1978/08/11 - 1978/08/19
783位(同エリア939件中)
おくさん
自転車の旅 山陰編(4)
自転車の旅7日目、津和野教会一軒丸ごと貸して貰った家で迎える朝。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
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6時半のミサにあずかる。とても小さな聖堂だが、畳敷きなのが歴史を感じさせる。その畳にステンドグラスを通した朝の光が色鮮やかに写っていて、この聖堂になくてはならない演出をしている。何だか別世界にいるようだ。お婆さんのシスターがひっそりと与っていたけど、この辺りに修道会があるのかな?
シンプルな感じのする内装もよく見ると結構手が込んでいるみたいだ。やっぱり昔の建物というのは手間暇掛けて凝ったことをするのだろう。神父さんにお礼を言って、8時過ぎに教会を後にする。
町中での旅の朝は、大体駅へ行くことになっている。津和野の隣の山口から前橋に来ている友達が、実家に戻っている筈なので駅前から電話を入れてみる。長話になるだろうと想像して、最初から大枚100円を投入して電話をしたが、何と昨日群馬へ立ってしまったとのこと。すぐに切ってしまう。90円がとこ損したみたい。朝から幸先悪い。
気を取り直して駅前の定食屋で朝飯にする。生卵、焼き海苔、みそ汁、お新香にご飯で350円。こういうのが一番有り難い朝飯だ。できればご飯のお代わり無料だと涙モンなんだが。
食後の歯磨きをすぐ前の駅で済ます。何つっても駅から離れなくちゃ生活に困ることはありません。どっかのサイクリストが旅先で病気になり、駅で3日間シュラフに潜って直したというのを聞いたことがある。駅とは宿泊はもとより、入院さえも出来てしまうという旅人には誠に便利な所なのであります。大きな駅には蕎麦が食べられたり売店などもあるが、逆に大きな駅は泊まれない事の方が多い気がするので一長一短ありです。皆さんも気を付けましょう。
江戸時代、隠れキリシタン数十人が殉教したという乙女峠を目指す。町から少し離れた山の上にあり、登山道入り口に自転車を立てかけて歩きで登る。細く険しい山道で、こんな所を昔、捕まったキリシタン達はどんな思いで登ったのかなーなんてガラにもないことを考える。やっぱり実際の現場といいうのは迫るものがあるってことだ。ここは観光地としてはまるで整備されてなく、当時もこんなもんだったろうと容易に想像できてしまう寂れた所なので尚更だ。なまんだぶなまんだぶなんてふざけたことは、ここでは言ってはいけないのだ。 -
ほぼ登り切った辺りが広場になっていて、そこが殉教の地で小さい聖堂が建っていた。聖堂はもちろん近代になってから建てられたものだ。
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広場は幼稚園の園庭ほどの広さで、当時の配置図と説明版が建っていた。明治元年はまだキリスト教は禁教だったので、長崎で捕まったキリシタン153人は徒歩で津和野まで歩かされてこの地にあった光琳寺に収容されて信仰を捨てるように拷問の毎日を送ったそうだ。氷の張った池での水攻め、三尺牢という立つことも出来ない檻に閉じこめられての拷問で37人が殺される。その中には子供まで含まれていたそうだ。まったく酷いことをしやがる。日本の恥部だろう。外国からの避難があってやっとキリシタンを認めるまでに何千、何万のキリシタンが殺されたことか。
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広場の隅に氷責めしたという池も残っていて、説明の看板も立っている。それには、当時この地にマリア様が現れて、キリシタンの人たちを励ましたと書かれていた。これはその様子を描いたレリーフだった。天の邪鬼の私でさえ、さすがにここでは「ホントかなー?」とは思わずに「そうだったんだぁー」と神妙になる。殉教地効果は絶大だ。
津和野教会のミサで一緒だった老シスターが掃除をしていたので話しかけてみる。シスターも私のことを覚えていてくれてた。狭い聖堂で少ない人数だったから、その時は話はしなくてもお互いに覚えてはいたってことだ。
シスター達は交代でこの教会(と言っても待合室程度の建物)に詰めていて訪れて来た人に接しているそうだ。観光地でもなく有名でもないここまでやって来る人は滅多にいないだろう。せいぜい月に数人と想像する。張り合いがないだろなーと老シスターが気の毒になった。(下世話な感覚だと)
シスターからは台風が近づいていることを教わる!ゲゲッ初耳だ。だから妙に風が強かったのだ。このあととんでもない目に遭わなくちゃいいが。
9時、津和野を後にする。津和野は谷の中にある町で、そっから出るにも入るにも坂を登り下りしなくてはならないと言う、まるで砦のような町だ。谷の上の国道に戻ると、上から津和野の町を一望できる。やっぱり小さな町だなー。でもとてもいい町だったとしみじみ思う。いつかまたやって来たいな。
ここで単独のサイクリストが話しかけてくる。前にどっかで挨拶を交わしたそうだが、まったく覚えてないので向こうはガッカリしてしまった。いや申し訳ない。向かい風の中、萩を目指して走り出す。 -
台風の前触れの風がビュービュー吹きつける中を向かい風に逆らってうんこらペダルを漕ぐ。あんまり風が強いのでその様子を写真に撮ってみたが、静止画で見ると大したもんでなかったので残念かな。ホントは凄いんですよ。
島根県にバイバイし山口県に入る。何か食べたいなーと思いながら走っていると、人里離れた道ばたにリンゴ売りの屋台がポツポツと見えだした。リンゴでも食うかと自転車を止める。土産にする訳じゃなし、2つ売ってくれと言ったら、100円で小さいのを5個もくれた。さすがに5つは食いでがあるなぁ。取りあえず仕舞っておくことにする。リンゴを5つも入れた自転車のフロントバッグはパンパンにふくれ上がってしまった。
11時、テレビニュースや新聞で見たことのある、最近オープンしたばっかりの大きいSLドライブインがあったので寄ってみる。かき氷を食べ、水道を借りてさっき仕入れたリンゴを洗っておく。旅の途中では何でも有るものは利用するのが旅の知恵だ。
相変わらず凄い突風が吹き荒れているが、9号を離れひと山越えて萩へ向かう道は今までと違い北西に向かうので、こっからは突然追い風に変わる。キャッホーだ。
昼を過ぎたが、まったくの山の中なので店など皆無だ。しかし、朝買ったリンゴが4個も残っている。こういう時、喰いモンを持っているのは何とも心強い。この先、半日ほど人家が無くとも走り続けていられる気がする。手頃な木陰があったので腰を下ろしリンゴの昼飯にする。安いしビタミンもあるし、夏の日差しで痛んだお肌にもいいだろう。健康的だ。
山を下っていくこと暫し、通りに萩焼の店がチラホラ見えだしてきた。そろそろ萩市に入ったようだな。昔、教会の英会話教室に冗談で通ってた頃、よく「あいはぶびんつー萩」なんて機械的にやってたのを思い出す。あの頃は萩なんてまさか遠いところで、それが一体どの辺りにあるのかもハッキリと分からなくて、きっと西の方だ程度の認識しかなかった。一生行くことは無いだろうと思っていたが、今その萩に来ているんだ。しかもこんな形で来るとは、それこそ想像も出来なかったよ(当時は旅行もサイクリングも趣味ではなかった)。
そうこうしている内、松陰神社の前に出てしまった。おぉこれは見物予定の松陰神社じゃないか、探す手間が省けてしまった。ラッキー。 -
松陰神社はご存じ吉田松陰を祀ってある神社で、三州同盟碑、松陰記念館等、吉田松陰ゆかりの色んなものが境内に散らばっている。松陰が高杉晋作ら幕末のスターを沢山育てた松下村塾(写真)もここにある。これらは無料で気楽に出たり入ったり出来るので、へーこれがあの有名な松下村塾かよ、ホントかねーっとちょっと信じられない気持ちだ。もしかしてレプリカかな?
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「親おもう 心にまさる 親心」の松蔭が最後に詠んだ句碑があった。これずっと暗記していたよ、なんとも切ない歌だ。
ただ見て楽しむ観光地と違い、こういう歴史的知識を必要とする観光地ではいつものようにフラフラ見て回るだけではいけないのでありまして、賢い旅行者である私は、神社の中ではずっと団体の後について回って、ガイドさんの説明を盗み聞きしているのでありました。ガイドさんも部外者の私が混じっていても見咎めることなく放っておいてくれたので有りがたかったでごわす。 -
当時、危険思想家であった松陰が幽閉されていた杉家旧宅もありました。これ本物かなぁ?といちいち疑問に思って見てしまう私。
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唯一、お金を払って見学した松陰遺墨館には肉筆の書状等が展示してあり、あの吉田松陰が書いたんだと思うと入館料50円の価値は立派にある。これがレプリカである筈がない。
境内の外になるけど、近くには松陰の墓と伊藤博文旧宅があるらしいので、それも歩きで見に行きます。ここまで来たんだから、特に大金の掛からないものは面倒がらずにみんな見て回ります。一生一度の披露宴なんだから豪華にと似たようなモンです。 -
少年マンガで連載された「俺は直角」で有名になった(でもないか、私はそれで知ったんだけど)、萩藩の藩校、明倫館へ行ってみる。地図を頼りに着いてみると、明倫館は実際に使われている学校の一部となってるようで、明倫館はその学校の校庭の中にあった。中は公開してないようだったので外から写真だけ撮っておく。資料くらい見られると思って来たのでちょっとガッカリだな。
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明倫館を過ぎた辺りから空模様が怪しくなってくるが、予定の物は全部見るんだと意欲モリモリで動き回る。今度は木戸孝允(桂小五郎)旧宅を見物する。ここんちは町医者だったそうで、武士用玄関と町人の診療用玄関の二つが隣り合わせにあり面白い造りだった。有名な家なので他の観光客もちらほらやって来ていた。
この近辺は昔のたたずまいが良く保存されており、幕末の大河ドラマをそのまま撮影しても全然おかしくない、と言うより、そこの角から侍が現れても自然に見えちゃいそうな町並みだった。すぐ近くの桂小五郎茶屋で、たまにはあんみつでも食べてみるかと入ったが、茶屋というのにあんみつはない。やっぱり関東のセンスと違うのかなー?仕方なくクリームソーダにする。要するにコーヒー紅茶でなく、こういう甘いのが食べたいんだから少しは疲れが溜まっているんだろう。
茶屋を出たら雨がポツポツと降っていた。空模様が気にはなっていたが、とうとう降ってきてしまったようだ。でも夏のことだから小雨くらいは気にならない。次は萩城を目指す。
あれ!メモ用のボールペンが無いのに気づく。ポケットに入れといたので落としてしまったらしい。街の中だから、金さえ出せばどこでも買える。街の中ばっかりで暮らしていると気が付かないが、店があるというのは実は有り難いことなのだ。それより、萩は城下町なので迷うように作ってあるからこっちの方が困る。観光客泣かせだ。 -
小雨の中、萩城に着いてみると天守閣も何もない。只、お堀に囲まれた公園みたいのに入るのに200円も取るらしい。こんな所に入るのに金が掛かるのかと思うと先ほどの一生一度の披露宴の気持ちはどこへやら、200円の重みがグググッと込み上げてきて止めてしまう。まぁ城郭だけだけど写真も撮れたからいいや。
高杉晋作の家に行ってみる。桂小五郎の侍然とした屋敷と違い、昔ならどこにでもありそうな質素な造りの家が妙に真実味を感じさせる。通りから木戸を入り自由に見物できる。こっちの方が萩城よりずっと価値がありそうなのにタダ!だからではないだろうが、中と言わず外と言わず観光客で賑わっている。いつも一人でフラフラ行動しているから、たまに同じ目的で観光している人混みに入ると何だか華やいだ嬉しい気持ちになる。
屋根の付いたアーケード街に行き、50円のボールペンを買い求め通りの外に出ようとすると、空はどしゃ降りの突風に替わっていた。前橋で雨宿りするのとここで雨宿りするのとでは時間の価値が全く違う。ポンチョを被って昔の獄舎跡を探すことにするが、見つからないので簡単に諦める。
仕方ないので今夜の寝ぐらの萩教会を探すことに変更。こちらも中々見つからないが、こっちは諦める訳にはいかないので真剣に探し続ける。時間的にはまだ遅くはないのだが、もうモロに台風の中状態になってしまい、被っているポンチョはバサバサと吹っとばされそうだ。いー加減に見つかってくれぃ。既に自転車に乗って探すのは危険な状況になってくる。そんな中、萩カトリック教会の大きく明るい看板を見つける。嵐の海に灯台の灯りを見つけた思いだよ~。
何と言っても事前に泊まれる承諾を得ているというのはいいもんで、交渉の言葉なんか考えることなく迷わず司祭館のベルを押す。「アナタハ、タイヘンナトキニキタネー」と外人神父さんが迎えてくれる。司祭館からは離れた、講堂のようにだだっ広い木造の家に案内してくれる。お勝手も付いていて、応接セットが雑然と置いてある。信徒会館らしく、ここで適当に寝てくれということだ。ソファーはありがたいねー、もう、すぐに部屋の隅にあったソファーに目が釘付けになってしまう。
自転車は玄関内にしまい、濡れた服を着替え一息ついてから夕飯を食べに出かける。天気もこんなだし、あれこれ迷わずに歩きで近くの店に入り豚カツ定食と生ビールにする。ビールは余り冷えてない代わりに、大ジョッキに口切りいっぱい注がれている。冷えてる代わりに泡がいっぱい乗っててビールが少な目なのとどっちがいいんだろう?
隣のテーブルには青年二人と女性がやって来て、どうやら青年は旅行者で、女性は地元の人らしい。青年からは「見ず知らずの人にご馳走されて」なんて聞こえてくる。あれま運の良い青年だねー。こっちも旅行者なんだけどと羨ましくなってしまう。まぁ我が身を振り返ればそんな幸運はやってこないのは想像できるよ。
昨日は畳の上で、今日はソファーの上で寝られる。有り難いこってす。これで事前にお願いしてある寝床は使い果たした訳だけど、今回これまでに7泊して、内3泊は教会。あとは野宿だから最後の1泊くらいは金出す宿にしてもいい気がするが、最後なんだからどこでもいいという気もする。要するに、どっちに転んでも良いわけで気楽なモンだ。
自転車の旅 山陰編(5)へ続く
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