2011/08/17 - 2011/08/20
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パンダ番長さん
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北京旅行の2日目。北京周辺観光の1日目と雑技観賞。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 3.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
-
<北京観光第一日目のホテルでの朝と朝食>
朝5時半頃に目が覚める。持って来た目覚し時計は5時45分にセットしていたが、鳴る前に目が覚めた。少し早いが起きて、洗面を行い、テレビを点け、時間を潰す。
今日の朝食は6時20分から1階のフロント奥のレストランで取れる。
再度、今日の持ち物を確認し、身支度を行う。今日の集合時間が7時なので、朝食を食べに行き、一旦部屋に戻る時間はないと思い、朝食後直接集合場所のフロント前に行くつもりである。
部屋のカーテンを開け、部屋の窓から外を見ると、丁度、明け始めた少し薄暗い中にホテルの様な近代的な大きな建物が見えている。
その建物の上には望楼の様な建物が造られている。近代的な建物の中に古いモダンな建物を組み合わせた様な造りになっている。ホテルであろうか?方角が定かではなく、地図を見てもこのホテルの周辺にはそれらしき、ホテルの表示はない。写真を撮り、後でパクさんに確認する事にした。
テレビを見ているとモーニングコールの電話が鳴る。それを取り、その後部屋に置いて行く旅行カバンに念の為、鍵を掛け、部屋を出る。 -
エレベーターで1階に降り、朝食のレストランに向かう。レストランの入口には多くの中国人の宿泊客が入口で受付を行っている。その列に私も並び、ルームキーを見せる。
レストラン内に入ると大きなホテルの割には少し狭い感じのレストランである。開いている席にカメラなどを置き、飲物や料理を取りに行く。まず飲物を取りに行き、席に戻ると既に中国人の家族連れが、私の荷物が置いてあるのも関わらず、座っている。
仕方なく、別の席を探し、飲物とカメラなどを置き、再び料理を取りに席を離れる。
料理は西洋風ではなく、どちらかと言うと中国風の朝食スタイルの料理が多い、お粥や中華料理、肉まん、花巻き、焼そばなどの点心類が並ぶ。
しかし、ソーセージや食パン類などもあるので、すべてが中国風という訳でもない。
和洋折衷ならぬ、中洋折衷と言うところか?
適当にソーセージや肉まんなどを取り、あと胡桃パンなども取り、席に戻ると、またもや席が中国人の家族に取られている。どうも荷物などが置かれていても中国人はお構い無しに席が空いていれば、かってに座る様である。本当にマナーの悪い国民である。
再度、空いている席を探し、座って食事を開始していると、日本人の観光客の人が声を掛けて来た。
どうも席がもう満席状態に近い様で、私が座っている4人掛けのテーブルで席が空いていないかを聞いて来た。
遠慮なく座って貰う様に促す。その日本人観光客は親子連れで、親子連れと言っても、息子さんは私と同年代の方で、お母さんはもうかなりの年齢の様に見える。
そのお母さんの残し、息子さんが料理を取りに席を離れる。その時に私がお母さんにどこから来られたのかを問うと、「埼玉県から昨日、このホテルに来ました。」と言う。
私も昨日、このホテルに来た事を告げると、その親子連れは昨日の夜中にこのホテルに到着した様である。そのおかあさんは年齢が84歳で、海外旅行が好きで、高齢になってからも幾度も海外旅行に行っているのだそうだ。
その様な話をしていると、息子さんが席に料理を持って戻って来た。そこで再度、息子さんに私も昨日、このホテルに来た事や今日の予定を話すと、同じ様な日程らしく、その親子連れも今日は北京郊外の観光で、万里の長城や明の十三陵に行く予定なのだと言う。
更に会話を進めると、今回が初めての中国旅行なのだと言う。今まではヨーロッパなどの国々には良く行ったらしいがアジアの国々はあまり行っていないと言う。私とは正反対である。
その様な会話をしながら、食事をしていたが、時計を見ると、もう6時50分を過ぎている。その親子連れのツアーも20人くらいの団体で、今日の集合時間が7時半との事で我々よりも少し遅い。
私が7時の集合なのでと挨拶を済ませ、先に席を立ち、レストランを出る。
そしてフロント前に行くと、既にパクさんがフロント前にいる。そのパクさんとホテル玄関付近の椅子に座り、少し話をする。先程、部屋から見えていた建物をカメラの写真を見せて聞くと、それは北京西駅の建物であった。そして集合時間の7時になり、殆どの人達が集まる。
パクさんが集まった人達は先にバスに乗り込む様言うので、ホテル玄関前に止まっているバスに乗り込む。
程なく、パクさんと最後のツアー客がバスに乗り込み、鴻坤国際大酒店を出発する。
時刻は7時5分である。
-
<今日最初の観光地、西太后の愛した世界遺産の頤和園>
バスはホテルの裏手に廻り、北京西駅に繋がる道を北京西駅と反対側に走り出す。朝の早い時間帯にも関わらず、既に大通りには車が多い。
少しその道を走り、更に交差する道を曲がるとその道は渋滞している。この渋滞した道を15分くらい走り、再び交差する道を曲がる。そして、数分で日航新世紀ホテルに到着した。
ここでまた何人かツアー客が合流する。パクさんがバスを降り、そのツアー客を集めにホテルへ入る。少しして、続々とツアー客がバスに乗り込み、ほぼ席は満席状態になる。
ツアー客の総勢は23名。簡単にツアー客を説明すると、私と同じ便で関西空港から来た人達が、私を含め、18名。4人家族が3組、3人家族が1組、そして2人組みと私である。それと昨日の昼頃に北京に到着した人達が3人家族と2人組みで、5名である。
更にここから、可愛らしい女性が1人加わった。パクさんの助手で、アルバイトの賈さんである。
このメンバーでこれからの観光に出発する。時刻は7時35分である。
ここでパクさんから今日の大体の日程が報告される。
今日はまず、これから頤和園に行き、その後シルク工場に立ち寄り、郊外の明の十三陵に行く。
そして昼食後、万里の長城へ行き、北京市街に戻り、夕食という予定との事である。
ここから頤和園までは15分程であると言う。
ここでパクさんから簡単な頤和園の説明が行われる。その前にパクさんがみんなに、「皆さん、まず中国の歴史上の人物として思い浮かぶのは誰ですか?」と問いかける。
誰もその問いかけに答える事がないが、パクさんが答えて欲しい答えは誰もが判っている。
これから行く頤和園は、かの西太后が愛し、生活した場所である。パクさんがみんなに名前を出して欲しい人物は西太后なのである。
その西太后の話をパクさんが始める。
西太后は、咸豊帝の妃で、後に咸豊帝の唯一の男子である後の同治帝を生む。
咸豊帝の死後、幼い同治帝の後見人になった際に同治帝の皇后であった東太后と共に三頭政治を行う(もう一人は恭親王)。
パクさんのここでの説明は非常に簡単なものであった。そこで更に少し付け加えて説明をすると、
息子の同治帝が結婚を期に親政を行おうとして西太后に逆らい、それが基で同治帝を幽閉する。
幽閉された皇帝は若くして死去し、血縁の強い妹の子供である光緒帝を皇帝に据え、再び三頭政治を行う。
西太后は東太后の若い死去や恭親王を失脚に追い込むなどで黒い一面を想像させるが、西太后自身はそれ程の悪人ではなく、この事は後の人達が創造で作り上げた人物像に近い。
東太后の死去も脳卒中などの病気とされ、また恭親王の失脚も自らが招いた政治的な失敗が原因と言われている為である。
しかし、この2人が居なくなった後の西太后は浪費家として、清朝を苦しめる。
真偽の程は定かではないが、清の北洋艦隊の軍事費を頤和園の増改築などに当てた為に日清戦争に破れ、清朝滅亡への引き金になったとされている。
この様に西太后は、“悪女”“浪費家”と言う印象が強い人物なのである。
最近の日本では浅田次郎著「蒼穹の昴」を原作とした日中合作テレビドラマが話題となったが、その主人公がこの西太后である。原作となった浅田次郎の「蒼穹の昴」は読んでいたが、この本は西太后を悪女としてではなく、一人の時代の潮流に翻弄された女性として描いている点が非常に面白い作品であった。テレビドラマは見ていないが、その当りをどれ程表現出来ているのであろうか?
その様な話をパクさんがしている内に、大きな道から外れ、長い塀が見えて来る。
この塀の向こう側はもう頤和園である。この道沿いにバスが止まり、ここから入口までは歩いて行く事になる。 -
この頤和園は約290万m2という途轍もない広さがあるが、その大部分は人口の湖である昆明湖が占めている。頤和園の約75%が昆明湖である。
頤和園は、この広大な敷地内を5つのエリアに区分されており、全部を見て廻ろうとすれば、1日あっても時間が足りない広さである。当然、これからの観光も代表的な地区に限定してのものになるであろう。
もう少し付け加えて説明を行うと、この頤和園は1750年に清の乾隆帝が崇慶皇太后の長寿を祝い、造営した庭園が前進で、始めは清猗園と言った。昆明湖は杭州の西湖を模し、江南地方の風景をこの庭園に移すとともに、中国伝統の神仙蓬莱思想を庭園の各所で表現している。
バスを降り、塀沿いの歩道をこの頤和園の正門である東宮門に向かって歩いている様である。
途中、文昌院への裏口が塀のところに見えて来る。その前を過ぎ、一旦塀沿いから離れ、東宮門前の広場に到着する。ここで、パクさんが全員を集め、人数を確認する。ちゃんと、最後尾に賈さんがいるので、問題ない。
人数を確認し、暫くこの場で待つ様に言われ、パクさんが入場券購入に走る。
それにしても朝の早い時間帯にも関わらず、既に多くの中国人観光客が東宮門前に集まっている。
パクさんが戻り、再び東宮門を目指し、歩き出す。 -
東宮門前の石段の中央には皇帝の通り道である龍の彫刻を施したスロープがある。その場所は柵で覆われ、入る事は出来ない。その左右の石段を上り、東宮門に上がる。
東宮門の中央が入口になっており、我々団体が一列に並び、入場チェックを受け、頤和園内に入る。
入る前に門を見上げると、中央には“頤和園”の浮き彫りされた金文字の額が見える。
面白い事にその文字の周りには印章も合わせ、浮き彫りで表現されている。
どういう意味があるのだろうか?
東宮門を入ると、中は木々が生い茂り、意外と緑が多い。その先の塀のところに、また門が見えている。これが仁寿門である。この辺りは頤和園の5つのエリアの中の宮殿区と言うエリアである。
この仁寿門を潜ると、その前には大きな岩が道を遮る。
この岩は、パクさんの説明によると“太湖石”と言うもので、中国の蘇州付近(実際は無錫)にある太湖周辺の丘陵から切り出される穴 の多い複雑な形の奇石の事である。
この太湖石を廻り込むと、前には仁寿殿が見える。 -
この仁寿殿は、皇帝が政務を執っていた建物で、1750年に乾隆帝により建てられ、当初は勤政殿と言われ、1860年に英仏連合軍により焼き払われたが、1888年に再建され、その際に仁寿殿と改められた。1902年以降は西太后と光緒帝がここで外国公使などと謁見した場所である。
仁寿殿前の中央には、麒麟の銅像がある。麒麟とは、頭が龍、胴体が蛇、角は鹿、蹄は牛という姿である。また、仁寿殿の前庭のところに柵があり、その内側には龍(皇帝の象徴)や鳳凰(皇后の象徴)などの瑞獣が並んでいる。 -
瑞獣とは、古代中国で動物の長として重視された霊獣で、この瑞獣が出現すると瑞兆とされた。
パクさんによると、この瑞獣の置かれている位置にも意味があると言う。
本当なら皇帝の象徴である龍が中央に近い位置に置かれるのが普通であるが、この仁寿殿の前庭には龍よりも鳳凰の方が中央に置かれている。乾隆帝が建てた当時は、この位置が反対で、龍が中央に近い位置に置かれ、鳳凰はその外に置かれていたが、再建当時は、西太后の三頭政治の真っ只中であったので、その位置が鳳凰の位置の方が中央に来ている。 -
麒麟は皇帝の仁のある政治の象徴として、この宮殿前に鎮座している。
残念な事に仁寿殿内は先程も書いたが、前庭部分から柵で囲まれているので見る事が出来ない。
その仁寿殿の左手から外に出る。その先にはこの頤和園の敷地の大部分を占める昆明湖が見える。
その昆明湖の湖岸まで行き、昆明湖岸からの眺めを楽しむ。
この昆明湖は人工湖で、この湖を掘った際の土で造られたのが、この湖岸から見えている万寿山である。その万寿山の頂上には仏香閣が聳えている。今日は本当に天気が良く、その仏香閣が非常に綺麗に見えている。また、目を転じると、少し遠いが、前にはこの昆明湖内に造られた人口の島が見え、湖岸からその島に架かる大きな石橋が見えている。 -
この人工の島は南湖島と言い、架かっている橋は十七孔橋と言う。パクさんによれば、敷地内があまりにも広いので、この近くから南湖島へは渡船が出ていると言う。
また、この湖岸近くには望楼も見える。これが文昌閣である。
この湖岸で少し、昆明湖の景色を楽しんだ後、再び、この湖岸沿いに並ぶ宮殿の一部に入る。
玉瀾(ぎょくらん)門を入り、玉瀾堂の前に出る。
この玉瀾堂は四合院形式の建物で、皇帝の居所であったところである。1984年の日清戦争の敗北から清の国政が傾き、その事に憂慮した光緒帝が西太后の傀儡から脱しようと変法派とクーデターを計画するが、その動きを知った西太后は袁世凱らの武力を使い、変法派を弾圧した。これが戊戌(ぼじゅつ)の政変と言われ、この際に光緒帝が西太后により、ここに軟禁されていたのである。この軟禁されている時に義和団事変などが勃発し、清朝の衰退を招く一因となったのである。
この玉瀾堂も中には入れないが、今も当時皇帝などが生活した際に使用した様々な物が残されている。ガラス扉の隙間から中の様子が少し、見えるがガラスが曇っている事と天気が良すぎて、ガラスに光が反射して中の様子が良く判らない。 -
その後、夕佳楼の横を抜け、宣芸門を潜る。この門を潜るとその奥には宣芸館が建つ。
この宣芸館は皇后の居所で、ここも四合院形式の建築で、ここにも庭には大きな太湖石が置かれている。ここも中には入れず、ガラス扉から中を覗くだけである。
そこから回廊を伝い、更に奥に進み、楽寿堂の前に出る。ここは西太后が起居したところで、この建物の中央部分が西太后の居室である。この建物も前庭部分の動物の銅像が並ぶ前に柵が設けられ、それ以上中には入れない為に堂内の様子が判らない。
この建物の西側部分が西太后の寝室で、当時使用したベッドなども残っていると言う事であるが、ガラス扉からはその様子も良く判らない。 -
その左右の建物にもその当時に使用した家具類などが収められており、その家具類はガラス扉から確認が出来る。そこから再び、昆明湖岸に出る。その湖岸沿いに長い渡り廊下が続く。
この渡り廊下が湖岸区を横切る長廊である。その入口部分の門の前で、パクさんが集合を掛ける。
ここに来て、観光客が非常に多くなって来た。中国でも夏休み中で、親子連れが非常に多い。
パクさんに聞くと、普段の休日でさえも、この頤和園には観光客が1日に10万人を超える人が訪れると言う中国人にも人気の観光スポットになっているのだそうだ。
パクさんが、全員揃っている事を確認した後、長廊内を進む。長廊の入口門は邀月門である。 -
この長廊は長さが728mもあり、柱の間は273間もある。丁度、万寿山に建つ仏香閣の麓を抜け、更に西側に続いている。
22年前にもこの長廊を通った。その時の印象は記憶に残っている。非常に柱間の絵画の綺麗さに当時は感動した。そのモチーフも中国の読物を題材としたもので、三国志や西遊記などの絵画があったのを覚えている。
しかし、その際はその色彩の鮮やかさに感動したが、今の長廊の色合いとはイメージが違う。
この事をパクさんに言うと、数年前にこの長廊は修復工事を行ったとの事で、22年前のものはそれ以前に修復が施されていたもので、その修復の違いかも知れない。
その様な事を考えながら、長廊をゆっくり歩いていると、パクさんがどんどん先に歩いて行っており、既に私とは30m程離れている。
しかし、まだ私の後ろにも多くの同じツアー客が他の観光客に遮られ、私の後方30m程手前にいる。そこでパクさんに大声で、呼びかけ、待って貰う様にする。この長廊はほぼ直線的な渡り廊下なので、ここを通っている限り、逸れる事はないであろうが? -
私がパクさんのところに追い付き、その場で少し後続のツアー客を待つ事になる。
みんなが揃い、再び長廊を歩くが、仏香閣の下辺りに建つ、寄瀾亭という建物辺りで再び集合する。
頤和園の見学はここまでの様である。
私がパクさんに、「石舫まで行かないのですか?」と尋ねると、「時間がないので行けません。」との答えであった。22年前には、この長廊を石舫まで歩いた記憶がある。
ここで、ツアー客が思い思いに記念撮影を行っている。また、アルバイトの賈さんが、立派なデジカメを持ち、みんなを撮っている。
私も賈さんにお願いし、私のカメラで昆明湖をバックに記念写真を撮って貰う。すると、賈さんが自分の持っているカメラでも撮らせてほしいと言うので、そのまま同じところで、撮ってもらう。
ツアー客が写真撮影を終えると、来た道を逆に戻り始める。 -
長廊から楽寿堂、宣芸堂、そして仁寿殿の裏を抜け、東宮門に向かう。
その途中で、パクさんに私が22年前の天安門事件の1ヶ月程前にここに来た事を話す。
するとパクさんは、「1989年の天安門事件の時、私は中学生でしたが、親戚のお兄さんが当時北京大学の学生で、そのお兄さんから後日その当時の様子などは聞きました。当時の中国は、非常に政情不安で、天安門だけではなく、当時は同時にチベット、台湾などでも反政府運動を起こす事が計画されていたのです。」と話してくれた。
この様な話をしていると東宮門に到着し、その門を抜け、その前の広場で再び集合する。
全員が揃う間に、パクさんが煙草を取り出し、吸い始める。煙草を半分程吸って、集まったツアー客の人数を確認する。全員がいる事を確認し、再び歩き始める。
その際に先程の話の続きが始まる。
パクさんによると、「楊尚昆や江沢民の時代に比べると、今の中国は非常に良くなりました。その点から言うと、胡錦濤や温家宝は良くやってくれています。その事から今はまだ中国政府を支持する人民が大多数を占めています。反政府の人民は極少数です。しかし、この間も外国ではニュースにはならなかった様ですが、新疆ウイグル自治区内で、反政府の組織が政府施設を占拠すると言う事件がありましたが、占拠した反政府組織の人達を全員射殺して事を納めたという事もありました。」
と教えてくれる。
そして、再び塀沿いの道を、バスを降りた辺りまで戻り、その近くで停車していた我々のバスに乗り込む。時刻は8時50分頃である。バスに乗り込むと少しは暑さを凌げる。
全員が乗り込み、最後にアルバイトの賈さんが乗り込み、人数を確認している。全員が揃っているのを確認後、バスが走り始める。
パクさんが、次の目的地を話し始める。次はシルク工場に立寄るとの事である。ここから然程遠くないと言う。
バスは小さな路地道から大きな通りに出て、少し走り、交差点で強引にUターンを行う。そのUターンを行った交差点脇の建物のひとつが、これから見学するシルク工場である。 -
<北京市街のシルク工場見学>
その敷地内に大通りからバスが入る。
そして玄関らしきところの前でバスが止まり、全員が降り始める。バスを降り、入口でこの工場の女性から入場証を手渡され、首から掛けて、工場内に入る。
入口上には、“中国絲綢(チャイナシルク)”の文字が見える。
中に入ると1人の女性が我々を出迎えてくれる。その女性が生糸の説明を行ってくれる。 -
まず、標本瓶が並ぶ机に移動し、蚕の成長過程の説明を行い、また別の机では繭から生糸と生糸の塊の取り方を説明してくれる。その説明の後、その部屋脇の階段を上り、2階に上がる。
2階の手前の部屋では、生糸の塊を伸ばし、布団の綿状に生糸を重ねる工程の説明を行い、実際にツアー客の子供達や女性にその塊を伸ばす工程を体験させているが、素人にはなかなか均等に伸ばす事は難しい様である。
その奥の部屋が販売所になっており、シルクの布団などの販売を行っている。全く同じ様な光景を西安旅行の際にも見た。 -
本当に値段も日本で買う事を考えれば安く、物も安心して買えるものではあるのだろうが、それでもシルクの布団は高く、また土産物としては荷物になる。この点で既に買う気になれない。
ツアー客の誰もこの布団は買う人がいない。
こんな安価なツアーに参加している人達に高価な土産物を勧めても、買う人は少ないであろう。そんなお金があれば、もう少し高いツアーに参加している。その後、再び1階に降りると、そこはシルク製品の小物の販売所である。そこで少し土産になる物を探す。
まず目に付いたのは、シルクの子供服である。可愛らしい女の子の服が並ぶ。柄は中国風のもので、比較的原色に近い派手な感じの物が多い。サイズが判れば、親戚の子に買って帰ってやりたいが、こればかりは少し冒険になる。買って帰って、着れなければそれまでである。
まずはそこをパスし、小物を探す。するとパンダ柄のペンケースの様なものを売っている。これを土産に買って帰る事にした。その後、再度女性店員が熱心にシルクの子供服を勧める。
もう一度、その場に戻り、思案しているとまずは値段を確かめる事にした。そこで女性店員に値段を聞くと、1着が450元(約6,000円)だと言う。一応、値切って見るが、少しも値段を下げてくれない。それなら買わないとその場を離れ様とすると、幾らで購入したいのかと聞かれ、300元以下と言うと、上司と交渉してくるので待つ様に言われる。
暫くして、女性店員が戻り、300元(約4,000円)でOKとの事であった。
それならと1着買う事にした。最初、夏のワンピースの様なものを選んでいたが、これからの季節を考えると秋、冬に着れるものの方が良いと考え、その服を見る。
丁度、赤い色の刺繍を施されたダウンジャケット風の服を発見し、これを購入する事に決めた。それと先程のパンダ柄のペンケースで、合計400元(約5,400円)を支払う。
そして、慌てて工場を出て、バスに戻る。既に殆どの人がバスに戻り、私が最後の方であった。
時刻は9時40分である。このシルク工場に40分くらい居た様だ。
全員がバスに乗り込み、人数確認が終了すると、バスが動き出す。 -
<北京郊外の世界遺産、明の十三陵(定陵)>
再び大通りに出て、暫く市街地を走っていたが、景色が変り、周りに畑なども見える郊外に出た。
この郊外から高速道路に乗る様で、その高速道路沿いの側道を暫く走っていたが、高速入口が前方に見え、そこから高速道路に乗る。
ここでパクさんが、今晩と明日の晩のオプショナルツアーの話を始める。
今晩のオプショナルツアーは雑技観賞で、明日はカンフーショーである。オプショナルツアー1つは日本円で3,500円、両方参加すると割引で、6,000円になると言う。
まず、パクさんが、「両方行かれる方は手を上げて下さい!」と言う。私は両方参加するつもりであったので、手を上げる。すると私だけである。誰も手を上げない!
パクさんが少しがっかりした様な顔をする。
そして、「それでは今晩の雑技観賞を希望される方は手を上げて下さい!」と言うと、これまた一家族の3人だけである。これを見て更にパクさんがガッカリする。
最後に、「カンフーショーを希望される方は?」と聞くが、誰も上げない。結局、カンフーショーを見に行くのは私だけになってしまった。
次に向かうのは明の十三陵である。明の十三陵は北京中心街から北西に約50kmのところにある。
天寿山の南麓にある明代の皇帝の陵墓群である。
バスは高速を順調に走る。前方には山々が見えて来る。その山の方角に高速道路は続いている。
この高速道路を30分くらい走り、この高速道路を下りる。ここから再び、一般道に入るが、周りは小さな木々が生い茂っている。所々に郊外のレストランらしき店が見える。
この一般道を15分くらい走ると、明の十三陵に繋がる道に入る。その道の突き当たりに大きな駐車場があり、そこにバスが入る。その駐車場の一画でバスが停車する。
ここが、明の十三陵のひとつである定陵の駐車場である。この定陵のみ陵墓を調査発掘し、公開されている。
全員がバスを降り、ここからは歩いて入口まで行くのである。駐車場には、多くの露店が出ている。
その露店の多くは果物を売る店である。それもその殆どが桃である。
丁度、今が桃の収穫時期なのだろうか?露店を見ると、非常に大きな桃である。
日本の黄桃の様であるが、白桃の様に少し白い。見た目は非常に美味しそうなので、ここを出る前にこれを購入したい! -
その露店などの前を抜け、入口に向かい歩き始める前に、駐車場脇にトイレがあり、パクさんが、「トイレに行きたい方はありませんか?トイレに行きたい人は今の間に言って来て下さい!」と繰り返す。誰も行く気配がないので、そのまま入口に向かい歩き始める。
そして、そのトイレの前を過ぎようとした時に、ツアー客の1人が、「トイレに行っても良いですか?」と聞く。これにはパクさんがキレた様に、「先程、さんざんトイレは大丈夫ですか?と言いましたよね!」と言うが、「呆れた様に言って来て下さい。」と言う。
ここで暫く、そのトイレに行ったツアー客を待つ事になる。まあ、これくらい多くの人数のツアーであるので、この様な事はあってもおかしくない。
そのツアー客が戻り、再び入口に向かい歩き始める。その前に、この陵墓の入口前に建つ陵碑前に向かう。
ここで少し明の十三陵について説明を加える。
先程も説明したが、北京北西約50kmの天寿山南麓にある明代皇帝の陵墓群で中国に現存する皇帝陵墓群としては最大規模で、中国の「王家の谷」とも呼ばれている。明の十三陵の名は、明代の十六人の皇帝の内、十三人の皇帝の陵墓がある事から名付けられた。その造墓は、1409年に着工が開始され、1644年の明滅亡まで行われた。2003年に世界文化遺産に登録されている。
現在、観光客に公開されているのは、陵道(参道)である神路と、長陵(第三代成祖 永楽帝)、定陵(第十四代神宗 万暦帝)、昭陵(第十三代穆宗 隆慶帝)の3陵墓である。敷地内には博物館もある。
特に観光客が多いには、この定陵である。その理由は、この定陵だけが、明代の陵墓建築の研究の為に調査発掘が行われ、地下陵墓の見学が出来るからである。
陵碑の前で、パクさんの定陵についての簡単な説明を始める。パクさんの説明を要約すると、
この定陵は、明の十四代皇帝である神宗 万暦帝とふたりの皇后(孝端皇后と孝靖皇后)の合葬墓である。着工は1584年であると言われている。
この定陵はこの明の十三陵の中で唯一、明の陵墓研究の為に1956年に調査発掘され、その地下宮殿が保存、公開されている。
その後、この陵碑の説明が行われる。この陵碑は正式には“神功聖徳碑”と言う。元は、この碑も建屋(亭)で囲まれていたが、清国の侵攻により破壊され、今は碑だけが剥き出しで残っている。この明の十三陵のすべての陵墓前にはこの陵碑があるが、同様に碑だけだと言う。
この碑には特に何も書かれていない。
碑の台座となり、碑を支えている霊獣は、龍の子供とされている“贔屓(ひいき)”である。
因みに“龍生九子”と言い、“龍には九人の子供があった”とされ、その子供達は龍の形状をしておらず、各々好む場所も違ったとされている。この贔屓は亀の形状をして、重さを負うのを好む霊獣とされ、この様な碑の台座の礎の彫刻される霊獣として好まれている。
この前で、各々記念撮影を行う。特に熱心に写真を撮っていたのが、賈さんであった。 -
我々にも、この碑の廻りで、色々とポーズを要求し、写真を撮っている。
それが終わり、再び定陵の入口門へと歩き始める。前方には赤い塀の門が見えている。また、その右手前には立派な建物が建っているが、これが定陵博物館である。
入口門手前まで来て、その手前でパクさんに少し待つ様に言われる。パクさんが入場手続きを行う為である。暫くしてパクさんが戻り、入口門から定陵内に入る。時刻は11時過ぎである。
入口門の正規の団体入口は中国人の団体客で混雑しているので、パクさんが一般入口の使用されていない入口から係員に言い、我々を入場させる。その為にひとりひとり人数を確認しながらの入場となり、全員が入場するのに少し時間を要した。 -
全員が入場し終わると、その左手の木立の中に一旦集合し、陵内を進む。すると右手の陵道中央に石造りの土台が見えて来る。ここが、祾恩門遺址で、ここも建物があったが、先程の陵碑の建屋と同様に清国の侵攻時に破壊された為にその土台しか残っていない。
また、その奥にも同様の少し広い石造りの土台が見えているが、ここには祾恩殿という宮殿が建っていたが、ここも同様に破壊され、その土台が残っているだけである。
更に左手の木立の中を進む陵墓奥に進む。お昼に近づき、日差しが一段と強くなって来たが、この木立の中は然程暑くもなく、心地よい。
更に奥に進むと、陵道に門が見えて来る。この門の横で、パクさんが説明を始める。
「この門は、櫺星(れいせい)門(霊星門とも書くらしい)と言い、現世とあの世を隔てる門で、この門の手前が現世で、この門を潜った先があの世を意味しています。」と言う。つまり、ここから先がお墓なのである。 -
そして、その前方には大きな楼閣が聳えている。この楼閣が明楼である。この明楼が宝城牆の入口である。その明楼前には石五共という石で造られた祭器が並んでいる。
その前には行かずに明楼左手にある階段を上り、宝城牆内に入る。宝城牆は一段高い塀に囲まれた円型の墳丘墓である。その塀上に上がり、更に墳丘墓内を少し歩くと、パクさんが立ち止まる。
そして、塀の下に延びる道とその先に見える入口らしきものを指差し、「あそこに見えているのは、この墳墓の偽の入口で、随道門と言われています。 -
この定陵発掘の際に真っ先に発見され、地下宮殿内部に繋がる道として期待されましたが、墓泥棒の為に造られた偽の入口でした。」と言う。
-
説明を終え、再びパクさんが陵墓奥に歩き始める。明楼の裏側にはこんもりとした小山の様な円墳が見えている。その脇を通り、その円墳に裏側に進む。
円墳の裏側には新しく造られた平屋の建物がある。その建物がこの地下宮殿への入口建屋である。
しかし、22年前にこの様な建物から地下宮殿に入った記憶がない。
パクさんが、「この入口で荷物の検査がありますので、みなさん手荷物を検査機に通して下さい。」と言い、列が出来ている最後尾にみんなと共に並ぶ。
ここに列が出来ているのも手荷物検査を行っている為である。
手荷物検査を受け、その先の階段を下りる。しかし、この階段が下りても、下りても階段が続いている。パクさんに聞くと、この階段は地下27mまで続いていると言う。ほぼビルの10階から階段で下りるくらいある。
やっと階段が終わり、地下に着いた様だ。そこから廊下を通り、地下宮殿に入る。 -
最初の部屋が、左配殿である。この地下宮殿は左右対称に造られており、同じ様な部屋が右側にあるが、その右配殿には入る事が出来ないと言う。
この左配殿の中央には石台があるが、この石台が何に使われたものなのかは明確にはなっていないそうだ。
その石台は柵で覆われ、その中には台上に投げ入れられたお金が山の様に積もっている。
賽銭のつもりなのか?
この左配殿の天井までの高さは約9.5mもあり、部屋の広さは約9m×30mもある。しかし、非常に精巧な石積みでアーチ状の天井を造っている。
その左配殿から通路で、中央の中殿に入る。この中殿には様々なものが置かれているが、すべて皇帝と2人の皇后のものである。特に目を引くのは、3つの大理石の玉座である。 -
その中殿から更に奥にある後殿に入る。この後殿には、赤い木の箱で覆われた皇帝と2人の皇后の棺がある。中央の最も大きなものが皇帝の棺で、その両脇の少し小さなものが2人の皇后の棺である。そして、その他の小さな箱が埋葬品を入れたものである。
この後殿と中殿との間の扉は青銅製の頑丈そうな扉である。
再び、中殿に戻り、そこを抜け、後殿とは反対側にあるもうひとつの部屋である前殿に向かう。
その間にも先程の後殿と同様に青銅製の扉があり、その横にはこの扉を閉めた時に使われた石で造られた閂(かんぬき)が置かれている。 -
この地下宮殿は、当時の建築技術の粋を集め造られた堅牢で、この閂もこの青銅製の扉を閉めると上から閂が落ちる構造になっており、一旦扉を閉めると、この中に誰も入れないという仕掛けになっていたのである。この様な扉が数ヶ所あり、その為にこの地下宮殿発掘の際には、この扉を全て開けるまでに1年4ヶ月もの時間を要したそうだ。
前殿内には何もない。更に進むとまた扉があり、その先にも小さな部屋がある。ここが随道券と言われる部屋である。その前殿側の壁の上方には瓦を乗せた門の様な彫刻が見える。
この瓦屋根を持つ門の様な壁は金剛牆と呼ばれている。また、この随道券はかつて土で埋められていた。その随道券を抜けると、その先にまた階段が見える。 -
また振り返り、随道券の入口を見ると、煉瓦を綺麗に積み上げた三角状の屋根になっている。
ここから階段で地上に出る。また下りて来た様にかなり階段を上る事になるのかと考えていたが、下りて来た半分くらいで地上に出る。
外に出ると、そこからまだ地上に向かいスロープ状に道が続いている。
ここは発掘の際に造られたもので、ここから指路碑と言う石碑が出て、先程の地下宮殿の金剛牆までの深さが記されていたと言う。
22年前に来た時はここから地下宮殿に入り、ここから出たのを思い出した。 -
丁度、スロープを上り切ったところに明楼が建っている。その明楼内には、石碑がある。
この石碑は、神宗顕皇帝之陵と書かれた聖号碑である。
しかし、この万暦帝は陶磁器の名品である「万暦赤絵」に名を残し、豊臣秀吉の朝鮮出兵に際しては、李氏朝鮮に援軍を送った事でも知られるが、鄭貴妃と言う妃を偏愛し、政治を顧みず、また陵墓建設や外征などに多額の国費を費やした事で国家財政を破綻させた為に後世の評価は低く、暗愚な皇帝であったとされている。
そして、この明楼を抜け、その脇を通り、再び明楼前に出る。そこから今度は、定陵中央の陵道から行きとは反対側を通り、入口門に戻る。 -
途中にこの定陵内にある小さな資料館に入り、埋葬品などの一部を見学する。
ここで、資料館出口付近に土産物店があり、そこでこの明の十三陵の絵地図を購入する。価格は10元(約135円)である。館内を出ると、パクさんがここで暫く待つ様に言う。
ここで人数を確認する様である。少し、その資料館脇の木陰で、待つ事になる。
しかし、どうも人数が足りない様で、パクさんと賈さんがツアー客を探し廻る。
すると、既に入口門方面に数組が歩いていた様で、そこからその人達が戻り、やっと全員が揃い、再び入口門を目指して歩く。
やはり、これだけ人数が多いとどうしても団体行動が出来ない人や団体行動をしているつもりでも逸れてしまう人が出て来る。多少は仕方ない事の様に思える。むしろ、このツアーに参加されている方々はまだ過去に一緒に行ったツアー客の事を考えると、マナーは良い方に思える。 -
陵道に出て、入口門から出る。門を出て、再びここで集合が掛かり、パクさんが人数を確認する。
人数を確認後、駐車場へ向かい歩き始める。
ここで、私がパクさんに「神道には行かないのですか?」と聞くと、「神道は少し遠く時間がないので、行けません。」との答えである。
そのまま駐車場に戻り、バスに乗り込む。その時に私は、賈さんにお願いし、先程の露店で桃を買いたい旨を伝え、付いて来て貰い、バスに一番近い露店で桃を買う。
大きな桃が2つで10元(約135円)というので、4つお願いするが、私が間違えて財布から30元出したのを見て、露店主がもう2つ桃を袋に入れたので、もう断わるのも面倒なので、それを30元で購入する。
それを見て賈さんが、「おまけして貰ったのですか?」と聞くが、30元出した事を告げると変な顔をしていた。
急いでバスに2人で戻る。席に戻る際にみんなに遅れた事を詫び、席に着く。
再度、賈さんが全員の人数を確認し、バスが出発する。時刻は12時10分過ぎである。 -
<明の十三陵近くのレストランでの昼食:肆維餐庁>
今度は昼食である。昼食場所はこの近くとの事である。今日の昼食は日程表ではジャージャン麺と刀削麺の予定である。
バスは10分程、この広大な明の十三陵内を走り、昼食場所に到着した。今日の昼食場所は、肆維餐庁である。この昼食場所は土産物店に併設されたレストランである。
バスを降り、土産物店の入口を入り、土産物が並ぶエリアを抜け、レストランの入口に到着する。
時刻は12時25分頃である。
レストランは非常に広く、既に多くの観光客で円卓テーブルの多くが埋まっている。その中で空いている円卓テーブルに案内され、ここでも3つの円卓テーブルに別れ座る。 -
パクさんがここでの食事時間を告げる。各人、食事が終わったら、13時10分に入って来た土産物店の入口前に集合と言う事である。
既にテーブルには前菜的な漬物やキムチ風のものなどが小皿で出ている。
まずはお決まりの飲物を聞かれ、店員が飲物を運んでくる。その後、最初の料理としてオーソドックスな野菜炒めが出て来る。その次に今回の旅行日程表にも書かれていた刀削麺が出て来た。
この昼食で出て来た料理類は以下の通りである。 -
<8月18日(木)昼食:肆維餐庁>
①前菜(きゅうりの漬物/もやしのキムチ風/焼豚/千切り大根の漬物/湯でピーナッツ)
②野菜炒め
③刀削麺(豚の角煮入り)
④水餃子/特大焼餃子
⑤青菜の塩炒め
⑥麻婆豆腐
⑦蟹シュウマイ
⑧筍、にんにく芽、人参、豚肉の細切り味噌炒め
⑨豚肉と玉葱のオイスターソース炒め
⑩ジャージャン麺
⑪チンゲン菜の野菜スープ(麺入り)
⑫ご飯
⑬デザート(すいか)
非常に多くの料理が出て来た。特に驚いたものは焼餃子で、“餃子の王将”の餃子の2倍以上の大きさの焼餃子であった。それも皮が厚く、非常にモチモチとした食感で、中の具よりも皮が非常に美味しかった。刀削麺は甘辛な出汁に少し豚の角煮風(チャーシュではなく)のものが入り、そこそこ美味しい。ジャージャン麺は少しイメージと違い、味も薄めであまり美味しくなかった。
あと美味しかったものは、豚肉と玉葱のオイスターソース炒めで、これはみんなに人気があったのか、最後には無くなっていた。これはご飯が進む料理であった。
最後に定番デザートのすいかを食べ、お茶を飲み、寛ぐ。
食事を終えた人から席を立ち、思い思いレストランを出て、土産物のエリアに移動している。
私も食事を終え、トイレを済ませ、土産物のエリアに行く。そこでパクさんを見つけると、何やら手に持ち、店員と話をしている。
何を手に持っているのかと見れば、細い針金の様な棒がラグビーボール状に傘の骨の様に一点に集められているものを持っている。私が近づき、「それは何ですか?」と尋ねると、パクさんがそれを頭にはめ込む様に乗せ、上下させている。
そして、「この様に頭をマッサージするものです。非常に気持ち良いですよ!」と言う。
私が怪訝そうな顔をしていると、私の頭にはめ、それを上下させる。確かにその棒の先が丸く加工されているので、その部分で頭の表皮をマッサージ出来る様になっている。
その後、パクさんはそれを購入していた。
私も集合時間まで少し時間があるので、土産物のエリアを見て廻るが、然して目新しいものもないので、集合時間の少し前に入口に向かう。
既にパクさんと数人のツアー客が集まっており、私を見て、そのツアー客と共にバスに乗る様に促す。我々は先にバスに乗り込み、残るツアー客をバス内で待つ。
バスは冷房も効いて心地よい。かなり外は気温が上がって来た。今日は本当に雲も少なく、ほぼ快晴に近い天気である。
暫くすると全員がバスに乗り込み、パクさんが人数を確認し、バスが出発する。時刻は13時15分である。これから午後の観光である。午後は更に北京郊外の八達嶺での万里の長城観光である -
<22年ぶりの世界遺産、万里の長城(八達嶺)>
当然、22年前の北京旅行の際にも、八達嶺の万里の長城には行ったが、その際はまだ道も舗装されてもいない土道で、途中の居庸関も観光地化されておらず、その門の間を道が通っていた記憶がある。それが今はどうなっているのかも非常に興味深い。
バスは再び明の十三陵付近から高速道路に乗り、八達嶺を目指す。
高速道路が徐々に山間に差し掛かり、両側のところどころに岩肌の見える山が迫って来る。
その山の谷間を縫う様に高速道路が続いている。
22年前にも恐らく、この谷間を通ったのであろうが、両側の景色には覚えがない。当時は道が悪く、またマイクロバスの様な車であったので、揺れも大きく、窓からの景色を楽しむ余裕も無かった。
少し、その谷間の高速道路が上り坂に差し掛かると、渋滞している。
これはトラックなどの大型車両が坂で速度を落としている為に起こっている様で、バスはその様な大型車両を、車線変更を繰り返しながら、何台も抜いて行く。
すると道路脇の表示に居庸関長城の文字が出て来る。居庸関はもう直ぐの様である。
すると前方に大きな石造りの門が高速道路上に見えて来た。しかし、22年前に見た居庸関と少しイメージが違う。
多分、ここにあるものは最近造られたもので、別に居庸関はあるのではないか?
その先の右手山沿いには長城が見える。これが居庸関長城なのであろう。その長城が山の頂上付近まで続き、その尾根沿いに延びている。22年前にこの様なものを見た覚えが全くない。 -
居庸関は北京の北の防衛線(万里の長城)の総司令部的な関所で、すでに春秋戦国時代にその名が出て来る非常に古い関所である。当時は中国の天下九関所のひとつで、難攻不落の関所として、その名を馳せた。
居庸関の名は、“奴隷を移住させる”と言う意味の「居庸」から来た名前で、秦の始皇帝が秦、趙、燕などの長城を連結する為に奴隷を徴用し、ここに住まわせた事に由来するとされている。よって、この居庸関も当然長城の一部として機能していた関所なのである。
この居庸関を過ぎて、高速道路はますます山間に入って行く。上り坂も急になり、更に渋滞が酷くなって来る。するとバスは、山間のインターで高速を降り、その下の道を走り始める。
道の上に見える高速道路は更に坂を上っている。その道を少し走ると、道路脇に駐車場がところどころに見えて来る。もう、この辺りから車を駐車して歩いて行ける範囲内に長城がある様だ。
しかし、バスは更に山の坂を上り出し、かなりヘアピンの坂道を上る。すると、前上方に微かに長城が見えて来た。
更に坂を上って行くが、その途中の坂道脇でバスが止まり、ここでバスを降りる様である。
ここからは歩いて上るのである。我々が歩く横の坂道を車が上がって行くので、車で行けない事はない様である。多分、長城付近に駐車場がない為であろう。
ヘアピンカーブの道なのでそのカーブの先に何があるのか判らない。
バスを降り、そのヘアピンカーブの坂を上る。一つ目のカーブを曲がった先には、またカーブが見えている。そのカーブを曲がった先に八達嶺の長城関所が見えて来た。
22年前に来たのも、八達嶺であったので、この場所に来たのだろうが、こんなに上まで坂を上がった記憶がない。しかし、目の前に見えている長城の景色は22年前を思い出す景色である。 -
着いた所は、八達嶺長城の居庸関外鎮と言うところで、ここに長城の入口がある。その入口前の広場で、パクさんの入場手続きを待つ。
パクさんが入場券を購入して戻り、ここでこれからの予定について話し始める。
パクさんが、「これからここで集合写真を撮った後、長城に入りますが、ここから自由行動にします。今の時間が13時50分過ぎですので、15時まで自由行動とし、集合はあちらに見えている建屋の中にします。建屋の中が土産物店になっていますので、中に入って待っていて下さい。また、ここから見えている長城で、右手が女坂と言われている長城で、少し傾斜が緩やかです。見えている山の尾根頂上付近まで上るのに20分程あれば上れます。また、左手が男坂と言われている長城で、傾斜が急です。ここは山の頂上付近まで上るのに30分くらい掛かります。自分の体力に合わせて、上って下さい。どちらに上っても結構です。それでは集合写真を撮ります。」と言う。
そして、入口前の広場中央に集まり、集合写真を撮る。
写真はこの長城にいるカメラマンが撮ってくれる。そして撮り終えると、見本を見せられ、パクさんが、「これが欲しい方は日本円で1枚1,000円です。注文する方はいませんか?」と聞く。
記念なので、私は購入を希望する。その注文を取り終え、パクさんが、「それでは長城に入ります。」と言い、入口に向かい歩き始める。 -
団体入口から一人ずつ入り、そこで解散し、思い思いの坂を上り始める。
私はその入口付近で長城全体を眺め、22年前を思い出していた。その際にどちらの坂を上ったのかを考えていたのである。記憶では男坂を上った様に思い、今日は女坂を上る事にした。
しかし、この八達嶺長城の観光客の多い事!長城を埋め尽くしている。これだけ中国人にとってもこの万里の長城は魅惑的な建造物なのであろう。
確かに月から見える地上の唯一の建造物がこの万里の長城なのだから!
ここで少し、この万里の長城について説明をすると、
万里の長城の名前は、司馬遷の『史記』の中で、その長さを『万里余』と記された事に由来する。
しかし、重なった部分の長城などを含めたその総延長距離は5万kmを超えると言われている。公式に発表されている全長が約9000kmである。
現存する長城の多くは、主に明代に造営されたもので、北方民族王朝である元の勢力拡大を経て、南方から興った明は建国後も北方民族の脅威と常に向き合って行かなければならず、今の様な堅固な長城に修築されたのである。しかし、その後、北方民族の女真族の清王朝が中国を統一した事で、この清時代に長城は整備される事なく、放置され、荒廃が進んだが、1949年に中華人民共和国が成立し、その保護が進む。そして、1987年に世界文化遺産に登録された。
この万里の長城の主な観光地は、この八達嶺長城の他に、山海関長城、司馬台長城、金山嶺長城、慕田峪長城などの建造物がある。
早速、女坂方面の長城を上る。直ぐに北一楼に出る。そこから少し坂になる。その先に北二楼がある。北二楼は二階建ての望楼で、一階部分は通路と兵士の駐屯所になっている。
また、ここから長城内へ横の通路の様な城壁が続いている。連絡通路であろうか?
気温がかなり上がって来ており、少しこの坂を上るだけで、汗が吹き出る。立ち止まり、汗を拭きながらゆっくりと上るが、こまめに水分補給を行わなければ倒れそうである。
ホテルからサービスのミネラル水を持って来て良かった。けれど、これでは全然足らない程、喉が渇く。しかし、水を飲めば飲むほど、汗が噴出す。 -
北二楼から少し平坦になり、平坦なところが終わるとそこからまた少し上りに変る。北二楼から次の北三楼までは少し距離がある。この辺りは一番観光客が多く、また所々で記念撮影を行っている為に、その邪魔にならない様に立ち止まる事が多くなり、少し時間を要した。
また、北三楼手前が少し坂になっている。雨など降って、足元が滑る様なら、これくらいの傾斜の坂も上れないかもしれない?
やっとの事、北三楼に到着する。先程の北二楼と造りは同じである。 -
ここから次の北四楼まではかなりの距離がある。また、北四楼手前はかなり急坂になっている。
かなり汗を掻いたせいか、少し疲れて来た。しかし、まだ時間はタップリあるので、北四楼まではがんばって上る事にした。
22年前にここに来た時は、もっと急な男坂の端まで上ったが、それ程しんどい思いをした記憶はない。季節も3月下旬で、まだ少し肌寒い時期でもあったせいかも知れないが?
それとも年を取ったせいかも知れない。
少し北三楼内で休憩した後、再び北四楼に向かい、歩き始める。最初は緩やかな坂が続く。
その途中から塀の外を見ると、北の長城外が遠くまで良く見えている。
丁度、この八達嶺長城の少し北まで山間が続くが、その先は広い平野になっている。この様な地形が軍事用防壁の長城がこの辺りに造られた一つの要因である。
また、この長城外の直ぐ近くに望楼の様な建物が孤立して建てられている。これは何に使われたのであろうか?一見すると烽火台の様に見えるが? -
休憩をしながら、この坂を上るが、立ち止まると汗が噴出すので、なるべく立ち止まらずに黙々と歩き続ける。北四楼手前が急坂になっている為に塀に添え付けの手摺を持って上がらないと上がれない。下は階段ではなく、スロープ状のままである。さすがに急な所はスロープのところに一定間隔で滑り防止の為か、出っ張り部分が造られている。
その急坂を上り切ると北四楼に辿り着く。北四楼も北二楼、三楼と造りは同じである。どの楼閣も安全の為か、二階の物見櫓部分には上がれない。二階への梯子は掛けられているが、梯子手前に柵が設けられている事と、梯子の繋がる天井部分の扉に鍵が掛かっている。
ここまで上るのに約15分を要している。確かにこのペースで上ると次の北五楼までは充分上れる。
この北四楼から次の北五楼までの長城部分が女坂と呼ばれている部分で、北四楼から少し下り、そこから尾根伝いに急坂が続く。この急坂には階段が造られており、それを上るのである。
もう、ここからの急坂はスロープでは上れない。
北四楼を抜けた先で、ここからの眺めを楽しむ事にした。22年前に来た時は、春先(冬の終わり?
)であったので、木々の緑はなく、長城のみの殺風景な景色であった印象が強いが、今は緑が青々とし、非常に綺麗である。この辺りの木々は落葉樹が多いのかも知れない。
ここで北五楼まで上がるか?再度思案するが、やはり自分の体力も考え、ここまでにする事にした。
しかし、ここからそのまま来た長城の上を歩くのも面白くないので、この北四楼から城壁の下に出て、城壁沿いに歩いて下りる事にする。 -
そこで、北四楼の城壁にある階段で尾根に下り、そこから城壁沿いに造られた歩道を歩いて下りる。
城壁上が急坂なので、急坂を想像していたが、意外にも城壁上よりもこの城壁沿いの歩道の方が緩やかな感じがする。
また、城壁上からでは判らない発見もあり、面白い。まず、城壁沿いを歩いて気が付くのが、雨水などの排水施設である。城壁上部に一定間隔で、石造りの排水用の樋(とゆ)の様なもの突き出ている。また、その下には土が掘れない様に受け皿の様な石の盆が置かれている。
この様な排水施設を充分に造る事により、長城の保全を図ったのであろう。長城の基礎は土を固めた版築という中国古来からの土木技術であるから、基本的には雨などの水には弱い為である。 -
その様なものを見ながら、歩道の坂を下る。
そして、北二楼のところで、再び階段を上り、城壁上に上がる。そして北一楼まで戻る。
時刻は14時40分前で、まだ20分程集合時間まである。
そこで、少し男坂方面にも上る事にした。
北一楼から南一楼に抜け、南二楼に上がる。ここまでは、ほぼ平坦である。
また、南二楼は、元は二階建ての望楼であったのであろう(塀が高い為にそう思った)が、今は望楼内には何もない。周りの塀だけである。
ここから南三楼までは少し坂になるが、急な坂ではない。この南三楼までの間の城壁上中央にポッカリと穴が開いており、階段がある。
立入禁止の立て札があるので、階段を下りる事は出来ないが、城壁下に続いているのであろうか?
南三楼まで行き、ここで引き返す事にする。その先の南四楼までは少し急な坂になっている。
再び、南二楼に戻り、その脇の階段から南二楼下にある売店を見に行く。 -
そこには、売店と小さなカフェの表示のある店があったが、立寄る人も少ない。カフェの店主らしき人が盛んに日本語で呼び込みを行っている。
そこから更に階段で、入って来た入口に向かう。そして、少し時間が早いが、これで長城を出る事にする。そして入口前の広場にある売店を見に行く。
ここにある売店は土産物などを売っているのであるが、今日は非常に天気が良く、暑い事もあり、各売店では飲物を購入する人が後を絶たない。
私もそれを見ていると何か飲物を欲しくなり、その売店で果物のジュースを5元(約65円)で購入し、一気に飲み干す。
その後、土産物店に入り、土産物を物色する。
丁度、土産物店の入口で同じツアーの人が土産物を購入し、出て来たところに出くわす。何を購入したのかを尋ねると、マグネット類である。
その人達と別れ、私も店に入る。店内は然程広くなく、人一人がやっと歩ける通路が確保されているだけで、その周りには各種の土産物が並んでいる。
店の奥まで入らずに入口付近で土産物を見るが、あまり目新しいものもなく、私もこの万里の長城のマグネットでも購入しようかと見ていると店員のおばさんが片言の日本語で話し掛けて来る。
何が欲しいか、聞くので、私がマグネットと答えると、一個80元(約1,080円)だと言う。
これはあまりに高すぎるので、店を出ようとすると、おばさんに腕を掴まれ、何個欲しいのかと聞かれ、2個と答える。すると今度は2個で150元だと言う。それでも高すぎるので、要らないそぶりをして、また店を出ようとすると、今度は幾らなら買うと言う。
それならと私が、25元と言うと、1個35元と言う。これは交渉すれば25元になるかも知れないと思い、再び25元と言うが、35元を譲らない。そこで仕方なく3個買うので、30元と言うとそれでOKをくれた。しかし、おばさんに上手く誘導された様な感じである。
適当に長城の絵のマグネットを3個選び、90元(約1,200円)で購入する。時計を見ると、集合時間まで10分を切っている。店を出て、集合場所の建屋に向かう。 -
建屋前には数人のツアー客とパクさんがいた。パクさんに中の方が涼しいので中で待つ様に言われ、中に入ると中は土産物店で、先程の店の様な安物の土産ではなく、少し高価な土産物が並んでいる。
また、お茶などが自由に飲める様に置かれているので、テーブル席に座り、お茶を頂く。
そこで10分程してパクさんに呼び出され、建屋前に集合する様に言われる。
建屋前には既にツアー客が集合している。
ここでパクさんが、先程の集合写真を注文した人達に写真を配り、お金を受け取っている。
私も購入希望だったので、支払いを行なうが、1万円しかないので、オプショナルツアーのお金も合わせ、ここで7,000円を支払う事にした。
その後、パクさんが再度人数を確認し、バスの駐車場まで上って来た坂を下り始める。
バスは行きで降りた場所よりも更に下の駐車場に駐車されている様で、行きで降りた場所を過ぎ、更に坂を下る。
するとその先に大きな駐車場が現れ、そこに我々のバスが駐車されていた。
全員がバスに乗り込むのを確認し、バスが出発する。 -
<北京市街への戻りの道程とお茶屋の“茶博士家”>
バスの中はまだ冷房が効いていないので、少し暑い。時刻は15時15分である。ここから再び北京市街地に戻るのである。
しかし、ここで1時間近く、長城を上り下りしたので少し疲れた為にバス内の冷房が効き始めると、何時の間にか寝てしまっていた。
次に目が覚めた時は既にバスは北京市街地を走っていた。
そして、少しするとパクさんが、「立ち寄りませんが、これから通る通りから北京オリンピックの北京国家体育場(愛称:鳥の巣)と北京国家水泳センター(愛称:ウォーターキューブ)が左手に見えて来ます。」と言う。
すると、左手前方のかなり遠くに、まず鳥の巣が見えて来る。
そして、その手前にウォーターキューブが見えて来た。
ウォーターキューブは夜でないので、ただの四角い建物としか見えない。
それを過ぎると、右手に大きな建物が見えて来る。一階部分には大きな店舗の店々が並ぶ。
何のビルかと見ていると、パクさんが、「右手を見て下さい!このビルは北京で唯一の七つ星のホテルがあるビルです。ホテルの名前は北京盤古七星酒店です。」と教えてくれる。そして続けて、「皆さん、このホテルの最も高い部屋の一泊の宿泊料金はいくらくらいか判りますか?」と聞いて来る。
誰もその問いに答えないと、パクさんが、「何と一泊50万元(約650万円)もするのです。一泊ですよ!」と教えてくれる。
しかし、七つ星ホテルとは聞いた事がない。自称なのであろうが、どれ程の設備がこのホテルにはあるのだろうか?それはそれで興味が湧く。帰って調べると、世界には七つ星ホテルというものは幾つもある様だが、有名なものが、ドバイの“バージュ・アル・アラブ”で、最近のVISAカードの宣伝で出て来る水中レストランのあるホテルである。基準はその豪華さと格式であるが、格式は新しいホテルでは何が基準なのかは判らない。
そのホテルを過ぎると、パクさんが、「時間がありますので、明日の予定に入っている中国茶専門店にこれから寄ります。」と言う。 -
それから、バスは渋滞する市内の道を走り、比較的賑やかな一画に出る。前方には道路上に渡り廊下の様に架かる建物が見えて来る。その建物の手前で、バスは左手の道路脇で停車する。
ここが中国茶専門店の“茶博士家”である。時刻は16時30分である。
バスからみんなが降り、その店の中に入る。店の入口ロビーには、プーアル茶のお碗状の保存茶の塔や飾り物などが見えている。ここのメインのお茶はどうやらプーアル茶の様である。
パクさんは、そのロビー内の展示には目もくれず、そのまま細い廊下を奥に進む。その廊下の突き当たりの部屋に我々を2組に分けて入れる。 -
私もその1つの部屋の奥の席に着く。部屋には若い女性が3人居て、これからお茶の説明をしながら、試飲用のお茶を入れてくれるのであろう。
部屋の席に全員が座ると、女性が流暢な日本語でお茶の説明を始める。まずは日本人にお馴染みの烏龍茶(鉄観音)の美味しい入れ方を実地も交え、説明をしてくれる。
そして、次にジャスミン茶を入れ、そして花果物茶、最後にプーアル茶を入れてくれた。プーアル茶は何と17年ものを入れてくれた。
このプーアル茶はかなり高価なお茶なのであろう。
特に珍しかったのは、花果物茶である。今まで、花茶など、目で楽しむ花茶は何度も買って帰ったりもしたが、果物を乾燥したものが入ったお茶は初めてであった。
味も本当にジュースを飲んでいる様な甘さと香がある。他のお茶は全て自宅にあるので、購入するつもりはない。
プーアル茶を出し終えると、女性が各お茶の効能などを再度、説明し、各人の販売意欲を擽る。
その際に茶碗(というよりもマグカップ)の紹介を行う。その茶碗は熱いお茶を入れると、最初は文字などが書かれた表面に、各種の絵が浮き出て来る仕掛けになっている。
図柄は3種で、パンダ、龍、それに天壇の祈年殿である。私はお茶よりもその茶碗に興味が湧いた。
親戚の子供達への土産に最適である。これを購入する事にした。
最初は3つで良いと思っていたら、女性が「5つ買ってくれたら、1個おまけです。」と言う。 -
1つがいくらかと聞くと、100元(約1,350円)との事。意外と高い!
ここにしか売っていない事を信じ、これを女性の言う5つ購入し、1個おまけして貰う。
それと先程の花果物茶を1箱購入する事にした。これが250元(約3,400円)で、合計750元(約10,100円)もここで使ってしまう。それも手提げ袋に入れてくれたが、さすがに重い!なにせ、陶器製の大きなマグカップが6個も入っているのであるから!
その後、部屋を出て、部屋近くの他のお茶の土産物が並ぶエリアに行くが、私はこれ以上買うつもりもないので、パクさんが先にバスに乗る様に勧める。そこで一人その店を出て、バスに乗り込む。
バスの中で暫くみんなが戻るのを待つ。それにしても、この重い土産物をどうしたものかと後悔する。何とか旅行カバン内に押込むしかない。
程なく、全員が乗り込み、パクさんが人数を確認して、バスが出発する。
時刻は17時10分である。 -
バスは再び、市街地を走る。その途中で、これからの予定をパクさんが話し始める。
これから今日の夕食場所に移動するが、1時間近く掛かると言う。今日の夕食は北京ダックを含めた北京料理である。特に北京でも有名な北京ダックの店である全聚徳での食事である。
また、その後はオプショナルツアーの雑技観賞に行く人は人数が少ないので、バスとは別にタクシーで雑技場まで移動し、残りの人はこのバスで各ホテルに帰ると言う。
我々、雑技観賞組はタクシーでパクさんと雑技場に行くのである。
続いて、明日の朝の集合時間の話もされる。明日の集合時間は我々の鴻坤国際大酒店が7時20分にホテルフロント前に集合、そして日航新世紀ホテルの方々が7時50分集合である。
今日の集合時間より少し遅くなった程度である。
それらを話終えると何やら前の方でパクさんがツアー客と話をしている。
そして、パクさんが喜んだ声で、「今、雑技観賞の参加者が3名増えました。これでこのバスで雑技場まで行く事になりました。ありがとうございます。」と言う。
どうも、もう一家族参加されるみたいだ。
その後、バスは渋滞する北京市内の道をのろのろと進む。どちらの方角に進んでいるのかもはっきりしないが、太陽の位置からして南に進んでいる様に思われる。その太陽も既に沈みかけている。
渋滞していた大通りを抜け、やっと少し車の少ない通りに出る。
そして、Uターンなども繰り返し、方角を変え、ある通りに出て、バスはその通り脇に停車する。
ここでバスを降りる様にパクさんに言われる。この辺りに店らしきものは見えない。
するとバスを降りた、少し先に今日の夕食場所である“全聚徳”の店があった。
時刻は18時過ぎである。 -
<北京料理の夕食、北京ダックの有名店“全聚徳”>
しかし、思っていた全聚徳の店ではない。てっきり、前門近くの全聚徳の本店に連れて行ってもらえるものと思っていた。本店以外に行くのであれば、我々の泊まっているホテル内にも全聚徳の支店があった。この店はどの支店なのかも判らない。
店内に入り、入口前の階段を上がり、2階へ。その2階の店内奥の円卓テーブル3つに別れて座る。
丁度、夕食時で、2階の店内は既に多くの客で殆どの円卓テーブルは埋まっている。
それも見れば、2階の円卓テーブルに座っている人達の多くが日本人の観光客である。
まず、店員がお決まりの飲物を聞いて廻る。
その後、飲物が出され、少し経つと最初の料理が出て来る。最初の料理は、煮豆である。非常に大きな豆でインゲン豆の一種だろうが、何の豆から判らない。
その後、次々と料理が出て来る。出て来た料理は以下の様な料理である。
<8月18日(木)夕食:全聚徳(北京料理:北京ダック含む)>
①煮豆
②セロリと中国湯葉の塩炒め
③牛肉と玉葱、ピーマンのオイスターソース炒め
④冬瓜の塩炒め
⑤アヒルのもも肉の唐揚げ
⑥酢豚
⑦豚肉と長葱、ピーマンの甘辛炒め
⑧北京ダック
⑨ザーサイの包揚げ
⑩椎茸とチンゲン菜のしょうゆ煮
⑪鶏がらスープ
⑫卵チャーハン風ご飯
⑬デザート(すいか/梨)
北京料理らしく、味付けの濃いものや薄いものがはっきりとした料理が多い。
そして、丁度、料理の中頃でメインの北京ダックが出される。コックがワゴンで北京ダックを運び、テーブル脇でその北京ダックの皮を削ぎ取る最後の仕上げを行ってくれる。
それを大皿に盛り付け、テーブルに出され、最初のひとつは女性店員が包み方を実践してくれる。
それに倣い、みんなが北京ダックを食べ始める。 -
私は実のところ、あまり北京ダックは好きではない。確かに美味しいのではあるが、特筆する美味しさとは思えない。その為、私は1包みのみ食べただけである。ツアーの人達は子供も多く、始めて食べる人達も多かった様である。
変わった料理ではとんかつの様な揚げものが出て来た事である。中に何が入っているのか興味深かったが食べて見ると、ザーサイと野菜などを薄い春巻の皮の様なもので包み、それに衣を付けて揚げたものであった。これも味が薄く、ほのかにザーサイの味がするだけで、何かソースかしょうゆを付けて食べないと美味しくない。
ご飯は毎回同じ様な少し炒めた卵チャーハン風のご飯である。味は付いていないので、普通のご飯と同じである。
とにかく、料理数が多かった事とひとつの料理の量が多かった事が非常に印象に残っただけである。
全衆徳と言っても、この程度であった。少し期待はずれである。
最後にデザートのすいかを食べ、食事を終える。お茶を飲み、少し寛いでいると、パクさんが現れ、みんなを誘導し始める。時刻は18時50分前である。
店前に出ると、既に外は暗くなっている。
これからどうするのかと思っていたが、そのまま店前の道路を反対側に渡り、その歩道沿いに止まっているバスに全員乗り込む事になった。
これから私達10名弱が雑技観賞に行く予定である。先程、言っていた様に、このバスで雑技劇場近くまで行くのである。
パクさんが、全員が乗り込んだ事を確認後、バスが出発する。
路地を進み、再び大きな通りに出る。
途中、大通りの脇にバスが止まり、ここでアルバイトの賈さんがバスを降りる。今日はここでお別れの様である。
再び、バスが走り始め、何度か道を曲がるがどの辺りを走っているのか全く判らない。
しかし、先程の夕食場所からはかなり離れている様で、すでにバスが走り始めて20分が経過している。するとパクさんが、『もう直ぐ、雑技劇場に着きます。雑技を見に行く方は準備下さい。また、雑技終了後はまたこのバスが迎えに来ますので、要らない荷物はバスに置いて行っても構いません。』と言う。するとバスが道端に止まる。その前方左手前に劇場らしき建物が見えている。
カメラと貴重品のみを持ち、バスを急いで降りる。
結局、雑技を見に行く人は私を入れて7名である。
私を除き、全員が初めての雑技観賞との事であった。
我々がバスを降りると、バスは再び走り始め、各々のホテルを目指す。 -
<北京での雑技観賞“金沙劇場”>
我々は近くの横断歩道で信号が変わるのを待つ。信号が変わり、道を渡り、劇場前まで行くと、丁度、劇場前の駐車場部分が現在工事中で、トタンで囲いが設けられ、劇場入口に行けない。
どこから入るのかと思っていたら、パクさんがその劇場左手のトタン沿いに歩き、そのトタンの囲いの隙間から劇場入口の階段横に入って行った。我々もその後に続く。
劇場名は、“金沙劇場”である。入口には雑技の看板も出ている。その看板前で少し待つ様にパクさんに言われる。時刻は19時15分である。
パクさんを待っている間に、物売りのおばさん達が盛んに何かを売り付けて来る。ひとつは偽ブランドの財布などである。見ると非常に精巧に出来ているので、本物と見栄えが変わらない。
それでも値段が激安で、3個で、なんと日本円で1,000円と言っている。
ツアー客の1人の元気な関西のおばさんと言う感じの人が、『3個で1,000円とは安いよね!偽物でもこれだけ綺麗なものなら買っても損はないかもしれんね!』と興味津々の様子であったが、私が、『買っても日本の税関で没収されるかも知れませんよ!』と言うと、『そやね!』と言い、諦めた様であった。
パクさんが、戻り、みんなで劇場内に入る。劇場ロビーを抜け、客席に入ると、意外に中は広い。
また既に多くの観客で席は埋まっている。パクさんの案内で客席を探すが、端の方の席の様である。
ツアー客に説明した話では中央の前方の席が取れると聞いていた。これを見て先程のおばさんから文句が出る。私はどこでも良かったが、それでも出来れば真ん中の方が良い。
そこでパクさんが劇場の案内のおばさんに交渉を行い、真ん中の前方近くの席に案内されるが、そこには既に欧米人が座っている。その劇場案内のおばさんが、その席を空ける様に言っているが、その欧米人の団体らしき人達は一向に席を立つ気配がない。
どうも、その欧米人達は安いチケットで勝手にその席を占領している様で、案内人のおばさんが怒り、かなりキツク言っているが、一行に取り合わない感じである。
それも数席空いている席も後から仲間が来る為か、その席にすら、座らせないと言う横暴ぶりである。かなりの間、その欧米人を怒っていた案内人のおばさんもさすがに諦め、他の席を探す事にした様である。見れば、その辺りでも纏めては座れないが、席は空いている。
そこで、みんなバラバラに座る事になった。 -
パクさんが私には最前列の中央の端の席を用意してくれたが、その席は初めて雑技を見ると言う人に譲る事にした。その人はかなり恐縮していたが、私は数回見ているので問題ない事を告げ、席を譲った。しかし、まだ全員が座れる席は確保出来ない。
結局、中央の席ではなく、左端の席の中央に近いところに座る事になった。しかし、子供達などは中央の見やすい席を確保出来ただけでも良かった。
しかし、私の前の席は空いており、雑技を行うステージが非常に良く見えるので良かったと思っていたら、雑技が始まる直前に背の高い欧米人が私の前の空いている席に座り、辺りをキョロキョロして、ステージ上の雑技を見ていない。
挙句の果てには、時折、立ちあがっては周りを見回している。どうも誰かを探している様である。
この欧米人のせいで、ステージ上の雑技が良く見えない。 -
私がイライラしていると、その席もその欧米人の席ではなかった様で、劇場案内人が別のお客を連れて、その席に来て、その欧米人に退く様に言っている。
その欧米人はその席を退き、どうするのかと思っていたら、更にずうずうしく、私の隣の席が空いているのを見て、そこに強引に入って座ろうとした。
私が変な顔をすると、それには申し訳なさそうに手を合わせ、私の前を横切った。
その後もその欧米人は落ち着きなく、ステージ上の雑技を見ず、雑技が終わるまでずっと辺りをキョロキョロ見ていた。欧米人はマナーが良いものと思っていたが、この雑技での欧米人の行動を見る限り、決してマナーは良くない。 -
雑技は上海で見た演目とほぼ同じ演目が多かった。目新しいものは何もなかった。
途中に変面もあったが、四川・成都で見た変面とは質がかなり落ちたものである。それも数回面が変わるのみであった。
また、この雑技の最大の目玉が最後のバイクショーである。球体の檻の中をバイクが走るもので、これも上海雑技でも名物のひとつである。
ここでも最大5台のバイクが狭い球体の檻の中を走ると言うパーフォーマンスを行った。これはさすがに何回見ても迫力がある。
しかし、思いの外、演目が少なく、1時間程で雑技は終了した。
結局、隣に座った欧米人は最後まで落ち着きなく、ステージ上の雑技は見ていなかった。雑技終了と同時に席を立ち、観客席の前方に仲間を探しに行っていた。
パクさんが、席に現れ、そのパクさんについて観客席を出る。その出口付近では、雑技出演者が先程見た雑技を収めたDVDの販売を自ら行っている。この光景も上海雑技と同じである。
その中を掻き分けて、劇場外に出て、再び入って来た劇場脇のトタンの隙間から通りに出る。
通りの反対側にはこの劇場観客の迎えの車やバスが多数停車している。
その通りを渡り、我々もその車の止まっている中から我々のバスを探す。
我々のバスはかなり離れた場所に停車していた。そのバスに乗り込み、パクさんが人数を確認し、バスが出発する。時刻は21時30分を廻っている。 -
<雑技からの帰り道とホテルでの時間>
パクさんが、『雑技はどうでしたか?』とみんなに尋ねると、特に子供達が元気に、『面白かった!』と答えていた。私も最前列の席を譲った人に、『変面はどうでしたか?目の前で面が変わるのを行っていましたが、判りましたか?』と尋ねた。その人もどの様に面が変るのか判らなかったが、非常に面白かった事と、私に席を譲って貰ったお礼を何度もしていた。
そこで、私も少し知ったかぶりをして、変面について四川・成都で観賞した事を少し話した。
その人も是非一度、四川の成都で変面を見て見たいと言われていた。
バスは日航新世紀ホテルにまず向かい、そこで3人を降ろし、私の宿泊している鴻坤国際大酒店に向かう。
依然、夜の街と言っても北京市街は車が多く、所々で渋滞をする。結局、ホテルに辿り着いたのは21時40分頃であった。
パクさんと共にホテルロビー内に入り、そこで明日の集合時間などを確認する。
明日は今日より少し遅い、7時20分にこのロビー集合である。ここでパクさんと別れる。
そして、雑技で席を譲った3人家族ともここで別れ、私はホテル1階のコンビニで飲物を買った後、
エレベーターに乗り込み、部屋に戻った。時刻はもう22時前である。
今日も長い一日になった。
早速、部屋着に着替え、まずはカメラの充電準備を行い、そして荷物の整理を行う。今日は、お土産物を沢山購入した。それらを出来る限り、旅行カバンに詰めておきたい。
今日購入した土産物を全て出し、まずは整理前にシャワーを浴びる事にする。風呂場で簡単にシャワーを浴び、髪が乾わく間に荷物の整理を行う。
旅行カバンから全てのものをまず出し、今日購入した重いマグカップなどを旅行カバンの一番底に入れる。その後も硬く、重いものをなるべく下に入れ、その上に衣類などを乗せる様に仕舞い込む。
何とか、今日購入したお土産物は旅行カバンに入れる事が出来た。
それが済むと、今日、明の十三陵の駐車場で購入した桃を食べ様と思い、リュックから出して、洗面台で洗い、少しかじって見るが、まだ硬く、かじれない。これは失敗であった全然熟していない。中国の桃はこの様な桃なのであろうか?
これは明日でも食べるのは無理であろう。仕方なく、諦め、先程購入した飲物を飲みながら、今日の出来事をメモに纏める。
時刻は23時を廻っている。明日も早いでの23時半過ぎにベッドに入り、寝る事にした。窓の外を見ると、天気が良さそうで明日も暑い日になりそうである。
今回はここまで! 明日は北京観光2日目。
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