2020/07/23 - 2020/07/23
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lagunaさん
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毎日、「コロナ」「コロナ」で気が滅入ってきます。
今年初めての鎌倉へ行こうかと急に思いたち、北鎌倉から歩きはじめました。
日頃の運動不足解消のためひたすら歩きました。
自宅→鎌倉→自宅で17,684歩のの歩数でした。
東慶寺や建長寺は予想以上に観光客はおらず、閑散としていました。
ほかのお寺にしても同様で、久々にゆっくり古都鎌倉を堪能することができました。
一応、「うがい」「手洗い」「三密を避ける」を基本として、無理をしないように歩いたつもりです。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- JRローカル 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
JR北鎌倉駅を下車してから、最初は東慶寺に行きました。
この時期、修学旅行の生徒や外国人旅行者もまったく出会うこともなく
ゆっくりと見られました。東慶寺では、高見順や織田幹雄、大松博文、鈴木
大拙などの著名な方の墓前に手を合わせてきました。
それから、また徒歩で建長寺に行きました。
建長寺は何といっても、鎌倉五山第一位の貫禄を備えた大寺院だと感じました。 -
それでは、惣門(巨福門)から入って行きます。
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惣門からやや右手に鐘楼があります。鎌倉四大古鐘の一つに数えられる「国宝」です。北条時頼の命で造ったもので、撰文は建長寺の開山「蘭渓道隆」で鋳物師は
「物部重光」です。 -
説明は省きますので写真の説明文をお読みください。
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建長寺の山門です。
威風堂々としています。
楼上には「五百羅漢」などが安置されている。
この山門を通ると、なぜか煩悩がなくなります。 -
説明は省きますので写真の説明文をお読みください。
なお、この建長寺山門には面白い伝説があります。
建長寺の境内に住む狸が、日頃の恩返しに和尚に化けて山門再建の勧進をして歩いたという。勧進僧が武蔵国板橋宿に泊まったときは、障子にうっすらと狸の姿が映っているのを宿屋の主人に目撃されたり、練馬宿では風呂に入って尻尾を洗っている姿を仲居に見られているが、信心深い宿のおかみさんのおかげでことなきを得たという。 -
仏殿に来ました。
この仏殿はもともとは、東京の芝 増上寺の小督の方(徳川二代将軍 秀忠の妻)の
霊屋を移築したものである。
建長寺の御本尊である「地蔵菩薩」です。
さすが鎌倉五山第一位である建長寺にふさわしい貫禄があります。 -
法堂に来ました。
御本尊は「千手観音菩薩」を祀っている。
コロナ騒ぎでも、参拝出来て良かったです。(本音で!!) -
正面に見えるのが「唐門」(国の重要文化財)です。
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この庭園は蘭渓道隆作といわれ、国指定史跡である。
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そもそも蘭渓道隆は、野菜の皮やヘタを無駄に捨てずに油で炒めて汁ものにした
のが「建長寺汁」であり、それが転訛して「けんちん汁」になったのだと伝えら
れる。 -
方丈の回廊裏手には、長椅子が設置されており、ぼんやり庭園を眺めていました。
なんだが、自分でも気持ちが楽になってくるのが分かります。 -
蘭渓道隆作の庭園の説明です。
説明板をお読みください。 -
ここは「方丈」ともいわれる「龍王殿」であり、「宝冠釈迦如来」が祀られている。京都の般舟三味院の本堂を移築したものである。
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「般若心経」の特別公開がされていました。
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信心が足りない私ですが、きっと「精神」に良いことが書かれていると解釈しました。
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唐門(勅使門)の近くにある蓮の花がきれいでした。(1)
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唐門(勅使門)の近くにある蓮の花がきれいでした。(2)
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唐門(勅使門)の近くにある蓮の花がきれいでした。(3)
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ここは唐門(勅使門)です。「方丈」ともいわれる「龍王殿」の正門です。
この唐門(勅使門)も仏殿と同様に東京の芝 増上寺の小督の方(徳川二代将軍 秀忠の妻)の霊屋を移築したものである。 -
唐門(勅使門)の説明板です。
ハスがちょっと邪魔ですが、お読みください。 -
唐門(勅使門)の近くにある蓮の花がきれいでした。(4)
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唐門(勅使門)の近くにある蓮の花がきれいでした。(5)
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建長寺をあとにして、「亀ヶ谷坂」を歩きはじめます。
皆様は西岸良平の書いた「鎌倉ものがたり」というコミックをご存知でしょうか?
私は西岸良平の「三丁目の夕日」と同様、愛読者です。
「鎌倉ものがたり」も1~35巻あり、全巻持っています。
その中に「亀ヶ谷の切通し」と「猫王」が出てきますので、機会がありましたら
是非お読みください。 -
「亀ヶ谷坂」を歩きはじめ、振り返ってみるとこんな感じです。
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「亀ヶ谷坂」を歩きはじめ、すぐ右には「長寿寺」があります。
この時期は一般公開しておらず、秋の10月ぐらいから金・土・日・祝日の公開となります。閉鎖された柵からカメラを伸ばして撮影しました。 -
ここ「長寿寺」は足利尊氏の髪の毛を埋葬したといわれる五輪塔が有名です。
なお、参考までに足利尊氏の本来の墓は京都・等持院にあります。 -
ここ「長寿寺」は庭園がよく手入れされており、特に秋はお勧めです。
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「亀ヶ谷坂」は昔、建長寺にある大覚池の亀が逃げ出して、この急こう配の坂でひっくり返ったという逸話がある。
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古都鎌倉を感じさせる道で、なかなか雰囲気があります。
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長雨の影響で、途中崩落した箇所も見られました。
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岩船地蔵堂手前に「薬王寺」があります。
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「薬王寺」境内右手庫裡の前にある徳川三代将軍「徳川家光」の弟「駿河大納言忠長」の供養塔である。
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本堂の裏手にあるのは戦国武将「蒲生氏郷」の孫にあたる「蒲生忠知」の妻松壽院と娘の梅嶺院の墓といわれている宝篋印塔である。
とても大きく約3mあるといわれている。 -
岩船地蔵堂に到着しました。岩船地蔵堂内には、源頼朝の娘・大姫守り本尊である地蔵が祀られている。
以前、私が執筆したものを掲載させてもらいます。
悲劇の女性 ~大姫~
大姫は頼朝と政子との間に生まれた最初の子供(娘)である。
当時、木曽義仲と対立した源頼朝は、和議の条件として木曽義仲の長子木曽義高を人質として差し出させた。
一応名目の上では、大姫との婚儀がきめられていたので、木曽義高は婚約者ということになる。
義高十二歳、大姫はまだ六歳であったという。
二人は兄弟のように仲が良かったという。
おそらく大姫は義高を兄のように慕っていたのであろう。
しかし、木曽義仲が京から平氏を追い払い、頼朝よりさきに京を制圧してから頼朝と対立し、頼朝が弟源義経らを遣わして木曽義仲を討ったとき、将来の源氏政権を考え、後難を恐れたことから義高を家来に命じて殺してしまう。
大姫もうすうす気が付いていたようであり、木曽義高を鎌倉から逃亡させるが、途中で追っ手に捕まり、義高は殺されてしまう。
話は少しそれるが、木曽義高の墓は、大船の常楽寺に今もある。
木曽義高の死を知った大姫は、ショックのあまり高熱を発し、毎夜うわごとを繰り返し、日増しに衰弱していくのである。
鎌倉で二度目の静御前の舞を「大姫のなぐさみ」として見せたのも、このためである。
<つぎに続く> -
大姫の病気とは、現代でいう「うつ病」ではないだろうか。
大姫のことを心配した頼朝と政子は、当時、霊験あらたかといわれた相模・伊勢原の「日向薬師」に何度も詣でて、大姫の病気回復を祈ったという。
また、鎌倉の大御堂にある「勝長寿院」で二十七日の参籠をさせて病気回復祈願をしている。
頼朝と政子は困惑とあせりから、後鳥羽上皇の后ならば・・・・ということで画策するが、「大姫の死」で徒労に終わっている。
大姫は建久八年(1197年)7月、20歳の若さで生涯を閉じた。
あの世でまた木曽義高と出会うことになる。
あの世で仲睦まじく暮らしているかもしれない。
おそらく木曽義高が呼び寄せたのであろう。
大姫の墓は「勝長寿院」に葬られたと考えられるが、「勝長寿院」は廃寺となっており、詳細については分からない。 -
英勝寺の寺領のはずれにあるのが「阿仏尼」の墓と伝えられる。
「阿仏尼」は女流歌人であり、十六夜日記を書いたことで有名であるが、彼女の
子が「冷泉為輔」で冷泉家の元祖となる。 -
鎌倉五山第三位の「寿福寺」に到着です。
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「寿福寺」山門の横には、平山郁夫揮毫の石碑「源実朝を偲ぶ」がある。
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さて、山門から入って行きましょう。
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しばらく歩いていくと墓地に出ます。
「寿福寺」には、鞍馬天狗を執筆した「大佛次郎」が眠っています。 -
同じく「大佛次郎」の近くには俳人の「高浜虚子」が眠っています。
私事ですが、亡くなった私の父が俳句を趣味としており、何度か「高浜虚子」の家を訪問していました。まだ幼かった私を連れて行くと「高浜虚子」が膝に抱っこしてよく可愛がってくれたと父から聞いたことがありました。
私がうっすらと記憶にあるのは、竹を割った塀の家で普段傲慢な父が、なんだかお婆さんにペコペコしている記憶がありました。
今考えると、「高浜虚子」の奥さんだと思います。 -
「北条政子と」の墓前に来ました。
「北条政子と」の墓は鎌倉、大町にある「安養院」にもありますが、どちらも供養塔だと思います。 -
続いて「源実朝」の墓前に来ました。
源実朝は、甥の公暁に鎌倉八幡宮寺で暗殺されますが、公暁が実朝の首をもって逃走し、そのまま実朝の首は不明となったため、胴体部分は「勝長寿院」に葬られたと吾妻鏡にあるので、やはり供養塔だと思います。 -
「源実朝」の墓です。
一応、「北条政子」と「源実朝」の墓には手を合わせてお参りしました。
寿福寺を出て、右手にしばらく歩いていくと、JR鎌倉駅西口に到着しました。
久々の鎌倉のノーマルなコースですが、観光客もほとんどいないので、「鎌倉」をゆっくりと堪能することができました。
最後まで、ご覧いただきありがとうございました。
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この旅行記へのコメント (2)
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- salsaladyさん 2020/08/09 09:30:38
- 建長寺の地蔵菩薩。。。
- ※鎌倉本来の姿を発見できた気がします。
※歴史が生きている~頼朝ー実朝ー北条政子ー大姫ー。。。
※先月訪れた修善寺でも政子の権威が示された修禅寺の成り立ちに驚いたり~
※インバウンドの居ない鎌倉の静けさを堪能した神式結婚式の想い出等も感慨深い。
- lagunaさん からの返信 2020/08/09 12:46:21
- RE: 建長寺の地蔵菩薩。。。
- salsaladyさん、こんにちわ。LAGUNAです。
修禅寺に行かれたんですね。
源範頼の墓も修禅寺にあり、鎌倉とのつながりも何かと出てきます。
源範頼には、修禅寺で死なずに横須賀市の追浜に逃げたという伝承があります。
実は、私が2歳から住んでいたところの近くなんです。
ちょっと参考までに書かせてください。
<源範頼の伝承>
範頼は修善寺から横須賀の浦郷辺りに逃げのびて、洞窟に隠れていたとする話が伝わっている。このとき追手に追われた浜が「追浜」で、その追手を土地の漁師が鉈を振るって抵抗し、範頼を助けた場所には「鉈切(なたぎり)」という地名が残っている。
やがて、逃走を観念した範頼は別荘の持仏堂である「薬師寺」で自刃してしまう。金沢区・追浜・逗子には「蒲」や「蒲谷」姓が多い。これは、生まれ育った地名をとって「蒲冠者」と呼ばれた範頼が、助けてくれた村の人達に「蒲」の使用を許したことに由来するだという。
> ※鎌倉本来の姿を発見できた気がします。
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> ※歴史が生きている?頼朝ー実朝ー北条政子ー大姫ー。。。
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> ※先月訪れた修善寺でも政子の権威が示された修禅寺の成り立ちに驚いたり?
>
> ※インバウンドの居ない鎌倉の静けさを堪能した神式結婚式の想い出等も感慨深い。
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