2021/12/27 - 2021/12/27
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kirinbxxさん
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はるばるヨーロッパからやってきた移民たちの多くは、まず出身地ごとに
定住し、コミュニティを作ることが多かったようです。
その中でもムーンタは特にその傾向が強かった町でした。
その様子を教えてくれる博物館がここにあります。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- グルメ
- 3.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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ムーンタの旗はコーンウォールの旗である「聖ピランの旗」です。これは鉱山内のものですが、普通の民家でも掲げているところがありました。
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Moontaという町は英国のコーンウォールというところからの移民によって作られた町です。コーンウォールは「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(日本での通称はイギリス)」で、最も南かつ最も西に位置する地域です。そこには、他のイングランドとは違う独自の文化、独自の言語を持っています。
この博物館前の掲示板、真ん中の茶色いものは英語で書かれていますが、緑はコーンウォール語で書かれています。一番上は、その下の英語のとおり、そしてGWITHTIは英語のMuseumの意味です。 -
つまり、もともとは学校として建てられた歴史的建造物が現在では博物館として使われている、ということですね。開館が午後の1時から、ただし公休日と学校の休暇期間は11時から。おもしろいのは、気温が37℃に達すると休館する、というところです。南オーストラリア州では、野外のアクティビティの多くがこの37℃という基準を超えると中止になりますが、博物館の閉館は珍しいでしょう。
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立派な建物ですが、建てられたのは1878年、鉱山地域の子どもたちのための学校でした。生徒数はピークとなった1881年に1100人に達し、その多くはコーニッシュ、つまりコーンウォールからの移民でした。銅鉱山が閉鎖しても、地域の学校としてなんとか維持されていましたが、1968年に28人の生徒が在籍したのを最後に廃校となり、翌年、博物館としての営業を開始しました。National Trust Museumなので、運営はボランティアによって行われています。
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コーニッシュの人々は南オーストラリアの植民地が建設されて以後、はじめは徐々にでしたが、やがて大挙して移住を始め、1865年に移民してきた人の43%がコーンウォールからでした。結局、最初の50年間に南オーストラリアへ移住してきた人々のうち10%をコーニッシュが占めていました。その最たる理由は、金属価格の下落や、鉱山の閉鎖などによってコーンウォールで鉱山労働者の職がなくなっていったためです。
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1860年代、ムーンタで発見された鉱山で働くため、多くの鉱山労働者が移住しました。この地域の銅鉱山は60年以上にわたり、オーストラリアで最大の鉱山地域の一つでした。最盛期には採掘に携わる男達と、鉱石の加工を担当した少年、あわせて1000人以上が働いていました。彼らはコーンウォールでの習慣をそのままに、コミュニティを作り上げたのです。
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もちろん、鉱山で働く人たちだけではコミュニティは成り立ちません。鉱山会社は代理業者を通してコミュニティに必要な移民を集めていました。コーンウォールの街角にはこのようなポスターが貼られました。
食料を生産するために必要な農業従事者や羊飼い、家を建てるの似必要な人たち、仕立屋に靴職人、コミュニティに必要となる職種に従事する人なら(そして既婚者なら)ポートアデレードまで無料で渡航できました。 -
その最初期の頃の鉱山労働者たちの写真が残っています。
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こちらは仕事に使っていた道具などの説明展示です。
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380mの深さから鉱石を運び上げていたようです。
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鉱石にも当然良否があります。鉱夫の取り分は鉱石の品質で決まっていました。もちろん、良質の鉱石の比率は低かったので、結局のところ一週間あたり40シリングほどだったそうです。
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銅はあらゆる分野で非常に重宝される金属です。しかしいろんな要素によってその価格は乱高下していたようです。ひどいときは1トンあたり40ポンドあたりまで下落していますが、あがるときは100ポンドを超える、というように。
普墺戦争(プロシアとオーストリアの間の戦争)であがり、米国での産業の発達であがり、電気の普及であがり、そいて第一次世界大戦で高騰していますね。 -
コーンウォールでは女性も鉱石を卵大の大きさに砕く、という仕事を担当して働いていました。が、ムーンタではそれは少年達の仕事でした。
女性はその代わり夫を支え、2年に1人の割合で子どもを産みました。別の展示にもありましたが、夏の厳しい暑さと、恐ろしい水不足、伝染病などによってムーンタでの生活は厳しかったようです。 -
この国では今でもたまにあることですが、水の使用についても厳しい制限がかかります。これは1927年のクリスマス直前に出た布告です。庭で水を使うことは禁止、というものです。
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そんな厳しい環境でもきれいなドレスを買える店もあったし
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故郷からもってきた食器でお茶の時間を楽しんだり
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英国伝統のスポーツや、音楽を楽しんでもいました。
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元が学校、ということで教室の一つはそのまま残されていました。
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この学校で学び、後に各界で活躍した人たちが紹介されています。
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列車に乗っていたときから気になっていた大きな建造物です。博物館内にも模型がありました。この建物は実は鉱山で非常に重要な役割を果たしていました。それは地下700mにある全長1kmにおよび巨大な鉱体(採掘の対象になる鉱石の集合体)での地下作業における「脱水」です。往時は、機械工房、厩舎、ストックヤードなど重要な施設がこのあたりに集中していたそうです。
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そのために60インチのコーニッシュビームポンプエンジンを備え、地下に貯まる水をくみ上げることができました。1865年9月2日に始動したこのエンジンは当時の価格で7000ポンド(設置費用込み、今日の価値だと100万ドル)もするものでした。このポンプのおかげで、ムーンタでは天然水位よりも下の鉱体の採鉱が可能になったのです。
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1925年、ムーンタの銅産業が終わりを迎えたあと、機械は廃棄され再利用できる建物は解体されました。1973年、ナショナルトラストがエンジンハウスと煙突を保全しました。
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銅は採掘したあと、粉砕、濃縮されますがその作業をおこなっていたのがこのあたりです。リッチマンズという取締役の名前に因んでここはリッチマンズプラントと呼ばれました。この建物はエンジンハウスで、往時は周囲にボイラーハウスや加工場がありましたが、1917年にエンジンは撤去され、1925年に建物は解体されました。
加工に際して出た廃棄物はそのまま奥に見える場所にどんどん積み上げたそうです。ちょっとした山になっていて、徒歩でなら登って展望を楽しめるそうですが・・・ -
そろそろお昼時、ムーンタの町でお昼ご飯にすることに。
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1900年ごろの町の様子を示す写真が交差点にありました。
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ムーンタで人気のカフェ、Nook&Nourishです。オーガニックコーヒー、ハーブティーなど、ベジタリアン、ビーガンなどにも対応できるようで、日本の女性でも「おしゃれ~」「ヘルシー」と喜びそうなメニューがずらり。朝の8時半から午後の3時までの営業です。
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まぁ、うちはあんまりそういうのに興味はありませんが、ビールも飲める店をとなると毎回同じようなものばかり食べる事になるので、たまにはこういうのもいいでしょう。
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お昼時なので、本日のカレー、本日のスープやタイ風のフライドライス、などもいろいろありましたが、軽く、無難にキッシュとパイで。ごちそうさまでした。
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