
2016/07/21 - 2016/07/24
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akkiy363672さん
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足立美術館を後にして、国宝指定を受けた「松江城」、さらに、日本の神話のふるさと「出雲大社」へ足を延ばしました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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11時30分、足立美術館を後にして、松江城へと向かいます。
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12時10分、大手前駐車場へ車を止め、案内板を確認!
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堀尾義春(茂助)公。
豊臣秀吉麾下、賤ケ岳七本槍の一人。松江城築城を手掛けたのですね。 -
大手前の坂です。
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右手、城山公園でしょうか。
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天守閣が見えています。
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松江城の石垣は、「野面積み」(全体の4割)と「打ち込み接ぎ」(6割)という石積み手法が用いられています。
石垣積みは、築城工事にあたって、全体の半分以上の労力を要したと云われていて、松江城は5年間で完成しましたが、そのうち3年間を石垣に費やしました。
【松江城ホームページより】 -
1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦いで戦功のあった堀尾忠氏(堀尾吉晴の子)が、隠岐・出雲24万石を得て月山富田城に入城し、松江藩が成立します。
月山富田城は中世山城であり近世城下町形成には不利であったので、運送などに有利な宍道湖と中海を結ぶ太田川の近く、末次城跡を城地の候補とし、築城工事を始めました。 -
二の丸
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松江神社。
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松江市立「興雲閣」。明治35年(1902)12月に着工し、翌36年(1903)9月に完成した、松江市が松江市工芸品陳列所として建てた建物。 当初、明治天皇の行在所に使用する目的でつくられたため、装飾・彫刻を多く用いた華麗な 仕上げとなっています。
この日は、結婚式の前撮りを、この歴史的建造物で行なおうというカップルが訪れていました。若い二人の前途に、幸多からんことを! -
この門をくぐると、本丸です。
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天守閣が見えてきました。
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ここから入城します。
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1607年(慶長12年) 末次城のあった亀田山に築城を開始。
1611年(慶長16年) 正月、松江城落成。
2015年(平成27年)7月8日の『官報』告示をもって国宝に指定されました。 -
松江城は全国に12城しか残っていない現存天守の1つです。
現存天守は江戸時代またはそれ以前に建てられ、壊れることなく現代に姿を残す特別な存在です。その中でも、慶長16(1611)年完成の松江城天守は、彦根城、姫路城と並び、近世城郭最盛期を代表する天守として、2015年に国宝に指定されました。【松江城ホームページより】 -
場内へ
全国にたくさんあったお城が現在12城しか残っていないのには主に3つの要因があげられます。【松江城ホームページより】
壱:一国一城令(1615年)
読んで字のごとく、1つの国に1つの城しか認めず、あとは廃城せよという御触れ。城の数を制限することで、諸大名の武力を抑制するのが目的。
弐:廃城令(1871年)
明治維新以後、新政府が軍用として使用する以外は破却せよという御触れ。城内の建築物は民間に払い下げられ、その多くは取り壊されました。
参:第二次世界大戦(1945年)
1939~1945年まで6年間続いた第二次世界大戦。なかでも太平洋戦争は日本全土が戦火に見舞われ、空襲で多くの城が焼失しました。 -
この子も、今から登城です。
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天守閣から…、宍道湖が見えてます。
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南の方を
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場内にある大楠。松江城の歴史を見守ってきました。
松江城の歴史 https://www.matsue-castle.jp/highlight/history -
明治当初の廃城令によって、多くの建物が壊されたり売却されたといいます。
そんな中、地元の有志・市民が力を合わせて買い戻し・修理して、今日の国宝「松江城」があるとのことです。地元の宝、先人の遺産を守ろうとした、松江の人々の意思は尊いですね。 -
国保指定にあやかり、バックに入れて1枚パチリ!
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午後1時15分、駐車場を出発。堀端を回る外周道路抜けて、出雲大社を目指しました。
堀は、汽水域であるためハゼやメダカ、時にはアカエイも入ってくるとか。
お堀巡りの遊覧船が出ています。 -
堀端に、長屋を改修したのでしょうか、「歴史博物館」がありました。
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松江城の南端の石垣を右手に見て、国道431号を西へ…。
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左手に「宍道湖」が広がっています。
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午後2時15分、出雲大社へ着きました。
出雲大社(いずもおおやしろ/ いずもたいしゃ)、祭神は大国主大神。 -
神楽殿。大注連縄も健在です。
長さ 13.5m、重さ 4.4t。日本一かと思っていましたが、ちょっと控えて、日本有数だそうです。
出雲大社の注連縄には、大きな特徴があります。一般的に、注連縄は神様に向かって、右方を上位にして綯うそうですが、出雲大社では、古来よりその逆、左方を上位、右方を下位として綯う習わしがあり、「大黒じめ」と呼ばれています。
注縄ひとつをとっても、出雲にまつわる不思議な習わしがありますね!
【草菴・おちらと日記より】 -
神楽殿から右にとり、本殿に参拝します。
出雲大社は、二拝四拍手一拝の作法で拝礼する【Wikipedia】…とあります。四拍手は知りませんでした。
明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社でした。 -
本殿です。
1992年から週刊ポストに連載が始まった井沢元彦の「逆説の日本史」に、『出雲大社では、参拝者が柏手を打つ正面にはヤマト系の客神が鎮座し、主審の大国主命はその右奥に横向きに坐している』といった意味の記述を読みました。
今まで2度このお社を参拝していますが、神々がそのように坐しておられたとは知らず、今回、そのようすを伺えればという思いも抱いての参拝でした。 -
しかし、もとより本殿の内部を除くことはできず、そのようすを拝察しつつの参拝でした。
外から社殿を覗きつつ、『あのあたりに大国主命がおわすのかな』と思いをいたしていました。 -
これは、境内に設けられていた「国譲りの神事」のモニュメント。出雲(この世)を治めていた大国主が、アマテラス(天照)に統治権を譲るという話し合いを表わしていますが、両者の間には壮絶な争いがあったのではないでしょうか。
その結果、大国主は捕らえられ幽閉されて、大和政権の5人の監視のもと、出雲大社に祀られているのでしょぅ。 -
お社の外周をひと回りして、再び本殿の前にもどってきました。
正面の広場の一角に、大きな丸が3個描かれています。 -
これは、3本の大柱を束ねて、1本のさらに巨体な柱を立てた痕跡!
国譲りの話し合いの結果、巨大な神殿を建ててその御霊を祀ることを約束したアマテラス(大和政権)は、日本一の神殿(高さ46m)を建ててその霊を鎮めたと伝えられています。
近年、この巨大な支柱が発掘されて、伝説がまた一歩史実に近づいたというわけです。 -
午後3時20分、出雲の歴史を展示する「出雲古代歴史博物館」を訪れました。
博物館を入ると、展示室の入ったところに展示されている、「宇豆柱(うづばしら)」です。3本1組となったスギの大木が3箇所で発見されました。各々直径が1.4mほどのスギの大木が、3本ひと組に括られていて、合わせて直径約3mにもなります。出雲大社境内から、2000年の発掘調査の際に発見され、それまで伝説であった出雲の巨大神殿が、歴史になった瞬間でした。 -
「雲太、和二、京三」の説明書きが展示されていました。
平安時代の口遊(くちずさみ)という本に書かれていることばです。
雲太(出雲大社が一番)、和二(大和の国の大仏殿が二番)、京三(京都の平安京大極殿が三番)ということで、出雲大社の大きさを人々が語り伝えていたのですね。 -
どんな建物だったのかというと、写真のように高い柱の上にお社が載せられています。本居宣長が『玉勝間』に引いたところによれば、かつての本殿は現状の倍ほどもあり、中古(平安時代)には16丈 (48m)、さらに上古(神代の後、平安より前)には32丈(およそ96m)であった、という伝承があります。
平安から鎌倉時代の間に、7度倒壊したとの記録もあるようです。
https://izumo-murasakino.or.jp/yomimono-004.html -
古代ロマンを胸に、午後4時50分、帰路に就きました。
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宍道JCTで、山陰道から中国横断道へ。広島の三次で中国道に乗るつもりです。
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中国横断道の途中で「三刀屋料金所」をくぐります。これは、山陰道から中国道へ出る自動車道が複数あるので、どの道路を走って来たかを確認する作業でしょうか。
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中国道、大阪方面へ走ります。
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大阪池田を通過したのが、午後9時55分。滋賀「草津SA」でゆっくりと食事をとるなどして、午前0時30分、無事帰宅しました。
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