、当初はアンを愛人にする程度で満足するはずだった。しかし、アンから強硬に王妃の座を要求され、さもなければ肉体関係は拒否すると宣言されたため、ローマ教皇クレメンス7世にキャサリンとの「離婚許可」を求めることになった。カトリック教会は離婚を認めないが、離婚ではなく「結婚そのものが無効であった」(婚姻の無効)という認可を与えることで事実上の離婚を可能にする方法があった(実際に中世の王族や貴族は、教皇の認可を得てこの方法を利用している)。
ヘンリー8世とキャサリンの場合、キャサリンが元々ヘンリーの兄アーサーの妻だったことが結婚無効の理由になりえたが、教皇ユリウス2世から教会法規によって特免を得ていたため、合法的な結婚と見なされていた。また、キャサリンの甥に当たる神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)も国際関係を考慮して反対しており、教皇庁は許可を出すことが難しかった。キャサリンは国民の人気が高かったために、国内からも反対の声が大きかった。
ヘンリー8世はこれに激怒して、教皇庁との断絶を決意した。こうしてイングランド国教会の原型が成立することになった。国王至上法によって、イングランド国内において国王こそ宗教的にも政治的にも最高指導者であることを宣言し、ヘンリーは1533年5月にアンを正式な王妃に迎えた。
これに反対したトマス・モアは処刑された。また、修道院解散によってカトリックの修道院の多くが解散させられ、反対した多くの修道士が処刑された。
1533年5月23日、キャサリン王妃との結婚の無効の宣言がなされた。6月1日、聖霊降臨祭の日に戴冠式が行われ、アンが正式な王妃と宣言される。
1533年9月、アンはヘンリー8世の第2王女となるエリザベスを出産した。王子誕生を望んでいたヘンリー8世は王女誕生に落胆したが、エリザベスには王位継承権が与えられた。アンは、王女の身分を剥奪され庶子に落とされたメアリーに対し、エリザベスの侍女となることを強要した。アンはまた贅沢を好み、宮殿の改装や家具・衣装・宝石などに浪費した。一方、ヘンリー8世はアンの侍女の一人ジェーン・シーモアへと心移りし、次第にアンへの愛情は薄れていった。
1536年1月、前王妃キャサリンが幽閉先のキムボルトン城で亡くなった知らせを聞くと、アンとヘンリー8世は黄色の衣装を着て祝宴を開き、ダンスを楽しんだ(黄色はイギリスでは喜びと祝いの意味を持つ)と神聖ローマ帝国及びスペインの駐英大使だったウスタシュ・シャピュイは本国に報告している。この行動を見た人々は不快に思い、2人がキャサリンを毒殺したと噂し合った。一方で黄色はスペインを表す色であり、2人は個人としてはキャサリンの訃報を悲しんでいたという記述も当時の文献にある。その後、アンは男児を流産した。奇しくもキャサリンの葬儀の日だった。男子を産まず、流産を繰り返すアンから王の寵愛が離れたことを見てとり、アンの敵たちは力を増した。
1536年5月1日、アンは結婚から2年後、国王暗殺の容疑、および不義密通を行ったとして、反逆罪に問われた。5人の男と姦通したとされたが、うち1人は実の兄弟ジョージ・ブーリンだったとされる。
同年5月19日、反逆、姦通、近親相姦及び魔術という罪で死刑判決を受け、ロンドン塔にて斬首刑に処せられた。この時、ヘンリー8世はイングランドの死刑執行人に処刑させず、フランスのリールからジャン・ロムバウドという死刑執行人を呼び寄せて執行させたと伝えられている。また、アンが断首され首だけになった後、明らかに何かを話そうとしていたという逸話がある。当時のイングランドは斧を使って斬首していたのだが、剣での斬首を懇願するほど、アンは斧での執行を嫌がったという。(Wikiより) -
セント・ピーター・アド・ヴィンキュラ王室礼拝堂
Chapel Royal of St Peter ad Vincula
手前にExecution Memorial
ジェーン・グレイ(Jane Grey、1537年10月12日? - 1554年2月12日)
16世紀中頃のイングランドの女王(在位:1553年7月10日[1] - 19日)。異名に九日間の女王(Nine-Day Queen)がある。
数奇な縁でイングランド史上初の女王として即位したが、在位わずか9日間でメアリー1世により廃位され、その7か月後に大逆罪で斬首刑に処された。そうした経緯から、イギリスでは古来彼女のことを「クイーン・ジェーン」(Queen Jane、ジェーン女王)とは呼ばずにレディー・ジェーン・グレイ(Lady Jane Grey、ジェーン・グレイ令嬢)と呼んできた。ジェーンを正統なイングランド君主とはみなさない史家や学者も少なくないが、今日のイギリス王室はジェーンをテューダー朝第4代の女王として公式に歴代君主の一人に数えている。
父は初代サフォーク公爵ヘンリー・グレイ、母は同公爵夫人フランセス・ブランドン。母方の祖母がヘンリー8世の妹でプロテスタントのメアリー・テューダーだったことがジェーンの王位継承権の根拠となった。
ジェーンの血統に着目したウォリック伯(のちのノーサンバランド公ジョン・ダドリー)は、政敵サマセット公エドワード・シーモア(エドワード6世の母方の伯父)に反逆の汚名を着せ処刑した後、自分の息子ギルフォード・ダドリーとジェーンを結婚させた。そうして、王位継承のライバルとなるヘンリー8世の長女メアリーがカトリックであることを利用し、熱烈なプロテスタントのエドワード6世を説き伏せ、病床の国王から自分の死後ジェーンを即位させることを指示する勅令を得た。ノーサンバランド公の最終目的は、ジェーンとギルフォードの息子(ノーサンバランド公の孫)を王位につけることにあったという。
エドワード6世が死去すると、ノーサンバランド公はジェーンの即位を宣言したものの、陰謀を察知したメアリーが逃亡し、身柄を拘束できなかった。そのためメアリー派の反攻を許すこととなり、1553年7月19日にサフォークでメアリーが即位を宣言、ジェーンと夫ギルフォードらが逮捕された。ついでギルフォードの兄弟であるジョン、アンブローズ、ロバート、ヘンリーらダドリー一族も逮捕された。
その後、ジェーンはロンドン塔幽閉を経て、1554年2月12日、夫ギルフォードとともに斬首された。王位に就いたメアリーは当初、ジェーンの処刑に躊躇したと言われるが、ジェーンを処刑しなければメアリーとアストゥリアス公フェリペ王子との婚約を解消するというスペインからの申し入れを受けて、処刑を決断したという。また、メアリーはプロテスタントの信者であったジェーンに対し、カトリックに改宗すれば命を助けるとの温情を示したが、ジェーンは毅然として改宗を拒んだとも伝えられる。なお、ジェーンが処刑された1554年2月は、ジェーンを王位に即けることを要求したワイアットの乱が発生した月でもあり、ジェーンの処刑はこの乱の影響もあったと考えられている。処刑後、遺体は夫ギルフォードとともにセント・ピーター・アド・ヴィンキュラ王室礼拝堂 (Chapel Royal of St. Peter ad Vincula) に葬られた。満16歳の生涯であった。(Wikiより) -
ホワイトタワー
キャサリン・ハワード
(Catherine / Katherine Howard, 1521年? - 1542年2月13日)
イングランド王ヘンリー8世の5番目の王妃(1540年結婚、1542年離婚)。父は第2代ノーフォーク公トマス・ハワードの息子エドムンド・ハワード(第3代ノーフォーク公トマス・ハワードの弟)、母はジョイス・カルペパー。ヘンリー8世の2番目の王妃アン・ブーリンの従妹、3番目の王妃ジェーン・シーモアのはとこに当たる。
生年ははっきりしないが、歴史学者ジョアンナ・デニーは伝記『Katherine Howard』で、祖父母の遺言状を元に1525年という説を唱えている。父エドムンドは戦場で名を上げたが、名門ハワード家の出といえど、20人を超える子供のうち遅い生まれであったため、名はあるが実はなく、常に金に困っていた。持参金目当てで結婚しては妻を亡くすということを繰り返し、妻の連れ子も自分の子として育てたため、どちらの子供かもわからないハワード姓の兄弟がキャサリンには多くいた。
時期は不明だが、ノーフォーク公爵未亡人で、父の義理の母に当たるアグネス・ティルニーに引き取られ、アグネスの屋敷(サセックスのチェスワース・ハウスとランベスのノーフォーク・ハウスの2ヶ所)で公爵夫人の教育を受ける他の少女達と暮らすようになる。アグネスの目が行き届かず、少女達は恋人を共同寝室に連れ込むようになり、その際にキャサリンも音楽教師のヘンリー・マノックスや秘書官のフランシス・デレハムと関係を持ったといわれる。キャサリンはまだ幼かった計算になる(10歳前後という計算さえ成り立つ)が、デニーによると、当時は10代前半で結婚することがよくあったため、キャサリンが性的に早熟だったわけではない。
1540年、ヘンリー8世は前王妃アン・オブ・クレーヴズと離婚してキャサリンと再婚した。キャサリンはアンの侍女の一人だった。ヘンリーは年の離れたキャサリンを「私の薔薇」「私の棘のない薔薇」と呼んで可愛がった。しかし、キャサリンは遠縁のトマス・カルペパーや以前に恋人であったフランシス・デレハムらと関係があったと国王の側近に訴えられ(カトリックのキャサリンは、家臣のうちプロテスタントの者に疎まれていた)、国王に姦通を疑われ、逮捕された。キャサリンとデレハムが婚約の上で関係を持っていたのであれば、国王との結婚は無効となりキャサリンは無罪とされるはずであった。だがキャサリンは婚約を否定し、デレハムに強姦されたと証言した。一方でデレハムは国王との結婚後はキャサリンと関係を持っていないと主張したが、キャサリンとカルペパーの関係を証言した。キャサリンからカルペパーに宛て愛を告白した手紙が証拠として発見され、従姉の元王妃アン・ブーリンの義妹で、キャサリンの侍女となっていたジェーン・ブーリンが手引きをしていたことも明らかになった。キャサリン本人は姦通を否定したが聞き入れられず、事実は曖昧なまま処刑された。同じく姦通で訴えられた従姉のアンとは違い、実際に有罪だったと当時も今も信じられている。処刑前には見物人に向かって演説をするのが当時の習慣だが、キャサリンは「トマス・カルペパーの妻として死にたかった」と言ったと伝えられる。
キャサリンが夫ヘンリー8世に直訴しようとしたハンプトン・コート宮殿の廊下は、今もキャサリンの幽霊が無実を訴えようと出没する怪奇スポット「ホーンテッド・ギャラリー」(幽霊の廊下)として、世界的に知られている。ミサを聞いているヘンリー8世のいる部屋まで数メートルのところで、警備兵に捕まえられ、牢に連れ戻されたという話である。しかし、歴史学者デイヴィッド・スターキーは著書の中で、直訴自体がなかったことを事実を並べて証明して見せた。(wikiより) -
ビーチャムタワー
Beauchamp Tower
監獄として長く使われたビーチャム・タワーの壁には、囚人たちが刻んだ数多くのサインが残されている。
ビーチャムタワーの囚人たち
この部屋はかつて牢獄でした。
1500年代、チューダー朝の王や女王は敵を投獄することで、権力を維持していたのです。
タワーの壁や床には、投獄された囚人たちによる名前やメッセージ、あるいは彫刻がびっしりと書き込まれ、今の残っています。こうした落書きは、彼らの拘束を示す唯一の記録となる場合があります。貴族、スパイ、神父、あるいは叛逆者。彼らは、宗教の対立が暴力と死にいともたやすく結び付く時代に生きた自らの証を残したのです。(説明板より) -
ビーチャムタワー
Beauchamp Tower
(Shield of earls of Warwick)
John Dudle
You that these beasts do well behold and see may deem with ease wherefore here made they be with borders eke(also) wherein 4 brothers names who list(want) to search the ground
14. John Dudley, Earl of Warwick(ウォリック伯ジョン・ダドリー)
(Imprisoned 1553-4, released)
Dudley was imprisoned with his family for making Lady Jane Grey queen. Probably carved by specialists, each flower represents a Dudley brother including gillyflowers for Guildford(ギルフォード), Jane's husband.
(説明板より) -
ビーチャムタワー
Beauchamp Tower
9 John Collins -
ビーチャムタワー
Beauchamp Tower
In Latin:
THe more suffering for Christ in this world, the more glory with Christ in the next Arundell June 22 1587
13 Philip Howard, Earl of Arundel
Imprisoned 1585-95, died at the Tower
The Catholic Earl spent ten years under constant threat of execution. His devout inscription inspired others, like fellow prisoner Anthony Tuchinor, who wrote his own religious message beneath.
(説明板より) -
ビーチャムタワー
Beauchamp Tower -
ビーチャムタワー
Beauchamp Tower
この面はびっしりと刻まれている。 -
ビーチャムタワー
Beauchamp Tower -
ビーチャムタワー
Beauchamp Tower
前の写真の説明。左から。
トーマス・ペヴァレル(Thomas Peverel)
Thomas Peverel was a medieval prelate who was successively bishop of Ossory, Llandaff, and Worcester.
Peverel was appointed the Bishop of Ossory by papal provision on 25 October 1395, and was translated to Llandaff on 12 July 1398. He was translated again to Worcester on 4 July 1407.
Peverel died in office on 1 or 2 March 1419 -
ビーチャムタワー
Beauchamp Tower -
クィーンズ・ハウス
Tower Green -
クィーンズ・ハウス
Tower Green
歩哨が入り口を守るクィーンズ・ハウスは1540年の建設以来、ロンドン塔の将官たちの住居として使われてきました。
将官たちを含めて、ロンドン塔には約150人の人々が住んでいます。ヨーマン・ウォーダーズ(ロンドン塔の衛兵)、牧師、医師とその家族には、別の家屋が割り当てられています。(説明板より) -
クィーンズ・ハウス
Tower Green
1605年に国会議事堂の爆破を企てたガイ・フォークスは陰謀発覚により逮捕され、クィーンズ・ハウスに住まったロンドン塔副官サー・ウィリアム・ウォードにここで取り調べを受けました。
ロンドン塔副官は国王または女王によって任命され、ロンドン塔の囚人たちを管理する役割を果たしていました。屋内には副官が囚人たちを尋問した部屋があります。 -
(写真)ホワイトタワー
ガイ・フォークス(Guy Fawkes、1570年4月13日 - 1606年1月31日)、別名グイド・フォークス(Guido Fawkes)は、1605年に発覚した火薬陰謀事件の実行責任者として知られる人物である。
イングランドのヨークで生まれ育ち、母親の再婚相手の影響から、カトリックを信奉するようになる。青年期にはヨーロッパ大陸に渡りカトリック側で八十年戦争に参加した。後にトマス・ウィンターと出会い、ロバート・ケイツビーが首謀した火薬陰謀事件に関わるようになる。1605年11月5日、当局による貴族院地下の捜索が行われ、貯蔵した火薬を見張っていたフォークスは逮捕された。偽名を名乗り証言を拒んだフォークスであったが、拷問にかけられ計画の全容と共謀者の名前を白状した。1606年1月31日、フォークスは絞首刑台から飛び降りて首の骨を折り死んだ。
フォークスは火薬陰謀事件の首謀者ではなかったが事件そのものと同義語となり、陰謀が発覚した日はイギリスの記念日(ガイ・フォークス・ナイト)となっている。また、英語で「男、奴」を意味する「ガイ(guy)」は、彼の名に由来する。
(Wikiより)
スラングっぽく普通に使う「ガイ」の語源を初めて知る。 -
ブラッディタワー
The Bloody Tower
次はどうやら、ブラッディタワーらしい。
名前からして血なまぐさい。名前の由来は。。。 -
ブラッディタワー
The Bloody Tower
まず、1階にあるウォルター・ローリー卿の書斎に足を踏み入れます
女王エリザベス1世の寵臣であり、探検家・作家としても名を馳せたウォルター・ローリー卿もまた、1603年から1616年まで、ここに幽閉されました。
2階に上がると、なぜこの塔に「ブラッディー(血まみれ)」という名がついたかがわかります。
当時12才だった国王エドワード5世とその弟リチャードが1483年、突如として姿を消した「塔のプリンス」のミステリーを解き明かしてみましょう。
(説明板より) -
ブラッディタワー
The Bloody Tower
1483年4月
King Edward IV is dead.His loyal brother, Richard, brings the dead king’s eldest son, 12-year-old Edward, to the Tower to prepare for the boy’s coronation.Prince Edward is joined at the Tower by his 9-year-old brother.
国王エドワード4世が死去した。忠実な弟リチャードが、王の長男で12歳のエドワードを塔に呼び寄せ、戴冠式の準備をさせる。エドワード王子は9歳の弟と一緒に塔に入る。
1483年6月
Richard declares the two princes illegitimate.
The boys are last seen ‘shooting and playing in the Tower garden.
リチャードは2人の王子の非嫡出子であることを宣言する。
少年たちが最後に目撃されたのは、塔の庭で銃を撃ったり遊んでいるところであった。
1483年7月
Richard is crowned as King Richard I instead of his nephew
The two boys are never seen alive again.
Rumours that they were murdered start immediately.
リチャードが甥の代わりにリチャード1世として戴冠する。二人の少年は二度と姿を現すことはなかった。すぐに殺されたという噂が立つ。
1674:1674年
Workers discover two skeletons by the White Tower.
King Charles II believes they are the remains of the boys and buries them In Westminster Abbey.
作業員がホワイトタワーのそばで2体の骸骨を発見する。
国王チャールズ2世はこれを少年らの遺骨と信じ、ウェストミンスター寺院に埋葬する。
1933年(Today:現在)
Medical experts examine the skeletons and find that they are the bones of two children.
There is no evidence that the princes were murdered.
There is currently no proof that the bones were the remains of the two boys.
医学専門家が骸骨を調査し、2人の子供の骨であることが判明する。王子たちが殺害されたという証拠はない。この骨が2人の少年のものであるという確証も今のところない。
We may never know what happened.
私たちは何が起こったか知ることができないかもしれない。
https://www.hrp.org.uk/tower-of-london/history-and-stories/the-princes-in-the-tower/#gs.ezh8pj -
ブラッディタワー
The Bloody Tower -
ブラッディタワー
The Bloody Tower -
ロンドン塔
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タイムスリップした?
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ロンドン塔
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ロンドン塔
期せず、遠足の子どもたちと同じタイミングで建物に入る。 -
叛逆者の門
Traitor’s Gate
川に面して建つトレイターズ・ゲートは、ロンドン塔内でも壮大かつ非常に恐れられた門です。ジェイン・グレイなどチューダー時代の名高い囚人たちは、この門をくぐってロンドン塔に入りました。門は1600年代の初めからトレイターズ・ゲート(反逆者の門)と呼ばれるようになりました。囚人はここから川を遡り、ウェストミンスターで裁きを受けました。(説明板より) -
Medieval Palace
中世の宮殿
ようこそ
ロンドン塔は、中世においては国王が居住する宮殿であると同時に、軍事要塞でもありました。今ご覧になっているのは、ヘンリー3世(1216-1272年)やエドワード1世(1272-1307年)が建設を命じ、使用した部屋です。
「ウォーターゲート上の王の私室」をご鑑賞ください。これは、1294年にエドワード1世が滞在した当時の部屋を再現したものです。そこから屋根つきの橋を渡り、ヘンリー3世のウェイクフィールドタワーとランソーンタワーへとお進みください。(説明板より) -
Medieval Palace
中世の宮殿 -
Medieval Palace
中世の宮殿
何か芝居が始まりました。 -
Medieval Palace
中世の宮殿
王様のベッド(再現) -
Medieval Palace
中世の宮殿 -
Medieval Palace
中世の宮殿 -
Medieval Palace
中世の宮殿 -
Medieval Palace
中世の宮殿 -
Medieval Palace
中世の宮殿 -
Medieval Palace
中世の宮殿 -
Medieval Palace
中世の宮殿 -
Medieval Palace
中世の宮殿 -
Medieval Palace
中世の宮殿 -
Medieval Palace
中世の宮殿 -
Medieval Palace
中世の宮殿 -
ホワイトタワー
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ホワイトタワー
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ロンドン塔からの眺め。テムズ川対岸。
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いくつの小さい展示品がある。いずれも11~13世紀のもの。
Chalice(杯) c1200 -
Portable Altarpiece, 13th Century
(携帯用の祭壇) -
Toy Knight c1300
騎士のおもちゃ -
Chesspiece 11th Century
(チェスの駒) -
Tablemen 13th Century
中世のイギリスで流行っていた”Tables”というボードゲームのコマとサイコロ。
”Tables”がどんなゲームだったか調べたけど、手がかりなし。 -
Saintonge Jug c1275-1350
フランス南西部Saintongeで作られた水差し -
Saintonge Jug c1275-1350
-
Andalusian Bowl c1250-1450
スペイン、マラガで作られたもの。 -
Courtly Life
Eating & drinking
People eating and drinking
From the Luttrell Psalter, c1340s
中世の宮廷の食事風景 -
Courtly Life
Recreation
A Moor and a Christian playing chess in a tent
From a book of games, chess, dice and boards, written by Edward I's brother-in-law Alphonso X of Castile in 1282.
ムーア人とキリスト教徒がテントでチェスをしている様子。 -
'Hew Draper of Brystow made thys spheere the 30 day of Maye anno 1561'
When Hew Draper of Bristol dated his sphere he had been at the Tower for just over fourteen months, accused of sorcery(魔術). In the same month, the Lieutenant reported that Draper was 'very sick'.
The sphere is surrounded by the signs of the zodiac. The grid on the left shows the planetary influence over every hour of every day of the week.
(説明板より) -
外にでて、壁の上を歩きます。
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外にでて、壁の上を歩きます。
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外にでて、壁の上を歩きます。
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ロンドン塔からの眺め
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ロンドン塔
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ロンドン塔
ホワイトタワー -
ロンドン塔
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ロンドン塔からの眺め(タワーブリッジ)
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ロンドン塔
出入口 -
タワーブリッジ
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