2011/08/17 - 2011/08/20
2490位(同エリア5151件中)
パンダ番長さん
- パンダ番長さんTOP
- 旅行記55冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 10,150アクセス
- フォロワー2人
北京旅行の3日目。北京動物園、天壇、故宮などの観光と夜のカンフーショウ観賞。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 3.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
PR
-
<観光第二日目の朝食と出発までの時間>
今日も5時半に起床。昨日と同様に5時45分に目覚しをセットしていたが、それよりも早く目が覚める。直ぐに顔を洗い、そのままテレビを見て時間を潰す。
6時過ぎに外を見ると昨日の朝も気になっていたが、遠くがスモッグで少し靄った様な感じである。
しかし、今日も天気が良さそうである。今日は昨日よりも少し早目にレストランに行く事にした。
出来る限り中国人の宿泊者に食事を邪魔されたくない。6時10分過ぎに1階に下りる。
既にレストランは開いている。本当に6時20分からなのか疑問である。既に多くの席が中国人観光客で埋まっている。
今日も既に準備をして部屋を出て来た。荷物をなるべく遠くの席に置き、飲物と料理を取りに行く。 -
料理は昨日と変わらないので、同じ様な料理と昨日食べて美味しかったパンを取り、席に着く。今日は料理を取っている間に席を取られる事はなかった。
更に料理を取りに席を立ち、戻ると昨日と同様に空いている席に中国人の子供達が座り、その傍らに母親らしき人が立っている。
しかし、その家族は料理を取りに行くでもなく、私がそれを無視して食事をしているのを見ているだけである。
その見られているのに耐えながら、私はゆっくりと食事を取った。これで負けていては、昨日と同様に中国人の宿泊客に良い様に席を取られるだけである。
結局、私が食事を終えるまで、その中国人家族はその席を離れる事なく、私の食事を見ていた。
食事を終えたのが、7時前であったが、そのままフロント前のロビーに行くと、丁度、アルバイトの賈さんがもうひとりの女性とロビーに現れた。 -
賈さんに朝の挨拶を行い、もう食事を済ませた事を言うと、賈さんもこのホテルで朝食を取る様で、その女性と共にレストランに向かった。
その後、パクさんも現れ、朝の挨拶を行い、同様にレストランで朝食を取る様で、レストランに直行した。ロビーで暫らく待っているとパクさんが5分程で食事を終え、出て来た。
そして私に、『今日は食事をゆっくり食べられましたか?』と聞いて来たので、私が、『今日も中国人観光客に席を取られました。』と答えると、『今、空いていますから、まだ集合時間までに時間もありますから、もう一度ゆっくりと食事を取って来られては?』と言われたが、『もう十分食べましたので!』と言い、そのまま、ここでみんなが揃うのを待つ。
パクさんは私を残し、ホテルフロントに向かった。そこで何やら話をしている。
7時15分過ぎに、パクさんがバスに乗る様促される。バスに乗り込み、全員が揃うのを待つ。 -
<今日最初の観光地、北京動物園でのパンダ見学>
みんなが揃うのに少し時間が掛かった。全員が揃い、バスが出たのは7時20分過ぎである。
バスは昨日と同様に北京西駅前のメイン通りを抜け、日航新世紀ホテルに向かう。
今日も、朝のこの時間帯は道が渋滞をしているが、昨日程ではなく、今日は昨日よりも早く、日航新世紀へは25分弱で到着する。そして、日航新世紀ホテルでも全員が乗り込むのに少し時間を要したが、それでも7時55分前にホテルを出る。今日最初の観光地は北京動物園である。
北京動物園は市街北部に位置し、この日航新世紀ホテルからは然程遠くない。
ホテルを出て、少し走ると直ぐに北京動物園正門前に到着した。その前を過ぎ、動物園の駐車場へバスが入る。その駐車場内でバスを降り、駐車場脇の入口から動物園内に入る。
まず向かった先は、パンダがいるエリアである。このエリアに入る為にはチケットが必要で、パクさんがそのチケット購入に走る。
そして、このチケットでこのエリアに入る前にパクさんから、『このエリアで自由行動とします。
これから入りますが、このエリアのメインはパンダ館ですが、その外の動物もいます。今8時5分です。8時30分まで自由行動で、先程の駐車場に集合とします。』と言い、エリア内にみんなで入る。入った直ぐ左手奥にパンダ館がある。 -
まだ、朝も早い時間帯なので、然程人も多くない。
館内に入ると、まず大きなパンダの写真が並び、その奥にガラス張りのパンダの檻が見える。
丁度、朝の食事時なのか、そのガラスの檻まで行くと、飼育員のいる檻の奥の入口付近にパンダが座り、“早く餌をくれよ!”と言いたげに中を頻りに覗いている。
もう少しすれば餌を貰える事が判っているのである。
そんな檻が幾つか並んでいる。それぞれの檻に1頭ずつパンダがいる。丁度、1歳くらいのパンダの様に見える。 -
このパンダ館をさっと通り抜け、外へ出ると、出口広場にはパンダの彫刻像などが幾つか並び、その前で中国人観光客が記念撮影を行っている。
再び、パンダ館の入口に戻り、パンダ館に沿って、園内の道を進むと、丁度、パンダ館の裏がパンダの屋外運動場になっている。先程のパンダ館の中の檻でパンダがいなかったところは、この屋外運動場にパンダがいた。
しかし、こちらも丁度、朝の朝食時で、殆どのパンダは入口近くで座り込み、餌の竹を食べていたり、その餌を入口部分で貰うのを待っているパンダばかりで元気に屋外の遊戯器具で遊んでいるパンダはいない。
そのパンダの屋外運動場沿いに園内の道を進み、またパンダ館出口広場に戻り、そこから今度は中国の珍獣がいるエリアに向かう。ここには西遊記の孫悟空のモデルになった猿の“金絲候”もいる。 -
ここで時間を確認すると、既に8時20分である。少し早いが、もう集合場所に戻る事にした。
このパンダエリアの入口から出て、まず集合場所に向かう前にこの北京動物園の正門前へ出る事にし、ここで北京動物園正面門の写真を取り、そこから動物園駐車場に戻った。我々のバスを見つけ、近づくとまだ半分くらいのツアー客しか戻っていない様である。
既にパクさんと賈さんはバスの前に戻っていたので、そこで少し賈さんと話をした。
賈さんは北京の旅遊学校の1年生で、日本で言う大学の1年生である。
このアルバイトは夏休みの終了する8月末まで行う予定なのだと言う。
また、今朝一緒だった女性は学校の先輩で、3年生の学生で、この同じアルバイトを行っている人だと言う。この様な話を聞いていると、パクさんから集合が掛かり、バスに乗り込む。
パクさんが全員の人数を確認し、バスが出発する。時刻は8時35分である。
ここでパクさんが、次に行く場所の紹介を始める。次に訪れるのは観光地ではなく、ラテックス工房との事である。土産物店に立寄るのである。 -
<ラテックスフォーム専門店>
北京動物園から市街に戻り、再び朝の渋滞する北京市街を走る。
この移動時間を利用してパクさんが、お土産物の紹介を行う。各自に少量の試食用の甘栗やクッキーなどを配る。どれも中国のお土産菓子としては定番のものである。
天津甘栗(剥き栗)や甘栗羊羹、パンダチョコやパンダクッキー、また烏龍茶クッキーなどである。
私も会社などへの土産物に買って帰る事を考えていたので、ここで購入する事にした。
昼食時に注文表を集めるとの事で、買いたい人はそれまでに記入をしておく様にと、その注文用紙をパクさんがみんなに配る。注文用紙での定価では1箱が70元であるが、パクさん曰く、このツアーの特別価格で、どれでも1箱が50元(約650円)である。
私は結局、甘栗羊羹やパンダチョコ、烏龍茶クッキーなど合わせて6箱(300元)を購入する事にし、注文用紙に記入する。
バスは、市街を40分程走り、あるビルの前でバスが止まった。そこでバスを降り、その前のビルに入る。
ビルに入り、入口前の階段を地下に下りる。その地下にラテックス工房があった。
ラテックス工房入口では、店員が慌しく製品の発送作業を行っている。その奥は広い展示エリアになっており、多くのベッドが並んでいる。
パクさんについて、その店内に入ると、入口脇の部屋にまず通される。その部屋には多くの椅子が並び、その椅子に座る様に促される。ここでラテックス工房の製品の説明を受ける様である。
全員が着席すると、女性店員が前に立ち、流暢な日本語で話を始める。
ここはラテックスフォームの工房で、そのラテックスフォームで造られたベッドや枕などの販売を行っている店だと言う。直営店である為に、日本で購入する価格よりも3割強安価な価格で購入可能だとの説明であった。
現在、日本でも静かにブームになりかけていると言うがあまり聞いた事がない。
その女性店員の説明ではテンピュールなどが出している低反発フォームなどのベッドや枕よりも体に優しいとの事であった。
この様な説明を受けた後、その部屋を出て、ベッドなどの展示を見る事になった。
部屋の出口近くのベッドに賈さんが気持ち良さそうに既に寝ている。それも本当に寝ている様である。今日は朝が早かったのかも知れない。
パクさんに聞くと、パクさんもこのベッドを購入し、自宅で使用しているそうだ。
パクさん曰く、本当に熟睡出来るベッドなのだそうだ。
その為にパクさんに盛んに進められるが、ベッドのマットレスで一番安いものでも5万円以上するもので、お土産で買う様なものでもないので、ここで購入する意味が良く判らない。
更に今は日本では高いのかも知れないが、人気が出れば出るほど、日本では安価になる可能性が高い。高価なものでも日本では直ぐに安価になるので、今必ず必要でない限り要らない。
それでも展示されているベッドに寝て見ると確かに寝心地は非常に良い。
しかし、これがないと眠れない様な事もないので、ただ見るだけでいた。他のツアー客の人達も同じで誰も買おうと言う人はいない様である。
女性店員は盛んに売り込みを行うが、全て空振りに終わっている様だ。
結局、この店に50分程いたが、誰も何も買う事なく、みんなで店を出る事になった。アルバイトの賈さんは最後まで同じベッドで寝ていた。
パクさんに付いて店を出て、バスに乗り込む。時刻は10時15分である。 -
<次の観光地の世界遺産、天壇公園>
次の観光地は天壇公園である。ここからは近いと言う。大通りに出ると既に天壇公園内の中心的な建物である祈年殿が正面遠くに見えている。
バスはこの通りを真っ直ぐ進み、徐々に見えている祈年殿が大きくなる。
そして、その通りが突き当ったところに壁で囲まれた場所が現れる。ここが天壇公園である。
その突き当りの通りを左に曲がったところでバスが停車し、そこでみんなが降りる。
壁の奥には祈年殿の建物が見えているが、ここからではまだ大分遠い。
その壁のところにある門前で、パクさんの入場手続きを待つ。丁度、ここが天壇公園の東門である。
そして、パクさんの入場手続きが済むと、パクさんに付いて門を潜り、公園内に入る。
公園内に入ったところで、パクさんが止まり、その場で集合する。 -
そして、パクさんが、『この公園内は非常に広く、また今日は多くの観光客が来ていますので、くれぐれも迷子にならない様にして下さい。それでは私に付いて来て下さい。』と言い、歩き始める。
天壇公園内は大きな木々はないものの、緑の多い公園で、その木々で出来る木陰も多い。
今日の様な天気が良い日は気持ちが良いが、風がないので、さすがに少し暑く、木陰に入るとほっとする。その公園内の道を進むと、回廊の様な建物が前方右手に見えて来る。
その手前でパクさんが止まり、ここで天壇公園の説明を始める。
『この前に見えている回廊は長廊と言う回廊で、祈年殿前まで繋がっています。』と言い、この天壇公園についての説明を続ける。その内容を要約すると、
この天壇は、明、清時代の皇帝が五穀豊穣を願って祭祀を行った場所で、現存する中国国内最大の祭祀建造物で、北京市街の南部に位置し、その総面積は273万m2である。
天壇は圜丘と皇穹宇、祈年殿を合わせた総称で、明代の1420年に創建された。
敷地内には圜丘と皇穹宇、祈年殿が南北一列に整然と並び、大地を象徴する南端は方形の壁で囲まれ、天を象徴する北端は半円形の壁で囲まれて、北側を高くし、天地世界を表現していると言う。
1998年に世界遺産に登録された。
今日訪れるのは、その内で最も有名な建造物である祈年殿の見学にこれから向かうのである。
この様な説明を終え、長廊内に入る。長廊内は多くの観光客で混雑している。中には、物売りのおばさんなどもいる。 -
その長廊を通り、祈年殿に向かう。その長廊の突き当たりに祈年殿へ上る階段があり、その先には門が見える。その門を抜けると、祈年殿内の敷地に入る。丁度、祈年殿の東側に出て来た。
祈年殿の正面は南を向いている。その敷地の中央に大理石の3層の基壇の上に祈年殿が建っている。
ここでパクさんから集合が掛かり、みんなが集まる。
そして、パクさんから、『これから自由時間にします。今が10時50分なので、あの入ってきた門の辺りに11時20分集合でお願いします。』と言い、ここでみんなが思い思いのところに散らばる。
私はみんなが、いなくなったところで、賈さんにお願いし、祈年殿前で記念撮影を行う。 -
賈さんが自分も1枚撮らせて欲しいとの事で、私のカメラで撮って貰った後、更に賈さんの持つカメラでも撮って貰った。祈年殿の大理石の基壇の階段近くまで行くと、変ったデザインのゴミ箱を発見し、その写真を撮っていると、ツアー客の一人の男性から声を掛けられる。
話をしてみると、その方も旅先でゴミ箱の写真を撮っていると言うが、私の様に単に変った形やデザインであるからという理由ではなく、大学でゴミのリサイクル関連の研究を行っているという准教授の先生で、その傍ら、各国のゴミ箱のデータを収集されているとの事であった。
それで、私がゴミ箱の写真を撮っていたのが気になって声を掛けてくれた様だ。
私も世界遺産を廻った際に撮ったゴミ箱の写真が数枚ある事などを話し、意気投合した。その方は家族で来られているので、その場で別れ、再び観光を続ける。 -
祈年殿の基壇の石段を上り、祈年殿に向かう。
祈年殿は瑠璃色の瓦が今日のほぼ快晴に近い空の水色に映えて、非常に綺麗である。よく見ると、各屋根は少し波打つ様に変形をしている。長年の風雨なので、変形したものであろうか?
この祈年殿は1420年に創建されたが、1889年に落雷により焼失した後、復元されたもので、毎年正月に歴代の皇帝が、ここで豊作を願った。
祈年殿前は多くの観光客で埋まっている。祈年殿の内部には入れない様であるが、22年前には、この内部に入った様に思う。しかし、今は入れない様だ。
22年前は、この祈年殿内の綺麗な天井の印象が強く残っている。祈年殿に近づき、観光客を書き分け、最前列に行き、内部の様子を見ると、内部には皇帝の玉座があり、その周りには、朱色に金色で装飾を施した、この祈年殿を支える太い柱が4本見える。
この柱は特別な柱で、皇帝の玉座の廻りにあり、龍井柱と言い、これは四季を表している。
そして、その廻りには更に12本の柱があり、12ヶ月を表している。その他に更に12本の柱があり、その柱は12の時刻を表している。
祈年殿内部を見た後、基壇を下りる。丁度、正面の階段部分中央には綺麗な大理石の彫刻が見え、各壇には樋の様なものが突き出し、各壇には模型の香炉などが置かれている。 -
その後、この祈年殿の東にある東配殿に入る。この東配殿には、この祈年殿に関する資料や模型などが展示されている。
特に観光客が注目していたのが、祈年殿の構造模型で、先程書いた殿内の柱の様子が良く判る。
この東配殿と対を成す様に西配殿が建っているが、そこは入れない様である。
祈年殿の正面方向には、この祈年殿に入る正規門である祈年門があり、そこからも多くの観光客が入って来ている。時刻は11時15分頃である。もう直ぐ集合時間なので、集合場所に移動する。
既にツアー客の殆どの人が集まっている。
入って来た時に気が付かなかったが、その門の前は鎖で柵が設けられており、何やら基石の様な石が並んでいる。その柵内に看板が立っており、それには“走柱柵走磁石”の文字が見えるが、何なのかは判らない。 -
集合時間の11時20分に全員が揃い、門を潜り、再び長廊内を戻る。
そして、少し長廊内を歩き、その長廊から外れ、木立の中で再び集合し、パクさんが、『ここで予定にはなかったのですが、良い機会なので、この天壇公園内で一般には公開されていない施設に立寄る事にします。』と言い、長廊途中にある門を潜り、その敷地内に入る。
天壇公園内の地図では“膳飲斎”と書かれた施設内である。 -
名前からして、この天壇に皇帝が来た時の厨房か、または神への供物を作った場所の様に思われる。
その中のひとつの建物前で暫く待つ事になった。
すると、先程のゴミ箱の写真などの話で意気投合した大学の准教授の先生が、12年前にこの天壇公園に来た際にも、この場所に立ち寄り、この中に展示されている書画を土産として、9万円で購入(それでもかなり値切られたそうだが)して帰った話をしてくれた。
その先生の話では、ここはこの天壇公園内にある「天壇紫薇軒画廊」なる掛け軸店なのだそうだ。
どうもこれから、掛け軸の展示の見学を行なう様である。
暫くすると、その建物の中からこれまた日本人の団体らしき人達が出て来て、その後、パクさんが戻り、我々に中に入る様に促す。
我々がその建物内に入ると、やはりその先生の言うとおり、中には多くの書画が展示されている。
その展示されている書画の中を奥に進むと、一番奥の部屋の壁際で大きな机に座り、書を書いている老人がいる。その前に全員を集め、この館内の説明員らしき女性が日本語で説明を始める。
その説明によると、この老人は中国書道会でも有名な書道家の先生との事で、あのラストエンペラーで有名な愛新覚羅溥儀の弟である溥潔という人の末裔にあたる人で、名前を愛新覚羅恒玉と言う。
今日は久々にここに来られ、ここで書画を書かれていると言う。
代々愛新覚羅の人達は書道家として優れた人が多く、一番有名なのが、溥儀の弟の愛新覚羅溥傑で、この溥傑先生の書は中国各地の重要施設に多く残っているとの事である。
確かに、私も昨年訪れた成都の武候祠で、愛新覚羅溥傑の書を見た事がある。
その恒玉先生が、目の前で書いて見せてくれ、その書を直ぐにその横で、館内職員の男性が、掛け軸状に表装を行っている。
また、同じ様な作品がその先生の後の壁にも並んでいる。また、その後も色紙に小さな絵を書いたり、書を認めたりと幾つか作品を作成後、その先生は筆を置いた。
すると、先程の説明員らしき女性が、『今日は特別に、この店に立寄って貰った記念に、恒玉先生が今書かれた物も含め、数点の作品を販売させて頂きます。』と勿体ぶった口調で言う。
書の方はさぞかし高いのであろうと思っていたら、やはりウン万円との最初の値段で、誰もその書を買うと言う人はいない。
パクさんに、『私などは書の値打ちが判らないのですが、安いのですか?』と尋ねると、複雑な表情をして、『私が言えるのは、今、この先生は生きていますので、これから同じ様な書を何枚書かれるかが判らないという事だけです。書の値打ちなどは、大きな声では言えませんが、その先生が亡くなってから価値が決まる様なところがあります。』と教えてくれる。
また、パクさんは、『有名な愛新覚羅溥傑先生の様な生前も中国各所の重要施設で、書を認めた方でも、その生前での書の価値は然程ではありませんでしたが、亡くなられた今はその書の価値はかなりのものです。本物の溥傑先生の書であれば、最低でも日本円で50万円くらいはすると思います。』と続ける。要は今現在の価値は不明、その価値は買う本人の判断次第と言う事である。
しかし、本当に目の前で書いたものであるので、興味は湧く。賈さんなどはなぜか盛んに買う事を勧める。また、それを見て、説明員の女性も私を含め、何人かのツアー客に購入を勧めるが、誰も買う人がない。
その内に近くの席でお茶が振舞われ、そのお茶を飲んでいると、再び説明員の女性が来て、先程のウン万円から2/3くらいの値段に下げて、再び売り込みに来る。
その値段なら少し考えても良いか、と思い直し、再び書を見せて貰い、更にその説明員の女性が追い討ちをかける様に落款の説明を始める。
落款には、勿論、この先生の愛新覚羅恒玉の文字と印があるが、それよりも書の引首印が非常に重要な印らしく、この印は溥傑先生も使用されていた愛新覚羅の一族に伝わる印で、これが押されている事に価値があると説明をしてくれる。
結局、その言葉に負けて、この掛け軸を買う事に決めた。
そして、その購入記念に愛新覚羅恒玉先生と購入した書を持った私で記念撮影をさせて貰った。
恒玉先生は嫌がる事なく、この撮影に応じてくれた。
同じ様に他でも数名が私と同様に掛け軸を購入した様である。
その一人は大阪の元気なおばさんの旦那さんで、私も買ったのを見て、『この様な芸術作品は男でないと判らないんですよね!』と、そのおばさんに怒られたのか、言い訳を私にも求めて来た。
私もその意見に同意はしたが、正直なところ、価値などは全くと言って良い程、判らない。
暫くその館内でお茶を飲んで後、館内を後にする。
館内を出ても、大阪の元気なおばさんは盛んに旦那さんに文句を言っている。
しかし、その文句も自分の買った土産物を館内に忘れた事に気づき、それを取りに慌てて戻った時に終わり、その後私はその旦那さんと話をしながら、長廊を歩いた。
その家族は大阪の堺から来た家族で、中学生の息子と小学校の娘さんとの4人家族で、この旅行に参加されていた。旦那さんは顔が厳つい感じで、最初は怖い感じであったが、話すと非常に気弱な感じの人で、元気なおばさんの尻に敷かれている感じが伝わってくる。
その為か、昨晩の雑技観賞は旦那さんを除いた3人が参加されていた。
その旦那さんもカメラが好きな様で、この旅行で私がどれくらいの写真を撮っているのかとか、私が世界遺産巡りを行っている事を話すと、その際にどれくらいの写真を1回の旅行で撮るのかなど質問された。
私が、デジカメに変わり、大体100枚/日くらい撮る様になった事を話すと、その旦那さんも同じ様な枚数を撮られていた様で、「やっぱりそうですか?」と言う。
その後、長廊を抜け、入って来た門手前の駐車場に向かう。そして、その駐車場に面した出口を出て、バスに乗り込む。
パクさんと賈さんが乗り込み、人数を確認するが、どうも全員が集まっていない様である。
バス前方の席で、何やら話をしていたが、その後、パクさんと賈さんが降りて、再び天壇公園内に向かっている。どうも迷子が出た様だ。
暫くバスの中で待つ事になった。10分程待ち、やっと迷子になっていた人が戻る。
何と迷子になっていたのは、あの元気なおばさんであった。掛け軸店に忘れた土産物を取りに戻り、それに時間が掛かったのか、その場で迷子になったのであろう。
私と旦那はそれにも気づかず、話をしながら長廊を歩いていた様だ。少し悪い事をした。
パクさんと賈さんがもう一度、人数を確認し、バスが出発する。時刻は12時15分である。
これで午前の観光は終了で、これから昼食場所に向かう。今日の昼食は日程表によると飲茶料理である。 -
<昼食の“湖賓商務会所”での飲茶料理>
バスは再び、大通りを走り始め、少し走ると路地に入る。その先の公園の入口らしきところの前で停車する。この公園は龍譚西湖公園で、見えている門がその北門であった。
その門の脇に建つ建物が今日の昼食場所である。時刻は12時30分過ぎである。
全員がバスを降り、その中に入る。店は近代的な造りの建物である。店の入口門には、“湖賓商務会所”の文字が見える。 -
中に入ると細長い店内で、店の右側が通路で、左側に円卓テーブルが並ぶ。
店はかなり奥まであり、店内には殆ど人がいないのになぜか、入口付近の円卓テーブルに座る様に店員に勧められる。その入口付近の円卓テーブル2つの別れ、みんなが座る。
今日は飲茶料理である。まずはみんなにパクさんが飲物を聞いて廻る。麦酒が欲しい人のみが飲物を注文し、他の人は出されたお茶を飲む。
ここでパクさんが朝に渡した土産物菓子の注文表を回収する。
飲茶料理と言う事で直ぐに料理が出て来るのであろうと思ったが、中々料理が出て来ない。他に客もいないのになぜか非常に料理が出て来るのが遅かった。
やっとの事、最初の料理が出て来た。最初に出て来たのが、卵チャーハン風ご飯である。最初からご飯?と思いながら、みんながその卵チャーハン風ご飯を取り分ける。
その後、料理が続けて出て来る。
焼きそば、焼きうどん(きしめん風うどんの)などが出て来て、次にやっと飲茶らしい饅頭風のものが続けて出て来る。結局、以下の様な料理が出て来た。
<8月19日(金)昼食:湖賓商務会所(飲茶料理)>
①卵チャーハン風ご飯
②焼きそば(オイスターソース風)
③焼きうどん(きしめん風うどんのしょうゆ焼きうどん)
④中国粥(豚肉とピータン入り)
⑤キャベツと人参の塩炒め
⑥中華風おこげ(ご飯をお餅状にしたものを焼いたもの)
⑦小龍包(肉饅頭風)
⑧花餃子
⑨ココナッツ団子
⑩パイ餃子(餡をパイ生地で包んだもの)
⑪デザート(すいか)
卵チャーハン風ご飯は相変わらず味気ないものであるが、焼きそば、焼きうどんはそこそこ美味しい。中国粥も淡い塩味(ピータンの塩味で)が丁度良い。中華風おこげもなかなか美味しかった。小龍包は“小”ではなく、少し大きめで、肉饅頭風で、肉まんにスープが入った様なものである。これは一人一人の皿に店員が取り分けて置いてくれた。また、最も飲茶風な料理だったのが、花餃子である。手の込んだ餃子であった。
最後に少し遅れて、デザートのすいかが出て来て終了である。お茶を飲み、寛いでいるとパクさんと賈さんが現れる。パクさんが、『飲茶料理はどうでしたか?』と聞くが、誰もそれらしい答えをしないが、満足と言う感じで、席を立つ。時刻は13時15分である。
そして、店を出て、再びその前で待つバスに乗り込む。これから午後の観光である。 -
<前門から天安門までの観光>
午後の観光は前門から景山公園に至る徒歩での観光である。
バスは再び北京市街の渋滞する道を進む。ゆっくりではあるが、徐々に進み、地図では昼食場所から然程遠くないはずである前門横の北京鉄道博物館(旧京奉鉄路正陽門駅)の前に到着したのは、30分後の13時45分であった。
この北京鉄道博物館はレトロな建物をそのまま利用したもので、歴史を非常に感じる。
また、その建物にある店が吉野家やケンタッキーなどと言う近代的な店なのが、またギャップがあり、面白い。その前の交差点を渡り、前門前の公園に入る。 -
ここで集合し、パクさんから前門の説明が始まる。
『今、左手に見えているのが、前楼で、右手に見えるのは前門(正陽門)です。
この前門は1420年に造られ、高さ42mの門で当時としては城内で最も高い建造物で、当初は麗正門と名付けられていましたが、1436年に正陽門に改称され、通称は前門と呼ばれています。その正面に建つ前楼はこの北京城(紫禁城)の防御門として造られた楼閣です。』と説明してくれる。
その後、『ここから地下鉄の駅を抜け、天安門広場方面に向かいます。地下で迷子にならない様にして下さい。』と言い、地下鉄の前門駅への入口を下る。
この地下鉄前門駅は多くの人達が利用している為に、階段から非常に混雑している。 -
その人混みを掻き分け、地下鉄駅改札前を過ぎ、反対側の地上に出る。
再び、この場所で集合し、パクさんが人数を確認する。人数を確認し、再び歩き出す。
歩き出すと直ぐ左手に大きな建物が見えて来る。これが毛沢東記念堂である。
ここには1976年に死去した毛沢東の遺体が安置されている。この建物横を通り抜け、更に天安門方向に向かう。
今度は右手に新しい大きな建物が見えて来る。これは最近出来たと言う中国国家博物館である。
パクさんによると、この中国国家博物館は入場無料で、中国に関する様々な国宝級ものが展示されていると言う。 -
天気が良く、非常に暑く、ここまでかなり歩いたので、汗が噴出す。少し休憩したいが、しかしここには日陰もなく、暑いだけである。もう少しがんばって歩くしかない。
右手に見えている中国国家博物館は非常に大きく、その反対側には有名な人民大会堂が見えて来る。
また、その前には人民英雄記念碑がある。
この人民英雄記念碑は高さが37.94mの石碑で、1958年に完成した。正面(天安門側面)には毛沢東の筆による『人民英雄永垂不朽』の文字に金メッキが施されている。裏側の文字は周恩来のものである。そして台座部分には、漢白玉材の8枚のレリーフがあり、それぞれ、〔虎門鎖煙(林則徐のアヘン焼却)〕、〔金田起義(太平天国の乱)〕、〔五四運動(反日愛国運動)〕、〔五洲運動(反日愛国運動)〕、〔南昌起義(共産党武装蜂起)〕、〔抗日遊撃戦争〕、〔渡江戦役(国共内戦での共産軍勝利)〕をモチーフにしている。
また、人民大会堂は、1959年に完成し、中には1万人が収容できる会議場があり、日本の国会議事堂に当たる。床面積は17万m2もあり、内部には300に及ぶ会議場などの部屋がある。
この人民大会堂、人民英雄記念碑、中国国家博物館に囲まれた広場が天安門広場である。 -
ここまで来て、パクさんが、『ここで、みんなで記念撮影を行いますので、集まって下さい。』と言う。天安門をバックにみんなで整列し、賈さんがカメラを構える。
そして、賈さんが2枚ほど撮り、みんなが解散し、思い思いに天安門をバックに記念撮影を行う。
私も賈さんにお願いし、数枚写真を撮って貰った。
ここで賈さんが一旦ツアーから離れると言う。どうも夕食までに今まで撮った写真を整理する為に会社に戻る様である。また、夕食場所で合流するらしい。
その後、天安門広場から地下道を通り、天安門前に移動する。ここで、故宮内に入る前にトイレ休憩を行う。この天安門前の歩道も多くの観光客で歩くのもままならない状態である。
トイレ休憩が終了し、全員が揃ったところで、この場所でパクさんが天安門の簡単な説明を始める。
パクさんの説明は以下の様な内容であった。
天安門は紫禁城の外城壁南端に位置する正門で、その原型は明代に建てられた承天門だが、明末に焼失し、1651年の清代に現在の規模に増築し、名前も天安門と変った。紅墻と呼ばれる高さ12mの赤い城壁の上に2層の楼閣が聳えている。
天安門前には人工の川が流れ、その上に白玉石の橋が架けられている。この橋が外金水橋で、中央の橋が皇帝専用の橋で、その両側が皇族用、その外側が身分に応じた文武官用である。
また、この天安門の中央入口上には、大きな毛沢東の肖像画が掲げられているが、これは文字通り肖像画で、油絵で描かれたものが掲げられている。その為に、1年毎に新しいものに取り替えられているとの事である。これには驚いた。写真か何かと思ったが、油絵とは!
この様な説明の後、天安門に移動する。天安門正面に行き、天安門前の白玉の橋を渡るが、さすがに中央の皇帝専用の橋は使用が出来ない様に柵が廻らされている。 -
その中央脇の皇族用の橋を渡り、天安門に入る。頭上に大きな毛沢東の肖像画が見える。
遠くから見るとその大きさは判らなかったが、その下に来るとその大きさが実感出来る。これが油絵とは信じられない。
この天安門を抜けるとその中は公園の様なところで、多くの露店が並んでいる。
ここも多くの観光客で一杯である。
その中央の石畳を進むと所々でダンボールの箱を持ち、何かを売っている。
何なのかと見ていると、青い細い包装袋に入ったもので、見ているとアイスキャンディーである。
暑いので飛ぶ様に売れてはいるが、ダンボール箱だけで融けないのだろうか?
その様な物売りの多い中を只管進むと、また前方に門が見えて来た。これが端門である。 -
<多くの皇帝が暮らした世界遺産の故宮(紫禁城)>
この端門を抜けるとまた広い広場に出る。そして、その先にはこの故宮(紫禁城)の南門である午門が見えている。その午門前まで行き、その左手の壁沿いで集合する。
ここでパクさんが入場手続きをするのを待つ事になる。ここでも物売りが多く、ダンボール箱を持って、アイスキャンディーを売っている。暑いので飛ぶ様に売れている。それを子供が買い、食べているのを見ると、こちらも食べたくなるが、食べてお腹を壊すのも怖いので、ここで買うのは、自重する。他のツアー客も同様で、同じ様な話をしている。
パクさんが戻り、手荷物に注意する様に言われ、午門へ移動する。
午門は南門でこの故宮(紫禁城)の正門である。門全体が逆凹型をし、高い赤い壁の上に2層の楼閣がある門である。
その午門を潜ると、更に目の前が開ける。ここからが故宮(紫禁城)の外朝と言われるエリアで、当時の公式行事などが行われたオフィシャルなエリアである。 -
まず、目に付くのは、午門前の広場までは下が石畳であったのが、この外朝に入ると、下が日干し煉瓦を敷き詰めた地面に変った事である。
これについて、パクさんからは何の説明もなかったが、本で読んだ知識では、これはこの外朝への侵入者を防ぐ為である。この外朝エリア内部には1m以上に及ぶ日干し煉瓦が地中に埋められていて、外部から穴などを掘って、このエリア内に侵入する敵を防ぐ為である。
また、目の前にはまた、白玉の橋が幾つも現れる。
これは、この外朝入口を流れる人工の河である金水河に架けられた内金水橋である。
天安門前にも同じ様な河と橋がある事から、この橋は“内”の文字を付けて、天安門前の橋は“外”の文字を付け、区別されている。
勿論、この橋も中央の橋が皇帝専用の橋で、ここでもその橋は渡る事が出来ない。
その橋の正面には、白玉の大きな基壇の上に建つ門が見えている。この門が太和門である。
この太和門の創建は1420年の明代で、創建当時は奉天門と称し、1562年に皇極門と改称し、更に1645年に現在の太和門と名付けられた。
この太和門は明代には“御門聴政(皇帝が臣下の上奏を聞いたり、詔勅を発する場所)”が行われた門である。
この太和門に向かうのかと思ったが、パクさんが内金水橋を渡ると、右の方へ歩く方向を変える。
どうも、太和門には向かわず、その右手の昭徳門を潜る様である。
同じ様に太和門を挟み、反対側(左側)には、貞度門がある。 -
太和門前は日干し煉瓦が綺麗に整備されているが、両側の門の昭徳門や貞度門前はその煉瓦も非常に痛みが激しくボコボコである。そのボコボコのところを通り、昭徳門に向かう。見ていると観光客の多くが、我々と同様に昭徳門を目指して歩いている。
昭徳門を抜けると、その前には非常に広い前庭と呼ばれる広場が現れ、その奥中央に白玉の3段の基壇の上に宮殿が建っている。この宮殿が、故宮(紫禁城)の中心となる宮殿である太和殿である。
しかし、パクさんはここでも太和殿方向にも足を向けない。
ここでも太和殿を素通りする様である。
基壇には、雨水の排水口が何本も突き出ている。これは天壇の祈年殿の基壇部分にも同じ様なものがあった。これについてパクさんに聞くと、中国の宮殿などでよく見られる螭(チ)という架空の動物の頭をモチーフにしたものであると言う。
この螭(チ)は龍の一種で、龍の角が生える前の存在とされ、これも皇帝のひとつの象徴なのだと言う。
この螭(チ)が基壇の排水口になり、その口から雨水が抜ける様になっている。
この前庭と太和殿の風景を見ると、映画『ラストエンペラー』の愛新覚羅溥儀の即位式のシーンを思い出す。この太和殿前の前庭に文武百官が並ぶシーンは圧巻である。このシーンを見れば、この前庭の広さと太和殿の大きさが良く判る。
この太和殿は政治、儀式の中心的な場所で、皇帝の即位式や婚礼、祝日の祭典など国家の重要な式典や儀式はすべてこの宮殿で行われた。
太和殿も入る事が出来ないので、太和殿横を抜け、その右手の中左門を抜ける。
中左門を抜けると、太和殿の奥には少し小さな中和殿が見える。
この辺りも観光客で一杯である。 -
中和殿は、太和殿に向かう皇帝が休息を取る場所である。また、ここは皇帝が諸大臣の朝拝を受けた場所でもある。所謂、皇帝の控えの間である。
その中和殿の横を抜け、更に奥に進むと、その奥に保和殿が建っている。
この保和殿は、明代は皇帝が式典の前に衣装を替える場所であったが、清代には旧暦の大晦日などにモンゴルなどの外藩の王侯を招いて宴会を行った場所である。
また、乾隆期以降は有名な中国の官吏登用試験である科挙の最終試験である「殿試」がここで行われていた。この保和殿前に行く途中で、その横の回廊部分の部屋に入る。
ここは保和殿回廊と呼ばれ、今は貴重な文物の展示スペースになっている。
パクさんは、この中に入って行く。それに付いて、我々も中に入る。
この展示スペースには清代の貴重な皇帝の衣装や生活道具などが展示されている。
展示されている物の多くが、龍をモチーフにした柄のものである。
また、衣装などは黄色のものが多い。
この黄色は清朝において、皇帝の色とされ、皇帝しか使用が出来なかった色である。
勿論、龍の図柄も皇帝専用のものである。 -
保和殿前まで行くと、各自この前で記念撮影を行う。この保和殿前には日時計なども見える。
そして、再び保和殿の右手に戻り、后左門を抜ける。
結局、どの宮殿も中を見る事なく、素通りである。時間がないにしてもこれでは、何の為に来たのか判らない。もう少しゆっくりと見学したいものだ。
この后左門を抜けると、右手に門が見え、また保和殿の奥にも門が見える。この保和殿の奥に見えている門が乾清門である。
ここでパクさんに、『九龍壁には行かないのですか?』と私が聞くと、『九龍壁には行きません。時間がありません。』とパクさんが答える。
その乾清門の右手の小さな入口から宮廷内の路に入り、その路の入口付近の門である日精門を入る。その前には、乾清宮が建っている。
ここからが内廷である。外朝が公の場であるのに対し、内廷は皇帝一家が実際に居住した場所である。建物の色合いは今迄の外朝よりも比較的派手さがなく、落ち着いた感じの色合いになり、またこじんまりした建物が多い。
この乾清宮は明代から康熙帝の時代までは“寝宮(実際に皇帝が寝起きした場所)”として使用されていたが、それ以降は皇帝が各大臣と謁見を行ったり、上奏文を処理したりする日常的な政務場所となった。また、外藩と呼ばれるモンゴルや新彊、チベットなどの王侯と接見したり、宴会を開いた場所でもある。
その奥には交泰殿が建っている。この交泰殿は乾清宮、交泰殿奥に建つ坤寧宮とともに「内廷三宮」と呼ばれている。その横を過ぎ、更にその奥に建つ坤寧宮に向かう。
ここでその宮殿の名前の書かれた額に注目すると、漢字とともに満州文字が書かれている。ここでも外朝と内廷の違いが判る。
坤寧宮は、明代には皇后の寝宮であったが、清代には満州族が信仰するシャーマニズムの神を祀る場所、または皇帝の婚礼場所として使用されていた。 -
この坤寧宮の横から再び、宮廷内の高い壁に囲まれた路を通り、万春亭の横を通り、堆秀山前に出る。
その上には御景亭が見える。その下を抜け、順貞門を潜る。
この順貞門の前にこの故宮(紫禁城)の裏門である神武門が聳え立つ。この門は当初は玄武門(玄武は北の守護神である)と呼ばれていた。 -
この神武門を潜ると、この神武門正面には故宮博物館と書かれた大きな額が掲げられている。この文字は、“郭沫若”という日本と中国で活躍した文芸家による書である。
非常に駆け足での故宮見学(見学と言っても素通りに近いが)であった。
ここで再び、パクさんから集合が掛かる。みんなが揃っている事を確認し、パクさんが、『みなさん疲れましたか?もう少しがんばって下さい。これからこの前の景山公園に入ります。前の道路を横断しますので、車に気を付けて下さい。』と言い、神武門前の道を少し左手にある横断歩道の前まで移動する。そして信号が変ると同時にみんなに道を渡る様に促す。
横断歩道を渡ると、その前には数件の屋台が並び、またその先の景山公園の入口にも店屋がある。
故宮内では土産物も飲物も、何も買えなかったので、ここで飲物を購入する。お茶を5元(約65円)で購入して、一気に飲み干す。そして、神武門前にある景山公園の入口に移動する。 -
<故宮の北に位置する人工の山、景山公園>
この前でパクさんの入場手続きを待ち、その入場手続きが済むとみんなで公園内に入る。
この公園前の通りは多くの観光客で埋まっていたが、この景山公園内に入ると、然程観光客もいない。
その公園を左手に進む。少し木立もあり、木影もあるので、先程までの故宮の様な暑さはないが、それでも汗が止まらない。先程飲んだお茶がもう汗で出てしまった感じである。
公園内を少し歩き、石段のある場所まで来たところで、パクさんが止まり、『ここで自由時間にします。体力のある方はこの石段を上って、この景山公園の頂上まで行くと、故宮の全容がその眼下に見えます。また、もう上るのが嫌な方はこの奥の木陰で休憩してもらってもかまいません。
今の時間が15時20分なので、16時にこの奥の場所に集合して下さい。頂上まで上り、下るのに20分あれば行けるはずです。それではここで解散します。』と言う。
そして、直ぐに石段を上る人やどうするか思案している人など様々である。
私はまず、石段前にある屋台の店で、再び飲物を購入する。今度は紅茶風の飲物をまた5元(約65円)で購入した後、石段をゆっくりとそれを飲みながら、上がって行く。 -
最初、石段は然程急ではなかったが、途中からその石段が急になり、手摺を持ちながら上る。
さすがに故宮内を縦断した後で、少し疲れているせいか、途中で休憩を取らないと辛い。
何度か休憩を取りながら、やっと前方に望楼の様な建物が見えてきたので、頂上かと思ったら、そこはまだ途中の望楼で、更にそこから急な階段が頂上の望楼まで続いていた。
その最後の望楼手前の階段がきつく、そこで何回か休憩を取った後、やっと頂上の望楼に到着した。
その望楼内には観音様が祀られている。その正面に廻り、その観音様の写真を撮ろうとすると、そこにいる管理者に制止された。写真を撮ってはいけない様である。
この望楼は萬春亭と言う。この景山自体が人工の山で、その高さは43m(故宮から)である。 -
この萬春亭からの故宮(紫禁城)の眺めは絶景である。綺麗な大小の瑠璃瓦の屋根が遠くまで続く光景は見たものに感動を与える。
特に夕暮れが迫るこの時間帯は西日がその瑠璃瓦の屋根に当たり、余計に綺麗に見える。
前の北京旅行の際には、この景山公園に来れなかったので、尚更この光景を一度見て見たいと思っていた。これだけでも北京に来たかいがあった。
この万寿亭を一周し、各方向の景色を堪能する。北京の街でこの景山が唯一の高所であるのが良く判る。その後、再び上って来た石段を下りる。
下りる時も急な階段ではところどころで休みながら下りる。途中で、欧米人の団体が上って来たが、少し太り気味の中年女性は急な階段に苦戦をしていた。太った人にはこの暑さとこの急な階段は非常に辛いであろう。 -
私も結局、往復で25分程要していた。階段下まで戻ると、やはり汗だくで飲物を一気に飲み干す。
既に階段下に戻っていたツアーの人達が美味しそうにアイスキャンディーを食べている。
それを見ていると私も欲しくなり、階段下の屋台の店で、オレンジ果汁のアイスキャンディーを3元(約40円)購入する。
そして、その屋台の店の隣の木陰の石の上に座り、みんなが戻るのを待っているパクさんの隣に座り、パクさんと話をする。
パクさんに、『今日の観光はこれでお仕舞いですね!』と私が尋ねると、『そうです。順調に観光が終われてほっとしています。』と本当にほっとしたという顔で話す。
そして、私が今日のオプショナルのカンフーショーについて尋ねる。
『今日のカンフーショー観賞は結局、私だけになったのですか?』と言うと、『残念ですが、そうです。それでこれから夕食に行きますが、私はみなさんを夕食場所に案内したら、今日は失礼させて頂きます。後は賈さんが相手をします。』と言う。
私が、『何で、また!』と聞くと、パクさんが、『実はこれから17時30分に北京首都国際空港に到着する次の観光客のみなさんを迎えに行かなければならないのです。』と言う。
『17時30分に北京国際空港に迎えに行くのですか?私達を夕食場所に案内してからで間に合うのですか?』と私が驚き聞き返すと、『間に合わないかも知れませんが、仕方ありません。』と半ば諦め口調で答える。
そして、『夕食後にバスで劇場まで行き、そこであなたと賈さんは下りて下さい。他の方はその後、各自のホテルへバスの運転手が送ります。あなたは賈さんが案内をします。そして、カンフーショーが終了したら賈さんがホテルまで送ります。』と言う。 -
アイスキャンディーを食べ終わり、その様な話をしているとみんなが集合した。時刻は16時過ぎである。休憩も終了し、みんなでこの景山公園の西の出口に向けて、歩き始める。
丁度、先程上った景山の麓を廻る様に西方向へ移動する。暫く歩くと、西門が見えて来る。
この西門を抜けると前には通りがあり、店が並んでいる。また、その通りの先が北海公園である。
その入口が丁度、西門前の通りにある。その西門前の通りでバスを待つ。
程なく、我々の前にバスが到着し、みんなで乗り込む。時刻は16時10分頃である。少し早いが、これから夕食場所に向かう。
バスが走り始めると、ここでパクさんが、先程私に説明してくれたこれからのスケジュールをみんなに説明する。
それを説明した後、明日の朝の出発時間の話に移る。
パクさんが、「明日は朝の早い便で帰られる方と午後からの便で帰られる方で出発時間が異なります。まず朝の早い便の方で鴻坤国際大酒店宿泊の方々は、ホテルのフロント前に5時20分集合です。
そして、日航新世紀ホテル宿泊の方々は5時40分にフロントロビー集合です。宜しくお願いします。なお、この方々の朝食はお弁当をホテルに用意させますので、ホテルのチェックアウト時に受け取って下さい。また、午後の便の方々は別途集合についてはご報告します。」と言う。明日はまた非常に早い! -
次に今日の夕食の話に移る。
今日の夕食は四川料理と言う事であるが、あまり辛くないので、心配する必要はないとパクさんが言う。
そして、パクさんが、「みなさんを夕食場所まで案内した後、申し訳ありませんが、そこで私は失礼させて頂き、賈さんが夕食時の面倒を見ます。また、各ホテルへはバスの運転手がお送りします。」と付け加える。
ここで今日の昼食時に注文した土産物菓子が注文した人達に渡される。
可愛いディズニーのキャラクター柄のビニールカバンに入れてくれている。
パクさんが注文した人達にそれを渡し、集金を行い、注文内様と間違いないかを確認する様に言う。
私も300元(約3,900円)を支払い、受け取った物に間違いがないかを確かめる。
今日も北京の夕方は道が渋滞をしている。その渋滞する道で少し時間を費やしたが、16時45分頃に今日の夕食場所である。“御膳飯庄”に到着した。 -
<北京での最後の夕食、“御膳飯庄”での四川料理>
バスを降り、店に入り、入口右手の奥の小部屋に通される。ここには丁度、円卓テーブルが二つ並び、その二つの円卓テーブルに分れ、座る。既に先にこの店に賈さんが着いていた様で、ここで再び、賈さんが現れる。
パクさんが、『これから食事をして頂きますが、その前にこの旅行の間に賈さんがみなさんの写真を撮りました。もし、その写真の中で気に入ったものがあれば、買ってやって下さい。写真は1枚80元または日本円で千円です。この購入して貰ったお金の一部が賈さんの日本語勉強の為の学費になりますので、みなさんなるべく購入してあげて下さい。』と言う。
そして、『それでは申し訳ありませんが、私はここで今日は失礼します。みなさん、ごゆっくり食事をお楽しみ下さい。』と言い、部屋を後にする。時刻は17時前である。これから北京首都国際空港へタクシーで向かうのであろうか?
それでも言われていた17時30分には間に合わないであろう!
パクさんが、部屋を出ると賈さんがみんなの飲物を聞いて廻る。そして、その注文が終わると、みんなに簡単なアルバムに挟んだ写真を配り始める。
私にもそのアルバムが渡され、中を見ると、各観光地で撮ってくれた私単独の写真が納められている。写真は日本で言う2L版の大きさで、各観光地に合わせた台紙に貼られ、綴じられている。
私のアルバムの写真の枚数は全部で8枚である。写真は非常に綺麗に撮れている。
この旅行で賈さんが非常にがんばっていたので、そのお礼も兼ねて、私は全て購入する事にした。
写真が8枚なので日本円で8千円である。この写真は自分への土産と考えれば高くはない。
その写真を見ていると、最初の料理が運ばれて来た。最初に運ばれて来た料理は、四川料理ではこれも定番的な料理の“葱と鶏肉とカシューナッツの甘辛炒め”である。
その後、次から次へと料理が出て来た。結局、以下の様な料理が並んだ。
<8月19日(金)夕食:御膳飯庄(四川料理)>
①葱と鶏肉とカシューナッツの甘辛炒め
②豚肉と玉葱の甘辛炒め
③揚げ春巻き(甘い餡の春巻き)
④チンゲン菜の塩炒め
⑤麻婆豆腐
⑥卵チャーハン風ご飯
⑦豚肉、筍、人参の細切甘辛炒め
⑧キャベツの唐辛子炒め
⑨坦々麺(激辛)
⑩卵とトマトのスープ
⑪鶏肉のラー油煮(激辛)
⑫デザート(すいか)
さすがに四川料理で激辛なものが、多い。麻婆豆腐は然程激辛ではなかったが、坦々麺は超激辛で、殆どの人が一口食べて後は箸を付けない状態であった。
また、鶏肉をラー油で煮込んだ料理も超激辛であった。見た目あっさりして料理と思っていたキャベツの炒めものも唐辛子を入れて炒めてあるので、激辛になっていた。
しかし、昼間暑い中を歩いていたせいか、この辛い料理が食を進ませた。
みんなが食事を終わる頃を見計らって、賈さんがそれぞれに配ったアルバムから買って貰える写真を聞いて廻っている。しかし、多くのツアーの人達はその写真を1枚か2枚程度しか、購入していない様である。その賈さんが私のところにやって来たので、私は全部購入する事を告げると驚いた様な顔をしていた。そして、そのお金の8千円を日本円で支払う。
結局、全部で十数枚しか売れなかった様で、賈さんは少し元気がなかった。
デザートを食べ、お茶を飲みながら、その写真を見ていると、賈さんがみんなに声を掛け、ここで夕食が終了する。時刻は17時35分頃である。 -
<カンフーショーまでの時間>
まだ、外は明るい。店を出て、バスに乗り込む。
バスは私と賈さんをカンフーショーの劇場前まで送る為に、まずはカンフーショーの劇場に向かう。
北京市街を走り、再び朝に訪れた天壇公園の祈年殿が見えて来る。
どうも劇場はこの天壇公園の近くらしい。その天壇公園から然程遠くない路地で、バスが停車する。この前がカンフーショーの“紅劇場”である。バスを降りる時に、もう会わない人達も多いので、別れの挨拶を行い、賈さんと共にバスを降りる。
そして、その場でバスを見送る。時刻は丁度、18時である。カンフーショーが始まるのが、19時30分と聞いているので、まだ1時間半も時間がある。
賈さんに、『時間までどうするのですか?』と尋ねると、『どこか行きたいところはありますか?』と聞くが、ここからどこへ行けるのかも判らないし、その場所に行っている時間があるかも検討が付かない。
そこで私が、『この辺りで時間を潰しましょう!あまり遠くへは行かずに、この辺りでお茶でも飲みましょう!』と言うと、賈さんが辺りを見渡しながら、その路沿いに歩き出す。
そして、少し歩いたところで、道端で煙草を吸い、休んでいるおじいさんに何やら聞いている。
どうも、この近くに喫茶店の様なものがあるのかを聞いている様であるが、そのおじいさんは知らない様である。そして私に向かい、『近くに食堂の様なところはありますが、お茶だけが飲める様なところはない様です。』と告げる。
そこで、『少し大通りの方へ歩き、店を探しましょう!』と私が提案する。そして、左右を見ると、来た反対側に大通りが見えているので、その辺りまで行って見る事にした。そして、大通りを目指し、歩き始める。その大通りに出る手前で、天壇飯店と書かれたビルが見えて来た。
丁度、今歩いている路と大通りとの角のビルで、大通り沿いにそのホテルの玄関がある様で、大通りまで出て、その玄関に向かう。このホテルならカフェくらいはあるであろう。
ホテルの玄関まで来ると、そのホテル1階にレストランがあるのが見えている。
ホテル内に入り、その入口の女性に賈さんが、カフェがあるかを聞いている。
そして、賈さんが、「2階に喫茶室があるが、このレストランでもお茶が飲めるそうです。」と言う。
そこで、そのレストランでお茶を飲む事にした。レストランは数組の客がいるだけである。
そのレストランの入口付近のテーブルに賈さんと共に座る。
店員がメニューを持って来てくれたので、それを見て、注文を考える。私はアイスコーヒーを注文する事にし、賈さんに何にするのかを尋ねる。
賈さんは、ホットのカフェラテを注文すると言う。その飲物を店員に注文をする。
時刻は18時15分頃で、まだ1時間弱時間余裕がある。
賈さんが、『先程の写真はどうでしたか?』と聞いて来る。
私が、『非常に綺麗に撮れてましたよ!』と言うと、『あなたはなぜ、写真を全部買ってくれたのですか?』と聞いて来る。
『それはあなたが非常にがんばっていた事と写真が綺麗に撮れていたからですよ!』と答える。
賈さんが、『しかし、他の人達は買ってくれませんでした。今日は14枚しか売れませんでした。』と少し悲しそうに言う。私が、『それは人それぞれなので写真を買うか買わないかは個人の判断です。私にはそこまで判りません。』と答える。
そして、賈さんに、『このアルバイト1ヶ月でどのくらい貰えるのですか?』と聞くと、『大体、1800元(約23,400円)ぐらいです。写真の販売代金の1割を貰えます。』と教えてくれる。
私が、『基本的な給金はあるのでしょう?』と聞くと、『ありません!写真の販売代金の1割だけです。』と答える。写真販売代金の1割?今日の販売枚数が14枚だったと言っていたので、1枚80元の1割で8元、その14倍で112元(約1,500円)である。
この4日間のツアーに同行して、たった1,500円のアルバイト代しか貰えないのである。
本当に1ヶ月で1800元も貰えるのだろうか?疑問である。このペースで行くと、休みなしで、ツアーに同行しても、1万円程度しか貰えない事になる。
私が、『それだけで生活出来るのですか?』と聞くと、『生活は充分出来ます。また、このアルバイトは寮も提供して貰えるので、良かったです。』と言う。私が、『なぜ?』と聞くと、『学校が夏休みの間は学校の寮も休みで、住めないのです。』と賈さんが言う。
どうも、夏休みの間は学生寮から追い出される様で、その間の住居を提供してくれる今回のアルバイトは賈さんに取って非常に都合の良いアルバイトであった様だ。
そこで話が学校の話に移る。私が、『学校はどの様とこに行っているのですか?』と聞くと、『北京の旅遊学校です。その日本語学科に通っています。』と賈さんが言う。
私が更に、『日本語学科の学生はどのくらいいるのですか?』と聞くと、賈さんが、『300人程います。』と答える。『1学年100人程度ですか?』と言うと、『いいえ!1学年に300人程います。』と賈さんが言う。すると、日本語学科だけでも1,200人ほどいる事になる。
私が、『そんなに学生が多いのですか?』と言うと、『はいそうです。しかし、これくらいの学生人数は普通です。』と言う。さすがに人口の多い中国である。学校1つを取ってもスケールが違う。
また、賈さんは家族についても話をしてくれる。
賈さんの家族は、元々は黒龍江省のハルピンの出身で、現在家族は父親の仕事の関係で、山西省の省都である太原に住んでいると言う。また、父親は“媒”関連の仕事を行っていると言うが、賈さんもその“媒”に当たる日本語を知らない様である。
そこでメモ帳を出して、色々漢字で書いて見ると、それが石炭を表している事が判った。
賈さんの父親は石炭鉱山関連の仕事を行っているのである。しかし、更に詳細に聞いていると、炭鉱夫ではなく、炭鉱管理者の立場の人である様だ。
その為に比較的中国国内でも一般家庭に比べ、裕福ではあるらしい。
勿論、賈さんも中国の一人っ子政策で、一人娘である。それでも親に苦労を欠けない為に北京での学校生活の資金稼ぎを行っているのである。
北京に勉強に来てからは、その太原の家族に会いに帰ってはいない様である。
そして、陰暦の12月30日(来年2月中頃)には山西省の太原の両親のところに帰る予定だそうだ。それで旧正月を家族と過ごすのである。
ここで賈さんが、少しでも日本語を勉強したいと言うので、色々と日本語について賈さんの質問に答える。
また、中国での反日教育が気になっていたので、その事について聞いたが、その話は賈さんにはピンと来ない様である。
この様な話をしていると、時刻は19時になっていた。もうそろそろ時間である。
席を立ち、店員に精算をお願いする。ここでの喫茶代金は私が支払う事にし、その代金の57元(約740円)を支払う。100元紙幣で支払いを行なったが、そのお釣が中々貰えず、ここで少し時間を要した。お釣を受け取り、急ぎ劇場前に戻る。
辺りは何時の間にかすっかり日が暮れ、暗くなっている。
劇場前まで戻るとその前の道はこのカンフーショーを見に来た人達の車で一杯である。
ここで、賈さんが、『この場所で少し待っていて下さい。』と言い、劇場前の駐車場脇で私を置いて、劇場方面に歩いて行く、そして劇場入口で何か女性と話をして、再び私の近くに戻りながら、仕切に辺りを見渡して誰かを探している。
しかし、見当たらない様で、歩きながら携帯電話を掛け始めた。私のところに来る少し手前で立ち止まり、電話を続けているが、どうも繋がらない様で、何やらイライラしている。
時刻は19時20分前である。あと開演まで10分程である。
再び、賈さんは私のところへは戻らず、もう一度劇場入口に行き、先程話をしていた女性に何か必死に訴えている様である。そして、その女性から何かを受け取り、私のところに走り戻って来た。
そして、『お待たせしました。それでは劇場にご案内します。』と劇場入口に誘導してくれる。
先程の劇場入口の女性に賈さんが挨拶を行い、私と共に劇場内に入る。 -
<カンフーショーの観賞:紅劇場>
そして、劇場ロビーを抜け、観客席に案内してくれる。
席は観客席左手の真ん中よりも少し前よりの席で、観賞には問題ない席である。
その席に着き、賈さんが、『私は劇が終わるのを、このロビーで待っていますので、ゆっくり観賞して下さい。』と言い、席を離れる。
そして、程なく劇場内の照明が暗くなり、カンフーショーが始まる。
まず、その始まりは、ステージの左手に置かれた大きな太鼓が叩かれる事で始まった。
劇が進む中で判ったが、このカンフーショーは一人の幼い子供が母親から離れ、少林寺に入門する事から始まり、その僧侶が煩悩との葛藤と、修行の苦悩を経て、立派な僧侶になるまでの一生を劇にし、カンフーの激しい動きを取り入れ、表現をしている。
残念な事に、カメラでの劇中の撮影は禁止の様で、カメラを構えると直ぐに劇場係員が席に現れ、制止された。フラッシュ撮影を行っている訳ではないが、それでも撮影は禁止なのである。
劇は先程も書いた通り、子供の出家のシーンから始まる。嫌がる子供を母親が少林寺の僧侶に託すシーンから始まる。何とか、その子供を同世代の僧侶が招き誘い、寺に入門をさせる。 -
そして、その寺での仏教修行や拳法修行の中での女性や母親に対する煩悩との葛藤シーンなどを激しいカンフーの動きを織り込み、表現し、その後、同じ世代の僧侶の助けも受け、立派な僧侶となるまでを劇に仕上げている。それぞれのシーンで、上手くカンフーアクションを織り込んでいる。
最後には、その僧侶が今度は、幼い日の自分と同じ様に母親から離れられえず、出家を嫌がる子供を誘い、寺に入門させる事で、この劇が終了すると言う構成である。
劇の時間は1時間半もなく、1時間ちょっとであった。
この劇場に訪れている人達も昨日の雑技と同じく、欧米人が多い。日本人も殆どいない様である。
結局、席もかなり空いた状態であった。
劇が終わり、席を立ち、劇場ロビーに出ると、ロビーで賈さんが待ってくれていた。
また、劇場ロビーには出演した僧侶姿の役者が数名立っており、見に来てくれた人達と記念撮影を行っている。私も賈さんにお願いし、この役者と撮って貰う事にした。
役者はちゃんと撮影の時にカンフーのポーズを取ってくれ、写真に納まる。
そして、賈さんと共に劇場を出て、前の通りでタクシーを捕まえる事にした。 -
<鴻坤国際大酒店までの帰りと北京最後の夜の時間>
しかし、多くの観客が同じ様にタクシーを捕まえる為に、この通りに集中しているので中々、上手くタクシーを捕まえられない。
その内に賈さんがイライラして来ていたので、私が『慌てなくても良いですよ!何なら、大通りまで出た方がタクシーを捕まえ易いのではないですか?』と言うが、それでも賈さんはここでタクシーを捕まえ様と必死である。
やっとの事、タクシーを捕まえ、乗り込み、行き先を告げ、タクシーが走り始める。
少し走ると賈さんがホテルまでどれくらい時間が掛かるかを運転手に聞いてくれた。
ホテルまでは15分程で到着する様だ。この時間帯になってもかなり北京市街は車が多く、大きな渋滞はないが、ところどころで渋滞している。
予定よりも少し掛かったが、20分程でタクシーは鴻坤国際大酒店に到着した。
タクシーを降りて、ホテルのロビー内に入る。
すると丁度、ホテルのロビーには、北京首都国際空港へ次のツアー客を迎えに行ったパクさんが、そのツアー客を連れて来たのか、ロビーにいる。そのパクさんに声を掛ける。
パクさんから、『カンフーショーはどうでしたか?』と聞かれ、『初めてだったので面白かったです。』と答え、賈さんにパクさんが何かを言っている。
ここで明日は帰国なので、賈さんに良ければ、私の撮った写真を送付したいので、住所を教えて欲しいと言うと、快くOKを貰い、メモ帳にその住所を書いて貰う事にする。
しかし、その住所は学校の寮の住所で、9月までは今のアルバイトの旅行会社の寮に入っていると言う。その事を了解し、住所を書いて貰った。
それを書き終えた賈さんから、私の住所なども教えて欲しいと言われたので、住所などをメモ帳に書き、そのページを破り、渡す。
パクさんには名刺を貰いたかったが、今は名刺を切らしているとの事で貰えなかった。
もう賈さんは明日の早い出発には同行しないとの事で、ここでお別れである。
お礼を言い、また手紙を書く事を約束し、パクさんとは再度、明日の集合時間などを確認し、二人と別れる。時刻は21時30分過ぎである。
部屋に戻る前に今日も1階のコンビニで、飲物としてお茶2本を10元(約130円)で購入する。
そして部屋に戻り、まずは簡単にシャワーを浴び、部屋着に着替え、明日の出発準備を行う。
今回の旅行でもお土産を買わない様に心掛けてはいたが、それでもついつい買ってしまい、帰りの荷物が増えている。なるべく旅行カバンに詰めて身軽になりたい。
纏められるものは纏め、手荷物を少なくする。問題なのは、明の十三陵の駐車場で買った桃である。
これをまだ食べずに持っている。どうしようかと考えていると、これは日本に持って帰れない事に気がつく。確か、果物類や植物の種などは日本へは持ち込めない。
そこで、ここで捨てる事も考えたが、勿体ないと思い、税関で見つかる事を覚悟で、持って帰る事にし、リュックサックの底にしまう。
あとの重い物はなるべく旅行カバンに無理やり詰め込む。この整理にかなりの時間を要した。
時刻は既に23時になっていた。明日は4時半起きである。もうそろそろ寝なくてはいけない。
まあ、多少寝不足であっても明日は帰国のみであるので、帰りの機内で寝れば良い。
しかし、それでも23時半過ぎにはベッドに潜り込み、就寝した。
今回はここまで! 明日は北京からの帰国旅程。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
42