2017/05/14 - 2017/05/14
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オータムリーフさん
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浅田次郎さんの小説「流人道中記」を新型コロナ外出自粛の2020年4月に読みました。この小説は、名のある旗本で罪人となった青山玄藩が蝦夷松前藩に預かりとなり、それを護送する江戸の与力見習いで押送人・石川乙次郎が奥州街道を下り、宿場で出くわす様々な事件を青山玄藩が人情味の溢れる解決をしていく物語です。
そして押送人・乙次郎の護送の任務である最終目的地、津軽の三厩(みんまや)での玄藩との別れは、この小説の山場である。その後の二人の行方を想像するのも楽しく余韻を残した。
非常に興味を惹かれた物語だった。というのは、自分も日本橋から三厩経由で龍飛岬までで約800kmを越える距離を歩いたから、小説に出てくる宿場を思い出し、そして周囲の景色を自分が撮った写真を観ながら思い出してしまいました。折角なので、奥州街道一人歩きを思い起こしながら、旅日記を書いてみる気になりました。
奥州街道を日本橋から歩き始めたのは、だいぶ前の事だが、終点の龍飛岬までは9回に分けて歩いたのです、今回紹介する旅行記は第9回目に七戸十和田から龍飛岬まで、2017年5月14日から歩き始め7泊8日の歩き旅でした。その第9回目の一人歩きの全貌を8回に分けて書いてみます。
その①旧奥州街道一人歩き最終回1日目(七戸十和田~野辺地)編
その②旧奥州街道一人歩き最終回2日目(野辺地~西平内駅)編
その③旧奥州街道一人歩き最終回3日目(西平内駅~青森)編
その④旧奥州街道一人歩き最終回4日目(青森~蓬田)編
その⑤旧奥州街道一人歩き最終回5日目(休養日・青森市内観光)編
その⑥旧奥州街道一人歩き最終回6日目(蓬田~高野碕)編
その⑦旧奥州街道一人歩き最終回7日目(高野碕~三厩~龍飛岬)
その⑧旧奥州街道一人歩き最終回8日目(休養日・龍飛岬周辺観光)
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 2.5
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 2.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 新幹線 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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浅田次郎さんの著書「流人道中記」を新型コロナウイルス感染症拡大防止の自粛期間に読みました。大変面白くそして感動した小説ででした。
この小説を読んで、旧奥州街道歩きの旅行記を書く気持ちになったのですが、日本橋から歩いた様子を書けば良いのですが、日本橋を歩き始めたのは、何せ、相当前なので、今回は最終回一人歩きの七戸十和田駅から龍飛岬までの様子、そして、今回はその第1日目である七戸十和田駅から野辺地迄を歩いた様子を書いてみます。
そして、この小説に出てくる街道のお話も織り交ぜながら旅行記を書いてみます。但し、「流人道中記」に出てくる罪人の元旗本が人情味あふれる解決をしてゆくのだが、それらは七戸宿到着の前の色々な宿場で起きており、追々簡単に紹介していきたいと思います。 -
2017年5月14日、旧奥州街道一人歩き最終回(9回目)の1日目である。東京駅には既に乗車するはやぶさ3号が入線している。出発時刻は7:36発である。座席は7号車6D。東京も曇り空、東京駅で新聞を買った。
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街道歩きも自宅から段々遠くなると交通費も嵩むが、いつも利用している大人の休日クラブで切符を購入すると3割引きとなり、旅人には大変助かるのです。今回も東北新幹線代を割安で予約、購入しました。もちろん普通切符も割引の対象です。
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これが今回歩いた7泊8日の歩き旅の荷物で大きなリュックに納めました。今回の留意点は着替えは少なく持ち、宿泊場所で洗濯して着替えることにした。
だから、この荷物程度に納まったが、でも重量はかなり有りました。 -
新聞を読んだり音楽を聴きながら過ごすと二戸駅に10:20に到着し、八戸駅経由目的の七戸十和田駅に正確に10:44に到着する。この駅に降りたところ、これから乗る乗客が結構多いのには驚いた。皆さんどこに行くのだろうかと思ったが、自分こそが大きな荷物を背負ってどこ行くの?と聞かれそうだ。
二戸駅や七戸十和田駅は半年前に訪れた第8回奥州街道歩きの時以来であるので多少懐かしい気がする。 -
天気は曇りで、でも、今にも雨が落ちてきそうな空模様だし、非常に寒いのだ。5月の青森は、天気悪いかもしれないが、こんなに寒いとは驚きだ。
駅で出発の準備をして、歩き始める。今回は北口から出るが、北口は駐車病以外は何も無い、駅前の道を歩き始めると、真っ赤なツツジが満開である。七戸十和田駅 駅
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七戸十和田駅北口⇒国道4号線の交差点に出る。ここを左折して国道4号線を青森方面に進むと青森県営農大学校が見えてくる。
この辺りは道路が出来て、旧奥州街道を観ることは出来なく、そして、当時の街道の雰囲気を感じることは出来なかった。
「流人道中記」の小説に戻る。物語は万延元年(1860年)夏、和田倉御門外評定所(裁判所)で寺社奉行、勘定奉行及び町奉行が、姦通罪を犯した、格式の高い旗本・青山玄藩の評定を行っていた。切腹は嫌だとだだをこねる罪人の更なる評定をした結果、闕所改易(財産没収・御家取り潰し)され蝦夷松前藩大名に永年預かりと決まった。 -
国道4号線の歩道は広く、そこには松並木が延々と続くが、この松は江戸時代のものではなさそうだが、それでも旧奥州街道の雰囲気は感じる街道歩きです。今は5月、道端には赤いツツジが咲き乱れている。
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やがては奥州街道の大きな石碑が建っていて、旧奥州街道の説明板も有りました。青森県歴史の道整備促進協議会が建てたものです。この様な説明板が有るのは歩く旅人にとっては非常にありがたい。
「流人道中記」一方、奉行に呼び出しがあった見習与力で若干19歳の石川乙次郎と定年間近の同心の弥五郎の二人。奥州街道を下り罪人青山玄藩の押送役を命じられ、津軽の三厩(みんまや)まで護送する役目である。そして、時を置かずして明日、出発せよとの業務命令だった。 -
国道4号線の様子です。東京の日本橋から680kmの表示が有りました。今日の旧奥州街道歩きは国道4号線沿いに歩くが、それでも旧街道はわき道に入って歩く部分もかなりあり、旧街道の面影を感じる場所だ。
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中野川、中野橋⇒中野三叉路⇒中野、旧街道
中野川に架かる中野橋を渡ると、その先には中野交差点がある。右側の道路を進むと東北町に至るが、奥州街道は真っ直ぐの道だ。交差点の手前にサンクスと云うコンビニがあってので、そこに入り熱いコーヒーを注文した。イートインスぺイスでコーヒーを飲みながら店員さんと世間話。雨も降り出したのでレインウエアを着る。これだと寒さも防げるのだ。そして再び歩き出す。このようなコンビニは旅人にとって有難い。昔で云うならば茶店だろうか。 -
その中野三叉路から旧街道があったが気が付かず、4号線合流点で気が付いた。「まぁ、いいかぁ」とそのまま進むと、天間林トライブインがあった。計画ではここで昼食だったが、お腹も空いていないし、寒さと小雨も降っており、そのまま前進する。その先には天間林温泉の看板がある。この辺りは七戸道ノ上と云う場所らしい。
国道4号を離れて天間館中学校のある場所に入る。旧街道を歩くためだ。地図上では中学校の前の道を右に入るのだが、どうも様子が違い一つ手前の道が旧道だった。そこを真っ直ぐに進む。
「流人道中記」江戸の日本橋にほど近い伝馬町牢から罪人・青山玄藩、見習与力・石川乙次郎と同心の与五郎の3人は早朝に奥州街道を通り、津軽に出発するが、その後を元旗本青山家の奥方、その子、元家来衆がかなり離れて追いてくる。見送りが許されている御朱引(江戸街の地図で朱く塗られたところ)の千住大橋迄ついて来て、そこで涙の別れとなった。 -
赤いツツジが美しいし、名残の松が二本のみありました。当時のものかどうか不明だが、その先に進もうと思ったら、道は農家の庭先に入っているので、これはどうしたものかと思案したが、結局は、そこで4号線に出て、しばらく4号線の歩道を歩く。
「流人道中記」押送人の石川乙次郎と弥五郎は、この罪人である元旗本の青山玄藩がどんな罪状で、どんな格式の旗本かは全く聞かされていなかった。ただ、初対面での印象は悪く、血も涙もない極悪人の旗本であろうと考えていた。 -
しかし、どうしても気になり、左側に道が有ったので、そこに戻る。ここが旧街道なのだろう。突き当りで再び4号線に出る。温度表示板は8℃となっている。道理で震えるほど寒いはずである。
やがて坪川にかかる坪橋をわたるとその先にはオレンジハートと云う関東では余り観ないコンビニがあった。
ここは通過でその先の坪十字路で道は左の旧道に入る。その旧道は最初は民家が点在していて、気になったのはどの家も大きな灯油タンクが家の前に置いてあることだ。この辺りは相当寒い地域なのだろう。 -
道はやがて田園風景となる。田植えは未だ行っていない。天気が良ければ快適な一人旅になるだろうが、空も空気もどんよりとしている。旧街道の道幅は昔のまままだろうかと気になるが、この辺りを通る参勤交代の列や旅人も多くないはずで、こんなに立派な道では無かったろうと勝手に想像する。
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更に進むと柳平一里塚跡があった。立札一枚だけである。その先は柳平十字路、真っ直ぐに進むが、人っ子一人として歩いていないし、車も通らないので寂しいところだ。
「流人道中記」の流人・元旗本の青山玄藩と押送人・江戸の見習与力の石川乙次郎の二人は、この辺りを荒涼として原野で冷たい雨に打たれながら歩いている。この足取りならば今日は七戸宿を越えて、野辺地宿までたどり着くだろうと表現している。何となく物悲しい様子ではある。ところで、押送を仰せつけられた定年間際の同心の弥五郎は千住の宿場で業務放棄して逃げてしまったのである。だから、この七戸を歩いているのは二人だけとなる。 -
柳平一里塚跡の説明板
ここから160mほど北東にあった一里塚だが、今は水田造営の為に消滅しているそうです。
日本橋より176番目の一里塚であった。 -
旧道は一般道路になってしまったが、旧奥州街道はまっすぐに進んでいる。
人っ子一人としていないし、車も通らないので少し寂しい街道だ。 -
道は分岐地点に出る。ここが千曳神社追分となる。古い石造の追分石があり、旧街道は左の道だ。
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千曳神社追分の追分石です。
中央に千曳神社、右 千曳、左 野辺地と刻まれている。こうゆうのがあると旧奥州街道を歩いている気分に浸ることが出来る。 -
追分道標に従って野辺地方面に進むと、道は再度広くなり、両脇には杉林が続く。相変わらず誰一人として歩いていないし、車も通らない。
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千曳神社の鳥居がある。この参道は草ぼうぼうの道でで誰も歩いたような形跡はない。熊にでも遭遇すると嫌なので、中には進まなかった。
調べてみると、千曳神社は創建1200年、青森県最古の神社だそうです。 -
やがて尾山頭と云う集落に出る。人は歩いていないが時々軽トラが通り過ぎる程度だ。
旧奥州街道はこの集落の右手に轍が付いた細い道らしいが、奥州街道歩きの先輩の資料によれば、この道はやがて藪に包まれて消滅しているらしい。
そのために、尾山頭集落の生活道路を通らせてもらう。 -
旧道は更に集落からまっすぐに伸びた細い道であるらしいが、ここも避けて迂回をすることにした。少しは時間のロスではあるが、一人歩きの悲しさで未知との遭遇のリスクは避けて、一旦、国道4号線に出る。余り車は走っていない。
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この辺りの国道には歩道がないので慎重に歩くと、やがて左前方に日本中央公園が見えて来た。
日本中央の碑歴史公園には昭和24年に発見された、真ん中に「日本中央」と刻まれた高さ1.5m、幅70cmの石碑を納めている建物があり、この建物を中心に造られた歴史公園である。この辺りは七戸から東北町と地名が変わる場所だ。日本中央の碑 名所・史跡
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日本中央の碑保存館
保存館に入ったら、一人の初老の男性が管理人だろうか「どうぞ」と迎え入れてくれた。中は暖房が良く聞いているらしく暖かい。ここが日本中央の碑保存館である。昭和24年に川村種吉が発見してから、長らく簡素な祠だけで雨曝しとなっていたのを、平成7年に発見地近くである、この保存館を中心に歴史公園として整備された。 -
これが保存館の中に置いてある「日本中央」の石碑だが、写真からは日本中央の文字が観えずらいが、確かに刻まれていました。ここが日本の中央?
えっ!ここがか。何故、ここが日本中央なのか、不思議だ。
調べてみると、色々な説があるらしいが、日本=ひのもとと読み、東北地方を指す言葉と云われている。ここが東北の中央なのか、未だ納得がいかない。考えると頭がちょっとおかしくなるので、やめておきます。 -
さて、その歴史公園を後にして、更に先に歩行を進める。今は立派な舗装道路になっているが、これが旧奥州街道である。
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そして、舗装道路は右にカーブするが、旧道は真っすぐに伸びた、この道である。今は殆ど誰も歩かない道で、農道になっているようだ。
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そして旧道には「親巡蹟」なる記念碑があるが、自分は観ていないのだ。何故ならば、ここも未知との遭遇のリスクが有りそうだったので、迂回したのである。
説明によると、明治天皇は明治9年7月の総勢148人よる東北巡幸の際、当時の甲地村(現東北町)石坂で休憩された。その巡幸を記念して昭和6年に建立されたものだ。 -
石坂の交差点で4号線と合流する。交差点のコンビニでカレーパンと飲物を買い、そこの駐車場で食べた。持ってきたおにぎり弁当を食べるほどでお腹は空いていないが、でも元気を出すために何かを食べたかった。
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旧奥州街道は再び国道に出会う。向こうの道が国道4号線である。又自動車の排気ガスまみれになると思うと、嫌になるのです。
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国道4号線の脇の田んぼは既に田植えが終わっていた。はて、先ほど通った旧街道のみちの田んぼは未だ田植えが終わっていなかったのに。
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みちのくドライブインが左手にあり、経営している様子だ、清水川をわたり旧街道は左の手の細い道に入りるが、直ぐに4号線に合流する。目の前には道路が高架で横切っている。これは下北道と書いて有り、それを潜ると、いよいよ野辺地町に入る。
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ここから野辺地町である。歩道のない4号線を歩くので、トラックが時々通るので、身の危険を感じる一人歩きである。
「流人道中記」では青山玄藩と石川乙次郎が野辺地に到着したのは江戸を発ってから22日目になると有りました。野辺地に来るまでに、この二人は色々な出来事に遭遇するのでした。
杉戸宿での女将との出会い、佐久山宿では按摩との係わり、芦野宿では人相書きで手配中の押し込み強盗と賞金稼ぎの侍と飯盛り女の騒動、仙台では敵討ち騒動、そして伊達藩の有壁宿においては宿村送りの女との関わり等、全てにおいて元旗本青山玄藩の人情味あふれる解決をしてゆく。 -
はなますライン
国道4号線より分かれて、はまなすライン(国道279号線)がある。恐山72km、むつ59km、横浜32kmと標識があった。ここにも横浜と云う街が有るのだと思いながら、歩行ははまなすラインに入っていくが、立体交差点でわき道にでる。 -
青い森鉄道、野辺地駅方面
立体交差となっている国道279号線の跨線橋から、青い森鉄道の野辺地駅方面を写した写真である。旧奥州街道105番目の宿場野辺地宿のあったところだ。その先には、陸奥湾(野辺地湾)が見えてきた。旧奥州街道歩いていて、始めての海である。 -
道は真っ直ぐのところを進むと左手に野辺地駅方面の案内板。そこの道に入って行くと前方に野辺地えきが見えて来た。かなり大きな駅だが人は余りいない。
「流人道中記」流人と押送人の二人は奥州街道を共に歩き、話をし、様々な出来事に出会うごとに、二人は互いを理解するようになる。その詳しい事は追々旅行記の中で説明していきます。 -
野辺地駅前広場から駅舎を写したものです。タクシーは停まっているも、乗る人は居ない。人通りがあまりないのである。この後、この野辺地駅舎に入ったら、中は暖房が入っていて、非常に暖かかった。
北野辺地駅 駅
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野辺地駅前常夜灯
野辺地駅前にある、町のシンボルとなっている野辺地港の常夜灯のレプリカである。 -
野辺地駅前の広場です。
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ホームに出るとやはり寒いので待合室で電車を待つ。ホームから「日本最古の防雪林」なる看板があって防雪林がありました。
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野辺地駅の構内の風景です。
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青い森鉄道線は、青森-岩手県境に近い目時~青森間の121.9kmの路線で、27の駅があります。もとはJR東北本線で、東北新幹線の延伸とともに移管され、平成14年12月1日に目時~八戸間が、平成22年12月4日に八戸~青森間が開業しました。
路線の運営は「上下分離方式」を採用しています。「上下分離方式」とは、鉄道の車両 (「上」に該当する部分)を、第3セクターである青い森鉄道株式会社が保有して旅客の輸送を行い、鉄道のレール・駅舎・ホーム等の施設及び鉄道設備 (「下」に該当する部分)を青森県が保守管理する方式です。 -
青森駅に到着、天気は晴れている。日曜日なので電車に乗っている乗客はそこそこだ。青森駅は大きい。駅前の観光案内所で資料をもらい、向かいにある予約を入れていたホテル、ホテルルートイン青森でチェックインする。今日から5連泊のホテルだ。荷物を置いて近くのコンビニで今夜の夕食の材料を買う。
明日は野辺地に戻り、そこから旧奥州街道を歩くことになります。 -
ホテルの部屋からは青森駅の駅舎が観える。そんなに遅い時間ではないが、人通りはまばらである。何か随分遠い所に来てしまった感じである。
以上が旧奥州街道一人歩き1日目の旅行記でした。お読みいただき有難うございました。明日も第2日目の一人歩きが続きます。そして「流人道中記」のお話も続きます。
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