2018/05/20 - 2018/05/20
1202位(同エリア2519件中)
something like thatさん
- something like thatさんTOP
- 旅行記357冊
- クチコミ161件
- Q&A回答1件
- 348,101アクセス
- フォロワー24人
ベルリン。東西ドイツ統一で、この20年間で最も劇的変化のあった都市のひとつとして挙げられる。
今でもあちこちで何らかの建物が建設中でなんか落ち着かないが、第二次世界大戦時や冷戦時代の面影を今でも見ることのできる唯一の都市と言っても過言ではない。この都市の真ん中に壁が存在していたなんて、今では信じられないくらい。
この旅行記は2日目。その壁を見に行きます。
最後のテロのトポグラフィー(Topographie des Terrors)の個所では、やや暴力的な殺害シーンの写真を載せていますので、見たくない人は飛ばしてくださいね。
---------------------
1日目
国会議事堂(Reichstagsgebäude)
ブランデンブルク門(Brandenburger Tor)
虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑(Denkmal für die ermordeten Juden Europas)
総統地下壕跡(Führerbunker)
ポツダム広場(Potsdamer Platz)
絵画館(Gemäldegalerie) ※展示物は別の旅行記で紹介予定
戦勝記念塔(Siegessäule)
※Curry 36 (Bahnhof Zoo)
カイザー・ヴィルヘルム記念教会(Kaiser-Wilhelm-Gedächtnis-Kirche)
2日目
ゲーデンスケッテ・ベルリナー・マウアー(Gedenkstätte Berliner Mauer)
Dokumentationszentrum Berliner Mauer
ベルリンテレビ塔(Berliner Fernsehturm)
聖マリア教会(St. Marienkirche) ※閉館。外からのみ。
ベルリン大聖堂(Berliner Dom)
旧国立美術館(Alte Nationalgalerie) ※展示物は別の旅行記で紹介予定
ボーデ博物館(Bode-Museum)
ジャンダルメンマルクト(Gendarmenmarkt)
チェックポイント・チャーリー(Checkpoint Charlie)
テロのトポグラフィー(Topographie des Terrors)
壁監視塔(Alter Mauerturm)
ポツダム広場(Potsdamer Platz)
3日目
イースト サイド ギャラリー(East Side Gallery)
ペルガモン博物館(Pergamonmuseum)
新博物館(Neues Museum)
---------------------
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
ゲーデンスケッテ・ベルリナー・マウアー
Gedenkstätte Berliner Mauer
中央駅からSバーンを乗り継いでBerlin Nordbahnhofに到着。そこから1ブロック分北に歩く。写真は、ベルナウワー通り(Bernauer Straße)にあったベルリンの壁の模型。東西に延びるこの通りは、壁に関する不幸な出来事は最も多く、歴史の証人として、象徴的な場所。写真の模型では上が東に相当し、右側が東ドイツ、左が西ドイツ。2重の壁があり間には緩衝地帯があった。写真したに見られるように、壁はここで直角に曲がっていた。 -
ゲーデンスケッテ・ベルリナー・マウアー
Gedenkstätte Berliner Mauer
その緩衝地帯を歩く。今では緑地公園として整備されている。 -
ゲーデンスケッテ・ベルリナー・マウアー
Gedenkstätte Berliner Mauer
西側の壁。 -
ゲーデンスケッテ・ベルリナー・マウアー
Gedenkstätte Berliner Mauer
ベルリンの壁(独: Berliner Mauer)
1961年から1989年までベルリン市内に存在した壁である。
冷戦下でドイツは東西陣営に分裂していたが、往来が自由であったベルリン市内の境界線を経由して東側から西側への人口流出が続き、東ドイツ(ドイツ民主共和国
(DDR))に深刻な影響を及ぼした。東ドイツは自国の体制を守るべく、1961年8月13日、突如として東西ベルリン間の通行をすべて遮断し、西ベルリンの周囲をすべて有刺鉄線で隔離、のちにコンクリートの壁を作った。
このベルリンの壁はドイツ分断の象徴であり、かつ東西冷戦の象徴でもあった。そして1989年秋の東欧革命にともなう東ドイツ国内の混乱のなか、同年11月9日に東ドイツ政府の不用意な発表から、壁の国境検問所がなし崩し的に無効になり、やがてドイツ社会主義統一党(SED)の国家権力維持の象徴だった壁は、崩壊しました。これは「ベルリンの壁崩壊」と呼ばれている。そして壁の崩壊と共に独裁政治が終わる。(Wikiより) -
ゲーデンスケッテ・ベルリナー・マウアー
Gedenkstätte Berliner Mauer
西側の壁。壁の上部には、手をかけられないように、円柱状のパイプが乗せられている。
東西ドイツ統一に繋がるベルリンの壁崩壊のきっかけは、実は、「うっかり発言」がきっかけ。その発言をしたシャボフスキー氏は2015年に死去。 -
ゲーデンスケッテ・ベルリナー・マウアー
Gedenkstätte Berliner Mauer
ベルリンの壁崩壊につながる「うっかり発言」(Wikiより)
1989年11月9日、この日エゴン・クレンツ率いる社会主義統一党中央委員会総会で翌日から施行予定の出国規制を緩和するための新しい政令案を決定した。その日の夕方、クレンツ政権の広報担当者シャボフスキーは、この規制緩和策の内容をよく把握しないまま定例記者会見で「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表し、いつから発効するのかという記者の質問に「私の認識では『ただちに、遅滞なく』です」と答えてしまった。シャボフスキーは、中央委員会の討議には出席しておらず、クレンツからも細かい説明もなく、また中央委員会で攻撃に曝されていたことで、クレンツ政権内部が混乱したことがその原因とされる。この記者会見を各国メディア及び東ドイツ国営テレビ局などが報道し、同日夜には東ベルリン市民が東西ベルリン間の7カ所の国境検問所に殺到した。旅行自由化の政令は実際は査証発給要件を大幅に緩和する法律であり越境にはあくまで査証が必要であったが、殺到した市民への対応に困った国境検問所の国境警備隊の現場指揮官は、政府からの指示もなく、11月9日午後10時45分に止む無く国境ゲートを開放した。査証の確認なども実行されず、ベルリンの壁はこの時に崩壊した。 -
ゲーデンスケッテ・ベルリナー・マウアー
Gedenkstätte Berliner Mauer
「追悼記念の窓」
壁で命を落とした人々を偲ぶ個々の追悼場所。壁が崩壊する直前に亡くなった人がいることが悲しい。もう少し待っていれば。。。 -
ゲーデンスケッテ・ベルリナー・マウアー
Gedenkstätte Berliner Mauer -
ゲーデンスケッテ・ベルリナー・マウアー
Gedenkstätte Berliner Mauer -
ゲーデンスケッテ・ベルリナー・マウアー
Gedenkstätte Berliner Mauer -
Dokumentationszentrum Berliner Mauer
ベルリンの壁記念センター
旧西ドイツ側に建つ記念館。屋上に上がれば、当時の壁の構造を見学することができる。 -
Dokumentationszentrum Berliner Mauer
ベルリンの壁記念センター
有刺鉄線を挟み会話する2人。 -
Dokumentationszentrum Berliner Mauer
ベルリンの壁記念センター
向こうが東ドイツ側。手前が西ドイツ側。中央の緩衝地帯にたつ監視塔。西側から壁に近づくことができた。ベルリンの壁記念センター 博物館・美術館・ギャラリー
-
ゲーデンスケッテ・ベルリナー・マウアー
Gedenkstätte Berliner Mauer
和解の礼拝堂(贖罪礼拝堂)
Kapelle der Versöhnung
贖罪礼拝堂は1999年、ベルリンの壁の崩壊10周年に棟上式が行われました。1961年の壁建設による東西ベルリンの分断後、1894年に建てられた歴史ある教会は立入禁止地域に属していたため、往来できなくなりました。そのため、1965年、行き所を失った教会の信者のために、新たな集会所がベルナウアー通りに建てられました。そして1985年、立入禁止区域にあった教会は、ついに破壊されました。1989年に壁が開いてから数年後の1995年、「壁地域の地所」は礼拝堂に使用するという条件で教会に返却されました。昔の教会の鐘と祭壇が幸運にも無事に残り、鐘は元の場所で使用され、祭壇も新礼拝堂に置かれています。(公式WEBより) -
ゲーデンスケッテ・ベルリナー・マウアー
Gedenkstätte Berliner Mauer
和解の礼拝堂
Kapelle der Versöhnung -
ゲーデンスケッテ・ベルリナー・マウアー
Gedenkstätte Berliner Mauer
Border House Bernauer Strasse 10a
ここにアパートが建っており、その後が残っている。向こうに見える壁の骨組みからわかるように、このアパートはちょうど、壁の上に建っており、窓の外は西ドイツであり、町の遮断が最も衝撃的な形で表れている地区として知られている。家族、友だち、近所の住民などが、ある日突然、強制的に切り離されてしまった。アパートの2階の窓から逃げ出す劇的な逃亡は今でも写真で残っている。西ベルリン側にある全ての窓が壁で塞がれ、約2000人の住民が強制退去を受けるまで、多くの家族が自由を求めて逃亡した。 -
ゲーデンスケッテ・ベルリナー・マウアー
Gedenkstätte Berliner Mauer
壁に続くブロックは、逃亡の軌跡をしめすもの。1964年「トンネル57」
(以下Wikiより)
1964年10月に、トンネルを掘って57人が西へ逃れた。計画したのは西側の冒険家で工科大学の学生も含めて組織的に行われ、西からトンネルを掘り、東側では西の連絡員が手引きした大掛かりな脱出作戦であった。場所はベルナウ通りを挟んで西側のパン屋の地下室から3m下へ掘り、そこから145m進んで、ベルナウ通りの向こう側のある家の裏庭の今にも倒壊しそうな屋外トイレまで半年をかけて掘った。穴の縦はおおよそ70cmで、掘り出した土は西側のパン屋の部屋に積み上げていった。連絡員の間では同年の東京オリンピックにかけて「トーキョー作戦」と呼ばれた。1人は入口の見張りとして東側に合法的に入り東側の国境警備隊の動きを見張った。そして西側の連絡員が暗号電報を使って連絡を取り合い、越境を希望する者を探し、トンネルの入口付近の家に案内し、西側から双眼鏡で監視して尾行されていないことを確認してから無線で東側の家の中にいる者に連絡してドアを開けて家の中に入れた(この時の合言葉はトーキョーであった)。そして裏庭から屋外トイレに行き、便器を取り外して下のトンネルに入り、およそ11分から30分かけて西側のパン屋の地下室に達した。時間がかかったのは途中で水が深くなって息をするのが難しい地点があったことと、トンネルに入った人々は一様に恐ろしさに震え、泣き出す女性もいて、無遊状態になって足取りが覚束ない人もいたからであった。それだけに脱出した後は激しい感情の波が押し寄せたとされている。こうして10月3日に28人、4日に29人が西ベルリンに逃れた。内訳は男性23人、女性31人、子供3人であった。しかし5日朝にシュタージに発見されて、裏庭で撃ち合いとなり東側兵士が1人撃たれて死亡したが、西側の4人はトンネル入口のトイレから下へ通じ、そのまま西へ戻ることが出来た。この直後に東ドイツ政府は東西間の境界付近の保安活動は国家保安省(シュタージ)のみで行うことを決めた。この作戦行動は後に助かった57人から「トンネル57」として最も有名なトンネル脱出劇となった。 -
ゲーデンスケッテ・ベルリナー・マウアー
Gedenkstätte Berliner Mauer -
ゲーデンスケッテ・ベルリナー・マウアー
Gedenkstätte Berliner Mauer -
ゲーデンスケッテ・ベルリナー・マウアー
Gedenkstätte Berliner Mauer
ところどころにあるこの印(incident marker)。それぞれの逃亡にドラマがある。
以下のサイトで、番号を打ち込むことで、検索することができる。
https://berliner-mauer.mobi/spurensuche.html?&L=1 -
ゲーデンスケッテ・ベルリナー・マウアー
Gedenkstätte Berliner Mauer -
ゲーデンスケッテ・ベルリナー・マウアー
Gedenkstätte Berliner Mauer -
ゲーデンスケッテ・ベルリナー・マウアー
Gedenkstätte Berliner Mauer
鉄条網を飛び越えるコンラート・シューマンの写真。『自由への飛翔』
ドイツ民主共和国国境警備隊に従事する兵士の中からも、亡命者が続出し、ベルリンの壁建設直後の6週間で85人が逃亡した。1961年8月15日に機動隊下士官コンラート・シューマンはルピン通りとベルナウ通りが交わる地点の国境線で逃亡を企てる者を阻止する任務についていたが、反対側の西側の多くの人々が見ている前で有刺鉄線を飛び越えて西へ逃れた。この兵士が有刺鉄線を飛び越えた瞬間の写真はその後『自由への飛翔』として有名なものとなった。1968年時点では、総勢8,000人で、ベルリン市民でなく西ドイツに親類がいない者が、「ベルリンの壁」担当の警備兵となっていた。逃亡防止のために2人一組で行動していたが、逆に逃亡を試みた側が同僚を銃撃することもあった。勤務中に射殺された警備兵は16人であったが、その半数は逃亡を図った警備兵の犯行であった。(Wikiより) -
ベルリンテレビ塔
Berliner Fernsehturm
ベルリンの壁公園から、今度はUバーンに乗り、アレクサンダー広場(Alexanderplatz)へ移動。写真はベルリンテレビ塔。上には登らず。テレビ塔 建造物
-
ベルリンテレビ塔(Berliner Fernsehturm)
ベルリンでどこででも見かけるくまの像。
ベルリンの名はくまからきている。スイスのベルンと同じ。 -
聖マリア教会
St. Marienkirche
後から写真を見て気が付くことがあるが、偶然にも飛んでいる鳥が写っている。 -
ネプチューンの噴水
Neptunbrunnen
後から写真を見て気が付くことがあるが、手前のカップルを撮ったわけではない。欧米の人って公園ではみんないちゃついているので。結構な確率で写真に入り込む。 -
聖マリア教会
St. Marienkirche
森鴎外の小説、「舞姫」で、ドイツへ留学した官吏・太田豊太郎は教会の前で悲しみに暮れる美少女エリスと恋に落ちる-2人の出会いの場所「クロステル小路の古い教会」がこの教会ではないかとされています。もう少しうら寂しい場所であれば雰囲気があるのでしょうが(昔はあったのでしょうね。。。) -
聖マリア教会
St. Marienkirche -
プロテスタントの改革、マーティン・ルターを称える記念碑(像)
-
聖マリア教会
St. Marienkirche
反対側に回り、正面からTV塔とセットで。マリエン教会 寺院・教会
-
赤の市庁舎
Rotes Rathaus
ベルリン市の行政組織(公式にはベルリンの参事会)の本拠地。目印となる建物の名前は赤い硬質煉瓦(レンガ)による見た目のデザインに由来している。
この市庁舎はヘルマン・フリードリヒ・ヴェーゼマンによって1861年から1869年の間に北イタリアの盛期ルネサンス様式にて建造された。今日のポーランドに属するトルンの古い市庁舎をモデルとし、塔の建築様式はフランスにあるラン大聖堂を偲ばせる。通りのブロック全体に沿って建っていた中世からの建築の多くを取り壊して建てられた。
ベルリン大空襲によりこの建物は大きく破壊され、1951年から1956年の間に元通りに再建された。戦後、市役所の機能は、破壊を免れた新市庁舎(Neues Stadthaus)、およびParochialstraßeにあるベルリン市営火災保険の以前の本部であるFeuersozietätへと移った。これらの建物が1948年9月まではベルリンのすべての地区の、またその後はソビエト占領地区だけの、市の臨時の行政中心施設として断続的に利用された。赤の市庁舎は再建された当時はソビエト占領地区に位置しており、東ベルリンのラートハウスとして利用されていた。西ベルリンではシェーネベルク区庁舎が市参事会の所在地となっていた。ドイツ再統一の後、統一ベルリンの市政は1991年10月1日公式にここに移転した。(Wikiより) -
聖マリア教会(St. Marienkirche)とTV塔
-
大聖堂へいく途中にある、共産党宣言の著者カール・マルクス(座っている)とフリードリヒ・エンゲルス(立っている)の像。 記念碑と同じ名前の広場にあります。
-
ベルリン大聖堂
Berliner Dom
ベルリンのミッテ区にあるホーエンツォレルン王家の記念教会で、ベルリン=ブランデンブルク=シュレージシェ・オーバーラウジッツ福音主義教会に属し、ルター派の礼拝をおこなっている大聖堂である。ひときわ目を引くドームが印象的な建物である。もともとの教会がヴィルヘルム2世の命令によって1905年に建て替えられ、現在の姿となった。プロイセン王家ゆかりの人々の墓碑などがある。114メートルの高さをもつ天蓋は第二次世界大戦で被害を受けたが、1993年に修復され現在の姿を取り戻した。270段の階段を昇って天蓋部分へ出ることもできる。
(Wikiより) -
ベルリン大聖堂
Berliner Dom -
ベルリン大聖堂
Berliner Dom
ベルリン大聖堂はシュプレー川の中州に建っている。中州は、博物館島と呼ばれ、博物館が集中している。 -
ベルリン大聖堂
Berliner Domベルリン大聖堂 寺院・教会
-
ベルリン大聖堂
Berliner Dom -
ベルリン大聖堂
Berliner Dom -
ベルリン大聖堂
Berliner Dom -
ベルリン大聖堂
Berliner Dom -
ベルリン大聖堂
Berliner Dom
天蓋ドーム -
ベルリン大聖堂
Berliner Dom
説教台。 -
ベルリン大聖堂
Berliner Dom
パイプオルガン。 -
ベルリン大聖堂
Berliner Dom
フリードリヒ1世とその王妃ゾフィー・シャルロッテの棺。
Konig Friedrich I 1657-1713
フリードリヒ1世(Friedrich I., 1657年7月11日 - 1713年2月25日)は、初代の「プロイセンにおける王」。はじめはプロイセン公(在位:1688年5月9日 - 1701年1月17日)、またブランデンブルク選帝侯(フリードリヒ3世、在位:1688年5月9日 - 1713年2月25日)。
「猫背フリッツ」とあだ名される風采の上がらない小男で、フランス王ルイ14世にあこがれるような虚栄心の強い浪費家だったが、妻ゾフィーの影響もあって学芸を振興させた。神聖ローマ皇帝レオポルト1世から王の称号を得て、プロイセンの王となった。 -
ベルリン大聖堂
Berliner Dom -
ベルリン大聖堂
Berliner Dom -
ベルリン大聖堂
Berliner Dom
天蓋ドームの外に登ってきました。ここからの景色は見晴らしがいいです。 -
ベルリン大聖堂
Berliner Dom
先ほどまでいたTV塔と赤の市庁舎付近。辛うじて、聖マリア教会が写っている。 -
ベルリン大聖堂
Berliner Dom -
ベルリン大聖堂
Berliner Dom -
ベルリン大聖堂
Berliner Dom -
ベルリン大聖堂
Berliner Dom -
ベルリン大聖堂
Berliner Dom
シュプレー川の中州は、博物館島(museumsinsel)、ムゼーウムスインゼルと呼ばれ、博物館が集まっている。写真左手。 -
ベルリン大聖堂
Berliner Dom
大聖堂前の広場。大通りウンターデンリンデン(Unter den Linden)が広場横から西に向かって伸びている。その先に昨日行った、ブランデンブルク門や、その先に、戦勝記念塔(Siegessäule)がある。 -
ベルリン大聖堂
Berliner Dom
建物の中に同じ頭をもつ双子のような教会がみえる。ジャンダルメンマルクトにたつ、フランス大聖堂とドイツ大聖堂。後で行きます。 -
ベルリン大聖堂
Berliner Dom -
ベルリン大聖堂
Berliner Dom
さて大聖堂にきたら、クリプトも見学。墓所になっています。 -
ベルリン大聖堂
Berliner Dom -
ベルリン大聖堂
Berliner Dom
広場から。公園ではみな、のんびり、日光浴を楽しんでいます。
(日光浴を楽しむのは、ドイツにありがちな風景です。) -
ベルリン大聖堂
Berliner Domルストガルテン 広場・公園
-
旧博物館
Altes Museum旧博物館 博物館・美術館・ギャラリー
-
旧国立美術館
Alte Nationalgalerie旧ナショナルギャラリー 博物館・美術館・ギャラリー
-
旧国立美術館
Alte Nationalgalerie
展示物は別の旅行記で紹介します。 -
フリードリヒ・ヴィルヘルム4世騎馬像
Reiterstandbild Friedrich Wilhelm IV.
イタリア系ドイツ人彫刻家カランドレッリ作 -
あのクルーズ船は気持ちよさそうだな。
ボーデ博物館に行こうとしていたのだが、どうも、Sバーンの線路があり、島の中経由ではいけないらしい。 -
従って一旦、島を出て、Sバーンの高架のしたを通ることに。そこで、カリーヴルストのインビスを発見。人の多さと、右下の看板「lecker essen」に引き寄せられて立ち寄ります。このあたりではアンティークや古本のマーケットが並んでおり、ついつい、ぶらっとひとつひとつの露店に立ち寄ってしまう。見ているだけでも楽しい。
ボーデ博物館前のアンティーク & ブック マーケット 祭り・イベント
-
カリーヴルストとビール。定番の組み合わせ。
今回のお供のビールは、Berliner Kindl(ベルリナーキンドル)。暑いので、Pils(ピススナー)をいただきます。 -
ボーデ博物館
Bode-Museum
彫刻メインの博物館。アフリカの彫刻と西洋の彫刻が比較の為か一緒に置かれており、やや混乱。中の展示物の紹介は割愛します。ボーデ博物館 博物館・美術館・ギャラリー
-
ボーデ博物館を後にして、ウンターデンリンデンを歩きます。
ウンター・デン・リンデン (Unter den Linden)
ドイツ・ベルリンの大通りの一つである。ウンター・デン・リンデンとは「菩提樹の下」の意味で、その名の通り菩提樹の並木道を満喫することができる。通りの中央に散策路があり、ベンチも置かれている。ブランデンブルク門からプロイセン王宮までの短い通りであるが、沿道にはベルリンの興隆を示す多くの歴史的建造物が建ち並んでいる。(Wikiより)ベーベル広場 広場・公園
-
フリードリヒ大王騎馬像
Reiterstandbild Friedrichs des Großen -
ジャンダルメンマルクト
Gendarmenmarkt
ベルリンでもっとも美しい広場といわれる人気の観光スポット。今からおよそ330年前の1688年に、建築家ヨハン・アルノルド・ネリング(Johann Arnold Nering)の設計で建設された。写真の真ん中に建つのは、ベルリン交響楽団の本拠地であるコンツェルトハウス・ベルリン(Konzerthaus Schauspielhaus)。第2代プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム王1世がこの地に建てた騎兵の厩舎を記念して、フランス語で武装した騎士を意味する“ジャンダルメンマルクト”と名付けられ現在に至る。ジャンダルメンマルクト 広場・公園
-
ジャンダルメンマルクト
Gendarmenmarkt
こちらが、「ドイツ・ドーム」と呼ばれるドイツ大聖堂(Deutscher Dom)。
バロック様式の美しいドイツ・ドームは1702年から1708年のあいだに建てられ、1984年までプロテスタントの教会でしたが現在は常設展「ドイツの議会制民主主義の発展」が無料で見学できるミュージアムになっている。 -
ジャンダルメンマルクト
Gendarmenmarkt
そのドイツ大聖堂の向かいに建つフランス大聖堂(Französischer Dom)。
フランスでプロテスタントの信仰を認めた“ナントの勅令”が1685年に廃止されたことで、フランスから押し寄せたプロテスタント亡命難民のために建設され、1705年に完成した大聖堂。このときフランスの地を追われた“ユグノー”と呼ばれるカルヴァン主義改革派教会の難民は、20年で20万人にも達したという。 -
ジャンダルメンマルクト
Gendarmenmarkt
コンツェルトハウス・ベルリンとフランス大聖堂。冬にはここにクリスマスマーケットがたつ。 -
ジャンダルメンマルクト
Gendarmenmarkt
ドイツ大聖堂の中は、すでに教会的要素はなく、「ドイツの議会制民主主義の発展」が無料で見学できるミュージアムとなっている。パネル展示がメインなので正直、見るべきものがない。 -
チェックポイント・チャーリー
Checkpoint Charlie
ウンターデンリンデンがベルリンの東西のメインロードであり、ちょうど、真ん中で、交差する南北のメインストリートが、フリードリッヒ通り。その通りの、東西ドイツの国境にあたる場所にチェックポイントチャーリーがある。
車が通る道の真ん中にあるにも関わらず、ここで記念写真を撮る人で混雑。 -
チェックポイント・チャーリー
Checkpoint Charlie
西ドイツ側から(南側から)見た様子。チェックポイントチャーリー 散歩・街歩き
-
チェックポイント・チャーリー
Checkpoint Charlie
第二次世界大戦後の冷戦期においてドイツ・ベルリンが東西に分断されていた時代に、同市内の東ベルリンと西ベルリンの境界線上に置かれていた国境検問所。
1961~1990年まで存在し、ベルリンの壁と並ぶ東西分断の象徴として、また一部の東ドイツ市民にとっては自由への窓口として、冷戦のシンボルのように捉えられていた。チャーリーはもちろん、人の名前ではなく、「C」を表す。「チェックポイントC」。同じように、チェックポイントアルファ、チェックポイントブラボーが存在していた。東側は、ここを「国境検問所」とし、西側はここは国境ではない認識なので、単に「チェックポイント」と呼んでいた。 -
チェックポイント・チャーリー
Checkpoint Charlie -
チェックポイント・チャーリー
Checkpoint Charlie
小屋の外側にはアメリカ兵とソ連兵の写真が表裏で大きく掲げられている。アメリカ兵の写真は旧ソ連地区側を、ソ連兵の写真は旧アメリカ地区側を向いている。この2人は、1990年代初頭に実際にベルリンに駐留していた兵士たちであり、ソ連兵のほうは身元が不明であるが、アメリカ兵に関しては氏名や所属などが判明している。(Wikiより)
写真はアメリカ兵。東ドイツ側(北側)から見た様子。 -
テロのトポグラフィー
Topographie des Terrors
フリードリッヒ通りから西へ1ブロックほど歩いたところにある「テロのトポグラフィー」。このあたりは、かつてのナチス政権下の重要な機関の本部が集中するまさに恐怖政治の発信源でした。現在その跡地は、ナチス時代の記録を展示したドキュメントセンターとして無料で一般公開されている。今日、ナチス・ドイツの歴史を知る重要な施設として多くの人々が訪れている。
※ここから先はやや暴力的な写真があります。テロのトポグラフィー 博物館・美術館・ギャラリー
-
テロのトポグラフィー
Topographie des Terrors
アドルフ・ヒトラー。
実はオーストリア生まれ。 -
テロのトポグラフィー
Topographie des Terrors -
テロのトポグラフィー
Topographie des Terrors
昔のゲシュタポ本部の地下牢の一部が発掘され、屋外展示場として利用され見学できるようになっている。
この辺りは、当時ナチスのゲシュタポ(秘密国家警察)、SS(ナチス親衛隊)、SD(親衛隊情報部)の本部があり、かつての建物は、敗戦後取り壊されてしまい今では残っていなかったが、東西ドイツ統一後に跡地の発掘調査が行われた際にこの地下牢が発見された。 -
テロのトポグラフィー
Topographie des Terrors
1936年6月13日、ドイツ海軍の練習艦ホルスト・ヴェッセルの進水式の写真であり、アウグスト・フリードリヒ・ランドメッサー(August Friedrich Landmesser)、ただ一人ナチス式敬礼を行わなかった写真で知られる。
彼はドイツ、ハンブルクの造船会社ブローム・ウント・フォス社に勤めていた労働者。1931年職を得ることを目的にナチス党に入党する。1935年イルマ・エクラーと結婚するが、イルマはユダヤ人であった。この結婚によりナチス党を除名される。二人はハンブルクで結婚登録をするが、それを妨げるかのように1ヵ月後の1935年9月15日、ニュルンベルク法(ニュルンベルク法のうち、ユダヤ人と「ドイツ人」の婚姻を禁止した「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」)が制定された。1935年10月29日、二人の間に長女イングリットが誕生する。翌年、この写真が撮影される。1937年ランドメッサーとイルマは、デンマークに亡命しようとしたが失敗し、逮捕された。このとき、イルマは妊娠していた。ランドメッサーは1937年7月 人種恥辱罪で起訴された。裁判ではランドメッサーとイルマはイルマが「完全ユダヤ人」であることを知らなかったと主張した。1938年5月27日、裁判は結審し証拠不十分で無罪判決が下りた。しかしこの裁判では判決と同時に今後、二人が関係を維持すれば再犯ということになり複数年の懲役となることを警告した。ランドメッサーとイルマは同居を続けたが、1938年7月15日、ランドメッサーは当局に逮捕されベルゲルモール収容所に2年半収容された。
イルマはゲシュタポに逮捕され、ハンブルクの北、フールスビュッテルの刑務所に収監された。彼女はここで次女イレーネを出産している。その後、彼女は女囚用のオラニエンブルク強制収容所、リヒテンブルク強制収容所を経てラーフェンスブリュック強制収容所に収容された。二人の娘は市立孤児院に入る。その後、上のイングリットは祖母に引き取られ、イレーネは1941年に孤児院から養女として引き取られた。戦後の1953年に祖母が亡くなった後は、イングリットも養女に出された。1942年2月、イルマはベルンブルク安楽死センターに送られ、このセンターは戦後の調査で約1万4000人を殺害したことが判明しているが、イルマもその犠牲者の一人であり、彼女の死は法的には1942年4月28日と認定されている。
一方、ランドメッサーは1941年1月19日に釈放された。釈放後、運送会社に入る。この会社はヴァーネミュンデのハインケル=ヴェルケ工場の下請けであった。1944年2月、徴兵され第999懲罰師団執行猶予大隊に配属される。ランドメッサーは戦闘中行方不明となった。1944年10月17日のクロアチアペリェシャツ半島のストン近郊における戦闘で戦死したと推定されている。イルマ同様に1949年に死亡が法的に認定された。
1951年夏、アウグスト・ランドメッサーとイルマ・エクラーの結婚は、ハンブルク上院により遡って承認された。そして長女イングリットは、その年の秋にランドメッサー姓に改姓した。次女イレーネは母の姓であるエクラーを名乗っている。
(Wikiより) -
テロのトポグラフィー
Topographie des Terrors
ナチス政権は、国内権力を掌握し始めた1933年から、政敵だった政治家やその支持者を政治犯として拘束・処刑していた。 -
テロのトポグラフィー
Topographie des Terrors -
テロのトポグラフィー
Topographie des Terrors
これらはナチスがおこなった欧州諸国での虐殺の写真。
(よく写真を残していたと思う。) -
テロのトポグラフィー
Topographie des Terrors
見せしめの絞首刑。 -
テロのトポグラフィー
Topographie des Terrors -
テロのトポグラフィー
Topographie des Terrors -
テロのトポグラフィー
Topographie des Terrors -
テロのトポグラフィー
Topographie des Terrors -
テロのトポグラフィー
Topographie des Terrors -
テロのトポグラフィー
Topographie des Terrors -
テロのトポグラフィー
Topographie des Terrors -
テロのトポグラフィー
Topographie des Terrors
ここにもベルリンの壁の一部が残されている。 -
テロのトポグラフィー
Topographie des Terrors -
Alter Mauerturm
ポツダム広場近くにある、残された監視塔。中には入れない。 -
今日は、ほぼベルリンを一周したことになる。歩き疲れました。
今日、最後の締めのビールは、Lübzer Schwarzbier。晩飯を頂きます。 -
ポツダム広場の夜景。
ポツダム広場駅 駅
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
something like thatさんの関連旅行記
この旅行で行ったスポット
もっと見る
ベルリン(ドイツ) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
103