2021/12/21 - 2021/12/21
224位(同エリア3389件中)
あの街からさん
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京都観光2日目は、『金閣寺』へ。
友人も京都に来てもしばらく行ってなかったという金閣寺
自分たちも、2020年12月改修工事後は 初めてなので
定番だけど日程に入れて♪楽しみにしてきました。
金閣寺へは、ホテル近くのバス停から乗り換え無しの直行バス
があり便利でした。バスで35分程の比較的郊外にありますが
市バスは230円の均一料金。安くっていいなぁ。とその時は
感じましたが、訪れた前後くらいに市バスの値上げのニュースを
見、あぁまた値上げかぁ。と、
今度はそんな風に反応してしまいました。(⌒-⌒; )
さて、この日の日程は、金閣寺~龍安寺~仁和寺と
回る予定を組んでいました。
冬晴れとでも言ったらいいのでしょうか。
京都に入ってから連日いい天気でダウンコート
では、暑いという程暖かな日でした。
風もなく鏡湖池〈きょうこち)に、鏡のように写った
逆さ金閣寺がとても綺麗でした。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 交通手段
- 高速・路線バス タクシー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
随分と長いこと私は
京都のイメージと言えば
後ろ姿の舞妓さんが
金閣寺を背に立っている。
というものでした。
それは、きっと修学旅行で初めて京都に行った時
絵葉書やら土産物の包装紙のなどが頭の中に
焼き付いたのでしょうか。 -
「金閣寺」へは当初タクシーでと
思っていたのですが、朝の通勤時間帯で
渋滞に遭うかもしれない。とバスで向かうことに。
ホテルから徒歩5分程でしたか
市バス「四条烏丸」から直行
12番系統で渋滞に遭うことも無く35分程と便利でした。 -
イチオシ
この日も暖かく風もない絶好の観光日和となり
金閣寺が鏡湖池(きょうこち)に逆さ金閣を
映し出しとても綺麗でした。 -
『鹿苑寺 金閣』
開門15分前〈手元確認する)に
この掲示文の前で
個人と修学旅行の中学生たちの列に分かれて
並んで待つことに。 -
ザ・定番中の定番『金閣寺』
金色に輝いている舎利殿は
昭和25年(1950年)焼失、三島由紀夫の小説の題材にもなりました。
多くの人々からの嘆きの声が、寄附(寄進)も現れ昭和30年には再建されました。
その後、昭和62年(1987年)昭和の大改修があり、傷んでいた金箔の張り替え工事はそれまでの金箔の10倍としたとのこと。
2003年の平成の大改修以来18年ぶりに行われた舎利殿のこけら葺き屋根の葺替え工事が行われて2020年9月に完成。12月29日から一般公開の運びとなりました。
久しぶりのご対面に思わず(⌒▽⌒)
これまで訪れた時には、人垣の間から
カメラを向け何とかカメラに収めていたとの
印象がありましたが、この日は修学旅行生たちが
クラスごとの記念写真を入口入って直ぐに見える
金閣寺を背景にして撮っていたこともあり
私たちは、周りに人はまばら この間に
比較的ゆるりとカメラに写したりその後のお庭の散策
をすることができ(⌒▽⌒)ました。
-
さて今から600年前 足利義満は 美しい山々に囲まれたこの地に
北山殿という広大な別荘を造りました。
金閣の前に広がる池は海を表しています。そのまん真ん中に浮かぶ島
葦原島(あしはらじま)葦原の国は、日本の古い呼び名。
足利義満は、この島を日本に見立てているのです。
この島には日本の支配者となった義満の思いが込められています。
義満は島の護岸を各地から取り寄せた石で覆い尽くしました。
これら石の中には、義満に忠誠を誓った大名達から寄進された
石も並んでいます。 -
この構図の左手に見えるのが葦原島です。
金閣寺の一層から見ると正面に横たわって見えるのだそうですが
金閣は、もろん立ち入り禁止(⌒-⌒; )です。
三層からの眺めとなれば、葦原島の全景が手に取るように。
将軍の眺めていた絶景がそこには広がっているのでしょう。
島の左手、鳥の嘴のような石。これは、室町時代の権力者
細川頼之から寄進された細川石。それ程大きく見えないのですが
土に埋められている部分を含めると2mもあるそうです。 -
更に義満は
鏡湖池に小舟を浮かべ舟遊びをしたことが知られています。
幸いに、湖に小舟を浮かべずとも鏡湖池に沿って歩道(小径)を
一周すると、目の前に広がっる景色を見ながらイメージする
ことができます。
観光客の少ない時期・時間帯が狙い目ですね。 -
修学旅行(⌒▽⌒)以来 何度『金閣寺』に訪れたことだろう。
けれど、金閣寺を建立した足利義満について詳しくは知らない
ことに気がつきました。これを機に足利義満の人物像について
残されている書物・ウィキペディア・足利義満に迫ったTV番組等を
参考に サラリと紐解いてみました。
【足利義満】(1358年~1408年)
義満が誕生した南北朝時代は、日本史上稀にみる混乱期。
二代将軍 足利義詮の子として京都で生まれた。
いつ倒れてもおかしくない室町幕府を引き継いだのが義満だった。
祖父尊氏が京都に建てた北朝と後醍醐天皇の南朝が
全国の守護大名を巻き込んだ戦いが続いていた。
また、幕府内では、尊氏と弟の直義が対立。
武士たちも二手に分かれて争っていた。
やがて、守護大名たちは、我らが幕府を作ったという実績と自信。
この間備えた軍事力により勝手気儘な行動をとるようになる。
将軍自身は強い直轄軍は持たないことから軍事的にこれら諸将たちと
対立すると勝つことができない。
諸将はそれを楯に将軍に圧迫を加え自分たちの要求をのませる。
この様な戦略的交渉が南北朝時代には一般的であった。
この傾向が二代将軍(義満の父)の時代には深刻化していった。
幕府内での争いで敗れた大名が南朝に寝返り幕府を攻撃。
南朝方に都を奪われる事態に。
この時幼い義満は父義詮と離れ離れになり京都に取り残された。
時に義満4歳。僧侶の衣に隠れて建仁寺大竜庵に逃れ落ち延びたのだった。
1367年二代将軍が38歳という若さで急死。
翌年、義満は11歳で征夷大将軍となる。
その頃強力な力を持つ斯波・土岐・山名・細川の守護大名が
各地を支配しており、守護大名が将軍に対して難題と思われる要求を
突きつけられても処罰ができない状況に無力感と危機感を持った義満。
そこからの出発だった。 -
そこで義満は諸国に自らが出向き
守護大名を、つぶさに自らの目で見その実態を探ろうした。
◯ 秦の始皇帝がやったという地方遊説の旅は、それまで日本では
誰もやった事がない戦略で、自分は力を持ちかつ戦う意気込みがある。
という気迫を守護大名たちに見せることに成功した。
さらには、誰が味方に、誰が敵にとの情報収集を自ら行った。
◯守護大名たちは、義満が自国に遊説に来る前に他国での接待法等
互いに探り合いをすることになり戦力のほこ先を変えることとなった。
そして、
◯積極的に守護たちの師弟を抱え始め将軍直轄の〈馬廻衆〉を結成。
◯一族内に不和を起こさせ結束を弱体化し
有力大名の土岐(尾張)に続いて、
その力は幕府を上回ると言われていた山名(山陰)に
同様の手口を仕掛けたが失敗。
山名は、1391年〈明徳の乱〉を起こし5000騎もの軍勢を
率いて京都に攻め登ってきた。
しかし、
◯「京都は街道を三方から塞がれると直ぐに食料が枯渇し
逃げ場も失われてしまう。守る側にとっては不利な場所だった。
幕府の基本戦略は、先ず一度京都を捨てて摂津の国とか近江国
西と東から挟み撃ちにして京都を奪還した。
(南北朝時代の都で起こった合戦を研究する花田卓司准教授)
この時代、互いに敵の軍勢が迫ると京都を捨てて逃げることが
繰り返されていた。
また
義満の諸国への旅路では、得難い出会いをもたらした。
周防・長門・石見等(現在の山口県)を治める守護大名大内義弘。
南朝勢力が根強かった九州においても幕府方としてその強さは
都でも知られていた。
大内は義満を特別な館で厚くもてなした。
大内を気に入った義満は、そのまま都へ連れてゆき
中央の政治に登用。その後、自分の右腕として重きを置いた。 -
◯明徳の乱でも、義満の周りでは従前の策をと勧めたが、
義満は都で戦うことを選んだ。
山名軍5000騎vs幕府軍14,000騎数では優勢だが、
地理条件から戦いを難しくしていた。
◯戦力の主力だった騎馬武者にとっては狭い通りでは戦い難かった。
そこで義満は、平安京時代には官庁街〈大内裏〉だった
場所の前が鎌倉時代の戦火によって広大な空き地となっていることに
目をつけ、そこに突入してきた山名勢を取り囲み壊滅状態にした。
この戦いでは、大内義弘も大奮闘。
京都を捨てずに守り抜くこの常識破りの戦いで、義満は最前線に出陣し、
諸大名にその力をみせることに成功した。
このようにして
強力な大名たちを次々と倒し将軍の権威を確かなものとした。
◯翌年1392年南北朝を合一した。将軍の立場を確かなものとしていった。 -
◯南北朝合一の2年後1394年義満は征夷大将軍でありながら
公家社会の最高位である太政大臣に就任。過去に例の無い
武家・公家の最高権力者となった。
◯そんな義満に対して人知れず不満を募らせている者がいた。
義満の右腕として活躍してきた大内義弘だ。
◯義満は出家から2年後京都北山に金閣を始めとする
壮麗な別荘を造営しょうとしていた。
守護大名たちにも人を出すように命じたが、大内義弘ただ一人
「自分の家臣は戦を生業にしているので工事に使役される
いわれはない。」拒否し反逆心が顕著に現れた。
その端緒は、大内が九州で幕府と敵対する勢力と戦っていた時
義満は、その相手方に密かに大内討伐を命じた。
という噂があったことをあげている。古文書『応永記』
◯1399年大内義弘は、幕府に反旗を翻し和泉の国・堺に軍勢を
送り込む。堺は京都の南西60km。陸海の交通の要所として
都への攻撃拠点ともなり、戦況が厳しくなると本国の長門や周防に
撤退もし易いという地の利もある。義満は説得の交渉したが決裂。
◯義満は驚くべき計画が密かに進行していたことを知り驚いた。
大内義弘は、この時、鎌倉公方の足利満兼と結託。
義満排除を狙っていたのだ。
※鎌倉公方とは、足利初代将軍が東北を統治するために設置した
もう一つの足利家。血筋の良さだけではなく、関東・奥羽など12カ国
を支配下に置く一大勢力だ。 -
◯「難太平記」によれば、鎌倉公方には、将軍が悪政を行った場合
その行いを実力で是正させる使命が与えられていたという。
その鎌倉公方の大軍勢が鎌倉から都へ向け進軍。
堺と東国からの軍勢で義満を挟み撃ちにしょうという策略を練っていたのだ。
これに呼応して義満が没落させてきた土岐や山名の残党が各地で挙兵。
大内義弘は周到に義満包囲網を作りあげていた。
◯突然大包囲網の中にいると知った義満。
和睦か戦いか選択を迫られていたが
和睦の道をさぐりながらも
戦いに勝てば大内一族内の力を削ぐことになるではないか。
「大内がこの30年余り振るってきた武威は
将軍である我が力である。全く持って大内の力などではない。
陰謀が露見したからには、何としても天罰を下す。」
義満選んだ選択は、大内義弘の討伐だった。『応永記』
◯義満は急ぎ討伐軍を組織。細川、斯波、畠山など
足利一門を中心に三万の軍勢を整え堺へと出陣した。
各地で挙兵した残党たちの包囲網を一つずつ破りながら進軍。
やがて孤立した堺の大内勢。
頼みの綱、鎌倉公方が一向にやって来なかった。(;゜0゜)
幕府軍は大内勢に総攻撃をかけ、海上からは細川軍が連れてきた
瀬戸内海の海賊が100艘余りで攻め寄せ逃げ道を塞いだ。
更に、陸上では火攻めを敢行。
有能果敢で知られた大内義弘だが一ヶ月余りの攻防で壮絶な討死にを遂げた。 -
◯なぜ、鎌倉公方の軍勢は堺に到着しなかったのか、そこには
義満の巧みな策略があった。鎌倉公方を支える重臣上杉憲定に
足留め工作を命令。奥州の武将たちにも根回し。
鎌倉公方の留守の鎌倉を伺う体制取らせることに成功した。
これにより鎌倉公方は関東から動くことができなくなってしまった。
◯大内義弘が鎮圧された後、鎌倉公方は全面降伏。
もはや、日本国内に足利義満の権威に刃向かうものはいなかった。
こうして、足利義満は武家と公家双方に君臨する
ただ一人の存在となっていった。
※足利義満の生涯を紐解いてみると
義満が誕生した南北朝時代は日本史上においても稀にみる戦乱の時代で
戦いを外しては足利義満の人物像が浮かんでこないことから
足利義満の生涯を戦いに絞ってみたところ
将軍に昇りつめてていく過程からその戦略は、
敵方に内紛を仕掛けたり、難癖をつけ戦いに持ち込んだり
明徳の乱では、戦法は、どこか古代カルタゴでのハンニバルの
戦法に通じるものを思い起こさせたりと、このような戦いの様に
権力者は、いつの時代も、変わらず愚かな繰り返しを。と
まるで現代の世界の何処かで行われている戦争と同じ道ではないか。
と、
なんだか後味の良くないものとなってしまいました。(⌒-⌒; ) -
美しい『金閣寺』をゆっくりと散策することができ
満足をして金閣寺を後にしました。
出口近くのタクシー乗り場は数組みの人が並んでいたので
大通りでタクシーを。と歩き始めたところ -
托鉢して歩いている僧呂の姿を見
-
あぁ これも京都ならでは風景だなぁ。
と、しばし静観しました。
ほどなくタクシーに乗車。
この時期・時間 渋滞もなく
あっという間に『龍安寺』に到着。
ところが、「龍安寺」の門前に
拝観停止(;゜0゜)を告知する掲示板が
「2021年12月6日から2022年3月18日」
掲げてありました。
日程作成時、HPを確認していたはず(⌒-⌒; )ですが
ごめんなさい( ̄O ̄;) と2人にペコリして
運転手さんに、このまま仁和寺まで行ってもらいました。 -
『仁和寺』に着いたのは、まだ早い時間でしたが
近頃の修学旅行のスタイルでよく見かけられる
グループ単位での行動。
二王門の前では、微笑ましく写真の撮りあいをする
風景が繰り広げられていて順番待ち(^ー^)をしながら
その様子を眺め自分の修学旅行を思い出したりしていました。
※「御室 仁和寺」では、仁王門と書こうとしていたところ
“二王門“と拝観パンフに記載されていますので二王門と記載します。 -
『御室(おむろ)仁和寺』
仁和四年(888年)創建の京都の名刹です。
代々皇室出身者が門跡をつとめ平安~鎌倉期には
門跡寺院として最高の格式を保持しました。
応仁の乱(1467年~1477年)で伽藍の
ほとんどが焼失し、江戸時代に再興しました。
慶応3年(1867年)に、後に小松宮となる
純仁法親王が還俗したことにより、宮門跡の歴史を終えました。
平成6年(1994年) ユネスコの世界遺産に登録されました。仁和寺 寺・神社・教会
-
さて、今回の旅行記
「金閣寺」では、足利義満の生涯というややもすれば重いテーマとなりましたので
『御室 仁和寺』では、
最近TV番組で取り上げられていた
トレンド仁和寺。
こんな顔も仁和寺にはあるのだ。と
〈びっくり〉しましたが楽しんじゃいましょう。 -
それでは、重要文化財指定の〈本坊表門〉から境内に入ります。
仁和寺では、2018年から
外国人観光客に文化体験を通し日本を感じてもらおうと
新しい試みで〈宿泊プロジェクト〉が開始されました。
宿泊料は、一泊1名~5名まで100万円(;゜0゜)という
料金に驚きましたが、これまで10組の利用があり
その半数以上が外国人とのことです。
(その場合通訳も立ててくれるそう。) -
先ずは、世界遺産の境内を僧呂の案内を
受けながら拝観します。
正面には、唐破風の様式を取り入れた御殿入口。 -
大玄関の御殿入口から風情のある渡り廊下を
南庭・北庭(画像は北庭)と眺めながら
白書院~黒書院と拝観してゆきます。 -
〈白書院〉
本来なら白木の柱を用いたところから
この呼び名があり、非公式の対面所として
使用されていたということです。 -
〈白書院〉
三室の襖絵は全て〈松〉を画題として
描かれています。 -
1937年に日本画家・福永晴帆が描いたもの。
「宿泊プロジェクト」では、それぞれのお部屋で
僧侶からの詳しいガイドを受けるのだろうと思われます。
白書院~黒書院その奥の宸殿へと向かいます。 -
渡り廊下
どこから眺めても趣きがありました。 -
白書院・黒書院を通って
宸殿へとまいります。 -
「随心院」でも見かけた
〈SOUND TRIP〉と名付けられた
京都の寺社の境内で、流れている水の音や
鳥の囀り、お庭を渡る風の音などを収録。
新進のアーティストたちが参加して創り上げた
ヒーリングミュージックが聴ける
サウンドマシーン。
ここにも設置されてありました。
季節や天候・時間帯でしか聴くことの出来ない
自然音を目の前に広がっている素敵なお庭の風景を
眺めながら聴ける。という主旨はわかるのですが
いかんせん、この看板。せっかくの建物やお庭の
風景には、馴染んでいませんね。 -
北庭を望む宸殿へ
仁和寺の宸殿は
儀式や式典に使用される御殿の中心となる建物。 -
「宸殿」には
下段・中段・上段
の間があり
上段は、天皇がお座りになるお部屋。
先程の「宿泊プロジェクト」ては
上段の襖を開け放して
中段で雅楽の演奏者が奏でた音楽を
ゲストが下段で聴くという時間も
オプション(別料金)で可能であり
その他にも、オプションを使って
雅楽を聴く会や生け花の師範を囲んでの生け花などを
開催できるとのこと。 -
2021年10月22日と23日の両日
宸殿の中段において将棋の
第34期 竜王戦 7番勝負の第2局
が行われた。
この時
豊島将之(竜王)に対して挑戦を挑んだのが
藤井聡太(三冠)。
テレビ生中継をご覧になった方もあろうかと思います。 -
“あの街から“は 将棋を覚えたての頃
近所のお兄ちゃんに〈将棋崩し〉や
〈回り将棋〉を教えてもらい
こたつの上で遊でいた(⌒▽⌒)遠い昔を思い出しました。
そう言えば
挟み将棋や将棋倒しなンていうのもありましたっけ。
さて
竜王戦の画像を使って〈回り将棋〉を書いた(⌒-⌒; )
お詫びに、その道にとんと疎い“あの街から“
ちょっとだけ 紐解きをしてみました。
「日本将棋連盟」~将棋界より
プロの世界には、現役・引退合わせて約200名の棋士がおります。
現在は男性だけしかおりませんが、女性でも棋士になることは可能です。
また、それとは別に女性のみで構成された女流棋士という制度もあります。
棋士になるには、先ず、奨励会という養成所に入ります。
一定以下の年齢で棋士の推薦を受けた人のみが受験できます。
奨励会は、6級から3段まであります。
3段になると、年2回の3段リーグを行い、原則として上位2名が
4段となり、4段から正式な棋士となります。
棋士は、各棋戦に出場することができます。 -
棋戦は、8つのタイトルと7つの公式戦があります。
『八大タイトル戦』を見てみますと
「竜王戦」「名人戦」「王位戦」「王座戦」
「棋王戦」「叡王戦」「王将戦」「棋聖戦」
タイトル戦にはタイトル保持者がいて
およそ1年のトーナメント戦もしくはリーグ戦で
タイトル挑戦者を決めます。
タイトル保持者と挑戦者で七番勝負又は、五番勝負を
行い、勝ち越した方がタイトル保持者となります。
棋士の肩書きは、通常は段位となりますが
タイトル保持者の場合は「◯◯竜王」というように
タイトル名が肩書きとなります。
また、竜王戦と順位戦(名人戦の予選)には
それぞれのランキングがあり、成績によって
年に1回、成績上位者は昇級。成績下位者は
降級するなど、挑戦権争い以外にも厳しい戦い
があります。 -
さて、「宿泊プロジェクト」の続きを
食事は
仁和寺境内に移築された〈松林庵〉(しょうりんあん)は
食堂(じきどう)では、食の文化体験ができるようにと
料理人が、目の前で精進料理や懐石料理を食することができ。
好みに合ったものを提供してくれるそうです。
宿泊は
この宿坊は、元は倉庫だったそうですが、大改造を行なってできた
二階建で茶室も備えた一軒家。
中に入ると和モダンで、
外国人の方にも対応できるようにと
ディザイナーが作ったテーブルセットも。
檜風呂が設置されている他
和長座りテーブル。ベットにも良さそうなソファー。
画像は、「宸殿」 -
「宿泊プロジェクト」
宿泊料は、一泊5名まで100万円ですが
その20%は、文化財の保護・修繕に使われるとのこと。
実は、2021年には、フランスのベルサイユ宮殿も開始された
キャッスル・ステイの先駆けかもしれません。
こちらはお城ではありませんがね。
「宸殿」
欄間も素晴らしい匠の技。 -
イベントの準備なのか
冬季間で仕上げる
部分的改修工事なのか
お庭は、さながら工事現場の様相で
大工さん(業者さん)が大勢忙しく働いていました。 -
襖絵を見て
お庭を見て
拝観は続きます。 -
仁和寺御所庭園
江戸時代に造られた庭園が植栽や整備が何年もに渡って行われ
優れた景観を評価されて2021年・国の指定名勝に。 -
そこ、ここに日本の匠の技が
-
勅使門
勅使(天皇の代理としての使者)
が通る門。
明治20年に焼失しましたが
大正2年、内務省・技師 亀岡末吉によって
再建されました。 -
池の向こうに見えるお庭からの
風景も良いのだけれど
やはり、側に来て見上げる
五重塔はことさら美しい建物ですね。 -
仁和寺〈五重塔〉
1900年と言いますから 明治33年には
国の重要文化財の指定を受けています。
高さが36.18m 四辺およそ6mで
「東寺」の五重塔と同じく
上層から下層にかけて
各層の宗教的意味合いは -
五重塔は
初層部(1階)から
初層部:地 〈基礎〉
二層目:水 〈塔身〉
三層目:火 〈笠〉
四層目:風 〈請花〉
最上層:空 〈宝珠〉
仏教における「五大要素」や「宇宙観」
を表しています。 -
五重塔の創建された年代を割り出す方法として
各層の屋根の大きさで推定する方法が用いられ
ることがあります。
各層が最上層から初層まで均一であれば
比較的、近代に造営された塔で、仁和寺の
塔を遠くから見ると屋根の大きさが均一で
あることを目視することができます。 -
対極にあるのが
法隆寺の五重塔で、初層部の面積が大きく
それが最上層になると、初層部の半分程の
面積であるとされています。 -
仁和寺は、度重なる伽藍の焼失に遭い
創建当初からの文献資料が焼失したこともあり
五重塔の存在や創建された年はいっさい不明で
明らかなことは
江戸三代将軍・徳川家光の発願によって伽藍の
大改修工事が行われました。
現存する五重塔の昭和の屋根の葺き替え工事の際
江戸寛永年間に造営されたことを記した墨書が
発見されました。 -
本坊表門が見えてきました。
そろそろ拝観を切りあげて
仁和寺を後にします。 -
二王門は見上げる程に
迫力がありますね。 -
仁和寺前のバス停から
直行バスが1時間に4、5本運行されていて便利です。
桜の時期にやって来た時のこと。
バス停には大勢の人が並び
途中でタクシーを拾おうと思って
歩き出したのですが、思いのほか坂が
多かったような、タクシーは拾えたのか
どこまで歩いたのか・・・ -
「SUINA室町」前のバス停着11:20頃。
※帰りは、「SUINA室町」の向かい側のバス停
龍安寺を端折ったのでランチを食べるには まだ早いしと、
予定していた「鯛めし」は食べ損ねました。(⌒-⌒; )
が、お二人さんは、ネットで検索した「レモンパスタの店」へ -
私は、この時間を使って
「鳩居堂」へ
旧店舗の向かい側に
新たに町屋風の店舗がオープンしたので
今回、楽しみにしていました。
丁度、雑誌社のカメラクルーが
通りに面した店舗写真の撮影していました。
プロのカメラマンは、どんなアングルから
撮影するのだろうと興味深々でしばし眺めていました。 -
全面ガラス戸の新店舗は
旧店舗より広く明るくなったようです。
お香の香りが漂う空間で
上質の和紙で作られた絵葉書は -
京都柄(風景・舞妓さん・歌舞伎役者など)
※勝手に自分はそう呼んでいます。笑
や季節柄。(季節のイベントや季節の花など)
一枚一枚選んでのショッピングは
至福の時間です。 -
季節のたよりやら
夏のたより用までゆっくりと選び
気に入れば、葉書サイズの額に入れ
季節毎に入れ替えをし
京都の旅を自宅でも楽しんでいます。 -
四条通りで数年前に見つけたこの店。
一階は、タブレットやスマホの充電を
しながら美味しい珈琲を飲めるオシャレカフェ。で、
地下一階がJAZZや7~80年代のROCKのLPをはじめとして、
音楽・映画・演劇関係の単行本や雑誌・エッセイ
の他、楽器などのフィギュアはては、オシャレ雑貨
まで揃えている。いつもはJazzが静かに流れている
(この日は、珍しく最新のPopsビリーアイリッシュでした。)
この空間でゆっくりと手に取りながらのショッピングが
気に入り京都を訪れる度時間を作っては訪れていますが
店の名前がまだわかっていませんでした。(⌒-⌒; )
CDを買ったレシートを見て「JEUGIA Basic」と知りました。
一階のオシャレカフェは、いつも混んでいて
オーダーは、席を確保してからというシステム。
ついつい座席確保に気を取られ、こちらの店名も
分からずじまい。次回のミッションにします。
この日自由時間は、こんな風に過ごして
この後『南座』で3人合流しました。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
この旅行記へのコメント (6)
-
- tya−tyaさん 2022/03/15 22:09:48
- 金ぴかの金閣寺
- あの街からさん、こんばんは。
フォローありがとうございます。
金閣寺のお写真、素晴らしいですね。
もう何年も金閣寺を訪ねてないので、こんなにキンキラしてたなんて、思いもかけませんでした。
池に写った金閣寺、空の雲までも池に写り美しいです。
仁和寺も、35年位前に行った記憶が。大きな大きな門に圧倒された当時を思い出しました。
久しぶりに訪ねたくなりました。
ありがとうございました。
また、お邪魔させて下さいね~。
フォローさせて頂きたいです。
tyatya
- あの街からさん からの返信 2022/03/16 08:17:39
- RE: 案内の定番を愛する(⌒▽⌒)私
- tya tyaさん おはようございます♪
いろいろありがとうございます(⌒▽⌒)
いつ見ても、どこから見ても絶景の富士山が
大好きな私。 見ているだけで、清々しいを感じます。
考えてみると、ここしばらく新幹線やジェットから
あっという間に過ぎ去ってしまう姿しか見ていないことに気がつきました。
“掛川“へは
昔、北穂小屋で出会った人と上高地でまた会い住所交換をして
以来友人となり、数年後 やつの故郷“掛川“での結婚披露宴に
行った楽しい思い出の地です。
tya tyaさんの旅行記で富士山をいろいろな角度から捉えた
姿や周辺情報を見て、今度は〈富士山〉を見に出かけたいと思います。
あの街から
-
- ポテのお散歩さん 2022/03/06 23:29:34
- 金閣寺
- あの街からさん こんばんは。
あの街からさんの足跡を頭に描きながら、楽しく拝見しています。
竜安寺、残念でしたね。
紅葉の季節が終わったら、石庭の壁を塗り替える修繕をする事に
なっていました。 私も竜安寺の雪景色を見たいと思っていたのですが
例年より雪は降ったものの、竜安寺には行けなくて残念でした。
金閣寺や足利義満の名前は知っているんだけど、知らない事が多くて
とても勉強になりました。 一休さんのアニメを見ていたので てっきり
三代目で安定していた時代だったのかナ? と思っていました(^-^;
次回も楽しみにしています。
ポテ
- あの街からさん からの返信 2022/03/07 07:17:31
- RE: ちょっぴり大人用の「一休さん」をめざして
- 旅ポテさん おはようございます(⌒▽⌒)
龍安寺ほんとうに_| ̄|○ガッカリでした。
久しぶりの京都行きの友人ともども改修工事後の金閣寺を
楽しみにして定番だけどコースにしました。
金閣寺へ行こうとすると、金閣寺〜龍安寺〜仁和寺は
自分の中での方面別のコースになっていて(⌒-⌒; )
過去の旅行記でも、金閣寺も仁和寺も出ているので
今回は、何か別方向からと思った時に、足利義満に
ついて、ほとんど何も知らない自分に気がつきました。
その生涯を一休さんの様にみなさんにできるだけ分かり
やすく。と思いつつも、5〜6枚の画像に詰め込もうとすると
文字だけ溢れた、とっつき難い旅行記の典型(⌒-⌒; )
となってしまいました。
あの街から
-
- エヌエヌさん 2022/03/05 12:30:17
- 京都市営
- あの街さん
こんにちは!
昨年市営バスの値上げ検討の記事を見た覚えがあります。
地下鉄に限っては日本一高い地下鉄と呼ばれてますね。
観光に特化した京都は今が一番大変なんでしょうが、辛口になりますが、j自分的には歴史に胡坐をかいたと思っています。
企業の進出を断り、税収が厳しい反面、地元の、高齢者には公共交通機関の厚遇がありましたが、改悪の見通しです。
これは市ではないのですが、駅ビルのお土産屋さんは店舗ごとに会計をしなければならず、面倒だなぁと(今はわかりません。)観光都市でありながら不便な面もあり・・
それでも人に親切にしてもらったし悪い印象ばかりではないのですが(#^^#)
肝心の旅行記にふれてませんでした。
金閣寺やっぱり映えますね!
ちよっと遠くて不便ではありますが・・・(^^♪
- あの街からさん からの返信 2022/03/06 20:08:05
- RE: ウインドウショピングは愉し
- エヌさん
沢山の店が入っているところは、観光客には効率的に時間が
使えて便利ですし、いろいろの店が入っているとそれだけ
選択肢も増えますし、楽しくて好きですよ。(⌒▽⌒)
今回の旅では、京都駅ビル・各デパ地下・SUINA室町
と歩きましが、その度の会計も気になりませんでした。
京都の地下鉄も市バスも分かりやすいし、観光客として便利に
使わせてもらいました。
まぁ 私の京都〈愛〉が強いせいかもしれませんね。(^ー^)
あの街
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