2019/12/12 - 2019/12/15
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willyさん
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広島は、子供が小学校低学年のころまでは、関越から中央へ回って車で1200キロ、福岡/唐津に帰省するのに通り過ぎたことはあるけれど、降り立ったことはなかった。
ずっと気になっていたので、ちょうどいい機会をとらえて訪ねてみました。
山口は子供のころ、ザビエル教会は行った記憶があるのと、高校生の時に萩・津和野に1度と、秋芳洞に子供のころ1回、自分の子供をつれてもう1回いっただけ。関門橋の門司側・和布刈公園は大人になってからもいったけど、下関は通過するのみで降りたことはなかった。
ちなみにザビエル教会は平成3年に全焼した後再建されてるんですね。めっちゃ近代的になっているようでびっくり。そんなことさえ調べてもみなかったこれまでの空白。
表紙写真は秋吉台に沈む夕日。ススキが静かに光って波打ち、とても素敵な風景でした。
12月12日
東京駅鍜治橋 20:30発高速バス
12月13日
9:10広島駅着
呉~江田島~新山口泊
12月14日
下関~秋芳洞~萩泊
12月15日
萩~広島 新幹線で帰宅
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 4.5
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
東京駅から乗った高速バスは3列トイレ付で9000円、わりと快適。とはいえリクライニングが130度ぐらいしかできなくて、途中3回くらい背中が痛くて目が覚めたけど、9時から7時ごろまでがっつり寝ました。
朝9時すぎ到着した広島駅からはレンタカーでまずは呉。とりあえず大和ミュージアムへGO。
写真はその向かいにある海上自衛隊呉資料館、愛称てつくじ館。ここも入ってみました。
入口にどでーんと展示してあるこの潜水艦の中には、中に入ることができました。押し潰されそうな三段ベットとか潜望鏡とか。
閉所恐怖症気味なので潜水艦勤務なんて想像しただけで発狂しそう。 -
大和ミュージアムですから、メインはこの1/10の戦艦大和。
船尾から -
船首から撮ろうとすると、大きなガラス窓で逆光になってしまいます。なんとかならんのか。
一時プラモデルに凝った時期があったけど、大和はやらなかったなー。
ミュージアムの見物はこれ。
企画展で引き揚げられた部品の展示がありましたが、私には太平洋戦争突入から敗戦までのビデオの方が興味深かったです。 -
てつくじ館からでてきたら、ちょうど艦船巡りクルーズの時間。これいってみよう。おひとり様1500円なり。
退官されたおじさまのトークで30分ほど湾内を巡ります。 -
午前中までいた艦がだいぶ出て行ってしまったそうで、オジサマ曰くちょっと寂しい本日の湾内、ということでしたが、現役潜水艦が帰港してきたところを見られました。結構、海藻がついてるんですね~。ほんとくじらみたい。ゴシゴシお掃除してもらってました。そこへ上官がきたみたいで、敬礼!のあとハッチから乗り込んでいく様子も。オジサマ曰く「いいとこみられましたでぇ~。」
ちなみに海軍といえばカレーですが、オジサマいわく、潜水艦のがおいしいそうです。なぜなら食費の予算が桁違いだから具も盛りだくさんなんですと。閉塞環境の潜水艦内、楽しみは食べることだそうで、納得。 -
そのほか練習艦での練習の模様や現役で一番大きい加賀がドック入りしているところを見たり、名前は忘れたけど水中の音を探索するためだけの艦などいろいろみて、興味深いお話をききました。
-
そのあと、ここがそれか、という音戸の瀬戸を渡って江田島までいってみた。
牡蠣小屋でもないかな~と思ったけど、素朴で静かな島にはそのような観光客向けの店はなく、牡蠣の看板があるところは、こんなふうに一列に座って黙々とひたすら牡蠣を剥く、「牡蠣打ち」をしている業者さんばっかりだった。
できた製品を宅配してもらう、ことはできるみたいだけど。 -
どこもかしこも昔の軍港の名残をとどめ、今もその線で生きている印象の呉でした。戦時中には壊滅的に破壊されたでしょうに。
昭和7年、佐世保で生まれた父親は、7歳の時太平洋戦争が始まり、13歳で終戦という世代だ。出征はまぬかれたものの、多感な少年時代を困難な生活のなかで過ごし、江田島の海軍兵学校に入学することを夢見ていたと聞かされていた。グラマンやB29 が頭の上を飛んでいく日々のなかで。その江田島にいってみたかった。
調べて驚いた。イギリス、アメリカとともに世界三大士官学校の一つに数えられたのだそうだ。
江田島が兵学校の地に選ばれた理由は、文明と隔絶された静かな空間で教育に専念できることも条件に適ったからだったそうだ。たしかに。
でもやっぱりとんでもない時代のことをいろいろと考えて、身の引き締まる気持ちがしました。原爆を落とされた広島と現在は自衛隊が大きく存在している広島。
そしてwikiの戦争一覧をみて、なんと多くの戦争を人は繰り返しているんだろうとがっくり暗い気持ちになりました。いにしえから現在まで世界各地でほんとにすごい数。 -
翌日。いつも通過しているだけだった下関にいってみました。
赤間神宮も名前は知っていても見るのは初めて。
平家の話は、これまた父親からさんざん聞かされていて、宮崎県の落人部落といわれるところの村の名前が父の姓と同じなので、自称平家の末裔(笑)。
でもやっぱり、いや~これまた古の戦さの話で、血なまぐさい及びおどろおどろしい。
安徳天皇7歳で入水。波の下にも都あり、っていっても。。。
スキューバやりますけど、溺れて死ぬのだけはごめんです。磔でも火あぶりでもまだまし、と思うくらい。
墓所のほうは、ぞわぞわして近づくことができませんでした~。 -
次は長州藩がイギリス海軍にむかって大砲をぶっぱなしたという、砲台跡へいってみました。ここらあたりのお話は司馬遼でおなじみ。
「あたり一帯焦土と化した」という碑文に、またもどんより。地域住民は迷惑な話、なんてもんじゃないだろう。
それはそうと今時はアプリを使って、バーチャルで当時の様子が見られるんですね。世の中便利というか想像力をはぎ取る仕様というか。 -
お腹がすいたので、赤間神宮向いにみつけた市場にいってみました。
魚どころですから、きっとうまいものがあるに違いない。
下関ですからね~ふぐですね~宅配仕様の美しいサンプル(と思ったけど本物?)
でも、やっぱりわたしにはどってことない感じで、マンボウの固いのみたいな。
なにがうまいのかな~。
チョウザメの卵もガチョウの肝臓も、ぜんぜんおいしいと思わない。 -
押すな押すなの大盛況のこの市場。目玉は握り寿司バイキングの模様。
あちこちのお店でやっていました。人気店は長蛇の列。
さあ、どこのお店にしようかな~ -
パックに好きなものを詰めてお会計というシステムです。1個300円前後だったかなあ。
いや、まあ、確かにおいしいんですけど、なにしろネタが大きすぎて呑み込めない。アジなんか半身の下半分がそのままのってて、くいちぎってるとゴラムになった気がして、なんだかなあ。
しかもシャリが冷たくて(衛生上冷蔵して置いていあるのでしょうがないんでしょうが)、いつもの回転寿司のあったかいご飯のほうがおいしい気がした。 -
くじらは懐かしかったなあ。アナゴはふんわりおいしかった。
-
その後は萩にむかっていたのだけど、そうだ、秋芳洞にいってみようと思い立ち。
懐かしの秋芳洞。最後にきたのは下の子供がおむつがとれたばかりの1歳半の夏だから26年ほど前。こんなだったかなあ。
参道?の商店街はすっかり寂れて、廃墟もちらほら。あいてるお店は数件で、しかも何年も誰も入ってないぐらい物物が固着して根が生えてるかんじ。時がとまっていた。なんだか悲しい。
きっと修学旅行とかもう来ないんだろうなぁ。みんな韓国に行くっていうし。
余談。おむつが取れたばかりの次男は全長1キロ弱の洞窟内途中でとつぜん「雲古」宣言。どうしようもなく、そのまま出口まで。大変だったわ。トイレは必ず済ませましょう。 -
入口の小川は石灰が溶け込んでいるせいで青白くて綺麗。
実は公開されているのはほんの一部だけで、まだまだ広大な洞窟があるんだという。日本じゃセノーテはできないのかしら。あったらいいのになあ。
友人が高校時代探検部で、秋芳洞のどこかに勝手にもぐりこんだことがあるといってた。洞窟探検ですね。先生の引率もなくて自分たちだけでやったというけど、そんな時代だったのね。いまなら大騒ぎですよ。 -
こんなに広かったっけな。なかなか幻想的。でも鍾乳石はもっと白かったような記憶なんですけど。思い込みかな。子供のころは鍾乳洞といえばここしか知らなかったたけど、大人になって日本各地世界各地の鍾乳洞にいけたからごっちゃになる。というか、どこも似たようなもんか。
ちょと金田一耕助、思い出しますね。龍のアギトとか。 -
ボタンを押すと解説が流れる箱がところどころ設置されている。
お客さんはときどき行きかう程度。昔は行列だったのになあ。季節外れだからかしら。 -
これは有名、百枚田。これに温泉がながれてるとトルコのパムッカレ。
-
翌日は萩の半日観光。
茶道では茶人好みの優れた茶碗を、一楽二萩三唐津といいますが、その二位を誇る萩焼(唐津負けてます)。
ろくろ体験をしたかったけど3時には広島に帰らなくてはならないのであきらめて、まずは松下村塾へ。
激動の時代を生きた松陰とその周辺に思いをはせました。
でも、高校生の時に見たと思った記憶とは全然ちがっていた。多分岡山の閑谷学校と混同してると思われる。年取るとこんなのばっかりですね。 -
ここに、寒くても暑くても集い、端座して学び励み、熱く日本を思い、志を強くしたんですねえ。あれほど多くの人材が、こんなにも小さくて質素なまなびやから生まれたわけだ。
-
それにしても自首なんかしなければよかったのに。日本を思うならその将来のためにもそこであなたが死んじゃいかんだろーと思うのであった。
結果としてはそれが志士たちの魂の支えになったのかもしれないし、いずれにしろだから今があるってことなんだけど。
学びの小道には、松陰の心にしみる言葉が並んでいた。おっしゃるとおりそのとおり、うんうん、と深くうなづきながらしみじみ歩いた。 -
松陰神社。
どうか日本がこれからも平和でみんなが幸せでうまい具合に行きますように。
日本だけじゃなく世界全部。すばらしい場所が破壊されたり戦争でいけなくなったりしませんように。 -
残りの時間は小さい萩の町の反対側、海に突き出た半島の指月城址(萩城址)を歩いた。快晴の空に、指月山がとてもいい雰囲気で、のびやかで明るくてすごくいい場所。城跡はのんびりした公園になっていて、お弁当をもってきたらいいピクニックができそうだ。
巨大な石を使った石垣が圧巻。そこここにツワブキ(石蕗)が黄色い花を咲かせていて、つややかな葉っぱが元気だ。暖かい海辺によく自生する。萩にほどちかい津和野は、ツワがはえる野、が由来らしい。
この石蕗の若芽はおいしい山菜。子犬みたいにホワホワの綿毛に包まれたのを摘んで、手をアクで真っ黒にしながら茎の皮を剥いて煮物にするのは西の海辺の人のおふくろの味。関東人は醤油で真っ黒に煮詰めた硬いフキをありがたがるけど、石蕗の柔らかく香り高いのにくらべたら全然ですよ。ほんと。
ここは関ケ原で敗れた後に減封された毛利の居城であって、輝元は貧乏くじをひいたけど長州を立派に治めていったのだそうだ。それから250年の長きにわたって存在した城は、明治の廃藩置県の際に取り壊された。写真に残っている萩城は瀟洒かつ佇まいの美しい城で、なくなったのが惜しまれる。
城址の周りには萩焼の窯元がいくつかあって、ちいさい器をお土産に連れ帰りました。
なかなか行きにくい地域を巡ったいい旅でした。
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