2020/11/07 - 2020/11/14
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2013tomoさん
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写真は松山市御幸1丁目にある種田山頭火の最終地となった
一草庵の縁側の上に掲げられている扁額です。
「一草庵」と書かれていますがこれは山頭火の自由律俳句の
師である荻原井泉水が揮毫したものだそうです。
今回は番外編として四国(詩国)にある
種田山頭火、尾崎放哉、ヴェンセスラオ・モラエス
が漂泊の末辿りついたそれぞれの終焉の地を訪ねてみました。
三人に共通するキーワードは「寂しさ」でしょうか。
モラエスはポルトガル人ですから「サウダーデ」という言葉が
当てはまるのかもしれません。
若山牧水の「幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ
今日も旅ゆく」の「寂しさのはてなむ国」が三人にとって
四国(詩国)であったのは偶然とは思われません。
四国遍路に象徴されるように四国には彼等の持つ「寂しさ」
を優しく包み込み癒すような安らかさがあったのだと
思います。
尚、「詩国」という言葉は仏教詩人坂村真民さんが創刊した
月刊詩誌『詩国』から頂いた言葉です。
多くの俳人を生み出した四国の別称として相応しい呼び方だと
思い使わさせていただきました。
真民さんは愛媛県砥部町に「たんぽぽ堂」と称する居を構え、
そこをを終焉の地と定めています。
真民さんも私が大好きな詩人です。
代表的な詩として『念ずれば花ひらく』があります。
『念ずれば花ひらく』
苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのころからか
となえるようになった
そうしてそのたび
わたしの花がふしぎと
ひとつひとつ
ひらいていった
今回、私が山頭火、放哉、モラエスの三氏の終焉地3か所を
一度に訪ねることが出来たのも”念ずれば花ひらく”という
言葉に何かのご仏縁があるのかもしれません。
それでは以下で三人の終焉の地を訪ねた顛末を報告いたします。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス 船
-
2020年11月8日(日)昼下がり。小雨模様。
天気は時々僅かな雨が空から落ちてくる小雨程度です。
道後温泉を見た後に一人で山頭火さんの終の住処である
一草庵を訪ねてみました。
松山市内を走る路面電車で赤十字病院前という駅で
下車します。
そこから歩いて15分程度の所に一草庵はあります。一草庵 名所・史跡
-
踏切を渡って道路を真っすぐ歩いて行きます。
傍らを大学の陸上部の学生さんたちでしょうか、
3人の青年たちが私を追い抜き、忽ち遠くへ走り去って
行きました(若いことは素晴らしい)。
「まっすぐな道でさみしい」(山頭火)
This straight road,
Full of loneliness.
(東北福祉大学教授、ジョン・スティーブンス氏英訳)一草庵 名所・史跡
-
真っすぐな道の行きあたりに護国神社があります。
この交差点を左に曲がります。一草庵 名所・史跡
-
右手に小さな疏水(大川又は樋又川)を見ながら
しばらく歩きます。
「濁にごれる水のなかれつゝ澄む」(一草庵にある句碑)
この句の説明として次のように書かれていました。
「この句は、山頭火死去の約一か月前の句で、
一草庵の前を流れる大川(樋又川)に人生を観じたもの。」
私は今その大川を横目で見ながら歩いています。一草庵 名所・史跡
-
「一草庵はこちら」という標識が見えてきました。
この標識を右に折れます。一草庵 名所・史跡
-
普通の住宅へ行くような道を少し登ります。
この道の奥に御幸寺があります。
左に石柱が見えてきました。一草庵 名所・史跡
-
石柱には「俳人山頭火の一草庵みち」と書かれています。
一草庵 名所・史跡
-
脊柱の右に「御幸寺山」と書かれた巌がありました。
一草庵は御幸寺の境内にあるのです。一草庵 名所・史跡
-
「種田山頭火終焉の地、一草庵」と書かれた
青い標識が見えてきました。
ここが今日私の目的地、山頭火さんの一草庵です。
右奥に御幸寺の山門が見えます。一草庵 名所・史跡
-
山頭火と一草庵とのいわれが書いてあります。
私と山頭火さんとのお付き合いは長いです。
私は22歳で大学を卒業しある金融機関で働き始めました。
しかし「生涯旅人」を目指すやや浮世離れした自称文学青年の
私が一般社会の宮仕えのしきたりや複雑な人間関係に馴染むことは
困難でした。
数か月後に退社を心に決めた私が短い夏休みを使って帰省する時の
ことです。
新幹線のプラットフォームを歩きながら車中で何か書物を読みたく
なったのでキオスクの方へ歩いて行きました。
すると突然、書棚にあった一冊の背表紙が私の眼の中に
飛び込んできました。
(このようなことはしばしばあります。書物が私を発見して
くれるのです)背表紙には「生きるのが下手な人へー
自信が湧く人生論」(紀野一義著)と書かれています。
「生きるのが下手な人へ…、これは私のことだな。」と思って
すぐに手に取り購入しました。
新幹線の車中でこの本を夢中になって一気に読み切りました。
読書後は私の人生に「自信が湧く」ことはなかったのですが
不器用でも一生懸命に生き抜いた人たちの生き方に心が
熱くなりました。
人生を不器用に生き抜いたその中の一人が山頭火さんでした。
「雪ふる逢へばわかれの雪ふる」(放浪の俳僧、山頭火)
山頭火さんとはそれからのお付き合いですから
既に50年近くの歳月が過ぎてしまいました。
私は七十路になってようやく彼の終焉の地である
一草庵に辿り着いたのです。一草庵 名所・史跡
-
一草庵は小雨の中でヒッソリと私の訪問を待って
いました。一草庵 名所・史跡
-
まずは一草庵の周囲を歩いて一周します。
一草庵 名所・史跡
-
玄関の中へ入ると山頭火さんの句が待っていました。
「うどん供へて、母よ、私もいただきまする」
11歳の時に母を自裁で失った山頭火さんは放浪の旅では
母の位牌を背中の荷物に入れて歩き、庵では仏間の片隅に置いて
共に過ごしたそうです。
彼が57歳の母の47回忌の時、庵にお米もお酒もなかったので
托鉢で頂いたうどん半束程をゆでてお位牌に備えたときに
作った句と言われています。
彼が”ころり往生”を迎える晩年の句です。一草庵 名所・史跡
-
一草庵の隣に
「不在中、郵便受、一草庵 種田山頭火」と書かれた
張り紙を見ました。
思わずカポーティの「ティファニーで朝食を」で「僕」が
不思議な魅力にあふれたミス・ホリデー・ゴライトリーの
存在を知った時の場面を思い出しました。
ー「そのアパートメントに移ってきて一週間ばかりたった頃、
二号室の郵便受けの名札入れにいささか風変わりなカードが
入っているのが目にとまった。
社交用の名刺みたいにあらまった書体で印刷されており、
「ミス・ホリデー・ゴライトリー」、その下の隅に
「旅行中(トラベリング)」とあった。
それはまるで歌の文句みたいに僕の耳に残った。
「ミス・ホリデー・ゴライトリー、トラベリング」-
「ティファニーで朝食を」(トルーマン・カポーティ著、
村上春樹訳 新潮文庫より)
そして彼女はアパートメントの非常階段で猫と一緒に
座ってギターをつま弾きながら
「まるで変声期の少年のようなしゃがれた割れがちな声で」
でよく歌っていました。
「眠りたくもない。死にたくもない。空の牧場をどこまでも
さすらっていたい」と
"Don't wanna sleep, Don't wanna die, just wanna go a-travellin'
through the pastures of the sky"
彼女も「寂しさ」の中に生きていたのでしょうか。一草庵 名所・史跡
-
山頭火さんが寝起きしていた部屋には小さな仏壇が
ありました。
ここで朝夕に母の供養のための読経をあげていた
のでしょう。
「山へ空へ摩訶般若波羅密多心経」一草庵 名所・史跡
-
一草庵の玄関の中に入ると
「靴をお脱ぐになって中にお入んなさい。」と
隣の部屋から男性の声が聞こえました。
この一草庵を管理する方です。
中に入ると座布団を頂きお茶も入れていただきました。
まず「山頭火さんを知るには十五という数字が
キーワードです。」と教えていただきました。
調べてみると山頭火さんは
明治15年に生まれ
大正15年に44歳で一鉢一笠(いっぱついちりゅう)の
行乞・流転の旅に出立し、
昭和15年58歳で泥酔し脳溢血のため漂泊に生きた人生を
閉じています(彼が望んだとおりの”ころり往生”でした)。
小雨に降りこめられた静かな一草庵の書斎で
お茶を頂きながら暫らく山頭火さんに纏わるお話を
お聞きいたしました。
最後に
「縁側に荻原井泉水先生が揮毫した一草庵の扁額があるから
見て行きなさい。」というお言葉を頂きました。
庭に回って縁側の上を見上げるとそれはありました。
いままで書籍を通じてしか知り得なかった山頭火さんが
荻原井泉水先生の揮毫したやわらかい書体を通して肉身を
持って私の目の前に現れたような気持がいたしました。
その後に私は一草庵に別れを告げるのですが
管理をされる男性は庵の外に出てこられ
庭にある句碑についてひとつひとつ丁寧に説明をして
くださいました。
お話の中で山頭火さんを世に出した功労者として知られている
大山澄太先生のもとで禅修行をされた方ということも知りました。
物静かなたたずまいの中に背中に一本心棒が通った方で
山頭火さんのご縁で良い人と出会うことが出来たと
改めて感謝いたしました。一草庵 名所・史跡
-
説明を頂いた句碑です。
この句碑には「鐵鉢(てっぱつ)の中にも霰(あられ)」と
書かれています。一草庵 名所・史跡
-
この句碑には「濁れる水のなかれつヽ澄む」と
書かれています。一草庵 名所・史跡
-
この句碑には「春風の鉢の子一つ」と書かれています。
一草庵 名所・史跡
-
この句碑には「おちついて死ねさうな草枯るる」と
書かれています。
すべての句碑は山頭火さんの書です。一草庵 名所・史跡
-
一草庵へは短時間の訪問でしたがとても濃密で豊かな
時間を過ごすことが出来ました。
私は再び大川の疏水を渡って妻が待つ宿へと向かいます。
「うしろすがたの、しぐれてゆくか」(山頭火)
(How I must look)
From the back,
Walking away soaking wet.
(東北福祉大学教授、ジョン・スティーブンス氏英訳)
帰り道にはまだ小雨が降り濡っていました。一草庵 名所・史跡
-
2020年11月12日(木)朝、快晴の秋晴れ。
今朝は宿泊したホテルから歩いて
徳島市の阿波おどり会館へ行きます。
阿波踊りで有名な新町橋を渡る前から徳島のシンボル
である緑色に包まれた眉山が見えてきました。
新町橋の橋の上には踊り子さんのイラストが描かれています。
更に私の目的はモラエスのお墓が祭られている潮音寺を訪れる
ことでした。
潮音寺は眉山の麓、徳島市阿波おどり会館の隣にあります。
私がモラエスを知ったのは
「英語で味わう名言集―心に響く古今東西200の言葉」
(ロジャー・パルバース氏著、NHK出版)
でした。
その第7章、芸術、日本の美に次のように彼の言葉が
紹介されています。
「お花見や紅葉狩りをせずに一年を終えることは、
罪深いこと、少なくともひどく礼を欠くことである。」
ヴェンセスラウ・デ・モラエス(ポルトガルの軍人・文筆家)
『日本夜話』より
(英文)
To go through a year without viewing the cherry blossoms
or the momiji leaves is practically a crime and,
at the very least, unforgivably irreverent.
(原文)
Deixar passar um ano, sem ir ver as flores de cerejeira
e as folhas do momiji, e quase um crime,
pelo menos uma irreverrencia indesculpavel.
ポルトガル語特有の記号は変換できませんでした。
ロジャー・パルバース氏は解説で
「徳島で長い年月を過ごし、この地で骨をうずめたモラエスは、
日本を深く愛していました。この名言では、日本の人々がいかに
花見と紅葉狩りを大事にしていたかを強い言葉で
表現しています。」と述べています。
今回の私たちの旅は四国に紅葉を愛でに行くことが
大きな目的でした。
「物見遊山」という言葉が相応しいかなと思います。
別の目的として”もうひとりのラフカディオ・ハーン”と呼ばれた
モラエスの終焉の地を訪ねることです。
2017年にポルトガルの首都リスボンを訪れた際には
モラエスの生誕地を訪れる予定でしたが時間に余裕がなくなって
訪問を断念してしまいました。
今は世界中がコロナ禍のため再度リスボンを訪問することは極めて
困難な状況になってしまいました。
私の人生も終焉が近づいて来ましたので思い立ったときに行動に移す
ことが大切だと思っています。潮音寺 寺・神社・教会
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新町橋を渡ると正面に阿波おどり会館が見えてきました。
潮音寺 寺・神社・教会
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阿波おどり会館は白くて大きな建物です。
建物の道向かいの小さな公園にモラエスの記念碑が
あります。潮音寺 寺・神社・教会
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公園の前には黄花亜麻(キバナアマ)の黄色の花が
奥ゆかしく咲いていました。
標識に書かれていますが通称モラエスの花と
呼ばれています。
キバナアマ(黄花亜麻)は,中国・インド北部原産の
低木で,晩冬から早春にかけて花を咲かすので,
中国では「迎春花」と呼ばれています。
販売されているキバナアマは,「雲南月光花」と書かれていることが
多いのですが、原産地として,中国の雲南省に分布し,
月が照らす光のように美しい黄色の花をつけるという意味だろうと
予想されています。
この樹木はモラエスが植えたとされており,徳島県内では
『モラエスの花』として親しまれています。潮音寺 寺・神社・教会
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モラエスの記念碑です。
前には色とりどりの花が咲き乱れていました。
かれが今でも徳島の人たちに愛されている象徴
だと思います。潮音寺 寺・神社・教会
-
モラエスのことを詳しく描いている小説
「孤愁<サウダーデ>」(新田次郎・藤原正彦氏著、
文芸春秋)では最終ページ(715p.)には次のように書かれて
います。
「モラエスが毎日、震える手で花を胸に抱いておよねとコハルの
墓へ行き、供え、いつまでも佇んでいたのをこっそり見ていた
小さな女の子達は、モラエス亡き後も花を摘んできては供え続けた。」
これからモラエス、およね、コハルの三人が並んで眠っているお墓を
訪ねます。潮音寺 寺・神社・教会
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3人が並んで眠っている潮音寺は阿波おどり会館
横の小さな通りを入って行きます。
実は同じようなお寺が他にもありましたのでいつもの
通り道に迷ってい他のお寺に入ってしまいました。
でもそのお寺のご住職の奥様でしょうか、
美しい女性に親切に潮音寺への行き方を教えて
いただきました。
(徳島の方はとても親切です)潮音寺 寺・神社・教会
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「れもん」と書かれている建物が目印です。
潮音寺 寺・神社・教会
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白い塀の右に入りますと潮音寺の境内へ入れます。
潮音寺 寺・神社・教会
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境内へ入るとお墓が見えてきました。
潮音寺 寺・神社・教会
-
⇒ポルトガルの文豪、ヴェンセスラウ・デ・モラエスの墓所、
潮音寺と書かれた案内板がありました。
お墓がたくさんあるのでモラエスさんのお墓を見つけるのが
大変だと思っていたので助けられました。潮音寺 寺・神社・教会
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モラエスさんのお墓です。
潮音寺 寺・神社・教会
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モラエスさんのお墓の説明書きがありました。
潮音寺 寺・神社・教会
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モラエスさんのお墓の右隣におヨネさんの
お墓がありました。
モラエスが46歳、おヨネが25歳の時に純日本風の
結婚式をあげたと伝えられています。潮音寺 寺・神社・教会
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左隣には同棲していたコハル(おヨネの姪)が
眠っています。
おヨネは38歳で心臓病のために死去し、
コハルは22歳で結核が悪化しモラエスの熱心な
看病にもかかわらず死去しました。
1916年にコハルが死去した後、おヨネとコハルの
墓参りに孤独な余生を送り、1929年(昭和4年)
7月1日に75歳で逝去しました。
モラエスの晩年の様子は先にあげました
「孤愁<サウダーデ>」に詳しく書かれています。潮音寺 寺・神社・教会
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”もうひとりのラフカディオ・ハーン”について
時間が許せればもう少し勉強したくなりました。
別れ際にポルトガル語で
「Obrigado pelo Japão.
Tchau.」
(日本の為にありがとうございます。
さようなら。)
と唱え合掌いたしました。
(通じたかなあ?)潮音寺 寺・神社・教会
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2020年11月13日(金)曇り風なし。
今日は高松港から高速フェリーで小豆島の土庄に渡り
尾崎放哉さんの記念館とお墓を訪ねます。
私は7:20の高速フェリーで出発することにしました。西光寺 寺・神社・教会
-
往復で大人2,270円です。
昼前にはまた高松港に帰ってくる予定です。西光寺 寺・神社・教会
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私が乗った高速フェリーは白波を上げて一路土庄港へ
走ります。
乗客は服装から観光目的ではなく仕事目的のようで
スーツを着た人が多いです。
通勤フェリーといった雰囲気でした。西光寺 寺・神社・教会
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隣には普通フェリーも走っています。
あの船には観光客が乗船しているかもしれません。西光寺 寺・神社・教会
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土庄港が近づいて来ました。
西光寺 寺・神社・教会
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私が乗った高速フェリーは土庄港に着岸しました。
尾崎放哉記念館へ急ぎ足で向かいます。
行き方は事前にグーグルマップで調査していました。西光寺 寺・神社・教会
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436号線を20分ほど歩くと記念館の標識が見えてきました。
西光寺 寺・神社・教会
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記念館が近くなると更に標識が見えてきます。
西光寺 寺・神社・教会
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ようやく尾崎放哉記念館い到着いたしました。
ホット安心です。
でも記念館の開館は9:00からでしたのでまだ
受付が始まっていません。
時間があるので記念館尾周辺を歩いた後に
放哉さんのお墓を訪ねることにしました。西光寺 寺・神社・教会
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「いれものがない、両手でうける」
尾崎放哉は一高、帝大(東大)とエリートコースを歩みながら
晩年には小豆島の西光寺奥の院南郷庵(なんごうあん)に寺男
として入り1926年(大正15年)4月に咽頭結核が進行し、
南郷庵裏に住む漁師の老妻に看取られながら孤独のうちに死去
しました。
山頭火は1928年8月(昭和3年)8月に小豆島に渡り、
放哉のいた西光寺に5泊し、
「お墓親しさの雨となった」という句を詠んでいます。西光寺 寺・神社・教会
-
「障子あけて置く、海もくれ切る」
放哉は海を愛していました。
放哉は海が好きだったので、海のそばから離れません。
放哉の文に次のようなものがあります。
「私は海の慈愛と同時に此の雲と云ふ曖昧模糊とした
ものに憧憬れて、三年の間、飄々ことして歩いて居た
というわけであります。」
放哉はこうして彼の終焉の地である小豆島へ辿り着きました。西光寺 寺・神社・教会
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記念館の扉はまだ閉められたままです。
これからお墓に向かいます。西光寺 寺・神社・教会
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西光寺の墓地へ入ります。
墓参の人が多いのでしょうか
「放哉さんのお墓」という道しるべがありました。西光寺 寺・神社・教会
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この道しるべに従って歩けば放哉さんのお墓にたどり
着けます。西光寺 寺・神社・教会
-
もうすぐたどり着けそうです。
西光寺 寺・神社・教会
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辿り着きました。
放哉さんのお墓です。
墓前にはやはり彼の好物のお酒が供えられていました。
私も持参したお酒を早速供えました。
「淋しいぞ、一人五本のゆびを開いて見る」西光寺 寺・神社・教会
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お墓からの眺めです。
放哉さんは春夏秋冬の四季の変化を眺めながら
どのような俳句を作っているのでしょう。
「春の山のうしろからけむりが出だした」西光寺 寺・神社・教会
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私は西光寺に向かいます。
赤い仏塔が目印です。
放哉さんもこの裏道を歩いていたに
違いありません。西光寺 寺・神社・教会
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赤い塔を目指して階段を登ります。
西光寺 寺・神社・教会
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鮮やかな朱色の三重塔が私を待っていました。
西光寺 寺・神社・教会
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小豆島第五十八番奥の院「誓願ノ塔」という名前です。
西光寺 寺・神社・教会
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鐘楼から放哉さんの大好きな海が見えます。
西光寺 寺・神社・教会
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銀波浦と呼ばれています。
西光寺の石段を下りて記念館を訪れました。
丁度受付の女性が出勤してきましたので中に
入れていただきました。
入館料は大人220円です。
内部は撮影禁止でした。
記念資料として「郷土出身文学者シリーズ(1)」”尾崎放哉”
を購入いたしました。西光寺 寺・神社・教会
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帰りは11時過ぎ出発の高速フェリーに乗船しました。
西光寺 寺・神社・教会
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高速フェリーは土庄港を離れ高松港へ走ります。
「来る船来る船に1つの島」
私は家内と待ち合わせて屋島と四国村を観光する予定です。
今回の旅で山頭火、放哉、モラエスの終焉の地を訪ねることが
出来ました。
なんだか懐かしい人たちに出逢ったような気持がしています。西光寺 寺・神社・教会
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