1996/05/07 - 1996/05/07
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palさん
初めてベトナムに行ったのは、1996年のゴールデンウィークでした。
2週間の休暇を取って、サイゴンin ハノイout でベトナムを南から北に縦断しました。
このシリーズは、
訪れた都市順に、
サイゴン編 3泊
ニャチャン編 2泊
ダナン編 2泊
フエ編 2泊
ハノイ編 2泊
です。
縦断後、ハノイから飛び立ち、中国返還前の香港、澳門に立ち寄ったのですが、その思い出は以前に書きました。
その話はこちらです。
https://4travel.jp/travelogue/11275413
本編は、ハノイ編です。
ハノイには、2泊しました。
因みに、1996年の為替レートは、
1USドル=100円=10000ベトナムドン
と、奇跡のように計算しやすいレートでした。
当時のベトナムの最高額紙幣は、20000ドン(200円)のコットン紙幣でした。
100ドル両替すると、20000ドン札が50枚出てきて、財布がパンパンになりました。
しかも、食堂とか買い物で、20000ドンを差し出すと、お釣りないよぉ、の世界でした(=_=)
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朝、ベトナム航空オフィスへ
前日か前々日、フエのベトナム航空オフィスで、フエからハノイへのチケットを買いました。
フエ空港に直接行く必要はなく、ベトナム航空からバスが出ていました。
バスに乗り込んで出発を待っていると、おばちゃん2人が血相をかかえて、私の眼下で叫んでいました。
見覚えのある顔でした。
それは昨日夕食を食べた青空食堂のおばちゃんたちでした。
バスの窓を開けて話を聞くと、昨日はこちらの計算間違いで、2ドル足りなかったとのこと。
昨晩は、おばちゃんたちともおしゃべりしていて、私が、ベトナム航空オフィスで朝にバスに乗ると知っていたのです。
そして、不足の2ドルを払って欲しいとのことでした。。。
じゃあ、と、払いました。
それを見ていた隣席の西洋人女の子が、簡単に払っちゃうのね、と呆れていました。
友だちのおごりだったから、わからないんだ、と説明すると納得でした。
朝から、ハプニング発生(+_+)
バスは、フエの空港に出発しました。
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フエの空港からハノイに飛び立つ
フエの空港は、ビックリするほど小さな地方空港でした。
飛行機は沖留めで、バスで向かいました。
バスは、日本退役バスで、とっても懐かしいオンボロのバスでした。
そして、飛行機は、プロペラ機でした(*_*)///ウホホーい !!!
初めてのプロペラ機に興奮しました。
ハノイに飛び立ちました。
バイバイ、旧南ベトナム。
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ハノイのノイバイ空港
現在の国際線ターミナルでも、国内線ターミナルでもない、こじんまりとした施設でした。
乗り合わせたバックパッカーが、自然と集まって、バックパッカー溜まりができました。
もちろん私も参加です。
スマホのない時代は、長距離バスとか、長距離列車を降り立つと、バックパッカー溜まりが自然にできました。
これからどうする?
どこ行く?
どうやって行く?
どこに泊まる?
って、多国籍の烏合のバックパッカーズの作戦会議が始まるのです。
同じ飛行機に乗り合わせた7、8人のバックパッカー溜まりができました。
その中の一人が、全員が乗れるバンを見つけて来ました。
ハノイの街に、Go です(+_+)///
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日米豪連合小隊結成
みんな緊張していたと思います。
始めの旧北ベトナムの地です。
街の風景に釘付けでした。
バンを降ろされたのは、ホアンキエム湖のハノイ旧市街の入り口でした。
砂ぼこりの記憶があるので、まだ舗装されていなかったのだと思います。
数人が、ハノイ旧市街に突入。
私はどっちがどこなのか検討もつかなくて、もたもたしていました。
アメリカ人とオーストラリア人に、おまえも一緒行こうって声をかけられました。
心細かったので、とっても嬉しかったです(T_T)
日米豪バックパッカー連合小隊の結成でした(+_+)///
即席連合小隊で、こわごわと、ハノイ旧市街に突入しました。
今は、観光客で溢れかえっていて想像もできませんが、当時は、観光客はほとんどおらず、
とっても怖い雰囲気だったのです。
男3人のバックパッカーなので、宿は適当です。
ここでいいかって、適当に決定でした。
3人1部屋が15ドルでした。
1人5ドルです(*_*)
部屋はとっても広かったのですが、ベッドは無くて、マットレスが3つでした。。。
まあ寝られれば十分です。
荷物を部屋に放り込んで、我が小隊は、ハノイの街散歩に出かけました。
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小隊でホアンキエム湖周辺を探検
ハノイの街の雰囲気は、今まで旅してきた旧南ベトナムと雰囲気が全く違っていました。
南北の所得格差が激しくて、ハノイ人々の収入はサイゴンの1/5と言われていました。
見るからに、貧乏で、陰気な街でした。
今まで見たことが無かっのですが、男たちはハンコを押したように、
ベトコンヘルメットにカーキ色の軍服っぽい服装でした。
ベトコンじゃ(+_+)
みんなが我が小隊をじっと見つめるんです。
その視線がとっても怖かったです。
米豪人と歩いていた私に、1番キツイ視線が当たっていたような気がします。
彼らには、すかり日焼けした私が、どっかの国に亡命した同胞にしか見えませんでした。。。
小隊離れるなぁ。周りはみんなベトコンじゃ。気をつけろぉ !!!
って感じでした。
ここに入るぞ、財布に気をつけろぉ。突入!!!
って感じで、玉山祠とか、お土産屋さんに入りました。
ホアンキエム湖周辺の地図も見ることなしの、小隊散歩でした。。。
玉山祠
https://www.google.com/search?q=%E7%8E%89%E5%B1%B1%E7%A5%A0&client=tablet-unknown&prmd=minv&sxsrf=ACYBGNRU_-q6OKFPWrMAorAjxsAHGBaWww:1572682001864&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=2ahUKEwjK_cKAicvlAhXCIqYKHfWdDlcQ_AUoAnoECA8QAg&biw=962&bih=601
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小隊、Bar に突入
夕食をどうしたのか覚えていませんが、小隊でBar に行きました。
夜のハノイの街は真っ暗で、小雨が降っていました。
入ったBar は、ベトナム戦争映画でよくありがちな米兵の安らぎのような Bar でした。
カウンターの周りに西洋人が10数人。
私だけが東洋人でした。
そのころは、上司がフランス人でフランス語会話で、英語ってあまり話す機会が無かったのです。
今もアメリカ英語、イギリス英語、オーストラリア英語は苦手ですが、その時はもっと苦手でした。
話すスピードにも、イントネーションにも閉口でした(T_T)わからんっちゃ。。。
ただ一人の東洋人で心細かったです。
オーストラリア人が巻きたばこを初めて、ぶっといのを作りました。
一服吸って、隣の人に回すってやつです。
私ににも回って来ました。
むっちゃヘビーでした。。。
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我が小隊、ゴキブリ軍団と交戦す
Bar からホテルに戻ると、我が小隊の部屋はゴキブリ軍団の奇襲を受けていました。
部屋のそこら中にゴキブリがいました。
飛行隊もいました。
米豪の2人は、
敵じゃぁ、コックローチじゃぁ !!!
と、いきなり交戦開始。
でも、最新兵器の殺虫剤はありません。
原始的兵器の部屋備え付けのサンダルで、叩きまくりでした。
モグラ叩きゲーム感覚です(=_=)
殺戮は続き、交戦は、静かに寝れる深夜まで続きました。。。
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ハノイ後編に、つづく
(+_+)///フフフ
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