2019/06/09 - 2019/06/12
440位(同エリア1561件中)
明石DSさん
今日も晴れ
正味二日の旅行で天気が良ければ万歳!
///////////////////////////////////////////////////////////////////////////
西安市内観光・翌日帰国
2019:令和元年6月9日(日)?6月12日(水)
3泊4日
3日目:6月11日(火):曇り一時小雨
西安市内観光
2019.令和元年6月11日(火)
■今日は西安市内観光!
西安二回目の朝もいつものように午前5時頃(日本時間6時)に目が覚める。温水シャワーと朝シャンで身支度を整え朝6時からのモーニングへ。広い食堂はまだガラガラ。食べたいものを大皿に盛り豆乳とお粥をとってテーブルに座る。やっぱり食べ過ぎた。
今朝も昨日同様一人参加の“Nさん”が朝一番から朝食バイキングに来ていたので同席する。“Nさん”も昨日はオプショナルツアーには参加せず自由行動時間は一人でホテル周辺を散策したそうだ。横断用の地下通路もシャッターが下りて閉鎖していたので大通りの横断方法が分からず早々に部屋に戻ったとのこと。
- 旅行の満足度
- 5.0
PR
-
607号室からエレベータへ向かう
この廊下を歩いてエレベーターホールへ -
今日も朝一はガラガラ
海外旅行で朝寝坊の経験なし
いつも非日常でテンション高い -
メニュー豊富だし
やっぱり食べ過ぎてしまう -
唐長安の三大宮殿「太極宮」「大明宮」「興慶宮」
赤の破線:平安京との比較
赤の実線:平城京との比較
唐の長安城の模式図
https://flom-sendai.at.webry.info/201806/article_4.html
//////////////////////////////////////////////////////////////////
■興慶宮
興慶宮公園は唐長安の三大宮殿「太極宮」「大明宮」「興慶宮」の一つ「興慶宮」の跡地で、玄宗皇帝が皇太子時代住んでいた。玄宗が皇帝になり建て直しと増築をし728年から興慶宮で政務を執り始めた。史書には政務や儀式を行う「勤政務本楼」での日本の遣唐使と玄宗の謁見の記載もある。
小説「翔べ麒麟」にもこの興慶宮の「勤政務本楼」で玄宗と唐政府高官vs藤原清河大使・大伴古麻呂・阿倍仲麻呂(朝衡)たちとの交渉の様子が書かれている。この公園内に「阿倍仲麻呂祈念碑」があることもそうだが、733年の第10次遣唐使たちから838年の第19次までの200年間くらいの間、この興慶宮の地に多くの日本人遣唐使が足を踏み入れたのだろう。
今から1200年前の昔、命懸けで海を渡り大陸を歩いて長安に多くの日本人が来ていた。そしてついに日本に帰国することかなわずこの長安に骨を埋めた者も多々いる。先人達の苦労と努力の積み重ねで今の日本国があり日本人がいる。
唐:長安の三大宮殿「太極宮」「大明宮」「興慶宮」
長安は元は隋の都・大興だった。唐になって「大興を長安」「大興宮を太極宮」と改める。しかし唐の初代皇帝:高祖が新宮殿「大明宮」建立。第三代皇帝:高宗の時から大明宮で政務を執るようになった。そして玄宗の時からこの興慶宮で政務を執り始めた。 -
青:漢長安城
オレンジ:唐長安城
赤:明・清 今の西安城内
(めちゃ狭い面積は唐代の約10分の一) -
8時出発予定が10分早く7時50分集合出発となった
たった10分早く集合は、それでも気分的に気合が入る
これもガイドの“Dさん”のテクニックなんだろう
//////////////////////////////////////////////////////////////////
■興慶宮公園に向かう
今朝の集合時間は7時50分、最初の行き先は興慶宮公園。当初の日程では昨日の夕方来るはずだったが“Dさん”が「公園には朝早く行った方が賑やかで面白い」と変更してくれた。今朝の出発時間も午前7時50分と10分早くなった。
日本人の足跡が残るこの地、興慶宮公園には東口から入園する。“Dさん”が言うように朝の公園の賑やかさは、入口付近からまるで今日は縁日祭りなのかと思う様子だった。しかし今日6月11日は火曜日でここ中国でも何の変哲もない普段の日。
入口付近に白衣の“おっさん”が講釈を垂れていた。“Dさん”いわく「医者」とのこと。看板を見れば日本なら鍼灸師のようだが医者なのだろう。私が幼き頃近所の医者に行けばまず最初に「あ~ん」と口を開け舌や喉の状態を見てくれた。
そして医者が指で脈をとり、胸と背中に聴診器を当ててくれた。今はたまに聴診器を胸背中に当てて異常の有無を見てくれるが、身体に触れる触診はあまりない。もし臓器や胸に病あれば軽く叩かれるだけで痛みが響く。
医者が手のひらで押さえたり、さすったり、軽く叩いたりすればら何かが分かるはずだ。手のひらや指先の感触は何にも勝る。皿や茶わんを洗う時でも手でこすれば微妙な汚れも感じる。それくらい手の平、指先のセンサーは凄い!
そして目で見ての感じもそうだと思う。医者が何人もの患者の目や口や舌を日々観察していたら異常か否か一目瞭然だろう。今の病院の医者は検査結果で判断しているように感じてしまう。それは医者ではない検査技師だ。だからこの白衣の中国人が医者だと言っても納得する。
公園東門を入ったら石畳に水で字を書く書道愛好家の人たち・・・が。公園にもそれなりの縄張りがあるのだろうが、この場所は書道家たちが見事な筆さばきで漢詩かなにか分からないけど書いていた。そして周囲をツアー一行が囲むと「中国友好日本」と書いてくれた。
そして「何か書かないか?」と筆を我々一行に差し出す。ツアー仲間の一人がそれに答えて筆を受け取り「西安万歳」と上手に書いた。私も習字を習いたいと思いながらも実行できず。まだ諦めていないけど・・・。
阿倍仲麻呂の祈念碑を目指してボチボチ歩く。こっちでもあっちでも音楽を流しながら踊りや太極拳をやっている。踊っているのは“オバチャン”が圧倒的に多い。中国の公園の朝はどこでも日々祭りだ。
阿倍仲麻呂(唐名:朝衡)は飛鳥時代末698年大和国(奈良県)に生まれ、717年19歳で唐に渡り国子監(大学)で学び科挙試験に合格、玄宗に仕える。753年6月在唐36年(55才)にして帰国船に乗るもベトナムに漂着日本帰国を断念し二年後の755年長安に戻る。
長安で再び官途に就いたが760年に再びベトナムに赴き総督を務めた。761年から767年まで6年間ハノイの安南都護府に在任。結局、日本への帰国は叶えられることなく770年1月に73歳の生涯を閉じた。
仲麻呂が詠んだ望郷の和歌「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」・・・この歌が「百人一首」にあるのは知っていたが、今回の旅を通じ初めて背景が分かった。仲麻呂の詠んだ歌はこれ一首、本人が詠んだのではなく誰かの創作説もある・・・が。
19歳で唐に入り、以後も度々日本から遣唐使が往来しながら帰国敵わずやっと巡って来た一度のチャンスも漂流で潰えた。海外旅行に出ても帰国日前日は嬉しくなる私にとってその心中察するにあまりある。
李 白(り はく『詩仙』:701-762)・ 王 維(『詩仏』おう い701-761)・杜 甫(『詩聖』と ほ:712-770)などなど、有名な唐の詩人たちと仲麻呂は同世代であり交流があった。この記念碑に『仲麻呂が難破して亡くなったと伝えられた時に李白が作った追悼の七言絶句が「哭晁卿衡」』が刻まれている。
『続日本紀に「わが朝の学生にして名を唐国にあげる者は、ただ大臣(吉備真備)および朝衡の二人のみ」と賞されている。また死去した後、彼の家族が貧しく葬儀を十分に行えなかったため日本国から遺族に絹と綿が贈られたという記述が残っている』
「へぇ~、797年に完成の続日本紀には、吉備真備と朝衡が唐国で名をあげた二人と記しているのか?面白い」・・・1200年後の今の評価より、当時の評価の方が信頼性はあるのか?それとも利害関係がある者が存命中は生々しくて正しく評価をし難いのか?いずれにせよ没したあと家族が貧しかった朝衡の評価は正しいと信じる。
午前8時19分記念碑の前に来た。奈良市と西安の友好都市締結五周年を記念し1979年7月1日建立の碑は仲麻呂の墓標のように見えた。『虎は死して皮を留め、人は死して名を残す』・・・19歳にして唐に渡る・・・か。人生何が起きるか、そしてその時どうするか、誰だって気持ち次第でピンチもチャンスに変えれるはずだ。
記念碑の前にしばし佇み南門に向かう。途中、「21世紀遣唐使の道」なる碑があった。2004年建立、寄贈主「21世紀遣唐使一同・株式会社世界文藝社」
南門に到着し、しばし集合場所を確認し自由時間になった。自由時間といっても15分ほどの短時間なので名残惜しくてもう一度「阿倍仲麻呂の記念碑」前に戻った。そして碑の前で“おっちゃん”たちが自前でネットを張ってバトミントンをしていたので頼んでやらせてもらった。
60過ぎてから卓球を始め今は週四・五回やっている。小学校時代は少年野球、高校社会人はサッカー。野球・サッカーはやれば身体がそれなりに様になるが、卓球はなかなか格好良くならない。学生時代に卓球をしていた人は、試合の実力はともかく格好を見れば違う。
バトミントンも遊びでやっていたし、この“おっちゃん”たちくらいは出来るだろうと挑戦した。やはり直ぐには無理で68才の“オジン”を痛感する羽目に。でも少し練習すればそこそこ出来るだろうという感触もあった。仲麻呂の碑の前でバトミントンをして集合場所の南門に戻る。
50分程の園内散策を終え西安最大(50万㎡)の興慶宮公園南門から出た。正面に「交通大学」があった。“Dさん”いわく『レベルは高い』『上海交通大学と並び国務院教育部直轄の理工系重点大学の一つである。 』のようだ。
ちなみに「2017年 中国大学ランキング」は、①精華大学 ②北京大学 ③浙江大学 ④上海交通大学 ⑤復旦大学
「頭が良い」「勉強が出来る」「賢い」「立派な人間」「偉い奴」等々あるが、私の本物の定義は「同じ職種の仲間に一目置かれている者」たとえば社長、議員、裁判官、弁護士、学者や医者であっても同業の仲間からバカにされてる奴は偽物でカス。どんな分野でも同業仲間から一目置かれる者は本物。職種は違っても本物に上下はない。
ただ犯罪者や生活保護者は評価の対象から省く。ただし例え人殺しと言えど意味あってこの世に生を与えられている。どんなに重度の障害者も健常者もその存在に優劣はない。そしてそこに差もない。ゆえに弱者の権利もない、甘えさせるな甘えるな!世に健常・障害の分別など元よりない。誰しも悩みあり痛みあり少なからず障害もある。
生きてる者は甘えるな!すべては心の持ちようであり、誰だってどうなっても死ぬまで生きるしかない。死に様は生き様だと思う。ぶざまに終わるな。人生終盤になればなるほどそこからが勝負だハハハ。今が楽しければ過去のつらかった思い出も懐かしく思う。今、今こそが勝負だハハハ(遺言なり)。 -
白衣の人を“Dさん”は「医者」といった
日本なら鍼灸師ではないのか?と言われそうだが
検査データーだけでの診断は医者ではない
データーだけならAI(人工知能)で十分だ -
興慶宮あとの公園にいざ入場
入らずとも賑やかさを十分感じる -
書道愛好家の叔父さんが
我々日本人ツアー一行を見て
「中国友好日本」と書いてくれる -
ツア仲間の一人の男性が筆を借りて
「西安万歳」と書く
早朝 興慶宮公園での日中交流に皆笑顔 -
興慶宮公園全景図で阿倍仲麻呂記念碑を指さす
733年の第10次遣唐使~838年の第19次までの200年間
この地に一体何人の日本人遣唐使が足を踏み入れただろう -
ど派手な傘を手にダンスを踊る“オバサン”たち
大きな音量で音楽に合わせての踊りなので楽しいだろう -
今回の旅の私の重要地点
「阿倍仲麻呂記念碑」前に来る
19才にして来唐、770年72才でこの地で亡くなる
阿倍仲麻呂死去から34年後の804年 空海入唐す -
望郷の歌
「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」
碑に刻まれている漢詩
翹首望東天
神馳奈良邊
三笠山頂上
思又皎月圓
死ぬまで一度は日本を見たかっただろうに -
李白が作った「仲麻呂追悼の漢詩」
日本晁卿辞帝都
征帆一片遶蓬壷
明月不帰沈碧海
白雲愁色満蒼梧
読み方分からずともじっと文字を見てたら
なんとなく意味らしきも分かったかのようにフフフ -
興慶宮公園南門附近
公園の中はどこも賑やか
公園付近のマンション価格が高いのも納得 -
ちょっと自由行動があったので、ここに戻る
ここでバトミントンをさせてもらう
もっと上手く出来ると思ったが身体が動かず -
早朝から野外オーケストラ
ここでは毎日お祭り
引きこもりの数は?日中比較はいかに
「クオリティ・オブ・ライフ」の向上を目指せ! -
朝起きて歌って踊って一日が始まる
『日本の医療が世界一な点が2つある』
①日本の薬剤消費量は人口が約3億2000万人のアメリカの約2倍
②寝たきり老人の比率が世界各国と比べてダントツに高い
“医食同源” 薬は毒 食い物が薬
日本人は間違ってる!覚醒しろ! -
自由時間が短すぎる
興慶宮南門前
ここでも水習字 -
西安交通大学が公園前に、確かに頭が良いのは得だけど
我、昭和44年高校(卒) 当時高度成長期真っ只中
転職を繰り返し 親兄弟から見放されるも
今孫七人 生涯現役でボチボチ稼ぎ
海外旅行も西安が41回目 いつ死んでも悔いなし -
日程表には陝西省美術博物館:1時間半とあった
なんのことはない買い物タイムだった
/////////////////////////////////////////////////////////////////
■陝西省美術博物館から書院門古文化街へ
南門を出てバスに乗って次の目的地「陝西省美術博物館」に9時15分に到着。美術博物館なので展示の絵を見たが記憶にない。日本語説明員の男性から説明を聞いたが右から左。いわく「今から入る部屋は撮影禁止です」との一言でこの博物館の内容を万事理解する。
買い物タイムだった。絵や工芸品の類だったと思うけど・・・サービスのお茶で休憩タイム。ツアー一行の誰かが何かを買ってくれたので良かった。これも観光の一つであり面白くもある。スタッフ一同の日本語能力の高さに敬意。
1時間弱の休憩でバスは朱雀門より城内に入り「書院門古文化街」の散策へとやって来た。永寧門(Yongningmen 北)付近でバスを降り集合時間だけ決めて各自自由に西側から東側へと書院門古文化街を散策スタート。
書画・骨董・文房四宝(筆墨硯紙)を売る昔ながらの建築様式の店が560mくらいの文化街両側に並ぶ。その 文化街西の入り口に六角形七層の宝慶寺華塔が建っている。この塔は百度の説明では宝慶寺は隋代(601~604)に建立。そして塔は唐時代(827-840年)に作られ明代(1450~1457)に現在地に再建とある。
書画骨董の店が両側に並ぶ道をぶらぶら歩く。途中に「関中書院」と書かれた門構えがあり、そこの説明書きに日本語表記があった。“Dさん”が「20年前西安は日本人観光客ばかり」と言っていたけど、やはり西安は日本人観光客が多かったのだと改めて感じた。
その日本語説明では『明の時代、1573-1620著名な学者が宝慶寺で講義をしてたが生徒が増え寺の境内の東側に「関中書院」を建てた。明、清代を通じて有名書院となる』・・・現在は「西安文理学院」
ぶらぶらと一人で散策、古建築の立派な店構えの店だけでなく「文房四宝」販売の屋台のような店も並んでいた。これらの店は観光客だけを相手の商売なのか?それとも西安に書画・骨董・習字の好きな人が多くいるのか?まあ今朝の公園での水習字の様子を見れば書道好きが多いのは間違いないと思う。
“Dさん”も書道の達人だった。どこで手に入れたのか?「真剣に遊び、適当に働く」と書いた団扇を手にしていたので日本人向けの土産の団扇かと思って聞いたら“Dさん”が自分で書いたとのこと。見事な筆書き文字だった。 -
こんな美術館だったのか・・・
絵を見たが記憶にない -
やって来ました「書院門古文化街」
永寧門の傍にある -
宝慶寺華塔
塔は唐時代(827-840年)に作られとある
ならば来唐日本人たちもこの塔を見てる
この長安の地で彼らと同じものを見る
それこそが私には何よりの旅の価値 -
「書院門古文化街」の案内図
宝慶寺塔⇔西安碑林博物館
この範囲が書院門古文化街 -
そうか、団扇を売っていた
ガイドの“Dさん”が団扇に自ら筆書き
「真剣に遊び、適当に働く」
お見事!達筆なり -
「関中書院」現在は「西安文理学院」
日本語の説明書きがあった -
人生終盤にして習字を習いたい気持ち常々あり
しかし今は卓球に時間を割くのが優先で習わず
「名は体を表す」「字は体を表す」「書は人なり」
達筆は憧れなり -
古建築の店舗が並ぶ道の奥にも「文房四宝」の屋台店が並ぶ
書道愛好家が多い街はそれだけで「格好ええなァ」と思う -
ホンダ アコード
反日暴動の中共 今とりあえずの一休みか?
次回の反日騒動はいつ頃 何が原因で?
「とりえず何でも・・・都合により自在に」 -
この辺りの路地裏も「書画」「文房四宝」の店ばかり
なるほど裏通りもそれなりに綺麗 -
西安の城壁の上を歩く
書院門古文化街の目の前に永寧門がある
/////////////////////////////////////////////////////////////
■西安の城壁の上を歩く
30分の自由行動で書院門古文化街の観光を終え、次は永寧門から安定門まで西に向かって城壁の上を歩く。
地球が見える「かつて長安と呼ばれた古都、西安」
https://www.eorc.jaxa.jp/earthview/2008/tp080724.html
上記HPより抜粋
『東西4.4km、南北2.8kmで、この堀の内側に幅十数メートルの城壁があることが分ります。この城壁の内側は随と唐の長安城の内城に概ね一致します。現在、高さ12mの城壁は唐代の幅約6mの城壁を基礎として14世紀の明の時代にレンガを積み重ねて築かれたもので、完全な姿で残っている城壁としては中国で唯一のものです。』
隋・唐時代多くの日本人が訪れた長安。今に残るこの城壁は明代に作られたものだが唐代も概ねこんな感じだったのだろう。地球の上に大きな建造物を極々小さな人間が作る。ホンマに驚きだ。数千年前も今もそして未来も様子は変われど人は人類滅亡のその時まで変わらず。
永寧門に近づいたら門から兜を被り軍服に刀を手にした明代儀仗兵?六名の行進パフォーマンスに遭遇した。カッコいい軍服を身に着け大柄な兵士六名が縦一列に並び門の方向から歩いて来た。
そして折り返して門の方向に向かって行く。時は午前11時過ぎ、こんなのがあることは知らなかったので余計ラッキー!気分は一瞬長安にタイムスリップ。行進の写真も撮ったが行進が終わって門の入り口両側に立つ兵士とツーショット写真も撮ってもらった。
そして城壁の上に上る。「城壁は周囲14km 高さ12m 底部の幅15~18m 上部の幅12~14m」永寧門から安定門は距離2キロちょっと。暑いなかを歩く。ツアー一行の中には高齢者もいる。
キョキョロしながら歩いたが城壁の外の周囲は高層ビルばかり。内側はそれなりに風情ある古建築がならんでいるところが多かった。私は歩きが一番のお気に入りなので苦にならず。みんな“ゆっくり”バラバラに歩き1時間くらい掛けて安定門に辿り着いた。
隋・長安時代の城内の広さは今の10倍くらいの広大な面積であり当時世界最大の都市が存在していた。その長安をモデルにして日本も平城京(奈良)・平安京(京都)を作った。その規模は小さいが最大の違いは日本には都市を囲む城壁がないことだ。
日本も戦いによっての権力争いは時代を問わず起きているが都市住民を巻き込んでの大規模集団殺戮はない。非道だったと言われる織田信長の比叡山焼き討ちなどの大量殺戮も近年の調査で燃えた木材の出土がなかったり殺戮に相当する人骨が発見されないなど通説が疑問視されている。
戦乱には残虐行為は付き物だが日本の場合は概ね戦士・武士のみでの決着だ。しかし都市城壁のある世界では住民・市民を含めての殺戮であり、強奪・強姦・敗者は奴隷等々何でもありの残忍な戦いになっている。
歴史的にも都市城壁のない日本はそれだけみても平和な国として成り立って来ていることが分かる。島国は世界にも多々あるがほぼ同一民族・単一国家として人類の歴史上に存在し続けている先進国は日本だけだ。
しかし近年になり人口減少によっての経済危機を背景に移民導入政策がはっきりとした法整備もないまま加速している。異民族との共生は国の中に国を作り、やがて城壁のある都市が日本に出来る可能性がある。
私は移民導入には絶対反対だ。交流には大賛成だが、人間は紛れもなく動物であり動物世界には共生は有り得ない。本能は善であり理性は偽善でしかない。本能を押し殺し理性を前面に出せばやがて互いにストレスは高まり争いを生む。例外は有り得ず理の当然だ。
安倍首相は似非保守政治家でグローバリスト、日本色を薄め日本という国を変質させている。日本の愚かな保守層が安倍の欺瞞に騙されている。一日も早く日本人が覚醒し真の日本人保守政治家による新党結成を切望している。今の自民党は保守政党ではなく左翼リベラル政党にすぎず。
永寧門から西に城壁上をボチボチ歩いて40分掛かって西角(角台)に到着。そして安定門に向かって北に歩く。城壁上にある公衆トイレは今のところ綺麗だった。「遵?・守礼・厠所革命一小歩・西安文明一大歩」「マナーを守れ・トイレ革命の小さな一歩が、西安文明の大きな一歩」
角台から北に向かって歩き20分程で安定門に到着。城壁はデカイ、そして大きな楼閣がある門もデカイ。そこらを動き回る人間が蟻のように小さく見える。私たちのバスが門内に入って止まっていた。バスの車内は冷房が効いて快適。城壁上からバスを見てホッとしたツアー客も多いと思う。 -
目の前の大きな城壁に向かって
鯉のぼりの旗印の後をついて歩く -
グッドタイミングで儀仗兵?行進に遭遇
ピリッとした行進ではないけど それなりに
この暑さ、この姿 ありがたい行進 -
でも どうせこんなパフォーマンスをやるなら
だらだら行進ではなくバッチリ極めた行進をすれば
どれほど観光価値が上がるのだろう?かと思うけど -
城壁トンネルを潜る 幅が広いなあ~
-
幅広の階段を上がって城壁の上に登る
-
ふ~ん 広いなあ
周囲14km 高さ12m
底部の幅15~18m 上部の幅12~14m」
永寧門から城壁上を西方向に歩く -
観光客用にこんな乗り物も
旅は歩くに限る -
レンタサイクルの店
赤い郵便ポストのようなものも -
南東方向を写す
壁の外は高層ビルばかり -
壁沿い内側 北西方向
それなりに時代を思わせる建物が並ぶ -
ゆっくり歩きで西の角台に近づいた
-
40分掛けて城壁 西角に到着
西角から北 安定門方向を写す
城壁 左外側は高層ビル林立 -
城壁上のトイレ
習近平宣うトイレ革命
精神の革命は? -
「遵?・守礼・厠所革命一小歩・西安文明一大歩」
「マナーを守れ・トイレ革命の小さな一歩が、西安文明の大きな一歩」
狭い路地裏が美しくなるのはいつなのか? -
安定門 到着間近
角台からここまで徒歩10分 -
安定門に到着 門の上には楼閣が建つ
ツアーも老若男女の参加なのでなにかと大変 -
あの青いバスが我らのバス
猛暑の中の城壁散歩が終了した
門内も広い -
鐘楼付近でバスを降りレストランへ向かう
/////////////////////////////////////////////////////////////
■昼食は餃子宴
12時も過ぎ次は昼食レストランへと向かう。鼓楼・鐘楼付近にバスは止まり“Dさん”の持つ「鯉のぼり旗棒」を目印にぞろぞろ歩いてレストランへ向かう。そして鐘鼓楼広場にある「徳発長」という名前のレストランに入る。日程表には「昼食は餃子宴をお召し上がりください」とある。
餃子の有名店のようで「地球の歩き方」にも紹介されている。毎度同じく二組に分かれ丸テーブルに座って食べた。ツアー同行者の方々と話すのは食事の時くらい。四国徳島から来られた「阿波踊り」大好きな“Mさん夫婦”がいた。
昨年の市長との対立問題では、やはり「問題は市長にあり」との認識だった。“Mさん(ご主人)”は有名な「〇〇連」の連長も長年勤めていた方で今も身体が見るからにがっしりしていた。“Mさん”いわく「命懸けで練習してます」というくらい今も阿波踊りに情熱を持っている。
阿波踊り大使として海外にも公演でアチコチ行っている方だった。私はまだ実際にあの「総踊り」を見たことはないが映像を見ていても迫力を感じる。“Mさん”の「連」の阿波踊りは目一杯腰を落として低い姿勢を保っての阿波踊りなので体力的にも大変なようだ。
格好を想像してもあの姿勢で踊りながらの行進は半端ない練習の賜物だと思う。ボクシングのリング上での3分間の戦いのようにキツイはずだ。だから見る人たちに感動を与えることが出来る。“Mさん”の阿波踊りを語る真剣な目に「そうか、なるほどやっぱりなあ。それでこそ阿波踊り」と認識を新たにした。
料理は美味しかった。餃子はいろんな種類のが出てきたが驚くような旨さはなかった。一時間足らずの昼食タイムで十分満足して店を出る。 -
地下道をぞろぞろ歩く
付いていくだけで必ず飯にありつける -
餃子の有名店「徳発長」に到着
-
丸テーブルは同じだが
赤テーブル 赤椅子ではない -
餃子もいろいろ出て来たけど・・・
阿波踊りの話で盛り上がる
一度現地で阿波踊りを見たい -
回民街散策
回民街の突き当りに鼓楼が建つ
///////////////////////////////////////////////////////////////////
■回民街散策
次の観光は回民街散策(約30分)
鼓楼を背に北院門の通りをぶらぶら。『「回民街」という言い方は、「北院門」、「化覚路地」、「西羊市」、「大皮院」という四つの街の総称として使われます。その中一つ、北院門は「回民街」のシンボルとも言われています。』
イスラム教を信仰する回族が通りの両側に店を出して賑わっている。頭に白い帽子が特徴、そういえばユダヤ教徒も頭に「キッパ」と言われる皿のような帽子を被っている。
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教【3つの宗教にとっての神とは?】
https://kokopelli-hopi.com/geopolitics-religion/
(抜粋)
神=世界を創造した唯一の神である(=一神教)
・ユダヤ教 :ヤハウェ(ヘブライ語で神の意味)
・キリスト教 :ゴッド(英語で神の意味)
・イスラム教 :アッラー(アラビア語で神の意味)
多くの人が勘違いしがちですが・・・これら3つの宗教のいう「神」は、同じです。言い方が違うだけなのです。(抜粋・了)
宗教とは難儀なものなり。「八百万の神」と「ご先祖様」が私の宗教。我が家は真言宗であるけど、教えも分からず。ただ般若心経は気に入っているので毎朝夕詠む。そして家内安全を祈る。「色即是空空即是色」・・・私の勝手な解釈、この世に存在する物すべて「あるけどない、ないけどある」は真理なり。
裏通りを歩いていたらイスラム教寺院の「清真大寺(せいしんだいじ)」があった。壁沿いに歩いていて門があったので入ろうとしたら「あっち」と指示された。門票を買わないと入れないようで時間がなかったし入るのは諦めた。
人通りの少ない狭い裏街道を歩いていたら集合時間が迫って来たので少し焦って戻る。30分の自由行動は片道15分コースでしかない。ギリギリはダメなので片道12分程の散歩になるのでゆっくり気分にはなれない。ツアー旅行は楽だけど記憶に残らず。 -
鼓楼を背に北院門通りを写す
-
自由行動 北院門を外れて適当に歩く
-
化覚巷にあるイスラム寺院
「清真大寺(せいしんだいじ)」
中には入れず イスラム寺院としては西安最大 -
創建は唐代742年
現存の主要建物は明代に建てられ
その後改築が繰り返されている
30分の自由時間では中に入る余裕なし -
路地裏のシャッター通り 狭い
散髪屋の看板「サインポール」は世界共通?
『床屋さんのクルクル回る看板の謎が意外と深かった』
https://matome.naver.jp/odai/2138787406867721301 -
北院門に戻れば回族の店が並んでいる
豚肉はナシ -
白い帽子が特徴の回族
回族の起源
『唐から元の時代に、アラブ系・ペルシア系の外来ムスリムと
彼らと通婚し改宗した在来の漢族にあると言われている』
ふ~ん そうなのか -
集合時間が迫り鼓楼前に戻って来た
-
鐘楼傍を通ってバスに戻る
-
買い物タイム
買い物はしないが これも楽しからずや
休憩し 話しを聞き
みんなの日本語能力の高さと熱心さに感心する
///////////////////////////////////////////////////////////////
■買い物タイムと陝西省歴史博物館へ
鼓楼と鐘楼の外観を見て次は買い物タイム。入ったのは「ベッドや枕のクッション販売店」いつものように日本語流暢な女性の説明。私にとって買い物タイムは休憩タイム。お茶のサービスもあるので。誰かが何か買ってくれればホッとする。何人かが枕を購入。空気を抜き圧縮パックで小さくしてお持ち帰り。
次は陝西省歴史博物館(約1時間)。
『展示品の質・量ともに中国国内有数の所蔵を誇る。』博物館見学だったのに予備知識も説明もなく「猫に小判」と言うのか、展示品の価値も分からず人の多さに邪魔臭くなり順路を巡り歩いただけの見学となった。帰国後「地球の歩き方」を見直し、もうちょっと真剣に見ておくべきだったと後悔。
こんなにも面白い陝西省歴史博物館 https://torehan.net/shaanxi-history-museum/
この博物館に来て只一つ目を凝らして見たのは博物館に入る前に館外に鎮座の羊や馬の石像。碑には唐(618-907)「廟翼馬」「廟羊」とあった。それらを見ながら「ふ~ん、日本人遣唐使たちもこの石像を一度は目にしたのだろう・・・」と一人感慨に耽っていた。
3時半に入って4時半頃出て来た。兵馬俑同様人の多さにびっくり。“Dさん”いわく「今日は少ない方」昨日の兵馬俑もそうだったが、もっと普通は多いとのこと。数年前から中国人観光客がどっと増えて観光シーズンは人の波のようだ。 -
陝西省歴史博物館は凄い博物館のようだけど
私には知識なく「猫に小判」 -
廟翼馬
唐代の物と聞いて
阿倍仲麻呂はじめ多くの来唐日本人も
これをこの地のどこかで見たかもと結びつける -
碑には唐(618-907)「廟翼馬」と刻まれている
-
「廟羊」
これも唐代の物なり・・・ホンマ? -
玄関ホールの巨大な獅子像
「則天武后(624-705 81才没)の母、楊氏の陵墓から出土」
ならば則天武后が母の為に作らせたのか・・・
則天武后は中国史上唯一の女帝?
清末期の権力者「西太后」も似たり -
ここにもあった銅馬車「2号銅車馬」
こんな精巧なものが秦代に作られたことが不思議
『デジタル技術、秦始皇帝陵の銅車馬を復元』
https://spc.jst.go.jp/news/180703/topic_2_04.html -
安伽墓石榻(石棺)
http://www.sxhm.com/index.php?ac=article&at=read&did=10699
これが石棺と言われても?
『北周王朝(556-581年)の歴史、ソグド貴族の衣装、文化、生活習慣
宗教的信念、葬儀習慣を研究するための非常に貴重な情報を提供します』 -
ラクダも馬もみんなリアルで完成度が高い
そりゃあ兵馬俑を見れば当然なのだろうけど
こういった作品群の展示を見れば
この地がシルクロードの終点だったと納得できる -
“Dさん”曰く「今日は人が少ない」
そうなんか・・・今日は火曜日
土日 観光シーズンはいかに?
ゆっくりみれるはずの今日なのに
ただ展示品の前を通り過ぎただけに終わる -
陝西省博物館からバス移動
車窓から大雁塔を写す
///////////////////////////////////////////////////////////////
■大雁塔へ
陝西省博物館の次は大雁塔(だいがんとう)へ
玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)がインドから持ち帰った仏教の経典や仏像などを保存するために652年に建立された。当初五層の大雁塔だったが『長安年間(701年 - 705年)武則天の統治時代に上まで登れるようになり、現在の7層になった。しかしその後、熙寧年間1068年 - 1077年頃に火事に罹災し1550年頃に重修され、人民中国成立後にも修築されている。』
残念ながら建物時代は修復されているが、元々の五層の塔は玄奘自ら建立にも携わっており阿倍仲麻呂が717年唐の地に踏み入った時には、七層に改築された大雁塔が建っていた。当時長安に来た日本人の多くがこの場に立ち塔に登っているはずだ。
円仁の「入唐求法巡礼行記」に841年(開成六年)二月十三日『金剛界大法を受け終わる。金剛界曼荼羅を供養す。及び伝法灌頂(かんじょう)を受け、五瓶水を以って頂上(頭)に灌ぐ。夜に至り十二天(天部十二尊)を供し毎事吉祥なり。兼ねて慈恩寺の塔(大雁塔)に登る。』と記している。
南広場でバスを降りたら広場には玄奘三蔵法師の像が立っている。その向こうに大雁塔が聳えていた。時を超え今我もこの地に立ち大雁塔を眺める。空海入唐から1215年後「関空→西安」は3時間半ほどの飛行時間で到着。
人類初の月面着陸アポロ11号は「1969年7月16日13:32:00」打ち上げ四日後の「7月20日日曜日の20:17:40」月面に着陸。そして現在:地球から火星までは探査機で八ヶ月くらい掛かっている。今から1200年後なら・・・月や火星に人類が暮らし、火星観光も庶民の楽しみになっているのだろう。
まずツアー一行での記念撮影。女性カメラマンが大雁塔をバックに写してくれた。あとから車内で絵葉書アルバムにしたのを希望者が¥60元で購入した。買わない人もいたけどそんなに高くないのに「買ってやれよ・・・」と思うけれど・・・。
ここでも専属ガイドの日本語を話す中国人“おっちゃん”登場。大慈恩寺の門を潜る。唐代の慈恩院は今の敷地の七倍くらいの広さだったとのこと。2009年落成の大雄宝殿の後ろに大雁塔が建っている。
大雁塔に上って七階からの展望を楽しみしていたのでガイドの説明も上の空。そしてガイドが「今から20分間自由行動にしますので塔に上る人は各自門票を購入して上って下さい。」との言葉に即大雁塔に向かった。
修築が繰り返されているようなので内部は古さは感じず。急こう配の階段を前者に続き上って行く。5分で最上階に到達。順番に東西南北の窓から西安の街並みを眺め写真を撮る。でも自由時間が短く写真も撮らないと・・・と“ゆっくり”堪能と言う気分になれず残念だった。
大雁塔七階からの景色は東西南北とも遠望には高層ビルの立ち並ぶ風景だった。“Dさん”いわく30年前くらいの写真は周囲は畑地ばかり。円仁がこの塔に上った時はどんな景色が広がっていたのだろう?
駆け足で上り、そして時間を気にして降りて来た。その後どこに行くのかと思ったらここでも買い物ツアーがあった。大慈恩寺内の一角にある「書道陳列室」なる部屋に案内された。ガイドさんも営業マンだった。
陳列室に入る前に「室内は撮影禁止です」と例の如くもったいを付けられ入る。有名書家の掛け軸が並んでいた様子は記憶にあるが、それが誰なのかは記憶なし。一人参加の“Nさん”が掛け軸一本購入する。 -
大慈恩寺南広場にある玄奘三蔵像
-
ここでツアー一行17名+“Dさん”計18名 記念撮影
円仁来訪841年より1178年後の今日この地に我も立つ
感無量なり -
大雁塔を仰ぎ見て 自由時間たったの20分
なんでやねん・・・ゆっくり展望を楽しみたいのに
一目散に駆け上がるぞ! -
前がつかえて一目散に駆け上がる・・・は、無理だった
『火事に罹災し1550年頃に重修
人民中国成立後にも修築』
円仁が上った塔と違えど似た物だ
場所はこの辺りだろうし価値は変わらない -
“Dさん”曰く「30年前は周囲は畑地」
なるほどこの写真を見れば良く分かる -
「東」
遠景には高層ビル林立 -
「北」
西安城内方向
遠景には高層ビル林立 -
「西」
遠景には高層ビル林立 -
「南」
眼下には玄奘三蔵像の立つ南広場
こっちから慈恩院に入った -
慈恩院「書道陳列室」はお買い物コーナー
「室内は撮影禁止です」がお買い物の合言葉
“Nさん”掛け軸一本ご購入 -
歌舞大劇院
ここで西安「最後の晩餐」
/////////////////////////////////////////////////////////////////////
■夕食と食後はオプショナルツアー「唐歌舞ショー観劇」
大慈恩院を出て夕食に向かう。夕食は「楊貴妃宴をご賞味下さい」とのこと。
着いたところは「歌舞大劇院」・・・ここで夕食後オプショナルツアーに申し込んだ人は「唐歌舞ショー」の観賞となる。
丸テーブル二卓に別れて「楊貴妃宴」を堪能する。これがツアー最後の食事だが、最初から最後まで美味しかった。さすがツアーの食事なり。一人で中国を旅して適当に店に入って注文しても「何とか食えれば良し」であり、いつも私の口に合う料理を注文できない。
50分程の食事タイムを終え歌舞ショー参加者は劇場内に入る。指定席のようだがその場所分からず付いて行く。そして座席の場所を見て万歳!最前列中央部が確保されていた。さすが“Dさん”!やったぜ感謝感激。
ショーの始まる寸前に入場したのですでに客で一杯だった。といっても客席の前の方に食事しながらの丸テーブル席があり、そこは概ね白人観光客たちが陣取っていた。「へぇ~、こんななってるの・・・」だった。
そして幕が開きショータイム!
唐時代を思わせる装いで美女が次々と登場し音楽に合わせて踊る。楽器の演奏はあったが生歌の独唱・合唱がないのが残念だった。何故?歌を歌わないのか。最前列の席なので艶やかな美女の顔も表情も良く分かる。
私が今までの人生でショーを見ての感動の順位は、①新疆ウイグル・ウルムチでの民族舞踊。②タイ・バンコクのニューハーフショー。③京都・都踊り。がベストスリー。この歌舞ショーもそれなりに良かったが。ベストスリーには及ばす。
女性たちの美女レベルも高かったし踊りも良かったが、若い男性たちの踊りのクオリティーが低すぎてガッカリ。日本の男性アイドルグループのダンスの方が余程レベルが高い。練習不足もいいとこだ。それで一気に私の評価は下がった。
でも十分目の保養にもなったし、¥260元の歌舞ショーオプショナルツアー参加は大満足だった!唐の時代に皇帝・高官・外国からの使節たちの居並ぶ前で選りすぐりの美女たちの歌に踊りのショーや宴会はさぞかし豪華で素晴らしいものだったろう。
そういえば今も北朝鮮では美女軍団「喜び組」もそうかも。中朝国境の丹東のレストランや朝鮮自治区「延辺」の北鮮系ホテルで「喜び組」に属しているような北鮮美女たちの歌や踊り等々を見たけど、いつの時代も強制下でのショーには美しくも悲壮感が漂う。
支那の隷属化の新疆ウィグルのダンサーも北鮮の美女たちにも哀愁を感じた。
午後7時半に始まったショーは8時40分終了。最前列の超VIP席で見れたのが最高だった。この席の確保は阪急トラピックスの力なのか?“Dさん”の顔なのか?分からないが、大概この席が確保できているような“Dさん”の口ぶりだった。最高!
歌舞大劇院からホテルへの帰路、鐘楼・鼓楼のライトアップの車中観覧となった。それにて西安観光は全て終了。ホテル到着は午後9時頃。スマホ歩数計は「21533歩・15.9キロ」だった。三泊四日、正味二日の観光。これくらいでちょうど良い。 -
夕食は「楊貴妃宴」
西安ツアーでの食事は全部美味しかった
一人旅では、残念ながらありつけない -
食後劇場に入る
劇場内もテーブルが置かれ食事中だった
私たちの席は最前列!やったァ~ -
美女たちの舞は“オジン”にとっても目の保養
最前列で見れたのはホントラッキー -
紀元前も 唐代も 今も
美女の基準は同じだと思うけど
好みはそうれぞれ違っても -
この女性たちはプロダンサー?
収入は?地元のスターなのか?
“Dさん”に聞いておけばよかった -
大雁塔を背景に踊る美女軍団
残念ながら踊りと演奏だけで歌がなかった -
小さなデジカメでも美しいものは美しく写る
オプショナルツアーに申し込んで正解だった
見とれていてあっと言う間に終わりになった -
女性陣の踊りはそこそこ質が高かったけど
若い男性陣のダンスはレベルが低いのでガッカリ
今の日本は芸能界でも高校生のクラブ活動レベルでも
ダンスのレベルは凄く高いので目が肥えている -
へぇ~こんな感じにテーブルがあったのか
食べながら見るより、食べてから見て良かった -
最後にライトアップされた鐘楼を見て
西安旅行はジエンドとなった -
スマホ歩数計
「21533歩・15.9キロ」
さあ 明日早朝帰国するのみ -
サラバ西安!
午前5時過ぎの西安の空は曇り
あっと言う間の旅だったけど
帰国の日が嬉しいのは何で?
//////////////////////////////////////////////////////////////////
西安~明石 帰国へ
2019:令和元年6月9日(日)~6月12日(水)
3泊4日
4日目:6月12日(水):西安「曇り」日本「晴れ」
西安~明石 帰国へ
2019.令和元年6月12日(水)
■サラバ西安!
朝4時半モーニングコールだが、その前に目が覚めてチェックアウトの準備。いつものように日の丸を背負い気合を入れて「これでもか・・・」と綺麗にする。何より充実の旅を終え帰国の途に就くのは嬉しい限り。
バスは5時半出発。朝食バイキングの代わりに車内でホテルが作ってくれたのか?朝食弁当を配ってくれた。サンドイッチに菓子パン、ゆで卵一個にヨーグルトとリンゴ。水にお菓子。「へぇ~ホンマかいな、こんな気の利いたサービスがあるんか・・・」と喜ぶ。
空港に向かう車内で食べる。バスは城壁沿いにしばらく走った。「尚武門」が見えた。そして早朝の西安市街から離れ一路空港目指す。空港到着は午前6時30分頃。航班「3U 8801」 搭乗口F14、座席16F(窓側)
「三泊四日:西安の旅」お世話になったナイスガイドの“Dさん”と別れ、出国手続きも終えて搭乗ゲート到着は午前7時49分。西安(発)は午前8時40分。朝一番の便だから遅延なく午前8時前から搭乗開始。
8時46分機体は地上を離れて大空へと・・・。真中通路左右三座席・右の窓側。乗客は日本・中国半々くらい?内陸西安からもこんな早朝から日本に来る中国人が多いのか?離陸後30分くらいで機内食サービス。蓋を開ければ「お粥」でラッキー!
-
朝食弁当があるなんて!
驚いたし その内容にも感激 -
サラバ長安!
こんな遠いところまで来ていた先人たち
今の日本人は何をしているのだろうか?
きっと私が知らないだけで今も多くの日本人が
世界各地で学び働き夢を追い頑張っていると思う -
西安の朝 朝はどこでも静寂がある
-
50分程で空港に到着
関空までひとっ飛びだ -
西安咸陽国際空港
搭乗カウンターで手続きを -
「RELAXATION リラクゼーション」
「SLEEPBOX スリープボックス」
こんなんが並んでいた -
四川航空 3U 8801便
落ちるなよ! -
午前7時57分 搭乗始まる
8時40分(発) -
座席は16F 窓側席
朝早いけどほぼ満席
日本に来る中国人多し -
サラバ長安!
41回目の海外旅行ともなれば
感傷にふけることも少なくなりにけり -
機内食も最近美味しくなった
お粥最高! -
国破れて山河在り
何が変わっても大地の姿は変わらず
上空から見る下界は昔とほぼ同じだろう
///////////////////////////////////////////////////////////
■関空から自宅へ
そして日本時間12時37分には日本の大地上空を飛んでいた。午後1時09分関空着陸。何回飛行機に乗っても不安は拭えず。乗り物の事故率比較がいろんなサイトに出ているが飛行機の事故確率は極めて低い。一番安全な乗り物は日本の新幹線、今だ死亡事故ナシ。
『新幹線の次に安全な乗り物は「飛行機」になります。その事故確率は0.0009%。これは8,200年間毎日航空機に搭乗したとしも、一度事故に遭うか遭わないか程度の確率なのです。』・・・のようだ。
それでは車は人生80年として『死亡事故を起こす確率は1%になり、100人に1人・事故死してしまう確率は0.33%になり、300人に1人・事故でケガをさせてしまう確率は66.6%になり、3人に1人』・・・ふ~ん、そうなんか。
荷物引き取り場所で、ツアーご一行の方々と「お世話になりました。お先に・・・」と各自別れ一期一会の出会いは終わった。気まずい旅ではなかったが、そんなに気の合う方との出会いもなく、もう街中ですれ違っても互いに分からずだろう。皆様のご健康と幸せを祈ります!
関空からポートアイランドアまでのベイシャトル便のバス時間午後2時35分にまだ1時間以上あったので関空3階で食事休憩。定番の「信州そば処 そじ坊」ではなく「がんこ寿司」に入って寿司ときつねうどんのセットを注文。美味しかった。
ベイシャトルで大阪湾を横断し駐車場着は午後3時24分。我が家に向かっての安全運転を誓う。以前海外からの帰路、運転中に強烈な眠気がきて危なかったことがあったから・・・。
日本は超高齢化社会を迎えて高齢ドライバーの「アクセルとブレーキの踏み間違い」での事故が多発している。ミッション車は踏み間違い事故はないがAT車は年齢問わず誰しも踏み間違いが起きる。誰しも間違いそうになる。
若者は踏み間違えてもすぐに踏み変えることが出来るが、高齢者は身体も固くなり踏み間違うと即座に切り替えが出来ずパニックなる。早急にAT車の物理的・機械的な改善策がでなければ、若しくは高齢者の免許更新審査を厳格にしないと踏み間違い事故は高齢ドライバーの数に比例して確実に増える。
歩行者は老若男女すべてが車を信用せず「自分で自分を守る」しかない。私は道を走っている車を信用していない。「車=人」であり危険な人は危険な運転をする。気の短い人は気の短い運転、切れる人は切れる運転。良識ない者は良識のない運転をする。危ない物(車)には近づくな。
ポートアイランドアから西明石の我が家まで約40分走って午後4時10分で無事帰着。仏壇の前に座ってご先祖に旅の無事を感謝し、カメラのSDカードをパソコンに挿入四日分の写真を撮り込み一段落となった。
しかし私の旅はまだまだ続く、いや帰国後からの時間が一番長い。何故ならこの旅行記を書き終えフォートラベルにアップし終えて旅の完結となるから・・・。
今では旅行記作りの為の旅なのか?こんなこと本末転倒ではないのか?デジカメで写真を撮りまくるのもそうだ。自分でも疑問に思う時もあるが、結局今後も続ける。そして旅は私の勉強であり、この旅行記の勝手な能書きは私の子孫への遺言でもある。さあ、次はどこに行こうか・・・。 -
着陸するまで緊張する
こんなデカイものが浮き上がるなんて -
さあ着いた ここは日本だ!怖い物なし
祖国があるというのはありがたいものだ -
ここでツアー一行の方たちと最後の挨拶
災いなく、みな無事に戻れてよかった
一期一会の出会いなり -
関空3F
定番の「信州そば処 そじ坊」ではなく「がんこ寿司」 -
やはり和食に勝る美味い物なし
なんでやねん?そらそうやとは思うけど -
天気晴朗波穏やか
ポートアイランドに向けて出航! -
明石海峡大橋をバックに航行中の船一隻あり
海は広いな大きいな -
ポートアイランドに到着
ええ歳して 一番先に下船 -
ベイシャトル臨時駐車場に我が愛車の姿を認
忠犬の如くじっと待つ愛車 共に歩んで七年越えた -
我も68才 高齢ドライバーの範疇なり
尚一層安全運転に注意せねば・・・
息子たちの言:「いつまで乗るねん」 -
六甲山系を前方に仰ぎ見て走る
運転中にカメラのシャッター切るな!
ムムム その通り
無事に帰宅し仏壇の前に座る
了
/////////////////////////////////////////////////////////////////
西安の旅を終えて思うこと
「兵馬俑を見に行くぞ」が瞬時に「長安への旅」となった。私にとって旅は勉強であり、今回も阿倍仲麻呂・空海・円仁等々当時の遣唐使とそれに付随しての日本史の勉強になった。
私は青年期に自虐史観からの脱却と同時にそれに反発するかのように我が祖国日本の良いところばかりを探している。
この旅を終え遣隋使・遣唐使時代、もっと昔紀元前からの日本史を少しだが学んだことで改めて日本の良さを再確認し日本人として生まれたことに感謝している。
①https://oyakochoco.jp/blog-entry-1003.html
『遣隋使や遣唐使よりも、はるかに多かった「遣日使」。当時「遣隋使 遣唐使」として日本から大陸に渡っただけではなく、隋・唐からも「遣日使」として多くの高級役人等が来日しているようだ。』
②「なぜ中国は日本に憧れ続けているのか」 石平(著)
『二千年にわたる日中交流史の中で、一つ興味深い現象がある。日本から中国に渡った留学僧や留学生のほとんどが帰国したのに対し、日本に渡った中国人エリート層はむしろ渡来人や渡来僧として日本に住み着く。この現象の背後に何があったのか・・・』
①②が昔も今も変わらぬ日本の姿を現している。当時世界最大の都市「長安」そこで学ぶべきことも多かったのは事実だろうが、その以前紀元前(秦代)から日本は日本独自の文化を持ち周辺諸国のなかで憧れの国として存在していた。
石平(著)によれば「徐福伝説(秦の時代)」もそうだが「魏志倭人伝(3世紀末)」にも倭人の紹介に『「人々は寿命が長く、ある人は百歳、ある人は八、九十歳まで生きる」「女性はつつましやかで、やきもちを焼かない。追剥やこそ泥がなく、争いごとも少ない」』などの記述がある。
遣隋使や遣唐使が朝貢か否かなど些末な議論であり、倭国・日本は紀元前の昔から自分の国に誇りを持ち相手国がどうであれ自らは対等としての意識で外交をしていたのだと信じる。
そんな日本国と日本人が・・・。大東亜戦争敗戦後米国の保護国に成り下がったまま今に至っても覚醒せず無念でならず。-了-
令和元年八月吉日(六九才記)
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
西安(中国) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
122