2019/06/09 - 2019/06/12
309位(同エリア1648件中)
明石DSさん
今朝は赤印の所 西安で目覚める
数時間でこれだけ移動出来るのが不思議
百年後の移動速度はどうなるのかなァ~
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西安・兵馬俑
2019:令和元年6月9日(日)~6月12日(水)
3泊4日
2日目:6月10日(月):晴れ
兵馬俑・青龍寺へ
2019.令和元年6月10日(月)
■西安で朝を迎えた!
西安で朝を迎えた。いつもの日本時間午前6時、西安の午前5時に目が覚めた。カーテンを開けて窓外の景色を初めて見る。「ふ~ん、これが西安か・・・」窓の外にはどことも変わらぬ中国の雰囲気があった。
雲はあるが青空も広がり好天気。西暦630年の第1回から西暦838年の第19回まで200年間もの長きに渡って多くの日本人が遣唐使として、当時の世界最大の都市「長安」にやって来た。
円仁は唐より帰国を命じられるも禁を犯して残留し五台山巡礼を経て2年二ヶ月でこの長安に辿り着いている。「入唐求法巡礼行記」には、840年8月22日「春明門に入り大興善寺西禅院に宿す」と長安入城が書かれている。
今の日本には国益に資する為の真に命懸けの事業はあるのか?それを実行する政府もない。それを命じる首相もいない。有人の宇宙ロケットも作れない。最悪は国内より北朝鮮に拉致された同胞を奪還することなく放置していることだ。これ以上の恥はない。国家の体を成さず哀れなり。
すべては戦後憲法を未だ護持し軍を否定し軍人無き国家のままだからだ。戦争放棄こそ人を人足らしめず。戦いを放棄した生き物に未来はない。それは自らの国も自らの生をも否定したも同然だ。日本人はそれに気付かないふりをしているが生きる価値無き生き物として息をしてるに過ぎぬ。我もその一人なり。
- 旅行の満足度
- 5.0
-
6階の部屋から外を見る
遣唐使の時代から1200年が経った
当時はエリートたちの命懸けの長安への旅
今は庶民が、ある日思い立っての観光旅行 -
部屋の窓から左手方向 東南東を写す
どことも変わらぬ中国の景色 -
雲龍大厦が右斜め方向に写っている
ということは607号室はホテル南側に面し
この写真は西南西の方向を写している -
午前5時51分 散歩に出ようとしたら
もう私たちのブルーの新車バスがホテル玄関に待機
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■朝食前の朝の散歩
モーニングは朝の6時から。その前にいつものようにホテル周辺の散歩に出掛ける。6時前の早朝、道路清掃の人たちがオレンジのユニフォームを着用してあちこちでホウキを手に道を綺麗にしている。この光景も中国では見慣れた風景だ。
西安の道路に駐車中の日本車もそれなりに見かける。やはりトヨタが多いが他の日本メーカーの車も見かける。その数は少なくはない。思えば今から7年前の2012/平成24年、尖閣諸島国有化で中国各地で反日暴動が起きた。私はその最中「北京・張家口」への旅をし、騒動の渦中でビビりながらも貴重な経験をした。
https://4travel.jp/travelogue/10729705
この西安でも2003/平成15年 日本人留学生による寸劇で反日暴動事件が起きている。https://plaza.rakuten.co.jp/chiliuqianer/3000/
日本に対してのその国の人たちの思いは「日本車」の数が私にとっての一番のリトマス試験紙だ。何故?ハハハ、日本で現代や起亜の車は見ない。人は感情(本音)で判断し行動する。そして本音は善、理性など偽善に過ぎぬ。
本音(感情・本能)を悪く言うな!本音を隠して理性を優先させればやがて無理が生じ結果は悪くなる。本音感情を素直に優先させて判断行動すれば世の中平和になる。ようは何事も基準は好きか嫌いかだ。でも今、好きでも、何かが起きれば嫌いにもなる。結局は賢人も愚人もその時々の感情のままに生ている。それが人間だ。 -
城豪門酒店(Grand Noble Hotel)
東大街沿いに建つ「グランド ノーブル ホテル」 -
ホテル前の左手(西)方向
まだ早朝 -
ホテル南側の路地を散策
中国の街角でよく見る清掃風景 -
トヨタ車 反日騒動 今度はいつ?
支那朝鮮の隣国とは文化価値観が違う
遣唐使時代はどうだったのか?
当時 日本から大陸に行った者は大半が帰国
大陸から日本に来た渡来人は帰国しなかった者が多い
日本と言う国は昔々から住みよい国だったのだろう -
一階のレストランは広くて豪華
まだ人が少ないのに驚いた
とりあえず何があるのか?見て歩く
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■朝食バイキングと食後の散歩
6時にホテルに戻って1階のレストランへ。カードキーを見せて朝食バイキング。レストランは広くてバイキングメニューも沢山なのでまずは一巡しながら何がいいかなァ~と品定め。ツアー仲間の一人参加の“Nさん”がいたので挨拶。
今年3月から私は夜の8時から次の日の昼まで食べない生活になっている。食えるのは一日の内、8時間。それを正午から午後8時までと決めている。これはガンを克服した医師が自ら試した健康法。
「16時間の空腹時間で、細胞が生まれ変わる」青木 厚(医師)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/60919?page=2
今年3月「16時間の空腹」を読んで「これや!」と納得。以降今のところ日々大体実践している。大体と言うのは16時間をきっちり守ってないから。そして非日常の旅道中はあっけなく例外扱い。
“Nさん”と同席し、種類豊富で美味しいのでやっぱり朝から腹一杯食う羽目に。「お粥」「豆乳」はあればいつも選ぶ。ツアー仲間は私たち二人以外はなかなか来なかった。こんなことも今までの経験では珍しい。いつもみんな早く来るのに・・・。
“Nさん”は新婚旅行以来の海外でパスポートを今回の旅行の為に作った。奥さんは我が家内と同じく「海外旅行に興味ない」そうだ。“Nさん”は国内列車の旅は良く行っているようで旅好き。
朝食後集合時間が8時なので、また外に散歩に出る。ホテル周辺も一歩路地裏に入れば「これが中国」という風景ばかり。狭い通路で雑然とし汚れた雰囲気。電線はどこも蜘蛛の巣配線。早朝から“おっさん”たちが道に椅子を出して集まって話している。
そして珍しいものを発見。違法駐車の張り紙を窓ガラスに貼られた車発見。「えっ?なんでやねん、これが違法であれは?」というくらい道路に駐車車両が溢れているのに。一応違反車両の摘発もするのか・・・と。 -
種類も豊富で 何を食べようか・・・と、迷う
まあそれでも適当にお皿に盛ってテーブルへ -
こんなのを食べた。写真に撮らなければ思い出すのは不可能
お粥はありがたい
一人参加の“Nさん”と同席する -
午前6時40分 バス停には続々とバスが
西安 月曜日の朝、働かないと生きていけない
私 子育て終了 年金もらいながらボチボチ仕事
私の人生至福の10年とは65~75才の10年
もうすぐ69才、至福も半分経過・・・か -
路地の光景は、中国各地どことも同じ
路地の風景が綺麗になれば
中国の国名も変わってるかも -
朝 6時51分
“おっさん”たちの井戸端会議
話題は何?一体どんなことを話してるのか?
話しの内容が分かれば面白いのに・・・ -
おっさん”たちの座っているところに
高級車が曲がって来ようとして立ち往生
運転手 警笛鳴らさず切り返しを何度かして脱出
こういうやりとりを見てるのが旅の面白さ -
ゴミとゴミ収集車?
収集車の荷台はすでにゴミ満載
このゴミはどうなるの?
もうちょっとここで見ておけば良かった 残念 -
「えっ?なにこれ・・・もしかしたら」
中国で初めて見た駐車禁止摘発の貼り紙
「違法停車時間」「違法停車地点」とある -
この車が駐禁ステッカーを貼られていた
ホンマかいなそこらじゅう駐禁だらけと思うのに
なんでこの車だけが違法駐車になってるの?不思議 -
セブンイレブンと見間違うコンビニ
パクリは文化 外国人としては分かり易い -
朝 7時 すでに開店の夫婦?の露店
もう少し遅い時間になればお客さんが
次々と弁当になのか?買っていた
翌日も同じ場所にこの店あり
それなりの人気店のよう -
歩道上に等間隔に柱立つ
なんでやねん?
ホンマ 何考えてんねん? -
いつの日にか行くこともあるかもなァ・・・
そう思っていた兵馬俑を今から見に行く
海外旅行にも慣れた 慣れるなんて?
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■いざ兵馬俑に出発!
ホテル周辺を散策し7時45分くらいにホテルに戻った。すでにバスはホテル前に待機し、ツアー一行がバスにボチボチ乗ろうとしていた。バスの座席は昨日のままで良いのか?固定せずに席替えをした方が良いのか?ガイドの指示もなく「昨日のままで良いのかなァ~」と他の人と顔を見合わせたけど「ええか」と昨日の席に座った。
バスは兵馬俑に向けて定刻午前8時にホテル出発。西安市内から離れればすぐに田舎の風景が広がるのかと思っていたが建設ラッシュの都市郊外の景色がず~と続いていた。地下鉄も西安から兵馬俑まで延伸工事中とのこと。ここでは中国経済失速も崩壊も現実味を感じない。
兵馬俑からの帰路に観光する「華清池(かせいち)」や「秦始皇帝陵」を通り過ぎホテル出発後1時間程で兵馬俑に到着。「来て見て分かった」のは駐車場や博物館・公園・商業施設等々含めて広い。広すぎてどこに何があって何が何か分からない。“Dさん”の後を付いて歩くのみ。
日差しもきつく帽子を被って歩く。チケット売り場も窓口もずら~と沢山あって横に大きい。“Dさん”がチケットを買いに行き入場口付近でしばし待つ。もうすでに大勢の人が固まって待機したりウロウロしている。日本からの僧侶のような一団もそばにいた。
白の上下法衣に丸刈り頭、若い男性僧侶だけではなく女性も年配男性も含めて多数の一団。「身延山久遠寺参拝団」とあった。「身延山久遠寺」は山梨県にある日蓮宗総本山。遣唐使時代と違って今は観光旅行、幸福な時代に生まれた?
仏教を学びに唐に来た主な日本人僧;入唐八家は『最澄(804年)・空海(804年)・常暁(じょうぎょう 838年)・円行(えんぎょう 838年)・円仁(838年)・恵運(えうん 842年)・円珍(えんちん 853年)・宗叡(しゅうえい・しゅえい 862年)』の八名。
838年の最後の遣唐使船以降も商船を利用して恵運・円珍・宗叡の三名の僧が来ているし、他にも入唐した僧侶や当地で没した僧侶「霊仙・円載・惟暁 ゆいぎょう」など多数いる。
円仁が840年に長安に入った年に即位した皇帝「武宗」は道教に傾斜し仏教や、景教などの外来宗教に対する弾圧を始めた。「会昌(かいしょう)の廃仏」
仏教弾圧を始めた『武宗は、会昌6年(846年)に丹薬の飲み過ぎで体調を崩し33歳で崩御し、弾圧は収束する。』・・・宗教と弾圧、紛争、戦争は付き物なり。政治も思想も似たり。これが人間の性であり、人が生きる魑魅魍魎の世界なり。よって面白い。
宗教に関心はないが、学びや修行等々の実行動には関心を持つ。千日回峰しかり厳しい修行を達成することには万感の敬意を表す。私が思うに「人間業ではない」から。自分がとても出来ない過酷な修行や訓練を達成した人物は真に「偉い」「凄い」と思う。
「学ぶ」ことも同じなり。真理を探究し命を賭して突き詰め悟りを得た者が語ることが果たして凡人に理解できるか?否か?分からないが、その人物を前にすれば伝わる感動はあるはずだ。その人物の言葉や姿からオーラが発せられるだろう。
“Dさん”が入場券を手に入れ一人の若い中国人男性と一緒に戻って来た。“Dさん”がその男性を「ガイドの“Oさん”です。博物館で説明をしてくれますが中国語なので私が通訳します」と紹介する。“Oさん”は、私たちとしばらく一緒だったが説明は全て“Dさん”で、“Oさん”は一言も発することはなかった。
ここでは中国人ガイドを付ける規則があるのかも?「秦始皇兵馬俑博物館」に、いざ入場する。今日はこれでも人が少ないとのこと。多い時はそりゃあ凄いのだろう。“Dさん”曰く「20年前は西安への旅行は日本人が大半だったけど、今では中国人が大勢来るようになった」・・・確かに。 -
“Google・Map”ルート検索
42km ホテルから車で52分ほどの距離 -
城壁を出ていざゆかん
三輪バイクが活躍中
小さい頃日本にも小型三輪
ダイハツ・ミゼットが走ってた -
郊外は田舎の風景かと・・・思っていたが
建設ラッシュの光景がどこまでも続く
なんじゃこりゃあ -
中国各地どこでも見かける「特警」
権力と武力で押さえる中国共産党
末路は如何に・・・次の国名は如何に -
地下鉄が兵馬俑まで延伸予定とのこと
経済の仕組みは分からない
何で中国経済は崩壊危機と言われ続け破綻しないのか?
経済学者も地震予知の学者も同じ穴のムジナだ -
ホテル出発後1時間程で兵馬俑に到着
着いたけど全体像はまったく不明 -
秦始皇帝陵博物院」と書かれた碑
左後方には秦の始皇帝の大きな像が立っている -
秦始皇兵馬俑博物館の巨大入場ゲート
“Dさん”が何度も言っていた
「今日はこれでも人が少ないです」・・・と -
入場料150元(1元15円 ¥2250円)の免除
65才以上・現役軍人(武警)・障害者 他
どこの国も軍人は大切にされている
そうでなければ国は守れない -
日本人の一団
白の上下法衣に丸刈り頭、女性・年配男性も含めて多数
「身延山久遠寺参拝団」・・・山梨県にある日蓮宗総本山 -
門票を持っていざ入場へ
ツアーはホンマに楽ちん
何も考えず後に続けば良し -
やっと兵馬俑坑手前に来たようだ
入場ゲートから10分程歩く
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■入場ゲートから遠かった兵馬俑坑
ゲートを通過して手荷物検査を通り抜け公園内に、そこから歩く、歩く、猛暑のなか15分ほどゆっくり歩行で「兵馬俑一号坑」前に到着。撮影タイムの時に“Dさん”とのツーショット写真を撮ってもらう。でないとすぐに忘れるから。
紀元前221~206年。史上初の中国統一を成した「秦時代」。日本の弥生時代(吉野ケ里遺跡の頃)
「秦時代」は唐から遡ること800年、その秦の王:初代皇帝となった始皇帝は紀元前210年49才で没した。その秦は15年しか続かず秦の始皇帝崩御の4年後滅亡し、劉邦が初代皇帝となる前漢時代になる。
秦時代は短期だったが『(抜粋)秦の成立は単なる中国統一と言うことに終わらず、皇帝号の創始・行政区分の確立・万里の長城の建築などの点で中国と呼ばれる存在を確立したという意味で非常に大きい。そのために秦以前のことを先秦時代と呼ぶこともある。』
紀元前の大昔、秦と倭国、吉野ケ里遺跡にも行ったが当時の秦と倭を比較すれば人々の生活レベルはどれほどの違いがあったのだろうか?人々の幸福度は如何なものか?
写真では見飽きるぐらい見た「兵馬俑一号坑」へ一歩踏み入る。直後の感想は「凄いなァ~!」ではなく「とうとう来たなァ、これが兵馬俑か!そうかこんな感じ・・・か」だった。ちなみに兵馬俑の「俑・よう」とは埴輪(はにわ)の意。
人が多く最初のうちは人の背中越しに写真を撮ってたが、しばらくして最前列に行き上から下に右から左に兵馬俑を見たり、建物全体を見回した。
兵馬俑の作品としてのレベルの高さにはもはや驚かない。世界四大文明が紀元前3千年、4千年なら当時も今も人の作る作品に大差なし。作る材料・道具・並びに科学技術の発展によって作品は変われど、作る人間の資質は6千年経過しても同じだろうと思う。それくらいいつの時代の作品も素晴らしい。
これを作ったのは「陶芸家なのか?」「奴隷なのか?」「普通の労働者なのか?」「農民なのか?」「失業対策なのか?」兵馬俑も陵墓も万里の長城も国家的事業であり、これで国の経済が回り、人々が生計を営み家庭を持ち次代に子孫を繋ぐ。
始皇帝は国をどうやって治めていたのかなあ。やはり力による強権政治で、圧政だったのだろうか?例えそうであっても下々の民はそれなりに上手く人生を楽しんでいたのではと思う。ピリピリしてるのは互いに寝首を掻こうとする権力欲ある者やその地位にいる者たちだろう。栄華の裏に緊張あり。間違えば一族皆殺しだから。
今もこの一号坑のなかで日々修復作業をしている。欠片をジグソーパズルのように当てはめて一個の兵馬俑を完成させる。1974年3月29日農民が発見し現在までに8000体が確認されているとのことだがこれからも延々と発掘修復が続くのだろう。作ったのも気が知れないが、これだけあれば修復もうんざりだろう。 -
帰国後“Google・Map”を見て
ふ~ん こんな感じなんかと分かる
①は一号俑坑
兵馬俑から陵墓へは専用バスで移動した -
兵馬俑坑手前で再びゲートあり
観光客の多い時は人 人 人の行列だろうなあ -
一号俑坑に近づいたら人も多くなってきた
兵馬俑自体は写真で見ているが
全体の雰囲気はこの場に来て初めて分かる -
兵馬俑一号坑
いよいよ入場「一体中はどんな景色?」 -
そうか、こんな感じか、なぜか?驚きもなく感動もなく
それは想像していたイメージと大差がなかったからだと思う
広いので居並ぶ兵馬俑が小さく見えた -
ひたすら兵馬俑を作り続けて得るものは何?
食えず使えず役立たず
制作者たちの人生やいかに -
2200年以上の時を経て 姿を現した兵馬俑
21世紀の見学者たちが周囲を囲む -
兵馬俑は分業によって作られ
70万人以上の職人と労働者が従事し
軍隊を作るのに40年掛かった
兵馬俑を作った理由と作り方
https://www.arachina.com/xian/attraction/qshbmy.htm -
一号坑に入り2000体の兵馬俑とご対面
2200年の時を経て・・・ -
今も日々延々と続く復元作業
兵馬俑復元作業で一生を終える人もいるのかも? -
一号俑坑 復元作業現場
お宝あり過ぎも大変 -
兵馬俑一号坑
9時47分に入って→10時18分に出た
31分間、一号坑内にいたのか・・・ -
一号の次は二号ではなく三号俑坑へ入る
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■三号俑坑・二号俑坑・陳列廰
30分ほど一号坑を見学して出て来た。次に三号坑に入る。ここは規模は小さい。10分足らずで出た。そして次に二号坑へ、ここは三号坑よりだいぶ広いが一号坑より兵馬俑坑自体は小さい。そして修復済みではなく、まだ瓦礫のように埋まった状態の多い兵馬俑坑だった。
ここでは一号坑より多くの修復作業員が作業をしていた。ここで作業する人たちは学者レベルなのか?それともここに来て見習い修復から始めるような感じなのか?坑の隣にケースに入った兵馬俑の展示ブースがある。
間近で兵馬俑が見ることが出来た。手相まで鮮明に描かれている。靴底の細かな模様にも驚きだ。顔も表情も動きも一体一体がすべて違うオリジナル作品。今の陶芸家に作らせたらこの一体作るのにどれくらいの時間が掛かるのだろう。展示の中には彩色が今も残っている兵馬俑もあった。
そして二号坑を出て次に入ったのが隣にある「陳列廰(ちんれつちょう)」
兵馬俑も凄いが、この場に来て私が一番感動したのは紛れもなくここに展示されていた「一号車」「二号車」二台の「四頭立て銅馬車:中国では銅車馬」
「えっ~!ホンマかいや、これを紀元前に作ったのか?信じられんわ。」“Dさん”が「今のトヨタ車と変わらない。違うのはエンジンがないだけ」と、この馬車の精緻さ、精巧さを語っていたが実物を前にして「ホンマや、エンジンがないだけや凄い」
この展示馬車は「複製品」と表示されていたが、本物もこれと同じはず。発見時の写真をみれば納得する。下記HPに詳しいが、そこに書かれているように朝一番に入場すればまず最初にこの馬車を見たほうが良さそうだ。人が一杯になれば“ゆっくり”見れない可能性も。
秦始皇帝陵博物館(兵馬俑)の銅馬車
http://www.e-asianmarket.com/xian/bingmayong01.html
今までいろんなところでいろんな展示品を見て来たが、紀元前に作られた「二分の一模型」のこの銅馬車を見た瞬間衝撃を受けた。文明の始まりから今も人間のレベルと言うのは差なく科学は発展しても人間そのものの進化はない。この馬車を見て改めてそう思う。
そして最近やはり展示品で感動した物がもう一つある。それはこの西安に来る前、遣隋使の小説「姫神」安部龍太郎(著)を読み5月16日(木)福岡県の宗像神社と大島に日帰りの旅をした。
その時、宗像神社「神宝館」で見た神の島:沖ノ島で出土した黄金の指輪。小説「姫神」にフィクションの物語としてだがこの指輪のことが出て来る。実際に女性が嵌めていたであろうリアルで小さく精巧な指輪を目の当たりにして感動した。
もうすぐ69才、今までもこれからも感動と感激を探し求めて生きる。「やりたいとやる」「行きたいと行く」とは大違い。そして旨い物を美味しく食べ、家族皆健康であれば最高だ! -
三つのうち最小 ここの兵馬俑68体はすべて将校
三号俑坑は司令部跡のようだ -
こんなに地下深くに兵馬俑を並べていたのか?
それとも2000年という歳月が、その上に土砂を載せたのか?
遺跡はなんでも土砂が積み重なり徐々に地下に埋まる -
三号俑坑の次に二号俑坑に入る
建物外部は工事中 -
二号俑坑は展示場というより復元作業場のようだった
この場で多くの作業員が発掘しながら復元していた
作業員は頭に青色のナイロン袋、青色手袋をはめている
厳重管理の下に慎重にパズル合わせ -
土に埋まっている瓦礫と化した兵馬俑
当時は名人芸のような陶工職人が大勢いただろう
彼らをどのように競い合わせていたのか?
職人たちの日々の生活は如何に?
いろんなことの想像は尽きない -
二号俑坑に隣接の展示場
ケースに入った兵馬俑をまじかに観察 -
手のひらの手相までくっきりと
作れば作るほど細部にこだわり
作品としての完成度は増したはず -
靴底の模様も、鎧の彩色も鮮やかに残っている
秦時代の職人たちの立場がどうであろうと
どんな状況下で制作していたのか知らないが
この作品群を見れば、作る楽しさはあったのでは? -
高級軍使 将軍俑との説明
なるほど堂々たる体躯
右手人差し指に作者のこだわりがある!
2200年前の想像をするのは面白い -
元はこんな木の枠組みの下に兵馬俑はあった
木が腐り土が覆いかぶさり兵馬俑は崩れて行った -
二号俑坑を出て最後に入った秦始皇帝 陳列廰
この内部に展示されていた銅馬車に驚愕す! -
一号銅車馬
この二台の銅馬車(車馬)を見た瞬間に鳥肌が立つ
展示物で感動は、今年5月に見た「神宝館の指輪」に続く
68才の人生で展示物を見て感動したのはこの二つ -
宗像神社「神宝館」
神の島:沖ノ島で出土した黄金の指輪
遣隋使の小説「姫神」安部龍太郎(著)にフィクションだが
この指輪のことが出て来る。実際に女性が嵌めていたであろう
リアルで小さく精巧な指輪を目の当たりにして感動した -
二号銅車馬
精巧さ リアルさ 完成度の高さ これが紀元前の作品か?
人間なんて昔より今が偉いのではない どの時代も同じだ
猿人時代と比較すれば違いがあるのかも・・・だが -
細部に至るまでリアルで精密
“Dさん”曰く
「今のトヨタ車と同じ、違いはエンジンが積んでないだけ」
ここに入る前に言ってた言葉に見て納得だった! -
ただ残念なのは「複製品」との説明書き
「手を加えていないだろうなァ~」との疑念湧く
理由はここが ここだから -
まあ多分そんなことはないと思うけど
兵馬俑も勿論一見の価値ありだが
この車馬の見落としは西安観光に禍根を残す
人が多い時は“ゆっくり”見れないらしい -
銅車馬に感激し “ゆっくり”二周回りながら
じっくり見たつもりが 10分ほどの短時間だった
兵馬俑観光も終わった -
博物館入口まで来た道を戻るはずが
“Dさん”の顔でショートカット
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■秦始皇帝陵墓へ
「秦始皇兵馬俑博物館」に9時から11時過ぎまで2時間ちょっと滞在し、次に向かう。“Dさん”が何やら公園係員と相談、来た道を戻らずショートカットの道で最初の博物館入り口前まで戻った。
ここから専用シャトルバスで秦始皇帝陵へ向う。バスが動いて数分で到着。陵墓は遠くから眺めるだけの観光だった。ツアー一行もシニア世代ばかりなので暑い中、兵馬俑見学で結構歩き皆疲れていたようだ。ボチボチ観光。
秦始皇帝陵墓
『秦の第一代皇帝である始皇帝は紀元前210年に亡くなり、陵墓の中心に葬られています。始皇帝は皇帝となった時から陵墓の建設を始め、38年の歳月と70万人の刑徒を動員し、自分の墓を作らせた』とのこと。
周代(紀元前1046年頃)~唐代(紀元907年)の1900年に渡る長き間、しばしば長安は国の都になっている。故に陝西省には陵墓が沢山ある。秦始皇帝陵も樹木生い茂った小高い丘にしか見えないがグーグルアースで見れば一目瞭然ピラミッド同様「四角錘」の綺麗な形だ。
司馬遷(前漢時代)が記した歴史書「史記」によれば『地下宮殿は地下深く穴を掘り、銅を敷き詰め棺を納め 珍宝が墓室を満たし盗掘を防ぐための仕掛けが設けられている。』とある。地下宮殿は巨大であろうと推測されているが発掘は未だなされずその予定も今はないそうだ。
兵馬俑の発掘修復だけでも今後どれくらいの時間と費用が掛かるのか?想像に絶するのに西安市内もそうだが掘れば宝物だらけのこの地において、発掘予定がないのは十二分に理解できる。無理して雑にせず未来に宝を残しておけばよい。
秦始皇帝陵博物院「麗山園」
「ふ~ん、これが秦始皇帝陵・・・か」と前方の小高い丘をしばし見ていた。同じ一人の人間として生まれても奴隷と皇帝 人の運命・境遇は様々だ。まあ奴隷はなんとか忌避したいが庶民ならば良し。幸不幸はすべて心の持ちようでありそれなりに楽しむぞ。
そしてここにジュースの自動販売機が設置されていた。中国でこんなもの見た記憶がないし珍しかったので試してみた。何を買ったか忘れたがツアー一行の注目を浴びながら紙幣投入。飲み物は「5元と7元」10元紙幣を入れてもなかなか感知せず。紙幣もよれよれだし紙幣感知センサーも難儀だろう。
二、三度紙幣を入れ替えたら感知し、欲しいジュースの番号を入力したらジュースが間違いなく出て来た。お釣りも硬貨で出て来た。“Dさん”に「冷えてないでしょ」と問われたが「いや、それなりに冷えてますよ」と返事をした。紅茶だったと思うけど美味しかった。 -
こんなところを歩いて博物館入口まで戻る
ツアーご一行年配者や足の悪い方もいて
“Dさん”も何かと気を使う -
秦始皇帝巨大像が立つ
何でも作ればそこに賄賂あり? -
兵馬俑博物館から陵墓へは専用バスで移動
バス満員になれば出発
動き出したと思ったらすぐ陵墓入口に到着 -
また歩いて始皇帝陵墓を眺めに行く
秦始皇帝陵博物院「麗山園」の入場門が前方に -
写真右側後方の墳丘が始皇帝陵
上から見ればピラミッドと同じ四角錘型
陵墓はこの辺りから眺めただけ -
中国に来て初めて飲み物の自動販売機を使う
1998年以来、中国には20回目の旅行
記憶になく、たぶん初めてだと思う
ちゃんと冷えたジュースが出た -
華清小学校正面「華清坊」
https://goo.gl/maps/yYzF7dtpBWskEo4E9
華清池のすぐ近くで昼食タイム
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■昼食は回転一人火鍋!
ちょうど始皇帝陵で12時になり、次は昼食へ。予定表には「火鍋料理」とあった。バスに乗って向かった先のレストランは次の観光地「華清池」傍にあった。華清小学校正面「華清坊」入口右に曲がって二階にある「菜鮮堂」
「回転自助火鍋」・・・日本の回転寿司と同じ仕組みで食材が回っている「一人火鍋」こんなの初めて見た。新鮮野菜・きのこ類が豊富で他に練り物・豆腐・ウィンナー、「豚しゃぶ」が特に旨かった。大満足、一人旅なら絶対来れない。食事付きツアーは大概美味しい所に案内してくれる。
食事休憩で気分一新。そこから歩いて「華清池」入口に向かう。途中古~い城壁らしきがありその土壁沿いに歩く。“Dさん”に「この古い城壁はいつの時代の物?」と聞いたら「唐代のもの」というので「えっ~、ホンマに」と驚いた。その城壁らしき土壁は遺跡としての説明の表示はなかった。 -
ここの二階に「菜鮮堂」がある
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回転寿司ならぬ回転火鍋
「菜鮮堂回転自助火鍋」
前には中国人客がずらりと並んで食っていた
へぇ~、こんな感じなのか? -
美味い!おいしい!
日本でもこれなら流行るのでは?
鍋のタレは、お好みに応じて多種類あった -
“Dさん”曰く「この壁は唐代のもの・・・」
「華清坊」から「華清宮」への道にこの壁あり
唐代のものなら当時の日本人もこの壁沿いを歩いたはず
壁にそっと手を触れる -
華清宮 見取り図
図左上にある「五間庁」に蒋介石が滞在していた
1936/昭和11年12月12日の早朝襲撃される
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■華清宮・華清池(かせいち)
この「華清池」は元々の名称は「温泉宮」歴代王朝が離宮を作っていた。玄宗と楊貴妃のロマンの地であり毎年10月~春まで避寒のためにここで過ごしたと言われている。行幸の際は警護を含め多数を引き連れて来ていたそうだ。
そんな場所なら阿倍仲麻呂(唐名:朝衡・晁衡ちょうこう)他、来唐日本人も来ているかも・・・。驪山(りざん1302m)の麓にあるこの華清宮。ここは中華人民共和国誕生の原因となった「西安事件」の現場でもある。
1936/昭和11年 蒋介石国民党軍が延安に逃げた毛沢東:共産軍を追い詰め『共産軍の殲滅はいまや最後の5分間の段階にきている。各自はこの機会を逃すことなく、勇敢迅速に行動してほしい』と、蒋介石は西安で開いた軍議で将軍たちに述べている。
だが当初蒋介石を支持していた張学良が「剿共(Ji?・o g?・ngジャオゴン、共産党を倒す)が嫌になった」として1936/昭和11年12月12日 この華清池の五間廰に滞在していた蒋介石を拉致する為に襲撃。蒋介石は脱出し裏山の中腹の岩陰で一人身を隠すも発見され西安に連行された。
監禁された蒋介石は張学良の要求を当初強硬に拒絶したが最後には『周恩来の説得に応じる?』『蒋介石の息子の蒋経国が留学中のソ連に政治的人質に捕られ、帰国を条件に国共合作を認めた?』などだが真相は不明。蒋介石も張学良も一切語らず死す。
国共合作によって国民党軍と共産軍は共闘体制になり日本を敵としての戦いが始まる。この二ヶ月前の10月には日本の川越大使との会談で蒋介石は「中日友好」を力説していた。
張学良のこの企みがなくこの時共産軍が殲滅されていたら蒋介石国民党の下で支那事変も収束を迎えていたかも知れない。そうであれば今の共産党独裁国家:中国は有り得ずチベットや新疆ウィグル・内蒙古の悲惨な現状もないはずだ。西安事件は世界の歴史を動かした一大事件と言える。
もっとも盧溝橋から始まる支那事変もスターリンの指令『ソ連コミンテルンによって、蒋介石と日本軍を戦わせて両者を共倒れさせることにより、中国の共産革命を成功に導くよう、指令を与えていた』と言われている。
昔も今も将来も国と国の裏での駆け引きはすさまじく謀略・策謀の限りを尽くして自国の利益、権力者の利益と自尊心を満足させることに最大限の精力を使う。「平和」とか「友好」とかは空々しいだけで現実世界では有り得ず。
胡適(こてき 北京大学学長。戦後は米国に亡命後1957年に台湾に移住)
「西安事変がなければ共産党はほどなく消滅していたであろう。・・西安事変が我々の国家に与えた損失は取り返しのつかないものだった」と述べている。 -
張学良の愚かな企みで悪の帝国:中華人民共和国が生まれた
もし西安事件がなければ今の世界はまた違っていたはずだ
共産主義は人類に害を及ぼすだけだ -
華清宮内の五間廰
ここに蒋介石が滞在していた -
早朝五間廰襲撃前に蒋介石は山に逃げたが
赤丸辺りの岩陰に隠れていたが発見され捕まる
この事件がなければ
一党独裁中共は成立しなかったはずだ -
驪山(りざん1302m)の麓にある華清宮
玄宗と楊貴妃の避寒地
当時は多くの供を引き連れ
さぞかしこの地は華やかだったのだろう
阿倍仲麻呂他来唐日本人もこの温泉を楽しんだのかも?
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■華清宮・華清池
「華清池」の全体像も分からず入園する。建物は皆1949年中国建国以後に再建されており「玄宗・楊貴妃のテーマパーク」のようなものだ。“Dさん”のあとに続いて歩き、最初に目にしたのが豊満な楊貴妃像。「ギリシャ彫刻のようで、えらいグラマーやなァ」だった。
そして左側に建つ楊貴妃専用浴室「貴妃池」に入場。日本語の説明もあり「海棠(かいどう)の湯」とあった。海棠っって?帰国後ネット検索『中国原産の落葉小高木。花期は4 - 5月頃で淡紅色の花を咲かせる。』とある。ネットの凄さに驚嘆ばかり。
「湯舟は海棠の花の形」なるほど。元々通りの再現なのか?どれくらい修復されているのか?分からないが、見ればなるほど「貴妃湯」に見える。権力争い(安史の乱)に巻き込まれ、哀れ自害なのか殺害されたのか?皇帝に寵愛されながらも、その皇帝に守られることなく32才の若さでこの世を去った。
「貴妃池」を出て次は皇帝:玄宗専用と伝えられている「蓮華湯」に入る。大理石のプール。温水プールなら納得だが、一人風呂としてこんな広さは無用の長物だろうと庶民は思う。
次は隣の「星辰湯」へ。
星辰の湯の日本語説明には『644年に作られ「太宗皇帝 李世民」専用風呂で湯舟が七つあり一番大きいのは山や川の模様が描かれて皇帝の身分を示し、湯舟は北斗星の形で気魄の大きさが感じられます。』
「尚食の湯」
『唐の時代に作られ、御膳を作る人たちをはじめ、皇帝の生活を面倒見る人たちが使った風呂場です』
風呂場を10分ほどで巡って出て来た。紀元前の秦の時代兵馬俑や銅馬車を見れば、昔々といっても今と変わらぬ人々の生活があることが良く分かる。科学や医学の発展で便利になったり長生き出来るようになったのだろうけど、これなら唐代にタイムスリップしても適応できるかも。
「華清池」には「打毬(ダーチュウ D?・ qi?・):ポロ」の競技場もあったそうだ。小説「翔べ麒麟」にもチームも沢山あり試合の盛り上がりなど競技の盛んな様子が書かれている。玄宗皇帝もポロの名手だったようだ。朝貢(阿倍仲麻呂)も試合を見たのか?それとも競技者だったのか?
“Dさん”が背後に聳える驪山の中腹を指さし「あそこの岩陰に蒋介石が隠れていた」と教えてくれた。蒋介石が居た「五間廰」は「星辰湯」の東隣の建物なのに、その時私は不覚にも見ることかなわずだった。
出口に向かう途中、黒塗石碑に白地の書体を刻んだ石碑が並べている一画があった。様々な書体で書かれた文字。書道をたしなむ者なら書の評価もある程度出来るのだろう。でも“ど素人”の私が見てもどれも見事なりと感じた。
日本人の書いたものが後列だったが半分くらい占めていた。これも「西安碑林」の一つなのかも。68才にして習いたいものの一つに書道がある。でもまだ教室に行っていない。書道にカラオケ・・・死ぬまでに習うぞ。
出口近くに「梨園」あり。“Dさん”いわく、ここが日本歌舞伎の梨園の語源となったようだ。「え~、なんでやねん?」
『中国の唐時代、玄宗皇帝は、宮廷内の梨を植えた庭で、音楽や演劇の脚本などについて自ら弟子に教えました。そして、その弟子を「皇帝梨園弟子【こうていりえんでし】」と称しました。この故事から、江戸時代の漢学者が歌舞伎界をさして梨園と呼ぶようになり、それが定着したといわれています。』
ふ~んそうなのか。こんな所(「華清宮」)に梨園があり歌舞伎の梨園を知ることになった。何でも知らぬより知ってる方が良い。入口出口のすぐ傍に梨の木の植わった「梨園」があった。 -
華清宮の全景
-
園内のステージ
長恨歌野外舞台劇「長恨歌ショー」が開園される -
ここにも中国人観光客が沢山来ていた
兵馬俑→華清池は定番コースだろう -
楊貴妃専用浴室「貴妃池」
日本語の説明もあり
「海棠(かいどう)の湯」とあった
湯舟は海棠の花の形 ふ~ん -
続いて皇帝:玄宗専用「蓮華湯」へ
みんな何を思いながら入って行くの?
ツアーでの旅は物思いにふける余裕もなく
ただ後に続き写真を撮るのみ -
この浴槽跡は発掘され復元されたのかもだが
建物がこれじゃあ浴室って感じではないし
当時の温泉宮はどんな様子だったのだろう -
「星辰湯」へ
この星辰湯の左隣に蒋介石滞在の五間廰があったはず
この時はそんなことも意識なく 見ることもなく 残念 -
星辰の湯の日本語説明
-
644年に作られ「太宗皇帝 李世民」専用風呂
専用風呂って こんなデカイ浴槽 よう分らん -
「尚食の湯」
『唐の時代に作られ、御膳を作る人たちをはじめ
皇帝の生活を面倒見る人たちが使った風呂場です』 -
皇帝専用風呂の隣に 雇い人の風呂って・・・か
こんな説明も正直ピンとこない -
楊貴妃裸像
このグラマーな楊貴妃像は作者の好み?
痩せてるよりいい -
碑林があった
それも日本人書いた物が半分くらい -
日本人の作品
左側の署名 上に日本国は読めるけど -
梨園
ここが「歌舞伎界の梨園」の語源の元
玄宗皇帝 自らがこの梨を植えた庭で
音楽や演劇について弟子に教えた
その弟子を「皇帝梨園弟子【こうていりえんでし】」と称し
この故事から、江戸時代の漢学者が歌舞伎界をさして
梨園と呼ぶようになり、それが定着したといわれている -
この「華清池」には「打毬(ダーチュウ):ポロ」の競技場もあった
ポロは馬に乗って行うホッケーで玄宗は得意だった -
14時25分 華清池を出る
入場は13時45分 滞在時間40分 -
華清池の次に行ったお買い物巡り「絨毯店」
スタッフ一同日本語達者
誰かが玄関マットを購入した
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■お買い物「絨毯店」
午後2時半頃「華清池」から出発。西安に戻って、とある絨毯店に、ツアーに付き物「お買い物タイム」 バブルの頃なら日本人客も上客だったのだろうけど。その後失われた20年デフレと将来不安で財布の紐は誰しも緩まず。
壁にずらっと掛けた絨毯を背に流暢な日本語で説明をしてくれる服務員も大変だ。それでも粘って声掛けをしてくる。その商売熱心には頭が下がる。何人かが玄関マットなどを購入したようなので助かる。
30分ほど買い物休憩タイムで店を出て、青龍寺へと向かった。 -
国宝 「空海筆 金剛般若経開題残巻」
https://www.narahaku.go.jp/collection/v-649-0.html
空海 弘法大師
https://true-buddhism.com/history/kobodaishi/
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■空海
バス乗ったと思ったらすぐに到着。絨毯店は青龍寺の近くだった。当初の日程表では興慶宮公園だったのだが“Dさん”が「公園は朝の賑やかな風景を見た方が楽しいから・・・」と変更してくれた。
日本人、いや私にとって「青龍寺は空海」となる。高野山・真言宗が我が家の宗教であるので、青龍寺はそのルーツのような気がする。空海は774年奈良時代に生まれ、804年(平安時代)31才の時に長期留学僧として遣唐使船に乗り唐に向かう。
四隻で5月12日、難波津(大阪)を出航、博多経由、7月6日長崎五島市から入唐の途についた。空海の乗船した第一船、最澄(38才)乗船の第二船は中国に到達、第三船は座礁するも乗船者は太宰府に帰還。第四船は行方不明となった。
第一船は大きく航路を外れたが8月10日福州の海岸に漂着。海賊の嫌疑で足止めされたが空海が書いた理路整然とした福州長官への嘆願書によって遣唐使と認められ唐に赴く。そして漂着から四ヶ月後の西暦804年12月23日長安に入った。最澄は長安には行かず天台山で天台教学を学び翌年日本に帰国、後に比叡山に延暦寺建立、天台宗の開祖となった。
空海は留学前から中国語が出来、長安に入ってからサンスクリット語もマスターしたようだ。805年5月空海は恵果和尚の師事を仰ぎに青龍寺を訪れた。『恵果和尚は空海の優秀さを初対面で見抜き、即座に密教の奥義伝授を開始し、空海は6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂(かんじょう)、7月に金剛界の灌頂を受ける』
空海も凄かったのだろうが、それを見抜いた恵果和尚も凄い。多々いるまな弟子ではなく突如現れた日本人僧に自分の持っている全てを伝授しようとした恵果和尚。その恵果和尚は空海に出会って七ヶ月後の12月15日(60才)に亡くなった。
『空海は6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂(かんじょう)、7月に金剛界の灌頂を受ける。』『8月10日には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。』
『8月中旬以降になると、大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われた。恵果和尚からは阿闍梨付嘱物を授けられた。伝法の印信である。』『元和元年(806年)1月17日、空海は全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草した。 』
出会ってからの一連の経過を見れば初対面当初から和尚は自らの余命を認識していたとしか思えない。そして空海に国を越え密教の奥義全てを託そうとしたのだろう。まさにギリギリのところで託すべき人間に出会えた恵果和尚、その期待をしっかり受け止めた空海。
これ以上の人間ドラマはあるだろうか?と思う。時に西暦805年、今から1214年前のことだ。その青龍寺に我は来た。当時の物は何もないが空を見上げれば同じ空がある。時は経ても紛れもなく同じ空間に立つ。それだけで私は十分感動する。自己満足であり、それが旅というものだ。 -
高野山
Wikipedia
『平安時代(816年)に嵯峨天皇から空海(弘法大師)が下賜され
修禅の道場として開いた日本仏教における聖地の1つである
現在は「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心とする宗教都市』 -
青龍寺 東門
唐代の青龍寺がどのような寺であったのか?
この地が真に青龍寺跡なのか?
私にはそんなことはどうでもよく
この地に空海が来て青龍寺で学んだという
その事実だけで十分往時を偲んで感動する
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■青龍寺
青龍寺には雁翔路に面する東門より入る。ここでもそういう決まりがあるのか専属ガイドの女性が来て説明してくれた。 青龍寺には空海が長安に来た30年以上後の840年、円仁(慈覚大師)も学びに来ている。840年に即位した皇帝:武宗が道教に傾斜し仏教や外来宗教に対する弾圧を行なうようになった。
その「会昌(かいしょう)の廃仏」によって青龍寺は845年廃毀された。その翌年846年に武宗が33歳で崩御し弾圧は収束するが、唐の衰退もあってすぐに再建はされず。852年「護国寺」としていったん復興するも唐末5代の動乱で「都」長安は寂れ姿を消した。
『1973年に塔の土台と殿堂の跡が発見され、1980年代には日本の四国4県と真言宗関係団体の寄付により、空海記念碑、恵果空海記念堂などが建立された。』・・・記念堂は日本寺院の建築様式で建立され瓦も日本からの輸入との説明だった。
空海記念碑は立派だった。日本寄贈とはいえ恵果和尚を差し置いてのこの大きな碑の建立を許可してくれたのは時代背景による日中関係の事情があるのだろう。碑の両側にある球形の石の四方の穴は四国4県を表しているとのこと。
ちなみに四国八十八箇所 お遍路巡りは弘法大師ゆかりの寺で真言宗ばかりだろうと思っていたが、天台宗・時宗・臨済宗の寺もあるようだ。
空海記念碑を見て次はガイドさんに陳列館に案内された。最初の部屋では写真撮影OKだったが、次の部屋に入る前に「内部の撮影は禁止です」との注意。「ふ~ん、なにがあるの」と何も疑問に思わず入った。そこには高名な?書道家の書いた掛け軸がずら~と並んでいた。
そしてまた日本語流暢な男性が掛け軸の説明を始めたが、徐々に話の内容がここで販売する掛け軸の購入が如何に得かの説明になる。なるほど西安のツアー一行相手の商法なのか・・・。面白いけど、私は無論買う気なし。一人が掛け軸購入したので良かった??
そして次の部屋で記帳を求められ筆に墨を付け住所氏名を記入。空海・円仁他多くの日本僧が来ただろう青龍寺跡。気分も高揚し丁寧にだけど下手な字を記念に記す。
そこに達筆の書道家あり。その方の手書きの「般若心経」の経本販売もしていた。その他線香等々の仏具などの販売も。我が家は真言宗→真言宗の開祖は空海→空海と青龍寺→その青龍寺に来た。
値段はマチマチだったが恵果和尚と空海の離別時の絵が描かれた200元?(たぶんだけど、忘れた)の経本を購入。その場でその書道家の方が「青龍寺 参拝紀念 長安〇〇 令和元年六月十日」と墨書きしてくれた。それと青龍寺の僧の手作り線香を買った。これが我が土産なり。
次に行ったのが「恵果空海記念堂」 空海が恵果和尚から学んだ場所である元青龍寺東塔院跡に建立されている。日本国真言宗各派総本山会が浄財を募り弘法大師入定1150年を記念して1984年建立された。
『入定(にゅうじょう)とは、真言密教の究極的な修行のひとつ。永遠の瞑想に入ることを言う。日本で最初に入定したのは空海で、空海は死んでおらず現在も高野山で入定しているというのが、空海が居住している高野山の公式見解である。』・・・今も一日二食を運んでいる。
寺院から経を唱える声が聞こえていた。中に入ったら五人の男性僧と一人の女性が僧衣をまとって鐘と太鼓を鳴らしながら勤行の最中だった。その経を詠む声といいスリッパ履きの格好といいクオリティーが低すぎる。哀れ恵果和尚なり。
あまりの不甲斐なさに唖然とするしかなかった。「この僧たちは三軍なのか?バイトなのか?そこらの“おっさん”に僧衣を着せただけなのか・・・」と、とても高僧・阿闍梨という雰囲気はない。これが宗教を認めない共産党一党独裁国家、文革を経ての中国の姿なのだろう。
最後にガックリ来たけど、現状の様子を見れて良かったかも。まあ仕方がない。祈念堂を出て出口に向かう。途中さっきの坊さんの内一番若い僧に出会う。“Dさん”が顔見知りなのか立ち止まって話をしていた。
この若い僧は毎年のように高野山に研修のような感じで行くそうだ。「へェ~そうなん」と驚いた。大人しそうでにこやかな笑顔の青年僧。その顔と姿から気迫溢れる学び僧の感じは皆無だが人の良さは感じた。“Dさん”によれば、この青年は出家僧として生涯妻を娶らずのようだ。
仏教の「十戒(じっかい)」によれば「不殺生」「不偸盗」「不淫」「不妄語」「不飲酒」等々、「生き物を殺さず、盗まず、性行為をせず、嘘をつかず、酒を飲まず」などの禁止事項があるが、私の知る範囲の日本の僧は「肉も食べ、結婚し、酒を飲む」ことも普通だ。
確かに僧と言えど普通人と同じく、結婚し家庭を持ち子を育ててこそ、他の人の悩みにも適切なるアドバイスが出来るはず。厳しい修業とは無縁のように見えたにこやかな青龍寺青年僧の今後の幸せを祈る! -
ここでも日本語ガイドが説明してくれた
「1980年代には日本の四国4県と真言宗関係団体の寄付により
空海記念碑、恵果空海記念堂などが建立された」
それは・・・1980年代の日本のバブル景気の始まりの頃かも?
バブル景気「1986/昭和61年12月~1991/平成3年2月」 -
日本の寺を思わす建築様式の門を潜った先に
空海記念碑がある -
ゼロ番札所の碑
青龍寺が四国八十八ヵ所巡りの起点となった -
立派な空海記念碑
1980年代、中国はそのころまだまだ貧しく
まだ日本に対しても友好を前面に出しての関係だった
この碑もバブル景気のお陰だと思う
バブル景気は良かった!再来を期待す! -
日本国空海記念碑建立実行委員会捐贈(寄贈)資料」
日本の援助による青龍寺再建当時の陳列館の展示品 -
陳列館は販売コーナー
青龍寺お前もか・・・入室写真禁止は販売の合言葉
土産なんか見向きもしない私が
線香とこの般若心経本を購入した
まあ ええか -
空海が学んだ青龍寺
一体どんな容貌 体格 雰囲気 だったのか?
写真のような人物画を何故残さなかったのか
似顔絵が抜群に上手な画家もいたはずなのに? -
正面が「恵果空海紀念堂」
赤色の祈願札がぶら下がってる -
初めて見た「バーコード賽銭投入口」
まだ見たことないけど日本にもすでにあるようだ
「お賽銭をキャッシュレスで
電子マネーに対応した神社も登場」
フムフム 長く生きると世も変わる -
堂内ではちょうどお坊さんの読経タイムだった
見て 拍子抜け ガッカリ そうか こんなんか
ただ だらだらと経を詠む 坊主キョロキョロ
恵果・空海も この状態を知ればなんと思う -
空海真言密教八祖誕生
真言密教には一祖~八祖(空海・弘法大師)までがいる
七祖は恵果阿闍梨
恵果は、805年に空海に出会うや半年で密教の全てを伝授し
授け終わってすぐ60歳で逝去 恵果の弟子1千人、高弟六人
そのなかで空海が選ばれ恵果和尚の碑文を起草した -
恵果空海紀念堂
バブル景気の頃に日本の四国四県の援助で建立
その後世の経済低迷と言えど食うにも暮らしにも困らず
https://bluebird-story.com/qinglongsi/ -
歩かないと境内の全容も掴めず
広そうだけど -
午後5時13分 青龍寺前の雁翔路の風景
空海 青龍寺滞在から1200年後
同じに地に立ってなに思う
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■今日の夕食はビャンビャン麺
午後5時13分、1時間ちょっとの参観を終え青龍寺から出て来た。向かったのは夕食のレストラン。日程表には「西安名物ビャンビャン麺をご賞味下さい」と書いている。場所は「陽光大劇院(阳光大?院)」のレストラン。
午後5時44分、入り口を入ったら唐代の民族衣装を着た女性が立っていた。いつものように二つの丸テーブルに17名が分かれて座り夕食タイム。次々に回転テーブルの上に料理皿が並ぶ。不味い物はない。私の口には十分美味しいものばかり。
「ジャンジャン麺」もその内の一つで、これが主役、メーンと言う物ではなかった。「えっ、これがジャンジャン麺」幅広、汁なし そんなに美味くもなかった。やっぱり日本の「きつねうどん」の方が旨い。
午後6時40分 食事を終わりホテルに向かう。ホテル着は6時50分。レストランからバスで10分足らずだった。さあ、いよいよここから自由時間。オプションでは「大唐芙蓉園と西安の夜景観賞¥280元」だったが私は不参加。
明日の夜は歌舞ショーのオプション観光に申し込んでいるので、自由時間はこれが唯一。行き先は「大明宮(たいめいきゅう) -
「陽光大劇院(?飜光大?院)」
この中のレストランで夕食 -
丸テーブルに 赤椅子は中国の定番
いつものように二テーブルに別れて座る
メンバーはそのたびに適当に座るけど
一人参加三人の“おっさん”は同じ -
ビャンビャン麺もあったけど
ほぼいつも通りの内容で美味しかった -
唐代?の衣装を着た看板女性が立っている
人は国も親も時期も選べずこの世に生まれ出る
折角生まれた以上幸せを掴もう 何があっても -
唐:長安図
http://www.iobtg.com/C.Xian.htm
今の城内は唐の長安城の10分の一
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■自由時間に大明宮へ行く
『唐の都・長安の北東にあった宮城。634年に建設を始め663年に太極宮からここへ朝政を移し、以降904年までの240余年にわたり17人の皇帝が起居し政務を執る唐王朝の政治中枢となった。太極宮、興慶宮と共に長安の“三内”を成す。』
『1957年より遺跡の発掘が始まり、現在その跡地は大明宮国家遺跡公園として一般に開放されている。含元殿(がんげんでん:ハンユェンディエン H?・n yu?・n di?・n))は、玄宗が臨席した753年の元旦朝賀の儀式で日本の遣唐大使の藤原清河と副使の大伴古麻呂が新羅の使節と席次を争った故事の舞台として日本では良く知られる』
「753年元旦朝賀の儀式で日本が新羅と席次を争った故事の舞台」
752年、藤原清河は11or12回目の遣唐大使として唐に入り、副使の大伴古麻呂は「長く新羅は日本に対して朝貢を行っていることから席順が義に適っていない」として抗議し、日本と新羅の席を交換させた。
当時、阿倍仲麻呂「朝衡(ちょうこう)」は、すでに唐滞在35年で唐の高官になっていた。小説「翔べ麒麟」は、まさにこの藤原清河大使と二人の副使大伴古麻呂、吉備真備の遣唐使出発から始まり朝衡の唐での半生を描いている大作。
小説には遣唐使の護衛士として随行した20歳の若武者:藤原真幸(ふじわらのまさき)の活躍が描かれている。架空の人物だが740年「藤原広嗣(ひろつぐ)の乱」で死罪になった広嗣の庶子(しょし:妾の子)との設定だ。
小説「翔べ麒麟」の前半は753年の元旦朝賀が果たして「洛陽で行われるのか?」「長安なのか?」等々も含めての日本と新羅の駆け引き、せめぎ合いをいろんな人物の登場下にドラマを繰り広げる。
藤原清河、阿倍仲麻呂たちは、鑑真を同行し753年四隻で日本への帰途に就く。『藤原・阿倍の乗った第1船は出航直後に座礁、その後暴風雨に遭い安南(現在のベトナム中部)に漂着、現地民の襲撃に遭いほとんどが客死する中、清河と仲麻呂らは755年に長安に帰還。その後は唐に使える。二人は日本に帰国叶わず没す』
第二船に乗っていた鑑真は無事に来日を果たす。第三、四船も漂流 火災などを乗り越えて無事帰着。日本に戻れなかった藤原清河は唐で結婚し「藤原 喜娘(ふじわら の きじょう、生没年不詳)」という娘をもうける。喜娘は778年日本に帰国するがその後の消息は不明。 -
大明宮
753年元旦朝賀の儀式で日本が新羅と席次を争った故事の舞台 -
小説「翔べ麒麟(上・下)」 辻原 登(著)
西安に行く前に読めば面白い -
ホテルを出て東大街を東方向に歩く
地下鉄の駅は「大差市站」
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■地下鉄で大明宮を目指す
大明宮へはホテルから地下鉄に乗って行くことにした。一番近い駅は「大差市站」降りるのは“Dさん”に聞いたら「含元殿站がいい」とのこと。午後7時に部屋を出て東大街を東に歩く。フロントの服務員に聞いたら「歩いて10分くらい」
やっぱりツアーのバス移動より、初めての土地を不安を感じながらも一人探して歩くのが私の旅。10分程歩いて「あった!」と西安での初地下鉄乗車に向かう。まず切符を買う所から「どうやればええんや・・・」自動券売機に挑戦もギブアップで窓口で購入。含元殿站まで2元だった。
大差市站ホームに降りたらホームの両側に行き先表示があるので助かる。二つ目が含元殿站。二つ目でも歩けば“Google・Map”ルート検索では5キロ1時間ちょっとかかる。
降りても出口方向も定かではなく案内図を見て地上に上がった。「大明宮国家遺址公園」は分かるが公園の全体はまったくわからない。途中に「全景図」があったのに、その時は「入って行けば分かるやろ」とちゃんと見なかった。
今思えば全景図をもっとじっくり見て公園全体を把握すべきだった。何故じっくり見なかったか?それはその時すでに午後7時40分頃になっており暗くなる前に建物の写真を撮っておきたかったから。焦っていた。
公園は広かった広すぎた。散歩する人たちが沢山往来している。どっちに行けば再建されたメーンの建物があるのか?私の事前知識は写真で見た「丹鳳門」くらいで有料の遺跡公園がどこなのかも分からず。まあどっちにしても午後6時に有料公園は閉園なので入場は無理だけど。
徐々に日も暮れ公園を把握するのは諦めて広場に出た。広場に出て西方向を向けば左手に丹鳳門、そして右手側に含元殿の復元された基礎石部分があった。丹鳳門から含元殿まで600mほどあり大きな広場になっている。小説「翔べ麒麟」に西暦753年の元旦朝賀のこの広場の様子が次のように書いている。
(抜粋)
『大明宮丹鳳門前の広場は、すでに数千の人波で埋まっている。烏合の衆ではない。王公、親王、貴族、高官、諸州の長官、外国使節団、九品以上の官僚らである。皇帝と妃、皇女をのぞく在京のとびきりの貴顕(きけん・身分が高い)がすべてここにせいぞろして、きらびやかな馬車をおり、元会儀礼の始まるのを待っているのだ。』
含元殿遺址を背に広場を丹鳳門方向に歩いていると午後8時頃振り向けば含元殿遺址がライトアップされた。そして巨大な丹鳳門も輝いた。多くの遣唐使が遥か昔命懸けでこの場に来て世界に日本の存在を示し、世界の情報を得て帰国し日本の国づくりに生かした。そうか、ここが長安か!
丹鳳門のそばで歌声が響き周りを聴衆が囲んでいた。近づいたら若い女性が固定した自撮りスマホでライブ中継をしていた。歌としゃべりは周りを囲んでいる聴衆にではなくスマホを見ている不特定多数相手へのメッセージ。
一人ではなくスタッフもいて簡単なライトも設置していた。テレビやラジオに出演せずとも自分から何でも発信できる世の中になっている。声も映像も文章も・・・何でも。この旅行記もフォートラベルにアップすればネットで見れる。でも一体いつまで?子孫に残す遺言のつもりなのに・・・。永遠なるものはなにもないけど。
歌は上手だった。汗をかきながらの熱唱と何を話しているのか分からないけどしゃべりは軽快で迫力満点。しばし聴衆の一員として見てすぐにファンになった。そして自由行動の目標を達成し満足感に浸りながら帰路につく。
ここで迷っていたら遅くなるので降りた駅を目指して歩く。大差市站に降りたのは良いけど地上に出て、東西分からずちょっと反対方向に歩いてしまった。早めに気ずいたのでホテルに9時過ぎに戻れた。
朝5時前から長安初日の充実の一日は終了。そして明日の一日で観光は終わり・・・か。スマホ歩数計では「26173歩;19.3キロ」 -
無事に10分ホテルから徒歩10分で駅に到着
どこでも初めては着くまで不安 -
自動券売機で買えず窓口で
カードと同じ大きさの乗車券 -
プラットホームに行き先表示があるので
どっち側に乗れば良いのか分かる -
この時間車内は若者の姿が多い
スマホ片手に立つ姿は世界共通かも -
含元殿(ハンユェンディエン H?・n yu?・n di?・n)で降りて
大明宮国家遺址公園内に入ったが広すぎて戸惑う
全景図を見ても良く分からず -
含元殿の復元図
-
含元殿遺址の復元基礎のライトアップ
元旦朝賀の儀にはこの広場が多数の人で埋まった
その中には遣唐使として来唐した日本人もいた
阿倍仲麻呂も何度この広場、そして含元殿に入ったことか
ここが長安! -
含元殿を背に丹鳳門を写す
これが門?とにかく大きい
広場は広い -
丹鳳門近くで一人の女性のパフォーマンス
スマホカメラでライブ放送中のようだった
周囲を囲む人たちより視聴者に語り掛けていた
汗だくで熱くしゃべり 歌も上手だった
ずっと見ていたかったけど・・・ -
復元された丹鳳門
復元度はいかに?
当時の門を忠実に再現しているのか
それとも適当に復元しているのか -
午後8時ともなるとやはり暗くなる
疲れたし帰路につく -
午後8時45分 含元殿のプラットホーム
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車内は喧騒もなく やはり若者が多い
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スマホ歩数計では「26173歩;19.3キロ」
明日に備えて就寝
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