![本当はハワイ島を考えていたのだが、申し込むタイミングが遅くなってしまいボツに。代わりにまだ近場で行っていない所にサイパンがあった、というわけで気軽に申し込んだのだが、これがなかなか”重い”島だった。まずはサイパンの概要から。<br /><br />サイパンはグアムと同様、海洋民族チャモロ人が住み着いた島で、元々どこの国のものでもなかったが、1521年マゼラン率いるスペイン探検隊がグアム・サイパンを発見、領有を宣言する。1898年、米西戦争に負けたスペインは賠償金を支払うためサイパン島をドイツに売却、ドイツ領となった。1914年、WW1のドサクサに紛れ、ドイツからサイパン島を奪って日本の統治となる。南方政策により、日本から多くの人々が移住し、サトウキビ栽培や精糖会社が進出、世界恐慌で失敗した会社もあったが、成功した会社もあった。<br /><br />1944年7月9日、日本軍を追い落としサイパンを占領したアメリカは翌年、サイパンをアメリカを施政権国とする国連信託統治領とするが、1975年に行われた住民投票によりアメリカの自治領となることを決定、1986年に「北マリアナ諸島連邦」として正式にアメリカの自治領となり現在に至る。<br /><br />島の面積は185km3、伊豆大島2ツ分のサイズ。1時間もあれば1周できる。人口は69,221人。ほとんどの人が観光・サービス産業に従事。6月~10月は雨期、台風の巣に近く、台風が発生したら旅行はあきらめるしかない。高温多湿のためエアコンは一晩中入れたまま、窓の外は結露するほど!11月~5月は乾期なので、旅行を計画するなら絶対こちらをおすすめしたい。<br /><br />表紙の写真はプンタン・サバネタ 通称バンザイクリフと言われる断崖。数少ないサイパンの名所となっているが、今から76年前の1944年6月に上陸した米軍の投降の呼びかけに応じずに多くの日本人がここから身を投げた悲劇の場所である。<br />](https://cdn.4travel.jp/img/thumbnails/imk/travelogue_album/11/61/92/650x_11619202.jpg?updated_at=1708411306)
2004/08/25 - 2004/08/29
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chiaki-kさん
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本当はハワイ島を考えていたのだが、申し込むタイミングが遅くなってしまいボツに。代わりにまだ近場で行っていない所にサイパンがあった、というわけで気軽に申し込んだのだが、これがなかなか”重い”島だった。まずはサイパンの概要から。
サイパンはグアムと同様、海洋民族チャモロ人が住み着いた島で、元々どこの国のものでもなかったが、1521年マゼラン率いるスペイン探検隊がグアム・サイパンを発見、領有を宣言する。1898年、米西戦争に負けたスペインは賠償金を支払うためサイパン島をドイツに売却、ドイツ領となった。1914年、WW1のドサクサに紛れ、ドイツからサイパン島を奪って日本の統治となる。南方政策により、日本から多くの人々が移住し、サトウキビ栽培や精糖会社が進出、世界恐慌で失敗した会社もあったが、成功した会社もあった。
1944年7月9日、日本軍を追い落としサイパンを占領したアメリカは翌年、サイパンをアメリカを施政権国とする国連信託統治領とするが、1975年に行われた住民投票によりアメリカの自治領となることを決定、1986年に「北マリアナ諸島連邦」として正式にアメリカの自治領となり現在に至る。
島の面積は185km3、伊豆大島2ツ分のサイズ。1時間もあれば1周できる。人口は69,221人。ほとんどの人が観光・サービス産業に従事。6月~10月は雨期、台風の巣に近く、台風が発生したら旅行はあきらめるしかない。高温多湿のためエアコンは一晩中入れたまま、窓の外は結露するほど!11月~5月は乾期なので、旅行を計画するなら絶対こちらをおすすめしたい。
表紙の写真はプンタン・サバネタ 通称バンザイクリフと言われる断崖。数少ないサイパンの名所となっているが、今から76年前の1944年6月に上陸した米軍の投降の呼びかけに応じずに多くの日本人がここから身を投げた悲劇の場所である。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 3.0
- 交通
- 3.5
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 交通手段
- レンタカー 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
-
8/25
19:30に家を出発する。4月に購入したばかりのBL5にはETCという頼もしいギアが装着済みで、これで成田まで7つもある料金所も軽く突破する。今回、前泊したマロウドインターナショナルホテル成田に到着したのはなんと22:30。さすがはETC&BL5!
マロウドインターナショナルホテル成田は、部屋数800という成田では最大級のホテルだそうだが、なんとなくビジネスホテルがそのまま大きくなったホテルといった印象を受けた。でも、部屋は広くて、掃除も行き届いており、お湯の出もよかった。(写真は26日朝撮影) -
8/26
ホテルの朝食はバイキング。これから始まる食い倒れ旅行を暗示するスタート。レストランの窓からは着陸する747が目の前に見える。支払いは朝食が付いて2人で13.650円(当時)。7:45にホテルのシャトルバスに乗り、第1ターミナルを目指す。 -
南ウィングFカウンターでチェックイン。今回のキャリアはNW。空港内はそこそこの混みよう。NW76便は定刻より早く、10:20にゲートを離れ成田の空に飛び立った。
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最初に飲み物が配られ、続いて機内食。メインはカレー、これにサラダ、パン、デザートがつく。以前よりちょっと良くなった感じ。ちなみに帰りはカレーに替わってチャーハンとなった。
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食事のあとは、アテンダントさんが配ってくれる出入国カード(左)の記入と税関申告書(右)の作成。
*今は電子渡航認証システム(ESTA)を取得されている方は 出入国カードの提出が免除されるようです。 -
NW76便の機体はちょっと古めの747-200B。映画は客席前方のスクリーンに投影するタイプ。窓の外には積乱雲が。なお、シートはエコノミーだが、短時間のフライトなので、これで充分。
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成田からたった3:30でサイパン国際空港到着。時差はたったの1時間。迎えのバスで空港を出発するが外の様子が変。なんじゃ、この椰子の木は。
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空港から15分ほどで第1ホテル・サイパンビーチに到着。ちょっと古めのリゾートホテルであるが、なんといっても立地がよろしい。部屋の広さは普通。バス・トイレが広いのは嬉しかった。ただ、床に敷かれたカーペットの汚れが気になった。
なお、現在このホテルはフィエスタリゾート&スパ・サイパンと言う名のホテルに変わっているので、クチコミはありません。(最終日に撮影) -
部屋はこんな感じ。まあ普通です。
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窓の外はガーデンとフィリピン海が良い感じ。
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眺望その1
吹き抜けの6F通路から見たガラパンの町。 -
眺望その2
台風16号チャバが通過した後だったり、歩道が工事中だったので、水たまりがあったり、ほこりっぽかったが、なんとなくアメリカの田舎町の雰囲気。 -
眺望その3
正面に見える山がタボチョ山といい標高473mのサイパンで一番高い山。
*後述する Battle of Saipan ではガラパンの町では市街戦が、タボチョ山では山岳戦が行われた。 -
眺望その4
右端にみえるタワーはハファダイホテル・タガタワー。サイパンで一番高い建物。(全て最終日撮影) -
海側はこんな感じ。小さいながらラナイもあった。
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右側建物はダイイチの北棟。そのむこうにあるのはハイアット・リージェンシー・サイパン。
事情があって、今晩の夕食は第一ホテル前にある日本食堂「金八」。カミさんはミソラーメン、私はステーキ定食と相成った。初日からラーメンというのは初体験。なお「レストラン金八」は日本人経営の日本式食堂であり、タタミの上にあがって食事が出来た。支払いがドル以外注文から支払いまで全て日本式という気楽さ。金八を出たあとガラパンのメインストリートにあるABCストアでちょっとしたお買い物をしたあと、ホテルに戻る。 -
8/27
朝、目覚めると雨。朝風呂に入ったあと、日本から持ち込んだ「おかゆ」と昨夜ABCストアで購入したサンドイッチを食す。8:15にホテル内のニッポンレンタカーでニッサン・セントラを受け取るとただちに発進する。このあとすぐシャワーとなりワイパーはハイスピードでやっと前が見える位の状況となる。
ウェストコーストハイウェーにはところどころ川のように水が流れており、ときおり前の車がストップ。やけに慎重に走っているなと思ったら水と一緒に石や木材はもちろん、なんと椰子の実まで流れてくる。これをよけながらのドライブ。なるほどこりゃトラックや4WDが重宝される訳ですわ。まるでサファリの川渡りシーンであるが写真が無いのが残念。
結局バナデロも、イスレタ・マイゴ・ファンも、プンタン・サバネタも雨の中、ほとんど車から出られずじまいで、結局ガラパン方面へUターンするしかなかった。よって、この間の写真は無し。 -
レンタルフィーは、フルカバーの保険料と併せて2日間で約$126。まあ、こんなものだろう。写真は雨が小降りになったススペ辺りの公園?で撮影したニッサン・セントラ。日本ではサニーですから、とても扱いやすかった。ただ、集中ドアロックがついておらず、ちょっと不便。
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ガラパンの手前まで戻り、ワインセラーという店でワインを購入してから、すぐ隣にあるコーヒーケアというカフェでコーヒータイム。カプチーノをたのんだら「ラージorスモール」と聞くので、マグカップを想像して「ラージ」と注文。出てきたのはご覧のとおりのビールジョッキに注がれたカプチーノ。なお、たのまないのに出てきた水は、外国ではめずらしくサービスらしい。さらに手作りのケーキ(おいしかったです)までたのんでしまい、ほぼ満腹。
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ススペ地区にあるマウント・カーメル大聖堂に寄る。グアム同様サイパンもカトリック教徒が多い。
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ワールドリゾートサイパンの金剛飯店にてランチバイキング。 $10とは思えない内容で、デザートのアイスクリームが食べられないほど。かなり満腹。
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砂糖王公園に寄る。ここは、1914年から1944年まで日本が統治したことを示す公園となっており、園内には製糖業で成功した松江春次の像や、SL、そして彩帆香取神社がある。
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これが当時のSL。手入れが悪くボロボロ。
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彩帆香取神社。木は倒れ、足下はドロドロの状況。
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北マリアナ連邦博物館。もともとは日本が建てた病院だったという。残念ながら台風の後始末で休館。
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今日のディナーは昨日予約した第1ホテルで開催されるジョイフルディナーショー。晴天時はホテルの庭で行うが、今日は雨天のため庭のすみにあるハイビスカスホールで開催された。
まずは18:30からバイキング。ビーフの味付けがとてもおいしく、お昼に続いて大満腹。7時頃からバンドが5人、ダンサーが男4人、女7人で行われるディナーショーの始まり。女性ダンサーの優雅な踊り、男性ダンサーの力強い踊り、そしておなじみファイアーダンス。最後にはこれまたおなじみのお客さんの強制参加でショーは盛り上がる。
20:30、ショー終了。腹ごなしを兼ねて徒歩でDFSサイパンへ。ブランド物は興味が無いのでコナコーヒーとハーブティーなどを購入し、ホテルへ戻る。 -
8/28
8:30 雨が止んでいたので、再び北部へ向かう。道は水たまりも無くすいており、12分ほどで昨日雨のためUターンしたバナデロ到着。写真はサイパン島北端の岬付近。所謂バンザイクリフ。 -
ここは Battle of Saipan 最終地点。日本人によって建てられた様々な慰霊碑が林立している。
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こんな慰霊碑もあった。
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表紙の写真を再掲。プンタン・サバネタ 通称バンザイクリフと言われる断崖。
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右側はこんな感じ。曇天にもかかわらず綺麗な海だ。ここで76年前、数多くの日本人が日本の方角を見ながら身を投げた。ここで Battle of Saipan (サイパンの戦い)についてスタディ。
概要
サイパンの戦いは、太平洋戦争中、1944年6月15日から7月9日に行われたアメリカ軍と日本軍のマリアナ諸島サイパン島における戦闘。斎藤義次中将が指揮する日本軍が守備するサイパン島に、ホランド・スミス中将指揮のアメリカ軍が上陸し、24日間の戦闘の末に日本軍が全滅した戦争。 -
詳細・興味の無い方は飛ばしてください。
アメリカ軍司令部は4月から作戦準備に入り、上陸部隊は第2海兵師団と第4海兵師団で約7万1千人、他に陸軍第27歩兵師団などを予備兵力として準備し、日本の陸軍2万8千人、海軍が陸戦隊と兵站部隊併せて1万5千人で守るサイパン島に向けて6月6日に出撃した。
6月11日、アメリカ軍艦載機によるサイパン島に対する空襲が行われ、13日からは戦艦8隻、巡洋艦11隻がサイパン島に接近、砲弾合計18万発もの艦砲射撃が開始された。
6月15日、7時15分にアメリカ軍は、大型上陸用舟艇70隻、小型100隻、LVT68両が、上陸支援艦24隻の支援射撃の下にチャラン・カノア南北の海岸に殺到した。同海岸を守っていた日本軍は連日の砲爆撃で損害は被っていたが、残った火力で上陸部隊に対し激しい集中砲火を加えた。上陸開始からわずか1時間でアメリカ軍の死傷者は4名の大隊長も含めて1,000名を超えていた。 予想外の日本軍の反撃に遭ったアメリカ軍は艦砲射撃の支援でかろうじて戦線を支えた。
6月16日、アメリカ軍は輸送船35隻、LST40隻、上陸用舟艇多数で膨大な量の物資を揚陸し、戦力の充実を図り激しい攻撃を加えてきた。アメリカ軍の攻撃を何回も撃退してきたススべ崎の陣地も攻略され、アギガン岬を死守してきた守備隊は激しく抵抗したが、包囲されて壊滅しアギガン岬も占領された -
同日夜、日本軍の虎の子である中戦車、軽戦車30両を先頭に総攻撃が行われたが、アメリカ軍はM4中戦車を多数揚陸済みであり、他にも大量のM3 37mm砲と新兵器バズーカと対戦車砲を搭載したM3 75mm対戦車自走砲も待ち構えており、装甲の薄い日本軍の戦車は次々と撃破され、総攻撃は失敗に終わった。アメリカ軍も予想外の戦死傷者を出して、予備の第27歩兵師団の全部隊をサイパンへの投入を余儀なくさせられている。
6月17日、夜明けよりアメリカ軍は激しい砲爆撃の援護の下で全線に渡って前進を開始した。 海岸付近に残存していた部隊は圧倒的な火力の前に後退を余儀なくされた。
6月18日、さらに戦力を充実させたアメリカ軍が9時から攻撃を開始、昨日日本軍より奪還されたヒナシス丘陵を再度占領すると、そのわずか1時間後にはアスリート飛行場も占領した。
6月19日~20日、アメリカ機動部隊と日本機動部隊の決戦となるマリアナ沖海戦では、第一機動艦隊は空母3隻と艦載機の大半を失う惨敗を喫しマリアナ海域より退避した。また同時に基地航空隊も目ぼしい戦果を挙げる事なく壊滅し、いよいよマリアナ周辺の制空・制海権はアメリカのものとなり、孤軍奮闘するサイパンの日本軍を応援する援軍も、弾薬、食料など兵站の確保も出来なくなった。 -
6月22日、アメリカ軍はいよいよタポチョ山の防衛線に対して攻撃を開始した。防衛戦中核の230高地、343高地、286高地にも戦車150両を主軸として猛攻撃を加えてきた。日本軍守備隊がタポチョ山でアメリカ軍の進撃をよく足止めしていた6月24日に井桁参謀長は大本営に増援と航空支援を要請しているが、しかし大本営の方針はサイパン放棄であり、増援は送れない旨返電している。 サイパンは見捨てられた。
6月28日、アメリカ軍は、サイパン最大の市街地ガラパンに攻撃を開始、市街戦が展開されたが、日本軍には食糧も飲料水もなく3日間飲まず食わずでの戦いとなり、守備隊主力の第118連隊はほぼ全滅した。
-中略-
7月4日、ホーランド・スミス中将はいよいよ日本軍を撃滅する時が来たと考え、サイパン島を東西に分割し、西側を第27歩兵師団、東側を第4海兵師団が、それぞれがマッピ岬に向けて進撃する事とした。 アメリカ軍の攻勢が強まる中で日本軍司令部は今後の方針について協議し、さらに島の北端まで撤退するか、全軍挙げて玉砕攻勢を行うかの二者択一に迫られたが、7月7日をもって全軍で玉砕突撃する事に決した。 -
7月5日に南雲中将と斎藤中将は全兵士に対して総攻撃の命令を行った後、自決する。残存部隊は陸海軍部隊の他、警防団員、青年団、その他一般邦人も入り混じった混成部隊でおおよそ3,000名の部隊であったが、武器が無い者も多く、棒に銃剣を結び付けたものや、石を持っただけの者もあった。突撃部隊は3軍に分けられ海軍基幹部隊は海岸沿いに、陸軍基幹部隊の2軍は中央と山地に分かれて突撃することとした。海軍部隊には残存戦車5両が先頭を進む事になっていた。
7月7日、3時にアメリカ軍が”バンザイ突撃”と名付けた突撃が行われた。 ありとあらゆる火器や武器を使用した戦闘は昼まで続いたが、突撃部隊は壊滅し、日本軍の組織的抵抗は終わりを告げた。
アメリカ軍は7月9日には日本軍と在留邦人を北端に追い詰め、日本兵や在留邦人の多くが自決したり、ガケや岸壁から身を投げた(バンザイクリフ・スーサイドクリフ)。この日を以って、アメリカ統合遠征軍司令リッチモンド・K・ターナー中将はサイパン占領を宣言した。(以上Wikipediaより一部参照)
日本軍の戦死者 約30,000人
捕虜 921人
民間人死者 8,000~10,000人
アメリカ軍の戦死者 3,441人
戦傷者 11,685人
サイパン島の日本軍が民間人の自決を禁止しなかったことも原因の一つとされるが、今後の戦争では民間人や非戦闘員が犠牲となる先鞭となる戦いでもあった。
合掌 -
このあとすぐにホテルへ戻り、9:30のツアーバスにピックアップされる。バスに乗せられてついた先はサイパン港。やってきたのは海中展望船。
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海中展望船の下半分は両側に窓があり、海の中が簡単に見えるという仕掛け。お客は少なかった
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最初に見たものは米軍の上陸用舟艇の残骸。
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そして、日本の貨物船の残骸。どちらも魚の良いすみかとなっており、時間の経過を感じさせる。
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船上からは、サイパンで一番人気のマニャガハ島が見えた。
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11:30にバスはホテルへ戻る。いい加減食べ過ぎだったので昼は部屋でおかゆを食す。一息ついてから、車でまず、アメリカン・メモリアル・パークへと立ち寄る。又雨が降ってきた。ここは太平洋戦争終結50周年を記念して1994年に造られた公園。翻っている旗は、米国国旗(上に切れた)、陸軍、海軍、空軍、それに海兵隊の旗。
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雨が降り続いていたので、ススペにあるジョーテン・ショッピングセンターへ行く。ジョーテン・ショッピングセンターはスケールこそ小さいがサイパン版Kマートといった感じの店で、衣類、日用品、電気製品、食料品、お土産品などなんでも売っているお店。今回のお土産品はほとんどこのお店で間に合った。
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やっと雨が止んだので、3度目の北部行き。レンタカーでないと出来ない芸当。写真はイスレタ・マイゴ・ファン、別名バードアイランドという綺麗な島。
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マッピ山の山頂までは車で10分ほど。道の行き止まりがラデラン・バナデロ、別名スーサイドクリフ(自殺崖)という名の断崖。ここでも米軍の捕虜となることを恥じた日本兵や民間人がたくさん飛び降りた。
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眼下にはプンタン・サバネタや、旧日本軍のつくった飛行場跡が見える。
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マッピ山から下りて行く途中の道路。観光道路なので整備状況も良好で路肩も広い。前方にはタナバグ・ラグーンが見えた。晴れていたら息をのむ場所だ。
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プンタン・サバネタにあった”死と義務”というタイトルがついた案内板。文章はこの戦争にからんだ人たちの言葉が英語と日本語で書き込まれている。写真の断崖はラデラン・バナデロだが、中央の岩がまるで人面岩のよう。
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17:30にホテルに戻り一息いれ、18:30に予約したハイアット・リージェンシーのイタリアンレストラン”ジョバニス”へ。窓辺の席から綺麗に手入れされた庭園を眺めながら、イタリアン・フルコースを堪能する。どの料理もボリュームがあり、最後のメインデッシュはやっとのことで胃の中へ納めた。デザートはパス。最後のコーヒーまで大きなカップで出てきたのにはまいった。超満腹。
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8/29
今日は朝から晴れ。だいたい何処へいっても最後の日は良いお天気になるのがおきまりのパターン。チェックアウトは12:00なので今日の予定は無し。昨日のディナーが重かったので、朝飯は抜き。レンタカーとレンタルフォンを返却したあと、浜辺や街を散歩して適当に時間をつぶす。ちなみにアラモレンタカーへは$126、R&Cツアーズのカウンターで借りたアイランドフォンは$33であった。なお、両方ともカードで支払う。 -
11:00に第一ホテルの”しんばし”でサンデーブランチをやっているとの情報を得ていたので、行ってみたが、洋食、中華、和食、デザート、フルーツ、ドリンクなど、全て食べ放題、飲み放題のスーパーバイキング!! 飲んだものはシャンペン、食べたものは主として寿司、刺身など。これで1人$20とはビックリである。
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12:30 迎えのバスがやってきた。まず連れていかれたのはDFSサイパン。なんとここで4時まで休憩とのこと!聞けばNWが機器の故障のため2時間以上遅れたためだという。もう買う物も無いのでティファニーの前のソファーで仮眠する。
16:20 サイパン国際空港にチェックイン。NWよりおわびとして$10の食事券などが出たので空港内のラーメン屋で使いきる。 -
18:30 やっと飛んできたNW73。この時、空港には他に飛行機は1機もなく、ホッとしたというか嬉しく感じた。
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19:30 NW73便は成田に向けてテイクオフ。
22:00 成田空港着。
22:37 マロウドインターナショナルホテル成田でBF5に乗り換え出発。
25:25 帰心矢のごとく帰宅する。
ということで、サイパン旅行も無事終了しました。お天気には恵まれなかったんですが、台風に遭わなかっただけでもラッキーでした。(3日前に16号、2日後に18号がサイパン付近を通過!)雨期と乾期の違いもよくわかり、良い勉強になりました。今回の旅行の感想は、とにかくよく食べたことにつきます。家にかえって体重計に乗ったらみごとに+2kg! 今回の旅行は心も、身も重くなった旅行でした。
これで「2004年 サイパン旅行記」は終了です。本日も古い旅行記を最後までご覧いただきありがとうございました。
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