2017/05/15 - 2017/05/15
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その②旧奥州街道一人歩き9回目第2日の旅行記です。
浅田次郎さんの小説「流人道中記」を読みました。この小説は、名のある旗本で罪人となった青山玄藩が蝦夷松前藩に預かりとなり、それを護送する江戸の与力見習いで押送人・石川乙次郎が奥州街道を下り、津軽の三厩(みんまや)まで歩いた物語です。この小説に触発されて、旧奥州街道一人旅の旅行記を書いてみる気になりました。
今回は野辺地から一気に青森まで歩きたいところだけでど、距離的に長いので、浅虫温泉手前の西平内駅までの一人歩きの旅です。尚「流人道中記」と明記した後の分は小説からの引用文が多いのですが、ご勘弁下さい。
その①旧奥州街道一人歩き最終回1日目(七戸十和田~野辺地)編
その②旧奥州街道一人歩き最終回2日目(野辺地~西平内駅)編
その③旧奥州街道一人歩き最終回3日目(西平内駅~青森)編
その④旧奥州街道一人歩き最終回4日目(青森~蓬田)編
その⑤旧奥州街道一人歩き最終回5日目(休養日・青森市内観光)編
その⑥旧奥州街道一人歩き最終回6日目(蓬田~高野碕)編
その⑦旧奥州街道一人歩き最終回7日目(高野碕~三厩~龍飛岬)
その⑧旧奥州街道一人歩き最終回8日目(休養日・龍飛岬周辺観光)
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 2.5
- 交通
- 3.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 私鉄
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
旧奥州街道一人歩き2日目の朝です。
ホテル青森駅前ルートイン青森に5連泊となります。ここを起点にあちこち歩くのです。
昨夜はぐっすり眠れたホテルで06:00に起床し、06:35に1階に下りて朝食をとった。結構混んでいる。でもスムーズに入れた。朝食のメニューは少ないが十分である。06:55に一旦部屋に戻り、07:35にホテル出発する。今日は大きなリュックはホテルに置いてサブリュックで歩くから軽いのです。
青森駅発07:52の青い森鉄道に乗る。切符を購入してホームに出ると丁度列車が到着、これが折り返しで八戸駅に行くのだ。学生や勤め人が多く降りて来たし、そして、その列車には学生が沢山乗って来た。これらの学生は野内駅で殆ど降りた。有名な青森山田高校はどこに有るのか?調べると青い森鉄道の青森駅から野辺地方面に1つ目の駅の地悪だった。
野辺地近くになったら今にも雨がこぼれそうな空模様だった。 -
野辺地駅到着
ここで降りる人は少なかった。昨日は七戸十和田駅から、この野辺地迄歩きました。野辺地には定刻通りの08:39に到着する。昨日も寒かったが、野辺地に降り立つと、外気温が低い、非常に寒いのである。ジャンパーをレインウエアに着替えて出発する。相変わらず人が歩いていない。 -
昨日駅に来た時に、通った道を逆に進み、野辺地川橋を渡って野辺地の町に入って行く。ここから北に向かって歩く。自分の足は未だ朝は元気だ。
野辺地町観光物産PRセンター お土産屋・直売所・特産品
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野辺地町に入ると街灯には野辺地のシンボルである常夜灯と帆掛け船を切り抜いたプレートが飾ってある。このような物があると旅人には有難い。野辺地を歩いている実感がわいてくる。しかし、人が歩いていないのは残念です。
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この辺りが105番目の野辺地宿だろう、郵便局が有る辺りが野辺地町本町で、ここが野辺地宿の中心だったらしい。高札場もこの辺にあったという。今は何の面影もない。
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本町から新町に入る。その角にコンビニがあり、そこによって昼食を調達する。今日もおにぎりと飲み物か。美味しくて温かいランチ食べたいなぁ~。街道歩きは、何時もこんな粗末な昼食なのです。
そして、その先には赤い鳥居の八幡宮がある。
街道はここで右折となっている。野辺地宿の出口付近で、道路が枡形となっているところだ。この辺りに、防御のための同心組丁があった。野辺地八幡宮は、慶長3年(1598年)の創建と伝えられている。左には野辺地警察署があました。 -
大湊線の踏切を渡り、街道右側にある野辺地港に向かう。正面に野辺地港にある、常夜燈公園が見えてきた。そして常夜灯がぽつんと海辺に建っているのが目に入った。
これが観たかったのだ。向こうには陸奥湾というか野辺地湾が観えてきた。 -
野辺地の常夜燈
盛岡藩の日本海航路への窓口として賑わった野辺地湊へ、夜間入港する船への目印として、旧暦の3月10日から10月10日までの間、毎晩火が灯されていた。この常夜燈は、野辺地の廻船問屋の野村治三郎、関西の船主橘屋吉五郎が中心となって建立したとの事。
ここで「流人道中記」の小説のお話です。
江戸から二十二日目で流人・青山玄藩と与力見習・石川乙次郎が行き着いたのは、野辺地の湊だった。常夜灯にもあかりがはいり、二人はその常夜灯に背を向けて語り合っていた。そして玄藩は煙管の吸い口を湊に向けて「あれア蝦夷かえ」と聞くと、「下北でがんす」と通りすがりの漁師が答えた。蝦夷地は下北の先の海峡を隔てた、見果てぬ彼方だった(流人道中記から引用)。 -
江戸時代の航路の説明板です。
このころ、野辺地の湊は桧を積出すことで賑わったそうで、それらの桧は全国に船で運ばれ、特に、江戸へは寺社仏閣や大名屋敷造りに、桧が運ばれたと言われている。 -
野辺地湊と陸奥湾。今日は下北半島は、ここからは見えない。
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野辺地港遠見番所跡
ここに南部藩の遠見番所があったそうです。江戸幕府は外国船との取引とかを厳しく取り締まっていたが、この番所はその外国船を監視する場所でもあったのです。 -
目の前は野辺地湾が広がる。常夜灯公園を一通り見て廻り、街道に復帰の為に県道423号線に出て少し歩く。
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県道423号線が旧奥州街道かな。この街道に復帰して北上するが、ここは野辺地川に架かる橋を渡る。
道を歩いているのは自分だけで、地元の人の姿も見えない。時々来る車が通り過ぎるだけです。何となく寂しいです。 -
街道の右側に野辺地戦争戦死者墓地があり、門を潜って寄ってみました。「流人道中記」の小説の中で二人の侍が歩いたときは、この墓所は未だ無かったはずである。何故ならば、戊辰戦争である明治元年(1868年)の頃お話だからである。
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戊辰戦争史跡
案内板には、野辺地戦争戦死者墓所と書かれてあった。戊辰戦争で東北地方の諸藩は、官軍に対抗して、奥羽越列藩同盟を結成したが、各藩の思惑は一致せず、秋田藩、弘前藩などは、その後官軍支持に立場を変えた。明治元年9月、弘前藩の軍勢約180人が突如南部領に侵攻した。 -
南部領の本道を通った一隊は、南部藩境の馬門(まかど)宿に火を放ち野辺地村に迫った。藩境の防備に当たっていた盛岡・八戸藩連合軍は、これに応戦し銃撃した。夜明けまで続いた戦いの後、弘前藩の軍勢は、40余人の死傷者を出して敗走した。野辺地戦争の翌年、弘前藩は、戦死者27人の名を刻んだ墓石4基をこの地に建てた。
こんなところにも戊辰戦争の爪痕があったとは知らなかった。 -
馬門宿
野辺地戦争死者墓地からさほど遠くない街に入る。ここが馬門宿だったのだろか、馬門小学校が有る辺りである。この辺が、旧奥州街道106番目の宿場・馬門宿の中心部であろう。右手に入ると、陸奥湾に面し、馬門公民館、馬門児童公園のあるところだ。幕末の馬門宿は、戸数約30で、粟や稗などの農業とホタテ貝を中心とした漁業が主であった。盛岡南部藩の最北端の宿場で、藩の番所が置かれてあった。ここも何の宿場の面影はなかった。弘前藩が攻めて来た時、火の海にしたらしいので遺構はなくなったのだろうか。先に進むと馬門コミュニティ広場の公園がある。かなり広い公園だ。
国道4号線と合流ポイント馬門交差点を通過する。少し進むと野辺地町に別れて平内町に入ることになる。この辺りが東京から丁度700kmのポイントである。そして、この町境が江戸時代の藩の境でもあった。ここが南部藩と津軽藩の藩境塚が見事でした by オータムリーフさん藩境塚 名所・史跡
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野辺地町はここで終わりで、次は平内町に入る。野辺地町はあくまでも常夜灯をシンボルとしている。南部藩はここで終わりとなり、向こう側は津軽藩領となる。
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馬門御番所と高札
街道右側に再現されている馬門御番所と高札である。もっともこの建物は実際の御番所とは異なり、番所風トイレとなっていた。馬門番所は南部藩が津軽藩の藩境に設けた施設だ。復元された高札には、手形がないと武具や火薬、人、染料、蝋などは持ち出すことを堅く禁じる旨の覚書きが記されてあった。
ここで少し休んでるとトイレを利用するトラックの運転手さんが来た。皆さん、ここにトイレが有る事を知っているのですね。
やばいです、雨がパラパラと降ってきました。これから雨の中の一人歩きとなると嫌だなぁ~と心の中で考えていた。 -
高札場の復元
持ち出し禁止物品の詳細が記されている板が有りました。上の札が新しくしたもので解説している文章だが、下の札は当時のものかな?それにしては崩れていない。
「流人道中記」では、この関所の事を何も書いていない。南部領と津軽領の藩境なので面白いストーリーができそうだと思うが、一言も触れても居ないのです。いきなり宿場を1つ通り越して、浅虫温泉まで飛んでしまう。 -
日本橋から699.9㎞ポイントで向こうには平内町の標識がある。
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青森県史跡となっている藩境塚の案内板です。それに沿って進んでみる。
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藩境塚
江戸時代に南部領と津軽領の境界の目印として旧奥州街道沿いに築かれた土盛りの塚です。塚の直径はおよそ10m、高さ3.5mほどで、南部・津軽それどれ2基ずつあることから通称「四ツ森」と呼ばれているそうです。 -
ここが南部藩と津軽藩の藩境です。境が分かるように二本又川(今はコンクリートで護岸されている小さな溝)が境界線です。
この辺に住んでいた農民は藩境を越えて行ったり来たりしていたのかなぁ~と考えるも、この辺りには農家も無かったのではないかな。ここが南部藩と津軽藩の藩境塚が見事でした by オータムリーフさん藩境塚 名所・史跡
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南部津軽藩境塚
馬門番所の横から急な崖を下ると、海岸べりにある南部津軽藩境塚(はんきょうづか)が見えてきた。江戸期の旧街道は、高台にある馬門番所から急な坂道を下って、海辺にある藩境塚より津軽領に入ったようだ。古墳のように土で盛った大きなもので、南部藩側に2基、そして対抗するように、津軽藩側にも2基作られている。 -
津軽藩境塚
小さな川(二本又川、境の川とも)を渡ると、今度は津軽藩の藩境塚が二基並んで作られている。川を挟んで、「従是東南盛岡領」、「従是西北津軽本次郎領分」と書かれた木製の標識が2つ建っていた。直径、底面にて約10m、高さ3.5mの藩境塚(はんきょうづか、通称四ッ森)は、青森県の指定史跡となっている。 -
藩境塚の説明板が津軽藩領の塚の傍に建っていました。
行ったときは、観光客や地元の人等誰一人として遭う事は無かった。やっぱり寂しい限りだ。 -
藩境塚から国道4号線に復帰して、更に下ると現在の気温が12℃と表示されていた。朝、野辺地駅を出るよりは暖かくなっているはずだ。現在時刻10:58だ。
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只今の気温12℃ですと国道の傍に設けられた温度表示板。
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やがて歩行は左側の細い道に入る。ここが奥州街道の旧道である。入口に「奥州街道」の標柱がある。この辺は、台地の高いところであるためか、「てんじょう」とも呼ばれていたようだ。この坂の手前上り口に、津軽黒石藩の狩場沢番所があったようだ。この旧道は約1km程で4号線に合流してしまう。
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4号線に出る前の旧奥州街道の様子です。
さて「流人道中記」の様子を少し記述します。
青山玄蕃は身分が高い譜代の旗本で、禄高は3千二百五十石。三千石を超す旗本はそうざらには居ない。それが姦通罪で裁かれて罪人となり、闕所改易されたうえ、蝦夷の松前藩に身預かりの流人となった為、奥州街道を歩くことになった。
一方、罪人を護送する石川乙次郎も貧しい同心の家から婿入りした石川家は、知行200石で代々町奉行与力を務める家柄だ。青山家も石川家も譜代の大名から枝分かれした名門だった。 -
再び4号線を歩いていると黒の御影石に掘られた記念蹟がある、そこには「平内町立狩場沢小学校跡地」とある。街道歩きをしていると、江戸時代の遺構ばかりではなく、このような記念の石碑を観るのも楽しいのです。
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4号線を更に下ると狩場沢駅を通過する。その先の国道は歩道が無くなっている。歩くのに危険を感じる。このような場合は、当然だが、右端を歩き、車が向こうから来たら、運転手の顔を睨みつけっるように歩くのです。「俺が歩いているから気を付けて運転して」の信号である。
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明治天皇野点跡の石碑が立っている。明治天皇がお茶を飲んだ場所には必ず記念碑が建っているが、自分がここを訪れた記念碑は造ってもらえないかなぁ~。
この辺りは口広と云う集落らしい。再び歩道が出て来た。集落が有るところの国道には歩道が付いているので安心して歩ける。 -
清水川駅口⇒清水川歩道橋⇒清水川漁港入口⇒清水川漁港⇒清水川八幡宮⇒国道4号線。
清水川橋清水川漁港を覗いて見た。周囲にはホタテの網が沢山積んであり、この辺りもホタテ漁が盛んな所だったのでしょう。漁港の独特なにおいがする。清水川駅 駅
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4号線に復帰して、さらに進むと、温度計があり13℃となっている、少しは暖かくなったかな。
「流人道中記」のストーリーを少し前に戻します。江戸を発って4日目の晩は芦野宿に泊まったが、与力見習いの石川乙次郎は青山玄藩の罪状が姦通罪であることを知り、増々この不良旗本を許しがたいと思っていて、街道のどこかで切り捨てようと考えていたが、口は悪いが彼の立ち振る舞いが、全てにおいて上級武士のものであり、そして、段々と玄藩の素性が分かってくると、乙次郎は急速に親しみを感じる様になった。この武士は本当に罪人なのだろうかと疑問を懐く。 -
左側に平内町パーキングエリアがあり、その前に奥州街道と書かれた石碑がある。青森県歴史の道整備促進協議会が設置した石碑だ。この駐車場壁に奥州街道、特に、黒石津軽藩の付近を地図に描いて説明があった。大変興味深い記述であるので、それをここで紹介する。
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奥州街道駅路図(狩場沢~土屋)
文禄4年(1595)「津軽と南部の境は狩場沢をもってする」旨の仕置きが、太閤秀吉により為された。現存する四ツ森塚の中間を流れる二本股川(通称・双股川)がその境とされ、四百有余年を経た現在でも、平内町と野辺地町の境界となっている。明歴2年(1656年)黒石津軽家初代信英公は黒石・平内及び上野国大館(群馬県)を合わせた五千石を本家弘前津軽家より文知された。以来、平内は黒石津軽家の飛地(領地1千石)として、安永4年(1775年)代官所が置かれ、明治維新まで永きにわたり統治された。江戸時代後期の紀行家として有名な菅江真澄の遊覧記には寛政・天明の平内が活き活きと著されている。
平内郷は、奥州街道にうおって南北に分けられ、南は農村部北は夏泊半島をかかえた漁村部となっており、豊かな自然に順応した祖先の営みが伺える。王子の1日の歩行距離は、成年男子で十里から十二里、婦女子で八里かあら十里であったと云われている。このため、青森と野辺地の中間にあたる平内は旅人にとって一服する地点であったようで、旅籠と称するところは。小湊に1軒あるだけと記されている。 -
小湊港入口⇒小湊港と夏泊半島
右前方に夏泊半島が大きく見えてきた。陸奥湾中央に大きく突き出た半島で、浅虫夏泊半島県立自然公園に指定されている。半島全体が山地である。
この半島の東側が野辺地湾で、西側が青森湾となっている。このような街道一人歩きをしていなければ、決して来ることは無い場所だろうと思う。 -
さて、国道は青い森鉄道の袴橋を渡るが、本来の旧道は右手に下りるのだが、途中で、鉄道で分断されているので、そのまま国道を歩いた。左手には夜越山が観える。ここを越えると街道は右手に曲がる。
「流人道中記」そして芦野宿では押し込み強盗、彼の幼馴染の飯盛り女、強盗を狙った賞金稼ぎの侍、そして二人の侍が同じ旅籠に泊まった。そして、ここで事件が起きる。しかし罪人・青山玄藩は、芦野陣屋の家老を巻き込んで、皆がハッピーになる人情溢れる解決をしたのである。どんなことか? 一度、この小説をお読みいただくと詳細が理解できます。 -
県道9号線分岐⇒小湊神明宮⇒小湊橋、小湊川
県道9号線を進むと夏泊半島だが、奥州街道は真っ直ぐに歩く。やがて、小湊神明宮を観て小湊川に架かる小湊橋を渡るとそこは小湊宿となる。 -
小湊宿
旧奥州街道107番目の宿場・先ほどの奥州街道説明板では、この宿場には旅籠がたったの一軒あるだけだったと書かれていたが、今は結構大きな町である。小湊宿の中心部を通って、小湊駅方向に歩く。 -
小湊宿丁字路⇒小湊、浄尊寺
小湊宿の丁字路を右に曲がると、すぐ左側に浄尊寺がある。真宗大谷派の寺院だ。大谷派と言えば、本山は京都の東本願寺である。境内には「御家中の欅」がある。平内町指定天然記念物で、樹齢500年、樹高20mの古木だ。この辺が津軽黒石藩の代官所跡で、武家屋敷があり御家中と呼ばれていた。山門横には、5月の法話として「自分のあり方に痛みを感ずるとき人の痛みに心がひらかれる」と達者とは言い切れない筆で書かれてあった。不思議な事に境内には天文台らしきものがあるが、これは一体何なのだろうか? -
小型天文台ですかね? 住職の趣味か?
さて「流人道中記」の続きです。これも少し時間を戻すが、青山玄藩と石川乙次郎は仙台藩の伊達藩の迎賓館に草鞋を脱いだ。青山玄藩が仙台藩主と懇意にしていたらしく、仙台藩主は流されてくる玄藩を仙台城下で待ち受けていた。そこで7年もの間、親の敵討ちを探して奥州街道を旅している浪人に出会う。その浪人が突然に親の仇を見付けることになり、果し合いを仙台宿の北、七北田宿のはずれで行う事になった。何故か石川乙次郎は敵討ち浪人の助太刀、青山玄藩は果し合いの見届け人となる。 -
小湊代官所跡
浄尊寺の北側にある小湊代官所跡だ。安永4年(1775年)、津軽黒石藩の代官所として建てられたところだ。平内郷は、かつては南部領であったが、天生15年(1587年)津軽領となり、
明暦2年(1656年)に津軽信英が平内郷を賜り、黒石領となっている。 -
御家中の松
小湊代官所の周辺には武家屋敷が多くあって、そこに戦国時代に植えられた松の木がある。これを御家中の松と呼んでいる。 -
青い森鉄道の小湊駅
「流人道中記」敵討ちの続きです。
敵も敵討ちをする侍も、長年の放浪で疲れていた。しかし、決着を付けないとと強く思っていたが、この敵討ちの果し合いを行うに当たり、青山玄藩は仙台奉行と相談していた。仇討なぞ「馬鹿々々しい」誰の特にもならないと。果し合い直前に立ち会った奉行所の役人が、「敵討ちはけっして考にあらず義にかなわず、殺生に殺生を重ねるのみと心得る。」と懇願するのだった。そして長い間語気荒く相談した結果、果し合いの結果返り討ちにされたと浪人の兄に髷と大小の刀を届け、誰も死ぬことは無く決着した。これも全て罪人・青山玄藩の仕組んだものだった。ここでも見事な采配であった。
」小湊駅 駅
-
西内町歴史民俗資料館
ここは津軽藩の黒石家の飛び地の領土であったので、ここに代官所を置いたらしい。 -
平内町歴史民俗資料館⇒青い森鉄道、小湊駅⇒平内町役場
明治天皇行在記念碑
平内町役場の正面玄関わきにある明治天皇行在所記念碑が建っている。 -
国道4号線小湊交差点⇒小湊、旧街道⇒天明の飢饉供養塔
枡形を右折すると、左側に天明の飢饉供養塔が建っている。歴史に残る4大凶作の一つである天明2~5年(1782~85年)の大飢饉で、平内では半数の375戸が空き家となるほどの餓死者があった。この供養塔は、天明7年(1787年)に小湊の東福寺11代住職が、今は人家に囲まれているが、奥州街道沿いの集落のはずれに建てたものだ。当時は、街道がこの世とあの世の通路と考えられていた。 -
平内中央病院⇒外ノ沢、旧奥州街道
旧奥州街道は、平内中央病院で遮られているので、病院前を左折して、病院の端を右折することになる。写真は病院敷地の角を右折して、西に向かう旧奥州街道である。ここから、左には水田が開けていた。
再び「流人道中記」では宿村送りも取り上げていた。これは街道筋で旅人が病気になると、その旅人の故郷まで送り届ける定めが有ったらしい。奥州街道を下る二人の侍は伊達藩の最北の宿場「有壁宿」でこの宿村送りの事件に遭遇した。 -
旧奥州街道の標柱は未だ新しい。
「流人道中記」一人の中年の女が有壁宿で病気となった。しかし、これは仮病であった。その女の出身は南部藩の沼宮内、お伊勢参りの帰路で路銀を使い果たしてしまい、重篤を装った。それを直ぐに見抜いた罪人の青山玄藩は駆けつけた伊達藩の役人も仮病と知る事になるが、玄藩は云う「身の痛み苦しみだけが病ではなかろう。よほどのことだぞ、目を瞑ってくれ」と説得した。
その陰には、東北地方の冷害・飢饉が関係されている。仮病の女は故郷をていよく村人に追い出されたようであるが死にきれず故郷に向かって戻ってきた。 -
旧街道だろうか、この道は車道と並行に走っていたので、車道を歩いた。
「流人道中記」の続き。女は伊達藩から南部藩の役人に引き渡されて、厳重な保護のもとに、ついに故郷の沼宮内に着いた。そこから観える岩手山に涙を流す仮病の女は沼宮内の代官と村人を前に出されて、青山玄藩は自分の身を明かしてこう伝えた。「上様はこのお菊(仮病の女)の伊勢神宮をば、あっぱれ貞女の鏡と嘉したまい、かたじけなくもご褒美を下賜なされた。名主は謹んで頂戴して、向後お菊に不自由のなきよう、また、村に飢饉のなきよう勤めい」名主の手にずしりと重い袱紗(ふくさ)を落とした。玄藩の有り金全部であろう。これも全て玄藩の知恵であり、温情解決が見事に花咲いたのである。 -
旧街道の坂を登って行くが道の両側は山林だ。ちょっと寂しい道だが、直ぐに、藤沢集落に入る。
民家の庭先にホタテ貝が沢山積んであった。これは何をするのだろうか。
先人のHPを観るとホタテ貝の野積みがあったが、それは見当たらなかった。 -
道はやがて国道4号線に出る。そこにコンビニがあったので、コーヒーとパンを買い、イートインが無かったが、店の人に断り立ちながら食べた。雨が降って来たので、レインウエアに着替えて店を出ると、地図が無い事に気が付き、店に戻って見たら、ありました。
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そのコンビニの向かいに、何やら白いものが野積みされている。ホタテ貝の山積みだ。これはセメント製造に関係があり、確かに、この敷地はどこかのセメント工場のものだった。
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藤沢、上萢、国道4号線
国道4号線をひた歩き、横断歩道橋を発見する。その所を右折する道が西平内駅に進む道だ。
「流人道中記」から引用します。
「乙次郎は考えていた。玄藩の目には世の中の隅々まで見えているような気がする。そして、相手がだれであろうと気さくに語り掛ける。それで話が通じると云うのは、やはり世知に長けているとしか言いようがない。一方、庶民の心に入って来るもう一人の玄藩が彼の体には宿っていると。
立派な玄藩とろくでもない玄藩。二人の玄藩が本当にいるのだろうか。もしその両極の玄藩が混然として1つの器に納まっているのだとしたら、大器量なのではないか、それこそ人と云うより神仏ではないかとも考えていた。」(小説より抜粋しました) -
前の東北本線で今は青い森鉄道の線路です。
昔、昭和38年ごろ仙台に通学していた時があった。仙台から出る列車(汽車でした)の行き先が「沼宮内行」や「浅虫温泉(だったかな)」と記憶しているが、それらがどんな場所なのだろうかと思いを馳せた記憶があるが、街道を歩いてやっと知ったのでした。 -
青い森鉄道の踏み切を渡り、駅に向かう。本日の目的地西平内駅に到着、16:10であった。
これは予定よりも1時間50分も早いのである。
つぎの列車は17:05でしばらく待ったが駅は無人駅で誰もいない。乗客は自分一人かなと思っていたらもう一人居た。
列車が来たので整理券を探したがなかった。聞くと一番後ろだと。しかし、運転手らしき人が整理券切れているので駅で口頭で申告して下さいと。
その内車掌が来たので乗車券を買った。野内駅から学生が大勢乗り込んで来た。ここには高校があるのだろうか。青森駅に着いたのは17:35と結構早い時間だ。西平内駅 駅
-
今夜の夕食には青森駅前で、ホタテ焼き定食を頂きました。
今日の歩行は左太ももが痛かった。歩けないほどの痛みではないが、少しびっこを引いている感じだ。風呂に入って良くマッサージしないと明日歩けなくなる。
本日の歩行は43,398歩、27.3kmであった。余りあるいていないなぁ~。
奥州街道一人歩き2日目の様子でした。お読みいただき有難うございました。明日も歩きます。
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