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弘法大師・空海は、全国津々浦々にその足跡を残しました。<br />そんな弘法大師・空海が開いたのが、この高野山です。<br />ただし、高野山という山はありません。<br />高野山というのは、地理上の名前ではありません。<br />弘法大師・空海が開いた真言密教の道場です。<br /><br />そしてこの高野山で弘法大師・空海は生涯を終えました。<br />ただ、入定したので、まだ生き続けていると言われています。<br />まさにこの地は聖地です。<br />一度は参拝したいと思っていました。<br />予定ではもっと高齢になってから参拝する予定でした。<br />ただ、コロナ禍で海外には踏ん切りつかなかった令和4年(2022年)の夏、思ったよりも早く訪れることができました。<br /><br /><br />【旅程】<br />8月18日(木)1日目<br />品川駅:7時33分発(新幹線ひかり633号)→名古屋駅:9時14分着<br />↓<br />名古屋駅バス乗場発:9時30分頃(観光バス)→伊勢神宮駐車場着:11時40分頃<br />↓<br />おはらい町~おかげ横丁<br />すし久(ランチ)<br />赤福(喫茶)<br />↓<br />伊勢神宮(皇大神宮(内宮))13時15分頃~15時頃<br />↓<br />伊勢神宮発:15時10分頃~勝浦観光桟橋乗り場:17時40分頃<br />勝浦観光桟橋発:17時50分頃(船)→ホテル浦島着:18時頃<br /><br />8月19日(金)2日目<br />ホテル浦島発:8時頃(船)→勝浦観光桟橋着:8時10分頃<br />↓<br />勝浦観光桟橋発:8時15分頃→大門坂入口8時30分頃着<br />↓<br />大門坂入口発:8時50分頃(徒歩)~9時40分頃<br />↓<br />(途中車で移動)<br />↓<br />熊野那智大社→那智山青岸渡寺:9時50分頃~10時20分頃<br />↓<br />休憩(喫茶サービス)10時20分から10時30分頃<br />↓<br />那智の滝:10時40分頃~11時20分頃<br />↓<br />那須速玉大社:11時40分頃→12時10分頃<br />↓<br />ランチ(瀞峡めぐりの里)12時30分頃~13時10分頃<br />↓<br />吊り橋(山彦橋):13時30分頃→14時頃<br />↓<br />熊野本宮大社~大斎原:14時45分頃~15時30分頃<br />↓<br />川湯みどりや:16時頃<br /><br />8月20日(土)3日目<br />川湯みどりや:8時頃発→高野山:10時40分頃<br />↓<br />奥の院:10時40分頃~12時頃<br />↓<br />ランチ(高野物産 一の橋観光センター):12時10分頃~12時50分頃<br />↓<br />壇上伽藍:12時55分頃~13時40分頃<br />↓<br />高野山:13時45分頃(車)~名古屋駅:18時20分頃(交通事故渋滞のため)<br />↓<br />名古屋駅:19時31分発(新幹線ひかり662号)→品川駅:21時12分着

令和4年8月 【高野山編】伊勢神宮~熊野古道~高野山を巡る旅

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2022/08/18 - 2022/08/20

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noel

noelさん

この旅行記のスケジュール

2022/08/20

  • 川湯みどりや8時頃→道の駅「龍神」ウッディプラザ木族館9時10分頃

  • 道の駅9時30分頃→高野山奥の院10時40分頃

  • 奥の院12時頃→観光レストラン・高野物産 一の橋観光センター12時05分

  • 一の橋観光センター12時50分頃→壇上伽藍12時55分頃

  • 壇上伽藍14時頃→名阪関ドライブイン15時30分頃

  • 名阪関ドライブイン16時頃→名古屋駅18時20分頃(渋滞のため)

  • 名古屋駅新幹線ひかり19時33分発→品川駅21時05分

この旅行記スケジュールを元に

弘法大師・空海は、全国津々浦々にその足跡を残しました。
そんな弘法大師・空海が開いたのが、この高野山です。
ただし、高野山という山はありません。
高野山というのは、地理上の名前ではありません。
弘法大師・空海が開いた真言密教の道場です。

そしてこの高野山で弘法大師・空海は生涯を終えました。
ただ、入定したので、まだ生き続けていると言われています。
まさにこの地は聖地です。
一度は参拝したいと思っていました。
予定ではもっと高齢になってから参拝する予定でした。
ただ、コロナ禍で海外には踏ん切りつかなかった令和4年(2022年)の夏、思ったよりも早く訪れることができました。


【旅程】
8月18日(木)1日目
品川駅:7時33分発(新幹線ひかり633号)→名古屋駅:9時14分着

名古屋駅バス乗場発:9時30分頃(観光バス)→伊勢神宮駐車場着:11時40分頃

おはらい町~おかげ横丁
すし久(ランチ)
赤福(喫茶)

伊勢神宮(皇大神宮(内宮))13時15分頃~15時頃

伊勢神宮発:15時10分頃~勝浦観光桟橋乗り場:17時40分頃
勝浦観光桟橋発:17時50分頃(船)→ホテル浦島着:18時頃

8月19日(金)2日目
ホテル浦島発:8時頃(船)→勝浦観光桟橋着:8時10分頃

勝浦観光桟橋発:8時15分頃→大門坂入口8時30分頃着

大門坂入口発:8時50分頃(徒歩)~9時40分頃

(途中車で移動)

熊野那智大社→那智山青岸渡寺:9時50分頃~10時20分頃

休憩(喫茶サービス)10時20分から10時30分頃

那智の滝:10時40分頃~11時20分頃

那須速玉大社:11時40分頃→12時10分頃

ランチ(瀞峡めぐりの里)12時30分頃~13時10分頃

吊り橋(山彦橋):13時30分頃→14時頃

熊野本宮大社~大斎原:14時45分頃~15時30分頃

川湯みどりや:16時頃

8月20日(土)3日目
川湯みどりや:8時頃発→高野山:10時40分頃

奥の院:10時40分頃~12時頃

ランチ(高野物産 一の橋観光センター):12時10分頃~12時50分頃

壇上伽藍:12時55分頃~13時40分頃

高野山:13時45分頃(車)~名古屋駅:18時20分頃(交通事故渋滞のため)

名古屋駅:19時31分発(新幹線ひかり662号)→品川駅:21時12分着

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
4.0
グルメ
4.0
ショッピング
4.5
同行者
カップル・夫婦
交通手段
観光バス 新幹線 徒歩
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
クラブツーリズム

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  • 8月20日の朝食です。(ホテル川湯温泉みどりや)

    8月20日の朝食です。(ホテル川湯温泉みどりや)

  • ホテルの部屋から外を眺めると、木が一部だけ揺れてました。<br />まるで誰かが木を揺らしているかのよう。<br />よく見ると、お猿さんでした。<br />栗の木を揺らしていたのです。栗を食べるつもりだったのでしょうか。<br />でも、残念ながら、栗は道路に落ちてしまいました。

    ホテルの部屋から外を眺めると、木が一部だけ揺れてました。
    まるで誰かが木を揺らしているかのよう。
    よく見ると、お猿さんでした。
    栗の木を揺らしていたのです。栗を食べるつもりだったのでしょうか。
    でも、残念ながら、栗は道路に落ちてしまいました。

  • それがこの栗です。<br />夫は自分のために落としてくれたと都合のよいことを言って、大事に持って帰りました。<br /><br />ところで、「ホテル川湯みどりや」さんは、帰る際に、ホテル前の交差点付近に皆さんが勢ぞろいして、お見送りをしてくださいました。

    それがこの栗です。
    夫は自分のために落としてくれたと都合のよいことを言って、大事に持って帰りました。

    ところで、「ホテル川湯みどりや」さんは、帰る際に、ホテル前の交差点付近に皆さんが勢ぞろいして、お見送りをしてくださいました。

  • この日は、いよいよ高野山に向かいます。<br />途中、道の駅に寄りました。<br />道の駅「龍神」ウッディプラザ 木族館<br />名前のとおり、木の製品が多かったです。<br />その中にお香もありました。<br />蓮のお香ですが、な・な・な・な・なんと、たったの228円でした。<br />吃驚。<br />箱には入っていませんでしたが。それでもとってもお安かったので、もっと買っておけばよかった!!!

    この日は、いよいよ高野山に向かいます。
    途中、道の駅に寄りました。
    道の駅「龍神」ウッディプラザ 木族館
    名前のとおり、木の製品が多かったです。
    その中にお香もありました。
    蓮のお香ですが、な・な・な・な・なんと、たったの228円でした。
    吃驚。
    箱には入っていませんでしたが。それでもとってもお安かったので、もっと買っておけばよかった!!!

  • 龍が描かれています。<br />371号線<br />ここは現在は田辺市になっていますが、かつては龍神村でした。

    龍が描かれています。
    371号線
    ここは現在は田辺市になっていますが、かつては龍神村でした。

  • 吊り橋がありました。<br />

    吊り橋がありました。

  • 日高川です。<br />

    日高川です。

  • だいぶ登ってきました。<br />標高1000mの場所を通過しました。<br />バスで登ってきたので、かなり高いことは認識できました。<br />高野山は、周囲がこのように高い山に囲まれている地形から、内の八葉、下の八葉の蓮華の花びらのような峰々に囲まれた、この世の浄土と古くから信仰されてきました。

    だいぶ登ってきました。
    標高1000mの場所を通過しました。
    バスで登ってきたので、かなり高いことは認識できました。
    高野山は、周囲がこのように高い山に囲まれている地形から、内の八葉、下の八葉の蓮華の花びらのような峰々に囲まれた、この世の浄土と古くから信仰されてきました。

  • ついに到着しました。<br />海抜826mにあります。<br />高野山は、空海が開いた真言密教の地です。<br />山上盆地で、東西に6km、南北に2km弱です。<br /><br />バスで確かに登ってはきたものの、実際にここに到着すると、高さをあまり実感できません。それは下界が見えないところにあるようです。<br />また、お寺はたくさんありますが、町のようになっているのも不思議な感じです。<br />聖域という感じがあまりしません。<br />本来は世俗の世とは隔絶した雰囲気であると、なんとなく期待していたからかもしれません。<br />ただ、インド以来の密教は、俗の世の中に真実の聖を目指すのだそうです。俗を拒まず、徐々に俗を聖化するという考えが密教の中にあるようです。<br /><br />平安時代の山岳仏教の二大聖地、高野山と比叡山があり、よく比べられます。<br />これについては、後ほど・・・・。

    ついに到着しました。
    海抜826mにあります。
    高野山は、空海が開いた真言密教の地です。
    山上盆地で、東西に6km、南北に2km弱です。

    バスで確かに登ってはきたものの、実際にここに到着すると、高さをあまり実感できません。それは下界が見えないところにあるようです。
    また、お寺はたくさんありますが、町のようになっているのも不思議な感じです。
    聖域という感じがあまりしません。
    本来は世俗の世とは隔絶した雰囲気であると、なんとなく期待していたからかもしれません。
    ただ、インド以来の密教は、俗の世の中に真実の聖を目指すのだそうです。俗を拒まず、徐々に俗を聖化するという考えが密教の中にあるようです。

    平安時代の山岳仏教の二大聖地、高野山と比叡山があり、よく比べられます。
    これについては、後ほど・・・・。

  • 手水舎で身を清めます。<br /><br />平家物語の高野の巻の一節より。<br />高野山は帝城を避て二百里、京里(郷里)をはなれて無人声、青嵐梢をならして、夕日の影しづかなり。八葉の嶺、八つの谷、 まことに心もすみぬべし。花の色は林霧の底にほころび、鈴の音は尾上の雲にひびけり。瓦に松おひ、墻に苔むして、星霜久しく覚えたり。・・・・・・・・・・とあります。

    手水舎で身を清めます。

    平家物語の高野の巻の一節より。
    高野山は帝城を避て二百里、京里(郷里)をはなれて無人声、青嵐梢をならして、夕日の影しづかなり。八葉の嶺、八つの谷、 まことに心もすみぬべし。花の色は林霧の底にほころび、鈴の音は尾上の雲にひびけり。瓦に松おひ、墻に苔むして、星霜久しく覚えたり。・・・・・・・・・・とあります。

  • 案内図です。<br />ここは中の橋口です。<br />先ほど八葉の蓮華について記載しましたが、真言密教の教理の精髄を絵画化した両部の曼荼羅のうち、胎蔵曼荼羅の中央部にある中台八葉院の名に由来します。<br />その八の葉には、中央の大日如来を囲み、胎蔵の四如来と四菩薩が配されています。<br /><br />※四如来:宝幢、開敷華王、無量寿、天鼓雷音<br />※四菩薩:普賢、文殊、観音、弥勒<br /><br />内の八葉は高野山の伽藍周辺の比較的低い山々からなります。<br />伝法院山、持明院山、中門前山、薬師院山、御杜山、神応岳、獅子ヶ岳、勝蓮華院山とされるようです。<br />また、外の八葉は西の弁天獄、東の弘法大師の廟所の北方に位置する摩尼、楊柳、転軸の三山などが代表格で、今来峰、宝珠山、鉢伏山、姑射山があります。<br />これらの海抜1000m近くの山々が聖地をすっぽり取り囲んでいます。

    案内図です。
    ここは中の橋口です。
    先ほど八葉の蓮華について記載しましたが、真言密教の教理の精髄を絵画化した両部の曼荼羅のうち、胎蔵曼荼羅の中央部にある中台八葉院の名に由来します。
    その八の葉には、中央の大日如来を囲み、胎蔵の四如来と四菩薩が配されています。

    ※四如来:宝幢、開敷華王、無量寿、天鼓雷音
    ※四菩薩:普賢、文殊、観音、弥勒

    内の八葉は高野山の伽藍周辺の比較的低い山々からなります。
    伝法院山、持明院山、中門前山、薬師院山、御杜山、神応岳、獅子ヶ岳、勝蓮華院山とされるようです。
    また、外の八葉は西の弁天獄、東の弘法大師の廟所の北方に位置する摩尼、楊柳、転軸の三山などが代表格で、今来峰、宝珠山、鉢伏山、姑射山があります。
    これらの海抜1000m近くの山々が聖地をすっぽり取り囲んでいます。

  • 中の橋からの参道です。<br />高野杉に囲まれた美しい景色です。<br />この先は企業などの供養塔がたくさんあります。<br /><br />高野山は日本の三代霊山の1つです。<br />恐山、比叡山そして高野山です。

    中の橋からの参道です。
    高野杉に囲まれた美しい景色です。
    この先は企業などの供養塔がたくさんあります。

    高野山は日本の三代霊山の1つです。
    恐山、比叡山そして高野山です。

  • えっ?<br />なぜここにロケットが・・・・。<br />実は新明和工業の慰霊碑のようです。<br />アポロ11号を模して昭和44年11月に建立されました。

    えっ?
    なぜここにロケットが・・・・。
    実は新明和工業の慰霊碑のようです。
    アポロ11号を模して昭和44年11月に建立されました。

  • 「しろあり やすらかにねむれ」と刻まれています。<br />社団法人のしろあり対策協議会の慰霊碑です。<br />しろありの供養だけでなく、防除に携わった方々の供養でもあるようです。

    「しろあり やすらかにねむれ」と刻まれています。
    社団法人のしろあり対策協議会の慰霊碑です。
    しろありの供養だけでなく、防除に携わった方々の供養でもあるようです。

  • 福助<br /><br />新入社員の研修を、高野山でされてるようです。

    福助

    新入社員の研修を、高野山でされてるようです。

  • アデランス

    アデランス

  • 救世観音

    救世観音

  • TOYO TIRE(東洋タイヤ)

    TOYO TIRE(東洋タイヤ)

  • 親鸞聖人御暮所<br /><br />墓所とは言いますが、供養塔だということです。<br />他にもたくさんの供養塔があります。

    親鸞聖人御暮所

    墓所とは言いますが、供養塔だということです。
    他にもたくさんの供養塔があります。

  • 見真(けんしん)大師墓所<br />これは、親鸞のことを亡くなった後に、尊んで呼んだ諡号のことです。<br /><br />ちなみに大師様は、実はたくさんいます。<br />下記のとおりです。<br />ただ、弘法大師「空海」をさすことが多いようです。<br /><br />【天台宗】<br />傳敎大師・最澄<br />慈覚大師・円仁<br />慈慧大師・良源<br />智証大師・円珍<br />慈摂大師・真盛<br />慈眼大師・天海<br /><br />【真言宗】<br />弘法大師・空海<br />道興大師・実慧<br />法光大師・真雅<br />本覚大師・益信<br />理源大師・聖宝<br />興教大師・覚鑁<br />月輪大師・俊芿<br /><br />【浄土宗】<br />円光大師・法然房源空<br /><br />【浄土真宗】<br />見真大師・親鸞<br />慧燈大師・蓮如<br /><br />【臨済宗】<br />無相大師・関山慧玄<br />微妙大師・授翁宗弼<br />円明大師・無文元選<br /><br />【曹洞宗】<br />承陽大師・道元<br />常済大師・瑩山<br /><br />【日蓮宗】<br />立正大師・日蓮<br /><br />【融通念仏宗】<br />聖応大師・良忍<br /><br />【時宗】<br />証誠大師・一遍<br /><br />【黄檗宗】<br />真空大師・隠元<br />

    見真(けんしん)大師墓所
    これは、親鸞のことを亡くなった後に、尊んで呼んだ諡号のことです。

    ちなみに大師様は、実はたくさんいます。
    下記のとおりです。
    ただ、弘法大師「空海」をさすことが多いようです。

    【天台宗】
    傳敎大師・最澄
    慈覚大師・円仁
    慈慧大師・良源
    智証大師・円珍
    慈摂大師・真盛
    慈眼大師・天海

    【真言宗】
    弘法大師・空海
    道興大師・実慧
    法光大師・真雅
    本覚大師・益信
    理源大師・聖宝
    興教大師・覚鑁
    月輪大師・俊芿

    【浄土宗】
    円光大師・法然房源空

    【浄土真宗】
    見真大師・親鸞
    慧燈大師・蓮如

    【臨済宗】
    無相大師・関山慧玄
    微妙大師・授翁宗弼
    円明大師・無文元選

    【曹洞宗】
    承陽大師・道元
    常済大師・瑩山

    【日蓮宗】
    立正大師・日蓮

    【融通念仏宗】
    聖応大師・良忍

    【時宗】
    証誠大師・一遍

    【黄檗宗】
    真空大師・隠元

  • 姜家の墓所<br />

    姜家の墓所

  • UCC上島珈琲<br />

    UCC上島珈琲

  • 東日本大震災物故者慰霊碑

    東日本大震災物故者慰霊碑

  • ←左方向は、弘法大師御廟<br />→右方向は、英霊殿です。<br />

    ←左方向は、弘法大師御廟
    →右方向は、英霊殿です。

  • 花菱アチャコ句碑<br />「笑われて 浮世をおくる 顔にで来」

    花菱アチャコ句碑
    「笑われて 浮世をおくる 顔にで来」

  • 全日本写真業界<br /><br />本当に様々な供養塔があります。<br />

    全日本写真業界

    本当に様々な供養塔があります。

  • まっすぐ伸びた高い杉の木<br />樹齢200-600年位とのことです。

    まっすぐ伸びた高い杉の木
    樹齢200-600年位とのことです。

  • 大杉の総数は1300本を超えています。

    大杉の総数は1300本を超えています。

  • なんだか可愛らしいです。<br />うっすらと薄化粧もしています。<br />この地蔵様にお化粧をすると、美容関係の願いが叶うらしいです。<br /><br />高野山には、宗派を問わず50万基のお墓があります。<br />キリスト教のお墓もあります。<br />日本一お墓が多いと言われています。

    なんだか可愛らしいです。
    うっすらと薄化粧もしています。
    この地蔵様にお化粧をすると、美容関係の願いが叶うらしいです。

    高野山には、宗派を問わず50万基のお墓があります。
    キリスト教のお墓もあります。
    日本一お墓が多いと言われています。

  • 芭蕉句<br />「ばせを翁 父母のしきりにこひし雉子の声」<br />

    芭蕉句
    「ばせを翁 父母のしきりにこひし雉子の声」

  • 加賀前田家二代利長墓所<br />本当の墓所はここではなく富山県高岡市「瑞龍寺」などにあるようです。<br />ここにあるのは供養塔です。<br />この五輪塔は「3番石」「3番碑」と呼ばれ、この奥の院で3番目に大きい五輪塔だそうです。

    加賀前田家二代利長墓所
    本当の墓所はここではなく富山県高岡市「瑞龍寺」などにあるようです。
    ここにあるのは供養塔です。
    この五輪塔は「3番石」「3番碑」と呼ばれ、この奥の院で3番目に大きい五輪塔だそうです。

  • 加賀前田利長夫人(織田信長の娘(5女)、永姫)<br />利長の墓所の向かい側にあります。<br />こちらも金沢市野田山の「玉泉寺」に墓所があります。<br />この供養塔ですが、わざと参道を挟んだ向かい側に建立したもようです。<br /><br />ちなみにだいたいが供養塔となっていますが、納骨しているのは別の墓所ですので、こちらには爪、髪の毛、歯などの遺物が納められています。

    加賀前田利長夫人(織田信長の娘(5女)、永姫)
    利長の墓所の向かい側にあります。
    こちらも金沢市野田山の「玉泉寺」に墓所があります。
    この供養塔ですが、わざと参道を挟んだ向かい側に建立したもようです。

    ちなみにだいたいが供養塔となっていますが、納骨しているのは別の墓所ですので、こちらには爪、髪の毛、歯などの遺物が納められています。

  • 法然上人圓光大師墓所の供養塔<br />浄土宗の開祖、法然上人です。<br />圓光大師とは、法然の死後につけられた諡号です。<br />先ほどは親鸞聖人の暮所の供養塔がありましたが、本当に高野山には宗教に関係なくあります。<br /><br />

    法然上人圓光大師墓所の供養塔
    浄土宗の開祖、法然上人です。
    圓光大師とは、法然の死後につけられた諡号です。
    先ほどは親鸞聖人の暮所の供養塔がありましたが、本当に高野山には宗教に関係なくあります。

  • 越前、結城秀康と母の霊屋(国の重要文化財)石廟(石の家)<br />自分の領地であった福井県産の石材(笏谷石)を用いて、彫刻を施した大規模な石造の霊屋です。<br />中には総金箔の石塔が入っているのだそうです。今は色も褪せてしまってわかりませんが、当時は極彩色だったようです。<br /><br />左側は母のお万の方です。<br />

    越前、結城秀康と母の霊屋(国の重要文化財)石廟(石の家)
    自分の領地であった福井県産の石材(笏谷石)を用いて、彫刻を施した大規模な石造の霊屋です。
    中には総金箔の石塔が入っているのだそうです。今は色も褪せてしまってわかりませんが、当時は極彩色だったようです。

    左側は母のお万の方です。

  • この右側が結城秀康の霊屋です。<br />徳川家康の次男 徳川秀康(松平秀康)のことです。

    この右側が結城秀康の霊屋です。
    徳川家康の次男 徳川秀康(松平秀康)のことです。

  • こちらの左側は母であるお万の方の霊屋です。<br />

    こちらの左側は母であるお万の方の霊屋です。

  • 肥前、島原 松平家墓所

    肥前、島原 松平家墓所

  • 其角句碑<br />松尾芭蕉の弟子の「蕉門十哲」うちの一人の宝井其角の句碑です。<br />其角は江戸時代中期の俳人で、松尾芭蕉の高弟でした。<br />「卵塔の 鳥居やけにも 神無月」とあるようです。<br />

    其角句碑
    松尾芭蕉の弟子の「蕉門十哲」うちの一人の宝井其角の句碑です。
    其角は江戸時代中期の俳人で、松尾芭蕉の高弟でした。
    「卵塔の 鳥居やけにも 神無月」とあるようです。

  • 筑前 黒田家墓所<br />黒田官兵衛の息子の長政です。

    筑前 黒田家墓所
    黒田官兵衛の息子の長政です。

  • 浅野内匠頭墓所<br />赤穂四十七士の碑です。<br />墓所は泉岳寺にありますが、何しろ先程から何度も書いているように、こちらは供養塔です。

    浅野内匠頭墓所
    赤穂四十七士の碑です。
    墓所は泉岳寺にありますが、何しろ先程から何度も書いているように、こちらは供養塔です。

  • 頌徳殿(お茶処)

    頌徳殿(お茶処)

  • 嘗試地蔵が御供所のすぐ隣にあります。<br />生身供で弘法大師に食事を届ける儀式が行われます。<br />毒味は僧侶がするのではなく、地蔵様がしてくださいます。

    嘗試地蔵が御供所のすぐ隣にあります。
    生身供で弘法大師に食事を届ける儀式が行われます。
    毒味は僧侶がするのではなく、地蔵様がしてくださいます。

  • 御手水舎<br />

    御手水舎

  • 奥の院御供所<br /><br />ツアーは時間が限られています。<br />御朱印が欲しい方は、ガイドさんに預けて、御廟に参拝している間に書いていただきました。なんと効率の良いこと。

    奥の院御供所

    ツアーは時間が限られています。
    御朱印が欲しい方は、ガイドさんに預けて、御廟に参拝している間に書いていただきました。なんと効率の良いこと。

  • たくさんのおみくじがあります。

    たくさんのおみくじがあります。

  • 護摩堂

    護摩堂

  • あしもとご案内がありました。<br />燈籠堂の裏側から回りますが、バリアフリー経路もあります。

    あしもとご案内がありました。
    燈籠堂の裏側から回りますが、バリアフリー経路もあります。

  • 御廟橋<br />この先は、真の霊域です。<br />弘法大師御廟は、この先にあります。<br />ここからは、写真撮影は勿論禁止です。<br />まずは、脱帽、服装も正し、一礼します。<br />この先のお堂の裏側に、御廟があります。<br /><br />この先の建物は燈籠堂です。<br />燈籠堂には2万以上の灯篭が奉納されてあります。<br />このお堂の地下には小さな弘法大師像が5万体もあるようです。<br />奉納された物です。

    御廟橋
    この先は、真の霊域です。
    弘法大師御廟は、この先にあります。
    ここからは、写真撮影は勿論禁止です。
    まずは、脱帽、服装も正し、一礼します。
    この先のお堂の裏側に、御廟があります。

    この先の建物は燈籠堂です。
    燈籠堂には2万以上の灯篭が奉納されてあります。
    このお堂の地下には小さな弘法大師像が5万体もあるようです。
    奉納された物です。

  • 「有りがたや 高野の山の岩蔭に 大師はいまだ在しますなる」<br />藤原道長の歌です。<br /><br />この歌によって弘法大師空海は、奥の院に生き続けていて、世の人々の平和と幸福を祈ってくださっているという信仰が、世に広まりました。<br /><br />藤原道長は治安3年(1023年)10月17日、次の経路で高野山に向かいました。<br />平安時代の中期のことでした。<br /><br />京都を出発→東大寺→山田寺→竜門寺→政所→高野山には10月24日に到着しました。<br />そして復路は→政所→法隆寺→道明寺→四天王寺→国府→江口→山崎→京都<br /><br />この藤原道長の参詣によって金剛峯寺の復興が進みました。<br />そしてこれに続いて、皇族や貴族たちが参詣するようになりました。<br />藤原頼通 、大御室性信、白河上皇、鳥羽上皇 、覚法法親王、藤原頼長 、後白河上皇 、後鳥羽上皇、後嵯峨上皇、後醍醐天皇・・・・・等々です。<br />ちなみに昭和52年、昭和天皇も参詣されました。<br /><br />ただ、元々空海が入定した後、それぞれの寺院は独立するようになりました。教団としてはまとまりに欠いてしまいました。<br />平安時代の中期、本寺と末寺が争い、平安京の教王護国寺と高野山の金剛峯寺の間でも、この本末争いが起こってしまいました。<br />そして伽藍は完成したものの、空海ゆかりの東寺や高雄山寺(神護寺)との抗争に巻き込まれて衰退の一途を辿り、延喜19年(919年)には東寺の末寺となってしまったのです。<br />そんな折、正歴5年(994年)高野山のお堂に雷が落ちてしまい、御影堂を除いて伽藍が焼け落ちてしまいました。なんとも悪いことは重なるものです。このような理由から金剛峯寺は衰退の一途を辿ってしまいました。<br /><br />そこへ風穴を開けたのが、先ほどの藤原道長の参詣だったのです。<br />道長は南都興福寺系列の聖に参詣を促されました。金峯山と同様に往生し、弥勒下生に会うための弥勒浄土観が強かったようです。

    「有りがたや 高野の山の岩蔭に 大師はいまだ在しますなる」
    藤原道長の歌です。

    この歌によって弘法大師空海は、奥の院に生き続けていて、世の人々の平和と幸福を祈ってくださっているという信仰が、世に広まりました。

    藤原道長は治安3年(1023年)10月17日、次の経路で高野山に向かいました。
    平安時代の中期のことでした。

    京都を出発→東大寺→山田寺→竜門寺→政所→高野山には10月24日に到着しました。
    そして復路は→政所→法隆寺→道明寺→四天王寺→国府→江口→山崎→京都

    この藤原道長の参詣によって金剛峯寺の復興が進みました。
    そしてこれに続いて、皇族や貴族たちが参詣するようになりました。
    藤原頼通 、大御室性信、白河上皇、鳥羽上皇 、覚法法親王、藤原頼長 、後白河上皇 、後鳥羽上皇、後嵯峨上皇、後醍醐天皇・・・・・等々です。
    ちなみに昭和52年、昭和天皇も参詣されました。

    ただ、元々空海が入定した後、それぞれの寺院は独立するようになりました。教団としてはまとまりに欠いてしまいました。
    平安時代の中期、本寺と末寺が争い、平安京の教王護国寺と高野山の金剛峯寺の間でも、この本末争いが起こってしまいました。
    そして伽藍は完成したものの、空海ゆかりの東寺や高雄山寺(神護寺)との抗争に巻き込まれて衰退の一途を辿り、延喜19年(919年)には東寺の末寺となってしまったのです。
    そんな折、正歴5年(994年)高野山のお堂に雷が落ちてしまい、御影堂を除いて伽藍が焼け落ちてしまいました。なんとも悪いことは重なるものです。このような理由から金剛峯寺は衰退の一途を辿ってしまいました。

    そこへ風穴を開けたのが、先ほどの藤原道長の参詣だったのです。
    道長は南都興福寺系列の聖に参詣を促されました。金峯山と同様に往生し、弥勒下生に会うための弥勒浄土観が強かったようです。

  • 看板にも注意書きが書いてあります。<br />

    看板にも注意書きが書いてあります。

  • 橋を渡る時には、1枚1枚渡ります。<br />全部で36枚あります。この橋板の数に橋全体を1つとし、全部で37枚と数えます。<br />金剛界曼茶羅の37尊を表しています。<br />

    橋を渡る時には、1枚1枚渡ります。
    全部で36枚あります。この橋板の数に橋全体を1つとし、全部で37枚と数えます。
    金剛界曼茶羅の37尊を表しています。

  • この川は玉川です。<br />水行場があるようです。<br />しかも寒い中行われます。

    この川は玉川です。
    水行場があるようです。
    しかも寒い中行われます。

  • 先ほども書きましたが、ここから先は撮影できません。<br />ここが、写真の撮れる中では1番聖域に近い場所です。<br /><br />空海は承和2年(835年)3月21日寅の刻(現在の午前4時の前後2時間頃)を入定の時に決めていました。自分の死期を察したのでしょう。<br />同年の1月30日に高野山金剛峰寺は定額寺に列せられました。<br />これは官寺に準じて特権を与えられ、官が所有する稲などを支給される私寺のことです。これで経済的に保護されることになり安心したのかもしれません。<br /><br />そして入定の1週間前から御住房中院の一室を浄め、一切の穀物を断ちました。そして水しか飲まなくなりました。<br />空海は道教についても学んでいますので、五穀を断つという不老長寿の養生術を知っていました。ただ、不老については信じてはいません。綺麗に自然に死にたいと思ったようです。徐々になだらかに・・。死とは霊魂が肉体から離れて戻ってこないと信じていたからです。<br />身体を香水で浄め、結跏趺坐し、(座禅をするときの座り方。あぐらとは違い、足の裏を見せる座り方)、手には大日如来の定印を結び弥勒菩薩の三昧に入りました。<br />そして入定から50日目に、弟子たちは空海が定めた奥の院の霊室に、その後定身を納めました。<br />享年62歳でした。

    先ほども書きましたが、ここから先は撮影できません。
    ここが、写真の撮れる中では1番聖域に近い場所です。

    空海は承和2年(835年)3月21日寅の刻(現在の午前4時の前後2時間頃)を入定の時に決めていました。自分の死期を察したのでしょう。
    同年の1月30日に高野山金剛峰寺は定額寺に列せられました。
    これは官寺に準じて特権を与えられ、官が所有する稲などを支給される私寺のことです。これで経済的に保護されることになり安心したのかもしれません。

    そして入定の1週間前から御住房中院の一室を浄め、一切の穀物を断ちました。そして水しか飲まなくなりました。
    空海は道教についても学んでいますので、五穀を断つという不老長寿の養生術を知っていました。ただ、不老については信じてはいません。綺麗に自然に死にたいと思ったようです。徐々になだらかに・・。死とは霊魂が肉体から離れて戻ってこないと信じていたからです。
    身体を香水で浄め、結跏趺坐し、(座禅をするときの座り方。あぐらとは違い、足の裏を見せる座り方)、手には大日如来の定印を結び弥勒菩薩の三昧に入りました。
    そして入定から50日目に、弟子たちは空海が定めた奥の院の霊室に、その後定身を納めました。
    享年62歳でした。

  • 水向け地蔵<br />地蔵様に水をかけてから、御廟橋を渡ります。<br />こちらは、参拝後に寄りました。<br /><br />

    水向け地蔵
    地蔵様に水をかけてから、御廟橋を渡ります。
    こちらは、参拝後に寄りました。

  • ここの地蔵様は座ってらっしゃいます。<br />空海(弘法大師)の像は、今まで全国各地で見てきましたが、皆立っている立像です。修行中の空海は立っています。<br />ただ、この高野山だけは、坐像です。<br />ここ奥の院で入定しましたので、座ったお姿になっています。<br />ガイドさんの説明に、納得しました。

    ここの地蔵様は座ってらっしゃいます。
    空海(弘法大師)の像は、今まで全国各地で見てきましたが、皆立っている立像です。修行中の空海は立っています。
    ただ、この高野山だけは、坐像です。
    ここ奥の院で入定しましたので、座ったお姿になっています。
    ガイドさんの説明に、納得しました。

  • 来年の令和5年5月14日から7月9日まで、弘法大師御生誕記念1250年の大法会があります。

    来年の令和5年5月14日から7月9日まで、弘法大師御生誕記念1250年の大法会があります。

  • 帰りの橋は、1枚1枚ではなくさっさと渡りました。

    帰りの橋は、1枚1枚ではなくさっさと渡りました。

  • 小さな玉川の流れです。

    小さな玉川の流れです。

  • この先には像のような墓所です。<br />英霊だったような・・・・。間違っていたらごめんなさい。

    この先には像のような墓所です。
    英霊だったような・・・・。間違っていたらごめんなさい。

  • ピラミッドのような形のものが見えてきました。

    ピラミッドのような形のものが見えてきました。

  • 無縁塚<br />石仏供養塔<br /><br />これは弘法大師入定1150年の記念事業として建立されました。<br />2つの燈篭堂の建設にあたって整地のために掘ったところ、たくさんの埋蔵物が発見されました。それらのうち石仏と石碑を集めてピラミッド状の供養塔が建てられました。

    無縁塚
    石仏供養塔

    これは弘法大師入定1150年の記念事業として建立されました。
    2つの燈篭堂の建設にあたって整地のために掘ったところ、たくさんの埋蔵物が発見されました。それらのうち石仏と石碑を集めてピラミッド状の供養塔が建てられました。

  • ちょっとここからは、少し見えにくいのですが、この先にある有名人の供養塔があります。

    ちょっとここからは、少し見えにくいのですが、この先にある有名人の供養塔があります。

  • この先に見えるのが、豊臣家のお墓です。<br />一時は高野攻めを行っていたにも関わらず、説得によってとりやめ、逆に庇護するようになりました。<br />高野山には戦国の武将のお墓がだくさんあります。<br />極楽往生を願ったのでしょう。

    この先に見えるのが、豊臣家のお墓です。
    一時は高野攻めを行っていたにも関わらず、説得によってとりやめ、逆に庇護するようになりました。
    高野山には戦国の武将のお墓がだくさんあります。
    極楽往生を願ったのでしょう。

  • 菩提寺 総本山 金剛峯寺<br />よく見ると右の端に、立っている弘法大師がいます。

    菩提寺 総本山 金剛峯寺
    よく見ると右の端に、立っている弘法大師がいます。

  • 南無大師遍照金剛

    南無大師遍照金剛

  • こちらには座っている弘法大師がいます。

    こちらには座っている弘法大師がいます。

  • 手水舎<br />横にある赤い橋が綺麗です。<br />おそらく紅葉の頃はさぞや綺麗でしょう。

    手水舎
    横にある赤い橋が綺麗です。
    おそらく紅葉の頃はさぞや綺麗でしょう。

  • 燈篭が整然と並んでいて綺麗です。

    燈篭が整然と並んでいて綺麗です。

  • 木々が繁っていて、さぞや紅葉の折には綺麗でしょう。

    木々が繁っていて、さぞや紅葉の折には綺麗でしょう。

  • 奥がジャーニー北川さんの墓所です。<br />供養塔ではなく、きちんと納骨されてらっしゃるようです。<br />ジャニーズファンの方々は、お参りされてました。

    奥がジャーニー北川さんの墓所です。
    供養塔ではなく、きちんと納骨されてらっしゃるようです。
    ジャニーズファンの方々は、お参りされてました。

  • 川の向こうの優美な後ろ姿は観音様でしょうか。<br />

    川の向こうの優美な後ろ姿は観音様でしょうか。

  • 奥の院でいただいた御朱印です。<br />ガイドさんが、まとめていただいてくれました。<br />

    奥の院でいただいた御朱印です。
    ガイドさんが、まとめていただいてくれました。

  • 参拝記念<br />南無大師遍照金剛 高野山奥の院<br />御守り。大師様が身代わりになってくださるそうです。

    参拝記念
    南無大師遍照金剛 高野山奥の院
    御守り。大師様が身代わりになってくださるそうです。

  • 裏面は御廟橋から先の様子が描かれています。

    裏面は御廟橋から先の様子が描かれています。

  • 参拝記念にお香も買いました。<br />気になったので2種類購入しました。

    参拝記念にお香も買いました。
    気になったので2種類購入しました。

  • 右:こちらはお食事のために立ち寄ったお店で買い求めたものです。<br />左:高野山に来る途中のドライブインで買ったお香です。<br />前にも書きましたが、228円です。(箱なし)<br />ただ、蓮の花のいい香りでした。

    右:こちらはお食事のために立ち寄ったお店で買い求めたものです。
    左:高野山に来る途中のドライブインで買ったお香です。
    前にも書きましたが、228円です。(箱なし)
    ただ、蓮の花のいい香りでした。

  • 今回のランチは精進料理です。<br /><br />精進料理の「精進」とは、悪を断って、善を行い、つとめに励む」という意味で、仏教では食も修行の1つでした。<br />高野山の精進料理の基本は「五法・五味・五色」です。<br />五法:なま、煮る、焼く、揚げる、蒸す<br />五味:醤油、酢、塩、砂糖、辛<br />五色:赤、青、黄、黒、白<br />さらに、高野山では五禁があります。<br />五禁:ねぎ、らっきょう、にら、にんにく、しょうが<br /><br />美味しくいただきました。<br />特にこちらの1階のお店では胡麻豆腐をお勧めしていましたが、とてもプルプルやわらかく美味しかったです。お土産にも買いました。

    今回のランチは精進料理です。

    精進料理の「精進」とは、悪を断って、善を行い、つとめに励む」という意味で、仏教では食も修行の1つでした。
    高野山の精進料理の基本は「五法・五味・五色」です。
    五法:なま、煮る、焼く、揚げる、蒸す
    五味:醤油、酢、塩、砂糖、辛
    五色:赤、青、黄、黒、白
    さらに、高野山では五禁があります。
    五禁:ねぎ、らっきょう、にら、にんにく、しょうが

    美味しくいただきました。
    特にこちらの1階のお店では胡麻豆腐をお勧めしていましたが、とてもプルプルやわらかく美味しかったです。お土産にも買いました。

  • 壇上伽藍にやって来ました。<br />高野山は東には奥の院、西には壇上伽藍という2つの聖地があります。

    壇上伽藍にやって来ました。
    高野山は東には奥の院、西には壇上伽藍という2つの聖地があります。

  • 壇上伽藍は、空海が構想した修禅の道場です。<br />壇上とは、大塔が鎮まる壇・・・つまり道場という意味です。<br />ここでは、伽藍の事を壇上(壇場)と呼びます。

    壇上伽藍は、空海が構想した修禅の道場です。
    壇上とは、大塔が鎮まる壇・・・つまり道場という意味です。
    ここでは、伽藍の事を壇上(壇場)と呼びます。

  • 今回は行きませんでしたが、奥の院からこの壇上伽藍までの途中に、金剛峯寺があります。この金剛峯寺は空海が弘仁7年(816年)修行者が悟りをえるため真言宗の寺院の道場として開創しました。<br />なぜこの地を選んだのか「性霊集」にあります。<br /><br />「空海、少年の日、好んで山水を渉覧せしに、吉野より南に行くこと一日、更に西に向って去ること両日程にして、平原の幽地あり。名づけて高野といふ。計るに紀伊国伊都郡の南に当れり。四面高嶺にして人蹤蹊絶えたり。今思はく、上は国家の奉為に、下は諸の修行者の為に、荒藪をり夷げて、聊か修禅の一院を建立せん。」<br /><br />弘仁7年6月19日 沙門空海上表す。(原漢文)<br /><br />このように空海は少年の頃から、おそらく吉野からの南の高野山の平原の幽地に目をつけていたように思います。<br /><br />朝廷に提出した上表文によると次のような事が書かれてありました。<br /><br />「日本において仏教は隆盛ではあるが、惜しむらくは深山において瞑想にはげむ僧が少ない。 紀伊の国、伊都の都の南に位置し、平原の地になっている高野山は、四面が高い峰続きで、 人の通るような道がない、 修禅の場所として最適と思われるので、なにとぞ下賜願いたい。」という趣旨の内容です。<br /><br />「中国から帰りの海上でたびたび嵐に会い、無事に帰国した暁には、国界を擁護し、衆生を利済するために、一禅院を建立するというささやかな願を立てた。 それからはや12年を経たが、まだその願を果たしていない。神祇をたばかることを恐れている。」ともあります。<br /><br />それと、古来から高野の山地の周辺には辰紗(しんしゃ:水銀の原料)、鉛丹(酸化鉛)を含む赤い土を採掘していた人たちがいました。<br />水銀からは鉄を除いて金・銀.・銅などの多くの金属と合金を作るのに使われました。また、朱の材料になる「丹(に)」は朱として使われます。この時代には寺社や鳥居を丹塗りするようになり、他にも漆器や絵具や印肉などに使われ出しました。<br />「丹生(にう)」という地名は丹を産出したり、取引の場所でした。そして地方の豪族が押さえてました。<br />そこに目をつけたようでもあります。

    今回は行きませんでしたが、奥の院からこの壇上伽藍までの途中に、金剛峯寺があります。この金剛峯寺は空海が弘仁7年(816年)修行者が悟りをえるため真言宗の寺院の道場として開創しました。
    なぜこの地を選んだのか「性霊集」にあります。

    「空海、少年の日、好んで山水を渉覧せしに、吉野より南に行くこと一日、更に西に向って去ること両日程にして、平原の幽地あり。名づけて高野といふ。計るに紀伊国伊都郡の南に当れり。四面高嶺にして人蹤蹊絶えたり。今思はく、上は国家の奉為に、下は諸の修行者の為に、荒藪をり夷げて、聊か修禅の一院を建立せん。」

    弘仁7年6月19日 沙門空海上表す。(原漢文)

    このように空海は少年の頃から、おそらく吉野からの南の高野山の平原の幽地に目をつけていたように思います。

    朝廷に提出した上表文によると次のような事が書かれてありました。

    「日本において仏教は隆盛ではあるが、惜しむらくは深山において瞑想にはげむ僧が少ない。 紀伊の国、伊都の都の南に位置し、平原の地になっている高野山は、四面が高い峰続きで、 人の通るような道がない、 修禅の場所として最適と思われるので、なにとぞ下賜願いたい。」という趣旨の内容です。

    「中国から帰りの海上でたびたび嵐に会い、無事に帰国した暁には、国界を擁護し、衆生を利済するために、一禅院を建立するというささやかな願を立てた。 それからはや12年を経たが、まだその願を果たしていない。神祇をたばかることを恐れている。」ともあります。

    それと、古来から高野の山地の周辺には辰紗(しんしゃ:水銀の原料)、鉛丹(酸化鉛)を含む赤い土を採掘していた人たちがいました。
    水銀からは鉄を除いて金・銀.・銅などの多くの金属と合金を作るのに使われました。また、朱の材料になる「丹(に)」は朱として使われます。この時代には寺社や鳥居を丹塗りするようになり、他にも漆器や絵具や印肉などに使われ出しました。
    「丹生(にう)」という地名は丹を産出したり、取引の場所でした。そして地方の豪族が押さえてました。
    そこに目をつけたようでもあります。

  • 大塔の鐘<br /><br />弘法大師が発願し、真然の代に完成しました。<br />火災などで3度の焼失したため、天文16年(1547年)に造立しました。<br />日本で4番目に大きい鐘で「高野四郎」と呼ばれているそうです。<br />ただ、建設当時は日本一だったようです。<br /><br />日本三大梵鐘は次のとおりです。<br />知恩院:70トン<br />東大寺:26.3トン<br />方広寺:82.7トン<br />ただ、大きさでは蓮華院誕生寺 奥之院の梵鐘が世界一の大きさです。

    大塔の鐘

    弘法大師が発願し、真然の代に完成しました。
    火災などで3度の焼失したため、天文16年(1547年)に造立しました。
    日本で4番目に大きい鐘で「高野四郎」と呼ばれているそうです。
    ただ、建設当時は日本一だったようです。

    日本三大梵鐘は次のとおりです。
    知恩院:70トン
    東大寺:26.3トン
    方広寺:82.7トン
    ただ、大きさでは蓮華院誕生寺 奥之院の梵鐘が世界一の大きさです。

  • 真っ白な鐘楼は珍しいです。朱色の大塔もそうですが、この鐘も一際目を惹きます。<br /><br />毎日4時、13時、17時(春の彼岸中日から秋の彼岸中日までは18時)、21時、23時の5回鳴らしています。<br />除夜の鐘と同様、1日に108回の鐘を撞いています。<br />

    真っ白な鐘楼は珍しいです。朱色の大塔もそうですが、この鐘も一際目を惹きます。

    毎日4時、13時、17時(春の彼岸中日から秋の彼岸中日までは18時)、21時、23時の5回鳴らしています。
    除夜の鐘と同様、1日に108回の鐘を撞いています。

  • 重量は1600貫(約6トン)、直径21.2m、高さ2.5mの梵鐘です。<br /><br />眼・耳・鼻・舌・身・意の6つの感覚があります。<br />それを受ける感覚として好・悪・平の3つがあります。<br />更に浄・染2つに分類されます。<br />この6×3×2=36<br />前世・今世・来世の3つの時間軸に分けられます。<br />36×3=108<br />つまり108の煩悩です。<br /><br />この108は他にも<br />月の数=12<br />二十四節気=24<br />七十二候の数=72<br />12+24+72=108でもあります。<br /><br />特に三毒の煩悩の貪欲・瞋恚・愚痴には気をつけたいです。(-_-;)

    重量は1600貫(約6トン)、直径21.2m、高さ2.5mの梵鐘です。

    眼・耳・鼻・舌・身・意の6つの感覚があります。
    それを受ける感覚として好・悪・平の3つがあります。
    更に浄・染2つに分類されます。
    この6×3×2=36
    前世・今世・来世の3つの時間軸に分けられます。
    36×3=108
    つまり108の煩悩です。

    この108は他にも
    月の数=12
    二十四節気=24
    七十二候の数=72
    12+24+72=108でもあります。

    特に三毒の煩悩の貪欲・瞋恚・愚痴には気をつけたいです。(-_-;)

  • 御影堂<br />工事中でした。<br />屋根の葺き替えのためです。<br />中には「弘法大師御影像」が、外陣には十大弟子の肖像画は掲げられています。

    御影堂
    工事中でした。
    屋根の葺き替えのためです。
    中には「弘法大師御影像」が、外陣には十大弟子の肖像画は掲げられています。

  • 根本大塔<br /><br />高さ48.5mの大日如来塔です。<br />四面はそれぞれ幅が23.5mあります。<br />空海が唐から伝えたという日本初の多宝塔でもあります。<br />

    根本大塔

    高さ48.5mの大日如来塔です。
    四面はそれぞれ幅が23.5mあります。
    空海が唐から伝えたという日本初の多宝塔でもあります。

  • 朱塗りの美しい大塔は、壇上伽藍のシンボルでもあります。<br />この大塔は高野山の開創の時から建設しましたが、かなりの時間を要し、残念ながら空海は、この大塔の姿を見ることなく入定してしまいました。<br /><br />その後、弟子の高野山第二世の真然の代に完成したようです。<br />878年頃のようです。

    朱塗りの美しい大塔は、壇上伽藍のシンボルでもあります。
    この大塔は高野山の開創の時から建設しましたが、かなりの時間を要し、残念ながら空海は、この大塔の姿を見ることなく入定してしまいました。

    その後、弟子の高野山第二世の真然の代に完成したようです。
    878年頃のようです。

  • 堂の中は空海が思い描いた立体曼荼羅の世界です。<br />中は撮影できません。<br />この内陣の本尊の上に書かれた勅額は、昭和天皇直筆のものです。

    堂の中は空海が思い描いた立体曼荼羅の世界です。
    中は撮影できません。
    この内陣の本尊の上に書かれた勅額は、昭和天皇直筆のものです。

  • 中は朱色と黄金の世界が繰り広げられます。<br />本尊の大日如来を中心に、阿弥陀如来、宝生如来、阿閦如来が配置されてます。<br />また、大日如来の周囲には金剛界の四仏が、16本ある柱には16大菩薩が囲んでいます。圧巻です。

    中は朱色と黄金の世界が繰り広げられます。
    本尊の大日如来を中心に、阿弥陀如来、宝生如来、阿閦如来が配置されてます。
    また、大日如来の周囲には金剛界の四仏が、16本ある柱には16大菩薩が囲んでいます。圧巻です。

  • 金堂<br /><br />開創した当時は「講堂」と呼ばれていました。<br />平安時代の後期から「金堂」と呼ばれるようになりました。<br />入母屋造で平安朝様式の巨大建築です。

    金堂

    開創した当時は「講堂」と呼ばれていました。
    平安時代の後期から「金堂」と呼ばれるようになりました。
    入母屋造で平安朝様式の巨大建築です。

  • 金堂は何度か火災によって焼失してしまいました。<br />これは昭和7年(1932年)に再建されたものです。<br />本尊の秘仏も火災で焼失しました。現在の本尊は薬師如来です。<br />この本尊の両脇に金剛王菩薩、不動明王があります。<br />いずれも仏師の高村光雲作です。<br />また内陣には平清盛が自分の血で中尊を描かせた「血曼荼羅」があります。

    金堂は何度か火災によって焼失してしまいました。
    これは昭和7年(1932年)に再建されたものです。
    本尊の秘仏も火災で焼失しました。現在の本尊は薬師如来です。
    この本尊の両脇に金剛王菩薩、不動明王があります。
    いずれも仏師の高村光雲作です。
    また内陣には平清盛が自分の血で中尊を描かせた「血曼荼羅」があります。

  • 金堂では、高野山一山の総本堂として、結縁灌頂(春と秋の)他、法会や随時法要が行われています。<br /><br />※ 「結縁灌頂」とは、仏さまとご縁を結ぶ、尊い儀式です。 1年に2回あります。<br />「胎蔵界」「金剛界」という二つの世界の仏さまと縁を結びます。

    金堂では、高野山一山の総本堂として、結縁灌頂(春と秋の)他、法会や随時法要が行われています。

    ※ 「結縁灌頂」とは、仏さまとご縁を結ぶ、尊い儀式です。 1年に2回あります。
    「胎蔵界」「金剛界」という二つの世界の仏さまと縁を結びます。

  • 黄色い法衣のお坊さまです。<br />私がガイドさんからの話を聞き間違っていなければ、昔、お布施は、川で布を洗いウコンで染めた布を渡していたそうです。<br />もともとウコンは邪悪な物を避け、浄化するという意味があります。

    黄色い法衣のお坊さまです。
    私がガイドさんからの話を聞き間違っていなければ、昔、お布施は、川で布を洗いウコンで染めた布を渡していたそうです。
    もともとウコンは邪悪な物を避け、浄化するという意味があります。

  • 六角経蔵<br /><br />鳥羽法皇の皇后である美福門院が法皇の菩提を弔うため平治元年(1159年)に建立されました。<br />紺紙金泥一切を納められました。<br />当の美福門院はこの翌年亡くなりました。ただ、女人禁制である高野山に埋葬されています。

    六角経蔵

    鳥羽法皇の皇后である美福門院が法皇の菩提を弔うため平治元年(1159年)に建立されました。
    紺紙金泥一切を納められました。
    当の美福門院はこの翌年亡くなりました。ただ、女人禁制である高野山に埋葬されています。

  • 六角六面二重塔様式の経蔵です。<br />経蔵の基壇付近に把手がついています。<br />回すことができます。<br />手指を消毒して回しました。<br />一人で回すとかなり重かったです。<br />途中から夫も回したら、だいぶ楽になりました。<br />一回りすれば、一切経を一通り読誦した功徳を得ると言われています。<br />

    六角六面二重塔様式の経蔵です。
    経蔵の基壇付近に把手がついています。
    回すことができます。
    手指を消毒して回しました。
    一人で回すとかなり重かったです。
    途中から夫も回したら、だいぶ楽になりました。
    一回りすれば、一切経を一通り読誦した功徳を得ると言われています。

  • 三鈷の松<br /><br />空海は延暦23年(804年)真言密教を学ぶため、遣唐使に随行する留学生として唐の国へ渡りました。31歳のことです。<br />そして長安青龍寺で、真言密教第7祖の恵果和尚に師事し学びました。恵果和尚からは密教の奥旨を全て授けられ「遍照金剛」の称号を授与しました。そして第8祖となり、密教の伝承者とし日本で密教を広めるように言われました。ただ、その後恵果和尚は亡くなってしまいました。<br />本来、遣唐使は20年間の義務があったのですが、このようなことから2年で日本に帰国することになりました。半ば強引だったようですが・・・。<br />その帰国の際、明州の浜から密教伝来の根本道場の建立地を選ぶため、真言密教祖師に相伝された「三鈷杵」を空中に投げたところ、遠く飛んでいき、その後高野山の松の木にかかっていたという伝記があります。<br />唐から高野山まで届くとは、奇天烈で面白いです。渡り鳥でも加えて持って飛んでいけば別ですが・・・。<br /><br />これをもとに「高野大師行状図画」にも描かれています。<br />この他、面白いのは、空海は唐の宮殿の一室で部屋の壁に書をスラスラしたためている様子が描かれています。ただ、普通とは全く違い、両手両足プラス口にも筆をくわえて書いています。空海は能書家として五筆和尚と称賛された所以かもしれません。楷書、行書、草書、飛白体などの雑体書など様々な書体に通じていました。<br />空海は三筆の一人でもあります。<br />他には嵯峨天皇と橘逸勢です。橘逸勢は空海と共に遣唐使として唐に渡りました。

    三鈷の松

    空海は延暦23年(804年)真言密教を学ぶため、遣唐使に随行する留学生として唐の国へ渡りました。31歳のことです。
    そして長安青龍寺で、真言密教第7祖の恵果和尚に師事し学びました。恵果和尚からは密教の奥旨を全て授けられ「遍照金剛」の称号を授与しました。そして第8祖となり、密教の伝承者とし日本で密教を広めるように言われました。ただ、その後恵果和尚は亡くなってしまいました。
    本来、遣唐使は20年間の義務があったのですが、このようなことから2年で日本に帰国することになりました。半ば強引だったようですが・・・。
    その帰国の際、明州の浜から密教伝来の根本道場の建立地を選ぶため、真言密教祖師に相伝された「三鈷杵」を空中に投げたところ、遠く飛んでいき、その後高野山の松の木にかかっていたという伝記があります。
    唐から高野山まで届くとは、奇天烈で面白いです。渡り鳥でも加えて持って飛んでいけば別ですが・・・。

    これをもとに「高野大師行状図画」にも描かれています。
    この他、面白いのは、空海は唐の宮殿の一室で部屋の壁に書をスラスラしたためている様子が描かれています。ただ、普通とは全く違い、両手両足プラス口にも筆をくわえて書いています。空海は能書家として五筆和尚と称賛された所以かもしれません。楷書、行書、草書、飛白体などの雑体書など様々な書体に通じていました。
    空海は三筆の一人でもあります。
    他には嵯峨天皇と橘逸勢です。橘逸勢は空海と共に遣唐使として唐に渡りました。

  • 金堂と松の木<br /><br />

    金堂と松の木

  • 鳥居と狛犬が迎えてくれています。

    鳥居と狛犬が迎えてくれています。

  • 山王院<br /><br />拝殿として建立されました。<br />両側面向拝付入母屋造りで、桁行21.3メートル、梁間7.8メートルです。<br />この建物は文禄3年(1594年)の再建で重要文化財です。

    山王院

    拝殿として建立されました。
    両側面向拝付入母屋造りで、桁行21.3メートル、梁間7.8メートルです。
    この建物は文禄3年(1594年)の再建で重要文化財です。

  • 山王院<br />地主の神を山王として礼拝する場所の意味です。

    山王院
    地主の神を山王として礼拝する場所の意味です。

  • 山王院<br />毎年決まった竪整や月並問講などの儀式を行います。<br />山内住呂の重要な宗教行事です。

    山王院
    毎年決まった竪整や月並問講などの儀式を行います。
    山内住呂の重要な宗教行事です。

  • 御社<br /><br />空海は開創の際に、山麓の丹生郡比売神社より2匹の犬と一緒に高野山に導いた狩場明神(高野明神)と丹生明神の二社を勧請し、高野山の鎮守としました。<br />一宮:丹生明神<br />二宮:狩場明神(高野明神)<br />三宮:十二王子・百二十番神が祀られています。

    御社

    空海は開創の際に、山麓の丹生郡比売神社より2匹の犬と一緒に高野山に導いた狩場明神(高野明神)と丹生明神の二社を勧請し、高野山の鎮守としました。
    一宮:丹生明神
    二宮:狩場明神(高野明神)
    三宮:十二王子・百二十番神が祀られています。

  • 西塔<br /><br />西北の端に建立されています。<br />根本大塔と一対となる重要な塔です。光孝天皇の勅命によって、真然が空海の記した伽藍の建立計画案の「御図記」に基づいて建立しました。<br />こちらは金剛界の大日如来と胎蔵界の四仏を祀っています。

    西塔

    西北の端に建立されています。
    根本大塔と一対となる重要な塔です。光孝天皇の勅命によって、真然が空海の記した伽藍の建立計画案の「御図記」に基づいて建立しました。
    こちらは金剛界の大日如来と胎蔵界の四仏を祀っています。

  • 孔雀堂<br /><br />この名前は「孔雀明王」に由来します。鎌倉時代は中国から孔雀信仰が伝来し、孔雀は吉鳥で幸運をもたらすと言われていました。<br />昭治元年(1199年)雨が降らないため、作物はも乗らず困窮した生活を送っていました。

    孔雀堂

    この名前は「孔雀明王」に由来します。鎌倉時代は中国から孔雀信仰が伝来し、孔雀は吉鳥で幸運をもたらすと言われていました。
    昭治元年(1199年)雨が降らないため、作物はも乗らず困窮した生活を送っていました。

  • このため後鳥羽法皇が雨乞いの祈祷を行いました。<br />祈祷によって雨が降り、孔雀を祀るため孔雀明王像が建立されました。

    このため後鳥羽法皇が雨乞いの祈祷を行いました。
    祈祷によって雨が降り、孔雀を祀るため孔雀明王像が建立されました。

  • こうしてみると、松はだいぶ大きなことがわかります。<br />人が小さく見えます。

    こうしてみると、松はだいぶ大きなことがわかります。
    人が小さく見えます。

  • 普通の松の木の葉は2本が多いと思いますが、この松の木は3本の葉になっていています。<br />今の三鈷の松は当時から現存している松の木ではありません。<br />何代か植え替えられた外国産の松の木のようです。

    普通の松の木の葉は2本が多いと思いますが、この松の木は3本の葉になっていています。
    今の三鈷の松は当時から現存している松の木ではありません。
    何代か植え替えられた外国産の松の木のようです。

  • 御影堂<br /><br />空海の持仏堂として建立され、入定後は空海の御影を安置しました。<br />真如親王が、「弘法大師御影像」を奉安し、堂内の外陣には十大弟子の肖像画が掲げられています。

    御影堂

    空海の持仏堂として建立され、入定後は空海の御影を安置しました。
    真如親王が、「弘法大師御影像」を奉安し、堂内の外陣には十大弟子の肖像画が掲げられています。

  • 大きな八角塘路

    大きな八角塘路

  • 大塔から参道の方向を眺めて。

    大塔から参道の方向を眺めて。

  • 愛染堂<br /><br />建武元年(1334年)後醍醐天皇により、「四海静平」「玉体安穏」を祈願して建立されました。<br />本尊として祀られているのは、後醍醐天皇の御等身の愛染明王です。<br />現存するものは再建されています。

    愛染堂

    建武元年(1334年)後醍醐天皇により、「四海静平」「玉体安穏」を祈願して建立されました。
    本尊として祀られているのは、後醍醐天皇の御等身の愛染明王です。
    現存するものは再建されています。

  • 不動堂<br /><br />壇上伽藍の中で唯一国宝に指定されているお堂です。

    不動堂

    壇上伽藍の中で唯一国宝に指定されているお堂です。

  • 蓮池<br /><br />高野山の中では最大の池です。<br />江戸時代には蓮が植えられました。<br />木に隠れて見えにくいのですが、赤い橋があります。

    蓮池

    高野山の中では最大の池です。
    江戸時代には蓮が植えられました。
    木に隠れて見えにくいのですが、赤い橋があります。

  • 西行桜<br /><br />歌人としても有名な西行法師は、久安5年(1149年)32歳ころから30年間、高野山に草庵を結びました。<br />高野山では大会堂と三昧堂の造営、移築に総指揮として尽力されました。<br />三昧堂の移築に際し、西行法師によりお手植えされたのが、この西行桜の由来です。

    西行桜

    歌人としても有名な西行法師は、久安5年(1149年)32歳ころから30年間、高野山に草庵を結びました。
    高野山では大会堂と三昧堂の造営、移築に総指揮として尽力されました。
    三昧堂の移築に際し、西行法師によりお手植えされたのが、この西行桜の由来です。

  • 三昧堂(国史跡)<br /><br />歌人西行法師が治承元年(1177年)に大会堂とともに、この地に移築造営しました。<br />現在の堂は天保14年(1843年)の大火後の再建です。<br />大会堂の前の坂を会堂坂といいます。<br />坂の東に西行法師の往坊霊山院があったと伝えられています。

    三昧堂(国史跡)

    歌人西行法師が治承元年(1177年)に大会堂とともに、この地に移築造営しました。
    現在の堂は天保14年(1843年)の大火後の再建です。
    大会堂の前の坂を会堂坂といいます。
    坂の東に西行法師の往坊霊山院があったと伝えられています。

  • 東塔<br /><br />白河法皇の御瀬によって大治2年(1127年)に落慶しました。<br />中尊は尊勝仏頂で脇仏は不動と降三世両明王です。<br />江戸時代の再建の塔が、天保14年(1843年)に焼失後、140年を経て昭和58年(1983年)に現在の塔が再建されました。

    東塔

    白河法皇の御瀬によって大治2年(1127年)に落慶しました。
    中尊は尊勝仏頂で脇仏は不動と降三世両明王です。
    江戸時代の再建の塔が、天保14年(1843年)に焼失後、140年を経て昭和58年(1983年)に現在の塔が再建されました。

  • 手水舎<br /><br />こちらも鐘楼堂と同じく白い建物です。

    手水舎

    こちらも鐘楼堂と同じく白い建物です。

  • 蛇腹道<br /><br />金剛寺の方から東塔へ向かうこの小道は「東西に龍の臥せるがごとく」と形容したことに由来しています。<br />この写真は反対方向からの様子です。<br />壇上伽藍を頭として現在の蓮華院までを龍が伏している形にたとえ、ちょどうどこの小径が龍のお腹にあたることから蛇腹路と呼ばれるようになりました。

    蛇腹道

    金剛寺の方から東塔へ向かうこの小道は「東西に龍の臥せるがごとく」と形容したことに由来しています。
    この写真は反対方向からの様子です。
    壇上伽藍を頭として現在の蓮華院までを龍が伏している形にたとえ、ちょどうどこの小径が龍のお腹にあたることから蛇腹路と呼ばれるようになりました。

  • 蛇腹路から反対方向を見て。

    蛇腹路から反対方向を見て。

  • 少し坂になっています。

    少し坂になっています。

  • 左に行くと霊宝館です。

    左に行くと霊宝館です。

  • 改めて見上げてみました。

    改めて見上げてみました。

  • 「弘法大師行状図絵」は弘法大師空海の生涯を26枚の絵でわかりやすく描いています。<br />生涯を追っていくと次のようになります。<br />1 ご誕生<br />2 捨身請願<br />3 都での御勉強<br />4 御出家<br />5 大日経の感得<br />6 入唐求法<br />7 恵果和尚に師事<br />8 五筆和尚の称号<br />9 御帰朝と飛行の三鈷<br />10 立教開宗<br />11 神前苑の雨乞い<br />12 般若心経を講義<br />13 八宗論、大日如来のいわれ<br />14 綜芸種智院といろは歌<br />15 四国八十八か所の開創<br />16 満濃の池完成の事<br />17 東寺御下賜<br />18 応天門の額<br />19 御修法<br />20 高野山御開創(1)<br />21 高野山御開創(2)<br />22 高野山御開創(3)<br />23 御遺告<br />24 御入定<br />25 諡号奉賛<br />26 御衣替<br /><br />

    「弘法大師行状図絵」は弘法大師空海の生涯を26枚の絵でわかりやすく描いています。
    生涯を追っていくと次のようになります。
    1 ご誕生
    2 捨身請願
    3 都での御勉強
    4 御出家
    5 大日経の感得
    6 入唐求法
    7 恵果和尚に師事
    8 五筆和尚の称号
    9 御帰朝と飛行の三鈷
    10 立教開宗
    11 神前苑の雨乞い
    12 般若心経を講義
    13 八宗論、大日如来のいわれ
    14 綜芸種智院といろは歌
    15 四国八十八か所の開創
    16 満濃の池完成の事
    17 東寺御下賜
    18 応天門の額
    19 御修法
    20 高野山御開創(1)
    21 高野山御開創(2)
    22 高野山御開創(3)
    23 御遺告
    24 御入定
    25 諡号奉賛
    26 御衣替

  • 角度を変えてみた様子。<br /><br />宝亀5年(774年)~承和2年3月21日 (835年4月22日)<br />幼名は佐伯 眞魚(まお)です。<br />現在の香川県(讃岐国多度郡屏風浦)に地方豪族佐伯氏の三男として生まれました。(父は政治的な力はありませんでした。)<br />幼い頃に、仏像を泥で作って遊びました。<br />桓武天皇の皇子の教育係を務めた伯父・阿刀大足から詩や漢語、儒教を学んでいたそうです。勉学に秀でていました。<br />志学の年の15歳の時に、伯父の誘いを受け、都へ上りました。<br />18歳で大学に入学したものの、現実の悲惨な社会状況とのあまりにもの隔たり、儒教為本の講義などに虚しさを感じていたようです。出世を目指す環境にはなじめなかったのです。<br />その結果、次第に仏教へ傾聴していきます。<br />そして大学を中退し、吉野や四国の石鎚山などで山岳修行に励むようになりました。<br />修行を重ね、20歳で僧侶になった後、22歳で名前を「空海」に改めました。<br />これは阿波国(今の徳島)~土佐国(高知)に渡り、室戸岬の岩礁の洞窟で修行をした場所が「空」と「海」が一体となった場所で法名で「空海」という名が浮かんだようです。<br /><br />※ 空海は大学在学中、一沙門から密教の修法の1つ「虚空蔵求門持法」を教わり、大学を中退しますが、その沙門の名を明かしていません。ただ、由良弥生の『眠れないほど面白い空海の生涯』によると「善道尼」という女性ではないかというのです。ちょっとショックですが、同時になるほど~と妙に納得しました。

    角度を変えてみた様子。

    宝亀5年(774年)~承和2年3月21日 (835年4月22日)
    幼名は佐伯 眞魚(まお)です。
    現在の香川県(讃岐国多度郡屏風浦)に地方豪族佐伯氏の三男として生まれました。(父は政治的な力はありませんでした。)
    幼い頃に、仏像を泥で作って遊びました。
    桓武天皇の皇子の教育係を務めた伯父・阿刀大足から詩や漢語、儒教を学んでいたそうです。勉学に秀でていました。
    志学の年の15歳の時に、伯父の誘いを受け、都へ上りました。
    18歳で大学に入学したものの、現実の悲惨な社会状況とのあまりにもの隔たり、儒教為本の講義などに虚しさを感じていたようです。出世を目指す環境にはなじめなかったのです。
    その結果、次第に仏教へ傾聴していきます。
    そして大学を中退し、吉野や四国の石鎚山などで山岳修行に励むようになりました。
    修行を重ね、20歳で僧侶になった後、22歳で名前を「空海」に改めました。
    これは阿波国(今の徳島)~土佐国(高知)に渡り、室戸岬の岩礁の洞窟で修行をした場所が「空」と「海」が一体となった場所で法名で「空海」という名が浮かんだようです。

    ※ 空海は大学在学中、一沙門から密教の修法の1つ「虚空蔵求門持法」を教わり、大学を中退しますが、その沙門の名を明かしていません。ただ、由良弥生の『眠れないほど面白い空海の生涯』によると「善道尼」という女性ではないかというのです。ちょっとショックですが、同時になるほど~と妙に納得しました。

  • 修行を続け、久米寺(奈良県)で、密教の経典「大日経」と出会います。<br />ただ、経典を読んだだけでは密教の教えはわからないと考え、唐に渡る機会を探していいました。<br />そして31歳のとき。遣唐使の一人として唐に渡ることになったのです。<br />遣唐使で渡った時のことは、前述しましたので割愛します。<br /><br />806年に日本に帰国後、2年ほどは太宰府にある観世音寺に滞在していました。<br />809年には、京都の高雄山寺(現在の神護寺)に入りました。<br />そして810年には嵯峨天皇の書を受けて真言密教の布教を開始したのです。<br />高野山を修禅の道場として開創したのは、それから6年後の816年のことになります。<br />弘仁7(816年)、6月19日付けで  沙門空海の名により朝廷に提出した上表文が「性霊集補閥抄』巻第9に残されています。<br /><br />835年、弟子たちに遺告を遺し、旧暦3月21日、空海は62歳で入定を果たしたのです。<br /><br />真言宗では、大日如来が本尊です。<br />そして即身成仏が大切な教えとされています。<br />※ 即身成仏とは、今この世に体のあるうちに仏になれるという教えです。

    修行を続け、久米寺(奈良県)で、密教の経典「大日経」と出会います。
    ただ、経典を読んだだけでは密教の教えはわからないと考え、唐に渡る機会を探していいました。
    そして31歳のとき。遣唐使の一人として唐に渡ることになったのです。
    遣唐使で渡った時のことは、前述しましたので割愛します。

    806年に日本に帰国後、2年ほどは太宰府にある観世音寺に滞在していました。
    809年には、京都の高雄山寺(現在の神護寺)に入りました。
    そして810年には嵯峨天皇の書を受けて真言密教の布教を開始したのです。
    高野山を修禅の道場として開創したのは、それから6年後の816年のことになります。
    弘仁7(816年)、6月19日付けで 沙門空海の名により朝廷に提出した上表文が「性霊集補閥抄』巻第9に残されています。

    835年、弟子たちに遺告を遺し、旧暦3月21日、空海は62歳で入定を果たしたのです。

    真言宗では、大日如来が本尊です。
    そして即身成仏が大切な教えとされています。
    ※ 即身成仏とは、今この世に体のあるうちに仏になれるという教えです。

  • 2017年の夏、長崎県五島に行った際の旅行記です。<br />ここに西の高野山と言われる「大宝寺」にも立ち寄りました。<br />↓<br />https://4travel.jp/travelogue/11272101<br /><br />他にも空海の足跡は全国津々浦々あります。

    2017年の夏、長崎県五島に行った際の旅行記です。
    ここに西の高野山と言われる「大宝寺」にも立ち寄りました。

    https://4travel.jp/travelogue/11272101

    他にも空海の足跡は全国津々浦々あります。

  • 大伽藍 大日如来の御朱印<br /><br />空海と最澄という平安時代という同時代を生きた二大開祖について比べてみたいと思います。<br />最澄は天台宗を比叡山に開祖しました。<br />2人は遣唐使として唐に向かいましたが、その立場は全然違いました。<br />最澄はエリート僧として国費で通訳を連れて、空海は当時は無名の僧ですので、還学生として私費で20年の予定で向かいました。2人の立場は全然違いました。<br />最澄は36歳、空海は29歳の時です。<br />そもそも空海は第16次遣唐使の選考に最初は漏れていたのですが、船が嵐のため難破する恐れのため戻ってきました。そのため、欠員が出てその補充に何とか認められました。<br />そして第1船には、藤原葛野麻呂が遣唐大使として、橘逸勢、空海が乗船し、第2船には最澄が乗船しました。<br />当初の入唐時、空海は西安寺に止宿しましたが、後に密教の高僧の青龍寺の恵果和尚に教えを乞うことになります。<br />その前に、インド僧の般若三蔵からサンスクリット語を習い覚えました。またバラモン教、仏教、密教の情報収集を行っていました。<br />特にサンスクリット語を習得したのは理由があります。<br />元々古代インドを起原とする密教を唐に伝えた西域出身の不空(ふくう)らは、呪文的な語句(真言陀羅尼)を教授するのに、全てサンスクリット語で行っていました。そのため不空の弟子の恵果もそうであると考えたのです。<br />空海は恵果より、胎蔵界、金剛界、伝法阿闍梨の灌頂を受けました。<br />かなりのスピードでした。<br />恵果は両界曼荼羅図や密法具の製作を宮中の絵師たちに命じ、不空から授かったものや自分の付嘱物を空海に与えました。<br />恵果は書き残したものはなく、全て口伝でした。<br />後に空海はこれを言語化します。<br />恵果は、空海に密教を伝授すると、同年12月に入滅しました。<br />空海はその後、本来は20年の約束だったのですが、全て伝授できたことから帰国します。実は入唐前から心積もりはしていたようです。<br />新しい密教関係の経典類、法具類、曼荼羅の他、唐の最新文化の書物などを大量に持ち帰りました。<br />この大半は恵果から譲られたものか、恵果が空海のために新たに書写させ書かせたものでした。内訳はつぎのとおりです。<br />密教経典が142部240巻<br />梵字真言などが42部44巻<br />論書が32部170巻<br />曼荼羅・祖師像などが11種<br />密教法具が9種です。<br />これらは最澄の知らないものばかりでした。<br />ただ、帰国したものの、天皇、藤原一族の内部争い等々で、なかなか入京できずにいました。<br />その後、嵯峨天皇になった折、入京が叶い、809年7月に高雄山寺で暮らすことになりました。<br /><br />ちなみに、最澄も唐で密教を伝授し、帰国後、既に天台宗の一部門として、日本で最初に灌頂を行っていました。<br />ただ、最澄の密教は傍流で、しかもその一部でしかありませんでした。<br /><br />そのため、最澄から請来目録にある密教経典「理趣釈経」を筆写させてほしいと依頼がありましたが、密教の伝授は面授を正道とすると拒絶しました。<br />最澄は読むことができれば理解ができ、文字によって修得できると思っていました。ただ、空海はこれを認めません。<br />その後、最澄の弟子の泰範が空海の元に修行に行ったのですが、そのまま空海の弟子になってしまいました。<br />このように最澄と空海は反目し合うようになりました。<br />同じ時代を生きた二人ですが・・・。<br /><br />※ 金剛頂経(金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経)<br />※ 理趣釈経(般若波羅蜜多理趣百五十頌)<br />・・・この理趣釈経には吃驚でした。今の今まで何も知りませんでした。<br />理趣教は仏典にはあるまじき性的な行為も清浄で、菩薩の境地に他ならないと説いています。(+_+)・・・・・・(-_-;)<br /><br />

    大伽藍 大日如来の御朱印

    空海と最澄という平安時代という同時代を生きた二大開祖について比べてみたいと思います。
    最澄は天台宗を比叡山に開祖しました。
    2人は遣唐使として唐に向かいましたが、その立場は全然違いました。
    最澄はエリート僧として国費で通訳を連れて、空海は当時は無名の僧ですので、還学生として私費で20年の予定で向かいました。2人の立場は全然違いました。
    最澄は36歳、空海は29歳の時です。
    そもそも空海は第16次遣唐使の選考に最初は漏れていたのですが、船が嵐のため難破する恐れのため戻ってきました。そのため、欠員が出てその補充に何とか認められました。
    そして第1船には、藤原葛野麻呂が遣唐大使として、橘逸勢、空海が乗船し、第2船には最澄が乗船しました。
    当初の入唐時、空海は西安寺に止宿しましたが、後に密教の高僧の青龍寺の恵果和尚に教えを乞うことになります。
    その前に、インド僧の般若三蔵からサンスクリット語を習い覚えました。またバラモン教、仏教、密教の情報収集を行っていました。
    特にサンスクリット語を習得したのは理由があります。
    元々古代インドを起原とする密教を唐に伝えた西域出身の不空(ふくう)らは、呪文的な語句(真言陀羅尼)を教授するのに、全てサンスクリット語で行っていました。そのため不空の弟子の恵果もそうであると考えたのです。
    空海は恵果より、胎蔵界、金剛界、伝法阿闍梨の灌頂を受けました。
    かなりのスピードでした。
    恵果は両界曼荼羅図や密法具の製作を宮中の絵師たちに命じ、不空から授かったものや自分の付嘱物を空海に与えました。
    恵果は書き残したものはなく、全て口伝でした。
    後に空海はこれを言語化します。
    恵果は、空海に密教を伝授すると、同年12月に入滅しました。
    空海はその後、本来は20年の約束だったのですが、全て伝授できたことから帰国します。実は入唐前から心積もりはしていたようです。
    新しい密教関係の経典類、法具類、曼荼羅の他、唐の最新文化の書物などを大量に持ち帰りました。
    この大半は恵果から譲られたものか、恵果が空海のために新たに書写させ書かせたものでした。内訳はつぎのとおりです。
    密教経典が142部240巻
    梵字真言などが42部44巻
    論書が32部170巻
    曼荼羅・祖師像などが11種
    密教法具が9種です。
    これらは最澄の知らないものばかりでした。
    ただ、帰国したものの、天皇、藤原一族の内部争い等々で、なかなか入京できずにいました。
    その後、嵯峨天皇になった折、入京が叶い、809年7月に高雄山寺で暮らすことになりました。

    ちなみに、最澄も唐で密教を伝授し、帰国後、既に天台宗の一部門として、日本で最初に灌頂を行っていました。
    ただ、最澄の密教は傍流で、しかもその一部でしかありませんでした。

    そのため、最澄から請来目録にある密教経典「理趣釈経」を筆写させてほしいと依頼がありましたが、密教の伝授は面授を正道とすると拒絶しました。
    最澄は読むことができれば理解ができ、文字によって修得できると思っていました。ただ、空海はこれを認めません。
    その後、最澄の弟子の泰範が空海の元に修行に行ったのですが、そのまま空海の弟子になってしまいました。
    このように最澄と空海は反目し合うようになりました。
    同じ時代を生きた二人ですが・・・。

    ※ 金剛頂経(金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経)
    ※ 理趣釈経(般若波羅蜜多理趣百五十頌)
    ・・・この理趣釈経には吃驚でした。今の今まで何も知りませんでした。
    理趣教は仏典にはあるまじき性的な行為も清浄で、菩薩の境地に他ならないと説いています。(+_+)・・・・・・(-_-;)

  • 大伽藍 薬師如来の御朱印<br /><br />「日本後記」29の逸文によると821年の10月に<br />「この秋は雨が多く、全国的に不作であるゆえ税を免じ、難民救済を行うべし」と勅命がでました。<br />そこで翌822年2月、空海に鎮護国家のため灌頂道場を東大寺に建立させました。<br />東大寺は官立の大寺院で、諸国国分寺の総本山です。つまり真言密教が国家に認められたことになります。<br /><br />また、823年1月19日<br />東寺を空海に給預するという勅命が下りました。<br />平安京の中央を南北に朱雀大路が走る一番南端にある羅城門の東(左京)にあります。<br />また、西(右京)には西寺があります。<br />両寺は国家を鎮護する寺として建立されました。<br /><br />2014年京都の東寺の旅行記です。<br />フォートラを始めたばかりで、説明文が少ないのですが・・・。<br />↓<br />https://4travel.jp/travelogue/10868762<br /><br /><br />

    大伽藍 薬師如来の御朱印

    「日本後記」29の逸文によると821年の10月に
    「この秋は雨が多く、全国的に不作であるゆえ税を免じ、難民救済を行うべし」と勅命がでました。
    そこで翌822年2月、空海に鎮護国家のため灌頂道場を東大寺に建立させました。
    東大寺は官立の大寺院で、諸国国分寺の総本山です。つまり真言密教が国家に認められたことになります。

    また、823年1月19日
    東寺を空海に給預するという勅命が下りました。
    平安京の中央を南北に朱雀大路が走る一番南端にある羅城門の東(左京)にあります。
    また、西(右京)には西寺があります。
    両寺は国家を鎮護する寺として建立されました。

    2014年京都の東寺の旅行記です。
    フォートラを始めたばかりで、説明文が少ないのですが・・・。

    https://4travel.jp/travelogue/10868762


  • お線香を焚きました。<br />南無大師遍照金剛先祖代々の文字がくっきりと表れました。<br /><br />実は先日、三井記念美術館に大蒔絵展を見にいきました。<br />その際に、熊野速水神社の「桐蒔絵手箱」や、高野山の金剛峯寺の「澤千鳥螺鈿蒔絵小唐櫃」「花蝶蒔絵念珠箱」も展示されていました。<br />現地では金剛峯寺には行かなかったため、拝見してませんが、改めて数々の宝物が残されていることに気付きました。<br /><br />ちなみに高野山大学の図書館には約30万冊の蔵書があるのだそうです。<br />その3分の1が、高野山内外の寺院から寄贈等された物で、仏教経典がほとんどです。<br />奈良時代の「大日経「蘇悉地羯羅経」「金剛頂経』は、重要文化財に指定されています。<br />図書館だけでも圧倒的な蔵書量ですが、高野山全体は約数100万点の仏教資料が残されています。<br />特に仏教関係の資料は東洋一、もしかしたら世界一の規模かもしれません。<br />ちなみに高野山と同じ時期に創建された比叡山にも同等数の資料が残されていてもいいはずなのですが、残念ながら比叡山にはありません。<br />それは織田信長の焼き討ちにあったからです。<br />信長は、比叡山を攻め、一部を除いて伽藍や寺院を焼いてしまいました。そして多くの典籍や仏像などが失われてしまったのです。<br />幸いにも高野山は、焼かれずに済みました。<br />ただ、信長は比叡山だけでなく、高野山も攻め、一説には13万7220余人の兵をもって これを滅ぼそうとしましたが、できなかったのです。<br />何故か・・・・。<br />それは、高野山を包囲している間に、本能寺の変が起こり、織田信長本人が亡くなってしまったからです。<br />この間、高野山側も、じっとしていたわけではありませんでした。<br />高野山では、ありとあらゆる呪法を試みて、信長を呪殺しようとしていたらしいのです。<br />呪法都市として高野山は平安時代から今日まで、ずっと行われています。<br />例えば太平洋戦争の折にも、敵国を相手に連合国調伏の法太元帥法を行なっていたと言います。<br />ちなみに、信長がこの地を攻めた時、わかっているだけで高野山は、太元帥法、如法不動法、 如法愛染法 如法勝軍地蔵法などをとり行ない、信長を呪殺しようとしていたようです。<br />高野山にとって、信長との戦いは、全山あげての呪法攻撃であり、この意味において、信長の死は、まさに高野山の呪法の勝利だったのかもしれません。<br />現実は、明智光秀の裏切りという、あり得ぬことが起こったのですが・・・・。<br />高野山側にしてみれば、「脱法の力である」ということになります。<br /><br />戦の原因は、天正6年、荒木村重が信長に叛旗を翻しました。<br />今日、有岡城の戦いとして知られているこの籠城戦は、この年に始まって、翌天正7年10月まで続きました。<br />この城から、村重本人は逃げ出しましたが、その妻や子は信長によって惨殺されました。<br />籠城していた家臣の妻子122名は鉄砲などで殺害され、その他男124名、女388名は、 4軒の農家に押し込められ、火を点けられて農家ごと焼き殺されてしまったのです。<br />この時に逃げた村重の家臣5人が、高野山に逃げて匿われていました。<br />これを 知った信長が、天正9年にその家臣5人の引き渡しを命じたのですが、高野山はこれを拒否し、信長の使者を殺してしまいました。<br />これには信長も怒り、全国の高野聖を捕らえて斬殺してしまいました。<br />その人数、数百人とも数千人とも 言われています。<br />ともあれ、このようにして、高野山対信長の戦いは始まったのです。<br />ですから、本能寺の変が起きなければ、私が見た高野山も今とは違っていたのかもしれません。

    お線香を焚きました。
    南無大師遍照金剛先祖代々の文字がくっきりと表れました。

    実は先日、三井記念美術館に大蒔絵展を見にいきました。
    その際に、熊野速水神社の「桐蒔絵手箱」や、高野山の金剛峯寺の「澤千鳥螺鈿蒔絵小唐櫃」「花蝶蒔絵念珠箱」も展示されていました。
    現地では金剛峯寺には行かなかったため、拝見してませんが、改めて数々の宝物が残されていることに気付きました。

    ちなみに高野山大学の図書館には約30万冊の蔵書があるのだそうです。
    その3分の1が、高野山内外の寺院から寄贈等された物で、仏教経典がほとんどです。
    奈良時代の「大日経「蘇悉地羯羅経」「金剛頂経』は、重要文化財に指定されています。
    図書館だけでも圧倒的な蔵書量ですが、高野山全体は約数100万点の仏教資料が残されています。
    特に仏教関係の資料は東洋一、もしかしたら世界一の規模かもしれません。
    ちなみに高野山と同じ時期に創建された比叡山にも同等数の資料が残されていてもいいはずなのですが、残念ながら比叡山にはありません。
    それは織田信長の焼き討ちにあったからです。
    信長は、比叡山を攻め、一部を除いて伽藍や寺院を焼いてしまいました。そして多くの典籍や仏像などが失われてしまったのです。
    幸いにも高野山は、焼かれずに済みました。
    ただ、信長は比叡山だけでなく、高野山も攻め、一説には13万7220余人の兵をもって これを滅ぼそうとしましたが、できなかったのです。
    何故か・・・・。
    それは、高野山を包囲している間に、本能寺の変が起こり、織田信長本人が亡くなってしまったからです。
    この間、高野山側も、じっとしていたわけではありませんでした。
    高野山では、ありとあらゆる呪法を試みて、信長を呪殺しようとしていたらしいのです。
    呪法都市として高野山は平安時代から今日まで、ずっと行われています。
    例えば太平洋戦争の折にも、敵国を相手に連合国調伏の法太元帥法を行なっていたと言います。
    ちなみに、信長がこの地を攻めた時、わかっているだけで高野山は、太元帥法、如法不動法、 如法愛染法 如法勝軍地蔵法などをとり行ない、信長を呪殺しようとしていたようです。
    高野山にとって、信長との戦いは、全山あげての呪法攻撃であり、この意味において、信長の死は、まさに高野山の呪法の勝利だったのかもしれません。
    現実は、明智光秀の裏切りという、あり得ぬことが起こったのですが・・・・。
    高野山側にしてみれば、「脱法の力である」ということになります。

    戦の原因は、天正6年、荒木村重が信長に叛旗を翻しました。
    今日、有岡城の戦いとして知られているこの籠城戦は、この年に始まって、翌天正7年10月まで続きました。
    この城から、村重本人は逃げ出しましたが、その妻や子は信長によって惨殺されました。
    籠城していた家臣の妻子122名は鉄砲などで殺害され、その他男124名、女388名は、 4軒の農家に押し込められ、火を点けられて農家ごと焼き殺されてしまったのです。
    この時に逃げた村重の家臣5人が、高野山に逃げて匿われていました。
    これを 知った信長が、天正9年にその家臣5人の引き渡しを命じたのですが、高野山はこれを拒否し、信長の使者を殺してしまいました。
    これには信長も怒り、全国の高野聖を捕らえて斬殺してしまいました。
    その人数、数百人とも数千人とも 言われています。
    ともあれ、このようにして、高野山対信長の戦いは始まったのです。
    ですから、本能寺の変が起きなければ、私が見た高野山も今とは違っていたのかもしれません。

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