2022/04/12 - 2022/04/13
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Weiwojingさん
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鹿児島市では美術館や博物館での時間もかなり多くとってみたが、その他にも明治以降の近代建築を探して、市内を歩いてみた。さらに串木野市にも足を延ばし、「薩摩藩英国留学生記念館」を訪ねた。その他にも以下のようなところを訪れた。
1.「薩摩藩英国留学生記念館」(串木野市)
2.「異人館(旧鹿児島紡績所技師館)」 (鹿児島市)
3.「尚古集成館(旧集成館機械工場)」 (鹿児島市)
4.「西日本銀行本店」 (鹿児島市)
5.「山形屋デパート」 (鹿児島市)
6.「県政記念館」(旧鹿児島県庁本館)(鹿児島市)
7.「鹿児島市中央公民館」 (鹿児島市)
8.「鹿児島市美術館」 (鹿児島市)
9.「黎明館(鹿児島県歴史・美術センター)] (鹿児島市)
鹿児島市内には思った以上に明治以降の近代建築が多くあり、数日の滞在では多くを見て回ることが出来なかった。またいずれ来てみたいと思っている。
- 旅行の満足度
- 4.5
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鹿児島中央駅前には江戸幕末期に禁じられていた海外への渡航を鹿児島藩から派遣されて英国に渡った19名の彫像が作られている。「若き薩摩の群像」と書かれているが、正に若者たちのどの顔も新しい未来へ向かうべく輝いている。
19名とは、4人の視察員の新納 久脩、寺島 宗則、五代 友厚、堀 孝之、そして町田 久成、 畠山 義成、名越 時成、村橋 久成、朝倉 盛明、鮫島 尚信、松村 淳蔵、森 有礼、高見 弥一、東郷 愛之進、吉田 清成、町田 棟、長澤 鼎、財部 実行の15名の留学生たちである。 彼らは「薩摩スチューデント」(Satuma Students) と言われている -
当初この群像が作られた時は17人しかいなかった。その17人は皆薩摩藩出身であったが、他の2人は他藩出身者だったために除かれたそうである。
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薩摩藩士ではなかった2人とは堀孝之(長崎出島通詞)と高見弥一(土佐藩士)で、2020年やっと2人の像が加わった(中央椅子に座っているのが高見弥一、左側に立っているのが堀孝之)。
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この人物は市来和彦(変名:松村淳蔵)で、英国で学んだ後、アメリカに渡りアナポリス兵学校へ入学し、卒業した。19人の留学生の内唯一軍人となった人物で、日本に帰国後は日本海軍の近代化や海兵教育に尽力した。
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「碑の由来 Ⅰ」
1863年の薩英戦争でヨーロッパ文化の偉大さを知った薩摩藩では、前藩主島津斉彬の意志を継いで英国へ新納久脩以下18名の留学生と外交使節団を派遣した。当時、幕府は日本人の海外渡航を禁じていたので、変名を用いて出発した。 -
「碑の由来 Ⅱ」
留学生たちは英国で様々な分野で学び、帰国後はその成果を遺憾なく発揮した。彼らが学んだ知識は幕末期の混乱に際して薩摩藩のみならず日本中に大きな影響を与えた。 -
念願の「薩摩藩英国留学生記念館」を訪れた。今回は元々この記念館を訪ねる積りはなかったが、前日鹿児島で偶然ここの館長とお会いする機会があり、ぜひ来てみてはどうですかと勧められて、時間の余裕があったので午前中に訪れてみた。
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鹿児島中央駅から鹿児島本線に乗って串木野駅へ来た。この駅は小さく、しかも無人駅で、小生が降りた時は他に数人いただけであった。時間は1時間半位かかったが、早速「薩摩藩英国留学生記念館」へ向かった。ただ、駅からここまでかなりの距離があり、足の便としてタクシーしかなかったが、車での出迎えをあらかじめお願いしてあったので、すぐ来てくれた。
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串木野駅前には「鹿児島本線生みの親 長谷場 純孝先生(1854年/安政元年~1914/大正3)像」がある。
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「8620形蒸気機関車68660号」の一部が展示されていて、この蒸気機関車は八六(ハチロク)と呼ばれ、大正から昭和にかけて鹿児島本線で50年間走っていた。
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港のすぐそばに「薩摩藩英国留学生記念館」があつた。送迎の車で20分位かかった。最初なぜこんな辺鄙な、しかも海の側で交通不便なところにあるるのかと訝しく思ったが、それはすぐ分かった。
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海外への渡航が禁止されていたた時代に19人の留学生たちは密かにこの羽鳥の場所からイギリスへ旅立ったのである。それも長崎の貿易商トーマス・グラバーの助けを得て出国した。
その出発がこの小さな羽島浦の港であった。目につかぬように姿を変え、沖合で待ち受けていた英国船に乗り込んだのである。 -
19名全員の肖像写真が紹介されている。
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英国に密航した青年たちの集合写真がある。ロンドンに着いて間もなく撮影された彼ら(うち16名)の写真である。どの顔も緊張の面持ちの様子が窺える。
前列右から中村 博愛、松村 淳蔵、森 有礼、後列右から名越 時成、東郷 愛之進、村橋 久成、高見 弥一、畠山 義成である。 -
さらにもう一枚あるが、前列右から財部実行(15歳)、町田 久成、長澤鼎(13歳)、後列右から吉田 清成、寺島 宗則、鮫島 尚信、町田 棟、朝倉 盛明である。最年少の2人(財部と長澤)が前列にいる。
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留学生たちロはンドンで視察や勉学に取り組んだが、この地図は彼らが学んだり、視察したところを示した地図である。
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記念館の様子はこんな具合である。交通不便なところに位置しているせいか見学者は小生以外には一人だけであった。
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案内の職員を付けてくれて解説を聞きながら見て回った。展示は様々な当時の資料、写真、地図などを用いて展示されていて、見やすく、分かりやすかった。
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ちょうど「RED HEART 五大友厚展」が開催中で、興味深い展覧会を見ることが出来た。視察員の一人であった五代友厚に特化した展覧会である。
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"FOUNTAIN GROVE" というラベルを張ったワインが展示されていた。これはアメリカのカリフォルニアで生産されたていたワインであるが、実は英国へ留学したひとりが日本に帰国せずにアメリカに渡り、ワイン製造に成功し、作り上げたものである。
この人物は長沢鼎(かなえ)といい、英国に渡った時は最年少の13才であった。 -
長沢鼎が手掛けたワインは「ファンテングローブ」という名前で、彼が亡くなってからも作られ、しかも第2次世界大戦中においても作られていたそうだ。
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長沢鼎が17歳の時に書き記した雑記帳がある。知人を頼り、アメリカに渡った長沢は今後どうすべきかを思い悩んでいる様子が書かれている。書きなぐられた右頁には Prison(監獄)が15カ所、Egypt(エジプト)が6カ所書かれている。アメリカに残るべきか、それとも帰国すべきかを思い悩み、置かれた状況をモーゼがエジプトからユダヤ人を脱出させた旧約聖書の「出エジプト記」に重ねたのかもしれない。
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映像で留学生たちの紹介があり、その中で「ますら雄の たけき心を振りおこし 出行すかた雄々しかりけり」という市来和彦の和歌が紹介されている。
これは正に自らを鼓舞するような旅立の決意を示す歌であり、彼の心情を思うと感動させられた。 -
記念館の2階に留学生たちの顔写真がずらっと並べられている。一人一人の顔をながめていると、鹿児島が生んだ偉大な先人たちの思いが伝わってくる。
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海岸に面したところに、「君か為忍ぶ船路知りながら けふの別れをいかで忍ひん」(薩摩藩渡欧留学生 畠山義成)と記された碑が建っている。
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記念館2階ベランダから小さな港の様子が眺められる。見たところ、港の周りには道路に沿って集落があるだけである。
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小さな防波堤があり、そこに囲まれるようにして港がある。このような小さな港から19人の青年たちは旅立った。彼らの思いはどんなだっただろうか。
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見学を終えて、しばらく記念館の周辺を歩いてみた。記念館のわきに赤い色をした鳥居があるのには驚いた。ただ鳥居があるだけである。
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ここは正に小さな漁村である。人の往来の様子もなく、静まり返っている。時間があったので少し歩いてみた。
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この辺りは留学生たちが出国した当時とあまり変わらぬ風景のようだ。
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帰りも車で海岸線を走る道路を元の串木野駅まで送っていただいた。
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次に、「異人館(旧鹿児島紡績所技術館」を訪れてみた。ここは元々1867年(慶応3)、薩摩藩が日本初の洋式紡績工場・鹿児島紡績所に技術指導を目的としたイギリス人技師7人の宿舎であった。
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正面から建物を撮ってみた。
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ここは玄関部分で、ここから中に入ってみた。
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ここはイギリス人技師たちが暮らしていた時代のアンティク家具が再現された応接室である。
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階段の手すりが目を引いた。
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異人館のすぐ近くに「尚古集成館(旧集成館機械工場)」があり、訪ねてみた。
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南日本銀行本店の建物は、その前を市電で通った時にその美しい姿に引き付けられた。そこで、別な時に来て、写真を撮ってみた。
この建物は、1998年(平成10)に有形登録文化財に登録されたが、1927年(昭和12)鹿児島の技師三上昇の設計で竣工した。建物は1階から3階まではルネッサンスとセセッション様式が混じり合い、3階まで突き通った巨大なコリント様式の列柱は迫力がある。 -
南日本銀行は建設時は4階建て(1部階6階建て)であったが、その後1967年(昭和 )に左側に8階部分が増築された。
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特に目を引いたのは4階列柱部分に施されたコリント様式のオーダーである。
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山形屋デパートも堂々とした姿で、電車通りにそびてている。1751年(宝暦元年)に近江商人が呉服商としてスタートしたが、大正期にデパートとして再建された。しかし、太平洋戦争で崩壊し、その後再出発したものの1998年(平成10)修復され、大きく拡張された。
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塔屋のある建物が本館で、ルネッサンス風のデザインと言ってもよい。その右側が1号館で増築された部分である。
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「県政記念館(旧鹿児島県庁本館」)は2020年、登録有形文化財として指定された。大変美しい、優美な建物である。
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玄関を入ると、先ずは荘厳な雰囲気の空間が出迎えてくれた。
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入り口を入って、目を引いたのは大理石でできた重厚な4本の柱である。
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県政記念館のすぐ隣に「鹿児島県交流センター」がある。前者があまりにも古典的な建物であったので、このセンターとあまりにも対照的であった。
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鹿児島市庁舎本館へ来た。この建物は1937年(昭和 )竣工され、1998年(平成 )に国有形文化財に登録された。市役所の資料によると、「大蔵省営繕管財局の設計になる府県庁舎スタイルを踏襲した市庁舎建築であるが、当時の市長の強い意志により、ベースメント層をも設けずに道路からストレートに入れるようなプランニングをとっている点に特徴がある」とある。
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正面玄関ホールから階段を上がって2階へ行くことが出来る。
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「鹿児島市中央公民館」
1924年(大正13)の皇太子(昭和天皇)のご成婚記念塩業として起工し、1927年(昭和2)に完成した。片岡 安の設計による。2005年、登録有形文化財に指定された。 -
開館した当時は「鹿児島市公会堂」という名前で、公会堂建築としては最初である1918年(大正7)竣工の大阪市中央公会堂より9年遅く、東京市公会堂(現日比谷公会堂)よりも2年、名古屋市公会堂よりも3年早い。
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正面玄関部分の上部を見ると、いろいろな装飾が見える。
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2階には686席のホールがあり、ちょうどこの日は何かのイベントがあるようで、多くの人々が準備に忙しそうに動き回っていた。
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「鹿児島市美術館」を訪れてみた。旅行に出かける時は必ず、地元の美術館や博物館を訪ねることにしている。地元の他にはあまり知られていないような美術家の展覧会があったりして、思わぬ発見があるからである。
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美術館前庭には何体かの彫刻が置かれていて、この彫刻はオーギュスト・ロダンの「ユスタッシュ・ド・サン=ピエール」(1889)で、ロダンが制作した「カレーの市民」の一体である。
ごつごつとした手足やほりの深い顔立ちが見て取れるが、高さ215cmの迫力ある人物像は、重厚な存在感を放っている。 -
こちらはエミール=アントワーヌ・ブールデルの「サッフォー」(1925)である。サッフォーとは紀元前6世紀頃の古代ギリシャの女流詩人をモチーフにした彫像である。膝の上に竪琴を置き、そこに寄りかかって座る詩人は物憂げであり、哀愁を帯びている。
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鹿児島市立美術館では「生誕100 山下清展」が開かれていた。正直言って、山下清は小生にはあまり馴染みのない画家で、これまでそんなに興味がなかった。しかし、今年は彼の生誕100年ということで、展覧会が大々的に開催されていて、せっかくなので見学してみることにした。
このチラシがあちこちに置いてあり、偶然目にして美術館に出かけてみた。来てみると。多くの人が詰めかけているのには驚いた。 -
チラシの裏側には彼の主な作品が紹介されているが、どれも小生には初めて見るものばかりであった。
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会場ではいくつかの作品は写真の撮影が可能であったので、何枚か撮ってみた。しかし、うまく撮れずこの2点しか載せられない。
この作品は「上野の東照宮」(1939年 / 昭和14)で、上野の東照宮の入り口を描いている。 -
「上野の地下鉄」(1937年 / 昭和12)貼り絵
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最後は「黎明館(鹿児島県歴史・美術センター)を紹介したい。いつも各地を旅行する際は必ずその地の美術館や博物館は訪れるようにしている。その地ならではの歴史や文化をしることが出来るからである。
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ここから展示会場に入るが、この画像は黎明館のパンフレットを利用させていただいた。
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「役小角(えんのおずの)像」(江戸時代)
役小角とは初めて目にした像であるが、大和の葛城山で修行し、鬼神を使役して葛城山と金峰山との間に橋を架けさせたと伝えられている。修験道の開祖とされ、修験道では、役行者・神変大菩薩と呼んで崇められている。 -
「中世の石塔」
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鹿児島の中心地と言えば、「天文館」が挙げられるが、大正初めに活動写真館(映画館)などができ、町が賑やかになるきっかけとなった。現代の天文館の基礎となった。
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天文館にあった肉屋の店が再現されている。
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鹿児島と言えば、江戸時代から続く「薩摩焼」がよく知られているが、正直あまり詳しくは知らなかった。博物館には様々な時代や様式の薩摩焼が展示紹介されている。
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「那波列翁(なぽれおん)伝初編」
西郷隆盛は、軍人からフランス皇帝となったナポレオンを尊敬していて、沖永良部島に遠島処分を受けた際にこの伝記を愛読していたという(西郷家旧蔵)。 -
先の「那波列翁伝初編」(四)の表紙。
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このような写真が展示されていた。「ライム・ホームと五代友厚、堀孝之肖像写真」との説明がある。もちろん五代と堀は薩摩藩英国留学生のメンバーであった。
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土地柄、西郷隆盛を描いた絵画や彫刻が多いのには驚いた。これは時任 鵰熊筆による「西郷南洲肖像」で、これは、西郷と言えば、従来よく見るような肖像である。
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床次 正精筆「西郷隆盛」(1891年/明治24)は、洋装姿の肖像画で、大変珍しいのではないだろうか。
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瀬尾 鶴汀筆「南洲先生真像」(1876年/明治9)
瀬尾は大阪詰めの薩摩藩士で、島津斉彬に絵を教えたという。明治9年、鹿児島に変えるために彼のところへ挨拶に来た西郷の姿を描いたものであるという。 -
古賀 忠雄作「現代を見つめる西郷t隆盛蔵」(1976年/昭和51)。隆盛は一体何を見つめているのだろうか。
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中村 晋也作「大久保利通像」(1979年/昭和54)
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黒田 清輝筆「赤き衣を着たる女」(1912年/明治45)
黒田は鹿児島出身で、フランスに留学すると、画家ラファエル・コランに師事した。この作品は、イタリア・ルネッサンス期のフィレンツェで数多く描かれた貴婦人の横顔を意識して描いたと自ら語っている。 -
安達 慎太郎筆「静物 つぼ」(1963年/昭和38)
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鹿児島各地の民俗学的資料が多いのがこの黎明館の特徴と思われるが、正に初めて見るような資料が多いのには驚いた。
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訪れた時は「顔と面」という特別展示が開催中であった。
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「田の神」とは、あまり馴染みのない民俗的神で、鹿児島や九州では多いのだろうか。
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鹿児島県における「田の神の分布と類型」という資料があった。
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「馬頭観音像」
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「媽祖神」
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ユネスコ無形文化遺産登録「来訪神仮面・仮想の神々」が紹介されている。
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どうもよく分からない、大きな張りぼてのようなものが展示されている。祭りにでも使われたのだろうか。
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魚を獲っているジオラマとでも言うのだろうか。なかなか迫力がある。
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この旅行記へのコメント (2)
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- 唐辛子婆さん 2022/05/27 23:00:57
- 役小角(えんのおずの)像
- Tamegaiさま
なんとも興味深い旅をされましたね。
ありきたりの観光地でなくご自分の興味のある所へと導かれるやうに旅する旅。
それが唐辛子婆にとっても理想の旅です。
役小角の本物らしき像をはじめて拝見しました。
以前板橋区の東京大仏のおひざ元でおめにかかったのは顎の長い石像でしたので。
そして私も密航して留学した人たちが出港した場所を訪れてみたいものです。
鹿児島は唐辛子爺の先祖の土地なので近い将来訪ねたいと思っております。
博物館のお面の数々もとても惹かれました。
唐辛子婆
- Weiwojingさん からの返信 2022/05/28 08:27:03
- Re: 役小角(えんのおずの)像
- 唐辛子婆様
うれしい書き込みをありがとうございます。私の旅行は有名な観光地を回ることもいいですが、それよりも地元の歴史や文化に埋もれてしまいそうなものを見て回るというのが主です。
今回は東京にいては分からない鹿児島の秘められた歴史(大げさですが)を探訪してみました。しかし、足の便が不便で、車がないと何とも移動が大変ということを実感しました。その一例は「薩摩藩英国留学生記念館」です。まさにここにある小さな漁村から英国に船出し、日本の将来を担う多くの人物が生まれたことは感無量でした。
役小角については私は初めてその存在を知りました。興味深いものでした。こうしたものを知るのも旅の楽しみのひとつですね。
唐辛子婆様は祖先が鹿児島なのですか。祖先をたどる旅などもいいですね。
ありがとうございました。
Tamegai
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