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スロベニア・クロアチア2508kmドライブ④<br /><br />2017年の秋、1週間の休みを取り、クロアチアまでドライブしたときのものです。少し古いので記憶を辿りながらの旅行記作成です。旅行は計画を立てているときが一番楽しいとも言われますが、なんの、振り返るのも楽しい。コロナで週一での買い物以外、公衆の場には外出しませんが(当方、ドイツ在住)、これもいい機会ととらえ、旅行記作成に勤しみます。<br /><br />この旅行記は4日目のもの。午前中、スプリトで朝市と散策した後に、アドリア海の海岸線を南下。途中、国境を越えます(知ってました?クロアチアは陸続きではないのです)。そして、世界遺産の町、ドゥブロブニクに到着。滞在1日目のものです(2泊3日します、ゆっくりしたいし。)。<br /> <br />ここでクロアチアの世界遺産を以下にリストアップ。この旅行では、9つある世界遺産のうち、6つを周ります。<br /><br /><文化遺産><br />①ドゥブロヴニク旧市街 - (1979年、1994年拡大)<br />②ディオクレティアヌス宮殿があるスプリトの歴史的建造物群 - (1979年)<br />③ポレッチ歴史地区にあるエウフラシウス聖堂の司教建造物群 - (1997年)<br />④古都トロギル - (1997年)<br />⑤シベニクの聖ヤコブ大聖堂 - (2000年)<br />⑥スタリー・グラード平原 - (2008年)<br />⑦中世墓碑ステチュツィの残る墓所群(ほか3か国と共有)- (2016年)<br />⑧16世紀から17世紀のヴェネツィアの防衛施設群:スタート・ダ・テッラと西スタート・ダ・マール - (2017年)<br /><自然遺産><br />⑨プリトヴィツェ湖群国立公園 - (1979年、2000年拡大)<br /><br /><日程><br />10/28 ①ブレッド湖 Blejsko jezero (Lake Bled)<br />10/29 ②プリトヴィツェ湖群国立公園 Plitvička jezera<br />10/30 ③スプリト Split<br />10/31 ④ドゥブロヴニク Dubrovnik<br />11/  1   ⑤ドゥブロヴニク Dubrovnik<br />11/  2   ⑥シベニク Šibenik<br />11/  2   ⑦トロギルTrogir<br />11/  3   ⑧プーラ Pula<br />11/  4   ⑨ポレチ Poreč<br />11/  5   ⑩ポストイナ Postojna

スロベニア・クロアチア2508kmドライブ④ドゥブロヴニク(Dubrovnik)その1

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2017/10/28 - 2017/11/05

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スロベニア・クロアチア2508kmドライブ④

2017年の秋、1週間の休みを取り、クロアチアまでドライブしたときのものです。少し古いので記憶を辿りながらの旅行記作成です。旅行は計画を立てているときが一番楽しいとも言われますが、なんの、振り返るのも楽しい。コロナで週一での買い物以外、公衆の場には外出しませんが(当方、ドイツ在住)、これもいい機会ととらえ、旅行記作成に勤しみます。

この旅行記は4日目のもの。午前中、スプリトで朝市と散策した後に、アドリア海の海岸線を南下。途中、国境を越えます(知ってました?クロアチアは陸続きではないのです)。そして、世界遺産の町、ドゥブロブニクに到着。滞在1日目のものです(2泊3日します、ゆっくりしたいし。)。

ここでクロアチアの世界遺産を以下にリストアップ。この旅行では、9つある世界遺産のうち、6つを周ります。

<文化遺産>
①ドゥブロヴニク旧市街 - (1979年、1994年拡大)
②ディオクレティアヌス宮殿があるスプリトの歴史的建造物群 - (1979年)
③ポレッチ歴史地区にあるエウフラシウス聖堂の司教建造物群 - (1997年)
④古都トロギル - (1997年)
⑤シベニクの聖ヤコブ大聖堂 - (2000年)
⑥スタリー・グラード平原 - (2008年)
⑦中世墓碑ステチュツィの残る墓所群(ほか3か国と共有)- (2016年)
⑧16世紀から17世紀のヴェネツィアの防衛施設群:スタート・ダ・テッラと西スタート・ダ・マール - (2017年)
<自然遺産>
⑨プリトヴィツェ湖群国立公園 - (1979年、2000年拡大)

<日程>
10/28 ①ブレッド湖 Blejsko jezero (Lake Bled)
10/29 ②プリトヴィツェ湖群国立公園 Plitvička jezera
10/30 ③スプリト Split
10/31 ④ドゥブロヴニク Dubrovnik
11/ 1 ⑤ドゥブロヴニク Dubrovnik
11/ 2 ⑥シベニク Šibenik
11/ 2 ⑦トロギルTrogir
11/ 3 ⑧プーラ Pula
11/ 4 ⑨ポレチ Poreč
11/ 5 ⑩ポストイナ Postojna

同行者
一人旅
交通手段
徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • スプリトから高速道路で南下。<br />ドゥブロヴニク(Dubrovnik)に行くためには、途中で高速道路を降ります。<br />そのまま、乗っていると、ボスニア・ヘルツェゴビナ(Bosnia and Herzegovina)に入境し内陸の方へ行ってしまいます。<br /><br />Naplatna postaja Karamatići

    スプリトから高速道路で南下。
    ドゥブロヴニク(Dubrovnik)に行くためには、途中で高速道路を降ります。
    そのまま、乗っていると、ボスニア・ヘルツェゴビナ(Bosnia and Herzegovina)に入境し内陸の方へ行ってしまいます。

    Naplatna postaja Karamatići

  • ネレトバ川沿いを走ります。

    ネレトバ川沿いを走ります。

  • 今、通ってきた平野。眺めがいいです。<br />この後、海岸線を南下。ボスニアヘルツェゴビナに一旦、入ります。<br /><br />ボスニア・ヘルツェゴビナ領内を経由しないルートとして、本土側とペリェシャツ半島を結ぶペリェシャツ橋の架橋が計画されるが、将来ネウムに貨物港を建設した際に貨物船の高さが制限されることになるためボスニア・ヘルツェゴヴィナが反対し、資金的な問題もあって難航した。2018年7月30日に中国の路橋建設の施工によるペリェシャツ橋の建設が開始され、2022年完成予定とされる(グーグルの衛星写真では橋げたが見える)。

    今、通ってきた平野。眺めがいいです。
    この後、海岸線を南下。ボスニアヘルツェゴビナに一旦、入ります。

    ボスニア・ヘルツェゴビナ領内を経由しないルートとして、本土側とペリェシャツ半島を結ぶペリェシャツ橋の架橋が計画されるが、将来ネウムに貨物港を建設した際に貨物船の高さが制限されることになるためボスニア・ヘルツェゴヴィナが反対し、資金的な問題もあって難航した。2018年7月30日に中国の路橋建設の施工によるペリェシャツ橋の建設が開始され、2022年完成予定とされる(グーグルの衛星写真では橋げたが見える)。

  • ボスニア・ヘルツェゴビナ<br />Bosnia and Herzegovina(英)<br />Bosna i Hercegovina(ボスニア語、クロアチア語)<br />Босна и Херцеговина(セルビア語)<br /><br />信号待ち。標識。直進で、ドゥブロヴニク(Dubrovnik)に行きます。<br />地名の表記が2通りあり、上は、ラテン語系のボスニア語、クロアチア語、下はキリル文字系のセルビア語。ちなみにドゥブロヴニクの下の地名、ストンはカキで有名。ここ、ボスニア・ヘルツェゴビナは、多民族国家と言われた旧ユーゴスラビアの中でも、さらに、混沌としたところ。以下、歴史の説明。<br /><br />この地域は地理的環境から、中世ではカトリックと正教会の対立の最前線となり、両宗教の激しい布教争いの場となった。12世紀後半にはボスニア王国がボスニア、ヘルツェゴビナを統治した。また、その後、南から、勢力を拡大したオスマン帝国によって15世紀後半までにはボスニア・ヘルツェゴビナの全域が支配下に入り、イスラム教徒が増えていく。場所的に重要拠点であり、バルカン半島にある国の中で、最もイスラム化が進んだ。16世紀から17世紀にかけて、オスマン帝国がハプスブルク帝国、及びヴェネツィア共和国と戦争を行った際に、ボスニアはオスマン帝国にとって重要な前哨基地としての役目を果たしている。<br /> 19世紀後半、オスマン帝国の衰退に伴い、バルカン半島はオーストリア・ハンガリー帝国とロシア帝国の勢力争いの場となる。ロシアの南下政策にオーストリアとイギリスが反対したことにより1878年に開かれたベルリン会議によって、オーストリアはボスニア、ヘルツェゴビナ、サンジャクのオスマン帝国主権下の施政権を獲得する。オーストリアは1908年、ボスニア、ヘルツェゴビナ両地域を併合した。このことがセルビアの大セルビア主義や、汎スラヴ主義を刺激し、第一次世界大戦の一因となる。第一次世界大戦後、サン=ジェルマン条約 によりオーストリア・ハンガリー帝国は解体され、セルビアの南スラブ連合構想に基づいてセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国(「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」、名前からして如何にもという感じ。のちの「ユーゴスラビア王国」)が建国されると、ボスニア、ヘルツェゴビナはその一部となった。<br /> 第二次世界大戦時、ボスニア・ヘルツェゴビナの大部分はナチス・ドイツの傀儡ファシスト国家である「クロアチア独立国」の支配下に置かれた(ナチス・ドイツがクロアチア人のセルビア人からの独立を利用して介入)。クロアチア独立国の支配下では、セルビア人はユダヤ人、ロマ、反体制派などとともに激しい迫害を受け、数万から数十万人が各地で殺害されるか、強制収容所に送られて殺害された。また、これに対抗したセルビア人の民族主義者チェトニクによって、クロアチア人やボシュニャク人が大量に殺害された。両民族間で、凄惨な民族浄化の応報が繰り広げられた。(つづく)

    ボスニア・ヘルツェゴビナ
    Bosnia and Herzegovina(英)
    Bosna i Hercegovina(ボスニア語、クロアチア語)
    Босна и Херцеговина(セルビア語)

    信号待ち。標識。直進で、ドゥブロヴニク(Dubrovnik)に行きます。
    地名の表記が2通りあり、上は、ラテン語系のボスニア語、クロアチア語、下はキリル文字系のセルビア語。ちなみにドゥブロヴニクの下の地名、ストンはカキで有名。ここ、ボスニア・ヘルツェゴビナは、多民族国家と言われた旧ユーゴスラビアの中でも、さらに、混沌としたところ。以下、歴史の説明。

    この地域は地理的環境から、中世ではカトリックと正教会の対立の最前線となり、両宗教の激しい布教争いの場となった。12世紀後半にはボスニア王国がボスニア、ヘルツェゴビナを統治した。また、その後、南から、勢力を拡大したオスマン帝国によって15世紀後半までにはボスニア・ヘルツェゴビナの全域が支配下に入り、イスラム教徒が増えていく。場所的に重要拠点であり、バルカン半島にある国の中で、最もイスラム化が進んだ。16世紀から17世紀にかけて、オスマン帝国がハプスブルク帝国、及びヴェネツィア共和国と戦争を行った際に、ボスニアはオスマン帝国にとって重要な前哨基地としての役目を果たしている。
     19世紀後半、オスマン帝国の衰退に伴い、バルカン半島はオーストリア・ハンガリー帝国とロシア帝国の勢力争いの場となる。ロシアの南下政策にオーストリアとイギリスが反対したことにより1878年に開かれたベルリン会議によって、オーストリアはボスニア、ヘルツェゴビナ、サンジャクのオスマン帝国主権下の施政権を獲得する。オーストリアは1908年、ボスニア、ヘルツェゴビナ両地域を併合した。このことがセルビアの大セルビア主義や、汎スラヴ主義を刺激し、第一次世界大戦の一因となる。第一次世界大戦後、サン=ジェルマン条約 によりオーストリア・ハンガリー帝国は解体され、セルビアの南スラブ連合構想に基づいてセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国(「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」、名前からして如何にもという感じ。のちの「ユーゴスラビア王国」)が建国されると、ボスニア、ヘルツェゴビナはその一部となった。
     第二次世界大戦時、ボスニア・ヘルツェゴビナの大部分はナチス・ドイツの傀儡ファシスト国家である「クロアチア独立国」の支配下に置かれた(ナチス・ドイツがクロアチア人のセルビア人からの独立を利用して介入)。クロアチア独立国の支配下では、セルビア人はユダヤ人、ロマ、反体制派などとともに激しい迫害を受け、数万から数十万人が各地で殺害されるか、強制収容所に送られて殺害された。また、これに対抗したセルビア人の民族主義者チェトニクによって、クロアチア人やボシュニャク人が大量に殺害された。両民族間で、凄惨な民族浄化の応報が繰り広げられた。(つづく)

  • 高台よりネウム(Neum)の町並み。<br /><br />(続き)<br /> 戦後、この一帯をまとめた、ユーゴスラビア連邦人民共和国が成立すると、1946年にボスニアおよびヘルツェゴビナ地方には、ユーゴスラビア連邦の構成共和国の一つとしてボスニア・ヘルツェゴビナ人民共和国が誕生した。戦後、共産主義国家として誕生したユーゴスラビア連邦では、クロアチアやセルビアなどが民族ごとの国家として誕生したが、多民族による混住が進んでいたボスニアでは特定民族の国家をつくることはできず、地域的な共和国としてボスニア・ヘルツェゴビナが置かれた。ユーゴスラビアがソビエト連邦と決別してからは、ユーゴスラビア独自の自主管理社会主義が導入され、経済活動や政治的権利はより下位の単位に移管されていった。<br /> 1991年にユーゴスラビア連邦の解体が始まる。(土地ごとに民族でまとまることのできた)スロベニア、クロアチア、マケドニア共和国が相次いでユーゴスラビアからの独立を宣言。ユーゴスラビア(セルビア)からの独立紛争に発展。ボスニアおよびヘルツェゴビナ地方は民族が混じりすぎていたため、独立の可否や国のあり方をめぐってボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人がそれぞれ民族ごとに分かれてボスニア・ヘルツェゴビナ紛争として戦うことになる。<br />正教徒主体のボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人たちは、セルビアやモンテネグロとともにユーゴスラビア連邦に留まることを望んでいた。イスラム教徒中心のボシュニャク人(旧ムスリム人)や、ローマ・カトリック教徒主体のクロアチア人はユーゴスラビアからの独立を望んだ。この3つの民族は互いに言語・文化の多くを同じくする一方、異なる宗教に属していた。<br /> 1992年、数の上で最多となるボシュニャク人のボスニア政府はセルビア人がボイコットする中で国民投票を強行し、独立を決定し、3月にユーゴスラビアからの独立宣言。これに対して、セルビア人やクロアチア人は、ボシュニャク人による支配を嫌い、独自の民族ごとの共同体を作って対抗し、武装を始めた。<br />ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共同体は、「ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共和国(スルプスカ共和国)」としてボスニア・ヘルツェゴビナからの分離を宣言した。1992年5月にユーゴスラビア人民軍が公式に撤退すると、その兵員や兵器の一部はそのままスルプスカ共和国軍となった。クロアチア人も、「ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国」の樹立を宣言し、クロアチア人による統一的な軍事組織とした。<br />2つの民族ごとの分離主義国家、および事実上ボシュニャク人主導となったボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の3者による争いは、それぞれの支配地域の拡大を試みる「陣取り合戦」の様相を呈し、それぞれ自勢力から異民族を排除する目的で虐殺や見せしめ的な暴行による追放を行う民族浄化が繰り広げられた。<br />1994年にはアメリカの主導でボスニア中央政府とクロアチア人勢力との間で停戦が成立した。これによって両勢力はセルビア人勢力に対して反転攻勢をはじめ、またNATOによる空爆などの軍事介入も行われた。1995年に国際連合の調停で和平協定デイトン合意に調印し、紛争は終結した。そのデイトン合意によってボスニア・ヘルツェゴビナはボシュニャク人(ムスリム人)とクロアチア人主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人主体のスルプスカ共和国(セルビア人共和国)という2つの構成体から成る連合国家となった。

    高台よりネウム(Neum)の町並み。

    (続き)
     戦後、この一帯をまとめた、ユーゴスラビア連邦人民共和国が成立すると、1946年にボスニアおよびヘルツェゴビナ地方には、ユーゴスラビア連邦の構成共和国の一つとしてボスニア・ヘルツェゴビナ人民共和国が誕生した。戦後、共産主義国家として誕生したユーゴスラビア連邦では、クロアチアやセルビアなどが民族ごとの国家として誕生したが、多民族による混住が進んでいたボスニアでは特定民族の国家をつくることはできず、地域的な共和国としてボスニア・ヘルツェゴビナが置かれた。ユーゴスラビアがソビエト連邦と決別してからは、ユーゴスラビア独自の自主管理社会主義が導入され、経済活動や政治的権利はより下位の単位に移管されていった。
     1991年にユーゴスラビア連邦の解体が始まる。(土地ごとに民族でまとまることのできた)スロベニア、クロアチア、マケドニア共和国が相次いでユーゴスラビアからの独立を宣言。ユーゴスラビア(セルビア)からの独立紛争に発展。ボスニアおよびヘルツェゴビナ地方は民族が混じりすぎていたため、独立の可否や国のあり方をめぐってボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人がそれぞれ民族ごとに分かれてボスニア・ヘルツェゴビナ紛争として戦うことになる。
    正教徒主体のボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人たちは、セルビアやモンテネグロとともにユーゴスラビア連邦に留まることを望んでいた。イスラム教徒中心のボシュニャク人(旧ムスリム人)や、ローマ・カトリック教徒主体のクロアチア人はユーゴスラビアからの独立を望んだ。この3つの民族は互いに言語・文化の多くを同じくする一方、異なる宗教に属していた。
     1992年、数の上で最多となるボシュニャク人のボスニア政府はセルビア人がボイコットする中で国民投票を強行し、独立を決定し、3月にユーゴスラビアからの独立宣言。これに対して、セルビア人やクロアチア人は、ボシュニャク人による支配を嫌い、独自の民族ごとの共同体を作って対抗し、武装を始めた。
    ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共同体は、「ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共和国(スルプスカ共和国)」としてボスニア・ヘルツェゴビナからの分離を宣言した。1992年5月にユーゴスラビア人民軍が公式に撤退すると、その兵員や兵器の一部はそのままスルプスカ共和国軍となった。クロアチア人も、「ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国」の樹立を宣言し、クロアチア人による統一的な軍事組織とした。
    2つの民族ごとの分離主義国家、および事実上ボシュニャク人主導となったボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の3者による争いは、それぞれの支配地域の拡大を試みる「陣取り合戦」の様相を呈し、それぞれ自勢力から異民族を排除する目的で虐殺や見せしめ的な暴行による追放を行う民族浄化が繰り広げられた。
    1994年にはアメリカの主導でボスニア中央政府とクロアチア人勢力との間で停戦が成立した。これによって両勢力はセルビア人勢力に対して反転攻勢をはじめ、またNATOによる空爆などの軍事介入も行われた。1995年に国際連合の調停で和平協定デイトン合意に調印し、紛争は終結した。そのデイトン合意によってボスニア・ヘルツェゴビナはボシュニャク人(ムスリム人)とクロアチア人主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人主体のスルプスカ共和国(セルビア人共和国)という2つの構成体から成る連合国家となった。

  • さて、再び、クロアチアへ入国。<br /><br />1718年に結ばれたパッサロヴィッツ条約(ポジャレヴァツ条約)の結果ダルマチア(現クロアチアのアドリア海沿岸地域一帯のこと)のほぼ全域はヴェネツィア共和国領と定められたが、ヴェネツィアとラグサ(今のドゥブロヴニク、都市国家状態。オスマン帝国の保護国であった)との紛争を防ぐため、ネウムは両者の緩衝地帯としてオスマン帝国領となった(1669年、1667年の大地震の2年後。)。この時引かれた国境線が、主体となる国家が変遷しつつも現在まで引き継がれており、ドゥブロヴニクはクロアチアで飛び地状態になっている。(Wikiから編集)

    さて、再び、クロアチアへ入国。

    1718年に結ばれたパッサロヴィッツ条約(ポジャレヴァツ条約)の結果ダルマチア(現クロアチアのアドリア海沿岸地域一帯のこと)のほぼ全域はヴェネツィア共和国領と定められたが、ヴェネツィアとラグサ(今のドゥブロヴニク、都市国家状態。オスマン帝国の保護国であった)との紛争を防ぐため、ネウムは両者の緩衝地帯としてオスマン帝国領となった(1669年、1667年の大地震の2年後。)。この時引かれた国境線が、主体となる国家が変遷しつつも現在まで引き継がれており、ドゥブロヴニクはクロアチアで飛び地状態になっている。(Wikiから編集)

  • ドゥブロヴニク(Dubrovnik)<br /><br />さて、ドゥブロヴニクに到着したものの、城塞都市ドゥブロヴニクには車では入れず、外に泊める必要がある。今日のゲストハウスの家主が、近くに駐車場を用意してくれている。一旦、ドゥブロヴニクを通り過ぎ(意図的ではなくあれよあれよという間に通り過ぎてしまいました)、ドゥブロヴニクの町の背後にあるスルジ山にある見晴らしのいい昔の要塞Fort Imperial(Tvrđava Imperial)を目指す。

    ドゥブロヴニク(Dubrovnik)

    さて、ドゥブロヴニクに到着したものの、城塞都市ドゥブロヴニクには車では入れず、外に泊める必要がある。今日のゲストハウスの家主が、近くに駐車場を用意してくれている。一旦、ドゥブロヴニクを通り過ぎ(意図的ではなくあれよあれよという間に通り過ぎてしまいました)、ドゥブロヴニクの町の背後にあるスルジ山にある見晴らしのいい昔の要塞Fort Imperial(Tvrđava Imperial)を目指す。

  • Fort Imperial<br />Tvrđava Imperial<br />「帝国の砦」<br /><br />スルジ山にある要塞からドゥブロヴニク(Dubrovnik)の眺め。普通、ここへはロープウェイか、徒歩で来る。車の場合、ドゥブロヴニクを一旦、通り過ぎ、左折で入るのだが、角度が急で入るのが難しい。一旦、入り口を行き過ぎ、どこかでUターンしてから入った方がいい。<br /><br />帝国の砦からの『アドリア海の真珠』と称されるドゥブロヴニク(Dubrovnik)の眺め。逆光でまぶしい。ここで写真を撮る場合は午前中がいいかな。<br /><br />インペリアル要塞とも訳されるが、規模的には「砦」が似合っている。ここでは「帝国の砦」を採用しました。

    Fort Imperial
    Tvrđava Imperial
    「帝国の砦」

    スルジ山にある要塞からドゥブロヴニク(Dubrovnik)の眺め。普通、ここへはロープウェイか、徒歩で来る。車の場合、ドゥブロヴニクを一旦、通り過ぎ、左折で入るのだが、角度が急で入るのが難しい。一旦、入り口を行き過ぎ、どこかでUターンしてから入った方がいい。

    帝国の砦からの『アドリア海の真珠』と称されるドゥブロヴニク(Dubrovnik)の眺め。逆光でまぶしい。ここで写真を撮る場合は午前中がいいかな。

    インペリアル要塞とも訳されるが、規模的には「砦」が似合っている。ここでは「帝国の砦」を採用しました。

  • Fort Imperial<br />Tvrđava Imperial<br />「帝国の砦」<br /><br />帝国の砦からのドゥブロヴニク(Dubrovnik)の眺め。<br /><br /><歴史>(公式HPより抜粋)<br />都市の発展は地理的に良い条件であることによりました。ドゥブロヴニクは、東から西へアドリア海に入る船から島々を守る最 初の場所であり、また、ネレトヴァの谷により内陸と最短距離でつながっています。最近の考古学の研究で、6世紀には現在の町の位置に集落ができていたとわかっており、おそらくそれより前にもあったと考えられています。7世紀に古代エピダウル(現在のツァヴタット)を離れたクロアチア人の到来によって、集落は広がりました。十字軍の遠征中およびその後、東西の交通が盛んになることにより、12~13世紀、地中海とアドリ ア海の海運通商の中心地が発展しましたが、そんな場所の一つがドゥブロヴニクでした。ドゥブロヴニクは、1358年のザダル和平条約によって、ヴェネチアの影響から解放されたことにより、さらなる発展が約束されました。ダルマチアのほかの町は解放されることなく、1420年、ヴェネチア共和国の支配下に完全に入ってしまいました。14~15世紀には、ドゥブロヴニクは、ヴェネチアおよびアンコナと並んで、アドリア海で最も重要な海運通商の中心地でした。協定、および購入によりドゥブロヴニクは、北のクレックからコトル湾の入り口のストリナまで、さらにムリェット島、ラストヴォ島、エラフィッティ諸島 およびロックルム島に、領土を広げていきました。15世紀には、ドゥブロヴニク共和国という一国家としての地位を確立し、独立国 として総督や議員を選び、貨幣を造り、聖ヴラホの姿の入った国旗を持ち、立法と外国に領事館を開設する権利を得ました。貴族主義の憲法によると、政府の基盤は、元老院が選ぶドゥブロヴニクの地主の大議会と、大議会の実行機関である小議会がつくっていました。総督は、政府の名義上の象徴として、毎月選ばれていました。ドゥブロヴニク市民は、15世紀にはすでに、バルカン半島の後背地での盛んに行商を行っていました。<br /> バルカン半島でのトルコの支配勢力が拡大した結果、ドゥブロヴニク共和国は、1525年、トルコの保護を受けることと貢の支払いを受け入れましたが、トルコの帝国全域で、関税わずか2パーセントで商いをする自由を手に入れました。軍隊を持たない小国は、外交手腕と領事業務の充実により、完全な防衛体制を築き上げました。国際紛争における中立を貫き、また、強国、特にスペインやヴァチカンの支援により、独立を保ちました。唯一の競争相手であり、敵でもあり続けた国は、ヴェネチア共和国でした。<br /> ドゥブロヴニク共和国が全盛時代を迎えたのは、そのヴェネチア共和国の輝きと力が衰退する16世紀でした。繁栄の基盤は、海運による通商です。16世紀のドゥブロヴニクの商船は、その機能と180から200という数で、世界の水準に達していました。ガリオン船、キャラック船、戦艦などの大型の船舶を建造し、地中海や黒海、イギリスやドイツなどの北部の港まで行く大西洋、さらにインドやアメリカまでの長く危険な航海をしました。ドゥブロヴニクは、発達した海運通商により、貨物輸送の業界で世界に知られるようになり、需要も多くなりました。物質的豊かさ、安全と自由の気運は、人文主義的な考えの中で、文化の発達と想像芸術への関心の高まりを促しました。ドゥブロヴニクは、都市と建築の発達の中 で、素晴らしい発展を遂げ、その輝きは今日も文学、詩歌(マリン・ドルジッチ、イワン・グンドゥリッチ)、科学(ルジェル・ボシュコヴィッチ)のほか、 様々な分野の芸術や文化に残っています。<br /> 17世紀の地中海における海運業の危機は、ドゥブロヴニクの海運通商にも大きく振りかかりました。また、1667年に起きた地震による災害は、存続と政治的独立維持への戦いという危機的な時代をもたらしました。18世紀になるとドゥブロヴニ クには、中立の旗の下、海運通商において経済立て直しの機会がやってきましたが、1808年に、ナポレオンにより、共和国崩壊の道をたどりました。<br /> 1815年のウィーン会議により、ドゥブロヴニクの地域は、ダルマチアのほかの地域、およびクロアチアに統合され、それ以来、政治的運命を共にしています。<br />クロアチア共和国が独立を宣言し、セルビアがクロアチアへの攻撃を宣言した後、1991年10月、ドゥブロヴニクは、この地域全域の支配と破壊を意図するセ ルビアとモンテネグロによる、未だかつてない軍事攻撃を受けました。ドゥブロヴニクは占拠され、ひどい被害を受けました。中心街は8か月完全に包囲されて 何度も砲撃を受け、中でも1991年12月6日は残忍なまでに破壊されました。現在は、戦争によって破壊されたドゥブロヴニクの歴史的遺産の殆どが復元されています。ホテルの修復、ドゥブロヴニク・サマー・フェスティヴァルの一つ一つの価値ある催し物は、ほかの文化的イベントと同様に、現代のような観光産業発展のための重要な前提条件だったのです。

    Fort Imperial
    Tvrđava Imperial
    「帝国の砦」

    帝国の砦からのドゥブロヴニク(Dubrovnik)の眺め。

    <歴史>(公式HPより抜粋)
    都市の発展は地理的に良い条件であることによりました。ドゥブロヴニクは、東から西へアドリア海に入る船から島々を守る最 初の場所であり、また、ネレトヴァの谷により内陸と最短距離でつながっています。最近の考古学の研究で、6世紀には現在の町の位置に集落ができていたとわかっており、おそらくそれより前にもあったと考えられています。7世紀に古代エピダウル(現在のツァヴタット)を離れたクロアチア人の到来によって、集落は広がりました。十字軍の遠征中およびその後、東西の交通が盛んになることにより、12~13世紀、地中海とアドリ ア海の海運通商の中心地が発展しましたが、そんな場所の一つがドゥブロヴニクでした。ドゥブロヴニクは、1358年のザダル和平条約によって、ヴェネチアの影響から解放されたことにより、さらなる発展が約束されました。ダルマチアのほかの町は解放されることなく、1420年、ヴェネチア共和国の支配下に完全に入ってしまいました。14~15世紀には、ドゥブロヴニクは、ヴェネチアおよびアンコナと並んで、アドリア海で最も重要な海運通商の中心地でした。協定、および購入によりドゥブロヴニクは、北のクレックからコトル湾の入り口のストリナまで、さらにムリェット島、ラストヴォ島、エラフィッティ諸島 およびロックルム島に、領土を広げていきました。15世紀には、ドゥブロヴニク共和国という一国家としての地位を確立し、独立国 として総督や議員を選び、貨幣を造り、聖ヴラホの姿の入った国旗を持ち、立法と外国に領事館を開設する権利を得ました。貴族主義の憲法によると、政府の基盤は、元老院が選ぶドゥブロヴニクの地主の大議会と、大議会の実行機関である小議会がつくっていました。総督は、政府の名義上の象徴として、毎月選ばれていました。ドゥブロヴニク市民は、15世紀にはすでに、バルカン半島の後背地での盛んに行商を行っていました。
     バルカン半島でのトルコの支配勢力が拡大した結果、ドゥブロヴニク共和国は、1525年、トルコの保護を受けることと貢の支払いを受け入れましたが、トルコの帝国全域で、関税わずか2パーセントで商いをする自由を手に入れました。軍隊を持たない小国は、外交手腕と領事業務の充実により、完全な防衛体制を築き上げました。国際紛争における中立を貫き、また、強国、特にスペインやヴァチカンの支援により、独立を保ちました。唯一の競争相手であり、敵でもあり続けた国は、ヴェネチア共和国でした。
     ドゥブロヴニク共和国が全盛時代を迎えたのは、そのヴェネチア共和国の輝きと力が衰退する16世紀でした。繁栄の基盤は、海運による通商です。16世紀のドゥブロヴニクの商船は、その機能と180から200という数で、世界の水準に達していました。ガリオン船、キャラック船、戦艦などの大型の船舶を建造し、地中海や黒海、イギリスやドイツなどの北部の港まで行く大西洋、さらにインドやアメリカまでの長く危険な航海をしました。ドゥブロヴニクは、発達した海運通商により、貨物輸送の業界で世界に知られるようになり、需要も多くなりました。物質的豊かさ、安全と自由の気運は、人文主義的な考えの中で、文化の発達と想像芸術への関心の高まりを促しました。ドゥブロヴニクは、都市と建築の発達の中 で、素晴らしい発展を遂げ、その輝きは今日も文学、詩歌(マリン・ドルジッチ、イワン・グンドゥリッチ)、科学(ルジェル・ボシュコヴィッチ)のほか、 様々な分野の芸術や文化に残っています。
     17世紀の地中海における海運業の危機は、ドゥブロヴニクの海運通商にも大きく振りかかりました。また、1667年に起きた地震による災害は、存続と政治的独立維持への戦いという危機的な時代をもたらしました。18世紀になるとドゥブロヴニ クには、中立の旗の下、海運通商において経済立て直しの機会がやってきましたが、1808年に、ナポレオンにより、共和国崩壊の道をたどりました。
     1815年のウィーン会議により、ドゥブロヴニクの地域は、ダルマチアのほかの地域、およびクロアチアに統合され、それ以来、政治的運命を共にしています。
    クロアチア共和国が独立を宣言し、セルビアがクロアチアへの攻撃を宣言した後、1991年10月、ドゥブロヴニクは、この地域全域の支配と破壊を意図するセ ルビアとモンテネグロによる、未だかつてない軍事攻撃を受けました。ドゥブロヴニクは占拠され、ひどい被害を受けました。中心街は8か月完全に包囲されて 何度も砲撃を受け、中でも1991年12月6日は残忍なまでに破壊されました。現在は、戦争によって破壊されたドゥブロヴニクの歴史的遺産の殆どが復元されています。ホテルの修復、ドゥブロヴニク・サマー・フェスティヴァルの一つ一つの価値ある催し物は、ほかの文化的イベントと同様に、現代のような観光産業発展のための重要な前提条件だったのです。

  • Fort Imperial<br />Tvrđava Imperial<br />「帝国の砦」<br /><br />ドゥブロヴニク(Dubrovnik)の眺め。

    Fort Imperial
    Tvrđava Imperial
    「帝国の砦」

    ドゥブロヴニク(Dubrovnik)の眺め。

  • Fort Imperial<br />Tvrđava Imperial<br />「帝国の砦」<br /><br />こちらは、ドゥブロヴニク(Dubrovnik)の北側の町の様子。

    Fort Imperial
    Tvrđava Imperial
    「帝国の砦」

    こちらは、ドゥブロヴニク(Dubrovnik)の北側の町の様子。

  • Fort Imperial<br />Tvrđava Imperial<br />「帝国の砦」

    Fort Imperial
    Tvrđava Imperial
    「帝国の砦」

  • Fort Imperial<br />Tvrđava Imperial<br />「帝国の砦」<br /><br />「帝国の砦」は、1806~1812年に建設されました。その頃、ドゥブロブニクはナポレオン1世治世下のフランスによって支配されていました。1815~1882年にかけて、砦はオーストリア軍によって拡張され、改造されました。1991~1995年の旧ユーゴスラビア内戦の時代、砦はドゥブロブニクを防衛した偉大なシンボルとなりました。<br /><br />この要塞、現在は、ドゥブロブニクにおける独立戦争(1991-1995)時の資料館となっています。この独立戦争から3年後、1998年にクロアチアはサッカーワールドカップ初出場を果たし、結果、3位と結果を残す。その時、日本も初出場を果たし、クロアチアとグループリーグで対戦して負けている。

    Fort Imperial
    Tvrđava Imperial
    「帝国の砦」

    「帝国の砦」は、1806~1812年に建設されました。その頃、ドゥブロブニクはナポレオン1世治世下のフランスによって支配されていました。1815~1882年にかけて、砦はオーストリア軍によって拡張され、改造されました。1991~1995年の旧ユーゴスラビア内戦の時代、砦はドゥブロブニクを防衛した偉大なシンボルとなりました。

    この要塞、現在は、ドゥブロブニクにおける独立戦争(1991-1995)時の資料館となっています。この独立戦争から3年後、1998年にクロアチアはサッカーワールドカップ初出場を果たし、結果、3位と結果を残す。その時、日本も初出場を果たし、クロアチアとグループリーグで対戦して負けている。

  • Fort Imperial<br />Tvrđava Imperial<br />「帝国の砦」<br /><br />独立戦争、クロアチアでは「HOMELAND WAR」と呼んでいる。

    Fort Imperial
    Tvrđava Imperial
    「帝国の砦」

    独立戦争、クロアチアでは「HOMELAND WAR」と呼んでいる。

  • Fort Imperial<br />Tvrđava Imperial<br />「帝国の砦」

    Fort Imperial
    Tvrđava Imperial
    「帝国の砦」

  • Fort Imperial<br />Tvrđava Imperial<br />「帝国の砦」

    Fort Imperial
    Tvrđava Imperial
    「帝国の砦」

  • Fort Imperial<br />Tvrđava Imperial<br />「帝国の砦」

    Fort Imperial
    Tvrđava Imperial
    「帝国の砦」

  • Fort Imperial<br />Tvrđava Imperial<br />「帝国の砦」

    Fort Imperial
    Tvrđava Imperial
    「帝国の砦」

  • Fort Imperial<br />Tvrđava Imperial<br />「帝国の砦」

    Fort Imperial
    Tvrđava Imperial
    「帝国の砦」

  • Fort Imperial<br />Tvrđava Imperial<br />「帝国の砦」<br /><br />ドゥブロヴニク(Dubrovnik)

    Fort Imperial
    Tvrđava Imperial
    「帝国の砦」

    ドゥブロヴニク(Dubrovnik)

  • Fort Imperial<br />Tvrđava Imperial<br />「帝国の砦」<br /><br />砦を後にして降りていく。道が狭いので気を付けてください。。

    Fort Imperial
    Tvrđava Imperial
    「帝国の砦」

    砦を後にして降りていく。道が狭いので気を付けてください。。

  • Fort Imperial<br />Tvrđava Imperial<br />「帝国の砦」<br /><br />道を外れるとすぐに崖となっています。夜にここに来るとき非常に危険です。。。

    Fort Imperial
    Tvrđava Imperial
    「帝国の砦」

    道を外れるとすぐに崖となっています。夜にここに来るとき非常に危険です。。。

  • ドゥブロヴニク(Dubrovnik)

    ドゥブロヴニク(Dubrovnik)

  • ドゥブロヴニク(Dubrovnik)<br /><br />この後、家主に電話し道路上で待ち合わせ。待ち合わせのポイントが初めてなのでわかりづらい。あとで分かったのだが、そこは、ピレ門の前、ヒルトンホテルの辺り。って、この道、一方通行?土地勘がないまま、何度、ぐるぐる往復したことか。<br />ようやく、彼を乗せて、駐車場まで移動。狭い住宅街の道を走る。車を停めたそのあと、ドゥブロヴニクの中へ移動。荷物を転がすには、石畳の道がつらい。最後に狭い路地の登り坂が待っていた。。。

    ドゥブロヴニク(Dubrovnik)

    この後、家主に電話し道路上で待ち合わせ。待ち合わせのポイントが初めてなのでわかりづらい。あとで分かったのだが、そこは、ピレ門の前、ヒルトンホテルの辺り。って、この道、一方通行?土地勘がないまま、何度、ぐるぐる往復したことか。
    ようやく、彼を乗せて、駐車場まで移動。狭い住宅街の道を走る。車を停めたそのあと、ドゥブロヴニクの中へ移動。荷物を転がすには、石畳の道がつらい。最後に狭い路地の登り坂が待っていた。。。

  • ドゥブロヴニク(Dubrovnik)<br /><br />これが2泊するゲストハウス。<br /><br />ゲストハウス ヴィツェリツ<br />Rooms Vicelic<br /><br />ゲストハウスといえども、シャワー、トイレは付いていた。共通キッチン。狭い路地にあり、生活感溢れるところです。<br /><br />Antuninska ul. 10, 20000, Dubrovnik, クロアチア

    ドゥブロヴニク(Dubrovnik)

    これが2泊するゲストハウス。

    ゲストハウス ヴィツェリツ
    Rooms Vicelic

    ゲストハウスといえども、シャワー、トイレは付いていた。共通キッチン。狭い路地にあり、生活感溢れるところです。

    Antuninska ul. 10, 20000, Dubrovnik, クロアチア

  • ドゥブロヴニク(Dubrovnik)<br /><br />ゲストハウス前の狭い路地を見降ろしたところ。<br />ここを荷物を抱えて登るのはしんどかった。

    ドゥブロヴニク(Dubrovnik)

    ゲストハウス前の狭い路地を見降ろしたところ。
    ここを荷物を抱えて登るのはしんどかった。

  • ドゥブロヴニク(Dubrovnik)<br /><br />これが、ドゥブロヴニクのメインロード、 ストラドゥン通り(Stradun)、通称プラツァ通り(Placa)。いろんな店が立ち並びます。ピレ門(Pile Gate)と呼ばれる西の門から一直線に東に延びており、奥に見える時計塔(鐘楼)のあるメインの広場まで続いています。写真でいうと、左手がゲストハウスがある斜面(登る斜面)。

    ドゥブロヴニク(Dubrovnik)

    これが、ドゥブロヴニクのメインロード、 ストラドゥン通り(Stradun)、通称プラツァ通り(Placa)。いろんな店が立ち並びます。ピレ門(Pile Gate)と呼ばれる西の門から一直線に東に延びており、奥に見える時計塔(鐘楼)のあるメインの広場まで続いています。写真でいうと、左手がゲストハウスがある斜面(登る斜面)。

  • Large Onofrio&#39;s Fountain<br />Velika Onofrijeva fontana<br />大オノフリオの泉<br /><br />西側の門、ピレ門(Pile Gate)の前の広場にある泉。全体が影になってよくわからない。。。後ろにあるのが、聖救世主教会。

    Large Onofrio's Fountain
    Velika Onofrijeva fontana
    大オノフリオの泉

    西側の門、ピレ門(Pile Gate)の前の広場にある泉。全体が影になってよくわからない。。。後ろにあるのが、聖救世主教会。

  • Large Onofrio&#39;s Fountain<br />Velika Onofrijeva fontana<br />大オノフリオの泉<br /><br />1438 年に建設された16角形とドーム型の屋根の特徴的な泉。<br />中世、川のないドブロブニクでは、水の確保が深刻な問題であり、そこで、当時の高名な建築士オノフリオ・デッラ・カーヴァに依頼し、上水道を建設。水は10キロ以上離れた山から町に送られ、1438年に泉が完成し、建築家の名前がつけられました。1667年の地震で噴水のドーム部は壊れ、そのまま復旧されることのないまま、現代にいたります。(観光公式HPの訳より)<br /><br />ここにあるものは、名前にVelika(大)がつき、街の奥にもうひとつ小さいもの(Mala Onofrijeva fontana)がある。プリトヴィッッチェ公園で、大きな滝の名前がVeliki Slapだったことを思い出した。昔は、ドームの上から噴水が出ていたのでしょう。きっと。

    Large Onofrio's Fountain
    Velika Onofrijeva fontana
    大オノフリオの泉

    1438 年に建設された16角形とドーム型の屋根の特徴的な泉。
    中世、川のないドブロブニクでは、水の確保が深刻な問題であり、そこで、当時の高名な建築士オノフリオ・デッラ・カーヴァに依頼し、上水道を建設。水は10キロ以上離れた山から町に送られ、1438年に泉が完成し、建築家の名前がつけられました。1667年の地震で噴水のドーム部は壊れ、そのまま復旧されることのないまま、現代にいたります。(観光公式HPの訳より)

    ここにあるものは、名前にVelika(大)がつき、街の奥にもうひとつ小さいもの(Mala Onofrijeva fontana)がある。プリトヴィッッチェ公園で、大きな滝の名前がVeliki Slapだったことを思い出した。昔は、ドームの上から噴水が出ていたのでしょう。きっと。

  • St. Saviour Church<br />Crkva sv. Spasa, Dubrovnik<br />聖救世主教会<br /><br />メインロードの西側の突き当りにある広場に面している小さな教会。クロアチア最古の薬局が隣のフランシスコ修道院内にある。世界では3番目の古さ。<br />こう聞くと、ついつい調べたくなるのが、1番と2番。<br />1番は、サンタ・マリア・ノヴェッラ(イタリア、フィレンツェ)1221年。<br />2番が、レーベン薬局(ドイツ・トリーア)1241年。<br />3番が、マラ・ブラチャ薬局(クロアチア、ドブロブニク)1391年。<br />全然、興味はないのだけど。

    St. Saviour Church
    Crkva sv. Spasa, Dubrovnik
    聖救世主教会

    メインロードの西側の突き当りにある広場に面している小さな教会。クロアチア最古の薬局が隣のフランシスコ修道院内にある。世界では3番目の古さ。
    こう聞くと、ついつい調べたくなるのが、1番と2番。
    1番は、サンタ・マリア・ノヴェッラ(イタリア、フィレンツェ)1221年。
    2番が、レーベン薬局(ドイツ・トリーア)1241年。
    3番が、マラ・ブラチャ薬局(クロアチア、ドブロブニク)1391年。
    全然、興味はないのだけど。

  • St. Saviour Church<br />Crkva sv. Spasa, Dubrovnik<br />聖救世主教会<br /><br />1520年の恐ろしい地震から救ってくれた感謝の印として、地震が起きたその年に、聖救世主に捧げた奉納教会が建てられたのです。これは、元老院の決議によるものでしたが、この当時の人々の心からの感謝の気持ちは、不思議な形で現れているようです。この教会は、1667年に起きた大地震でも、そのままの形で残ったのです。ドゥブロヴニクのルネサンスの典型的な建築であるこの教会は、もとの形のまま、今日まで保存されています。コルチュラの名匠、ペタル・アンドリイッチにより建設され、1528年に完成しました。伝説によると、この奉納教会の建設にあたって、とくに熱心だったのは、地主の妻たちで、建築のための木材や石などを自分達で運んだということです。フランシスコ修道院と城壁の間にあるこの教会の中の瞑想的な場所では、夏の間、この町の画家達が自分の作品を展示したり、室内楽団が演奏したりします。(観光公式HPより)

    St. Saviour Church
    Crkva sv. Spasa, Dubrovnik
    聖救世主教会

    1520年の恐ろしい地震から救ってくれた感謝の印として、地震が起きたその年に、聖救世主に捧げた奉納教会が建てられたのです。これは、元老院の決議によるものでしたが、この当時の人々の心からの感謝の気持ちは、不思議な形で現れているようです。この教会は、1667年に起きた大地震でも、そのままの形で残ったのです。ドゥブロヴニクのルネサンスの典型的な建築であるこの教会は、もとの形のまま、今日まで保存されています。コルチュラの名匠、ペタル・アンドリイッチにより建設され、1528年に完成しました。伝説によると、この奉納教会の建設にあたって、とくに熱心だったのは、地主の妻たちで、建築のための木材や石などを自分達で運んだということです。フランシスコ修道院と城壁の間にあるこの教会の中の瞑想的な場所では、夏の間、この町の画家達が自分の作品を展示したり、室内楽団が演奏したりします。(観光公式HPより)

  • St. Saviour Church<br />Crkva sv. Spasa, Dubrovnik<br />聖救世主教会

    St. Saviour Church
    Crkva sv. Spasa, Dubrovnik
    聖救世主教会

  • プラツァ通りに立ち並ぶ聖救世主教会と隣のフランシスコ修道院

    プラツァ通りに立ち並ぶ聖救世主教会と隣のフランシスコ修道院

  • フランシスコ修道院<br />Franjevački samostan<br /><br />※ソフトクリームを食べているおっさんを撮ったわけではない。門の彫刻を撮ったつもりが。。。後で写真を見て気が付くパターン。

    フランシスコ修道院
    Franjevački samostan

    ※ソフトクリームを食べているおっさんを撮ったわけではない。門の彫刻を撮ったつもりが。。。後で写真を見て気が付くパターン。

  • Dubrovnic Clock Tower<br />Luža i Gradski zvonik<br />時計塔(鐘楼)<br /><br />

    Dubrovnic Clock Tower
    Luža i Gradski zvonik
    時計塔(鐘楼)

  • Dubrovnic Clock Tower<br />Luža i Gradski zvonik<br />時計塔(鐘楼)<br /><br />時計塔の向かって左は、港へ通じる門。右側のファザードが付いた門は、工事中で隠れて見えないが、街の防衛隊と提督の住んだところ。

    Dubrovnic Clock Tower
    Luža i Gradski zvonik
    時計塔(鐘楼)

    時計塔の向かって左は、港へ通じる門。右側のファザードが付いた門は、工事中で隠れて見えないが、街の防衛隊と提督の住んだところ。

  • 時計塔(Luža i Gradski zvonik)と聖ヴラホ教会(Crkva svetoga Vlaha)<br />

    時計塔(Luža i Gradski zvonik)と聖ヴラホ教会(Crkva svetoga Vlaha)

  • Orlando&#39;s Column<br />Orlandov stup<br />オーランドの柱像<br /><br />聖ヴラホ教会(Crkva svetoga Vlaha)の前に立つ。<br /><br /> 1418年に、この中世の騎士の像を鎧にしたオーランドの柱像は、スポンザ宮殿、聖ヴラホ教会、鐘楼によって形成された広場に立てられました。それは、中世の叙事詩「シャンソンドローランド」で伝説となった8世紀の騎士、ローランドを表しています。ローランドの彫像は主にドイツの都市に建てらていましたが、彼に関する神話は、おそらく15世紀に、ドゥブロヴニク共和国のパトロンであったハンガリーとボヘミアンのジギスムント王によってドゥブロヴニク共和国にもたらされた。1つの伝説によると、ローランドはドゥブロヴニクをサラセン人から救い、ロクルム島の近くで彼らを倒しましたとしている。聖ブレイズSt. Blaise(聖ヴラホの英語名)と彼のイニシャルSBをイメージしたドゥブロヴニク共和国の白い旗は、1808年に共和国が廃止されるまで、オーランドの柱に掲げられていました。1950年のドゥブロヴニク・サマーフェスティバルの設立以来、オーランド柱像の柱像には、リベルタス(ローマ神話での自由の女神)の象徴的な銘が描かれたフェスティバルの旗が掲げられ、周りの広場がオープニングセレモニーの会場になりました。(観光公式HPより訳)

    Orlando's Column
    Orlandov stup
    オーランドの柱像

    聖ヴラホ教会(Crkva svetoga Vlaha)の前に立つ。

     1418年に、この中世の騎士の像を鎧にしたオーランドの柱像は、スポンザ宮殿、聖ヴラホ教会、鐘楼によって形成された広場に立てられました。それは、中世の叙事詩「シャンソンドローランド」で伝説となった8世紀の騎士、ローランドを表しています。ローランドの彫像は主にドイツの都市に建てらていましたが、彼に関する神話は、おそらく15世紀に、ドゥブロヴニク共和国のパトロンであったハンガリーとボヘミアンのジギスムント王によってドゥブロヴニク共和国にもたらされた。1つの伝説によると、ローランドはドゥブロヴニクをサラセン人から救い、ロクルム島の近くで彼らを倒しましたとしている。聖ブレイズSt. Blaise(聖ヴラホの英語名)と彼のイニシャルSBをイメージしたドゥブロヴニク共和国の白い旗は、1808年に共和国が廃止されるまで、オーランドの柱に掲げられていました。1950年のドゥブロヴニク・サマーフェスティバルの設立以来、オーランド柱像の柱像には、リベルタス(ローマ神話での自由の女神)の象徴的な銘が描かれたフェスティバルの旗が掲げられ、周りの広場がオープニングセレモニーの会場になりました。(観光公式HPより訳)

    オーランドの像 モニュメント・記念碑

  • Sponza Palace<br />スポンザ宮殿<br /><br />鐘楼の西側に、スポンザと呼ばれる、税関(ディヴォナ)のあった美しい宮殿があります。これは、とても表現豊かなゴシック・ルネサンス様式で建設された、ドゥブロヴニクの特徴的な建築物です。<br />ここには、造幣局と武器鋳造所もありました。パスコイェ・ミリチェヴィッチにより、正面の涼み廊下と中庭のある四角い形に設計され、16世紀に建てられました。豊富にある石細工のほとんどは、アンドリイッチ兄弟による作品です。<br />倉庫の扉は中庭と二階の回廊で囲まれ、メインの壁には次のように書かれています。FALLERE NOSTRA VETANT; ET FALLI PONDERE: MEQVE PONDERC CVM MERCES PONDERAT IPSE DEUS(ここにある錘は、だまされない。私が商品の重さを測る時、神様も私を測るだから。)ここは、町の商業の中心地であり、17世紀には、アカデミー会員が集まり、文学や芸術、科学について議論をした所です。現在、スポンザ宮殿には、ヨーロッパでも有数の豊かな歴史的文書の書庫があります。(公式HPより)<br /><br />中には入りませんでした。明後日に入ります。<br />ここには独立戦争で亡くなった方を称える防衛軍兵士戦没者記念室(Spomen soba poginulim braniteljima)があります。<br />

    Sponza Palace
    スポンザ宮殿

    鐘楼の西側に、スポンザと呼ばれる、税関(ディヴォナ)のあった美しい宮殿があります。これは、とても表現豊かなゴシック・ルネサンス様式で建設された、ドゥブロヴニクの特徴的な建築物です。
    ここには、造幣局と武器鋳造所もありました。パスコイェ・ミリチェヴィッチにより、正面の涼み廊下と中庭のある四角い形に設計され、16世紀に建てられました。豊富にある石細工のほとんどは、アンドリイッチ兄弟による作品です。
    倉庫の扉は中庭と二階の回廊で囲まれ、メインの壁には次のように書かれています。FALLERE NOSTRA VETANT; ET FALLI PONDERE: MEQVE PONDERC CVM MERCES PONDERAT IPSE DEUS(ここにある錘は、だまされない。私が商品の重さを測る時、神様も私を測るだから。)ここは、町の商業の中心地であり、17世紀には、アカデミー会員が集まり、文学や芸術、科学について議論をした所です。現在、スポンザ宮殿には、ヨーロッパでも有数の豊かな歴史的文書の書庫があります。(公式HPより)

    中には入りませんでした。明後日に入ります。
    ここには独立戦争で亡くなった方を称える防衛軍兵士戦没者記念室(Spomen soba poginulim braniteljima)があります。

    スポンザ宮殿 城・宮殿

  • Sponza Palace<br />スポンザ宮殿

    Sponza Palace
    スポンザ宮殿

  • 聖ヴラホ教会<br />Crkva svetoga Vlaha

    聖ヴラホ教会
    Crkva svetoga Vlaha

    聖ヴラホ教会 寺院・教会

  • 聖ヴラホ教会<br />Crkva svetoga Vlaha<br /><br />左奥に大聖堂につづく道があります。

    聖ヴラホ教会
    Crkva svetoga Vlaha

    左奥に大聖堂につづく道があります。

  • Small Onofrio&#39;s Fountain<br />Mala Onofrijeva fontana<br />小オノフリオの泉<br /><br />こちらが小さい方の噴水。

    Small Onofrio's Fountain
    Mala Onofrijeva fontana
    小オノフリオの泉

    こちらが小さい方の噴水。

    オノフリオの小噴水 モニュメント・記念碑

  • 聖ヴラホ教会<br />Crkva svetoga Vlaha

    聖ヴラホ教会
    Crkva svetoga Vlaha

  • ドゥブロブニク大聖堂<br />Katedrala Uznesenja Blažene Djevice Marije<br /><br />真正面に見えるのが、大聖堂。違和感を感じるのは、西側(写真では右側)にドーム、つまり、主祭壇が西側にあること。普通の西洋の教会は、西側から入り東側に主祭壇がある(個人的な勝手な推測だが、古代キリスト教は、太陽神を崇める古代宗教ととこかで結び付いたと思う、そのため、太陽の上がる東に主祭壇が設けられる。)。何らかの事情があったのでしょう。ちなみに入り口は、横面にあり、写真に小さく見えているところ。

    ドゥブロブニク大聖堂
    Katedrala Uznesenja Blažene Djevice Marije

    真正面に見えるのが、大聖堂。違和感を感じるのは、西側(写真では右側)にドーム、つまり、主祭壇が西側にあること。普通の西洋の教会は、西側から入り東側に主祭壇がある(個人的な勝手な推測だが、古代キリスト教は、太陽神を崇める古代宗教ととこかで結び付いたと思う、そのため、太陽の上がる東に主祭壇が設けられる。)。何らかの事情があったのでしょう。ちなみに入り口は、横面にあり、写真に小さく見えているところ。

  • ドゥブロブニク大聖堂<br />Katedrala Uznesenja Blažene Djevice Marije<br /><br />ドゥブロヴニクの人々が単にカテドラルと呼んでいるこの教会のことを聞くと、良く知る人には二つのことが思い出されます。一つは、ある誓いをしたイギリスのリチャード獅子心王、もう一つは、11世紀から18世紀までの卓越したドゥブロヴニクの金細工と共和国の芸術品を所蔵する、この教会の宝物庫です。その所蔵品の大切さを感じ、とても賢く、疑い深くもあり、注意深いドゥブロヴニクの人々は、当時、大聖堂の宝物庫に三つの鍵をかけて、所蔵品を保護しました。鍵はそれぞれ総督、司教、共和国書記官がもっていて、この三つの鍵が同時に扉を開けない限り、宝物庫は開きませんでした。<br />12世紀から14世紀にロマネスク様式で建てられた大聖堂の古い建物は、今日の大聖堂と同じ場所にありましたが、その建設には、イギリスのリチャード獅子心王が大きく貢献しています。1192年、第三次十字軍戦争の帰路、嵐のロックルム島付近で船が難破し、何とか命をとりとめた王は、やっと硬い地面に足をおろせたこの町に、大きな教会建設のためのお金を寄付すると誓ったのです。ところが、そうして建設された、丸屋根の付いたロマネスク様式の豪華なバシリカは、1667年の大地震で全壊してしまいました。<br />そんな悲惨な時代でも、この町は、幸運に見舞われました。ヴァチカンの管理人、後にヴァチカン図書館の館長になった著名な歴史家、哲学者、詩人、そして外交官のスティエパン・グラディッチが、自分の生まれ故郷であるこの町へ、支援を始めたのです。<br />イタリアから招かれた最も有名な建築家で、バロック様式の当時の教会のモデルに合わせて大聖堂を建設するというグラディッチの願いを実現したのは、アンドレア・ブファリーニです。ブファリーニの設計図に従って、パオロ・アンドレオッティが1672年、建設を始めました。建築工事は長い間、多くの職人の手を借りて進められました。そして1713年、ドゥブロヴニクの職人、イリヤ・カティチッチが完成させたのです。この丸屋根の三身廊教会の内側は、後期バロック様式の貴重な祭壇が並び、特に素晴らしいのは、大ティツィアーノの作品と主祭壇の上の彼の仕事場(16世紀の何幅対もの聖母被昇天)、ラファエロの「小椅子の聖母」、イタリアの画家サヴォルドの「エジプトへの逃亡」などの作品です。<br />ドゥブロヴニク大聖堂は、ドゥブロヴニクの豊かな歴史と芸術の実例というばかりでなく、ドゥブロヴニクの最初の千年間の歴史の秘密を解く、考古学上興味深い場所でもあるのです。1979年の地震で崩れた教会の建物の下に、考古学者は古い大聖堂、つまり、ロマネスク様式の大聖堂を発見したのです。この大聖堂の建物が7世紀に建設されたという発見は、もうその当時にドゥブロヴニクの町が出来上がったことを示すもので、この町の誕生が、それまで考えられていたよりずっと早い時期であることを証明しました。(観光公式HPより)<br /><br />写真は正面のもの。(前の写真にある)入り口は側面にありました。

    ドゥブロブニク大聖堂
    Katedrala Uznesenja Blažene Djevice Marije

    ドゥブロヴニクの人々が単にカテドラルと呼んでいるこの教会のことを聞くと、良く知る人には二つのことが思い出されます。一つは、ある誓いをしたイギリスのリチャード獅子心王、もう一つは、11世紀から18世紀までの卓越したドゥブロヴニクの金細工と共和国の芸術品を所蔵する、この教会の宝物庫です。その所蔵品の大切さを感じ、とても賢く、疑い深くもあり、注意深いドゥブロヴニクの人々は、当時、大聖堂の宝物庫に三つの鍵をかけて、所蔵品を保護しました。鍵はそれぞれ総督、司教、共和国書記官がもっていて、この三つの鍵が同時に扉を開けない限り、宝物庫は開きませんでした。
    12世紀から14世紀にロマネスク様式で建てられた大聖堂の古い建物は、今日の大聖堂と同じ場所にありましたが、その建設には、イギリスのリチャード獅子心王が大きく貢献しています。1192年、第三次十字軍戦争の帰路、嵐のロックルム島付近で船が難破し、何とか命をとりとめた王は、やっと硬い地面に足をおろせたこの町に、大きな教会建設のためのお金を寄付すると誓ったのです。ところが、そうして建設された、丸屋根の付いたロマネスク様式の豪華なバシリカは、1667年の大地震で全壊してしまいました。
    そんな悲惨な時代でも、この町は、幸運に見舞われました。ヴァチカンの管理人、後にヴァチカン図書館の館長になった著名な歴史家、哲学者、詩人、そして外交官のスティエパン・グラディッチが、自分の生まれ故郷であるこの町へ、支援を始めたのです。
    イタリアから招かれた最も有名な建築家で、バロック様式の当時の教会のモデルに合わせて大聖堂を建設するというグラディッチの願いを実現したのは、アンドレア・ブファリーニです。ブファリーニの設計図に従って、パオロ・アンドレオッティが1672年、建設を始めました。建築工事は長い間、多くの職人の手を借りて進められました。そして1713年、ドゥブロヴニクの職人、イリヤ・カティチッチが完成させたのです。この丸屋根の三身廊教会の内側は、後期バロック様式の貴重な祭壇が並び、特に素晴らしいのは、大ティツィアーノの作品と主祭壇の上の彼の仕事場(16世紀の何幅対もの聖母被昇天)、ラファエロの「小椅子の聖母」、イタリアの画家サヴォルドの「エジプトへの逃亡」などの作品です。
    ドゥブロヴニク大聖堂は、ドゥブロヴニクの豊かな歴史と芸術の実例というばかりでなく、ドゥブロヴニクの最初の千年間の歴史の秘密を解く、考古学上興味深い場所でもあるのです。1979年の地震で崩れた教会の建物の下に、考古学者は古い大聖堂、つまり、ロマネスク様式の大聖堂を発見したのです。この大聖堂の建物が7世紀に建設されたという発見は、もうその当時にドゥブロヴニクの町が出来上がったことを示すもので、この町の誕生が、それまで考えられていたよりずっと早い時期であることを証明しました。(観光公式HPより)

    写真は正面のもの。(前の写真にある)入り口は側面にありました。

    聖母被昇天大聖堂 寺院・教会

  • ドゥブロブニク大聖堂<br />Katedrala Uznesenja Blažene Djevice Marije<br /><br />日本語の場合、聖母被昇天大聖堂と呼ばれる。イエス・キリストの場合は、自分で天に上がったので、普通に「昇天」でいいのだが、マリア様の場合は、もとは人間であり、つまり、天に上げてもらった為に「被昇天」と受動態になっている。

    ドゥブロブニク大聖堂
    Katedrala Uznesenja Blažene Djevice Marije

    日本語の場合、聖母被昇天大聖堂と呼ばれる。イエス・キリストの場合は、自分で天に上がったので、普通に「昇天」でいいのだが、マリア様の場合は、もとは人間であり、つまり、天に上げてもらった為に「被昇天」と受動態になっている。

  • ドゥブロブニク大聖堂<br />Katedrala Uznesenja Blažene Djevice Marije

    ドゥブロブニク大聖堂
    Katedrala Uznesenja Blažene Djevice Marije

  • ドゥブロブニク大聖堂<br />Katedrala Uznesenja Blažene Djevice Marije<br /><br />主祭壇。聖母被昇天(Assumption of the Virgin)。ティツィアーノ作。

    ドゥブロブニク大聖堂
    Katedrala Uznesenja Blažene Djevice Marije

    主祭壇。聖母被昇天(Assumption of the Virgin)。ティツィアーノ作。

  • ドゥブロブニク大聖堂<br />Katedrala Uznesenja Blažene Djevice Marije<br /><br />調べてみると1550年頃の作品らしいが、マリアのポーズが、画家の代表作、ヴェネツィアのサンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂 (Basilica di Santa Maria Gloriosa dei Frari)にあるものに似ている(大きな相違点は服の色)。しかし、ヴェネツィアのものの制作時期は1516-7年であり、こちらのものとかなり隔てているので、こちらのものは彼の工房がメインで作ったのかな。インパクトはヴェネツィアにあるものの方がある。

    ドゥブロブニク大聖堂
    Katedrala Uznesenja Blažene Djevice Marije

    調べてみると1550年頃の作品らしいが、マリアのポーズが、画家の代表作、ヴェネツィアのサンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂 (Basilica di Santa Maria Gloriosa dei Frari)にあるものに似ている(大きな相違点は服の色)。しかし、ヴェネツィアのものの制作時期は1516-7年であり、こちらのものとかなり隔てているので、こちらのものは彼の工房がメインで作ったのかな。インパクトはヴェネツィアにあるものの方がある。

  • ドゥブロブニク大聖堂<br />Katedrala Uznesenja Blažene Djevice Marije<br /><br />写真は入り口側(閉まっている)。<br /><br />後、聖遺物エリアは有料で写真撮影禁止。<br />ドゥブロブニクの守護聖人の聖ブラシウス(聖ブレイズ)の聖遺物がある。

    ドゥブロブニク大聖堂
    Katedrala Uznesenja Blažene Djevice Marije

    写真は入り口側(閉まっている)。

    後、聖遺物エリアは有料で写真撮影禁止。
    ドゥブロブニクの守護聖人の聖ブラシウス(聖ブレイズ)の聖遺物がある。

  • ドゥブロブニク大聖堂<br />Katedrala Uznesenja Blažene Djevice Marije

    ドゥブロブニク大聖堂
    Katedrala Uznesenja Blažene Djevice Marije

  • ドゥブロブニク大聖堂<br />Katedrala Uznesenja Blažene Djevice Marije

    ドゥブロブニク大聖堂
    Katedrala Uznesenja Blažene Djevice Marije

  • ドゥブロブニク博物館<br />Dubrovnik Museums<br />Dubrovački muzeji<br /><br />大聖堂にいくときに通った通りに面していたレクター宮殿(Knežev dvor)、今は、ドゥブロブニク博物館になっている。<br /><br />展示物が多いので、流しながらの見学。<br />公式HPには、ヴァーチャルツアーが用意さています↓<br /><br />Cultural History Museum<br />Virtual visit.<br />https://my.matterport.com/show/?m=TfCHWnXtFqs

    ドゥブロブニク博物館
    Dubrovnik Museums
    Dubrovački muzeji

    大聖堂にいくときに通った通りに面していたレクター宮殿(Knežev dvor)、今は、ドゥブロブニク博物館になっている。

    展示物が多いので、流しながらの見学。
    公式HPには、ヴァーチャルツアーが用意さています↓

    Cultural History Museum
    Virtual visit.
    https://my.matterport.com/show/?m=TfCHWnXtFqs

    総督邸 史跡・遺跡

  • ドゥブロブニク博物館<br />Dubrovnik Museums<br />Dubrovački muzeji<br /><br />鐘楼の鐘を叩いていたベルハンマーの銅像。1478年鋳造。<br /><br />The most important objects in the collection are two Renaissance bronze statues, automata, the Green Ones, as they are called, or bronze jacks, which used to strike the hour on the city bell tower. They were cast around 1478, most probably in the Dubrovnik workshop of Michele di Giovanni of Fiesole.(公式HPより)

    ドゥブロブニク博物館
    Dubrovnik Museums
    Dubrovački muzeji

    鐘楼の鐘を叩いていたベルハンマーの銅像。1478年鋳造。

    The most important objects in the collection are two Renaissance bronze statues, automata, the Green Ones, as they are called, or bronze jacks, which used to strike the hour on the city bell tower. They were cast around 1478, most probably in the Dubrovnik workshop of Michele di Giovanni of Fiesole.(公式HPより)

  • ドゥブロブニク博物館<br />Dubrovnik Museums<br />Dubrovački muzeji<br /><br />St.Blaise from the gate of Ponta(Port) ca.1465<br />クロアチアの彫刻家、George of Dalmatiaの作品。<br />ポンタ門にあった守護聖人聖ブラシウス(英語読み、聖ブレイズ)の石像。<br />(プレートから訳)

    ドゥブロブニク博物館
    Dubrovnik Museums
    Dubrovački muzeji

    St.Blaise from the gate of Ponta(Port) ca.1465
    クロアチアの彫刻家、George of Dalmatiaの作品。
    ポンタ門にあった守護聖人聖ブラシウス(英語読み、聖ブレイズ)の石像。
    (プレートから訳)

  • ドゥブロブニク博物館<br />Dubrovnik Museums<br />Dubrovački muzeji<br /><br />St.Blaise from the portal of the Rector&#39;s Palace ca.1503<br /><br />総督の宮殿の入り口にあった聖ブレイズの石像。<br />Ivan Duknović(1440-ca.1514)<br />ルネッサンス期のクロアチアの彫刻家<br />(プレートから訳)

    ドゥブロブニク博物館
    Dubrovnik Museums
    Dubrovački muzeji

    St.Blaise from the portal of the Rector's Palace ca.1503

    総督の宮殿の入り口にあった聖ブレイズの石像。
    Ivan Duknović(1440-ca.1514)
    ルネッサンス期のクロアチアの彫刻家
    (プレートから訳)

  • ドゥブロブニク博物館<br />Dubrovnik Museums<br />Dubrovački muzeji<br /><br />そのまま進むと、地下牢を経由して中庭に出ます。

    ドゥブロブニク博物館
    Dubrovnik Museums
    Dubrovački muzeji

    そのまま進むと、地下牢を経由して中庭に出ます。

  • ドゥブロブニク博物館<br />Dubrovnik Museums<br />Dubrovački muzeji<br /><br />宮殿のメインは2階。この部屋は1階(グランド)にある、共和国当時は、役所、事務所的に使用されていた部屋。1780年代に作られた木製の装飾壁が当時のまま保存されている。宮殿自体はナポリの建築家オノフリオOnofrio di Giordano della Cavaの手によるもの(噴水を作った人)。<br /><br />The Rector’s Palace<br /><br />The Rector’s Palace was the centre of government and the official residence of the rector of the Dubrovnik Republic. This Gothic-Renaissance palace was put up in the first half of the 15th century on the remains of the medieval fort called the castellum. It was built to a design of Neapolitan architect Onofrio di Giordano della Cava, as a three storey building with four wings, with corner towers, an inner court and a portico on the front elevation. During the centuries, the palace’s fabric underwent a good deal of serious damage from gunpowder explosions and tectonic events, most of all during the catastrophic earthquake of 1667. Numerous repairs and renovations brought in new styles, but there was always an endeavour to retain the basic characteristics of the Onofrio design. As it is today, the Rector’s Palace is a two-storey building, with portico and atrium, in which the Gothic-Renaissance form is skilfully blended with the Baroque interventions.

    ドゥブロブニク博物館
    Dubrovnik Museums
    Dubrovački muzeji

    宮殿のメインは2階。この部屋は1階(グランド)にある、共和国当時は、役所、事務所的に使用されていた部屋。1780年代に作られた木製の装飾壁が当時のまま保存されている。宮殿自体はナポリの建築家オノフリオOnofrio di Giordano della Cavaの手によるもの(噴水を作った人)。

    The Rector’s Palace

    The Rector’s Palace was the centre of government and the official residence of the rector of the Dubrovnik Republic. This Gothic-Renaissance palace was put up in the first half of the 15th century on the remains of the medieval fort called the castellum. It was built to a design of Neapolitan architect Onofrio di Giordano della Cava, as a three storey building with four wings, with corner towers, an inner court and a portico on the front elevation. During the centuries, the palace’s fabric underwent a good deal of serious damage from gunpowder explosions and tectonic events, most of all during the catastrophic earthquake of 1667. Numerous repairs and renovations brought in new styles, but there was always an endeavour to retain the basic characteristics of the Onofrio design. As it is today, the Rector’s Palace is a two-storey building, with portico and atrium, in which the Gothic-Renaissance form is skilfully blended with the Baroque interventions.

  • ドゥブロブニク博物館<br />Dubrovnik Museums<br />Dubrovački muzeji<br /><br />The Rector’s Palace<br />Knežev dvor<br /><br />2階の宮殿の居住部へ。

    ドゥブロブニク博物館
    Dubrovnik Museums
    Dubrovački muzeji

    The Rector’s Palace
    Knežev dvor

    2階の宮殿の居住部へ。

  • ドゥブロブニク博物館<br />Dubrovnik Museums<br />Dubrovački muzeji<br /><br />The Rector’s Palace<br />Knežev dvor

    ドゥブロブニク博物館
    Dubrovnik Museums
    Dubrovački muzeji

    The Rector’s Palace
    Knežev dvor

  • ドゥブロブニク博物館<br />Dubrovnik Museums<br />Dubrovački muzeji<br /><br />The Rector’s Palace<br />Knežev dvor

    ドゥブロブニク博物館
    Dubrovnik Museums
    Dubrovački muzeji

    The Rector’s Palace
    Knežev dvor

  • ドゥブロブニク博物館<br />Dubrovnik Museums<br />Dubrovački muzeji<br /><br />The Rector’s Palace<br />Knežev dvor

    ドゥブロブニク博物館
    Dubrovnik Museums
    Dubrovački muzeji

    The Rector’s Palace
    Knežev dvor

  • ドゥブロブニク博物館<br />Dubrovnik Museums<br />Dubrovački muzeji<br /><br />The Rector’s Palace<br />Knežev dvor

    ドゥブロブニク博物館
    Dubrovnik Museums
    Dubrovački muzeji

    The Rector’s Palace
    Knežev dvor

  • ドゥブロブニク博物館<br />Dubrovnik Museums<br />Dubrovački muzeji

    ドゥブロブニク博物館
    Dubrovnik Museums
    Dubrovački muzeji

  • ドゥブロブニク博物館<br />Dubrovnik Museums<br />Dubrovački muzeji<br /><br />中庭にあるMiho Pracatの銅像。<br />ミホ・プラカット(ロプド島、1522年頃-ドゥブロヴニク、1607年7月20日)クロアチアの船員、銀行家、慈善家。<br /><br />総督の宮殿の中庭にある、ドゥブロヴニク共和国で記念碑が建てられた唯一の庶民の銅像。それだけ、ドゥブロブニクの皆から敬意が込められていた。この像は、1638年に完成したイタリアの彫刻家P. P. Jacomettiの作品。

    ドゥブロブニク博物館
    Dubrovnik Museums
    Dubrovački muzeji

    中庭にあるMiho Pracatの銅像。
    ミホ・プラカット(ロプド島、1522年頃-ドゥブロヴニク、1607年7月20日)クロアチアの船員、銀行家、慈善家。

    総督の宮殿の中庭にある、ドゥブロヴニク共和国で記念碑が建てられた唯一の庶民の銅像。それだけ、ドゥブロブニクの皆から敬意が込められていた。この像は、1638年に完成したイタリアの彫刻家P. P. Jacomettiの作品。

  • ドゥブロブニク博物館<br />Dubrovnik Museums<br />Dubrovački muzeji<br /><br />展示している内容が豊富。<br />こちらは、独立戦争時の写真展。<br />どこの写真だろう。子供の像ががれきに、埋もれている。

    ドゥブロブニク博物館
    Dubrovnik Museums
    Dubrovački muzeji

    展示している内容が豊富。
    こちらは、独立戦争時の写真展。
    どこの写真だろう。子供の像ががれきに、埋もれている。

  • ドゥブロブニク博物館<br />Dubrovnik Museums<br />Dubrovački muzeji<br /><br />さっき登った帝国の砦からの眺め。<br />ケーブルカーが山の斜面に落下しているのが分かる。

    ドゥブロブニク博物館
    Dubrovnik Museums
    Dubrovački muzeji

    さっき登った帝国の砦からの眺め。
    ケーブルカーが山の斜面に落下しているのが分かる。

  • ドゥブロブニク博物館<br />Dubrovnik Museums<br />Dubrovački muzeji<br /><br />

    ドゥブロブニク博物館
    Dubrovnik Museums
    Dubrovački muzeji

  • ドゥブロブニク博物館<br />Dubrovnik Museums<br />Dubrovački muzeji

    ドゥブロブニク博物館
    Dubrovnik Museums
    Dubrovački muzeji

  • ドゥブロブニク博物館<br />Dubrovnik Museums<br />Dubrovački muzeji

    ドゥブロブニク博物館
    Dubrovnik Museums
    Dubrovački muzeji

  • ドゥブロブニク博物館<br />Dubrovnik Museums<br />Dubrovački muzeji

    ドゥブロブニク博物館
    Dubrovnik Museums
    Dubrovački muzeji

  • ドゥブロブニク博物館<br />Dubrovnik Museums<br />Dubrovački muzeji<br /><br />まさか、そのポーズは。この時代からあったのか。

    ドゥブロブニク博物館
    Dubrovnik Museums
    Dubrovački muzeji

    まさか、そのポーズは。この時代からあったのか。

  • 宮殿をでて、一旦、大聖堂近くの門をとおり、ドゥブロブニクの旧港(Stara luka)へ。潮風を感じると嬉しい。正面に見えるは先ほど行った、レクター宮殿(ドゥブロブニク博物館)。<br />旧港スターラ・ルカは、ドゥブロヴニクのなかでも古くからある港。中世期、ドゥブロヴニクが貿易都市として繁栄を極めたときに使用されていました。北には聖ルカ要塞、南には聖イヴァン要塞が配置されており、正面には、総督の宮殿があります。<br />

    宮殿をでて、一旦、大聖堂近くの門をとおり、ドゥブロブニクの旧港(Stara luka)へ。潮風を感じると嬉しい。正面に見えるは先ほど行った、レクター宮殿(ドゥブロブニク博物館)。
    旧港スターラ・ルカは、ドゥブロヴニクのなかでも古くからある港。中世期、ドゥブロヴニクが貿易都市として繁栄を極めたときに使用されていました。北には聖ルカ要塞、南には聖イヴァン要塞が配置されており、正面には、総督の宮殿があります。

  • 旧港(Stara luka)からスルジ山(Srđ)の眺め。<br /><br />

    旧港(Stara luka)からスルジ山(Srđ)の眺め。

  • 再び、港から大聖堂のある広場へ戻ります。<br />(港にくるときにくぐった門。向こう側には大聖堂があります。)

    再び、港から大聖堂のある広場へ戻ります。
    (港にくるときにくぐった門。向こう側には大聖堂があります。)

  • レクター宮殿<br />Knežev dvor<br /><br />※前後しますが、右手に宮殿(博物館)の入り口があります。

    レクター宮殿
    Knežev dvor

    ※前後しますが、右手に宮殿(博物館)の入り口があります。

  • レクター宮殿<br />Knežev dvor<br />

    レクター宮殿
    Knežev dvor

  • レクター宮殿前にあるマリン・ドルジッチの銅像。<br /><br />マリン・ドルジッチ(Marin Držić、クロアチアの発音mâri?n dř???it?; マリノ・ダルザもしくはマリノ・ダルサともいう; 1508年 ? 1567年5月2日)はルネサンス期における最も優れたクロアチア人の劇作家、散文作家と見なされている。<br /><br />ドルジッチは、ドゥブロヴニクの大きく裕福な家庭(5人の兄弟と6人の姉妹がいた)に生まれた。彼の反抗的な気質にはとても合わないといわれていたが、司祭になることを定められ、養育された。彼の叔父のDžore Držićも有名なクロアチアの作家であった。マリン・ドルジッチは1526年に司祭に任命され、1538年、教会法を学ぶためトスカーナ州のシエナに送り出された。そこでの彼の学業の成績は並であった。外向的で温厚な性格のおかげで、同級生や教授の心をつかんだと言われ、そして大学の学長に選ばれた。彼は勉強への興味を失い、1543年、ラグサ共和国に帰った。<br />マリン・ドルジッチはオーストリアの探検家のクリストフ・ローゲンドルフ(Christoph Rogendorf)と知り合いになり、さらにウィーンの法廷ともめごとを起こした。ウィーンに短期間滞在した後、ドルジッチは生まれた街に戻った。その後も放浪してはいろいろな事績を残し、ドゥブロヴニクの無法者のグループとかかわったり、コンスタンティノープルへの旅やヴェネツィアへの短い旅をした。翻訳家や代書人、教会の音楽家を職業とした後、陰謀をたくらむことさえした。彼は、ドゥブロヴニクが暴政によって歪められた一部のエリート主義の貴族政治で統治されていると確信して、フィレンツェにある力を持ったメディチ家に、ドゥブロニクの政府を打倒する助けをしてほしいと5通の手紙(4通は現存している)を送って説得しようとした。メディチ家はそれに対して応答しなかった。マリン・ドルジッチはヴェネツィアで突然、1567年5月2日に没した。彼は、聖パウロ・聖ヨハネ教会に埋葬された。(Wikiより)<br /><br />皆が触るので鼻だけピカピカ。ここを触ると幸福でも訪れるのかな。<br />とりあえず、こういう状態の銅像を見ると、そこを触っておく。

    レクター宮殿前にあるマリン・ドルジッチの銅像。

    マリン・ドルジッチ(Marin Držić、クロアチアの発音mâri?n dř???it?; マリノ・ダルザもしくはマリノ・ダルサともいう; 1508年 ? 1567年5月2日)はルネサンス期における最も優れたクロアチア人の劇作家、散文作家と見なされている。

    ドルジッチは、ドゥブロヴニクの大きく裕福な家庭(5人の兄弟と6人の姉妹がいた)に生まれた。彼の反抗的な気質にはとても合わないといわれていたが、司祭になることを定められ、養育された。彼の叔父のDžore Držićも有名なクロアチアの作家であった。マリン・ドルジッチは1526年に司祭に任命され、1538年、教会法を学ぶためトスカーナ州のシエナに送り出された。そこでの彼の学業の成績は並であった。外向的で温厚な性格のおかげで、同級生や教授の心をつかんだと言われ、そして大学の学長に選ばれた。彼は勉強への興味を失い、1543年、ラグサ共和国に帰った。
    マリン・ドルジッチはオーストリアの探検家のクリストフ・ローゲンドルフ(Christoph Rogendorf)と知り合いになり、さらにウィーンの法廷ともめごとを起こした。ウィーンに短期間滞在した後、ドルジッチは生まれた街に戻った。その後も放浪してはいろいろな事績を残し、ドゥブロヴニクの無法者のグループとかかわったり、コンスタンティノープルへの旅やヴェネツィアへの短い旅をした。翻訳家や代書人、教会の音楽家を職業とした後、陰謀をたくらむことさえした。彼は、ドゥブロヴニクが暴政によって歪められた一部のエリート主義の貴族政治で統治されていると確信して、フィレンツェにある力を持ったメディチ家に、ドゥブロニクの政府を打倒する助けをしてほしいと5通の手紙(4通は現存している)を送って説得しようとした。メディチ家はそれに対して応答しなかった。マリン・ドルジッチはヴェネツィアで突然、1567年5月2日に没した。彼は、聖パウロ・聖ヨハネ教会に埋葬された。(Wikiより)

    皆が触るので鼻だけピカピカ。ここを触ると幸福でも訪れるのかな。
    とりあえず、こういう状態の銅像を見ると、そこを触っておく。

  • 背後の山がさっき行った帝国の砦のあるスルジ山(Srđ)。<br />聖ヴラホ教会前の広場に戻ります。

    背後の山がさっき行った帝国の砦のあるスルジ山(Srđ)。
    聖ヴラホ教会前の広場に戻ります。

  • 時計塔(Luža i Gradski zvonik)と聖ヴラホ教会(Crkva svetoga Vlaha)<br /><br />クロアチア語で聖ヴラホとは聖ブラシウスのこと、すでに何度も出てくるが、ドヴロヴニクの守護聖人(パトロン)。<br /><br />ブラシウス (ギリシャ語: Άγιος Βλάσιος, Agios Vlasios; 生年不詳 - 316年)は、キリスト教の聖人。アルメニアの主教(司教)であったが殉教した。カトリック教会・正教会・アルメニア教会・東方典礼カトリック教会で聖人。祝日は2月3日。11世紀から12世紀にかけて、ヨーロッパで信仰が広まった。かつてはラグーサ共和国の守護聖人であったことから、ドゥブロヴニクの守護聖人となっている。(Wikiより)<br /><br />中世・現代ギリシャ語では「ヴラシオス」と読まれる。教会スラヴ語・ロシア語にはВласий(ヴラシイ)と転写され、日本正教会では奉神礼で「ウラシイ」と呼称される。イタリア語ではBiagio(ビアージョ)となる。<br />英語読みだと、聖ブレイズ。とまあ、ややこしい。

    時計塔(Luža i Gradski zvonik)と聖ヴラホ教会(Crkva svetoga Vlaha)

    クロアチア語で聖ヴラホとは聖ブラシウスのこと、すでに何度も出てくるが、ドヴロヴニクの守護聖人(パトロン)。

    ブラシウス (ギリシャ語: Άγιος Βλάσιος, Agios Vlasios; 生年不詳 - 316年)は、キリスト教の聖人。アルメニアの主教(司教)であったが殉教した。カトリック教会・正教会・アルメニア教会・東方典礼カトリック教会で聖人。祝日は2月3日。11世紀から12世紀にかけて、ヨーロッパで信仰が広まった。かつてはラグーサ共和国の守護聖人であったことから、ドゥブロヴニクの守護聖人となっている。(Wikiより)

    中世・現代ギリシャ語では「ヴラシオス」と読まれる。教会スラヴ語・ロシア語にはВласий(ヴラシイ)と転写され、日本正教会では奉神礼で「ウラシイ」と呼称される。イタリア語ではBiagio(ビアージョ)となる。
    英語読みだと、聖ブレイズ。とまあ、ややこしい。

  • 聖ヴラホ教会<br />Crkva svetoga Vlaha<br /><br />(観光公式HPより)<br />今日のこの建物は、1715年に完成したものです。ヴェネチアンバロック様式の装飾は、見る者を引きつけますが、これは、14世紀にロマネスク様式で建てられた古い教会のあった場所に、新しいものを建てることを望んだドゥブロヴニクの元老院の要求により、ヴェネチアの建築家、マリノ・グロペリが1706年から建設を始めて建てたものです。古い教会の建物は、まず地震で損傷を受け、1706年には、大火災で全焼してしまったのです。この火災では、全てが灰と化してしまいましたが、何らかの奇跡によって、聖ヴラホの銀の像だけが残ったのです。この像は、プリエコにある聖ニコラ教会で“避難生活”の年月を送った後、1715年、元の場所、すなわち彼の名前のついた教会に戻りました。その時この像に、次のような文がつけられました。「金や銀や真鍮の像は全て火に溶けてしまいましたが、この聖人の像だけは奇跡に守られて、損傷も受けずに、火事の教会から救い出されました。」と。これは、ドゥブロヴニクで最も重要な像の一つですが、この聖人が手に持つ建物の縮小版からは、古い教会の建築が見てとれます。聖ヴラホは、10世紀からドゥブロヴニクで崇められている、この町の守護聖人です。<br /> 年代記作家達は、10世紀、ヴェネチア人の船がグルージュとロックルム島の前に停泊した時、聖ヴラホがドゥブロヴニクを救ったと書いています。ヴェネチア人達が、食料と飲み物を調達したらすぐにレヴァントへ向けて出発すると言うと、ドゥブロヴニクの人々はそれを信じてしまったのです。ところがヴェネチア人達は、この機会を利用して町を見て回り、占領を計画してこの町の弱点を探ったのです。聖ヴラホは、教区教会の司祭、ストイコにこのことを知らせ、ヴェネチア人達の夜の突然の攻撃から町を救いました。司祭は聖ヴラホを、長い髭のある白髪の老人で、頭には司教の帽子をかぶり、手には杖を持っていた、と描写しています。城壁や塔に見られる像の姿です。2月3日は聖ヴラホの祭典で、この守護聖人の祝日は、ドゥブロヴニク市の日にもなりました。

    聖ヴラホ教会
    Crkva svetoga Vlaha

    (観光公式HPより)
    今日のこの建物は、1715年に完成したものです。ヴェネチアンバロック様式の装飾は、見る者を引きつけますが、これは、14世紀にロマネスク様式で建てられた古い教会のあった場所に、新しいものを建てることを望んだドゥブロヴニクの元老院の要求により、ヴェネチアの建築家、マリノ・グロペリが1706年から建設を始めて建てたものです。古い教会の建物は、まず地震で損傷を受け、1706年には、大火災で全焼してしまったのです。この火災では、全てが灰と化してしまいましたが、何らかの奇跡によって、聖ヴラホの銀の像だけが残ったのです。この像は、プリエコにある聖ニコラ教会で“避難生活”の年月を送った後、1715年、元の場所、すなわち彼の名前のついた教会に戻りました。その時この像に、次のような文がつけられました。「金や銀や真鍮の像は全て火に溶けてしまいましたが、この聖人の像だけは奇跡に守られて、損傷も受けずに、火事の教会から救い出されました。」と。これは、ドゥブロヴニクで最も重要な像の一つですが、この聖人が手に持つ建物の縮小版からは、古い教会の建築が見てとれます。聖ヴラホは、10世紀からドゥブロヴニクで崇められている、この町の守護聖人です。
     年代記作家達は、10世紀、ヴェネチア人の船がグルージュとロックルム島の前に停泊した時、聖ヴラホがドゥブロヴニクを救ったと書いています。ヴェネチア人達が、食料と飲み物を調達したらすぐにレヴァントへ向けて出発すると言うと、ドゥブロヴニクの人々はそれを信じてしまったのです。ところがヴェネチア人達は、この機会を利用して町を見て回り、占領を計画してこの町の弱点を探ったのです。聖ヴラホは、教区教会の司祭、ストイコにこのことを知らせ、ヴェネチア人達の夜の突然の攻撃から町を救いました。司祭は聖ヴラホを、長い髭のある白髪の老人で、頭には司教の帽子をかぶり、手には杖を持っていた、と描写しています。城壁や塔に見られる像の姿です。2月3日は聖ヴラホの祭典で、この守護聖人の祝日は、ドゥブロヴニク市の日にもなりました。

  • 聖ヴラホ教会<br />Crkva svetoga Vlaha<br /><br />ここにも彼の姿が。遠くてよく分からないが、左手に持っているのは、どうも、ドゥブロヴニクの町でしょう。町を守っている。

    聖ヴラホ教会
    Crkva svetoga Vlaha

    ここにも彼の姿が。遠くてよく分からないが、左手に持っているのは、どうも、ドゥブロヴニクの町でしょう。町を守っている。

  • 聖ヴラホ教会<br />Crkva svetoga Vlaha

    聖ヴラホ教会
    Crkva svetoga Vlaha

  • 聖ヴラホ教会<br />Crkva svetoga Vlaha

    聖ヴラホ教会
    Crkva svetoga Vlaha

  • 聖ヴラホ教会<br />Crkva svetoga Vlaha

    聖ヴラホ教会
    Crkva svetoga Vlaha

  • 聖ヴラホ教会<br />Crkva svetoga Vlaha<br /><br />主祭壇はもちろん、聖ブラホ(聖ブラシウス)。これが火事から無事に焼け残った像。左手に持っているのはやはり、ドゥブロヴニクの町。

    聖ヴラホ教会
    Crkva svetoga Vlaha

    主祭壇はもちろん、聖ブラホ(聖ブラシウス)。これが火事から無事に焼け残った像。左手に持っているのはやはり、ドゥブロヴニクの町。

  • ストラドゥン通り(Stradun)、通称プラツァ通り(Placa)。<br />聖ヴラホ教会前の広場からピレ門を見たところ。<br />大分、陽が暮れてきたかな。<br /><br />最後にどこか入れるところがあるかなと思い、近くのドミニコ会修道院へ。

    ストラドゥン通り(Stradun)、通称プラツァ通り(Placa)。
    聖ヴラホ教会前の広場からピレ門を見たところ。
    大分、陽が暮れてきたかな。

    最後にどこか入れるところがあるかなと思い、近くのドミニコ会修道院へ。

  • こちらはドゥブロヴニクの東側のゲート。ドミニコ会修道院の入り口を通り過ぎたみたい。

    こちらはドゥブロヴニクの東側のゲート。ドミニコ会修道院の入り口を通り過ぎたみたい。

  • その門付近から見えるドゥブロヴニクの旧港の様子。<br />少し、急がないと。

    その門付近から見えるドゥブロヴニクの旧港の様子。
    少し、急がないと。

  • 再び、門をくぐり、中に入ります。観光客が急にいなくなった感じ。もともと、観光シーズンではないので、観光客は少な目。団体やツアーで来る場合、ドゥブロヴニクの城塞都市の中で泊まれる収容人数の大きなホテルは限られていることもあると思う。クルーズ船の客も帰っていくだろうし。そういった意味では夜のドゥブロヴニクは本当にひっそりとする。<br /><br />修道院への入り口は、正面に見える斜めの緩やかな階段を上がったところ。

    再び、門をくぐり、中に入ります。観光客が急にいなくなった感じ。もともと、観光シーズンではないので、観光客は少な目。団体やツアーで来る場合、ドゥブロヴニクの城塞都市の中で泊まれる収容人数の大きなホテルは限られていることもあると思う。クルーズ船の客も帰っていくだろうし。そういった意味では夜のドゥブロヴニクは本当にひっそりとする。

    修道院への入り口は、正面に見える斜めの緩やかな階段を上がったところ。

  • ドミニコ会修道院<br />Dominikanski samostan<br /><br />修道院に入ると、いつも感じることですが、しーーんと静寂が張り付めた感じが好き。どこかで、誰かが今でも瞑想していると思って、物音ひとつ立てるのも、気を使う。(もちろん、現代では誰もしていませんが。)がやがやうるさい団体客とは一緒のタイミングでは入りたくない。雰囲気をぶち壊すので。

    ドミニコ会修道院
    Dominikanski samostan

    修道院に入ると、いつも感じることですが、しーーんと静寂が張り付めた感じが好き。どこかで、誰かが今でも瞑想していると思って、物音ひとつ立てるのも、気を使う。(もちろん、現代では誰もしていませんが。)がやがやうるさい団体客とは一緒のタイミングでは入りたくない。雰囲気をぶち壊すので。

    ドミニコ会修道院 寺院・教会

  • ドミニコ会修道院<br />Dominikanski samostan<br /><br />回廊も美しいが、建物よりも、どちらかというと美術館的展示が中心でした。

    ドミニコ会修道院
    Dominikanski samostan

    回廊も美しいが、建物よりも、どちらかというと美術館的展示が中心でした。

  • ドミニコ会修道院<br />Dominikanski samostan<br /><br />ここにもティッテアーノの作品があったので。<br /><br />TITIAN(1487/90-1576)<br />St. Blaises, St. Magdalene with Tobias Angel and the Donor<br /><br />やはり、守護聖人の聖ブラジウスがマグダラのマリアとともに描かれます。右の手を合わせている人物はこの絵の寄進者。

    ドミニコ会修道院
    Dominikanski samostan

    ここにもティッテアーノの作品があったので。

    TITIAN(1487/90-1576)
    St. Blaises, St. Magdalene with Tobias Angel and the Donor

    やはり、守護聖人の聖ブラジウスがマグダラのマリアとともに描かれます。右の手を合わせている人物はこの絵の寄進者。

  • ドミニコ会修道院<br />Dominikanski samostan<br /><br />14世紀のもの。「グレゴリウス9世」にちなんだものらしいが、説明がクロアチア語なので、よく分からない。

    ドミニコ会修道院
    Dominikanski samostan

    14世紀のもの。「グレゴリウス9世」にちなんだものらしいが、説明がクロアチア語なので、よく分からない。

  • ドミニコ会修道院<br />Dominikanski samostan<br /><br />Antonio De Bellis<br />The Virgin with St. Blaise, St. Francis and a picture of Dubrovnik before the great earthquake of 1667. (1657/8)<br /><br />1667年に起きた大地震前のドゥブロヴニクの様子が聖ブラジウスと聖フランシス、マリアとともに描かれている。

    ドミニコ会修道院
    Dominikanski samostan

    Antonio De Bellis
    The Virgin with St. Blaise, St. Francis and a picture of Dubrovnik before the great earthquake of 1667. (1657/8)

    1667年に起きた大地震前のドゥブロヴニクの様子が聖ブラジウスと聖フランシス、マリアとともに描かれている。

  • ドミニコ会修道院<br />Dominikanski samostan

    ドミニコ会修道院
    Dominikanski samostan

  • ドミニコ会修道院<br />Dominikanski samostan

    ドミニコ会修道院
    Dominikanski samostan

  • ドミニコ会修道院<br />Dominikanski samostan<br /><br />Nikola Božidarović<br />Annunciation, Dubrovnik, 1513<br />「受胎告知」<br /><br />

    ドミニコ会修道院
    Dominikanski samostan

    Nikola Božidarović
    Annunciation, Dubrovnik, 1513
    「受胎告知」

  • ドミニコ会修道院<br />Dominikanski samostan<br /><br />Lorenzo di Credi<br />Holy Family, 15-16世紀<br />「聖家族」<br /><br />ロレンツォ・ディ・クレディ(c1459-1537)はフィレンツェ生まれのイタリアの画家、彫刻家。レオナルド・ダ・ヴィンチに影響を与え、後には、反対にダ・ヴィンチから影響を受けた。

    ドミニコ会修道院
    Dominikanski samostan

    Lorenzo di Credi
    Holy Family, 15-16世紀
    「聖家族」

    ロレンツォ・ディ・クレディ(c1459-1537)はフィレンツェ生まれのイタリアの画家、彫刻家。レオナルド・ダ・ヴィンチに影響を与え、後には、反対にダ・ヴィンチから影響を受けた。

  • ドミニコ会修道院<br />Dominikanski samostan

    ドミニコ会修道院
    Dominikanski samostan

  • ドミニコ会修道院<br />Dominikanski samostan

    ドミニコ会修道院
    Dominikanski samostan

  • ドミニコ会修道院<br />Dominikanski samostan

    ドミニコ会修道院
    Dominikanski samostan

  • ドミニコ会修道院<br />Dominikanski samostan

    ドミニコ会修道院
    Dominikanski samostan

  • ドミニコ会修道院<br />Dominikanski samostan

    ドミニコ会修道院
    Dominikanski samostan

  • 聖イグナチオ教会(Saint Ignatius、Crkva sv. Ignacija Dubrovnik)へ続く階段。少し、インスタ映えする場所かも。<br />

    聖イグナチオ教会(Saint Ignatius、Crkva sv. Ignacija Dubrovnik)へ続く階段。少し、インスタ映えする場所かも。

  • 聖イグナチオ教会<br />Saint Ignatius<br />Crkva sv. Ignacija Dubrovnik<br /><br />登り切ったところにあるイエズス会の教会。

    聖イグナチオ教会
    Saint Ignatius
    Crkva sv. Ignacija Dubrovnik

    登り切ったところにあるイエズス会の教会。

    聖イグナチオ教会 寺院・教会

  • 聖イグナチオ教会<br />Saint Ignatius<br />Crkva sv. Ignacija Dubrovnik<br /><br />

    聖イグナチオ教会
    Saint Ignatius
    Crkva sv. Ignacija Dubrovnik

  • 聖イグナチオ教会<br />Saint Ignatius<br />Crkva sv. Ignacija Dubrovnik<br /><br />中に入れるかなあと恐る恐る戸を開けると、まだ、照明は付いていた。聖イグナチオの生涯を描いたフレスコ画が綺麗。この教会も西に主祭壇があるなあ。。。

    聖イグナチオ教会
    Saint Ignatius
    Crkva sv. Ignacija Dubrovnik

    中に入れるかなあと恐る恐る戸を開けると、まだ、照明は付いていた。聖イグナチオの生涯を描いたフレスコ画が綺麗。この教会も西に主祭壇があるなあ。。。

  • 聖イグナチオ教会<br />Saint Ignatius<br />Crkva sv. Ignacija Dubrovnik<br /><br />と言ってもごちゃごちゃして何が何か分からない。

    聖イグナチオ教会
    Saint Ignatius
    Crkva sv. Ignacija Dubrovnik

    と言ってもごちゃごちゃして何が何か分からない。

  • 聖イグナチオ教会<br />Saint Ignatius<br />Crkva sv. Ignacija Dubrovnik<br /><br />

    聖イグナチオ教会
    Saint Ignatius
    Crkva sv. Ignacija Dubrovnik

  • 城壁からの夕陽の眺め。すでに陽はアドリア海に沈んでしまっていた。。。<br /><br />

    城壁からの夕陽の眺め。すでに陽はアドリア海に沈んでしまっていた。。。

  • Trattoria Capriccio<br />Ul. kneza Damjana Jude 10, 20000, Dubrovnik, クロアチア<br /><br />夕陽が沈んでしまい、すっかり暗くなったので、この辺りでレストランを探します。<br />こじんまりしたところがいいなあと思いながら、この店に決定。

    Trattoria Capriccio
    Ul. kneza Damjana Jude 10, 20000, Dubrovnik, クロアチア

    夕陽が沈んでしまい、すっかり暗くなったので、この辺りでレストランを探します。
    こじんまりしたところがいいなあと思いながら、この店に決定。

  • Trattoria Capriccio<br /><br />前菜。観光地だけあって洗練された感じがにじみ出ている。

    Trattoria Capriccio

    前菜。観光地だけあって洗練された感じがにじみ出ている。

  • Trattoria Capriccio<br /><br />メインに日本では食べることがあまりないツナのステーキ。火の通し具合がよく美味しく頂きました。これを食べたあと、そういえば、最近、寿司食べてないなあと思い始め、無性に食べたくなった。

    Trattoria Capriccio

    メインに日本では食べることがあまりないツナのステーキ。火の通し具合がよく美味しく頂きました。これを食べたあと、そういえば、最近、寿司食べてないなあと思い始め、無性に食べたくなった。

  • ドゥブロブニクの旧港(Stara luka)<br /><br />夜の町をぶらぶら。

    ドゥブロブニクの旧港(Stara luka)

    夜の町をぶらぶら。

  • ドゥブロブニク大聖堂<br />Katedrala Uznesenja Blažene Djevice Marije<br /><br />夜の町をぶらぶら。

    ドゥブロブニク大聖堂
    Katedrala Uznesenja Blažene Djevice Marije

    夜の町をぶらぶら。

    聖母被昇天大聖堂 寺院・教会

  • 聖ヴラホ教会<br />Crkva svetoga Vlaha<br /><br />夜の町をぶらぶら。

    聖ヴラホ教会
    Crkva svetoga Vlaha

    夜の町をぶらぶら。

    聖ヴラホ教会 寺院・教会

  • 時計塔(Luža i Gradski zvonik)と聖ヴラホ教会(Crkva svetoga Vlaha)<br /><br />夜の町をぶらぶら。<br />今日3度目の同じ写真。

    時計塔(Luža i Gradski zvonik)と聖ヴラホ教会(Crkva svetoga Vlaha)

    夜の町をぶらぶら。
    今日3度目の同じ写真。

    ルジャ広場 広場・公園

  • ストラドゥン通り(Stradun)、通称プラツァ通り(Placa)。<br />聖ヴラホ教会前の広場からピレ門を見たところ。<br /><br />夜の町をぶらぶら。<br />今日はこのままゲストハウスに帰ります。

    ストラドゥン通り(Stradun)、通称プラツァ通り(Placa)。
    聖ヴラホ教会前の広場からピレ門を見たところ。

    夜の町をぶらぶら。
    今日はこのままゲストハウスに帰ります。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • comestaiさん 2020/08/16 14:31:47
    クロアチア・ドライブ旅行、イイですね!
    something like thatさん、

    こんにちは、comestai と申します。はじめまして!

    新型コロナで出入国が規制され、今は都内で自粛の日々で、皆様の旅行記を拝見しながら、次回のヨーロッパ・ドライブ旅行に思いを馳せています。

    ドブロヴニクの旅行記、とても参考になりました。
    スルジ山への車での行き方、午前中がベストとか、入り口にゲートとか無さそうなので、朝一番で訪れても良さそうですね。

    それから、ペリェシャツ橋の建設が中国の施工で建設中である事を知りました。
    現在、クロアチアのアジア人観光客は、日本を抜いて、韓国が一番みたいですが、中国も増えてきそうですね。

    スロベニア・クロアチアへは2017年、イストラ半島をドライブして、ロヴィ二やピランをはじめアドリア海の美しい街を巡りました。クロアチアは国土が長いので、いつかドブロヴニクIN、ザグレブOUTで、またレンタカーで巡りたいと考えていたところです。

    something like thatさんは、ドイツ在住との事。
    ヨーロッパは高速道路が発達しているので、いろいろと行けて良いですね。
    ドライブ旅行記を参考にさせて頂きたく、フォローさせて頂きました。

    早く新型コロナが収まって、旅行ができますように!

    comestai

    something like that

    something like thatさん からの返信 2020/08/17 06:47:15
    RE: クロアチア・ドライブ旅行、イイですね!
    comestaiさん

    初めまして。訪問していただき、ありがとうございます。クロアチアはいいところですよね。私もまた行ってみたいです。この夏はチャンスでもあったのですが、長い自粛生活のせいで、モチベーションが上がらず。3月以降、旅行に行っていません。パンデミック前は、仕事でも出張でほぼ毎週飛行機に乗ってあちこち行っていたのが嘘のように、今は、ずっと自宅で仕事しています。

    私の旅行記のアップは今のところ2年前のもので、古い情報で申し訳ないですが参考にしてもらえるとうれしいです。と言ってもドライブでの旅行が最近は減ってきました。

    日本は暑そうですね。ご自愛ください。

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