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越前大野城(えちぜんおおのじょう・福井県越前大野城町)は越前国と美濃国を結ぶ交通の要所で、戦国時代では朝倉氏の拠点一乗谷を背後から防御する重要地点でもあり、従い同地域治政者は朝倉氏の信任厚い一門衆の上位者が配され、例えば朝倉義景(あさくら・よしかげ、1533~1573)時代では従弟で朝倉一族でも筆頭的地位にあったとされる朝倉景鏡(あさくら・かげあきら、1525~1574)が大野郡司として任じられていました。<br /><br />北陸制覇をめざす織田信長は近江北部の浅井氏を支援する朝倉氏を倒し窮地に立たされた義景を当地に追い詰め、ついに自害せしめ越前国平定の最終段階にはいります。朝倉氏を排除した後は敵対する大坂の石山本願寺打倒の一環として、当地一向一揆勢力を排除すべく天正3年(1575)、信長幼少期の小姓衆から赤母衣衆となった近習である金森長近(かなもり・ながちか、1524~1608)に討伐を命じ長近は美濃から大野に越境して翌年平定を果たします。<br /><br />この戦功で信長より大野郡の3分の2を与えられた長親は、その翌年天正4年(1576)亀山に約4年の歳月を費やして築城、天正14年(1586)に長近は隣接する飛騨国平定後同国高山に転出、文禄元年(1592)代わって5万石を以て織田信雄長男の織田秀雄(おだ・ひでかつ、1583~1610)が秀吉の命を受けて入封となります。<br /><br />関ヶ原合戦に勝利した徳川家康は秀頼方の最大有力大名である前田氏を牽制するため慶長7年(1602)に家康二男結城秀康(ゆうき・ひでやす、1574~1607)を越前国主とし、大野城は秀康家臣土屋正明を城代として支配させます。天和2年(1682)には家康ご落胤とも噂された土井利勝の息子にあたる土井利房(どい・としふさ、1631~1683)が4万石にて入封、以降土井家が明治維新に至るまで治政を続けます。<br /><br />城郭は安永4年(1775)焼失し、寛政7年(1795)に天守を除いて再建され明治維新後に破却されますが、昭和43年(1968)年に地元の篤家の寄付金を元に再建されて現在に至ります。<br /><br />当該城の見所は何と言っても雲海に浮かぶ「天空の城」で毎年10月から4月にかけて気象条件によって起きる景色で、全国でも竹田城(兵庫県朝来市)並びに備中松山城(岡山県高梁市)と共に城郭ファン中心に関心が高まっています。<br /><br /><br /><br /><br />福井市の「天空の城 越前大野城」と題するブログには下記の通り詳細に亘って紹介されています。<br /><br />『 越前大野城の概要<br /><br />・築城はいつ?<br />天正3年(1575)、織田信長は、金森長近と原政茂の両名に命じて、大野郡の一向一揆を収束させました。その恩賞として、大野郡の3分の2を長近に、3分の1を政茂に与えたといわれています。長近は程なく亀山に平山城の城郭と、その東麓に、「北陸の小京都」と呼ばれる所以となる、短冊状の城下町をつくり始めました。<br /><br />当時の大野城は、本丸に望楼付き2層3階の第天守2層2階の小天守・天狗櫓などを置き、麓に二の丸、三の丸があり、二重の堀と川をつないで城を守っていました。その石垣は、石を立てず、横に寝かせ、大きい石を奥に押し込んで積む、野面積みという工法で、貴重な史跡です。<br /><br /><br />・城主はどんな人?<br />長近が初代城主を務め、天正14年(1586)に飛騨高山に領地を移した後は、城主はたびたび入れ替わりました。江戸初期には松平氏、天和2年(1682)には土井利房が領地入りし、廃藩となるまで土井氏が城主を務めました。<br /><br /><br />・再建したのは?<br />火事が絶えなかった江戸時代、大野城も例にもれず、幾度となく火災に見舞われました。安永4年(1775)の被害はとりわけ大きく、本丸までもが焼失し、寛政7年(1795)に再建されるまで、物寂しい状態が続いたと言われています。廃藩後、城の建造物は取り壊され、石垣のみが残されました(福井県指定文化財)。<br /><br />現在の天守閣は、昭和43年(1968)、旧士族の萩原貞氏の寄付により再建されたものです。内部は資料館として活用され、土井氏の遺品をはじめとした貴重な資料が展示されています。<br /><br /><br />・データ<br />形式:    梯郭式平山城(標高249m)<br />復興天守:  連結式望楼型2層4階<br />       小天守閣2層2階<br /><br />築城者:   金森長近<br />築城年:   天正8年(1580)<br />遺構:    石垣 土塁 堀<br />石垣:    野面積み(福井県指定史跡)<br />再建建物:  復興天守 門<br /><br />本丸のくみたて  (略)<br />本丸マップ    (略)<br />野面積みの石垣  (略)<br />天守内部     (略)<br /><br /><br />城主<br />越前大野城の城主は、築城されてから明治に入り城が払い下げられるまでの間に、19人が務めています。安土桃山時代の城主には、金森長近のほか、豊臣秀吉の一族といわれる青木一のり(かずのり)や信長の孫・織田秀勝(ひでかつ)などもいました。<br /><br />江戸時代に入ると、大野は福井藩の一部となり、福井藩主・結城秀康(松平秀康)の有力な家臣・土屋正明が大野城主を務めました。土屋正明は結城秀康の家臣でありながら石高は<br />3万8千石(=お米で約5700t)で、小藩の大名と同じくらいの領地を持っている優秀な人物でした。<br /><br />寛永元年(1624)に、結城秀康の子・松平直政が城主となった際には、大野藩の石高は5万石(=お米で7500t)に加増されました。松平直政はその後、信州松本(現在の長野県松本市)で7万石(=お米で約10500t)、出雲松江(現在の島根県松江市)で18万石(=お米で27000t)と領地を加増され移っていきました。<br /><br />天和2年(1682)に大老・土井勝利の子、土井俊房が大野藩主となると、幕末まで約180年の間に、土井家から8人が城主となりました。<br /><br />最後には、明治5年(1872)に入札により本丸が商人など20人以上に払い下げられ、約290年の越前大野城の歴史に幕が下ろされたのです。<br /><br />初代城主 金森長近<br />金森長近は、大永4年(1524)に美濃(岐阜県)に生まれ、幼名を五郎八可近(ごろうはちありちか)といいました。金森の姓は近江国(滋賀県)守山金ケ森に一時住んだことから、その地名をとったといわれています。18歳の時織田家に仕え、当時8歳の信長の身のまわりの世話係として務めました。弘治元年(1555)には、今川義元との合戦で手柄をたて、信長の「長」の字を賜り長近と名を改めました。<br /><br />天正3年(1575)に越前一向一揆を収めると、その恩賞として、大野郡の3分の2(石高としては約3万5千石=お米で約5700t)を与えられました。長親は標高249mの亀山の頂上に天守閣を築き、ふもとに城下町を建設しました。越前大野城と城下町は400年以上経った現在もなお当時の面影を残し、短冊城の街並みは「北陸の小京都」と呼ばれています。<br /><br />天正14年(1586)には、秀吉の命で攻め落とした飛騨一国を与えられ、高山城(岐阜県高山市)を築き、城下町を建設しました。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では東軍(徳川軍)に加わり功績を認められ、美濃国上有知(こうずち、岐阜県美濃市)を与えられ小倉山城を築き、引退してこの地で生活しました。慶長13年(1608)夏、京都伏見の屋敷で85歳の生涯を終えました。<br /><br /><br />幕末の名君 土井利忠<br /><br />土井利忠は文化8年(1811)、江戸に生まれ、8歳で土井家7代を継ぎ、文政12年(1829)19歳で藩主として大野へ入ってきました。藩の財政は非常に苦しく、忠利の藩政改革は天保13年(1842)の武士はじめ一般の人々に倹約をすすめた「更始の令」によりはじめられ、藩財政の立て直しと、人材登用を柱にしてすすめられました。<br /><br />藩の政治や経済の立て直しには、新しい知識を学んだ人材が必要だと考え、弘化元年(1844)、藩校「明倫館(めいりんかん)」を開設、身分に関わらず誰でも入学できるよう、学習環境を整えました。<br /><br />家臣を江戸・京都・大坂(大阪)方面に送り、西洋医学や砲術などを学ばせ、安政2年(1856)には洋楽館を開き、緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾の塾頭・伊藤慎蔵(いとうしんぞう)を教師に招きました。藩財政が苦しいなか、高価な本を買い入れて資料を充実させると、50名を越える留学生が洋楽を学ぶため全国各地から集まりました。<br /><br />内山七郎右衛門良休(うちやましちろうえもんりょうきゅう)・隆佐良隆(りょうすけよしたか)の兄弟は、利忠の「更始の令」から始まった藩政改革に尽力し、財政再建・人材育成など各種の事業で成果を上げた人物として知られています。<br /><br />良休は、武士でありながら自ら政治経済学を学び、大野藩のタバコや生糸などの地場産品を売り出して富を蓄えることを提案。安政元年(1855)からは、越前各地や大坂(大阪)、箱館(函館)など全国37箇所に藩直営店「大野屋」を開き、流通網を整備しました。今でいうチェーン店の先駆けです。経済面での手腕を発揮し、大野藩の多額の借金を返済して藩財政の立て直しに貢献しました。<br /><br />弟、隆佐は洋式帆船”大野丸”に乗って蝦夷地に行き、現地調査や開拓を指揮し、万延元年(1860)には、北蝦夷地内(現在の樺太)の幕府が許可した土地は大野藩準領地となりました。<br /><br />文久2年(1862)、藩主利忠が引退し、藩財政の立て直しに貢献した大野丸は2年後に根室で座礁し沈没するなど、不運が続き、明治元年(1868)に新政府へ許可地を返上しましたが、大野屋だけは着実に伸び、明治に入っても全国に店が広がっていきました。<br /><br /><br />城下町<br /><br />小京都大野の城下町<br />城下町とは戦国時代から始まった都市の形態のひとつで、城の防衛施設であるとともに、行政・商業都市として機能してきました。<br /><br />天正4年(1576)に安土城を築いた織田信長は、兵農分離により武士を城下町に住まわせ、楽市楽座によって商工業の発達を活発にしました。これが、近世城下町の発展に大きく貢献したといわれています。<br /><br />大野市の城下町は、この信長の初期親衛隊「小姓衆・赤母衣(あかぼろ)衆」であった金森長近によってつくられました。大野の地が長近に与えられた理由は、この当時、信長は度重なる「信長包囲網」によって全国の戦国大名を相手に苦戦を強いられており、東海から北陸へのルートを「岐阜城」「郡上八幡城」「越前大野城」によって統治下に置いて、この包囲網を分断することが目的だったと考えられます。<br /><br />梯郭(ていかく)式<br />天正3年(1575)、大野郡3万石(=お米で約4500t)の領主となった長近は、亀山山頂と東の麓に城(天守閣、二の丸、三の丸)を築き、さらにその東側に城下町を展開しました。このように半?形で整備された城下町を「梯郭(ていかく)式」といいます。また、町人屋敷は東西・南北それぞれ6筋の通りによって短冊系に区切られ、「北陸の小京都」と呼ばれています。(図面略)<br /><br />長近が築いた天守閣は小高い山上に築かれている「平山城」であることから、敵の攻勢を防ぐ「防衛施設」として建てられたことがわかります。<br /><br /><br />大手道<br />大野の大手道(城主が通行する道路)は、現在、朝市が開かれている「7間(しちけん)通り」ですが、この大手道には、短冊形に区割りされた区画の<br />短辺(南北面)が面しています。つまり、城主が通行する際に、区画内の出迎えが最小限で済むことになり、区画の長辺(東西面)に住まう町人たちは手を止めることなく商いを続けることができました。<br /><br />このことから、長近は大野の城下町を造る際には、城主の威光を知らしめることよりも、商工業の発展を願ったと考えられます。(図面略)<br /><br /><br />商業及び文化の中心地として発展<br />南北を走る道路の中央には、野菜などを洗うことに利用された上水道が流れ、家の後ろには「背割り(せわり)水路」と呼ばれる下水道がめぐらされており、町人にとって大変過ごしやすい城下町だったとうかがい知ることができます。<br /><br />町人屋敷のなかで最も城に近い区画を「一番町」といい、米を中心とした商いが盛んでしたが、寛永年間(1624~44)に「本町」と名前を変えています。本町とは「主たる区画」を意味することから、時代が江戸時代に移って以降も、商業が発展していたことがわかります。<br /><br />このように、長近がこの地に城下町をつくって以来、奥越前の商業及び文化の中心地として長く栄えてきました。<br /><br />なお、本町通りと石灯籠(いしどうろう)の角に立つ「石灯籠地蔵尊」は。長近が城下町造りの起点とした場所と伝えられていますが、灯明を置くべき火袋に地蔵尊が祀られていることには、何か意味があるのかもしれません。』<br /><br /><br /><br />また本丸へ通ずる百間坂の途中に掲げられた説明板には下記の通り絵図と共に次の通り書かれています。<br /><br /><br />「越前大野城跡(福井県指定史跡)<br /><br />越前大野城跡は、大野盆地の西側に位置する標高約250mの亀山と、その東側に縄張りを持つ平山城跡です。織田信長の武将、金森長近により天正年間(1573~1593)の前半に築城されました。<br /><br />越前大野城は亀山を利用し、外堀・内堀をめぐらし石垣を積み、天守閣を構えるという中世の山城にはみられなかった新しい方式の城でした。<br /><br />江戸時代の絵図には、本丸の望楼付を2層3階の大天主と2層2階の小天主・天狗櫓などがえがかれています。本丸の石垣は、自然石をほとんど加工しないで積み上げる「野面積み」といわれるものです。<br /><br />江戸時代には町の大火により、城も幾度か類焼し、安永4年(1775)には本丸も焼失しましたが、寛永7年(1795)に再建されました。廃藩後、城の建造物は取り壊され、石垣のみが残されました。」

越前大野 一泊二日のあわただしい北陸城郭散策 信長の赤母衣衆出身金森長近が短冊状の城下を配し野面積み石垣を備えた天空の城『越前大野城』訪問

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2019/11/03 - 2019/11/03

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滝山氏照

滝山氏照さん

越前大野城(えちぜんおおのじょう・福井県越前大野城町)は越前国と美濃国を結ぶ交通の要所で、戦国時代では朝倉氏の拠点一乗谷を背後から防御する重要地点でもあり、従い同地域治政者は朝倉氏の信任厚い一門衆の上位者が配され、例えば朝倉義景(あさくら・よしかげ、1533~1573)時代では従弟で朝倉一族でも筆頭的地位にあったとされる朝倉景鏡(あさくら・かげあきら、1525~1574)が大野郡司として任じられていました。

北陸制覇をめざす織田信長は近江北部の浅井氏を支援する朝倉氏を倒し窮地に立たされた義景を当地に追い詰め、ついに自害せしめ越前国平定の最終段階にはいります。朝倉氏を排除した後は敵対する大坂の石山本願寺打倒の一環として、当地一向一揆勢力を排除すべく天正3年(1575)、信長幼少期の小姓衆から赤母衣衆となった近習である金森長近(かなもり・ながちか、1524~1608)に討伐を命じ長近は美濃から大野に越境して翌年平定を果たします。

この戦功で信長より大野郡の3分の2を与えられた長親は、その翌年天正4年(1576)亀山に約4年の歳月を費やして築城、天正14年(1586)に長近は隣接する飛騨国平定後同国高山に転出、文禄元年(1592)代わって5万石を以て織田信雄長男の織田秀雄(おだ・ひでかつ、1583~1610)が秀吉の命を受けて入封となります。

関ヶ原合戦に勝利した徳川家康は秀頼方の最大有力大名である前田氏を牽制するため慶長7年(1602)に家康二男結城秀康(ゆうき・ひでやす、1574~1607)を越前国主とし、大野城は秀康家臣土屋正明を城代として支配させます。天和2年(1682)には家康ご落胤とも噂された土井利勝の息子にあたる土井利房(どい・としふさ、1631~1683)が4万石にて入封、以降土井家が明治維新に至るまで治政を続けます。

城郭は安永4年(1775)焼失し、寛政7年(1795)に天守を除いて再建され明治維新後に破却されますが、昭和43年(1968)年に地元の篤家の寄付金を元に再建されて現在に至ります。

当該城の見所は何と言っても雲海に浮かぶ「天空の城」で毎年10月から4月にかけて気象条件によって起きる景色で、全国でも竹田城(兵庫県朝来市)並びに備中松山城(岡山県高梁市)と共に城郭ファン中心に関心が高まっています。




福井市の「天空の城 越前大野城」と題するブログには下記の通り詳細に亘って紹介されています。

『 越前大野城の概要

・築城はいつ?
天正3年(1575)、織田信長は、金森長近と原政茂の両名に命じて、大野郡の一向一揆を収束させました。その恩賞として、大野郡の3分の2を長近に、3分の1を政茂に与えたといわれています。長近は程なく亀山に平山城の城郭と、その東麓に、「北陸の小京都」と呼ばれる所以となる、短冊状の城下町をつくり始めました。

当時の大野城は、本丸に望楼付き2層3階の第天守2層2階の小天守・天狗櫓などを置き、麓に二の丸、三の丸があり、二重の堀と川をつないで城を守っていました。その石垣は、石を立てず、横に寝かせ、大きい石を奥に押し込んで積む、野面積みという工法で、貴重な史跡です。


・城主はどんな人?
長近が初代城主を務め、天正14年(1586)に飛騨高山に領地を移した後は、城主はたびたび入れ替わりました。江戸初期には松平氏、天和2年(1682)には土井利房が領地入りし、廃藩となるまで土井氏が城主を務めました。


・再建したのは?
火事が絶えなかった江戸時代、大野城も例にもれず、幾度となく火災に見舞われました。安永4年(1775)の被害はとりわけ大きく、本丸までもが焼失し、寛政7年(1795)に再建されるまで、物寂しい状態が続いたと言われています。廃藩後、城の建造物は取り壊され、石垣のみが残されました(福井県指定文化財)。

現在の天守閣は、昭和43年(1968)、旧士族の萩原貞氏の寄付により再建されたものです。内部は資料館として活用され、土井氏の遺品をはじめとした貴重な資料が展示されています。


・データ
形式:    梯郭式平山城(標高249m)
復興天守:  連結式望楼型2層4階
       小天守閣2層2階

築城者:   金森長近
築城年:   天正8年(1580)
遺構:    石垣 土塁 堀
石垣:    野面積み(福井県指定史跡)
再建建物:  復興天守 門

本丸のくみたて  (略)
本丸マップ    (略)
野面積みの石垣  (略)
天守内部     (略)


城主
越前大野城の城主は、築城されてから明治に入り城が払い下げられるまでの間に、19人が務めています。安土桃山時代の城主には、金森長近のほか、豊臣秀吉の一族といわれる青木一のり(かずのり)や信長の孫・織田秀勝(ひでかつ)などもいました。

江戸時代に入ると、大野は福井藩の一部となり、福井藩主・結城秀康(松平秀康)の有力な家臣・土屋正明が大野城主を務めました。土屋正明は結城秀康の家臣でありながら石高は
3万8千石(=お米で約5700t)で、小藩の大名と同じくらいの領地を持っている優秀な人物でした。

寛永元年(1624)に、結城秀康の子・松平直政が城主となった際には、大野藩の石高は5万石(=お米で7500t)に加増されました。松平直政はその後、信州松本(現在の長野県松本市)で7万石(=お米で約10500t)、出雲松江(現在の島根県松江市)で18万石(=お米で27000t)と領地を加増され移っていきました。

天和2年(1682)に大老・土井勝利の子、土井俊房が大野藩主となると、幕末まで約180年の間に、土井家から8人が城主となりました。

最後には、明治5年(1872)に入札により本丸が商人など20人以上に払い下げられ、約290年の越前大野城の歴史に幕が下ろされたのです。

初代城主 金森長近
金森長近は、大永4年(1524)に美濃(岐阜県)に生まれ、幼名を五郎八可近(ごろうはちありちか)といいました。金森の姓は近江国(滋賀県)守山金ケ森に一時住んだことから、その地名をとったといわれています。18歳の時織田家に仕え、当時8歳の信長の身のまわりの世話係として務めました。弘治元年(1555)には、今川義元との合戦で手柄をたて、信長の「長」の字を賜り長近と名を改めました。

天正3年(1575)に越前一向一揆を収めると、その恩賞として、大野郡の3分の2(石高としては約3万5千石=お米で約5700t)を与えられました。長親は標高249mの亀山の頂上に天守閣を築き、ふもとに城下町を建設しました。越前大野城と城下町は400年以上経った現在もなお当時の面影を残し、短冊城の街並みは「北陸の小京都」と呼ばれています。

天正14年(1586)には、秀吉の命で攻め落とした飛騨一国を与えられ、高山城(岐阜県高山市)を築き、城下町を建設しました。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では東軍(徳川軍)に加わり功績を認められ、美濃国上有知(こうずち、岐阜県美濃市)を与えられ小倉山城を築き、引退してこの地で生活しました。慶長13年(1608)夏、京都伏見の屋敷で85歳の生涯を終えました。


幕末の名君 土井利忠

土井利忠は文化8年(1811)、江戸に生まれ、8歳で土井家7代を継ぎ、文政12年(1829)19歳で藩主として大野へ入ってきました。藩の財政は非常に苦しく、忠利の藩政改革は天保13年(1842)の武士はじめ一般の人々に倹約をすすめた「更始の令」によりはじめられ、藩財政の立て直しと、人材登用を柱にしてすすめられました。

藩の政治や経済の立て直しには、新しい知識を学んだ人材が必要だと考え、弘化元年(1844)、藩校「明倫館(めいりんかん)」を開設、身分に関わらず誰でも入学できるよう、学習環境を整えました。

家臣を江戸・京都・大坂(大阪)方面に送り、西洋医学や砲術などを学ばせ、安政2年(1856)には洋楽館を開き、緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾の塾頭・伊藤慎蔵(いとうしんぞう)を教師に招きました。藩財政が苦しいなか、高価な本を買い入れて資料を充実させると、50名を越える留学生が洋楽を学ぶため全国各地から集まりました。

内山七郎右衛門良休(うちやましちろうえもんりょうきゅう)・隆佐良隆(りょうすけよしたか)の兄弟は、利忠の「更始の令」から始まった藩政改革に尽力し、財政再建・人材育成など各種の事業で成果を上げた人物として知られています。

良休は、武士でありながら自ら政治経済学を学び、大野藩のタバコや生糸などの地場産品を売り出して富を蓄えることを提案。安政元年(1855)からは、越前各地や大坂(大阪)、箱館(函館)など全国37箇所に藩直営店「大野屋」を開き、流通網を整備しました。今でいうチェーン店の先駆けです。経済面での手腕を発揮し、大野藩の多額の借金を返済して藩財政の立て直しに貢献しました。

弟、隆佐は洋式帆船”大野丸”に乗って蝦夷地に行き、現地調査や開拓を指揮し、万延元年(1860)には、北蝦夷地内(現在の樺太)の幕府が許可した土地は大野藩準領地となりました。

文久2年(1862)、藩主利忠が引退し、藩財政の立て直しに貢献した大野丸は2年後に根室で座礁し沈没するなど、不運が続き、明治元年(1868)に新政府へ許可地を返上しましたが、大野屋だけは着実に伸び、明治に入っても全国に店が広がっていきました。


城下町

小京都大野の城下町
城下町とは戦国時代から始まった都市の形態のひとつで、城の防衛施設であるとともに、行政・商業都市として機能してきました。

天正4年(1576)に安土城を築いた織田信長は、兵農分離により武士を城下町に住まわせ、楽市楽座によって商工業の発達を活発にしました。これが、近世城下町の発展に大きく貢献したといわれています。

大野市の城下町は、この信長の初期親衛隊「小姓衆・赤母衣(あかぼろ)衆」であった金森長近によってつくられました。大野の地が長近に与えられた理由は、この当時、信長は度重なる「信長包囲網」によって全国の戦国大名を相手に苦戦を強いられており、東海から北陸へのルートを「岐阜城」「郡上八幡城」「越前大野城」によって統治下に置いて、この包囲網を分断することが目的だったと考えられます。

梯郭(ていかく)式
天正3年(1575)、大野郡3万石(=お米で約4500t)の領主となった長近は、亀山山頂と東の麓に城(天守閣、二の丸、三の丸)を築き、さらにその東側に城下町を展開しました。このように半?形で整備された城下町を「梯郭(ていかく)式」といいます。また、町人屋敷は東西・南北それぞれ6筋の通りによって短冊系に区切られ、「北陸の小京都」と呼ばれています。(図面略)

長近が築いた天守閣は小高い山上に築かれている「平山城」であることから、敵の攻勢を防ぐ「防衛施設」として建てられたことがわかります。


大手道
大野の大手道(城主が通行する道路)は、現在、朝市が開かれている「7間(しちけん)通り」ですが、この大手道には、短冊形に区割りされた区画の
短辺(南北面)が面しています。つまり、城主が通行する際に、区画内の出迎えが最小限で済むことになり、区画の長辺(東西面)に住まう町人たちは手を止めることなく商いを続けることができました。

このことから、長近は大野の城下町を造る際には、城主の威光を知らしめることよりも、商工業の発展を願ったと考えられます。(図面略)


商業及び文化の中心地として発展
南北を走る道路の中央には、野菜などを洗うことに利用された上水道が流れ、家の後ろには「背割り(せわり)水路」と呼ばれる下水道がめぐらされており、町人にとって大変過ごしやすい城下町だったとうかがい知ることができます。

町人屋敷のなかで最も城に近い区画を「一番町」といい、米を中心とした商いが盛んでしたが、寛永年間(1624~44)に「本町」と名前を変えています。本町とは「主たる区画」を意味することから、時代が江戸時代に移って以降も、商業が発展していたことがわかります。

このように、長近がこの地に城下町をつくって以来、奥越前の商業及び文化の中心地として長く栄えてきました。

なお、本町通りと石灯籠(いしどうろう)の角に立つ「石灯籠地蔵尊」は。長近が城下町造りの起点とした場所と伝えられていますが、灯明を置くべき火袋に地蔵尊が祀られていることには、何か意味があるのかもしれません。』



また本丸へ通ずる百間坂の途中に掲げられた説明板には下記の通り絵図と共に次の通り書かれています。


「越前大野城跡(福井県指定史跡)

越前大野城跡は、大野盆地の西側に位置する標高約250mの亀山と、その東側に縄張りを持つ平山城跡です。織田信長の武将、金森長近により天正年間(1573~1593)の前半に築城されました。

越前大野城は亀山を利用し、外堀・内堀をめぐらし石垣を積み、天守閣を構えるという中世の山城にはみられなかった新しい方式の城でした。

江戸時代の絵図には、本丸の望楼付を2層3階の大天主と2層2階の小天主・天狗櫓などがえがかれています。本丸の石垣は、自然石をほとんど加工しないで積み上げる「野面積み」といわれるものです。

江戸時代には町の大火により、城も幾度か類焼し、安永4年(1775)には本丸も焼失しましたが、寛永7年(1795)に再建されました。廃藩後、城の建造物は取り壊され、石垣のみが残されました。」

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
同行者
家族旅行
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
観光バス JALグループ ANAグループ
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
阪急交通社
  • 越前大野城跡<br /><br />バス車内から越前大野城を窺います。亀山に築城されたことで別名亀山城とも称されています。

    越前大野城跡

    バス車内から越前大野城を窺います。亀山に築城されたことで別名亀山城とも称されています。

  • 越前大野城

    越前大野城

  • 越前大野城

    越前大野城

  • 越前大野城南登り口(説明板)

    越前大野城南登り口(説明板)

  • 越前大野城登り口案内板<br /><br />時間の都合で越前大野城しか行けません。民俗資料館・武家屋敷は残念ながらスル―せざるを得ません。

    越前大野城登り口案内板

    時間の都合で越前大野城しか行けません。民俗資料館・武家屋敷は残念ながらスル―せざるを得ません。

  • 模擬城門<br /><br />この門から急ぎ登城することになります。<br />

    模擬城門

    この門から急ぎ登城することになります。

  • 越前大野城案内標

    越前大野城案内標

  • 野面積み石垣

    野面積み石垣

  • 土井利忠立像

    土井利忠立像

  • 土井利忠説明板

    土井利忠説明板

  • 越前大野城見取図

    越前大野城見取図

  • 野面積み石垣

    野面積み石垣

  • 本丸の搦手門

    本丸の搦手門

  • 野面積み石垣

    野面積み石垣

  • 野面積み説明板

    野面積み説明板

  • 麓展望<br /><br />4階の展望台からの眺望により大野盆地の眺望が楽しめます。なお12月から翌年3月までは冬季閉館となっています。

    麓展望

    4階の展望台からの眺望により大野盆地の眺望が楽しめます。なお12月から翌年3月までは冬季閉館となっています。

  • 越前大野城模擬天守

    イチオシ

    越前大野城模擬天守

  • 越前大野城と石垣

    越前大野城と石垣

  • 越前大野城絵図と沿革説明板

    越前大野城絵図と沿革説明板

  • 石垣<br /><br />隅石は戦国時代には普及された「算木積み」となっています。

    石垣

    隅石は戦国時代には普及された「算木積み」となっています。

  • 本丸庭園

    本丸庭園

  • 天守閣入口<br /><br /><br /><br />

    天守閣入口



  • 天守閣展望<br /><br />遥かかなたに雲海と思わせる風景が微かに見渡せます。<br /><br />

    天守閣展望

    遥かかなたに雲海と思わせる風景が微かに見渡せます。

  • 市街地展望<br /><br />4階の展望台からの眺望により大野盆地の眺望が楽しめます。なお12月から翌年3月までは冬季閉館となっています。

    市街地展望

    4階の展望台からの眺望により大野盆地の眺望が楽しめます。なお12月から翌年3月までは冬季閉館となっています。

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