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 久川城は、主家の蘆名氏が摺上原の戦いで滅亡したので、その家臣である下野国の小山氏の流れをくむ河原田盛次が伊達政宗の来襲に備えて築城しました。<br /><br /> なお、久川城を築く前は、河原田氏は、現在の役場(南会津町伊南総合支所)近くに居館として西館・東館を有し、久川城と反対側の山に駒寄城という城を持っていました。(そのうち駒寄城も訪れたいと思います。)<br /><br /> この久川城は、伊南川の西側、青柳と小塩にわたる丘陵に築かれた城で、現在、城門とみられる南麓の石垣構えの馬出しを始め、丘稜上の空堀、土塁で区切られた各曲輪(くるわ)が往事の姿を残しています。<br /><br /> この城を攻める(訪れる)には、駐車場が三つあります。しかし、私が訪れた4月21日は、林道 小塩・塩ノ岐線は冬期通行止めで、小塩七曲り登城坂の駐車場は分からず、結局、青柳七曲り登城坂にある駐車場に車を止めました。<br /><br /> ここは、南会津町 奥会津博物館 伊南館の駐車場です。この博物館で情報を収集しようと思っていたところ、11月~4月末まで冬期閉鎖中でした。しかもお手洗いも見当たらなかった。<br />

久川城趾探訪

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2021/04/21 - 2021/04/21

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自炊おやじさん

 久川城は、主家の蘆名氏が摺上原の戦いで滅亡したので、その家臣である下野国の小山氏の流れをくむ河原田盛次が伊達政宗の来襲に備えて築城しました。

 なお、久川城を築く前は、河原田氏は、現在の役場(南会津町伊南総合支所)近くに居館として西館・東館を有し、久川城と反対側の山に駒寄城という城を持っていました。(そのうち駒寄城も訪れたいと思います。)

 この久川城は、伊南川の西側、青柳と小塩にわたる丘陵に築かれた城で、現在、城門とみられる南麓の石垣構えの馬出しを始め、丘稜上の空堀、土塁で区切られた各曲輪(くるわ)が往事の姿を残しています。

 この城を攻める(訪れる)には、駐車場が三つあります。しかし、私が訪れた4月21日は、林道 小塩・塩ノ岐線は冬期通行止めで、小塩七曲り登城坂の駐車場は分からず、結局、青柳七曲り登城坂にある駐車場に車を止めました。

 ここは、南会津町 奥会津博物館 伊南館の駐車場です。この博物館で情報を収集しようと思っていたところ、11月~4月末まで冬期閉鎖中でした。しかもお手洗いも見当たらなかった。

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  • 今回訪れた目的は、久川城趾にスミレと桜が同時に咲くという。それで、久川城趾のどの辺かと聞くために、奥会津博物館が閉館なので役場・観光協会(役場の隣)で聞いてみました。<br /><br />その際、偶然、隣に西館跡がありました。<br />

    今回訪れた目的は、久川城趾にスミレと桜が同時に咲くという。それで、久川城趾のどの辺かと聞くために、奥会津博物館が閉館なので役場・観光協会(役場の隣)で聞いてみました。

    その際、偶然、隣に西館跡がありました。

  • 青柳七曲り登城坂にある久川城趾の案内です。城趾の中に案内板がないときのために、一応、スマホで撮りました。

    青柳七曲り登城坂にある久川城趾の案内です。城趾の中に案内板がないときのために、一応、スマホで撮りました。

  • 鳥居をくぐって、いざ登城です。

    鳥居をくぐって、いざ登城です。

  • 七曲りには、一部、苔むした石段があります。なんとも歴史を感じるものです。

    七曲りには、一部、苔むした石段があります。なんとも歴史を感じるものです。

  • <br />七曲がりと言いつつ、実際は六回、曲がって登り切ったところで桝形門跡です。説明には、「凹状に方形に彫り込まれた埋込虎口で、礎石の状態から奥行3.9m・間口4.9mの城門と思われる。建物を復元することができる。」とあります。・・・、ということは予算さえあれば、往時の姿を見ることが出来るということです。<br /><br />そして、ここから各曲輪となります。<br />


    七曲がりと言いつつ、実際は六回、曲がって登り切ったところで桝形門跡です。説明には、「凹状に方形に彫り込まれた埋込虎口で、礎石の状態から奥行3.9m・間口4.9mの城門と思われる。建物を復元することができる。」とあります。・・・、ということは予算さえあれば、往時の姿を見ることが出来るということです。

    そして、ここから各曲輪となります。

  • 右手は広い曲輪跡です。なにも説明はありません。

    右手は広い曲輪跡です。なにも説明はありません。

  • なにも説明のない曲輪跡の先、一段、低くなっているところに、北出丸跡の標識がありました。

    なにも説明のない曲輪跡の先、一段、低くなっているところに、北出丸跡の標識がありました。

  • この旧伊南村地区は、奥会津でも雪深いところで、未だに雪が残っています。

    この旧伊南村地区は、奥会津でも雪深いところで、未だに雪が残っています。

  • 桝形門跡から、左手にも広い場があります。説明はありませんが、なんらかの曲輪跡と思います。この曲輪は大変広く、浅い堀のような窪地に仕切られ、三つの区画(曲輪)に分かれているように思われます。<br />登り口にある城趾案内図には、「本丸への道の部分」、「その本丸への道の上の部分」(空堀の道)、「記念碑のある部分」と記載されているところが、それに当たります。<br /><br />

    桝形門跡から、左手にも広い場があります。説明はありませんが、なんらかの曲輪跡と思います。この曲輪は大変広く、浅い堀のような窪地に仕切られ、三つの区画(曲輪)に分かれているように思われます。
    登り口にある城趾案内図には、「本丸への道の部分」、「その本丸への道の上の部分」(空堀の道)、「記念碑のある部分」と記載されているところが、それに当たります。

  • その先も広場で、ここもなんらかの曲輪跡と思われます。もしかして、馬出かも知れません。そして、ここに久川城趾の碑がありました。

    その先も広場で、ここもなんらかの曲輪跡と思われます。もしかして、馬出かも知れません。そして、ここに久川城趾の碑がありました。

  • 久川城趾の碑がある曲輪跡に一段低く隣接して、建物跡との碑がある広場があります。ここの説明には、「建物跡は、斜面の北側と西側を削って造成した。南北21.5m、東西21mで不整形な平場に在している。平場は伊南郷を望む恰好の地であり、礎石等の遺構の残存状況もよく、南北方向に桁行7.2m、梁行3.6mで西側に1.8mの庇がつく建物を復元することができる。」とありました。<br />伊南郷を望む恰好の地であるところからすると、この広場は、物見曲輪か城主が退屈なときの見晴台のようなところかも知れません<br />

    久川城趾の碑がある曲輪跡に一段低く隣接して、建物跡との碑がある広場があります。ここの説明には、「建物跡は、斜面の北側と西側を削って造成した。南北21.5m、東西21mで不整形な平場に在している。平場は伊南郷を望む恰好の地であり、礎石等の遺構の残存状況もよく、南北方向に桁行7.2m、梁行3.6mで西側に1.8mの庇がつく建物を復元することができる。」とありました。
    伊南郷を望む恰好の地であるところからすると、この広場は、物見曲輪か城主が退屈なときの見晴台のようなところかも知れません

  • 久川城碑の反対側に、本丸跡があります。この中には、神社(稲荷神社)があり、この神社の裏手は砦への道となっています。しかし、今は、廃道のようで、途中で道が消えています。

    久川城碑の反対側に、本丸跡があります。この中には、神社(稲荷神社)があり、この神社の裏手は砦への道となっています。しかし、今は、廃道のようで、途中で道が消えています。

  • 「『本丸への道』と記載されている曲輪跡の上の曲輪跡」(空堀の道)と「本丸跡」の間には、深い堀と土塁が築かれ、本丸を守っています。

    「『本丸への道』と記載されている曲輪跡の上の曲輪跡」(空堀の道)と「本丸跡」の間には、深い堀と土塁が築かれ、本丸を守っています。

  • 本丸から先に二の丸跡があります。本丸・二の丸・三の丸の西側には、高い土塁があります。これは土塁というより、「もともとの山の手前を崩して平らにした。」ということのようです。<br /><br />

    本丸から先に二の丸跡があります。本丸・二の丸・三の丸の西側には、高い土塁があります。これは土塁というより、「もともとの山の手前を崩して平らにした。」ということのようです。

  • 二の丸跡の先は三の丸跡になります。

    二の丸跡の先は三の丸跡になります。

  • さらに、三の丸の先には、南曲輪が、まだ、あります。大規模なお城です。さすが伊達政宗の侵攻に備えた城だけあります。それとともに川原田氏の威光が窺えます。

    さらに、三の丸の先には、南曲輪が、まだ、あります。大規模なお城です。さすが伊達政宗の侵攻に備えた城だけあります。それとともに川原田氏の威光が窺えます。

  • 二の丸・三の丸・南曲輪に沿って武士(もののふ)の道と呼ばれる帯状曲輪(?)があります。今年は、大雪で木が倒れています。<br /><br />この久川城を、こちら方面から攻めてきた敵は、南曲輪・三の丸・二の丸を個別に撃破して本丸に到達するか、これらの曲輪からの矢玉を横から受けながら本丸に到達するしかなく、相当、攻略が難しい城と思えます。

    二の丸・三の丸・南曲輪に沿って武士(もののふ)の道と呼ばれる帯状曲輪(?)があります。今年は、大雪で木が倒れています。

    この久川城を、こちら方面から攻めてきた敵は、南曲輪・三の丸・二の丸を個別に撃破して本丸に到達するか、これらの曲輪からの矢玉を横から受けながら本丸に到達するしかなく、相当、攻略が難しい城と思えます。

  • 南曲輪から小塩七曲り登城坂を降りていくと、この城趾最後の跡である馬出に出ました。

    南曲輪から小塩七曲り登城坂を降りていくと、この城趾最後の跡である馬出に出ました。

  • 今回、ここを訪れた目的は、スミレと桜の花を撮るためです。まだ、ちょっと桜が早いか、花芽が鳥に食べられたのか、寂しいサクラでした。<br /><br />

    今回、ここを訪れた目的は、スミレと桜の花を撮るためです。まだ、ちょっと桜が早いか、花芽が鳥に食べられたのか、寂しいサクラでした。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • 黒田(温泉)さん 2021/05/02 09:13:16
    久川城趾、拝見いたしました!
    自炊おやじ様

    おはようございます。
    久川城趾のレポート、拝見いたしました!
    昔よく音連れた、「南稲村」の「赤岩荘」という日帰り温泉の近くに、こんな有所ある城跡があるとは、全く知りませんでした。

    ところで、昨日テレビで「アド町ック天国 埼玉 嵐山・小川」を放送しました。
    https://www.tv-tokyo.co.jp/adomachi/backnumber/20210501/

    「8位 城跡」に次のように紹介していました。

    戦国時代、関東の最大勢力だった上杉家同士が対立した「長享の乱」。
    主戦場となった嵐山と小川には、いくつもの城郭が築かれた。
    嵐山にある「菅谷館跡」は、源頼朝に仕えた武蔵武士畠山重忠が暮らしていたとされ、「国の史跡」に指定されている。「杉山城跡」も国の史跡で続日本百名城のひとつ。
    【注】「杉山城跡」が詳しく紹介されました!

    自炊おやじさん からの返信 2021/05/13 07:27:18
    Re: 久川城趾、拝見いたしました!
    黒田(温泉)さん

    コメントをありがとうございます。

    赤岩荘は、私が訪れた日は休業日(?)でした。そして、張り紙に「コロナのため町外者は露天風呂の使用のみ」とありました。

    菅谷館跡、杉山城趾は、どちらも訪れたことがあります。この4Travel に載せるために、そのうち再度、訪れたいと思います。

自炊おやじさんのトラベラーページ

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