2010/08/07 - 2010/08/12
890位(同エリア1044件中)
パンダ番長さん
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- 12,664アクセス
- フォロワー2人
四川旅行の5日目。成都に戻り、パンダ基地見学と成都市内観光、夜は川劇鑑賞。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 3.5
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 25万円 - 30万円
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
-
<羅曼大酒店での朝食と成都観光の朝>
モーニングコールで6時半に起床する。結局、昨晩も4時間程しか寝られなかった。朝の身支度を行い、7時頃に6階のレストランに冨田君と行く。レストラン入口でルームキーを見せ、レストラン内に入る。結構大きなレストランで、冨田君と奥のテーブルに座る。
ここのホテルもバイキング方式であるが、洋食と中華のバイキングである。
料理としては以下の様なものである。
<8月11日(水)朝食:ホテルレストランにてバイキング>
①キャベツの塩炒め
②人参の塩炒め
③平麺とキャベツ、ピーマンのソース炒め
④茶卵
⑤ソーセージ
⑥カリカリベーコン
⑦目玉焼 など
⑧食パン
⑨飲物(スイカジュース/コーヒーなど)
まあ、バイキングの食事であるので、とりわけ美味しい様なものは無かった。変った物では“茶卵”と書かれたゆで卵があったくらいか?“茶卵”とは字の如く、お茶で茹でた卵である。
8時前に食事を終え、部屋に戻り、必要なものだけをリュックに入れる。
お土産などは全て旅行カバンに詰める。
用意は万端である。部屋で少し時間を潰す事になった。8時30分前に冨田君と部屋を出 -
ホテルのフロント前ロビーのソファで待っていると巴さんが直ぐに現れる。巴さんに聞くと、朝早くに北京行きの若い夫婦を成都空港まで見送り、また戻って来た様だ。巴さんも殆ど寝ていない様である。
まだ他のメンバーは下りて来ていない。8時40分前には全員が集合し、巴さんに付いてバスに乗り込む。
これからシェラトン成都ホテルの宿泊客を迎えに行く。
バスは直ぐにシェラトン成都ホテルに到着し、他のツアー客が乗り込む。
巴さんが最後に乗り込み、バスは出発する。バスが走り出すと、巴さんから今日の予定が報告される。
今日はまず成都の街郊外にあるパンダ繁殖基地に行き、パンダを見る。
その後街に戻り、杜甫草堂に行き、昼食は麻婆豆腐発祥の店、陳麻婆豆腐店本店で昼食後、午後に成都老街の寛窄巷子を散策し、その後、三国志の聖地である武候詞を見学し、友誼商店に立ち寄り、夕食場所に行く。
今日の夕食は火鍋である。バスは今日最初の観光地であるパンダ繁殖基地に向かっている。
パンダ繁殖基地は郊外にある為に市内から30~40分掛かると言う。
バスは市街地の道から郊外へと進む。最近の中国の都市は同じ様な風景が多い。少し郊外に近づくと5~6階建ての共同住宅風の建物が並ぶ一角が現れ、その次には工場地帯が現れる。
その一角を抜けると少し田園などが見える郊外風に景色が変わる。およそ30分でパンダ繁殖基地に到着。
その入口前の道を挟んだ反対側の広場にバスが入り、そこにバスが停車する。時刻は9時20分である。 -
<成都パンダ繁殖基地見学と子パンダとの記念撮影>
ここからは歩いて道路を渡り、入口に向かう。道路の真ん中には大きなパンダ親子の石像が立っている。
その石像の下には“The Global 500”の文字が見える。
この“The Global 500”とは国連環境計画が、持続可能な開発の基盤である環境維持、及び改善に功績のあった個人または団体を表彰したものである。
その最高賞である『ワールドランキング500選』を受賞した記念碑である。
横断歩道を渡り、パンダ繁殖基地入口に移動する。
その横断歩道には可愛いパンダのおまわりさんの看板が立っていた。そして入口前で巴さんの手続きを待つ。
その間に記念撮影などを行う。
この入口横の看板には“成都大熊猫繁育研究基地”と書かれている。 -
手続きが済み、パンダ繁殖基地内に入る。意外に人は少ない。入口付近に電気自動車が止まっていた。
この自動車がこの基地内を巡回している様である。
ここで巴さんがこの電気自動車に乗るかどうかを我々に問いかける。
聞くとこれはツアー料金に入っておらず、1人20元(約280円)が必要であると言う。
みんなで乗る事になり、巴さんがお金を集め、そのチケット購入に走る。
その間に止まっていた電気自動車は何人かの観光客を乗せ、出てしまった。巴さんが戻り、みんなにチケットを渡す。そして電気自動車が来るのを待つ。
程なく、電気自動車がやって来た。それに全員が乗り込もうとするが、この電気自動車は12人乗りで、巴さんを加え、我々は全員で13人であるので、全員が乗り込めない。1人だけ溢れる。
多根井君だけがもう1台の電気自動車に乗り込む事になった。
乗ってこの園内を暫らく走り、まずは亜成年(3歳~5歳)のパンダゲージに向かう。
その近くで電気自動車は止まり、ここからは徒歩で移動である。塀の中には模擬的な公園が造られている。 -
その塀沿いに見て廻るとその一角に人集りが出来ている。居た!居た!ジャイアントパンダである。
その前には数頭のパンダが木組の台の上に寝そべっている。
暑い為かぐったりとしている。殆ど動かない。仕方なく、その寝そべるパンダをバックに記念撮影を行う。そこから徒歩で暫らく移動する。
立派な竹が道の左右から覆い被さる様に生えた小道を抜け、次の場所に移動する。 -
そして今度は幼年(1歳~2歳)パンダのゲージの前に辿り着く。しかし、ここには殆どパンダがいない。
また同じ様に暑さでぐったりと寝ているパンダが1匹見えるだけである。
また、このゲージの塀には電気柵が設けられている。
勿論パンダが逃げ出さない様にする為である。まだ、幼年期のパンダは、この施設に慣れず、逃げ出そうとするのであろうか?最初に行った亜成年のゲージの塀にはこの様な電気柵は無かった様に思われる。
これを見ると何か可哀想な気がした。 -
その後、成年(5歳以上)ゲージを廻り、そして再び電気自動車に乗り、今度は子供のパンダのいる建物近くで電気自動車を降りる。
子供のパンダのいる建物内に入ると生まれて直ぐのパンダの赤ちゃんが保育器の中にいるのが、窓越しに見る事が出来る。まだ毛も生えておらず、丸裸のねずみの様である。巴さんが女性係員に聞くと、生後約1週間くらいだそうだ。写真に撮りたかったが、ここは撮影禁止である。残念!
それを見終え、ここで子供パンダとの写真を撮る人を巴さんが募る。
撮りたいと希望したのは私を含め、3人で私以外は女性である。
他の人にはこの辺りで見学を続けて貰い、私達3人と巴さんがその写真が撮れる建物の一角に行く。
そこには列が出来ている。欧米人が数人その建物の扉の前で待っている。その列に我々も並ぶ。
お金について巴さんに言うと後で良いとの事である。とりあえず、ここで暫らく待つ事になる。
今日の成都は非常に気温も上がり、蒸し暑い。その蒸し暑い中で待っていると汗が滴り落ちる。
順番が近づくと前に並んでいる欧米人は靴に嵌める青いビニールのカバーなどを係員から渡されている。
やはり衛生面で注意が必要なのであろうか?
その欧米人が扉の中に入る。すると巴さんが係員から何かを聞いている。
巴さんが私達に、「今、子供のパンダを変えています。」と言う。
聞くとやはり1匹のパンダだけでなく、その写真撮影の為に数頭のパンダがいるのだ。子供パンダも人との写真撮影でストレスを受ける為に1匹の撮影人数が決められているらしい。その為に何匹かの子供パンダが、この撮影の為に用意されているそうだ。また、この子供パンダは1歳未満(大体が10ヶ月程度)のパンダであると言う。
ここでパンダの中国での数え方が1頭、2頭ではなく、1匹、2匹と数える事を巴さんから聞く。
日本では正式にはどう数えるのか判らないがやはり1匹なのか?
そして全世界にいるパンダの数は約2000匹で、内約1600匹が中国国内にいる。勿論、元は全て中国からで、その殆どがこの四川省からなのだと言う。その様な話をしているとやっと順番が廻って来た。
巴さんは扉の中までは入れない様で、ここからは係員の指示で中に入る。
中に入ると正面の中庭にテントが組まれ、その下には植木と立派な木の長椅子が置かれ、その椅子に写真撮影を行っている観光客がパンダを抱かえ、座っている。
そして、ここの係員が観光客のカメラで写真を撮っている。
1人で数分くらいパンダ抱かえて、写真を撮る様である。我々も順番を待つ間に係員が準備をしてくれる。
青いビニールの服を着、手にはビニール手袋をする。先に女性2人が写真を撮る事に順番を決める。
同ツアーの人が前に写真を撮っていた人の横に座り、係員がパンダを抱かえ、その人の膝を上に移動させる。
私も自分のカメラで係員の邪魔にならない様に数枚その人の写真を撮る。
パンダは係員に掌の上に蜂蜜を塗って貰い、それを一生懸命舐めている。
その蜂蜜を舐めている間は大人しくじっとしている。
しかし、その蜂蜜が無くなると抱かれている事が嫌なのか、声を出して暴れ様とする。
慌てて係員がまた蜂蜜を掌に塗る。その人が終わり、次の女性の順番の時にカメラを係員に手渡す。
そして私の順番になる。その人の隣に座り、係員に抱かれた子供パンダが私の膝の上に乗る。
お腹の辺りを手で抱かえ、子供パンダの体を引き寄せる。思いの外、重いのには驚いた。
そして係員がバシバシ写真を撮ってくれる。 -
どれくらい綺麗に撮れているのか心配ではあるが、これは任せるしかない。
私の上のパンダは黙々と掌の蜂蜜を舐めている。少し暴れたが、比較的じっとしていてくれた。
最後の方で丁度パンダの耳が私の頬に当たった状態で写真を撮って貰えた。
これで私の写真撮影は終了である。私の隣に次の人が座り、係員が私の膝からパンダを抱かえ移す。
我々3人は着せられたビニール服などを脱ぎ、名残惜しいが扉から外に出て、巴さんと合流する。
そして係員の撮ってくれた写真を確かめる。10枚程撮ってくれていたが、それなりに撮れていたのは数枚である。
また、巴さんから「記念にどうぞ!」とこの子供パンダとの記念撮影券を貰う。
見ると、そこには“愛心券(カタカナで”ラブ・チケット“)と書かれていた。
巴さんに聞くと、一時やはり、このパンダとの記念撮影は中国国内で問題となり、中止されていた。
その理由は、なぜ国家財産のパンダに対して中国国民がお金を払う必要があるのかという事と、動物愛護の観点から虐待行為であるとの指摘が中国内外からあった為である。
今はその為に、この施設での子供パンダの飼育費確保の為の事業と言う名目で行なっている。
それで”愛心券“と言う名で券を発行していると言う。
しかし、依然動物愛護の観点からの指摘は後を絶たず、この先中止となる可能性も高いと言う事であった。
確かに記念撮影をさせて貰った本人が言うのも何だが、ストレスを与える行為を行なっているのであるから、動物虐待と言われても仕方が無い。 -
最初に写真を撮って貰った女性も気に入った写真が無かったのか残念がっていた。
それで私も撮った事を言い、その写真を見せると私が撮ったものが一番気に入ったのか、送ってほしいと言われた。そして待って貰っていた、みんなと合流する。
冨田君はこの間に少しお土産物を購入した様である。
また、他の人達も買物をした人や飲物を購入している人など様々である。
中にはどこで買って来たのかアイスクリームを美味しそうに食べている人もいた。暑いので非常に羨ましい!我々3人の為に大分待った貰った事だろう!
その後、電気自動車が乗れる道まで出て電気自動車を待つ。程なく電気自動車が来て、乗り込む。
電気自動車はそのまま入口に直行した。
入口脇で電気自動車を降り、ここで巴さんが土産物を買いたい人は入口脇の土産物店を見ても良いと言うので、みんながその土産物店に入る。
私もここで親戚の子供にTシャツやパンダグッズを購入する。
みんなが土産物を買い終え、集合するとパンダ繁殖基地を出て、再びバスの駐車場に移動する。
時刻は既に11時前である。駐車場内にも数軒屋台の土産物屋が並んでいるが、先程の店と同じ様なものしか置いていない。それらの店を過ぎ、バスに乗り込む。
今日は朝から非常に蒸し暑いので、席に着くと直ぐにエアコンを調整し、体を冷やす。
バスは暫らくして出発する。再び市内に戻る。次は市内の中心地に近い、杜甫草堂である。
ここから40分程掛かると言う。
バスの中で先程のパンダの写真を見る。後ろの席にいっしょに写真を撮りに行った人が、私がパンダを抱かえていた時の写真を撮ってくれたと言うので見せて貰う。
そしてもしメールアドレスを教えて貰えれば送付してくれると言われるので、後でメールアドレスを教え、送って貰う事にした。
バスは市街地に戻り、段々車が多くなる。市街地は昼も近い為か非常に渋滞している。
巴さんに聞くと、成都も車が多く、渋滞が多いと言う。その渋滞に巻き込まれた様である。
するとバスは路地道に入り、何度も小路を曲がる。抜け道を進んでいるが予定よりも時間が掛かっている様である。
それでも45分程で小路に入るとその小路には屋台店が何軒も並んでいる。
その内に左手に大きな壁が見えて来る。この壁の中が杜甫草堂である。
小路から、その壁裏にバスが入るとそこがロータリーになっており、その場にバスが停車する。 -
<唐代に詩聖と呼ばれた杜甫の草堂>
バスを降りるとその前に立派な門があり、その門の額には“草堂”の文字が見える。
時刻は11時45分になっている。ここが杜甫草堂である。門右手の壁には“AAAA”のパネルがある。
巴さんが入口で入場手続きを行い、その間にこの門前で記念撮影を行う。 -
手続きが終わり、巴さんと共に門内に入る。
門から木立の中を真っ直ぐに石畳の路が次の建物まで続いている。その途中には小さな橋もある。
その橋を渡り、次の建物に向かう。その建物の中央には杜甫の石像が置かれている。
非常に細身の体の石像である。ここで巴さんが杜甫について説明を行う。
杜甫は唐の玄宗皇帝時代の詩人で字は子美、律詩(五言律詩)の表現を大成させた人として有名で中国文学史上最高の詩人とされ、李白の『詩仙』に対して『詩聖』と呼ばれている。その詩の特徴としては社会の現状を直視したリアリズム的な視点で詩歌を作り上げたという。 -
また仕官して理想の政治と行いたいという願望から社会や政治の矛盾を積極的に詩歌の題材として取り上げ、李白とは対照的な詩風を生み出した。35歳の時に科挙の進士を受験するが及第しなかった。
安史の乱前後の社会秩序が崩壊して行く様を体験し、48歳の秋に飢餓の為に職を捨て妻子と共に放浪の旅が始まり成都に移り住む。この時の住居跡がこの杜甫草堂である。
比較的穏やかな生活を過ごせた成都時代ではそれまでの悲しみや絶望感に満ちた詩に代わって自然に対する穏やかな思いを詠んだ詩が多く作られた。またここでは諸葛亮を讃える詩も詠んだ。
日本人に有名な杜甫の詩としては“春望”があるが、この成都で作られたものではない。
その詩は以下の様な詩である。
<春望>
國破山河在(国破れて山河あり):国家は崩壊してしまったが、山や河は変わらず、
城春草木深(城、春にして草木深し):城内では春が訪れ、草木が青く茂っている。
感時花濺涙(時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ):時世の悲しみを感じては花を見ても涙がこぼれ落ち、
恨別鳥驚心(別れを恨んで鳥にも心を驚かす)
:家族との別れを恨めしく思っては鳥の鳴き声にすら心を痛める。
烽火連三月(烽火 三月に連なり):幾月が経ってものろし(戦火)は消えることはなく、
家書抵萬金(家書 万金に抵(あた)る):家族からの手紙は万金にも値する。
白頭掻更短(白頭掻(か)けば更に短く):(心が痛んで)白い頭を掻けば掻く程髪の毛が抜け落ち、
渾欲不勝簪(渾て簪に勝らざらんと欲す):まったく簪(かんざし)を挿せそうにもないほどだ。
また同世代の日本人で有名なのは、やはり阿倍仲麻呂である。
同じく唐の玄宗皇帝の時代に遣唐使として中国に渡り、玄宗皇帝に認められ、また科挙の進士試験にも及第し、唐の高官として玄宗皇帝に仕え、何度か日本に帰国する事を試みたが、失敗し、結局唐の国で一生を終える。
その帰国の際に玄宗皇帝や同じ高官の王維などとの別れの宴で歌った詩が日本に伝わり、百人一首に収録されている。その詩が、“天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも”である。玄宗皇帝や王維の前で、日本語で歌ったと言われている。 -
杜甫の石像の前でその様な事を考えていた。その間も巴さんが杜甫の説明を行っている。
その説明では杜甫はこの成都には4年余り住み、その間に240編の詩を作ったと言う。
最初のこの建物は大広間と呼ばれ、その石像の間の左右にテラスの様な部屋がある。
この大広間を抜け、更に石畳の路を進むと、詩史堂と書かれた額の掛かる建物に着く。ここには書物が保管されていたそうだ。
更に奥に進むと柴門が続き、そして一番奥の工部祠に至る。ここには杜甫の像が祠の中に祀られている。
ここが執務室なのである。その工部祠までが入口の門から一直線上にあり、また左右対称の美しい並びになっている。その工部祠の前から右手には少陵草堂の碑亭が見えている。
これは茅家で少陵草堂の碑の為に造られたものである。 -
また、その奥には立派な池があり、多くの鯉が泳いでいる。その池に沿う様に回廊が造られている。
この回廊部分には土産物屋なども途中にあった。ちょっと、周りの情景とは合わない感じである。
その回廊を抜けると、小さな門の奥に杜甫が詩の中で描写した風景や、明代の旧居の田園風景を再現した草萱家屋が建っている。
その草萱家屋の中には明代の生活風景が台所や寝所など残されている。
この草萱家屋内を一通り見学する。
また、田園風景を再現した庭には杜甫の詠んだ風景の碑も置かれている。
丁度、この草萱家屋は工部祠の裏手に建っている。
そこから工部祠の脇を抜け、先程通って来た路を戻る。
途中で私はみんなから離れ、この草堂脇にある赤壁の小道に行き、その景色をカメラに収め、慌ててみんなを追い掛ける。
みんなに追い付いたのは、大広間辺りであった。 -
その後、門から出て、門の前に建つ大きな壁の横から道路に出る。後で巴さんに聞くと、この壁は隠し壁と言い、門を隠す役割をしている。小路を出ると少し先にバスが止まっていた。
ここから物売りの攻撃を受ける。籠を持ったおばちゃんが、「千円!千円!」と言って何かの土産物を売り込む。我々がそれを無視してひたすらバスを目指し、歩く。
結局、バスに乗り込んだ後も開かない窓に向かい、土産物を見せ、必死に叫んでいた。
バスが動き出しても少し付いて来る。非常にあぶない!
バスはそんなおばちゃん達にはお構い無しにスピードを上げる。時刻は12時15分である。 -
<麻婆豆腐発祥の店、陳麻婆豆腐本店での昼食>
これから昼食場所の陳麻婆豆腐本店に向かう。巴さんの説明ではすぐ近くであると言う。本当に直ぐ近くで、5分程でバスはどこかの入口門の前に入り、停車する。ここから歩いて陳麻婆豆腐本店に行く様である。
少し歩くと“陳麻婆”の看板が見えて来た。
ここが麻婆豆腐発祥の店と言われる陳麻婆豆腐本店である。
店の入口扉は開けられたまま、その前にビニールのカーテンが設けられ、店内の冷房を維持している。 -
店に入ると右手にテーブルが並び、一般客が食事をしている。我々は突き当りの階段を上り、2階に上がる。
その階段途中の踊り場上にも陳麻婆豆腐の文字が書かれた額がある。
また、階段途中にはここの料理長と俳優の加藤雅也が並んで写真に収まっている。
どうも加藤雅也がここに料理修業に来た時に撮ったものの様だ。
2階に上がると、テーブルが並び、観光客と思われる多くの客が既に食事をしている。 -
我々もその一角のテーブル2つの分かれ、座る。
テーブルの周りにはここの店員なのか、パンダの可愛いポシェットを持った若い女の子達がいる。
テーブルには、これまた可愛いパンダの箸置きと箸が置かれ、またパンダの絵が描かれた湯呑が置かれている。数人の人と前に置かれた湯呑を見せ合うと数種の絵柄がある。 -
まずはその湯呑にお茶を注ぐ、その内に料理が運ばれて来る。
出て来た料理は以下の通りである。
<8月11日(水)昼食:陳麻婆豆腐本店にて>
①豚耳焼のきゅうり添え
②鶏肉の唐辛子塩炒め
③えのき茸とピーマンの塩炒め
④インゲン豆と牛挽肉の塩炒め
⑤豆腐と椎茸、衣笠茸の煮物
⑥陳麻婆豆腐
⑦麻婆茄子
⑧レタスの茎と牛肉の唐辛子塩炒め
⑨鶏肉とカシューナッツの唐辛子塩炒め
⑩お焦げの八宝あんかけ
⑪ジャガイモの千切り塩炒め
⑫野菜のスープ(椎茸、衣笠茸、トマト、青菜)
⑬卵焼飯
⑭坦々麺
非常に多くの料理が出て来た。 -
この料理が出て来る度に近くにいる可愛らしい女の子が日本語で説明をしてくれる。
これが先程可愛いパンダのポシェットを持った女の子である。見た目は高校生くらいの女の子である。
どこで日本語を勉強したのかを尋ねると、大学で勉強中だと言う。聞くと大学生だと言う。飛び級で大学に通っているのか?どう見ても高校生か、見様によっては中学生くらいに見える。
また、このパンダのポシェットを持った女の子達はみんな日本語が喋れる印なのだと言う。 -
この様な話を聞いていると、後坦々麺が出てくれば最後という頃に、その女の子が、「ここで土産物の紹介をさせて貰って宜しいですか?」と聞いて来る。
みんなが良いと承諾すると、何かを取りに店奥に戻る。
そして再び、大きな籠を持ち、我々のテーブルに戻って来た。
ひとつひとつ土産物を籠から出して説明をする。
まずはテーブルに置かれていたパンダの箸置きと箸セットである。
巴さんに聞くとこれはこの店のオリジナル商品であると言う。ここでしか買えないとの事であったので、これは良い土産物だと思った。
次に同じくパンダ絵柄の湯呑セットで、これもこの店オリジナルである。
そして、この女の子達がぶら下げているパンダのポシェット、これは色がピンクと青の2種類である。
最後に麻婆豆腐と麻婆茄子の素(レトルトパック)の紹介である。
私は、その中でパンダの箸置きと箸のセット(1000円)、パンダ絵柄の湯呑セット(1200円)、それにパンダのポシェット2個セット(1000円)を購入した。
日本円での支払いが可能との事で、日本円で支払う。おまけに小さなパンダのキーホルダーをくれた。
料理はやはり山椒や唐辛子の効いたものが多かった。
特にこの店の代名詞になっている麻婆豆腐は山椒が非常に効いており、やはり舌が痺れる。
冨田君もダメなのであろうと思ったが、意外に美味しそうに食べている。
しかし、やはり本場の麻婆豆腐は他の所で食べるものとは少し違う。
丁度、卵焼飯に掛けて食べると丁度良く、美味しい。他の料理も山椒と唐辛子を効かせたものが多く、辛いものが多かったが、それ程激辛のものではなかった。
最後の坦々麺は少し期待外れではあった。もっと美味しいものを想像していたが、汁無ではあるが、山椒が効いた豚挽肉は山椒のみの味であまり深みのある味ではない。
非常に食べ易かったのはおこげ料理と麻婆茄子である。これは非常に美味しかった。
麻婆茄子は、麻婆豆腐よりも山椒が抑えられていて、丁度良い辛さである。
最初の方に辛い料理が集中したせいか、おこげ料理は甘さを感じ、じゃがいもの千切り塩炒めなどは非常にじゃがいもの甘さが出ていた。かなり時間を掛けて昼食を摂った。
トイレなどを済ませ、席を立つ。先程の女の子達が並び、我々を見送ってくれる。
2階にこんなにも多くのパンダのポシェットを持った女の子がいたのである。
改めて日本人観光客が多い事に驚いた。2階から下り、店を出る。
先程バスを降りた場所まで戻る。その途中で観光客目当ての土産物売りにまたまた出くわす。
その執拗な売り込みを避けながらバスに乗り込む。時刻は13時30分である。
これから午後の観光の開始である。まずはこの成都に残る古い街並みの寛窄巷子街に向かう。
バスは再び市内の幹線道を走り、10分程で路地の一角で停車し、ここでバスを降りる。 -
<成都の古い街並み、寛窄巷子街>
少し歩くとレンガ塀の残る路地前に到着する。この辺りから古い家屋が並んでいる。
ここが寛窄巷子街の入口である。
寛窄巷子は北から順に寛巷子・窄巷子・井巷子という3本の小街路からなる。
この辺り一帯は清朝時代に満州八旗の居住したところで、少城と称されており、清朝時代の支配層地区で、現在でも清朝末期・中華民国期の四合院造の住居などが残っている場所である。
いわば昔の成都を偲ばせる街である。
ここは2004年から新観光スポットとして再開発されると同時に、街並みを保存して保護を加えた所である。
この保存・保護と同時に、観光スポットとしても再開発され、レストラン・茶館・喫茶店・土産物店などが軒を連ねて開店した。
現在でも再開発中で、新たな観光スポット「古街」として生まれ変わろうとしている。
ただ、ここは再開発といっても、旧居の保存を基本として補修し、しかも居住中の住民が日常生活を営めるようにしている。即ち、日本での歴史的町並み保存と同様である。
奈良でも奈良町など江戸時代の街並みが残され、奈良の新しい名所になっている。
ここは、その小路のひとつである窄巷子である。 -
まだ開発中との事であるが、非常に綺麗に整備されている。トイレ休憩も終了し、その小路を奥に進む。
小路は石畳の通りで、両脇にはレンガの塀が続き、様々な店が並んでいる。
小路は、椅子やテーブルが並び近代的なカフェの雰囲気と、古い建物とが綺麗に調和した異空間を演出している。その小路を少し進むと右手に大きな門を有した家屋が見えて来た。 -
この門には見慣れた英語文字の額が掛かっている。スターバックスである。
この大きな家屋がスタバになっているのである。
私が巴さんに、このスタバでコーヒーを買いたいと言うとみんなが同じ様に言い、全員でスタバに入る事になった。
門を入ると中庭があり、そこにはテーブルが並んでいる。
その中庭を抜け、家屋の中に入るとそこがカフェになっている。
入った左手にカウンターがあり、そこで注文をする。
私はカフェモカのミドルサイズを注文した。価格は30元(約420円)で日本とほぼ同じ様な価格帯である。注文から受取までも日本と同じである。 -
メニュー内に変わったものがないかを見ていたが、良く判らなかった。
少し店内で休憩を取っていたが、手に注文した物を各自持ち、再び小路に戻る。
丁度、門の前の大きな植木に水蒸気が出る仕掛けがしてあり、そこから盛んに水蒸気が出ている。
どこから現れたのか多くの子供達がその周りに集まり、楽しんでいる。
日差しが強く、非常に暑いのでこの水蒸気でさえも涼しく感じる。
大部長い間その前で見ていたが、いっこうに、水蒸気が収まる様子がないので、その場を後にし、そこから違う小路に移動する。
今度は、寛巷子の小路に出る。この小路にも先程の小路と同様に洒落た店が並んでいる。
また、この小路には木々も多く、土産物を売る屋台店なども見える。 -
それらの前を通り過ぎ、この小路の終点に到着する。そこは広場になっており、この寛窄巷子街の地図なども見える。
これで寛窄巷子街の散策は終了である。
ここで再び、バスに乗り込む。時刻は14時15分である。
次はお待ちかねの三国志の聖地である武候祠の見学である。
バスは市内の道に戻り、車で渋滞する市内の道を移動する。
それでも10分程で大きな碑の立つ一角でバスは停車する。
その碑には“三国聖地”の文字が刻まれている。ここが武候祠の入口である。 -
<三国志聖地、武候祠>
この門の前は観光客が屯している。この門の前で巴さんの入場手続きを待つ。
巴さんの手続きを待つ間に、この門で記念撮影を行う。 -
それにしても昼を過ぎて暑さが増し、また蒸して来た。
暫らくすると巴さんが戻り、門を入る。
成都の武侯祠は中国最大の三国遺跡博物館で、1780年の歴史がある。
主に恵陵、漢昭烈廟(劉備殿)、武侯祠、三義廟など古代建築物からなっている。
唐の時代と宋の時代はすでに観光地になっていたと言う。現在の建物は清の康熙11年(1672年)再建されたものである。祠の中に劉備玄徳や諸葛孔明など蜀漢英雄50人の塑像が祀ってある。
近年西側の南郊公園と合併し、敷地面積は14万平方メートルまで拡大している。
東側にある錦里街は成都のお土産屋と手軽な料理店が集中したところで、三国文化を引き継いでおり、また四川省西部の民族風景も取り入れ、観光客が帰ることも忘れるほどのところになっている。
「漢昭烈」とは劉備玄徳の死後に与えられた贈り名、現在は武侯祠の正門には「漢昭烈廟」という横額が懸かっている。劉備殿に劉備玄徳、関羽雲長、張飛翼徳などの塑像が祭られている。
諸葛孔明が生前「武郷侯」に任命され、死後「忠武侯」という名が贈られた。それで、彼を「諸葛武侯」と呼ぶようになった。孔明殿には、孔明の家族三代の塑像が祭られている。
三代が国のために献身的に力を尽くしたので、後人に称賛され、敬慕されている。
門を入った所で集合し、1人の男の人を紹介される。
この武候祠の案内人である“黄さん”である。この黄さんがこれから、この武候祠内の説明を行ってくれる様である。その黄さんについて歩く。 -
門から少し歩くと左右に大きな碑が見えて来る。右に唐碑、左に明碑である。
それを過ぎると再び、門が前方に見えて来る。この門を二門と言う。
この二門の入口には『明良千古』の文字の額が掲げられている。
この文字の意味は、「明」は“賢明な君主”の意で、劉備が賢明である事、「良」は“忠誠な臣”の意で、諸葛亮孔明が忠誠な臣である事、「千古」は“後世まで伝わる”という意味である。
また、この『明良千古』の「明」の文字の「日」が「目」に変わっているのは、“賢明な劉備はその目が鋭い”という意味を表している。 -
この二門を入ると左右に回廊が分かれている。我々は左手の回廊に進む。
その回廊の朱色の壁には門に沿い、文章が刻まれた黒い石板が並んでいる。
何の文書なのかと思っていたが、その端まで行き、それが有名な『前出師の表』である事に気が付いた。
その端の場所で黄さんの説明が始まる。
最初の方の黄さんの説明は三国志ファンなら良く知っている事柄であるが、後半部分でこれが南宋の武将の岳飛の書で、その際に涙を流しながら書き写したと言われていると説明を受ける。
また、この『前出師の表』は中国の小学校2年生の授業で全文暗記させられるとの事を聞き、驚いた。
確かにこの『前出師の表』は名文として知られ、中国では書の手本とされ、多くの中国歴代の書道家にも愛された文章であるが、現代中国ではそれが小学校の授業に使用されているとは驚きである。
それもこの長い文章を全文暗記させられるとは?
それともうひとつ、この文章は最初の方は楷書体で書かれているが、その途中からその楷書体が行書体に変わり、最後には草書体に変わって行く。
これはこの文章を書いた諸葛亮孔明の勢いと心(感情)が現れているのである。
最初は冷静に文章を書き始めた孔明であったが、その文章を書くに連れて、その筆の速度も増し、感情も高ぶった様子がこの文字の変化に現れているのだと黄さんが説明をしてくれた。
この『前出師の表』をここに記載する。 -
『前出師の表』
臣亮言<臣亮言す>
先帝創業未半而中道崩殂。<先帝創業未だ半ばならずして中道に崩殂せり。>
今天下三分益州疲弊。<今天下三分し益州は疲弊す。>
此誠危急存亡之秋也。<此れ誠に危急存亡の秋なり。>
然侍衛之臣、不懈於内、<然れども侍衛の臣、内に懈らず、>
忠志之士忘、身於外者、<忠志の士、身を外に忘るるは、>
蓋追先帝之殊遇、欲報之陛下也。<蓋し先帝の殊遇を追ひ、之を陛下に報いんと欲すればなり。>
誠宜開張聖聴以光先帝遺徳、<誠に宜しく聖聴を開張し以て先帝の遺徳を光らかにし、>
恢弘志士之気。<志士の気を恢弘すべし。>
不宜妄自菲薄引喩失義、<宜しく妄りに自ら菲薄し、喩へを引き義を失ひ、>
以塞忠諫之路也。<以て忠諫の路を塞ぐべからず。>
宮中府中倶為一体、<宮中府中は倶に一体と為り、>
陟罰臧否不宜異同。<陟罰臧否するに宜しく異同あるべからず。>
若有作姦犯科、及為忠善者、<若し姦を作し科を犯し、及び忠善を為す者有らば、>
宜付有司論其刑賞、<宜しく有司に付して其の刑賞を論じ、>
以昭陛下平明之理。<以て陛下の平明の理を昭らかにすべし。>
不宜偏私使内外異法也。<宜しく偏私して内外をして法に異にせしむべからず。>
侍中侍郎郭攸之・費褘・董允等、<侍中侍郎郭攸之・費褘・董允等は、>
此皆良実志慮忠純。<此れ皆良実にして志慮忠純なり。>
是以先帝簡抜以遺陛下。<是を以て先帝簡抜して以て陛下に遺せり。>
愚以為宮中之事、事無大小悉以咨之、<愚以為へらく宮中の事、事大小と無く悉く以て之に咨り、>
然後施行、必能裨補闕漏有所広益。<然る後に施行せば、必ず能く闕漏を裨補し広益する所有らんと。>
将軍向寵、性行淑均、堯暢軍事。<将軍向寵は、性行淑均、軍事に堯暢す。>
試用於昔日、先帝称之曰能。<昔日に試用せるとき、先帝之を称して能と曰ふ。>
是以衆議挙寵以為督。<是を以て衆議寵を挙げて以て督と為す。>
愚以為営中之事、悉以咨之、<愚以為へらく営中の事、悉く以て之に咨らば、>
必能使行陣和睦、優劣得所。<必ず能く行陣をして和睦し、優劣所を得しめんと。>
親賢臣遠小人、此先漢所以興隆也。<賢臣に親しみ小人を遠ざくる、此れ先漢の興隆せし所以なり。>
親小人遠賢臣、此後漢所以傾頽也。<小人に親しみ賢臣を遠ざくる、此れ後漢の傾頽せし所以なり。>
先帝在時、毎与臣論此事、<先帝在りし時、臣と此の事を論ずる毎に、>
未嘗不歎息痛恨於桓霊也。<未だ嘗て桓・霊に歎息痛恨せずんばあらざりしなり。>
侍中・尚書・長史・参軍、此悉貞良死節之臣。
<侍中・尚書・長史・参軍は、此れ悉く貞良死節の臣なり。>
願陛下親之信之。<願はくは陛下之に親しみ之を信ぜよ。>
則漢室之隆、可計日而待也。<則ち漢室の隆んなること、日を計りて待つべきなり。>
臣本布衣、躬耕於南陽。<臣は本布衣、南陽に躬耕す。>
苟全性命於乱世、不求聞達於諸侯。<苟くも乱世に性命を全うし、聞達を諸侯に求めず。>
先帝不以臣卑鄙、猥自枉屈、<先帝臣の卑鄙なるを以てせず、猥りに自ら枉屈し、>
三顧臣草廬之中、<臣を草廬の中に三たび顧み、>
諮臣以当世之事。<臣に諮るに当世の事を以てす。>
由是感激、遂許先帝以駆馳。<是に由りて感激し、遂に先帝を許すに駆馳を以てす。>
後値傾覆、受任於敗軍之際、奉命於危難之間。
<後傾覆に値ひ、任を敗軍の際に受け、命を危難の間に奉ず。>
爾来二十有一年矣。<爾来二十有一年なり。>
先帝知臣謹慎。<先帝臣の謹慎なるを知る。>
故臨崩、寄臣以大事也。<故に崩ずるに臨みて、臣に寄するに大事を以てす。>
受命以来夙夜憂歎、<命を受けて以来夙夜憂歎し>
恐託付不効以傷先帝之明。<託付の効あらず以て先帝の明を傷つけんことを恐る。>
故五月渡濾深入不毛。<故に五月濾を渡りて深く不毛に入る。>
今南方已定兵甲已足。<今南方已に定まり兵甲已に足る。>
当奨率三軍北定中原。<当に三軍を奨率して北のかた中原を定むべし。>
庶竭駑鈍攘除姦凶、<庶はくは駑鈍を竭くして姦凶を攘ひ除き、>
興復漢室還于旧都。<漢室を興復して旧都に還さん。>
此臣之所以報先帝而忠陛下之職分也。<此れ臣の先帝に報いて陛下に忠なる所以の職分なり。>
至於斟酌損益進尽忠言、<斟酌損益し忠言を進め尽くすに至りては、>
則攸之・褘・允之任也。<則ち攸之・褘・允の任なり。>
願陛下託臣以討賊興復之効。<願はくは陛下臣に託すに討賊興復の効を以てせよ。>
不効則治臣之罪、以告先帝之霊。<効あらずんば則ち臣の罪を治め、以て先帝の霊に告ぐべし。>
若無興徳之言則<若し興徳の言無くんば則ち>
責攸之・褘・允等之慢、以彰其咎。<攸之・褘・允等の慢を責め、以て其の咎を彰らかにせよ。>
陛下亦宜自謀、以諮諏善道察納雅言、<陛下も亦宜しく自ら謀りて、以て善道を諮諏して雅言を察納し、>
深追先帝遺詔。<深く先帝の遺詔を追ふべし。>
臣不勝受恩感激。<臣恩を受けて感激に勝へず。>
今当遠離。<今当に遠く離るべし。>
臨表涕零、不知所言。<表に臨みて涕零ち、言ふ所を知らず。>
これを日本語に訳すと以下の様な内容になる。
臣下の諸葛亮が謹んで陛下に申し上げます。
先帝におかれては、天下統一の大事業の半ばでお亡くなりになりました。
今、天下は三国に分裂し、わが益州(蜀国)は国力が衰え、存続できるかの瀬戸際にあります。
しかし、内では文官達が政務に励み、外では武官が死を賭して働いているのは
先帝(劉備)から受けた御恩を陛下(劉禅)にお返ししようとしているからにほかなりません。
よって陛下は、臣下の進言に良く耳を傾け、先帝の遺徳を輝かし、
臣下を励ますべきであり、軽薄な言動をもって忠臣の諫言に耳を塞ぐべきではありません。
朝廷と幕府は一体であり、賞罰を行うのに不公平があってはなりません。
もし法を犯した者・忠義の行いがあった者がいれば、
それぞれの役所に命じて、適切な賞罰を行い陛下の厳正公平なことを
天下にしめすべきであり、私情をもって法を曲げるようなことはなりません。
侍中・侍郎の郭攸之・費禕・董允らはみな誠実で、忠義に厚い者たちです。
それで先帝も彼らを抜擢し、陛下の相談役として遺されたのです。
宮廷のことは何事も彼らに相談した上で施行すれば、
まず間違えることはなく、民生の安定に役立ちましょう。
将軍の向寵は温和な性格で、軍事に精通しております。
かつて先帝に採用された際、有能であると高く評価され、
それで皆から推され督に就任したのです。
軍事のことは何事もかれに相談して施行すれば、必ずや三軍互いに協力し、
将兵はその力を十分に発揮させることが出来るでしょう。
賢臣を重用し、つまらぬ者を遠ざけたのが前漢興隆の所以であり、
つまらぬ者を重用し、賢臣を遠ざけたのが後漢衰退原因であります。
先帝がご存命の時、事あるごとに私とこの事を論じ、
その度につまらぬ者を重用し、賢臣を遠ざけ、国を衰退に導いた
桓・霊帝のために痛根し、嘆息したものであります。
先にあげた者たちはすべて誠実で忠義な者達であります。
彼らを信頼し、重用されれば、わが漢朝の興隆は疑いありません。
私はもともとただの平民で、南陽で畑仕事をしていた者です。
この乱世に生まれ、一生無事に過ごすことが出来れば何よりと思い、
諸侯の間で名を馳せようとは考えてもおりませんでした。
しかし、先帝は私ごときのために、わざわざ三度までも我が家をお訪ね下さり、
天下の形勢についてご下問下さいました。
私はこれに感激し、先帝にお仕えすることを誓ったのです。
その後、荊州陥落と当陽での敗戦という切迫した情勢の中で
軍師の大任を拝命して以来、早くも二十一年になります。
先帝は私が慎み深いのをよくご承知で、崩御される際、
私に天下平定の大事業を成し遂げるようお託しになりました。
以来、そのご遺命にたがわぬよう、日夜心をくだいてまいりました。
それで、五月に濾水を渡り、瘴癘の地に遠征いたしました。
いまや、南方の平定も終わり、軍備も充実した上は、
まさに三軍を率いて中原を平定いたすべきであります
微力をつくし、敵を討ち滅ぼし、漢皇室を再興して旧都洛陽に帰還したく、
これこそ先帝の御恩に報い、陛下に忠をつくすために私がなすべき本分であります。
利害得失を考慮して、忠告し進言するのは、郭攸之・費禕・董允の任務であります。
私にはなにとぞ魏を討伐して漢室を復興する責任をお任せください。
もし成果を挙げることができなかったときは、私の責任を問い、
先帝の霊前に報告なさって下さい。
もし治世に有用な進言がなされないときは、
郭攸之・費禕・董允の怠慢を問い、その罪を明らかにして下さい。
陛下におかれましてもよく熟慮のうえ、臣下に治世の道をお尋ねになり、
正しい言葉をとりあげ、先帝の遺詔をよくよく思い出して下さい。
私はご厚恩をこうむり、感謝にたえないものであります。
いま、出陣にあたり、この上奏文を前にして涙が流れ、申し上げる言葉を知りません。
この『前出師の表』は227年、第一次北伐(魏討伐)の前に上奏され、後に「これを読んで泣かざるは人にあらず」と評された名文である。
前半で皇帝の心得と北伐中の留守を任せる者たちについて、後半で自らについて言及し北伐の決意を述べています。
「この頃には荊州を失い(関羽死す)、夷稜の戦い(劉備死す)で大敗し、蜀は弱体化していますが、幸い、文官・武官ともに優秀な人材がそろっています。陛下には良き人材を重用し、民を安寧に導いていただきたい。私は魏を討伐し、漢皇室を復興してまいります。」
と述べているが、本当は関羽・張飛・馬超・黄忠といった蜀国建国の柱石となった五虎将軍の4人の武官や、馬良・法正・糜竺といった文官を次々と失い、人材面でもかなり苦しかったはずである。
それでもなお、蜀は北伐をせねばならない!それが私と先帝(劉備)との約束なのだ!という諸葛亮孔明の胸中が伝わって来る非常に感情の籠った文章である。
因みに、三国志の有名なエピソードのひとつの「三顧の礼」の出展でもある。
また、門の反対側の右手の塀沿いには同じ様に『隆中対』と言う、まだ諸葛亮孔明が劉備の家臣になる前にその頃の中国国内の状況分析と今後の劉備の進むべき道を、孔明の草庵で対話した際の内容を刻んだ石板が並べられている。これは見る事が出来ない。 -
ここから左手の回廊には多くの塑像が並んでいる。
この塑像は武官の塑像で14体の塑像が並んでいる。
三国志ファンなら垂涎ものの塑像であるが、ガラス越しであるのが少し残念である。王平(字 子均)、姜維(字 伯約)、馬超(字 孟起)、黄忠(字 漢升)、趙雲(字 子龍)など有名な武将の塑像が並ぶ。
特に興味深かったのは姜維と黄忠である。共に本でしかイメージがなかったので興味を持って見たが、黄忠のイメージは少し違った。また最後にあったのが忠臣中の忠臣の趙雲である。
これがまた趙雲だけが老年の塑像であるので、イメージが違う。なぜ老年の塑像なのであろうか?
少し色褪せた髭と顔の皺が印象的である。 -
この様にひとつひとつの塑像をじっくり見ているとみんなにかなり遅れてしまった。
慌てて追いかける。結局、反対側の回廊に並ぶ文官の塑像は見る事が出来なかった。残念である。
是非もう1回来なくてはならない! -
その回廊の奥に続くのが、劉備殿である。ここには関羽、張飛、劉備が祀られている。
まず、左手の回廊からは張飛が祀られている部屋が見えて来る。その入口上には“誠貫金石”の文字が書かれた額が掛かっている。その意味は“忠義の心が金石をも貫く”で、張飛の人柄を表している。
その部屋に入ると奥の真ん中に張飛が、その左右に息子の張苞など、張飛に関わる人物塑像が並んでいる。
張飛の塑像は想像通りの顔である。浅黒い肌にドングリ眼で、虎髭と評された髭などイメージ通りである。 -
その部屋を出て、この殿の真ん中に劉備の塑像が祠の様な中に鎮座している。
この前にも大きな額が掲げられている。その額には“業紹高光”の文字がある。
これは“劉備の業績は漢の高祖劉邦や後漢の光武帝をも超える”という意味である。
劉備(漢照烈帝)は大耳のイメージであったが、塑像では特にその耳の特徴は見られない。
膨よかな顔立ちは、如何にも包容力のある君主の顔である。
祠の左右にも塑像があるが、誰なのかは判らない。 -
その前では黄さんが何やら説明を行っているが、それを無視して右手の部屋に向かう。
ここには関羽が祀られているのである。
その入口上にも張飛の部屋と同様に額が掛かり、そこには“義薄雲天”の文字が見える。
これは“正義の志は天に届く程強い”という意味で、これも忠義の人、関羽を表すのに相応しい言葉である。
関羽の左右にも関羽ゆかりの人物として周倉、息子(養子)関平、実子の関興などの塑像が見える。 -
それらをひとりで見て、みんなの説明の輪に戻るが、黄さんが何を説明していたのか、全く判らなかった。
戻ると直ぐにこの劉備の祠の裏手に廻り、そこから劉備殿を出る。
この劉備殿を出て武候祠に向かう途中は、工事を行っている様で赤と青の縞模様のシートが小路の左右を覆い、その下には写真のパネルが並んでいる。
巴さんに聞くと、これも2年前の512大地震の際に壊れたものを現在修理中なのであると言う。
劉備殿の奥には“武候祠”の額の掛かった過庁という建物が見えるが、そこまで修理中で左右はパネルばかりである。しかし、ここにも多くの観光客が屯している。
我々もこの武候祠の額を背に記念撮影を行う。この過庁を抜けると前に武候祠(諸葛亮殿)が見えて来る。
その屋根の上には布袋を中心とした飾り細工の置物が中央に乗っている。
また、武候祠の前には童子の彫刻の取手が付いた大きな線香炉が置かれている。
ここにも入口上には額が掛かっている。本当に中国の人は額好きである。 -
その額には“名垂宇宙”と書かれている。
これは“諸葛亮孔明の名は世界に響き渡っている”という意味である。
この書は清朝のラストエンペラー愛新覚羅溥儀の子の書との事であるが誰なのであろうか? -
諸葛亮殿の中に入ると中央に諸葛亮孔明の塑像が祀られている。
これも本などのイメージ通りの綸巾(りんきん:諸葛巾とも言われる布製の帽子)と羽扇(羽根で出来た団扇)を持った塑像である。じっくり見ていると羽扇を持つ手の指が気になった。
羽扇を支えている指がなぜか、親指と人指し指、小指なのである。手に握っているのではない。
なぜ、こんな持ち難い持ち方をしているのであろうか?
その孔明の塑像の左右には、子供の諸葛瞻と孫の諸葛尚の塑像が置かれている。 -
また、大きな青銅製の銅鑼が展示されているが、これは南征時に孔明が考案したと伝えられる諸葛鼓である。
この銅鑼は昼間には飯炊き用のお釜として利用され、夜は警報用の銅鑼として用いられたと言われている。
巨大な銅鑼で、直径が見た目50cm以上はある。青銅色に錆びてはいるが非常に原型を留めている。
それらを見終え、この諸葛亮殿を抜けるとその奥には庭が広がる。
左手の回廊を通り、左手奥の建物に向かう。
ここが桂荷楼と呼ばれる建物である。1階部分が土産物屋になっている。
その脇を通り抜け、大きな池が見えて来た。この池は蓮で一杯である。ところどころで蓮の花が咲いている。
その池の廻りの小路を進み、船舫と言われる建物の手前右の丸い入口を入る。
その入口を入ると、赤い塀が続く路に出た。
この場所は武候祠の紹介されたガイドブックやパンフレットに良く出て来るところである。
この場所で記念撮影を行う事にした。
赤い塀と竹林とのコントラストが非常に綺麗である。赤い壁の上には鬼瓦が並んでいる。
この路を行くと恵陵の入口に到達する。この門の上にも額が掛かっている。
その額には“千秋凛然“と書かれている。 -
これは”劉備は威風堂々としており、何時までも人々に偲ばれる“という意味である。
この門を入ると正面には入口を遮る様に壁が立ち、その壁には大きな碑が埋め込まれている。
碑には”漢照烈皇帝之“までは確認出来るが、最後の”墓?または陵?“の文字が削れて消えてしまっている。
その壁は3m程の高さで、恵陵を取り囲む様に続いている。
碑の横の入口から更に奥に入ると、前には大きな墳丘墓(円墳)が見えて来る。これが恵陵である。
また、後の壁を再度見るとそこには”漢照烈皇帝之陵“と刻まれた石板が埋め込まれていた。
ここはやはり“陵”なのである。 -
この恵陵は劉備の陵墓とされ、夷陵の戦い(蜀と呉の戦い;呉に殺された関羽の弔い合戦)で呉の陸遜に大敗した劉備は223年、失意のうちに永安(白帝城)で63年の生涯を閉じる。
その亡骸は成都へ運ばれてこの恵陵に葬られたとされている。
また、この恵陵には劉備だけでなく、劉備の2人の夫人である甘夫人・呉夫人が合葬されており、高さ12メートル、面積は約2000m2にも及ぶ。
下部が石積みで、墓自体は草木がたくさん植わり、雑木林状態ですが、盗掘にも合わず良好に現存しているとの事であった。ここで、黄さんがこの墓の盗掘についての話をしてくれる。
唐時代にこの墓に泥棒が入ったが、その泥棒が墓の中に入ったら、中で劉備と二人の夫人が囲碁を打っていた。その劉備の傍らには関羽と張飛が鋭い眼光で立っていたと言う。
驚いた泥棒が逃げ出そうとすると劉備に、「一局打って行かないか?」と声を掛けられたと言う。
泥棒は何も取らずに必至に逃げたと言う話である。
その話が拡がり、その後この墓に泥棒が入る事が無かったと言う。
一説では劉備は永安(白帝城)で亡くなった為に、この恵陵は“衣冠塚”ではないかとも言われている。
因みに衣冠塚とは、ある人物の衣冠、つまり衣服などを遺品として埋葬した塚の事である。
その恵陵を出て、黄さんに付いて歩く。
何やら新しい建物の前に到着した。三国文化陳列館の様である。 -
この中に入る。入口付近には三国時代の合戦を題材にした絵が両側に置かれている。左の絵は劉備が蜀への入国の際の綿竹関での馬超(当時は劉璋の蜀の客将であった)と張飛との一騎打ちの場面である。
その奥の左手の部屋に導かれ、その部屋に陳列されている宝物類の説明が始まる。
特にこの宝物類が三国時代に関するものとは思えないが?
少し説明を聞いていたら、何の事はない中国で良くある寄付を集める為の斡旋販売である。
他のみんなは聞いているが私は他の陳列品を見て廻る。 -
その部屋には三国時代の甲冑や武器類などの展示もある。
また、今まで暑い中を歩いていたので、この部屋の冷房は非常に心地よい。奥の通路にも玉石などの彫刻品が並んでいる。その他にも三国志に関する展示品が並ぶ。
その内に宝物類の説明が終わったのか、他のみんなも通路に現れる。
その後、その通路奥の土産物が並ぶ部屋に入る。 -
その場でお茶を振舞われ、少し休憩をしながら、土産物を見る。幾つか買いたい物もあったが、巴さんに聞くとこの後にも土産物屋に立ち寄るとの事であったので買うのを控えた。
しかし、三国文化陳列館にしては、少し展示品が少な過ぎる。
もしかすると我々が案内されたのは、この陳列館の極一部なのかも知れない。
この三国文化陳列館を出て、ここで黄さんとは別れ、この武候祠を出る事になった。
出口は入口とは違う場所で、直ぐに駐車場が見えて来る。
結局、三義廟や孔明苑、錦里など他の見所には行かなかった。特に錦里には是非行きたかった。
三国志ファンとしては、もう少しその様な場所に行きたかった。これがツアーの辛さである。
この武候祠をゆっくり見る為には、ツアー以外で来なければならない。
バスを見つけ、再び乗り込む。時刻は15時40分である。 -
<成都友誼旅遊商店での買物と夕食の火鍋>
ここから土産物屋に行くのである。巴さんがその土産物屋の説明を行う。何と友誼商店だと言う。
この周辺の土産物屋であると思っていたのだが、友誼商店とは?これではマイナーな土産物は期待薄である。
四川省としての土産物ばかりであろう。
バスは市内の小路を進み、15分程で成都友誼旅遊商店前に到着する。
中は想像していたよりも広くもなく、展示されている土産物も然程多くない。
少し見て廻るもやはり期待した物はなく、一般的な土産物が殆どであった。他のみんなは土産物を探す人と何も見るべき物がないと感じる人とが半々ぐらいである。
お茶を振舞ってくれていたので、そこでお茶を貰い、休憩を取る事にした。
休憩をしていると女性店員が色々と土産物を持って来ては説明を行い、何とか買って貰おうと努力している。
その内に冨田君も加わり、何も買いたい物がない事や先程の武候祠で何か買って置けば良かった事を後悔しながら話していると、女性店員が今度は携帯ストラップ用のアクセサリーを持って来た。
アクセサリーは天珠などの宝石類が付いたものである。1個35元(約500円)だと言う。
まあ手頃な価格ではあったが、如何しようかと考えていると、値切った訳でもないのに1個30元(約430円)まで下げてくれた。
それならと5個買うのでもう少し下げてくれる様に交渉を開始する。
暫らく価格のやり取りを行い、最後には6個で150元、1個25元(約380円)で交渉が成立する。
そして、その女性店員に他の同ツアー客が購入する際にも同じ価格で販売する事を約束して貰う。
冨田君も何個かを購入していた。
また、我々の交渉が終了したのを見て、同ツアー客も来て、そのアクセサリーを見ていたので、私が1個25元では購入出来る事を伝えた。その人も何個か購入をしていた様である。
まあ、本物の宝石が入った物であるのなら高い買物ではないであろう。
その後、暫らくしてこの友誼商店を出る。時刻は16時40分頃で、意外に長くこの友誼商店に居た。 -
これならもう少し武候祠に居たかった。バスに乗り込み、これから夕食場所に向かう。
まだ、17時前である。もう夕食を食べるのかと、それならもう少し武候祠に!とまたまた考えてしまう。
しかし、夕食場所へは市内の渋滞に巻き込まれて、結局到着するのに1時間弱を要した。
時刻は17時35分頃である、それでもまだ少し夕食時間には早い!今日の夕食は火鍋である。
店の名前は“重慶徳荘”である。
この火鍋は、実は重慶が本場なのだそうだ。でも四川の火鍋も有名である。
店に入ると1階の隅の方に数人の店員が座り込んで何かをしている。
その横を通る時に見ると、山積みにされたニンニクの皮を剥いている。非常に多くのニンニクである。
一体何に使うのであろうか?その横を通り、2階に案内される。
2階は広く、同じテーブルが一面に並んでいる。 -
しかし、さすがにこの時間帯では誰もいない。我々だけが2階の端近くのテーブル2つに分かれて座る。
まだ冷房も入れられてなかった様で慌てて冷房が入れられる。その為に水蒸気の様なものが業務用の大きな冷房機から出て来る。暫らく冷房が利くまで時間が掛かるであろう。
席について、まず飲物を巴さんが聞いて廻る。私は何も要らない旨を伝える。我々のテーブルではさすがに暑い為かみんな冷たいビールを注文していた。特に“冷たい”ところを強調して注文していた。
そして巴さんが、『鍋はどちらにしますか?』と聞く。
勿論、辛い出汁(赤湯出汁)の鍋か、白湯出汁の鍋かである。
我々のテーブルが迷っていると、巴さんが、『四川に来たのであるから、辛い出汁にしましょう!』と半ば強引に決めてしまう。私が心配していると、女性店員がまず飲物を持って来た。
そして暫らくすると大きな鍋がテーブル中央に設置される。
その鍋は四角い鍋で、丁度、漢字の”回“の字状(実際は真ん中部分は丸いが)に区切られ、中の小さな”口“部分(丸い部分)に白湯出汁が、外の大きな”口“部分に辛い出汁が入っている。また、その赤い出汁の中に多くの唐辛子が見え隠れしている。
見るからに辛いそうな出汁である。
それから具材がワゴンで運ばれて来る。ワゴンには、様々な具材が乗った皿で一杯である。
そして我々のテーブルに巴さんが座る。ここでは我々と一緒に食事をする様である。
女店員が何かが入った茶碗をテーブルに何個かを置く。何かと思えば、ニンニクを刻んだ物である。
先程のニンニクはこれに使用する物であった。
しかし、このニンニクの使い方が良く判らない。すると巴さんがそのニンニクの使用方法を教えてくれる。
火鍋から上げた具に付けるタレをこれで作るのである。
まず、このニンニクを茶碗にたっぷり取り、その上に鶏油(ちーゆ)の様な油を入れ、それを黒酢で割るのである。鶏油と黒酢とニンニクの割合は、ほぼ1対1対1である。
これを混ぜて付けタレにするのである。私の分は巴さんが作ってくれた。
それにしても「ニンニク入れ過ぎだろう!」と突っ込みたくなるくらいに入れていた。
テーブルに置かれた鍋も沸騰して来たので、具材を入れる。巴さんが適当に赤い出汁と白い出汁に具材を分け入れる。
火鍋で出て来た具材として出て来た物や料理は以下の様な物である。
<8月11日(水)夕食:重慶徳荘にて~火鍋~>
①火鍋(以下は具材)
(1)牛肉、(2)牛胃、(3)ソーセージ、(4)イカ、(5)草魚の頭部、(6)アヒルの腸
(7)うずらの卵、(8)ウィンナー、(9)舞茸、(10)湯葉、(11)レタス、(12)青菜
(13)もやし、(14)蟹カマ、(15)木耳、(16)草魚、(17)麺 など
②ちまき(中国ちまき)
③お餅(揚げ餅:あん入り)
④お粥(赤米のお粥)
⑤フルーツ(すいか)
まずは試しに赤い出汁から火の通った具を取り上げる。そして先程作って貰ったニンニクのタレに付けて食べる。
黒酢で辛さが多少は緩和されているがそれでも唐辛子の辛さが凄い。舌がヒリヒリする。
しかし、これを食べてしまうと白湯出汁の具を食べると少し物足りない気分になる。
このニンニクのタレも強烈である。油の甘みと黒酢の酸っぱさとニンニクの歯ごたえで具に付けると非常に美味しい。このタレで普通のしゃぶしゃぶを食べてみたい。
みんなも食べているが、さすがに赤い出汁は敬遠気味の人が多い。
巴さんが私に具を取ってくれるが、もう十分である。少し辛くない物を食べたい。
そこで巴さんがお粥を注文してくれた。そのお粥は赤いお粥で、巴さんに聞くと、赤米を使用していると言う。甘く、非常に食べ易い。中にはクコの実なども入っており、体にも良さそうである。
このお粥を食べるともう食べられなくなった。他の面々ももう食事を終えている人が多い。
その中で巴さんだけが黙々と食べていた。我々にももっと食べる様に進めるが、もう十分である。
まだ、具材はワゴンの上に手つかずの状態で置かれているものがある。
結局、麺なども入れず終いであった。こうして食事を終えたのは18時40分頃である。これがみんなが揃う最後の機会であるので、子供パンダとの記念撮影の写真を送って貰う為と送る為にメールアドレスを交換する。
トイレなどを済ませ、席を立ち、1階に下りる。
この頃になり要約、この店にも客が出入りする様になって来た。
これで今日の予定は一応終了である。
我々は川劇のオプションをお願いしているので、一旦、ホテルに帰り、その後川劇の劇場に向かう予定である。バスに乗り込み、ホテルを目指す。
まずは先にシェラトン成都ホテルに向かう。そして、この間に明日の出発について、巴さんから説明される。
まず、先にシェラトン成都ホテルに向かうので、シェラトン成都ホテル宿泊者の予定が先に報告される。
今回のツアーは色々な所から参加されているので帰りもバラバラである。
シェラトン成都ホテルの宿泊者の出発時刻が全て報告されると、我々の宿泊する羅曼大酒店の宿泊者の出発時刻である。
シェラトン成都ホテル宿泊の人達はバラバラであったが、我々は同じ時刻にホテルを出るとの事であった。
集合時間は5時20分である。これまた早い時間である。
その様な予定を聞いていると、バスはシェラトンホテルに到着する。時刻は19時5分頃である。
ここで、もうシェラトン成都ホテルに宿泊されている人達とは会う事が出来ないので、別れの挨拶などを行う。
巴さんも一緒に降り、ホテル内に入る。5分程で巴さんが戻り、再びバスが走り出す。
更に5分程で我々の羅曼大酒店に到着する。時刻は19時15分である。
一旦部屋に帰り、再度集合する事になった。集合時刻は19時45分である。
川劇の劇場はここから然程遠くない様である。私はこの辺りで土産物が買える場所がないか、探したいと思ったので、冨田君に先に部屋に戻って貰う事にし、私は多根井君を誘い、ホテル近くを散策する事にした。
ホテル前の大通り沿いに歩いて行くが、それらしき店などは見つからない。
10分程散策していたが、私は諦めてホテルに帰る事にした。多根井君はもう少し散策すると言うので、その場で別れる。
部屋に戻り、部屋をノックするが応答がない。何度かノックするが応答がないので、仕方なく1階フロントに下りる。するとフロントに冨田君がいるではないか?
何があったのかと聞くとまだカードキーを貰えていないと言う。
随分時間が経っているが、聞くと丁度団体客のチェックインと重なり、後回しにされていると言う。
そこで少し待ち要約カードキーを貰い、再度部屋に戻り、土産物などの必要ない物を置く。
そして少し休憩したところで、再びフロントロビーに冨田君と一緒に下りる。
フロントロビーに下りると多根井君が待っていた。聞くと結局部屋には戻らず、土産物屋や本屋を探していたが、大きな店は見つける事が出来なかった様である。
もう2人の女性が合流し、これでこのホテルから川劇を見に行く人は揃った。
暫らくすると巴さんが現れ、バスに乗り込む。既にシェラトン成都ホテルから乗って来た人が4人いる。 -
<成都の民間芸能“川劇”観賞>
川劇の鑑賞を行うのは、シェラトン成都ホテルに宿泊している人達も合わせて、9人である。
バスは予定通りに19時45分にホテル前を出発する。辺りはもう真っ暗である。
バスは市内の大通りから小路を何度か曲がり、狭い路地に入る。
すると左手にネオンの華やかな少し古めかしい建物が見えて来る。ここが川劇の劇場である。
その劇場近くの路脇でバスは停車し、みんなで降りる。注意して路を横断し、その劇場に向かう。
劇場名は“錦江劇場”である。その入口を入った所で一旦集合する。 -
ここで巴さんが手続きを行うのを待つ。この入口ホールも非常に古めかしい感じで、土産物を売る棚の様なものがあちこちに置かれているが扉が閉まっており、どの様なものがあるのか、今は判らない。
とにかく、川劇が終わったら、この土産物屋も是非見たい。
暫らくすると巴さんが戻り、観客席へ誘導してくれる。席は何と一番前の席である。
少し見上げる感じではあるが、ステージが広いのでまあ良い席である。
既に舞台上では男の司会者が立ち、チャイナ服の綺麗な女性2人が、絵の描かれた巻物を広げて立っている。
司会者の人がずっと喋り続けている。どうも、この絵の説明を行っている様である。
そして暫らくすると、観客席に向かい、声を掛ける。
ここでやっと判ったが、オークションを行っているのである。観客席から声が掛かる。そのやり取りが数回行われて、その絵のオークションは終了する。 -
そしてチャイナ服の女性が舞台袖に下がり、また別の絵の巻物を持ち出す。
再び、司会者が説明を開始する。この様なオークション品が3品程やり取りされ、終了する。
この様なオークションもこの川劇の維持の為に使用されているのかも知れない。
司会者とチャイナ服の女性が舞台袖下がり、一旦会場が暗くなる。
その後、5分程で幕が開き、川劇の始まりである。
時刻は20時10分である。ここで簡単に川劇について説明を加える。
成都は2300年以上の歴史を持った古い街で、その為に古くから伝わる民間芸能も多い。その様な古くからこの地方に伝わる民間芸能を集めたものが川劇である。
この川劇には吹灯、転灯、噴火、変面という四つの絶技(卓越した技)がある。
まず舞台上には女性の司会者現れる。舞台後方には楽団が控えている。
その女性が何やら説明を始める。一通り説明が終わると舞台袖に引き下がる。
そして、後の楽団の演奏が開始される。その後の川劇は以下の様な内容の催し物が行われた。
①女性司会者の説明
②楽団の演奏
③京劇~三国志演義:虎牢関の戦い~
(1)劉備、関羽、張飛の虎牢関到着場面
(2)虎牢関内での呂布と貂嬋の宴会の様子
(3)虎牢関での劉備、関羽、張飛VS呂布の戦い
④二胡の演奏
⑤女性達の舞踊
⑥吹灯と転灯(コミカルな芝居)
⑦操り人形
⑧影絵
⑨変面
(1)火吹き舞踊(噴火)
(2)人形変面舞踊
(3)変面舞踊
⑩男性歌手の歌舞踊
⑪全員の挨拶
楽団の演奏は如何にも中国という曲調のものである。
その後、京劇が始まった。題材は最初何かと思っていたが、まず出て来たのが劉備、関羽、張飛の3人である。三国志演義のどこかの場面である。
その3人の演舞が終わると、今度は場面が華やかな女性の舞の場面に変わった。その奥には若い男女がいる。
これは呂布と貂嬋である。この場面は虎牢関の戦い前の場面である。
酒を飲む呂布の前で貂嬋が舞を披露する場面である。
その場面が終わると、虎牢関での呂布と劉備、関羽、張飛の戦いの場面である。
3対1の戦いの場面を演舞で表現している。
結局、この勝負は引き分けで呂布が引き下がる場面で終了する。
京劇はこれが初めての観賞であったが、内容が判らなくても意外にその演舞だけでも見ごたえがある。 -
この京劇が終わると、次は舞台中央に椅子がひとつ置かれて、そこに男性が二胡を持ち座る。
二胡の演奏である。静かに演奏が開始される。
そして1曲が終了し、2曲目の演奏に入り、力強い演奏部分に入ったところでアクシデントが発生した。
二胡の弦が切れたのである。男性はその場で挨拶を行い、舞台袖に退き、次の演目に変わる。
次は女性達の舞踊である。どの時代設定の舞踊か判らないが、頭の上に付けた羽を巧みに動かして踊りを表現している。
この踊りが終了すると再び先程の二胡の演奏を行った男性が登場し、先程途中で弦が切れてしまった曲を再び演奏する。今度は無事に終了し、舞台袖に下がる。
そして舞台には多くの小道具が用意される。
そして1人の女性と1人の男性が舞台に現れる。男性の顔には面白い化粧が施されている。また頭はツルツルの坊主頭である。これが吹灯と転灯の芝居である。
成都の男性は大抵女房に弱い。所謂かかあ天下である。ある日、夫は外でマージャンをして、家に帰る時間は遅くなり、女房はその為に非常に怒っていた。何か夫を懲らしめる方法はないかと考えた女房は、燃えている蝋燭を夫の脳天に置いて、その蝋燭を落とさないで色々な事を夫にさせた挙句、最後には頭の上の蝋燭の火を手を使わないで吹き消させると言う非常に難しい事をさせるという芝居である。
頭の皮を巧みに動かして、蝋燭の位置を変え、寝たり、起きたりという動きの時でも蝋燭を落とさない。
最後に頭の上の蝋燭の火を吹き消して喜んでいる間に女房に火を付けられ、また吹き消すという事を繰り返す。言葉が通じない日本で行っても、非常に受ける芝居ではないかと思った。
次に女性が大きな人形を持ち出て来た。操り人形である。
これがまた非常に巧みで人形の手が、本当の人の手の様に自由自在に操作される。
良く見ていると右手で人形の両手を操り、左手で顔や身体を操っているのである。
人形の手で物を掴んだり目をぱちぱちさせたりと複雑な動きをさせている。片手の指の動きで2つの手を操るのだから、この技術には驚きである。
次は影絵である。舞台中央に幕が用意され、その後で1人の男性が腕だけで色々な動物の動きを表現している。これも日本で見る物とは少し違い、また腕2本だけでこれだけの表現が出来るとは驚きである。 -
次はお待ちかねの変面である。
変面は、元々は“変臉”(へんれん)と呼ばれていたのが、その芸の中で、面が巧みに変わる様と“臉(れん)”の文字が馴染みがない事から日本には変面と紹介された。
よって日本人には変面として知られる様になったのである。
この変面(と噴火)の由来は、この四川省は天候の変化が激しく、古代祖先の人々はその天気予測に困っていた。その為に行われる様になった豊作を祈る儀式がこの変面の由来ある。
その中の噴火の絶技は、凄まじい火が男優の口から 噴出するのである。
また、一番の見所は役者が手を振ると、顔が変わる、何回も振ると、何回も変わる“変面”である。
面は、くまとりされた中国の歴史上の人物である。
まず噴火の演技が始まる。これは観客に向けて火が吹かれるので熱気が席まで届く。
それが終わると変面の役者が出て来る。
そして、袖や大きな扇子などを用い、その顔を変化させる。その顔の変化は客席から見ていては全然判らない。どうして変わっているのか不思議である。
どのような仕組みで面が変わるのかは“一子相伝”の秘伝とされている。
中国では第1級国家秘密として守られていると言う。しかし、この変面の舞台の終盤に客席に役者が下りて来る。
そして我々が座る最前列の前に来て、目の前で面の早変わりを見せてくれた。
本当に私の目の前で行って貰ったが、なぜ変わるのか判らない。判った事というと舞台上で行っている際には本当に日本のお面の様なイメージで見ていたが、近くで見ると薄い布状のものであった。
最後に素顔を見せ、終了かと思いきや、今度は素顔から面を数回被る事も行った。
本当にどうなっているのか不思議である。
また、同時進行的に操り人形の面も変わる物も行っていたが、どちらかと言うと、役者の変面にくぎ付けの状態であった。
それが終わると男性歌手の歌舞踊が行われる。 -
京劇の様な濃い化粧をしている。その歌舞踊で演目が最後であった。
それが終わるとこの川劇出演者全員が勢揃いし、挨拶を行い、幕が下りた。
巴さんが現れ、我々も席を立つ。観客席右手の通路から外に出る様である。
その途中で巴さんに入口ホールの土産物を見たい事を告げる。 -
OKが出たので、みんなで入口ホールに移動し、土産物を見る。
土産物屋と言っても、書棚の様な棚の中に幾つかの土産物が展示されている様な店であった。
あまり期待していなかったが、武候祠で買いたかった土産物のひとつの孔明羽扇がある。
まず、これを購入する事に決めた。2つ欲しかったが、ひとつしか、その店に置いていなかったので、在庫がないのかを巴さんに聞いて貰い、在庫品を出して貰う。
そして三国志演義の人物像が描かれた大きな扇子と京劇面が描かれた少し小さめの扇子を購入する事にしたが、多根井君も同じものが欲しいらしく、これも在庫を確認して貰いったが、同じものはなく、その展示されていた物は、私が購入する事になり、多根井君が似た物を購入する事になった。
合計で130元(約1850円)であった。
他の人達も何かしらの物を購入していた。
本当に我々が最後で、その土産物店が閉まるまで土産物を見ていた。 -
土産物の買物が終わると、この川劇の鑑賞券をひとりひとりに記念にと、渡される。
そして、劇場を出てバスに向かう。
途中、劇場駐車場からの出口で、バイクに乗った人が吹灯の役者さんに偶然出会った。我々が“吹灯の役者さんだ!”と話をしていると、それが判ったのか、役者さんが挨拶をしてくれた。もう劇が終わると直ぐに役者さん達も帰るのである。
我々も路端に停車しているバスに慌てて乗り込む。非常に楽しめる劇であった。
是非、成都を訪れたらこの川劇は見るべきである。時刻は21時45分になっている。
ここからまずシェラトン成都ホテルを経由し、羅曼大酒店に戻る。
バスは夜の成都の街を走り出す。さすがにこの時間帯になると車の数も多くなく、10分足らずでシェラトン成都ホテルに到着する。
そして別れの挨拶を行い、このホテルの宿泊客のみなさんと別れる。
その後、羅曼大酒店には数分で到着する。時刻は22時である。
巴さんと再度フロント前で明日の集合時間などを確認し、ここで解散する。
そして、冨田君と多根井君とでホテルの便利店に行き、飲物を購入する事にした。
我々が便利店で飲物を物色していると巴さんも現れ、同じ様に飲物を購入している。我々が先に便利店を出て、部屋に戻る。先に冨田君にシャワーを浴びて貰い、後で私も簡単にシャワーを浴びる。
明日は4時半起きである。時刻はもう23時前になっている。
明日の荷物整理を行い、また今日の日程のまとめなどを行う。
結局、寝る時間は24時頃になってしまう。まあ明日は帰るだけなので、機内で寝れば良いか?
今回はここまで! 明日は成都からの帰国の旅程。
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