2020/08/19 - 2020/08/21
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xiaomaiさん
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媽祖、虎爺、阿基拉を訪ねる嘉義市、嘉義県新港、雲林県北港の旅。媽祖は台湾でもっとも広く信仰を集める海神で、各地にその廟があるが、北港にある朝天宮が台湾の総本山とされている。虎爺も広く知られ、新港の奉天宮が台湾で虎爺をお祀りする本拠地となっている。阿基拉(あきら)は嘉義農林学校野球部の名ピッチャー、呉明捷のこと。1931年夏季甲子園大会で初出場ながら、準優勝をした嘉義農林は台湾野球界の誇りであり、呉明捷は英雄的存在。そのストーリーを描いた『KANO 1931海の向こうの甲子園』という台湾映画が2014年にリリースされ、台湾では爆発的ヒットをした。
この旅行記は、嘉義の行程後半をまとめたもの。
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旅の最終日は6時半に起き、まずは朝食を買いに、ホテルの数軒先にある「阿焜早點」へ。
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肉包、蛋餅、豆漿。この店で有名な葱餅は時間が早すぎて買えなかった。
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朝食後、ホテルをチェックアウトし、嘉義駅前のバス停へ。
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何度か見かけたレトロチックなバス。
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観光地を巡る66番バスに乗車。駅から目的地である嘉義公園まで、乗客はずっと自分1人だけだった。
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13分の乗車で嘉義公園到着。
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26.8ヘクタールもの広さを有する嘉義公園。多くの木々や池がある嘉義のオアシス的存在。日本時代初期はここは嘉義庁農会の農場だったが、1911年に公園として開放された。
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公園内でダンスをする人々
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1706年に嘉義西門付近に創建された嘉義孔廟。1906年の大地震で崩壊し、1962年に現在の場所に再建された。
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孔廟の前にも踊るグループ
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嘉義の孔廟は比較的質素だった。
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公園内には1915年創建の嘉義神社があった。主神は北白川宮能久親王、開拓三神(大國魂命、大己貴命、少彦名命)、天照大神。
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旧嘉義神社の灯篭
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戦後は忠烈祀に改められた。
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参道の奥にあった本殿は1994年に全焼し、「射日塔」というタワーが建てられた。
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大正年間の石灯籠
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旧本殿に向かって左側の狛犬
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旧本殿に向かって右側の狛犬
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本殿は焼失してしまったものの、齋館と社務所であった建物は現存している。
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入母屋造の旧齋館、そして旧社務所は嘉義市史蹟資料館となっている。内部は書院造り。
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入ってすぐの所にある浴衣レンタル。
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床がピカピカに磨かれているのはとてもよい。丁寧に管理されていることがわかる。
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棟札が残されている。
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嘉義市史蹟資料館と言っても、展示内容は乏しく、充実が求められる。
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齋館部分に喫茶部があり、ここで消費した場合、入場料50元分が差し引かれる。
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庭にあった石猿。嘉義郊外を流れる八掌溪には各種の貝類化石や石材があり、多くの芸術家がそれをもとに石像を作ったそうだ。
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樹齢110年ほどのタイワンフウ(台湾楓)。
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年代物に見えたけれど、詳細は分からず。
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こちらの詳細も不明。
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建物の裏にある庭。
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裏庭側から見た旧齋館
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手水舎も残されている。日本へ行ったことがある台湾の方は使い方がわかるかもしれない。でも、参拝すべき神様はおわさない。
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忠烈祀牌坊
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旧嘉義神社祭器庫
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本殿(第二代)があったところにある射日塔(展望タワー)。
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初代本殿の跡。1921~1940年は嘉義発展史上の黄金期で、木材と製糖産業により大きな発展を遂げた。嘉義市の人口も増え、神社の信徒や参拝客の数も増していき、初代本殿より大きなものを建造する必要があったそうだ。
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120cmほどの高さがある初代本殿の石座。木造の建物はアリによる被害がひどく、取り除かれてしまった。
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古そうな石碑があった。
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大道之也 天下為公
『禮記』「禮運」に見られる一節。台湾に来て中国語を学んでいたとき、先生に覚えさせられた。
「大道之行也,天下為公,選賢與能,講信修睦,故人不獨親其親,不獨子其子,使老有所終,壯有所用,幼有所長,鰥寡孤獨廢疾者皆有所養;男有分,女有歸。」 -
市民マーケット
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社交ダンスに励む人々。台湾では男性ダンサーが少なく、女性同士で踊っている場合が多いけれど、この公園ではほとんどが男女ペアだった。
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清朝古砲。
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明治39年3月17日早朝6時12分に発生した大地震について書かれてある石碑。
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台湾の大都市には、どこもこうした大きい公園があり、市民(特に高齢者)の憩いの場となっている。
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時代を感じる車道橋
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1778年に廈門で作成され、台南を経由して嘉義まで運ばれた乾隆皇帝御製の褒揚功碑。石碑の高さは310cmで、幅は143cm。
乾隆51年(1786)、林爽文が彰化で挙兵し、彰化知県を殺害後、南下して、諸羅(嘉義)県と及鳳山県を攻略。台湾は一時期騒乱状態となった。台灣総兵柴大紀は奮い立ってこれに応じ、台南府城を守るだけでなく、乾隆52年(1787)正月には諸羅県城を奪還。林爽文らは体制を整えたのち諸羅城を取り囲んだ。同年10月、乾隆帝は戦功のあった福康安将軍を救うため、台灣に兵を派遣し、林爽文を撃退。のちに、諸羅城軍民を称え、諸羅という地名を「嘉其死守城池之忠義(城を死守した忠義を嘉す)」という意味で「嘉義」に改めている。
上記は清朝の立場からの話。実際は、林爽文は異民族(満洲人)が設立した清朝に抵抗するために挙兵しており、一方的に悪者扱いされるのは好ましくない。
台湾五大家族の1つに板橋林家がある。林爽文事変の結果、米価が高騰し、林平侯が莫大な利益を得たことにより、台湾を代表する一族となった。義に死する者あり、戦役で富を蓄える者あり。いつの世も変わらない。 -
嘉義公園から10分ほど歩いて旧嘉義監獄へ。
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1920年に竣工し、1922年から臺南刑務所嘉義支所として使用された嘉義舊監獄は、台湾で唯一完全な形で保存されている日本時代の監獄。
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入り口の門を内側から。
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修築を経て、2011年から獄政博物館として公開されている。
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建物に入ってすぐ左にあるのが......
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典獄長室
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窓枠も檜で作られているとの説明があった。
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窓枠に菊の御紋。解説員の方曰く、「日本人は菊が好きだから」。そうではなくて、菊は皇室の御紋。
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牛の足の形だと説明されていたけれど......。
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通路挟み、典獄長室の前にあるのが総務科(課ではなく科と記されていた)。
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特別接見処
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特別接見処の内部。天井は木造。
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収容者の制服
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監視員の制服
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天井近くに穴がある。解説員によると、釈迦牟尼が祀られていたそうだけれど、天照大神だとの記載も他所に見られる。
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並ぶ監房
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気がおかしくなっても不思議でないほどの狭さ。
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複数人収容する檻房。
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日本建築らしさを感じるものの、ここはもともと監獄。
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屋外風呂か?
入場者が100名ほどいたのに対し、解説員はたった1人。入場時に必ずまとまって行動してほしいと言われているのにもかかわらず、しばらくすると、ほとんど自由見学状態。確かに1人で100人規模の見学者を統率するのは難しいし、尋ねたいことがあっても、そのチャンスは少ない。この点は改善した方がよいだろう。 -
病んだ囚人のための部屋
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歯科治療まで施されていた。
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鬼瓦を説明するときに、「日本人は台湾人と違ってお化けを怖がるから」と言っていたけれど、そうではなくて、「魔除」と説明して欲しいところ。
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風呂場
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作業所
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作業所にあるトイレ。作業所からも丸見え状態。
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幼児を連れた囚人が子供の世話をした部屋。
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女性監房の風呂とトイレ
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これも屋外風呂だろうか?
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法治国家に暮らす以上、法は遵守せねばならない。法を犯した者が相当の処罰を受けるのは当然のこと。
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旧嘉義監獄のすぐ近くにある嘉義天后宮。1967年創立の比較的新しい媽祖廟。天上聖母を主祀とし、土地公、註生娘娘、二郎神君、九天玄女、五路財神、關聖帝君、月下老人、虎爺公、觀世音菩薩、玄天上帝、王母娘娘、玉皇大帝を合祀する。祀られている天上聖母三媽聖像は元々福建湄州天后宮に祀られていたもので、縁あって、1659年に台湾へ渡られて来られたようだ。
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この日の昼食は前日にも食べた「劉里長鶏肉飯」。到着したのは12時前。すでに多くの人が店の前で席が空くのを待っていた。席を探そうと店内に入ると、先に注文しお金を払ってと言われた。しばらく待って、店外の席が空いたから、そこに座ると伝え着席。観光客は店のルールがわからず、オタオタしている人が多くいた。この店は混む時間帯を避けたほうがいいと思われる。
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前日も食べた火鶏肉片飯(55元)、蝦仁湯(35元)に、白菜滷(30元)を加えた。非常に混んでいるけれど、この店のはやはりおいしい(おいしいから混んでいるとも言える)。
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「劉里長鶏肉飯」から近いから、前日も訪れた嘉義城隍廟をもう一度お参りした。
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廟の前に並ぶお店で金紙、線香、お供え用の煎餅を購入(小、50元)。
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それらを持って本殿へ。
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道教最高位の玉皇上帝。
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この廟が主祀する城隍爺。
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文昌帝君
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月下老人
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千里眼将軍と順風耳将軍
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五路財神
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聖母天后
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金虎爺
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拝殿にある、王錦木で作成された天井。
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嘉義を再訪したら、城隍廟にはまたお参りに来る。
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金紙はエコ対策のため、日を決めてまとめて燃やすようにしているらしく、所定の場所に置くよう言われた。一番左に1つだけ置かれているのが自分が置いたもの。
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金爐の前にいた、ややメタボ気味の犬
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次に訪れたのは、嘉義市朝天宮。旧名を温陵媽廟と言い、泉州府城晉江縣からの移民が1677年に建てた媽祖廟。皇民化運動が始まると、開基媽祖像は彌陀寺に、その他は城隍廟に預けられた。廟そのものは商業倉庫とされたが、1945年の米国空撃により焼失し、多くの歴史文物を失った。幸い、他所に預けておいた神像は残り、1946年に廟が再建されたのち戻された。現在の建物は1974年に再建されたもの。
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1階にある媽祖殿
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1階媽祖殿後部にある玉観音殿。奥に祀られている観音像はミヤンマーの玉を彫って作成されたもので、総重量が2トンもある。
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玉皇上帝を祀る凌霄寶殿
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2階から媽祖殿の屋根を望む。
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2階にある関聖帝君殿。関聖帝君とともに関平将軍、周倉将軍も合祀されている。後部には、水仙尊王、火徳尊王、水徳尊王、四海龍王のほか、風、火、雷、電などの神々が祀られている。
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2階にある文昌殿
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2階にある太歳殿
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宮門にあった虎の彫物。反対側には龍。
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赤いリボンがかわいい。
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1927年に描かれた温陵媽祖廟(嘉義朝天宮の前身)
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赤いぼんぼりに誘われて進んでみると......
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關聖帝君、福徳正神を主祀とし、虎爺公、財神を合祀する、1800年創建の關廂境廟。地震や空爆により再建を何度かしていて、現在のものは1974年に建てられたもの。
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14時前に観光を終え、1時間半ほどスタバでのんびりすることにした。
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ホテルへ戻って荷物を受け取り、駅を向かう途中、阿焜早點の前を通りかかった。その時、朝はなかった葱餅があるのを発見。
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駅の待合室で焼き上がったばかりの葱餅を食べた。
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嘉義駅地下通路に描かれていた阿基拉。
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自身を信じて絶対諦めない!言い古された言葉だけど、阿基拉とそのチームメイトや野球部監督の姿を見ていると、確かにそうだと思わされる。
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16時半発のプユマ号は7分の遅延。
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もっとゆっくりしたかったと思いながら、嘉義を後にした。
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南港へは8分の遅れで到着。今回も多くのことを学べる、いい旅をした。
(終)
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