2020/11/05 - 2020/11/05
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binchanさん
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フレイル対策に地元歩きしております。
ところで、4トラのエリア選択に「東海市」って入ってないんですね。知多地区でエリアに市町村名が入ってないのは東海市と阿久比町だけ。知多とか半田とかにくっつけて入れといてくれてもいいのに…。シビアだなあ。
気を取り直して。今回は東海市中部を歩いた旅行記です。北部篇同様、何日かに分けて歩いているので日付はその中ほどの日にち。この内容をすべて一日で歩いたわけではありません。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 高速・路線バス 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
東海市の玄関口、名鉄太田川駅。
2011年に高架駅になって、2015年には駅前に東海市芸術劇場が完成。昔の駅がもう思い出せない…。 -
東海市北部ゆかりの歴史的人物はヤマトタケルノミコトでしたが、東海市全体としては「細井平洲先生」です(こちらは公式に決まっています)。
江戸時代中期の儒学者で、その思想も素晴らしいのですが(実はよく知らないけど)、米沢藩の名君上杉治憲(のちの鷹山)公の師だったことでも知られています。太田川駅前にあるこの像は「細井平洲先生、上杉鷹山公対面の像」で、同じものが山形県米沢市(旧米沢藩)に贈られたとのこと。
この出会いがあった場所は上杉治憲敬師郊迎跡(上杉治憲公が郊外まで師を迎えに出た場所)という国指定の史跡だそう。そうか、そんな有名な出来事だったんだ。
中部篇の見どころには平洲先生ゆかりの地がたくさん出てきます。 -
駅構内にあるイズミルタイルの壁画。
東海市は万博の時の縁でトルコのブルサ市ニルフェル区と姉妹都市です。詳しくは弊旅行記にて。
https://4travel.jp/travelogue/11484177 -
駅の東側は公園になってます。休みの日にはよくイベントやってます。
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公園を通り抜けたところに山車蔵がありました。
東海市には「大田まつり」「横須賀まつり」の2つの山車祭りがあって、ここの山車は「大田まつり」に出るもの。大田の山車は4つあり、これはその中の一つ。
ちなみに、太田川駅は「太田」ですが、地名では「大田」と書きます。 -
大田川を渡ります。
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次の目的地は「王塚古墳跡」。
このあたりにあったそうですが、大正時代の道路改修工事でなくなってしまったとのこと。(ちゃんと調査はされたそうです) -
古墳跡には八坂瓊神社のお社が。
お社の碑は大正11年に古墳石室の石材を使って建てられたとのこと。(「東海市の石造物」の記述による) -
古墳石室の一部で作ったという由来碑。
出土物を石碑にしちゃうってのは、今ならきっとアウトだよね。でも、こうやって誰もが見ることができるなんて素敵だなあ。
後ろにちょこっと写っている手洗鉢は寛延4年(1751年)のものらしい。まだ古墳があったころのものですね。(いずれも「東海市の石造物」より) -
古墳跡の後ろの丘にはお寺があります。
てっきりこの丘が古墳だと思っていたのですが違いました。しかしここも「弥勒寺遺跡」として発掘調査されています。 -
お寺の門には平安時代の仁王像が保存されていて市の指定文化財になっています。けっこう古いものが残ってますね。
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御宝塔への道標。
弥勒寺には霊験あらたかな宝篋印塔(経文を収めた石塔)があり、大正時代そこにお参りするのが流行ったそうな。「ありがたい宝塔まであとちょっと、がんばれ」っていう道標かな。 -
御宝塔は境内のお堂に収められています。ここまで来てお参りはしなかったという不届きもの…。
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弥勒寺を後に次の目的地へと歩いています。
お寺のある丘の北側部分。弥生時代の人も、手前の低い土地で稲作して、ちょっと高いところに住居を構えたり、祭祀場を作ったりしてたんだろうな。 -
4~5月の気候がいい時にはちょいちょい遠くのスーパーまで買い物に行ったりしてたなあ。そのころはまだ田植えすらされてなくて、それがもう稲刈りも終わってるんだよね。このまま来年の田植えくらいまではコロナが続きそう…。
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続きまして、「松崎遺跡」。
古代の製塩場です。 -
発掘跡は埋め戻されていますが、史跡公園としてパネル展示があります。古代の製塩場としては比較的長い期間(600年)製塩が続き、作られた塩は税として納められたとのこと。貝塚も発掘されています。
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郷土資料館(平洲記念館)に実際の製塩土器が展示されていました。
こんな小さなものでコツコツ製塩するんですね。 -
次は如来山公園にやってきました。
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東海市の偉人、細井平洲先生若かりし頃の像があります。東海市はとにかく平洲先生だらけなんです。
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現在の如来山は、埋め立てや干拓によって海岸線から3~4キロ内陸にありますが、平洲先生の時代はこの山のすそ野あたりが海岸線だったそうです。
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平洲先生の学んだ地として石碑が建てられてます。
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如来山からの現在の眺め。
眼下の住宅街も、遠くの工業地帯も一面海だったんだなあ。 -
如来山の西側に名鉄新日鉄前駅、山の上に大学があります。学生さんたちはこの階段を上って通学。たいへんだなあ。
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散策路を歩いて聚楽園駅の近くまで来ました。
如来山から聚楽園駅の北側まで連なる丘陵地は、聚楽園駅から内陸への道で分断されています。切通しになっているその道をまたぐ歩道橋を渡ります。 -
歩道橋からの眺め。
すぐ近くにアピタ(ショッピングセンター)があって、その屋上駐車場からの眺めがさらに素晴らしいです。ただ、平日は屋上駐車場が閉鎖。 -
歩道橋を渡った先にあるのが聚楽園公園。公園には聚楽園大仏があります。
聚楽園公園 公園・植物園
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参道には仁王像もあります。
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物静かでありがたい佇まいでしょ。
聚楽園大仏 寺・神社・教会
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大仏を建立された山田才吉氏の頌徳碑。
氏は明治~昭和期の名古屋の実業家で、建築マニアでもあったらしい。最後はこの地で亡くなったとのこと。(ウィキペディアより) -
隣にはこんな慰霊碑も。1986年建立。
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山茶花?八重椿?
めずらしくちゃんと撮れたお花の写真。 -
公園内を歩いていたら、お散歩しているヤギさんに遭遇!最初は大きな犬かと思った。
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公園内の嚶鳴庵という茶室でお茶をいただきます。
茶室 嚶鳴庵 グルメ・レストラン
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ウィキペディアによると、元々この場所には山田才吉氏の聚楽園旅館があり、1991年にそれを取り壊した後にこの茶室を建てたとのこと。
築30年近く経つわりにきれいな外見ですね。 -
コロナ感染がまた多くなってきたので、人が多かったらやめておこうと思っていたんですが、心配ご無用。さすが平日の午後、人は少なかったです(先客が2名いただけ)。
お抹茶とお菓子で350円。お庭を拝見しながらゆっくり楽しみました。お店で飲食するの久しぶり。 -
聚楽園公園の「ヤカン池」。ヤカンの名は浅山新田を開発した方の屋号から来てるそうです。そもそもこの池は浅山新田に灌漑用水を送るためのため池だったそうな。(個人の方のブログから。元ネタは東海市史資料編だとのこと)
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11月初旬でしたが、ぼちぼち紅葉が見られました。
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名鉄聚楽園駅のロータリーにある記念碑。「細井平洲先生誕生之地」とありますが、実際の誕生地はこれより1キロ以上東にあります。(後から行きます)
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道を少し行くと、「開通記念」という部分だけが見える石碑が。
1932年(昭和7年)建立のもの(東海市の石造物による)。この道の開通記念だと思うのですが詳細は不明。この道は丘を切り崩して作られたと考えられるので、開通記念碑を建てたくなるような大工事だったのでは、と推測。 -
道沿いに「長益上人塚」への道標を発見。
植物でよく見えなかったけれど下の方に「是凡十丁」の文字あり。建てられたのは大正14年らしいです(東海市の石造物より)。
10丁は1.1キロくらいかな。グーグルマップで測ってみたら、本当に1.1キロだった。昔の人スゴイ。 -
1.1キロくらいは現代人でも歩く人が多いと思いますが、らんらんバスでも行けます。私は別の日に太田川駅からバスで行きました。聚楽園駅からなら中ルート4、太田川駅からなら中ルート3です。
ところでコミュニティーバスって循環ルートが多いですよね。らんらんバスもそうで、中ルート3は太田川駅発始発で東海市の中部エリアをぐるっと回って2時間ほどで太田川駅に戻ってきます。
駅前を出発してほどないバス停(市役所前)で、乗車しようとする人が「太田川駅に行きますか?」と運転手さんに聞きました。これ、運転手さんとしては返答が難しい。「反対向きですよ。乗っていれば着きますけど」と答えていましたが、これって路線の仕組みがわかってないと通じにくいですよね。しかもその方が外国人だったため伝わってない様子。ただその方も心得たもので、乗客に「行く?行かない?」とイエスノーの質問を投げかけ、乗客らはそろって首を横に振って答え解決しました。
たしかに乗っていれば行けますが、2時間あれば逆向きのバスは来るし、歩けば10分だもんね。でも運転手さんが「行きません」というとウソになってしまうし、とっても難しい。
こんなやり取りを見て、外国で路線バスに乗って現地の人に助けてもらったことをいろいろ思い出した。 -
分かれ道のところにまた道標。
「是右へ一丁余」とあります。ここまでくれば目の前にお堂が見えそうな気がしますが、これが建てられた当時(昭和2年)にはお堂が今ほど大きくなかったか、木立などで見えなかったのか。(「東海市の石造物」によると、道標に刻まれた距離が「一丁八十米」となっていますが、どうしてもそうは読めない) -
というわけで、やってきました「長益上人塚」。
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どういう場所なのかは写真の看板に書いてありますが、ちょっと読みにくいので少しまとめて書いておきます。
長益上人は戦国時代の和尚様。戦乱で苦境にあった農民が殿様に窮状を訴えるため、訴状を書くのを上人にお願いしました。その訴状をもって訴えに出ると、殿様はそれを咎め農民を罰しようとしたのです。そして上人はその罪を一心に受けて農民に代わって処刑されました。その後人々が上人を供養するためにこの塚を作ったとのこと。
お参りするとご利益があるようで、遠くからも参拝者があったそうですよ。 -
奥のお堂に長益上人の墓碑があります。
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慶安3年(1650年)建立とのこと。さすがに戦国時代のものではありませんが、古いですね。
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安永4年(1707年)の常夜燈。
江戸時代から昭和初期にかけて門や手洗鉢などが献納されています。お願い事全般聞き届けてくださるようなので、お参りする人多かったんでしょうね。ちゃんとご利益があったからお礼の献納が多かったのかな。 -
長益上人塚の近くに大正時代の道路元標が残っていました。
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「上野村道路元標」。
道路元標は大正8年(1919年)の道路法に基づき全国の市町村に設置されました。市町村の中心部に置かれたとのことなので、当時ここが上野村の中心地だったんでしょう。
現東海市は当時上野村と横須賀町という2つの町村に分かれていました。なので横須賀町の方にもこれがあったはずなんですが、検索しても見つからないです。1952年(昭和27年)の道路法改正でこの道路元標は意味がなくなってしまったため、道路改修の折にでも取り除かれちゃったんでしょうか。
道路元標の下部10センチほどが土に埋まっています。1900年代初頭から現在までの間にこれだけ土砂が堆積したってことですよね。遺跡発掘では数千年の堆積物の間に時代の異なる遺跡が重なって見つかるって言いますよね。今現在もすこ~しずつ土砂は堆積してるんでしょうか。 -
「西方寺」、道路元標のすぐ近くです。
さすが旧上野村の中心地、見どころが集中しております。 -
郷土の偉人細井平洲先生(細井家)の菩提寺。ご両親やご兄弟のお墓があるそうですが、先生自身は江戸で亡くなったためお墓は江戸のお寺です。
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長益上人が暮らしていたお寺へと向かいます。
大正時代に建てられた道標。道標は近代に至るまで、江戸時代と大差ない作りの石造だったんだなあ。まあ、今みたいな金属の案内看板があったとしても、戦争中に供出されちゃったり腐蝕して残ってないだけかもしれないけど。 -
長益上人ゆかりのお寺、「寶國寺」。
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寶國寺の隣に「細井平洲誕生の地」碑があります。
こちらが本当の生誕地。
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ここにお屋敷があったってことでしょうか。
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少し歩いたところに、戦国時代の「平島城」跡。
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城跡と言っても何かあるわけではなく、住宅の間の7~8平米くらいの土地が金網で仕切ってあるだけ。
東海市のエリアに、戦国時代には7つほど城があったらしいです。その中で案内看板があるのはここだけ。それにしても戦国時代の末端のお城って領地が狭かったんですね。
といったところで中部篇1はおしまい。中部篇2に続きます。
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