2020/08/19 - 2020/08/21
108位(同エリア357件中)
xiaomaiさん
- xiaomaiさんTOP
- 旅行記406冊
- クチコミ459件
- Q&A回答3件
- 619,577アクセス
- フォロワー59人
媽祖、虎爺、阿基拉を訪ねる嘉義市、嘉義県新港、雲林県北港の旅。媽祖は台湾でもっとも広く信仰を集める海神で、各地にその廟があるが、北港にある朝天宮が台湾の総本山とされている。虎爺も広く知られ、新港の奉天宮が台湾で虎爺をお祀りする本拠地となっている。阿基拉(あきら)は嘉義農林学校野球部の名ピッチャー、呉明捷のこと。1931年夏季甲子園大会で初出場ながら、準優勝をした嘉義農林は台湾野球界の誇りであり、呉明捷は英雄的存在。そのストーリーを描いた『KANO 1931海の向こうの甲子園』という台湾映画が2014年にリリースされ、台湾では爆発的ヒットをした。
この旅行記は、嘉義行程の前半をまとめたもの。
PR
-
嘉義到着後、ホテルへ荷物を預けに行った。駅から徒歩圏内の國園商務大飯店。
-
その後、散策開始。中山路にある嘉義バスターミナルの前を過ぎ......
-
国華街の小道を入り.....
-
嘉義七境慈濟宮。元々は「天地河宮」という個人の祠だった。のちに台南市北門区にある南鯤◯(魚+身)代天府から五府千歳をお迎えし、1843年に慈濟宮となった。日本時代末期に廃廟となるも、戦後すぐの1946年に復興し、1971年に現存する建物が再建された。
五府千歳:玉皇上帝が人間界にお遣わしになった、善悪を観察し、民に福をもたらす神。五府というのは、李大亮、池夢彪、呉孝寛、朱叔裕、范承業の五人の唐朝功臣を指す。 -
中山路、文化路、光華路、公明路が集まる円環(ロータリー)中央部にある阿基拉の像。阿基拉(あきら)の本名は呉明捷と言い、1931年夏季甲子園大会で初出場でありながら、準優勝をした嘉義農林学校野球部の名ピッチャー。そのストーリーは『KANO 1931海の向こうの甲子園』という台湾映画にまとめられている。最後まであきらめないという精神にはとても学ばされる。ぜひ若い世代に観てほしい作品だ。
-
阿里山森林鉄路車庫園区
-
多くの機関車や車両が保管展示されている。
-
第23号蒸気機関車(1914年製造、1970年まで運行)
-
1978年に設置され、1989年まで使用された転車台。
-
阿里山鉄道のかつての車両。
-
車庫
-
SL-25機関車
-
来場者は少なくゆっくり楽しめた。
-
日本車輌製造株式会社が1970年に製造した中興号ディーゼル車両。
-
DL-2ディーゼル機関車
-
以前使われていた車両をトイレに改造。
-
DL-37ディーゼル車両(1976年製造、1989年9月まで運行)
-
米国リマ製造のSL-13蒸気機関車(1910年製造、1977年まで運行)
-
阿里山鉄道修理場
-
阿里山森林鉄路車庫園区と隣り合わせにある嘉義製材所跡。阿里山で伐採された木材がここに運ばれ、製材加工された。
-
日本時代の嘉義営林製材建築群
-
日本時代に嘉義にあった主要な木材店の分布図。今でこそ嘉義は1つの地方都市となってしまっているが、日本時代は木材の伐採と日本への輸出で大いに栄えていた。人口も多く、とても裕福な都市であった。
-
火力発電所を備えた木材製造所だった。
-
火力発電所は1913年に使用が開始された。1964年に発生した大地震で損壊し、今はレンガ構造の煙突基座と排煙管が残るのみ。
-
当時の木材輸送を再現。
-
製材工場
-
日本家屋と椰子の木
-
木材が置かれていることで当時の様子を想像しやすい。
-
木材乾燥室
-
牛車
-
動力室
-
阿里山森林鉄路車庫園区を抜け、嘉義市役所文化局を過ぎると、北門駅。
-
たまたま嘉義駅へ向かう車両が行きすぎた。
-
北門駅舎
-
駅舎内部
-
北門駅に隣接してあるのが檜意森活村(Hinoki Village)
-
多くの日本家屋が見られるということで期待していたけど、そのほとんどが現代的なショップやレストランとして利用されていて、がっかり感があったのは否めない。
-
裏側から見ると、雰囲気はあるけれど......。
-
嘉義発祥で台湾全島でよく知られる焼き菓子店「福義軒」も出店。
-
「福義軒」の内部はそれなりに雰囲気はあるんだけど......
-
靴を脱がずに屋内に入るというのが日本人には馴染めない。
-
招き猫を置くのもおかしく感じる。雨が降り出し、気分は一層ダウン。
-
池なども造成されていて、遠目に見る分にはいい。
-
鴨肉のレストラン
-
鴨が台車に載せられて、なんとなくシュール。
-
過度の観光地化、悪天候で失望感が高まっていたけれど、見るに値する建物も存在した。これは所長官舎。1910年に台湾総督府が阿里山作業所を設置し、その下部組織として嘉義出張所を設け、その後、1920年に総督府殖産局営林所嘉義出張所となった。その所長の宿舎が移築されている。
-
昭和世代には懐かしく感じる人も多いと思う。
-
使い方を間違っているけれど、床の間もある。
-
檜意森活村を訪れる人は多いものの、この署長宿舎に入る人は少なく、ゆっくり見学できた。
-
降っていた雨も嫌なものから、雰囲気をよくするものに変わった。
-
おそらくこれが正面玄関だったのだと思う。
-
正面玄関と思わしき所を外から撮影。
-
そして、玄関内部。
-
これを欄間と言っていいのかどうかわからないけれど、同じものがなく、おもしろかった。
-
質素ながらも、ある種のおもしろさ。
-
屋根の構造を見せるべく、天井は故意に外してある。
-
今後も長く残していただきたい。
-
内部は展示場になっていて、林芳信という陶芸家の作品が展示されていた。
-
なんともかわいい急須だ。
-
所長宿舎の隣にあるのは、スタッフの説明によれば、副所長か事務長級の人が住んでいたところ。
-
ここも所長宿舎同様、保管状態はとてもよい。
-
移築する際には、修築がなされ、新しい木材も必要になった。尋ねたところ、所長宿舎と副所長旧宿舎の木材は8割が元々の建築素材らしい。その他(ショップなどに利用している建物)は半分ほどとのことだった。
-
このような家に住んだことはないけれど、心なしか懐かしい気持ちになるのは日本人であることの証。
-
雨が小降りになってきた。この風景には晴れよりも雨の方が合う。
-
現在、檜を使ってこのような建物を建てることは、木材調達及び資金の問題で、ほとんど不可能だろう。
-
2つの純日本建築を見て、そして、ゆっくり滞在できて、気分がよくなった。
-
檜意森活村を離れる頃には雨は上がり、日差しが戻ってきた。
-
タオル紡織機
-
檜意森活村の近くにある嘉義市役所。
-
Google Mapで見つけた「劉里長鶏肉飯」。鶏肉飯は嘉義の名産。
-
17時を過ぎたばかりで店内には空席があった。
-
火鶏肉片飯(55元)と蝦仁湯(35元)。
地図上にあったから、たまたま入った店だったけれど、大当たりだった。 -
次に向かったのは、嘉義城隍廟。台湾府城隍廟(台北市)、台南城隍廟に次いで、台湾で3つ目に古い城隍廟で、県知事の寄附金で1715年に創建された。その後の修築時も知事が資金を提供している。日本の植民地支配開始後は、参拝者が減少したものの、嘉義地区の祭祀の中心であることには変わりはなく、祭祀委員長は日本人が務めていたようだ。このことから、官立ではなくとも、その性格を十分に有していたことが推察できる。
1936年の地震でひどい損害を受けた際、市尹(市長に相当)伊藤英三の寄付により修築され、それが今に残る城隍廟の元となっている。皇民化運動が起きると、台湾内の多くの廟が破壊されたけれども、ここは役人とよい関係を維持し、それを免れた。1980年には後殿を取り壊し、1985年に6階のビル式廟建築となった。
画像は正門ではなく、横にある小さな側門。 -
本殿に祀られる城隍爺。右に七爺、左に八爺。
-
城隍爺の後部に開基城隍尊神。
-
城隍爺の右手に福徳正神。そして、陳文差、甘將軍、謝將軍、劉大神、帆大神。五将軍の上の額は、嘉義美記商店蘇育奇氏寄贈の和歌。植民地政府当局といい関係を保つために、信徒や当地の名士はだいぶ苦労したようだ。
-
左に速報司爺。そして、劉武差、柳將軍、范將軍、洪大神、金大神。こちら側にも同氏寄贈の和歌。
-
開基城隍尊神の後部、1階のもっとも奥に聖母天后(媽祖)。
-
媽祖の右手に城隍夫人。
-
媽祖の左手に註生娘娘。
-
武器
-
正殿の右には五路財神(東路財神蕭昇、南路財神陳九宮、中路財神趙公明、西路財神曹寶、北路財神姚少司)。
-
財運がアップしそう......。
-
虎爺
-
1925年に台湾特産で、強度の高いブナ科イチイガシで製作された輿。32の神々が彫刻されている。10人で1組となり担がれる。300台斤(180kg)もあるため、100メートル進むだけで、要員交代となる。1996年に第1回民選総統就任儀式で担がれた後は、廟の重要文化財として2階に保管されるようになった。
-
2階にある観音殿(觀音佛祖、彌勒佛、十八羅漢)
-
3階にある水仙宮(水仙尊王大禹)
-
3階右側手前にある文昌殿
-
お守りをいただけるか、聖杯でお伺いをしたところで、1度でお許しをいただいた。
-
3階右側奥にある月下老人殿
-
4階にある五恩主殿(關羽、呂洞賓、張單、王靈官、岳飛)
-
4階にある太歳星君殿
-
こちらも4階にある太歳星君殿
-
5階にある三清殿(玉清元始天尊、上清靈寶天尊、太清道徳天尊)
-
5階から見える城隍廟の屋根
-
屋根を見た時に左手に見えた神の像
-
6階にある凌霄寶殿。祀られているのは、道教最高位神である玉皇上帝。左右に南斗星君(人の生を司る)と北斗星君(死んだ人間の生前の行いを調べ、送る地獄の行き先を決定する)。
-
家族についてお願い事をし、それについてお尋ねしたら、1度で聖杯が出た。
-
正殿と火爐
-
1991年に建設された牌楼
-
一度、ホテルへ戻ることにした。子供がいたら、手をつないで、一緒に「夕焼け小焼け」を歌いながら歩いたかもしれない。
-
18時18分ホテル到着。
-
ロビー
-
エレベーターを降りたところ。台湾でよく見られる供水器があった(客室にもペットボトル2本がある)。
-
廊下を進み......
-
511号室。
-
ドアを開けたところ
-
ダブルベッド1台。
-
客室はそれほど広くはないけれど、滞在時間が短いから十分。
-
トイレとシャワールーム
-
使い心地が良かった Detercom。
-
窓からの景色
-
7時半過ぎ、再度街へ。10分強歩いてアキラのもとへ。夜間はライトアップされていた。
-
呉明捷(1911年-1983年)、出身は苗栗で客家人。投手、内野手で、あだ名は「麒麟子」「怪腕」。1931年の甲子園夏季大会の台湾予選では、台中一中を相手にノーヒットノーランにし、日本での本戦では神奈川商工との試合で完封。大会通算で打率0.412、三振0という快挙。のちに早大に進学し、一塁手、打者として活躍。大学卒業後は、台湾拓殖会社で社会人選手となった。戦後も日本に残り、毎日新聞記者となり、文化部長まで務め、1983年千葉市で病没。
-
文化路夜市
-
地図で見つけた郭家で夕食。
-
20時を回っていたけれど、空席待ちの客であふれていた。
-
雞肉飯、下水湯(鶏の内臓スープ)、醉雞(酒を浸み込ませた鶏肉)。ここも美味しかったけれど、昼に食べた劉里長の味の方が好みだった。
-
文化夜市を歩いていたときに、甘いものが飲みたくなった。その時目に飛び込んできた看板。
-
黒糖牛乳にタピオカを追加。10分ほど歩き、ホテルに到着してから、ゆっくり飲んだ。
(続)
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
この旅行記へのコメント (2)
-
- ひびき56さん 2020/08/30 09:15:34
- KANOの思い出とともに
- あの映画最後が明るく前向きで心地良く映画館を後にできました。
その思い出とともに綴られたこの旅行記、コメントも昭和生まれの私にはうなづけることばかり、台湾へ行けない寂しさの心を埋める慰めになりました。
- xiaomaiさん からの返信 2020/08/30 12:05:14
- Re: 多謝!
- ひびき56さん
旅行記のご高覧およびコメント、ありがとうございます。『KANO 1931海の向こうの甲子園』は、私たちを清々しい気持ちにさせてくれるとともに、奮い立たせてくれる、非常にすばらしい作品ですね。既にご覧になっておいでかもしれませんが、同監督(魏徳聖)による『海角七号 君想う、国境の南』(2008)も、心温まるよい作品です。
新型コロナウィルスの蔓延が早期に鎮静化し、ひびき56さんがまた台湾にいらっしゃることができますようお祈りいたします。
xiaomai ⭐︎
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
嘉義(台湾) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
2
120