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 歩いてみたシリーズ、とりあえずの最終回です。<br /> <br /> コロナが終息したらどこ行きたいかなあ?<br /> 台湾だったら馬祖かな。エストニアのペイプシ湖、フィンランドだったらキルピスヤルヴィ…。政情さえ回復していたら、やっぱりベラルーシだな。<br /> <br />※この旅行記は10月下旬から11月中旬にかけて、地元を歩いた記録をまとめています。日付は真ん中あたりの適当な日にちなので、この日に全部まわったわけではありません。

地元「東海市」を歩いてみた~南部篇2

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2020/11/06 - 2020/11/06

6393位(同エリア22789件中)

binchanさん

 歩いてみたシリーズ、とりあえずの最終回です。
 
 コロナが終息したらどこ行きたいかなあ?
 台湾だったら馬祖かな。エストニアのペイプシ湖、フィンランドだったらキルピスヤルヴィ…。政情さえ回復していたら、やっぱりベラルーシだな。
 
※この旅行記は10月下旬から11月中旬にかけて、地元を歩いた記録をまとめています。日付は真ん中あたりの適当な日にちなので、この日に全部まわったわけではありません。

旅行の満足度
5.0
同行者
一人旅
交通手段
高速・路線バス 私鉄 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  •  北部のヤマトタケルノミコト、中部の在原業平と、歴史上のビッグネームを各エリアで見かけました。南部は今のところこれといった人物が出ておりません。さて、この後どんな人物が出てきますでしょうか。<br /><br /> こちらは「小玉塚」。平安時代のお姫様を供養するお社です。

     北部のヤマトタケルノミコト、中部の在原業平と、歴史上のビッグネームを各エリアで見かけました。南部は今のところこれといった人物が出ておりません。さて、この後どんな人物が出てきますでしょうか。

     こちらは「小玉塚」。平安時代のお姫様を供養するお社です。

  •  源義朝の愛妾。時代の古さはいいですね。ただ、南部を代表するとは言い難い。

     源義朝の愛妾。時代の古さはいいですね。ただ、南部を代表するとは言い難い。

  •  お社の石碑。昭和35年のものです。伊勢湾台風の翌年ですね。

     お社の石碑。昭和35年のものです。伊勢湾台風の翌年ですね。

  •  養父公民館の門柱に「養父公會堂」の文字。戦前のもの?

     養父公民館の門柱に「養父公會堂」の文字。戦前のもの?

  •  お隣の「安楽寺」。<br /> 寺の前に石像がいくつか置かれています。二宮金次郎がマスクしてる。

     お隣の「安楽寺」。
     寺の前に石像がいくつか置かれています。二宮金次郎がマスクしてる。

  •  創建はなんと安和年間(968~970年)と言われるお寺で、「お大日さん」と呼ばれているそうです。なぜか本堂の写真を撮り忘れました。<br /> このあたりに戦国時代には城(藪城)があったそうです。その城主を供養する宝篋印塔があるとのことですが、どこにあるんだろう。

     創建はなんと安和年間(968~970年)と言われるお寺で、「お大日さん」と呼ばれているそうです。なぜか本堂の写真を撮り忘れました。
     このあたりに戦国時代には城(藪城)があったそうです。その城主を供養する宝篋印塔があるとのことですが、どこにあるんだろう。

  •  それらしいものを発見。本堂の裏に「打ち捨てられ」た感じで置いてありましたが…、本当にこれなのかな。

     それらしいものを発見。本堂の裏に「打ち捨てられ」た感じで置いてありましたが…、本当にこれなのかな。

  •  城ノ内という地名が残るこの界隈に藪城があったそうです。先ほどの宝篋印塔は城主だった花井氏のもの。花井氏を滅ぼした織田信治(信長の弟)がその後城に入ったとのこと。<br /> 当時の城主花井惣五郎は弓の名手だったそうですが、これもまた南部を代表するには弱いかなあ。

     城ノ内という地名が残るこの界隈に藪城があったそうです。先ほどの宝篋印塔は城主だった花井氏のもの。花井氏を滅ぼした織田信治(信長の弟)がその後城に入ったとのこと。
     当時の城主花井惣五郎は弓の名手だったそうですが、これもまた南部を代表するには弱いかなあ。

  •  国道155号線沿いを歩いて見つけた道標。真ん中からバックリと折れています。<br /> 2012年調査の「東海市の石造物」にはそんな表記がないので、近年折れたものと思われます。

     国道155号線沿いを歩いて見つけた道標。真ん中からバックリと折れています。
     2012年調査の「東海市の石造物」にはそんな表記がないので、近年折れたものと思われます。

  •  「大師道」の文字が見えます。<br /> 知多半島は知多四国四十八か所霊場巡り(弘法参り)があるのでこういった道標が多い。

     「大師道」の文字が見えます。
     知多半島は知多四国四十八か所霊場巡り(弘法参り)があるのでこういった道標が多い。

  •  続きまして、「玉林寺」。<br /> 江戸時代の儒学者、細井平洲先生が講話を行ったお寺です。平洲先生は東海市郷土の偉人とされております。

     続きまして、「玉林寺」。
     江戸時代の儒学者、細井平洲先生が講話を行ったお寺です。平洲先生は東海市郷土の偉人とされております。

  •  立派な門。

     立派な門。

  •  小坊主さんもマスク姿。

     小坊主さんもマスク姿。

  •  境内にあった石碑。<br /> 左が文久年(1862年)の奉納塔で正面に句が彫られているもの。右は「山村賢寿尼歌碑」(年代不明)。山村賢寿尼についても詳細不明です。

     境内にあった石碑。
     左が文久年(1862年)の奉納塔で正面に句が彫られているもの。右は「山村賢寿尼歌碑」(年代不明)。山村賢寿尼についても詳細不明です。

  •  お寺の隣に江戸~明治時代の歌人、坂広雄の歌碑(明治43年 1910年)があります。ご本人より門下生の坂正臣という人が有名らしい。<br /> もとはこの場所に愛宕神社(後から行きます)があったそうです。

     お寺の隣に江戸~明治時代の歌人、坂広雄の歌碑(明治43年 1910年)があります。ご本人より門下生の坂正臣という人が有名らしい。
     もとはこの場所に愛宕神社(後から行きます)があったそうです。

  •  風化していてよくわかりませんが、これが歌碑らしいです。

     風化していてよくわかりませんが、これが歌碑らしいです。

  •  国道に戻る道沿いにあった道標。<br /> 正面に「高野山御分身弘法大師御母公奉安二十番霊場」とあります。知多四国八十八か所のほかに、「御母公奉安廿一か所めぐり」というのもあるそうで、先ほどの玉林寺がその20番目霊場なのです。<br /> 側面には「是より一町 玉林齊」。玉林寺は昔は玉林齊と言ったそうです。<br /> 後ろには「大正十三年五月建立」と記されています。

     国道に戻る道沿いにあった道標。
     正面に「高野山御分身弘法大師御母公奉安二十番霊場」とあります。知多四国八十八か所のほかに、「御母公奉安廿一か所めぐり」というのもあるそうで、先ほどの玉林寺がその20番目霊場なのです。
     側面には「是より一町 玉林齊」。玉林寺は昔は玉林齊と言ったそうです。
     後ろには「大正十三年五月建立」と記されています。

  •  少し北上するとまた「十三丁大師道」の道標が。<br /> 13丁(約1.4キロ)となると…どこだろう?<br /> 

     少し北上するとまた「十三丁大師道」の道標が。
     13丁(約1.4キロ)となると…どこだろう?
     

  •  古民家を利用した手織物の工房発見。

     古民家を利用した手織物の工房発見。

  •  続きまして、「大教院」。<br /> 室町時代にこの地に住むことになった足利義政の家臣白羽監物(しらはけんもつ)が開基とされます。<br /> 東海市の民話によると、笛の名手の白羽監物は都を偲んでよく笛を吹いていたそうで、いつしかそれに合わせた琴の音が聞こえてくるようになったんだそうな。こんな田舎にこれほどのことの名手がいるとは、と興味をもって琴の音のするお屋敷をたずねるも弾き手の姫君はすでに亡くなったあと。松の枝を渡る風の音が琴の音に変わり、そのあとも笛の音との合奏が聞かれた、という逸話が伝わるそう。

     続きまして、「大教院」。
     室町時代にこの地に住むことになった足利義政の家臣白羽監物(しらはけんもつ)が開基とされます。
     東海市の民話によると、笛の名手の白羽監物は都を偲んでよく笛を吹いていたそうで、いつしかそれに合わせた琴の音が聞こえてくるようになったんだそうな。こんな田舎にこれほどのことの名手がいるとは、と興味をもって琴の音のするお屋敷をたずねるも弾き手の姫君はすでに亡くなったあと。松の枝を渡る風の音が琴の音に変わり、そのあとも笛の音との合奏が聞かれた、という逸話が伝わるそう。

  •  俳人坂楓京が、白羽監物の逸話をもとに明和二年(1765年)に建てた碑「八公石」。<br /> 当初は逸話に出てくる松の木「弾琴松」の下にありました。その松は明治時代に枯れてしまったのですが、二代目が愛宕神社で育っています。

     俳人坂楓京が、白羽監物の逸話をもとに明和二年(1765年)に建てた碑「八公石」。
     当初は逸話に出てくる松の木「弾琴松」の下にありました。その松は明治時代に枯れてしまったのですが、二代目が愛宕神社で育っています。

  •  裏側に「弾琴松」の文字。250年も前のものにしては、かなりしっかり残ってますよね。石材がいいのかな。

     裏側に「弾琴松」の文字。250年も前のものにしては、かなりしっかり残ってますよね。石材がいいのかな。

  •  歌碑もあります。文化6年(1809年)のもの。<br /><br /> 白羽監物もエピソードがロマンチックでいいですね。しかし、ゆかりの地が一つというのはちょっと弱い…。

     歌碑もあります。文化6年(1809年)のもの。

     白羽監物もエピソードがロマンチックでいいですね。しかし、ゆかりの地が一つというのはちょっと弱い…。

  •  二代目弾琴松がある「愛宕神社」にやってきました。

     二代目弾琴松がある「愛宕神社」にやってきました。

  •  割と新しい神社なんですね。

     割と新しい神社なんですね。

  •  江戸時代の常夜燈が多く残っていて、火をともす部分がなくなっているものも見られます。

     江戸時代の常夜燈が多く残っていて、火をともす部分がなくなっているものも見られます。

  •  部品が地面に落ちているものも。<br />

     部品が地面に落ちているものも。

  •  多くは明治以前の年号が刻まれています。<br /> これ(上の写真のズーム)は文政2年(1818年)。

     多くは明治以前の年号が刻まれています。
     これ(上の写真のズーム)は文政2年(1818年)。

  •  村瀬帯梅(江戸時代の俳人)の句碑。昭和55年(1980年)造立とのこと。

     村瀬帯梅(江戸時代の俳人)の句碑。昭和55年(1980年)造立とのこと。

  •  手洗鉢も結構古い。

     手洗鉢も結構古い。

  •  寛保3年(1743年)。<br /> 神社の手洗鉢は古いものがずっと使われている傾向があります。石造物ってすごいなあ。

     寛保3年(1743年)。
     神社の手洗鉢は古いものがずっと使われている傾向があります。石造物ってすごいなあ。

  •  こちらが二代目の弾琴松。

     こちらが二代目の弾琴松。

  •  説明書き。

     説明書き。

  •  横須賀まつりの山車蔵。<br /> 横須賀まつりは愛宕神社の秋の例祭で、5台の山車が引き回される勇壮なお祭り。ここは本町組の山車蔵で、このほか北町組、八公組、円通組、大門組の山車があります。

     横須賀まつりの山車蔵。
     横須賀まつりは愛宕神社の秋の例祭で、5台の山車が引き回される勇壮なお祭り。ここは本町組の山車蔵で、このほか北町組、八公組、円通組、大門組の山車があります。

  •  東海市文化センターの前にある銅像。<br /> 橋本鐐太郎という明治期の政治家のもの。戦前に銅像が建てられたものの、戦時中の金属供出で一度は撤去、戦後改めて建てられたそうです。

     東海市文化センターの前にある銅像。
     橋本鐐太郎という明治期の政治家のもの。戦前に銅像が建てられたものの、戦時中の金属供出で一度は撤去、戦後改めて建てられたそうです。

  •  銅像の隣には「大東座戦争一周年記念」の石柱。何かの一部だったものと思われます。昭和17年(1942年)。

     銅像の隣には「大東座戦争一周年記念」の石柱。何かの一部だったものと思われます。昭和17年(1942年)。

  •  「久野保心顕彰碑」(大正3年 1914年)。明治大正期の漢学者らしいですが詳細不明。<br /> 全体の写真を撮り忘れました。

     「久野保心顕彰碑」(大正3年 1914年)。明治大正期の漢学者らしいですが詳細不明。
     全体の写真を撮り忘れました。

  •  江戸時代のこのあたり(横須賀)には入り江があり、港町として栄えていたそうです。現在その入江は埋め立てられて緑道となり、往時をしのぶオブジェなどが建てられています。

     江戸時代のこのあたり(横須賀)には入り江があり、港町として栄えていたそうです。現在その入江は埋め立てられて緑道となり、往時をしのぶオブジェなどが建てられています。

  •  ちょっとした池があって港の雰囲気が味わえる?

     ちょっとした池があって港の雰囲気が味わえる?

  •  周囲は干拓が進み、新田への灌漑水路門が作られました。

     周囲は干拓が進み、新田への灌漑水路門が作られました。

  •  樋門(用水路の水門)の石材が残されていますが、こんな感じで一体どんな仕組みだったのか全く分からない。

     樋門(用水路の水門)の石材が残されていますが、こんな感じで一体どんな仕組みだったのか全く分からない。

  •  入り江跡の緑道には歴史を説明する看板もあります。この昭和初期の鳥観図は吉田初三郎氏の作。本当に細かく書かれていて、見ていて楽しい。

     入り江跡の緑道には歴史を説明する看板もあります。この昭和初期の鳥観図は吉田初三郎氏の作。本当に細かく書かれていて、見ていて楽しい。

  •  ところで、江戸時代初期までは馬走瀬(まはせ)という寒村だったというこの地が、立派な港町に変貌したのは「横須賀御殿」が作られたのがきっかけ。尾張藩二代目藩主徳川光友公の別荘として建てられました。1669年に建てられ1715年には取り壊されてしまった短命なお屋敷でしたがこの地に大きな影響を与えました。

     ところで、江戸時代初期までは馬走瀬(まはせ)という寒村だったというこの地が、立派な港町に変貌したのは「横須賀御殿」が作られたのがきっかけ。尾張藩二代目藩主徳川光友公の別荘として建てられました。1669年に建てられ1715年には取り壊されてしまった短命なお屋敷でしたがこの地に大きな影響を与えました。

  •  先ほどの緑道(入り江跡)が続いています。横須賀御殿は入り江に面した「臨江亭」と、回遊式庭園を備えた「御洲濱」という2つの部分から成っていました。このあたりにあったのは臨江亭。

     先ほどの緑道(入り江跡)が続いています。横須賀御殿は入り江に面した「臨江亭」と、回遊式庭園を備えた「御洲濱」という2つの部分から成っていました。このあたりにあったのは臨江亭。

  •  明治28年(1895年)に建てられた横須賀御殿の碑。<br /> 跡地が代官所になっていたとはいえ、御殿が取り壊されてから180年も経ってから碑が建てられるとは、伝説的な御殿だったんでしょうね。

     明治28年(1895年)に建てられた横須賀御殿の碑。
     跡地が代官所になっていたとはいえ、御殿が取り壊されてから180年も経ってから碑が建てられるとは、伝説的な御殿だったんでしょうね。

  •  碑の由来が書かれていました。碑文自体は文体が難しくて読めません。

     碑の由来が書かれていました。碑文自体は文体が難しくて読めません。

  •  ベンチとも思えない石がところどころ置いてあるので、もしかして礎石の跡かと思ったのですが、調べても何も出てきません。ただのオブジェかな?

     ベンチとも思えない石がところどころ置いてあるので、もしかして礎石の跡かと思ったのですが、調べても何も出てきません。ただのオブジェかな?

  •  御洲濱の御殿があったところまで移動してきました。<br /> 遠い昔には入り江だったそうで万葉集にも「可家の湊」として歌われ、江戸時代には見事な回遊式庭園があったというこの地。

     御洲濱の御殿があったところまで移動してきました。
     遠い昔には入り江だったそうで万葉集にも「可家の湊」として歌われ、江戸時代には見事な回遊式庭園があったというこの地。

  •  今はこの有様。<br /> 航空写真で見ると小さな池は残っていますが、周りからは全く見えません。周囲はビジネスホテル、パチンコ屋、住宅、駐車場に囲まれています。

     今はこの有様。
     航空写真で見ると小さな池は残っていますが、周りからは全く見えません。周囲はビジネスホテル、パチンコ屋、住宅、駐車場に囲まれています。

  •  さらに池を追い詰めるように工事をしているし、もしかして埋めちゃうの?<br /> ここは太田川駅前の再開発エリアでその計画地図を見ると一応「公園」になることになってます。一安心。<br /><br /> さて、最後に出ましたね、徳川のお殿様。まあ光友公が南部のビッグネームということでいいでしょう。御殿のほかに南部篇1で行った「御雉山」も光友公の雉狩り場だったことが由来だしね。<br /> それにしても、ヤマトタケルノミコトも在原業平も徳川光友公も一時期こちらにいただけで、出身でもないしここで大活躍したわけでもない。公式偉人の細井平洲先生も出生こそ当地だけれど、一番活躍されたもの没したのもほかの土地。う~ん、やはりビッグになるには一つ所に留まっていてはいけないんだな。<br /> コロナが終息したらまたいろいろなところへ行くぞ~!(私のはただの物見遊山だけど。)<br /><br /> といったところで旅行記終了です。<br /> 地元ではもう1ネタやってみたいことがありますが、一体いつになることでしょう。先にコロナが終息か!?(だったらいいな)

     さらに池を追い詰めるように工事をしているし、もしかして埋めちゃうの?
     ここは太田川駅前の再開発エリアでその計画地図を見ると一応「公園」になることになってます。一安心。

     さて、最後に出ましたね、徳川のお殿様。まあ光友公が南部のビッグネームということでいいでしょう。御殿のほかに南部篇1で行った「御雉山」も光友公の雉狩り場だったことが由来だしね。
     それにしても、ヤマトタケルノミコトも在原業平も徳川光友公も一時期こちらにいただけで、出身でもないしここで大活躍したわけでもない。公式偉人の細井平洲先生も出生こそ当地だけれど、一番活躍されたもの没したのもほかの土地。う~ん、やはりビッグになるには一つ所に留まっていてはいけないんだな。
     コロナが終息したらまたいろいろなところへ行くぞ~!(私のはただの物見遊山だけど。)

     といったところで旅行記終了です。
     地元ではもう1ネタやってみたいことがありますが、一体いつになることでしょう。先にコロナが終息か!?(だったらいいな)

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この旅行記へのコメント (2)

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  • 迷宮ねずみ420号さん 2020/12/12 11:19:30
    東海市 楽しませていただきました
    binchanさま

    地元東海市のご紹介、楽しませてもらいました。
    先日、私へのコメントに「みなさんコロナ禍での工夫した旅行記、個性が出てる」と書かれていましたが
    この旅行記こそbinchanさんの個性が溢れてるなあ~と思いながら拝見しました。
    地元(特に歴史)への探究心がすごいです。

    聚楽園公園、大仏やら池やら雰囲気が良いですね。紅葉が綺麗です!
    茶室でお茶とお菓子最高です。行きたくなりました。

    「南寺廻間ちびっこ広場」の仏像群、拍子抜けと書かれていましたが
    充分インパクト有りましたよ。

    太田川駅のイズミルタイルの壁画、素敵ですね!
    ニルフェルご訪問、覚えてます。

    いくつか山車蔵が写っていましたが、立派な蔵ですね。
    私の地元も5月にだんじり祭りで盛り上がるので興味深かったです。

    折れた道標、残念です。経年劣化だけが折れた原因じゃないですよね・・・。
    とりとめのない感想ですみません。

    地元のもう1つのやってみたいネタ、何でしょう?そちらも楽しみにしています。

    marketa

    binchanさん からの返信 2020/12/12 15:30:23
    Re: 東海市 楽しませていただきました
    いつもご訪問、コメントありがとうございます。
    細かいところまで読んでくださって、とっても嬉しいです。
    折れた道標の前の家が結構な古民家で、門の脇にお社のようなものが写っているのに気づき、先日近くまで行ったので確認しようと思ったんですが、なんと取り壊し工事中でした!(道標はそのまま)お社はどこかに移すのかな~、また機会があったら見に行ってみようと思っています。

    もう一つのネタはどちらかというと自然を楽しむって感じかな。
    そろそろ寒くなるって天気予報で言ってますね。今年は普通の風邪もひきたくないものです。

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