2022/04/04 - 2022/04/04
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gianiさん
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一応県庁所在地だから表敬訪問するか。
と軽い気持ちで足を踏み入れた佐賀市。
長らく、利用価値の低い湿地帯でした。
長崎街道を歩き、県立博物館を見学すれば、
奥深い歴史とオリジナリティに富んだ佐賀沼に落ちて、
以来抜け出せなくなっています。
地味県地味市と馬鹿にしていて、本当に申し訳ございませんでした。
前半は、長崎街道佐賀宿を4kmほど走破し、
後半は城跡に鎮座する2つの県立博物館を訪れます。
- 旅行の満足度
- 5.0
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旅の始まりは、長崎街道佐賀宿の船着場跡から。
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街道の南側には、佐賀名薬「野中烏犀圓(のなかうさいえん)」本店が。
野中商店は寛永三年(1626)創業、
寛政八年(1798)に上記の生薬の製造販売を藩から許される。その年に建てられた家屋です。現在も、第3類医薬品として販売されます。
肥前売薬は、越中近江大和と並ぶ四大売薬の一つ。 -
柳町界隈は、金融機関と呉服店履物店が並ぶ、明治期の中心地でした。
恵美須さまは、中国伝来が多数を占める七福神の中で、唯一日本出身の神様です。 -
県下有数の履物屋の家屋
表は長崎街道、裏口は裏十間川(水路・水運)に面し、商売に最適のロケーション。旧久富家住宅 名所・史跡
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旧森永家
森永忠左衛門は、寛政年間に藩からタバコ事業の認可を得、現在地で「幾作美御多葉粉(きざみおんたばこ)」の銘柄で、御用煙草を製造販売した。
第6代の森田作平が生み出した「富士の煙」は、国分・竹田・久木宮葉をブレンドした妙味として、一世を風靡。大隈重信も愛煙し、訪問者に大風呂敷を広げて煙に巻いたとか、、、
日露戦争の戦費ねん出のために、明治37年にタバコの専売法が施行されて転業。 -
旧古賀銀行本店に離接する自宅
明治前半の建築で、当時のステイタスである武家屋敷風の造り。
商家風=町人という旧身分コンプレックスが大きな時代です。旧古賀家 名所・史跡
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各所の装飾が見事です。
佐賀市のスタッフさんが、いろいろな意匠に気づかせてくれました。 -
1階が城下町の説明と飲食店、
2階が著作「葉隠」にまつわる展示内容。旧古賀銀行 (佐賀市歴史民俗館) 美術館・博物館
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前述のタバコの森永家の繁栄ぶり
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藩主はロウソク作りを奨励し、藩東部のの名産となりました。
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2階へ。
江戸が享保の改革の最中、
佐賀藩士山本常朝が記した「葉隠」が誕生。
忠の証として君主の死に殉じようとしたら、追い腹禁止令が出て、しぶしぶ出家した余生の談話を口述筆記したものです。
藩士の心得として、人目に立たない「陰の奉公」を説くこと等が書名の由来といわれています。 -
一番有名にして、独り歩きしている一節がこれ。
「武士道といふは、死ぬ事と見つけたり。」死に損なってふて腐れた出来事と重ね合わせてピックアップされますが、
実際は藩の歴史、儀式のあんちょこ、果ては、あくびの止め方など、1000以上の節は哲学の領域を超え、全体としては充実した生き方にウエイトを置いています。 -
「葉隠」本文は、「この終始は、追って火中すべし」(読み終わったらすぐに焼却処分せよ)という奇妙な内容で始まります。歴代藩主の言行や藩士の逸話を名指しで語っているので、遺恨の元とならないようにという配慮からでした。
内容を暗記した藩士の口述を筆記し、自分も内容を暗記したら焼却する秘伝の内容でした。一時期は藩の禁書に指定されますが、藩の教育の柱として重宝されました。 -
令和人の悩みに「葉隠」が答えます的なコーナー。
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質問に答えていくと、ぴったりの葉隠の格言がもらえます。
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1階のおしゃれなカフェで休憩。
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肥前長崎がトルコライスなら、
肥前佐賀はシシリアンライスだ!
長崎のとんかつ(豚肉を忌む回教徒を何気に侮辱している)に対して、
佐賀はローストビーフと秘伝のドレッシング。
私の軍配は佐賀に。 -
旧古賀銀行の暖炉も。
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長崎街道沿いの伝統的建築。
西洋伝来のバラとの組み合わせがマッチしています。 -
佐賀の城下町を通る旧長崎街道。
九州一番の幹線道路なのに、あちこちで道が折れ曲がり歩きにくいです。
何よりも、有事の防衛を重視しています。 -
開運さが恵比寿ステーション前の光景。
道幅は、江戸時代の長崎街道と同じ間隔との説明がありました。
牛馬とすれ違うには狭いと感じます。開運さが恵比須ステーション 名所・史跡
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初代佐賀藩主となる鍋島直茂が西軍として関ヶ原の戦いに臨んだ後、窮地を救い謝罪の執り成しをした西本願寺の准如上人のために建てた寺。
こうした経緯から、佐賀藩内の浄土真宗は、西本願寺派で統一されます。
長崎街道がクランクしている場所に位置し、有事の際は広い境内に大勢の兵を詰められる軍事上の要所。というのが訪れた際の直感です。願正寺 寺・神社・教会
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中央通りと交わる交差点の表示。
鍋島更紗は朝鮮出兵時に連行した人物が帰化して代々伝承するも、明治に伝統が断絶。刷りと染めの秘伝の技が世襲された。 -
竿恵美須
明治4年ごろの作。 -
竿恵美須の向かいには、楠神社が。
本殿には、1662年作の現存する最古の楠木正成像が。
最期まで後醍醐天皇に尽くした忠臣にあやかって、
幕末には、大隈重信らが境内で尊王討幕運動を決起しました。楠神社 寺・神社・教会
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風雨にさらされる恵美須様を不憫に思った人が屋根(祠)をあてがったえびす像。
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1793年作の、とりわけ古いえびす像。
笑っているのか目を閉じているのか、不思議な表情。
個人的には、モナリザの微笑みかと。 -
伊勢神社に面すると再びクランクします。
1607年製の石鳥居と狛犬が素敵です。伊勢神社 寺・神社・教会
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築地(ついじ)反射炉
日本で最初の実用反射炉。1850年12月に試作の1号炉が完成。実用性を伴う3,4号炉が完成したのは、1852年4月。幕末に日本一の大砲製造技術を持っていた佐賀藩の中枢です。良質の鉄を大量生産して、初めて洋式大砲を製造できます。築地反射炉跡 名所・史跡
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刀鍛冶の職人町。
幕末に洋式反射炉の鉄で大砲や弾丸を造る際に、
彼らがスタッフとして採用されました。肥前忠吉屋敷跡 名所・史跡
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江戸中期の城下町の道しるべ。
方向を示す手が写実的。 -
90度のクランクではなく、斜めの屈折。
三角形の隙間が、有事に鉄砲を構えるスペースに早変わり。
ちなみに写真の久保薬局は、城下で最も古い生薬屋だそうです。のこぎりの歯型のような家並み 名所・史跡
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有志の休憩所が裏にあります。
八戸(やえ)新宿というのが古い地名です。
1557年まで八戸城が存在しましたが、龍造寺隆信によって攻略・破壊されました。現在の国道207号線と208号線が交わる部分が南辺に当たるとされます。
最後の城主、八戸宗暘(むねてる)の息子宗春は山本姓を名乗り、宗春の孫が、「葉隠」の作者山本常朝です。
以上、新栄ふれあいまちづくり協議会歴史文化部会八戸城探究会編「八戸城もの語り」より。 -
借家が並ぶところにありました。
ここまでくると、数キロにわたる佐賀宿も終点です。江藤新平誕生地 名所・史跡
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国道207号線沿いの古刹。成富茂安の墓があります。
佐賀城下を流れる嘉瀬川の治水工事(石井樋)は、400年前の偉業です。本行寺 寺・神社・教会
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境内には江藤新平の墓もあります。
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いよいよ博物館めぐり。
まずは大隈重信記念館
展示物は撮影禁止。
スルーしても構わないかなという内容でした。 -
大隈記念館と長崎街道の間には、葉隠作者の生誕地が。
山本常朝誕生地 名所・史跡
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佐賀の乱に加担した士族を弔っています。
万部島 名所・史跡
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この博物館は及第です!
広い建物ですが、本丸建築の僅か3分の1しか復元していないそうです。
右側の門は、オリジナルです。その証拠に、佐賀の乱で付いた銃痕が残っています。佐賀県立佐賀城本丸歴史館 美術館・博物館
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佐賀城は、龍造寺氏居城の村中城をベースに1611年に完成したお城です。名古屋城・姫路城級とのことです。
堀や水路が城下に張り巡らされていることが分かります。
佐賀藩は、外様大名も中でも第8位の国力(米の生産量基準)です。
海までの距離は4kmでしたが、現在は埋め立てが進み10kmまで後退しています。
九州の有力戦国大名龍造寺隆信の戦死後、息子の政家が、有力家臣の鍋島直茂へ禅定。 -
四十間堀と呼ばれる幅70m以上の堀が凄いインパクトです。お城を囲んでいます。
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長崎警備
鎖国下で外国との窓口だった長崎周辺の警備は、主に国力のある佐賀藩と福岡藩が一年交代で当たっていました。長崎奉行所やオランダ商館との接触によって、佐賀藩は、世界情勢をいち早く察知できました。 -
佐賀七賢人の筆頭10代藩主鍋島直正は、1830年に17歳で家督を継ぎます。長崎警備の経費がかさみ、領土はシーボルト台風の被害が深刻といった財政苦を相続し、返済を迫る貸付商人に大名行列を妨害される屈辱的なスタートでした。
若殿は、商人が持つ債権の8割を放棄させて残りの2割も50年のローン返済で納得させ、藩の役人の80%をリストラします。最初の試練を通して、幕末期に佐幕、尊王、公武合体いずれの勢力とも良好な距離を保つしたたかさを身に着けました。 -
教育改革
直正は、武士の子息が通う藩校「弘道館」を3倍に拡張し、ここを卒業できないと就職できないという、封建制と矛盾するような画期的な制度を定めました。藩外留学も推奨します。役職の世襲ではなく、有能な人材を登用する制度へ変化しました。
寺子屋も450ほど存在し、現在の佐賀県内の小学校の数の2倍に当たります。 -
長崎警備を通して、1840年以降のアヘン戦争に始まる、清国と英国の間の出来事を知ると、軍事を筆頭とする西欧の学問の重要性をいち早く認識します。歴代藩主がフェートン号事件といった長崎警備の現場から何の教訓も得ていなかったのとは、大違いです。
さらに朱子学全盛の世で、疎まれていた蘭学を重要視したのも特筆すべき点です。写真は、1844年に長崎入りしたオランダ軍艦パレンバン号。直正は、大国清に圧勝した西洋式軍艦とその背後の産業革命および軍事訓練に興味を示し、実際に乗り込んで見学します。 -
パレンバン号の入港は、オランダ国王の国書を運ぶための航海でした。内容は日本に開国を促すものでした。時の老中阿部正弘(写真)は開国を拒否し、海防掛という役所を設立して、国防を強化します。産業革命と欧米のアジア進出といった世情は、重く受け止めたようです。
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パレンバン号乗船の経験を通して、西欧の実力を痛感した直正は、長崎警備を受け身でこなすのではなく、幕府に長崎台場(砲台)建設を提言。拒否されると、自腹を切って長崎台場を築造します。日本を守るのは佐賀藩だという使命感と自負心に突き動かれた結果です。
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築地反射炉
立派な台場を築いても清国と同じ旧式の火器では、長崎を防衛できません。
より大きく、より遠くへ飛ぶ大砲が必要になります。
従来の青銅製ではなく、発射時の圧力にも耐えられる鉄製の洋式大砲を製造するには、良質の鉄を大量生産できる反射炉が不可欠です。1号炉は鉄鉱石ではなく、純度世界一の日本刀を原料に実験しましたが、上手く溶解せず敢無く失敗。1年半に及ぶ試行錯誤を重ねて、ようやく実用化にこぎつけます。 -
「築地反射炉絵図」図解(昭和初期)
実際の配置は異なる部分もある。鉄製鋳立場は、大砲を造る場所。反射炉が2基操業している。砲身は強度を確保するために、筒状の型に鉄を流すのではなく、棒状に型取ったものに穴を開けて筒状にします。西洋では蒸気機関で穴を開けましたが、佐賀藩は水車を動力にしました。
銅製鋳立場は、砲弾を造る場所。銅と錫(融点232度)と混ぜて青銅製の砲弾を製造。 -
黒船来航
ペリーが姿を現したのは、長崎ではなく現在の東京湾。
江戸防衛の重要性を痛感した幕府は、品川沖に台場を構築(現在のお台場地区)。そこに設置する大砲を佐賀藩に注文した。明治に至るまで、洋式大砲を製造できたのは佐賀藩オンリーだった。
余談ですが、パレンバン号等は帆船。黒船は蒸気エンジンで自走する船の一団。ショックは大きかったはずです。 -
多布施反射炉(1854~)
最初の黒船来航後に幕府から品川台場向けの大砲50門を受注し、増産体制を敷くために新規建設。約5年間稼働した。
※西洋から最新機械等を購入する際、納品されたら先ず幕府に献上して、その後に使用しています。技術革新に透明性を持たせて、幕府から不必要な疑いを持たれないようにする所に直正のしたたかさを感じます。 -
精錬方
理化学研究所に相当する部門。多布施に設置。オランダの「ロイク国立鉄製大砲鋳造所における鋳造法」等を翻訳するチーム、火薬の実験製造を行うチーム等が存在し、洋式大砲製造をバックアップした。
挿絵に蒸気機関車の模型が線路を走行している様子が描かれているように、その後は軍艦に搭載する蒸気機関の研究などへシフトしていった。 -
寄り道:幕末維新の開市場・開港
1858年の日米修好通商条約で6港2市の開放が決まったが、幕府が開港したのは1859年の長崎・箱館・横浜の3か所のみ。残りの新潟・神戸・東京・大阪は、明治2年に開放された。 -
1858年7月に調印、翌59年7月に発効した日米修好通商条約の批准書を交すために、1860年2月に横浜を出港した外交使節(万延元年遣米使節)の一員に、佐賀藩士も含まれていた。(19世紀とはいえ、ずいぶんと悠長なタイムラインです。)彼らは欧米経由で地球を一周し、帰国後、世界の潮流はオランダではなく英米だと報告する。以降、蘭学に代わって英学が台頭する。
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英学校
1867年に長崎市内の佐賀藩諫早家屋敷内に「蕃学稽古所」を開校。他藩に先駆ける英学校だった。幕府の英学校の教師だったフルベッキを招聘。講師陣には大隈重信等の藩士も顔をそろえる。翌年に致遠館へ改称。
直正の大極的な視点は、藩士が血で血を洗う抗争で藩論を統一させた薩長とは対照的に、平和裏に藩士を明治維新(尊王倒幕)へ誘導しました。戊辰戦争では、佐賀藩の兵器とノウハウが大いに活かされました。一方で、急進的な舵切を避けたゆえに、新政府で佐賀藩出身者は、薩長ほどの発言力を持てなかったことも事実です。 -
エンフィールド銃
1853-1866年にかけてイギリス軍で採用。
戊辰戦争では新政府軍の主力小銃。佐賀藩は、1864年に導入。
飛距離と命中度が飛躍的に向上した。 -
スナイドル銃
1866年にイギリス軍が採用。
戊辰戦争で実戦投入され、大日本帝国陸軍は明治30年まで使用している。
エンフィールド銃は火縄銃と同じ前装式(マスケット銃。銃口に棒を押し込んで弾を込める)だが、こちらは後装式なので弾薬の装填が簡単になり、発射間隔が短縮された。
エンフィードル銃を改造した設計。 -
スペンサー銃
1860年にアメリカ人スペンサーが設計し、南北戦争で大活躍した。
一度に7連射できる。銃弾はカートリッジ式装填のために容易で、上記の銃よりも1分間に多くの弾を撃てる。射程距離が短めなので、騎馬戦などの接近戦で威力を発揮する。
佐賀藩は慶応年間に輸入し、戊辰戦争では両陣営が盛んに使用した。 -
佐賀への沼落ちを決定付けた博物館。
佐賀県立博物館 美術館・博物館
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佐賀平野
縄文期は有明海の一部でした。
江戸時代の海岸線と干拓が進んだ現在の海岸線は、大きく離れています。 -
古代・中世
律令制度では、現在の佐賀・長崎県は肥前国を構成しました。
特に佐賀県は荘園天国で、京都の有名寺社の領土でした。
佐嘉(佐賀)と鳥栖は、大宰府天満宮の荘園でした。
両者の中間に位置する神埼は皇室領で、平安末期には外戚となった平清盛が運営した日宋貿易の拠点になりました。 -
江戸時代
有明海沿いは佐賀藩、玄海灘沿いは唐津藩(赤色)、その中間は幕府領(紫ストライプ模様)という布陣です。
鳥栖の一部は対馬藩の飛び地(濃紫)でした。
佐賀藩は中世の体質が濃く、藩の直轄領は僅か(黄色)で、支藩や旧宗主家系領・有力家臣領(いわゆる知行地)が大半を占め、土地を仲立ちとする封建制度のお手本みたいな状態でした。 -
佐賀の売薬
肥前は売薬で有名でした。佐賀城下でも盛んでしたが、何といっても対馬藩領の田代が有名でした。
田代売薬(置き薬ビジネス)は18世紀中ごろに確立し、100年で近畿以西を席巻しました。
明治以降も佐賀城下は手工業で家伝薬を製造したのに対し、田代は工場制手工業、工場制工業化を果たし、久光製薬のサロンパスは昭和9年発売以来のロングセラーです。
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