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2021年7月21日(水)のお昼前、風鈴寺として知られる京都府宇治田原町の正寿院に出掛けた。宇治田原と云っても、町の西部の山の中、滋賀県に近いところ。それでも、私の住んでいる京田辺からは車だと30分くらい。<br /><br />宇治田原町は1956年(昭和31年)に現在の町域の西側に当たる田原村と東側の宇治田原村が合併して誕生。綴喜(つづき)郡に井手町と共に残る。人口は約9000人で、京都府の26の市町村の中では6番目に少ない。面積は60平方㎞弱で、こちらは16番目の広さ。府内は北西が宇治市、西に城陽市と井手町、南が和束町に接し、残る北東は滋賀県大津市に、東が同じく滋賀県甲賀市に接している。<br /><br />鎌倉時代に茶の栽培がはじまり、江戸時代中頃、現代の緑茶製法の礎となる青製煎茶製法がこの地で生まれた、まさに日本緑茶のふるさとといえる町で、現在も府内の宇治茶の主要な産地の一角を占めている。<br /><br />町域の約7割が山林で、林業はお茶と並ぶ主要産業だったが、近年の林業を取り巻く危機的状況により、スギやヒノキの人工林の荒廃、餌を奪われた野生動物による農作物の食害などが発生して社会問題となっている。<br /><br />また、民間が開発・分譲する2カ所の工業団地があり、60社近い企業が立地・操業し、雇用や税収面で大きく貢献している。町のほぼ中央を東西に横切る国道307号線、確かにトラック多いんだよね。現在は高速道路はないが、工事中の新名神が開通すれば宇治田原ICが出来る予定。鉄道は通っておらず、京田辺もしくは宇治に出ることになる。<br /><br />田原と云う地名は由来は不明だが、古くからあり、飛鳥時代の壬申の乱で天武天皇(大海人皇子)が吉野から大津に攻め上がる途中に、山城国の田原に立ち寄ったと宇治拾遺物語にある。また、その甥で天智天皇第7皇子の芝基(施基)皇子は、田原に館を構え、陵墓も造られたので、田原天皇と称される。<br /><br />1889年(明治22年)の町村制の施行により、郷ノ口村、南村、荒木村、高尾村および立川村贄田が田原村となり、岩山村、禅定寺村、湯屋谷村、奥山田村および以外の立川村が宇治田原村となったが、現在の町の中心は旧田原村の部分になる。<br /><br />城陽から枚方と彦根を結ぶ国道307号線を東に進み、工業団地を過ぎて山道に入り、2019年に完成した奥山田バイパスの大杉トンネルを抜けたところで、側道を降り、南側の細い谷道を300mほど登り、11時半過ぎに正寿院の駐車場に到着。<br /><br />正寿院は高野山真言宗の寺院で山号は慈眼山。鎌倉時代に府県境近くにあった飯尾山医王教寺(現在は廃寺)の塔頭寺院として創建されたが衰退し、安土桃山時代の1596年に祐胤大徳が中興した。南山城地域の最高峰であり、古くから山岳信仰の霊場である鷲峰山(じゅぶせん)の麓でもあることから、古くから修験の修行道場、宿場として栄えた。<br /><br />夏季に開催される風鈴まつりが有名で、京都の風鈴寺とも呼ばれる。今回訪れたのもそれが目的。拝観料700円を払って境内に入ると2000個を越える風鈴が迎えてくれる。圧巻の光景。キラキラがとても綺麗だし、その音色がまた堪らない。さらに、風鈴の中を抜けて奥の本堂へ進むと内陣前の部屋に全国47都道府県ご当地風鈴も並べて展示されている(下の写真1と2)。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.7696302383773052&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />この本堂は約250年前、江戸中期に建てられたもの。内陣に置かれているご本尊の木造十一面観世音立像は秘仏で、50年に1度だけ開帳される。鎌倉時代後期から室町時代の造立と考えられており、截金と衣の流れが美しい像で、宇治田原町の指定文化財。次の御開帳は2040年だそうだ。この他、国の重文に指定されている鎌倉時代快慶の作の木造不動明王坐像もあるが、奈良国立博物館に寄託中とのことで写真のみ飾られている。<br /><br />内陣の天井画、板戸や奥の部屋に掛けられている掛軸は全て本堂が建てられた頃に書かれたもの。天井画は88枚あり、種字曼荼羅と云われ1枚1枚に仏さまを表わす梵字が書かれている。板戸は4枚あり、獅子と牡丹が描かれている。掛軸の多くにも動物が描かれている。<br /><br />コロナ前には内陣前の部屋の縁側でお茶とお菓子を戴きながらお寺の説明を聞いたようだが、コロナ禍以降は無くなった。ただ、お菓子は受付で戴けたので、我々は帰ってから戴いた(下の写真3)。<br /><br />本堂の左手、西側を回り込んで裏手に回り込むと小さなお庭。手前、西側の部分は船形の庭。この地が昔は海であったことから苔と石が組まれて船の形に見立てられている。この船はこのお寺のご本尊の観音さまが降り立つされる南方の補陀落浄土へ出帆する様を表わしている。<br /><br />この庭に面した板戸には葡萄と栗鼠が描かれており、問答が書かれている(下の写真4)。17匹の栗鼠を3グループに分けるようだが、よう意味が分からん・・・。以上で本堂参拝は終了。<br /><br />風鈴が溢れている境内の一角には地蔵堂があるが、色とりどりの紐が結ばれている。これは叶紐と云われ、結び目の表が「口」、裏が「十」に結ばれたもの。この叶紐を願いを込めて結ぶと願いが叶うと云われており、このお堂は叶堂とも呼ばれる。<br /><br />地蔵堂の隣には弁財天が祀られているが、これはこのお寺の近くに小さな滝があり、周辺の地域一帯の生活水を担っていたことから水の神様とされる弁財天を祀ったもの。その近くには花手水もあり、きれいな花が飾られている。あと、境内にある百日紅の木は樹齢約400年とのこと(下の写真5)。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.7696330613770229&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />続いて客殿に向かうが続く

京都 宇治田原 正寿院(Shojuin temple,Ujitawara,Kyoto,JP)

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2021/07/21 - 2021/07/21

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旅行記グループ 宇治田原

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ちふゆ

ちふゆさん

2021年7月21日(水)のお昼前、風鈴寺として知られる京都府宇治田原町の正寿院に出掛けた。宇治田原と云っても、町の西部の山の中、滋賀県に近いところ。それでも、私の住んでいる京田辺からは車だと30分くらい。

宇治田原町は1956年(昭和31年)に現在の町域の西側に当たる田原村と東側の宇治田原村が合併して誕生。綴喜(つづき)郡に井手町と共に残る。人口は約9000人で、京都府の26の市町村の中では6番目に少ない。面積は60平方㎞弱で、こちらは16番目の広さ。府内は北西が宇治市、西に城陽市と井手町、南が和束町に接し、残る北東は滋賀県大津市に、東が同じく滋賀県甲賀市に接している。

鎌倉時代に茶の栽培がはじまり、江戸時代中頃、現代の緑茶製法の礎となる青製煎茶製法がこの地で生まれた、まさに日本緑茶のふるさとといえる町で、現在も府内の宇治茶の主要な産地の一角を占めている。

町域の約7割が山林で、林業はお茶と並ぶ主要産業だったが、近年の林業を取り巻く危機的状況により、スギやヒノキの人工林の荒廃、餌を奪われた野生動物による農作物の食害などが発生して社会問題となっている。

また、民間が開発・分譲する2カ所の工業団地があり、60社近い企業が立地・操業し、雇用や税収面で大きく貢献している。町のほぼ中央を東西に横切る国道307号線、確かにトラック多いんだよね。現在は高速道路はないが、工事中の新名神が開通すれば宇治田原ICが出来る予定。鉄道は通っておらず、京田辺もしくは宇治に出ることになる。

田原と云う地名は由来は不明だが、古くからあり、飛鳥時代の壬申の乱で天武天皇(大海人皇子)が吉野から大津に攻め上がる途中に、山城国の田原に立ち寄ったと宇治拾遺物語にある。また、その甥で天智天皇第7皇子の芝基(施基)皇子は、田原に館を構え、陵墓も造られたので、田原天皇と称される。

1889年(明治22年)の町村制の施行により、郷ノ口村、南村、荒木村、高尾村および立川村贄田が田原村となり、岩山村、禅定寺村、湯屋谷村、奥山田村および以外の立川村が宇治田原村となったが、現在の町の中心は旧田原村の部分になる。

城陽から枚方と彦根を結ぶ国道307号線を東に進み、工業団地を過ぎて山道に入り、2019年に完成した奥山田バイパスの大杉トンネルを抜けたところで、側道を降り、南側の細い谷道を300mほど登り、11時半過ぎに正寿院の駐車場に到着。

正寿院は高野山真言宗の寺院で山号は慈眼山。鎌倉時代に府県境近くにあった飯尾山医王教寺(現在は廃寺)の塔頭寺院として創建されたが衰退し、安土桃山時代の1596年に祐胤大徳が中興した。南山城地域の最高峰であり、古くから山岳信仰の霊場である鷲峰山(じゅぶせん)の麓でもあることから、古くから修験の修行道場、宿場として栄えた。

夏季に開催される風鈴まつりが有名で、京都の風鈴寺とも呼ばれる。今回訪れたのもそれが目的。拝観料700円を払って境内に入ると2000個を越える風鈴が迎えてくれる。圧巻の光景。キラキラがとても綺麗だし、その音色がまた堪らない。さらに、風鈴の中を抜けて奥の本堂へ進むと内陣前の部屋に全国47都道府県ご当地風鈴も並べて展示されている(下の写真1と2)。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.7696302383773052&type=1&l=223fe1adec

この本堂は約250年前、江戸中期に建てられたもの。内陣に置かれているご本尊の木造十一面観世音立像は秘仏で、50年に1度だけ開帳される。鎌倉時代後期から室町時代の造立と考えられており、截金と衣の流れが美しい像で、宇治田原町の指定文化財。次の御開帳は2040年だそうだ。この他、国の重文に指定されている鎌倉時代快慶の作の木造不動明王坐像もあるが、奈良国立博物館に寄託中とのことで写真のみ飾られている。

内陣の天井画、板戸や奥の部屋に掛けられている掛軸は全て本堂が建てられた頃に書かれたもの。天井画は88枚あり、種字曼荼羅と云われ1枚1枚に仏さまを表わす梵字が書かれている。板戸は4枚あり、獅子と牡丹が描かれている。掛軸の多くにも動物が描かれている。

コロナ前には内陣前の部屋の縁側でお茶とお菓子を戴きながらお寺の説明を聞いたようだが、コロナ禍以降は無くなった。ただ、お菓子は受付で戴けたので、我々は帰ってから戴いた(下の写真3)。

本堂の左手、西側を回り込んで裏手に回り込むと小さなお庭。手前、西側の部分は船形の庭。この地が昔は海であったことから苔と石が組まれて船の形に見立てられている。この船はこのお寺のご本尊の観音さまが降り立つされる南方の補陀落浄土へ出帆する様を表わしている。

この庭に面した板戸には葡萄と栗鼠が描かれており、問答が書かれている(下の写真4)。17匹の栗鼠を3グループに分けるようだが、よう意味が分からん・・・。以上で本堂参拝は終了。

風鈴が溢れている境内の一角には地蔵堂があるが、色とりどりの紐が結ばれている。これは叶紐と云われ、結び目の表が「口」、裏が「十」に結ばれたもの。この叶紐を願いを込めて結ぶと願いが叶うと云われており、このお堂は叶堂とも呼ばれる。

地蔵堂の隣には弁財天が祀られているが、これはこのお寺の近くに小さな滝があり、周辺の地域一帯の生活水を担っていたことから水の神様とされる弁財天を祀ったもの。その近くには花手水もあり、きれいな花が飾られている。あと、境内にある百日紅の木は樹齢約400年とのこと(下の写真5)。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.7696330613770229&type=1&l=223fe1adec


続いて客殿に向かうが続く

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  • 写真1 京都、大阪、滋賀のご当地風鈴

    写真1 京都、大阪、滋賀のご当地風鈴

  • 写真2 広島と岡山のご当地風鈴

    写真2 広島と岡山のご当地風鈴

  • 写真3 お土産の煎餅

    写真3 お土産の煎餅

  • 写真4 葡萄栗鼠図問答

    写真4 葡萄栗鼠図問答

  • 写真5 樹齢約400年の百日紅

    写真5 樹齢約400年の百日紅

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