
2022/05/20 - 2022/05/20
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chiaki-kさん
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6回に分けてUPした東北・北海道旅行記も、これで最終章。Lastは宮城・福島編。東日本大震災による福島県の被害というと、どうしても東京電力福島第一原子力発電所の事故ばかりクローズアップされてしまうが、さらに加えて地震や津波の被害も忘れてはならない。
表紙の写真は2021年10月に開館した、福島県浪江町にある「震災遺構・浪江町立請戸小学校」だが、かつてこの地区には半農半漁の集落があり、多くの人々の生活があった。しかし、大津波によりこの小学校だけ残して集落は消滅、さらに、原発事故の影響で災害危険区域に指定されたため、戻りたくても戻れない地域となってしまった。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- グルメ
- 3.5
- ショッピング
- 3.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- その他
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5/20
昨晩泊まった仙台港北にあるホテルを7:30に出発。仙台港を左に見て、県道10号線を南へ移動する。県道を15分ほど走った交差点を左折すると左側にこんな建物が見えてくる。仙台市若林区にある「震災遺構・仙台市立荒浜小学校」だ。 -
2011年3月11日午後2時46分、児童の下校時間に巨大地震が発生し、荒浜地区も強い揺れに見舞われた。児童と避難してきた住民は、津波に備えて4階と屋上に移動する。午後3時55分に最高9mの津波が押し寄せ、校舎の2階まで濁流に呑まれたが、4階や屋上に逃れた児童や住民は無事だった。この東日本大震災で荒浜地区は甚大な被害を受け、校舎も使用できなくなり、東宮城野小学校で授業を再開するが、住民の集団移転等による児童数の減少が続き、2016年3月をもって閉校となった。
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この「ありがとう荒浜小学校」の文字には、屋上に避難して助かった児童や住民達の校舎への感謝の気持ちも込められてている。
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荒浜地区には震災当時、約740世帯2000人以上が暮らしていた。右後方に荒浜小学校も見えている。
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そこに最高9mという津波が襲いかかり、186人の方が亡くなった。あの日、TVにかじりついて見ていた恐ろしい映像だ。
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海岸方面へ少し移動すると「震災遺構・仙台市荒浜地区住宅基礎」があった。
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仙台市HPによると「周辺の整備により震災の爪痕が薄れていく中で、津波の脅威や威力をより実感できる空間として、津波によって浸食された地形や破壊された住宅の基礎のありのままの姿をご覧いただくために、極力手を加えない保存・活用を基本として整備」したそうだ。
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津波が大地を削った跡。松の木の向こう側が海岸。
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震災から数ヶ月後、仙台市は防潮堤だけでは命を守れないとして、荒浜地区を含む沿岸部1213ヘクタールを住宅の新・増築ができない「災害危険区域」に指定した。
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そのため、被災した沿岸部の住民は内陸部へ集団移転をすることになった。
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集団移転では、移転先の土地を借りることはできるが、その上に建てる家は自己負担なので、住民の意見をまとめるのは容易では無かった。
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2014年から15年にかけて、荒浜の元住民の多くは相次いで集団移転した。
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こんな観音像があった。右側の石碑には犠牲となった方々の、お名前が刻んでありましたが、まだ11年しか経っていないのでUPは遠慮しました。
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かつての深沼海水浴場は・・・
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5mほどの防潮堤と、綺麗な砂浜になっていた。
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現在も海水浴は禁止されているが、一部で再開の動きもあるようだ。
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次に訪れたのは「名取市震災復興伝承館」
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この川が名取川。大きな水門が出来ていたが”津波は川から来る”現象がここでも、あったのだろう。
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残念ながら開館時間前だったので入館せず。
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水門には津波到達高の表示があった。この災害による名取市内の死者・行方不明者は950人、全半壊家屋は3,930棟となっている。
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飛行機が何機か飛んでいたのを見て、仙台空港へ寄ってみることにした。
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仙台空港の第1駐車場は1時間200円だが、2000円以上のお買い物をすると2時間まで無料。
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仙台空港国内線ターミナル
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すぐ隣が国際線ターミナルとなっている。
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3階から眺めたターミナル内部。
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制限エリアとエプロン、滑走路が見える。
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仙台空港も海岸に近かったので津波の被害を受けたが、その様子はTVで放送された。
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空港の土産店には東北地方の名産が、ほぼ全て販売しており、マイカーで来ると重量の心配が無いので、どっさり購入してしまった。
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空港からはGoogleナビに切り替え、次の目的地である浪江町を目指す。
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R6を南下中。
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約1時間後、浪江町到着。街中に人気がない。
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更地ばかり目立つ。
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JR浪江駅
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駅前広場に、こんな碑が建てられていた。
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作詞:佐伯孝夫・作曲:佐々木俊一「高原の駅よさようなら」だが、作曲を手がけた佐々木俊一さんは浪江町の出身だそうだ。
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国道から右折する際に発見した「道の駅なみえ」に寄ってみる。
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駅前と比べて賑やかだ。
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「道の駅なみえ」は2020年8月1日オープン。では、入ってみよう。
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少し早かったが、ここで昼食とする。なかなかの混みようだ。白いワイシャツ姿の男性客が多かったのだが、どうも隣の双葉町からやってくる人が多かった気がする。
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シンプルにカレーライス。大きめのお肉が入っており、美味しかった。そして、ここでもお土産をどっさりと購入。さすがに生の牛タン・ブロックは止めておいた。
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R6を5分ほど走った交差点を左折、震災遺構・浪江町請戸小学校を目指す。
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写真は途中の景色だが、かつて左右には豊かな水田が広がっていた。そして、この真っ直ぐな道の向こうには東京電力福島第一原子力発電所がある。
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Googleナビも迷ったようで、ちょっと遠回りをしたが、請戸小学校が見えてきた。
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小学校の周囲には人家は一軒も無く、この建物が無ければ、ここは何だったか解らなくなるような場所だ。
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「震災遺構・浪江町請戸小学校」は2021年10月に開館したが、福島県では最初となる震災遺構だった。町HPには「東日本大震災の脅威や教訓とともに地域の記憶や記録を後世に伝え、防災意識の向上を図るため、被災した町立請戸小学校を震災遺構として一般公開します」とある。(入館料:大人300円)
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津波が来る前の請戸地区は半農半漁の集落だった。
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津波は小学校など一部の建物を残して、全てを消し去った。
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被害後の小学校
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浪江町の状況
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校舎は安全性に配慮しながら、なるべく被災当時の姿を保って保存されていた。2階のベランダには津波の高さを示す表示がある。では、中に入ってみよう。
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2011年3月11日、請戸小学校では、93名の児童が通学していた。1年生はすでに帰宅していたが、2~6年生は学校にいて、卒業式の準備などをしていた。写真は穴の空いた体育館の床と、卒業証書授与式の看板がついたままのステージ。
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14時46分、地震発生。”またか”という思いだったが、今回のは特別に大きく、机ごと数十センチ移動してしまった子もいた。
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14時47分、「早く校庭へ出なさい」と校内放送があり、児童達は校庭に避難した。
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14時54分、校内にいた2年生以上の82名は全員が校庭に避難したことを確認後、教務主任の先導で、かねてからの避難場所に決めてあった大平山に向けて避難を開始した。写真は破壊された給食室の残骸。
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先生と児童は懸命に走り、大平山の麓までたどりついたが、その先の道がわからない。しかし、1人の児童が山への入り口を知っており、全員山へ登ることができた。写真は大平山方面と思われるが、手前には廃棄物を処理する施設となっていた。
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これが先生と児童達の避難経路。R6まで出て役場へ向かおうとしていると、偶然、通りかかった大型トラックに乗せてもらい、役場まで避難することが出来た。その後、請戸地区の住民は役場隣の「サンシャイン浪江」へ移動するが、その後、すでに帰宅していた1年生の全員無事も確認された。
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小学校の玄関
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そしてモニュメントには津波の高さを示す表示がある。
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一旦、避難所に落ち着いた住民に悲報がもたらされるのに時間はそれほど要しなかった。それは隣の双葉町・大熊町にある東京電力福島第一原子力発電所(以後・原発と称す)の事故発生のニュースだった。
3月14日、原発から半径20km圏内(後に30kmと訂正)の全域に避難指示が出された為、仮役場が同県内の二本松市に設置され、多くの住民が移動・避難することになった。このため、185人の行方不明者の捜索も出来ず、家のあった場所へ戻ることも出来なくなってしまった。行方不明者の捜索は4月14日からやっと始まったが、写真はその時のものと思われる。遠くに原発の排気筒が見える。 -
校舎2階にあったのは小学校卒業生達で作った請戸集落のミニチュア。現在は、この震災遺構の小学校と、漁港の一部を残して全て消え去ってしまったが、ここに生まれ育った人達の心の中には、長く生き続けることだろう。
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2017年、帰還困難区域を除き避難指示が解除され、役場機能の大半が二本松市の仮役場から元の浪江町役場本庁舎へと戻された。
2021年10月、「震災遺構・浪江町請戸小学校」の開館イベントで請戸地区にあった田植え踊りが披露されたが当時請戸小学校の6年生で、これまでもずっと田植踊の担い手として尽力してきた中の一人、○山和佳奈さんが卒業生を代表し最後に挨拶しました。 -
「6年間、数えきれないほどの思い出があった。請戸を大事に思っているのは私だけではない。来館された方には小学校は衝撃的で悲しく観えるかもしれないが、すべてを失った私には、残ってくれたことが嬉しく、明るい気持ちになる。請戸の地域の方の顔を思い出せる場だ。請戸の人々がもう一度集まるような場所になってほしいと思う」などと小学校と地域に込めた思いを述べました。(一般社団法人:まちづくりなみえ:なみえの今)より抜粋
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浪江町の隣、双葉町へ入る。
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双葉町は現在も、北東部と双葉駅周辺の一部を除いたほぼ全域が「帰還困難区域」に指定されているため、2022年1月現在、全域が一日を通して人の住む事が出来ない日本唯一の市区町村である。
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住む人がいない家の前はカイヅカイブキが巨大化している。
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地震で壊れた箇所はそのままの状態。
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駅だけは復興しているが、役場はまだ、いわき市にある。
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駅からR6に抜ける通りにはかつて・・・
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こんな標識が建てられていた。すでに撤去済みなのだが、何故か、今でもGoogleのストリートビューで見ることができる。
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反対側は、この通り。なお、右側にある建物は公民館や生涯学習センターだが、すでに取り壊されてしまい、今はもう無い。
2020年に実施した住民意向調査では、回答者の62.1%が双葉町に戻らないと決めていると回答したのに対し、戻りたいと考えていると回答したのは10.8%にすぎなかった。双葉町に”明るい未来”がくるのは、いつの日なのか解らない状態は、未だに続いている。
この後、大熊町や、いわき市にも寄る計画だったが、家から早く帰れとの指示?があったので常磐自動車道・常磐双葉ICから高速道に乗り、常磐道→北関東道→関越道→上信越道を、ひた走って17:00頃に帰宅する。6日間の走行距離は2,313.9km、自分にお疲れ様。
これで「2022年 東北・北海道 6:仙台荒浜小学校、仙台空港、浪江町請戸小学校&双葉町」及び、2022年 東北・北海道旅行記は終了です。本日も、重い旅行記を最期まで、ご覧頂きありがとうございます。全編、ご覧頂いた方には最大の「ありがとう」を差し上げます。 -
RESULT
今回の給油は、遊佐町、北斗市、北広島市、山元町、佐久市と5回給油。2,313.9kmの走行距離に対し、109.86L給油したので平均燃費は21.06km/Lとカタログ通りの数値が出ました。なお、一番高かったのは遊佐町で174円/L、安かったのは北広島市で、驚きの156円/Lでした。 -
OMAKE1
マイカーの最大の長所はお土産に重量制限が無いこと!
う~ん、買いすぎたぁぁぁぁぁ・・・←これ短所 -
OMAKE2
まずは液体から、定番のサッポロ・クラシック。千歳のイオンで24本入り2ケース、買うつもりでしたが、ありませんでした、残念。 -
OMAKE3
今、國稀を飲んでいますが、美味しいです。 -
OMAKE4
札幌大通り地下街にあったジュピターで、こんなものまで。コーヒーはハワイ・コナ・マカダミアフレーバーです。 札幌でハワイに行こう!? -
OMAKE5
自分で作る松前漬け、大成功でした。 -
OMAKE6
セイコマートで購入したカップ麺。山わさび麺、改良されたせいか、評判ほど辛くなかったです。 -
OMAKE7
きりが無いのでこれで止めますが、仙台空港で購入した盛岡冷麺。大好評でした。
おしまい
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