丸亀・宇多津・多度津旅行記(ブログ) 一覧に戻る
四国の日本百名城巡りの締め括り、九城目の亀山城の紹介です。元々この地には、室町時代に築かれた奈良氏の砦があったとされますが、現在残る平山城は、讃岐に入封した生駒親正が、慶長2年(1597年)に高松城の支城として築城を始めたものです。

2018春、四国の日本百名城(40/42):3月27日(13):丸亀城(1):丸亀へ、加藤嘉明像

22いいね!

2018/03/25 - 2018/03/27

167位(同エリア590件中)

旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

四国の日本百名城巡りの締め括り、九城目の亀山城の紹介です。元々この地には、室町時代に築かれた奈良氏の砦があったとされますが、現在残る平山城は、讃岐に入封した生駒親正が、慶長2年(1597年)に高松城の支城として築城を始めたものです。

交通手段
観光バス 新幹線 JRローカル

PR

  • 松山城の見学を終え、次の丸亀城見学のために再集合場所に向かう途中の光景です。松山城は、個人的には、『四国の姫路城』と比喩している名城です。全国には12の現存天守がありますが、四国にはその内の四つがあり、この松山城もその一つです。あとの三天守は、これから見学する丸亀城と、すでに見学した宇和島城と高知城です。

    松山城の見学を終え、次の丸亀城見学のために再集合場所に向かう途中の光景です。松山城は、個人的には、『四国の姫路城』と比喩している名城です。全国には12の現存天守がありますが、四国にはその内の四つがあり、この松山城もその一つです。あとの三天守は、これから見学する丸亀城と、すでに見学した宇和島城と高知城です。

  • 染井吉野に比べますと、随分と赤い花に見える桜の光景です。『ヨウコウザクラ(陽光桜)』です。愛媛県に在住していた高岡正明氏(1909~2001年)が『アマギヨシノ(天城吉野)』と『カンヒザクラ(寒緋桜)』を交雑させて作出した園芸品種です。1981年に種苗登録されました。その開発を巡るエピソードは、2015年に、映画『陽光桜-Yoko the Cherry Blossom-』として封切りされました。

    イチオシ

    染井吉野に比べますと、随分と赤い花に見える桜の光景です。『ヨウコウザクラ(陽光桜)』です。愛媛県に在住していた高岡正明氏(1909~2001年)が『アマギヨシノ(天城吉野)』と『カンヒザクラ(寒緋桜)』を交雑させて作出した園芸品種です。1981年に種苗登録されました。その開発を巡るエピソードは、2015年に、映画『陽光桜-Yoko the Cherry Blossom-』として封切りされました。

  • 『松山城へのいざない』のタイトルがあった説明看板の光景です。写真に収めただけで、資料を纏める時に目を通すことにしました。『陽光桜』の話しに戻ります。高岡さんは、第二次世界大戦中に三内村(現・東温市)の青年学校農業科の教員を務めていた方です。教え子達に『お国のために戦ってこい。また桜の木の下で会おう』と見送り、戦後、自責の念に駆られたことがきっかけでした。

    『松山城へのいざない』のタイトルがあった説明看板の光景です。写真に収めただけで、資料を纏める時に目を通すことにしました。『陽光桜』の話しに戻ります。高岡さんは、第二次世界大戦中に三内村(現・東温市)の青年学校農業科の教員を務めていた方です。教え子達に『お国のために戦ってこい。また桜の木の下で会おう』と見送り、戦後、自責の念に駆られたことがきっかけでした。

  • 『陽光桜』のことをもう少し続けます。『陽光桜』の特徴は、零下30度から摂氏30度の環境でも開花できる、『暑さにも寒さにも強い』性質です。亜熱帯のジャワから極寒のシベリアまで、各国で散っていった教え子達の慰霊のため、戦死した異国の気候でも咲く新種の桜作りへの信念がもたらしたものです。開発に30年以上の年月がかかったとされます。

    『陽光桜』のことをもう少し続けます。『陽光桜』の特徴は、零下30度から摂氏30度の環境でも開花できる、『暑さにも寒さにも強い』性質です。亜熱帯のジャワから極寒のシベリアまで、各国で散っていった教え子達の慰霊のため、戦死した異国の気候でも咲く新種の桜作りへの信念がもたらしたものです。開発に30年以上の年月がかかったとされます。

  • 帰りは、ロープウェイではなく、待ち時間が少なかったリフトにしました。高岡さんは無償で国内外に約5万本に上る陽光桜を届け続けました。亡くなられた後は、家族やNPO法人『日本さくら交流協会』が遺志を引き継ぎ、今日に至っています。今、住んでいる名古屋では、東山動植物園で目にすることができます。ベニヨシノ(紅吉野)の別名を持ちます。

    帰りは、ロープウェイではなく、待ち時間が少なかったリフトにしました。高岡さんは無償で国内外に約5万本に上る陽光桜を届け続けました。亡くなられた後は、家族やNPO法人『日本さくら交流協会』が遺志を引き継ぎ、今日に至っています。今、住んでいる名古屋では、東山動植物園で目にすることができます。ベニヨシノ(紅吉野)の別名を持ちます。

  • 下りのリフトから眺めた、満開の『ソメイヨシノ(染井吉野)』の光景です。生徒達を戦場に送り出した高岡さんは、『また元気で、この桜の下で逢おう』と声を掛けられましたが、ソメイヨシノでは、熱帯地方や極寒のシベリアでは花を咲かせません。それが、寒さにも暑さにも強い新しい桜の品種開発のきっかけになりました。<br />

    下りのリフトから眺めた、満開の『ソメイヨシノ(染井吉野)』の光景です。生徒達を戦場に送り出した高岡さんは、『また元気で、この桜の下で逢おう』と声を掛けられましたが、ソメイヨシノでは、熱帯地方や極寒のシベリアでは花を咲かせません。それが、寒さにも暑さにも強い新しい桜の品種開発のきっかけになりました。

  • リフトの上から眺める染井吉野の光景です。色の濃いピンクの花は、別の品種の桜が混じっているのかも知れません。下りですから、文字が逆さまになりましたが、『おとうさんはスカンク、おかあさんはライオン』などの標語風の文字がありました。

    リフトの上から眺める染井吉野の光景です。色の濃いピンクの花は、別の品種の桜が混じっているのかも知れません。下りですから、文字が逆さまになりましたが、『おとうさんはスカンク、おかあさんはライオン』などの標語風の文字がありました。

  • 短い時間ですが、桜の花の見学には、ロープウェイより、リフトがお勧めです。この日は天候にも恵まれ、満開の染井吉野を満喫できました。日本の高度成長期は、1954年(昭和29年)12月の日本民主党の第1次鳩山一郎内閣から1973年(昭和48年)11月の自民党の第2次田中角栄内閣までの約19年間とされますが、この時期に、多くの染井吉野が全国で植樹され、今寿命を迎えつつあります。

    短い時間ですが、桜の花の見学には、ロープウェイより、リフトがお勧めです。この日は天候にも恵まれ、満開の染井吉野を満喫できました。日本の高度成長期は、1954年(昭和29年)12月の日本民主党の第1次鳩山一郎内閣から1973年(昭和48年)11月の自民党の第2次田中角栄内閣までの約19年間とされますが、この時期に、多くの染井吉野が全国で植樹され、今寿命を迎えつつあります。

  • 伊予松山藩および陸奥会津藩初代藩主の加藤嘉明公の騎馬像光景です。前にも紹介したことがありますが、今回も時間を都合して立寄りました。松山城を創建した大名です。永禄6年(1563年)、三河国幡豆郡永良郷(現:愛知県西尾市)で、松平家康の家臣だった加藤教明の長男として生まれました。豊臣秀吉の子飼衆で、賤ヶ岳の七本槍・七将の一人としても知られます。

    伊予松山藩および陸奥会津藩初代藩主の加藤嘉明公の騎馬像光景です。前にも紹介したことがありますが、今回も時間を都合して立寄りました。松山城を創建した大名です。永禄6年(1563年)、三河国幡豆郡永良郷(現:愛知県西尾市)で、松平家康の家臣だった加藤教明の長男として生まれました。豊臣秀吉の子飼衆で、賤ヶ岳の七本槍・七将の一人としても知られます。

  • 加藤嘉明公(1563~1631年)のズームアップ光景です。慶長6年(1601年)、家康に勝山城(後の松山城)建築の許可を得て、翌年より嘉明は築城を開始し、城下町の整備も始めました。慶長8年(1603年)、嘉明は本拠地を正木から勝山に移し、地名を松山と改名しました。不仲な時期もあった藤堂高虎とも和解し、寛永4年(1627年)、43万5500石に加増され、本拠を若松城に移しました。

    加藤嘉明公(1563~1631年)のズームアップ光景です。慶長6年(1601年)、家康に勝山城(後の松山城)建築の許可を得て、翌年より嘉明は築城を開始し、城下町の整備も始めました。慶長8年(1603年)、嘉明は本拠地を正木から勝山に移し、地名を松山と改名しました。不仲な時期もあった藤堂高虎とも和解し、寛永4年(1627年)、43万5500石に加増され、本拠を若松城に移しました。

  • 亀山城に到着しました。大手門と、山の頂上に見える現存天守の光景です。現在残る三重三階の天守は、京極高和時代の万治3年(1660年)に竣工したものです。城山全体には、一二三段と呼ばれる高石垣が、3段4段に積重ねられていて、平山城の典型といわれます。丸亀市では、かつての京極氏時代の『隅櫓や渡櫓及び藩主御殿』の復元を目指し、古写真を収集中です。

    亀山城に到着しました。大手門と、山の頂上に見える現存天守の光景です。現在残る三重三階の天守は、京極高和時代の万治3年(1660年)に竣工したものです。城山全体には、一二三段と呼ばれる高石垣が、3段4段に積重ねられていて、平山城の典型といわれます。丸亀市では、かつての京極氏時代の『隅櫓や渡櫓及び藩主御殿』の復元を目指し、古写真を収集中です。

  • 高麗門形式の『大手二ノ門』の光景です。門を潜った後に、振り返って撮影した光景です。『大手一ノ門』、『大手二ノ門』と、それを取り囲む石垣で『大手虎口』と呼びたくなるような虎口が形成されていますが、呼び名は付けられていませんでした。仮に『大手虎口(おおて・ここう)』と呼ぶことにします。

    高麗門形式の『大手二ノ門』の光景です。門を潜った後に、振り返って撮影した光景です。『大手一ノ門』、『大手二ノ門』と、それを取り囲む石垣で『大手虎口』と呼びたくなるような虎口が形成されていますが、呼び名は付けられていませんでした。仮に『大手虎口(おおて・ここう)』と呼ぶことにします。

  • 『大手二ノ門』の正面に位置する石垣の光景です。立派な鏡石が二つ並んでいます。『大手一ノ門』は、この右手に位置します。入城する際は、否が応でもこの鏡石下目に入ります。『鏡石』は、相手が戦う意欲をそぐことも目的とされますが、<br />平和な時代の『大手虎口』の見どころにもなります。

    『大手二ノ門』の正面に位置する石垣の光景です。立派な鏡石が二つ並んでいます。『大手一ノ門』は、この右手に位置します。入城する際は、否が応でもこの鏡石下目に入ります。『鏡石』は、相手が戦う意欲をそぐことも目的とされますが、
    平和な時代の『大手虎口』の見どころにもなります。

  • 『大手虎口』の『雁木(がんぎ)』と『狭間(さま)』の光景です。鳥の雁が斜めに並んで飛ぶ様子が、階段の形に見えるため、階段あるいはそれに似た形状を持つ構造物を『雁木』と呼びます。 城郭では、石垣や土塁に昇降するために付設された階段を『雁木』と呼んでいます。

    『大手虎口』の『雁木(がんぎ)』と『狭間(さま)』の光景です。鳥の雁が斜めに並んで飛ぶ様子が、階段の形に見えるため、階段あるいはそれに似た形状を持つ構造物を『雁木』と呼びます。 城郭では、石垣や土塁に昇降するために付設された階段を『雁木』と呼んでいます。

  • 『大手虎口』の見学を終え、次の見学場所に向かう途中の光景です。『大手一ノ門』の下から眺めた城内の光景になります。『大手二ノ門』は、構造が簡単な『高麗門形式』でしたが、『大手一ノ門』は、それより格式の高い『薬医門形式』でした。標準的な薬医門は、6本の親柱を持ち、切妻屋根の端を突き出させているのが特徴の門です。公家や武家屋敷の正門としても使われました。

    『大手虎口』の見学を終え、次の見学場所に向かう途中の光景です。『大手一ノ門』の下から眺めた城内の光景になります。『大手二ノ門』は、構造が簡単な『高麗門形式』でしたが、『大手一ノ門』は、それより格式の高い『薬医門形式』でした。標準的な薬医門は、6本の親柱を持ち、切妻屋根の端を突き出させているのが特徴の門です。公家や武家屋敷の正門としても使われました。

  • 麓から眺めた丸亀城天守の光景です。丸亀城は、標高66mの亀山に築かれた平山城です。山頂の本丸と、それを囲んで二の丸、三の丸を配し、山麓から本丸まで3層の石垣が積み上げられました。

    麓から眺めた丸亀城天守の光景です。丸亀城は、標高66mの亀山に築かれた平山城です。山頂の本丸と、それを囲んで二の丸、三の丸を配し、山麓から本丸まで3層の石垣が積み上げられました。

  • 左側の説明パネルには『丸亀城の歴史』、右側には『丸亀城の年表』のタイトルがありました。年表で色分けされた部分は、上から『生駒時代(黄)』、『山崎時代(緑)』、『京極時代(青)』と明治以降の近代と現代(桃)』でした。左に見える小さな石標には、『丸亀城」の文字が刻まれていました。

    左側の説明パネルには『丸亀城の歴史』、右側には『丸亀城の年表』のタイトルがありました。年表で色分けされた部分は、上から『生駒時代(黄)』、『山崎時代(緑)』、『京極時代(青)』と明治以降の近代と現代(桃)』でした。左に見える小さな石標には、『丸亀城」の文字が刻まれていました。

  • 亀山城の観光案内図と写真紹介があった看板の光景です。右側の図面で、本丸を中心に二重に取り囲んだ二の丸石垣と三の丸石垣の全体図がよく分かりました。左斜め下が北方向の地図ですが、三の丸石垣は、横矢が射られるよう、随所に凹凸を設け、出入口は北(下)と南(上)の2箇所でした。二の丸も虎口を設けた出入口が2箇所でした。

    亀山城の観光案内図と写真紹介があった看板の光景です。右側の図面で、本丸を中心に二重に取り囲んだ二の丸石垣と三の丸石垣の全体図がよく分かりました。左斜め下が北方向の地図ですが、三の丸石垣は、横矢が射られるよう、随所に凹凸を設け、出入口は北(下)と南(上)の2箇所でした。二の丸も虎口を設けた出入口が2箇所でした。

  • これから見学する丸亀城の石垣は、お堀の内側の石垣、帯曲輪石垣、三の丸石垣、二の丸石垣と本丸石垣を合わせた4段の高さは、60メートルにもなるようです。日本一に石垣と評してもいいかも知れません。

    これから見学する丸亀城の石垣は、お堀の内側の石垣、帯曲輪石垣、三の丸石垣、二の丸石垣と本丸石垣を合わせた4段の高さは、60メートルにもなるようです。日本一に石垣と評してもいいかも知れません。

  • 現地ガイドさんはお二方でしたから、二班に分かれて見学しました。何しろ、今日は4箇所のお城見学ですから、時間が限られています。現地ガイドさんが最優先で案内してくれたのが、丸亀城自慢の『三の丸高石垣』でした。初めての見学ではありませんが、流石に見事な石積です。布積の打込み接ぎの光景です。切り込み接ぎに近い石材の加工でした。

    現地ガイドさんはお二方でしたから、二班に分かれて見学しました。何しろ、今日は4箇所のお城見学ですから、時間が限られています。現地ガイドさんが最優先で案内してくれたのが、丸亀城自慢の『三の丸高石垣』でした。初めての見学ではありませんが、流石に見事な石積です。布積の打込み接ぎの光景です。切り込み接ぎに近い石材の加工でした。

  • 西側方面の石垣光景になるようです。午後ですから、逆光での撮影になってしまいました。奥の方まで移動して写真を撮るには、時間が足りません。通路が地肌のままなのも納得できます。地面に隠れた地価の部分も想像がし易くなります。

    西側方面の石垣光景になるようです。午後ですから、逆光での撮影になってしまいました。奥の方まで移動して写真を撮るには、時間が足りません。通路が地肌のままなのも納得できます。地面に隠れた地価の部分も想像がし易くなります。

  • 真下から見上げた『三の丸高石垣』の光景です。自慢の高石垣を紹介する、地元ガイドさんの指先が右下に写りました。自慢される理由が、文句なしに理解できる『三の丸高石垣』です。離れた場所から眺める、四段石垣も見応えがある丸亀城です。

    真下から見上げた『三の丸高石垣』の光景です。自慢の高石垣を紹介する、地元ガイドさんの指先が右下に写りました。自慢される理由が、文句なしに理解できる『三の丸高石垣』です。離れた場所から眺める、四段石垣も見応えがある丸亀城です。

  • 三の丸の高石垣のズームアップ光景です。切込み接ぎにも見える布積の打込み接ぎですが、ズームアップしますと、詰石の部分がよく分かります。石垣に雨水による内圧がかからないよう、水抜きの配慮が重要なようです。

    三の丸の高石垣のズームアップ光景です。切込み接ぎにも見える布積の打込み接ぎですが、ズームアップしますと、詰石の部分がよく分かります。石垣に雨水による内圧がかからないよう、水抜きの配慮が重要なようです。

  • 現地ガイドさんが、一番の見どころと勧めていた、『扇の勾配の石垣が三つ並んだ光景』です。ただし、一番手前の石垣は、近過ぎて扇の勾配がカメラに納まりませんでした。自分の目では、しっかりと確認できました。

    イチオシ

    現地ガイドさんが、一番の見どころと勧めていた、『扇の勾配の石垣が三つ並んだ光景』です。ただし、一番手前の石垣は、近過ぎて扇の勾配がカメラに納まりませんでした。自分の目では、しっかりと確認できました。

  • 同じく、現地ガイドさんが、一番の見どころと勧めていた、『扇の勾配の石垣が三つ並んだ光景』です『三の丸』を取り囲む、『三の丸高石垣』です。推測ですが、裾を長く伸ばしているのは、基礎部分の荷重を分散しているように見えました。4百年ほど前の石積とは思えない合理さと機能美です。

    同じく、現地ガイドさんが、一番の見どころと勧めていた、『扇の勾配の石垣が三つ並んだ光景』です『三の丸』を取り囲む、『三の丸高石垣』です。推測ですが、裾を長く伸ばしているのは、基礎部分の荷重を分散しているように見えました。4百年ほど前の石積とは思えない合理さと機能美です。

  • 先程の2枚の写真には納まりませんでしたから、単独で紹介する『扇の勾配の石垣』の光景です。それにしても、最上部付近の勾配は実に見事です。詳しいことは分かりませんが、400年ほど前にこれだけの石積が行われたのは、穴太衆と呼ばれる石工集団もかかわったのかも知れません。現代までも穴太衆の技術を伝える栗田家では、『先祖は阿波国から来た』との伝承があるようです。

    イチオシ

    先程の2枚の写真には納まりませんでしたから、単独で紹介する『扇の勾配の石垣』の光景です。それにしても、最上部付近の勾配は実に見事です。詳しいことは分かりませんが、400年ほど前にこれだけの石積が行われたのは、穴太衆と呼ばれる石工集団もかかわったのかも知れません。現代までも穴太衆の技術を伝える栗田家では、『先祖は阿波国から来た』との伝承があるようです。

  • 『石垣の美』のタイトルがあった説明看板の光景です。少し拾い読みしますと、『石垣の上端で垂直に立ち、徐々に緩やかな曲線を描き、遂に土に埋もれる優美な姿は、丸亀城壁の美しさである』と表現されていました。背後の『三の丸高石垣』の高さは22メートル、この場所は『見返り坂』と呼ばれています。

    『石垣の美』のタイトルがあった説明看板の光景です。少し拾い読みしますと、『石垣の上端で垂直に立ち、徐々に緩やかな曲線を描き、遂に土に埋もれる優美な姿は、丸亀城壁の美しさである』と表現されていました。背後の『三の丸高石垣』の高さは22メートル、この場所は『見返り坂』と呼ばれています。

  • 『三の丸高石垣』のズームアップ光景です。丸亀市の公式HPからの石垣紹介です。『丸亀城は「石垣の名城」と言われる程、石垣が有名です。江戸時代初期の城郭石垣を築く技術が最高水準に達したときに作られたもので、優れた技術で積まれた石垣を見ることができます。特に丸亀城の主要な石垣は、高く美しい曲線が特長です。石垣に垣間見る当時の技術、職人の思い、その時代の人々に想いを馳せながら、石垣をめぐってみてはいかがでしょうか』と紹介されていました。

    『三の丸高石垣』のズームアップ光景です。丸亀市の公式HPからの石垣紹介です。『丸亀城は「石垣の名城」と言われる程、石垣が有名です。江戸時代初期の城郭石垣を築く技術が最高水準に達したときに作られたもので、優れた技術で積まれた石垣を見ることができます。特に丸亀城の主要な石垣は、高く美しい曲線が特長です。石垣に垣間見る当時の技術、職人の思い、その時代の人々に想いを馳せながら、石垣をめぐってみてはいかがでしょうか』と紹介されていました。

  • 刻印らしいものがあった石材のズームアップ光景です。今年(2018年)10月の丸亀城石垣被害に関するニュースの紹介です。『国史跡・丸亀城跡(香川県丸亀市一番丁)で8日から9日にかけて、城の南西部に位置する石垣が広範囲にわたって崩落した。老朽化や先月末の台風24号の影響とみられ、市は文化庁や県教委と協議して修復を急ぎたい考えだ』と報道されていました。

    刻印らしいものがあった石材のズームアップ光景です。今年(2018年)10月の丸亀城石垣被害に関するニュースの紹介です。『国史跡・丸亀城跡(香川県丸亀市一番丁)で8日から9日にかけて、城の南西部に位置する石垣が広範囲にわたって崩落した。老朽化や先月末の台風24号の影響とみられ、市は文化庁や県教委と協議して修復を急ぎたい考えだ』と報道されていました。

  • 『見返り坂』の脇の『三の丸高石垣』の光景です。ニュース続きです。『市教委によると、被害があったのは「帯曲輪(おびぐるわ)石垣」と、その上部に造られた「三の丸坤櫓(ひつじさるやぐら)跡石垣」。帯曲輪石垣は西面が幅約18メートル、高さ約16メートルにわたって崩れ、三の丸坤櫓跡石垣は東西約25メートル、南北約30メートル、高さ約17メートルの範囲が崩落』と報道されていました。

    『見返り坂』の脇の『三の丸高石垣』の光景です。ニュース続きです。『市教委によると、被害があったのは「帯曲輪(おびぐるわ)石垣」と、その上部に造られた「三の丸坤櫓(ひつじさるやぐら)跡石垣」。帯曲輪石垣は西面が幅約18メートル、高さ約16メートルにわたって崩れ、三の丸坤櫓跡石垣は東西約25メートル、南北約30メートル、高さ約17メートルの範囲が崩落』と報道されていました。

22いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

PAGE TOP