2020/01/07 - 2020/01/10
1593位(同エリア4764件中)
明石DSさん
マカオには音吉物語があった
『「にっぽん音吉漂流記 」春名 徹 (著)』
『海嶺(上下)三浦綾子(著)』
『「海商 異邦の人ジョン・M・オトソン 」柳蒼二郎(著)』
中古本を購入し読んだ
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2020:令和2年1月7日(火)~1月10日(金)
3泊4日
1日目:1月7日(火):雨のち曇り
出発・関空からマカオへ
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2020.令和2年1月7日(火)
■はじめに
69才42回目、60代最後の海外旅行。年齢とともに「遠く」「長期間」の旅は億劫になり「戦跡巡り」という我がテーマも年々テンションが下がる。あ~大東亜戦争は遠くになりにけり。かくしてどこに行こうか?と、思いついたのがマカオ。マカオといえば「香港マカオの旅」お手軽旅行という感じでしかなかったが、そうではなかった。
日本との結びつきは深く濃い。行くことを決めてから人生初めてマカオのことをボチボチ調べた。そして「三吉」という「岩吉・久吉・音吉」の三人の日本人とマカオとの関りを知った。いつものように「へぇ~、こんなことがあったのか・・・」と。マカオに行かずば三吉のことなど知らないままの人生だった。
なんでも知らないより知った方が面白い。体験経験は人生百年頑張ってもたかだか知れている。しかし歴史から知り得ることは無尽蔵だ。小中高を通じて勉強なんて嫌で仕方がなかったが、旅をし旅行記を書くことによって自ら学ぶ。これが勉強と言うのだろうフフフ。
尚
私の旅行記は「ウィキペディア」「ネットのブログ」「小説」他、引用抜粋は引用先を明記したりもあるが『』だけの部分もある。「パクリ」といえば全てがパクリ、生まれた時は何知らず。今まで真似とパクリで知識を得てきた。自分が作った言葉なく、私自身の世に知られた発明もない。私のパクリ旅行記の内容で「間違い」「文句」あれば連絡を乞う。訂正・削除します。
そして旅行記をフォートラベルにアップする以上、一人でも多くの人に読んでもらいたいけど、私自身は「これは旅行記にあらず。子孫に残すわが遺言であり能書き」と思ってる。子孫の誰かが読んでくれれば・・・そして、一人でも私が行った場所を訪ねてくれれば万々歳だ!
そうは言っても「フォートラベル」消滅の時はやむおえず。この世に永遠なるもの何もなし。マカオの旅、思いのままを書き連ねる。いつものように同じ事を百回でも千回でも。
- 旅行の満足度
- 5.0
PR
-
マカオ三泊四日の旅
費用総額:計110,832円なり -
正月明けの雨の中、マカオへ向かう
ルンルン気分ではない、緊張してるのだ -
今日も関空アクセス ベイシャト駐車場は一杯
暖冬というレベルではなく異常気象となった
この先、地球の運命や如何に? -
えっ!最終便欠航
明日はすでに始発から欠航決定とは・・・。
最近は台風到来でもないのに強風が吹く -
“おっちゃん”の見送りを受けて船は出航
小さいころ神戸港に移民船ブラジル丸の見送りに行った
涙・涙の見送り風景 別れのテープがすごかった -
うみをゆくそら
関空岸壁に到着
ここからバスでターミナルへ -
搭乗手続きカウンターは相変わらずの人出
貧富の差は人の差だが幸不幸は一致せず
貧しい国ランキング
https://world-note.com/poor-countries-ranking/
裕福な国ランキング
https://world-note.com/rich-countries/
マカオは裕福な国の第三位(カジノ収益によって)
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■関空からマカオへ
フライト情報の電光掲示板で搭乗手続きカウンターを「E」だと確認し目指す。すでに行列が・・・「ここでええんやろなァ」と確かめつつ並ぶ。15分ほどで順番が来て「窓側席」を頼んだ。トランクを預け、手荷物検査、出国審査を経て38番搭乗口到着は12時29分。空港内に入ってから46分後。出入国審査は厳格であらねば・・・やっぱり飛行機は離陸2時間前には来るのも今は仕方なし。
搭乗ゲートに辿り着いて約1時間、昨日急遽購入した「「地球の歩き方・マカオ」を読んで過ごす。マカオ行きを決めてからいつものように関連本をアマゾン中古書で何冊か買った。音吉たちのことを書いた『海嶺(上下)三浦綾子(著)』『「にっぽん音吉漂流記 」春名 徹 (著)』『「海商 異邦の人ジョン・M・オトソン 」柳蒼二郎(著)』
他に『「マカオの歴史」 東光博英(著)』『「マカオ歴史散歩」菊間潤吾(著)』『「マカオ物語」浅井信雄(著)』等々。しかし出発間際になり何か不安と物足りなさを感じて「地球の歩き方」を買いに行った。当初マカオは「香港マカオ編」で香港のおまけのようなガイドブックと思っていたが本屋に電話すると「マカオ」で一冊というので即座に買いに行く。
買って良かった。手に入れて良かった。歩き回る私には必携のガイドブックであり「¥1600円+税」も、その価値十二分にある。片手にこの本を手にしマカオ市内を歩き回った。午後1時20分搭乗開始。「マカオ航空 NX855便 Airbus A320orA321」真中通路左右三座席。私の座席は「17F]右窓側。ラッキー乗客は8割方だったが真ん中空席。
席の前が狭く膝が当たりそう。これで前席の人に「リクライニングを倒されたら嫌だなあ・・・」と心配したが杞憂に終わって感謝。13:50分定刻を5分過ぎて離陸。轟音を轟かせ大空に巨体が一気に上昇、私は窓から下界を覗く。雨の関空、覗けどほぼ下界は薄ぼんやり。雲の上に出てやっと青空が広がった。 -
38番ゲートより搭乗開始はまもなく
運命を共にする人たちとマカオまで
未だ生死の危機に迫られたことなし -
マカオ航空 エアバス機
飛行機の安全性は素晴らしい
めったに落ちない 不思議なくらい -
座った瞬間に感じた窮屈さ
なんでなん?この狭さは
前席の女性リクライニングを倒さず、感謝 -
今日も大勢の人たちが関空からマカオへ
グローバル化の行く末は究極の弱肉強食時代が到来する
そんな時代を幸せに生き抜くためには?
強者になるしか道はない -
エコノミー席は狭い空間だが
真ん中空席にホッとする
通路側の女性は、日本人ではなかった -
雲の上に青空がある
祖父母も父母もこの景色を見ることなく世を去った
明治・大正・昭和、昭和生まれの私がやっと見てる
昭和・平成・令和、昭和生まれの私が見れない景色とは? -
1832:岩吉・久吉・音吉たちの宝順丸が漂流する
1837:マカオからモリソン号で日本へ
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■マカオって?
旅前の私の知識は、香港の隣の「ポルトガル統治の都市」「世界遺産」「カジノ」「金正男が住んでいた」くらいのもので歴史的な日本との関りもあるようだが何も知らずだった。マカオに行くことになっていつもように日本との関連を調べだした。まず見つけたのが「マカオと三吉」。
三吉とは現在の愛知県知多郡美浜町に生まれた「岩吉28才」「久吉15才」「乙(音)吉14才」の三人の日本人船乗り。彼らの数奇な運命に興味津々となった。江戸時代後期1832年(天保3年)、明治元年1868年の36年前の11月3日、米や陶器を積んで江戸に向けて出港すぐに遠州灘沖で嵐に遭遇、一年四ヶ月の漂流をして米国西海岸フラッタリー岬に漂着(1834年初頭)した。乗組員14名のうち生きていたのが三吉の三名だけ。
インディアン:マカ族に救われ奴隷同然に半年ほど過ごし、その後イギリスのハドソン湾会社に引き取られ「フォート・バンクーバー」→「ハワイ」→「ロンドン」を経由して1835年12月中旬「マカオ」に上陸。ひたすら帰国を待ちわびながらドイツ人宣教師カール・ギュツラフのもとで世界初の日本語訳聖書作りに協力しながら日々を過ごす。
三吉たちがマカオで暮らしたギュツラフの家は「カモンエス公園」のすぐそばにあった。そして奇しくも三吉たちがマカオに上陸する同年1月、今マカオの象徴ともいえる聖ポール天主堂が火事となり壁だけが残った。1837年7月三吉たちは日本を離れ5年、マカオ滞在一年七ヶ月、のちに薩摩から同じく漂流民としてマカオに保護されていた四人と計七人で念願の帰国へアメリカ商船「モリソン号」でマカオから日本に向かう。
しかしながら世に「モリソン号事件」とあるように鎖国下の江戸幕府の徹底した「異国船打払令」によって浦賀沖で砲撃され、続いて向かった鹿児島湾でも同様で上陸叶わずマカオに舞い戻る。それからは最年少の音吉はアメリカへも一時渡り、その後上海で英国デント商会で活躍。最後はシンガポールで亡くなるが最初の妻(英国人)とは死別、その後シンガポール系の女性と再婚一男三女を授かる。
イギリスに帰化し「ジョン・マシュー・オトソン (John Matthew Ottoson)」 と名乗った。日本が明治になる前の年、49才で亡くなったが波乱万丈の人生を過ごした音吉の物語が一時期このマカオであった。音吉は何度も通訳として日本に上陸はしている。息子は音吉の遺言によってその後日本に帰国した。娘の子孫は今も美浜町で旅館を経営している。『「音吉」・Wikipedia参照』
他にもマカオでの遠い昔の日本人の足跡が多々あった。ポルトガルは1557年マカオでの海賊(倭寇)平定に功があり「明」からマカオの居住権を獲得した。「中国、日本とヨーロッパとの中継貿易港、キリスト教布教活動の拠点としてマカオは発展」そして1582年、長崎から天正遣欧少年使節が17日間の航海を経てマカオに到着10カ月ほどをここで過ごした。
1601年には少年だった四人のうち三人は日本に帰国後再度マカオに来て神学の高等課程を学んだ。1614年江戸時代に入り徳川幕府はキリスタンの国外追放を命じ百名以上の日本人キリスタンがマカオに逃れてきた。そのうちの一人「原マンション」は『1629年10月23日に死去。遺骸は(正面のファサードのみ残る)マカオの大聖堂の地下に生涯の師アレッサンドロ・ヴァリニャーノと共に葬られた。』
マカオでその日本人たちが暮らしていた名残もあり、壁だけ残る聖ポール寺院建築にも日本人が関わったようだ。マカオへの旅はそんな日本人の足跡をめぐる旅となる。三吉たちが暮らしたギュツラフ邸の傍の「カモンエス公園」、日本人の集落だった「茨林園」、日本人が作っていた味噌や醤油に関連するのか?「豆醤里(Beco do Misso・ミソ)」という名前の路地。「長崎街」の名前の道。そんな場所を探して歩くつもり・・・。 -
三吉たちはマカオで三年余り暮らす
その後 音吉は成功し英国籍を取得
シンガポールで没する -
天正遣欧少年使節とマカオ
1582年 出航
1590年 帰国 -
伊藤マンショ自画像
慶長17年(1612年)11月13日長崎にて病死した -
Wikipediaより抜粋
1586年にドイツのアウグスブルグで印刷された、天正遣欧使節の肖像画
タイトルには「日本島からのニュース」と書かれている。
「右上・伊東」「右下・千々石」
「左上・中浦」「左下・原」
「中央・メスキータ神父」 -
2年ほど前からどの飛行機に乗っても
機内食が美味しくなった
それまではコンビニ弁当の方が良かったけど
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■マカオへ
関空を離陸後1時間足らず日本時間14:34分機内食が配られた。機内食をあてにして昼食は食べてなかったので待ち遠しかった。「チキンorポーク?」でチキンを選ぶ。今回の機内食も十分美味しかった。飛行機は雲海の上ばかり機外の景色もほとんど見ないでマカオ上空にやってきた。4時間ちょっとでも窮屈な空の旅は私には我慢が必要だ。
日本との時差マイナス1時間。現地時間午後5時空港に到着。さあいよいよマカオ一人旅の始まりだ。私にとって緊張のない海外旅行はない。「No3」の手荷物受取場所で出てきたトランクを取り、すぐそばにあった両替所で「空港はレートが悪い」という予備知識で5千円だけ換金する。レート「0.0699」マカオ・パタカ¥395.5だった。
でもこの後でホテル近くの街角の両替所で2万円を換金したら「0.0673」で空港の方が良かった。空港到着17:07分に機外に出て、トランクを受け取り入国審査を通り抜けツアー客を待ち受けるガイドが居並ぶ到着出口に出たのが17:21分。14分の短時間で出てこれた。 -
飛行機に搭乗してこそ
この景色が見れる
美しい -
日本時間13:50関空離陸
マカオ時間17:00マカオ空港着陸
関空→マカオ 3時間50分 -
初めてのマカオ
迎えなく
ホテルまでどうやって行こうか
そんなことを考えていた -
赤いバンドの小さい茶トランク
機内持ち込みのリュック旅が多かったけど
このところトランクでの旅になった
一ヵ所定点旅行なのでトランクでもいい -
手荷物受取所横の両替所
予備知識で空港の両替所はレート(0.0699)が悪いということで
5千円だけ両替 ¥395.5パタカ
でも街中の小さな両替所の方がレート(0.0673)は悪かった -
どことも同じ光景の到着出口
「朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや」
空港・波止場・プラットホームにドラマあり -
ホテルまでどうやって行こう?と迷っていたが
この大きな案内表示で「よし、これで!」と
案内に勇気づけられた。感謝!
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■マカオでの宿「ホリデイ・イン マカオ」へ
「さあどうやってここからホテルに行こう?」と考えながら外に出たら「酒店専車:ホテルシャトルバス」の案内表示が目に入り「よしこれで」とそっちの方向に向かった。シャトルバス専用停留所にいたスタッフと思しき若い男性に「ホリデイ・イン マカオ (Holiday Inn Macau)」をプリントした紙を見せて「このホテルのバスは?」とジェスチャーで問うと知らないようで首を傾げた。
「ホテル・リスボアは?」と言ったら「アッチ」と指をさして教えてくれた。すぐにリスボアホテルのバスが来たので何食わぬ顔で入って座る。50人くらいの観光バスに乗客10名ほど。「17:32分」バスは出発。空港からマカオ半島へは西端に架かる西灣大橋を通った。車窓から「マカオタワー」そしてマカオでの私のランドマークになった“けったいな形”の「グランド・リスボア・ホテル」が見えていた。
そして珠江口(ジュゥジャンコウ:Zhūjiāng kǒu)の夕陽が美しかった。他の乗客もその夕陽を写真で撮っていた。今は誰しもスマホを持ち写真を撮る。そしていつでもだれでも世界中にその写真をSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を通じてアップできる。それによって収益を得ることも出来る。 私も実はユーチューバーの端くれだ。
自分が作った仕事の宣伝動画や旅動画をYouTubeにアップし、それを見た人から仕事依頼がある。宣伝させてもらっておまけにお金までもらえる。4年前から新規のアップはしていないのに今でも年間5万円を超える金額の振り込みがある。こんな有難いことはない。最初に広告が付いて振り込みが始まり入金を確認した時は万歳した。
新規アップをしてないので段々アクセスも減り入金も減ったが、それでも年間5万円超えのお金をもらえるなんて・・・。残念ながらこういったものはすべて外資のなせるものでその恩恵を被りながらありとあらゆる情報を握られ首根っこを掴まれているのだ。趣味嗜好思想信条行動なにもかも握られている。殺すも生かすも彼ら次第。果たしてどう洗脳されているのか?もはや不明なり。 -
「ホリデイ・イン マカオ」のシャトルバスは不明
でも「ホテル・リスボア」は「あっち」と即座に指示あり
頻繁に出てるようだった。ただ並んで自由に乗るだけ -
カジノ収益が巨額?なので細かいことはなし
誰がどういう理由で乗ろうがお構いなし
途中下車なし、終点がホテル・リスボア前というだけ -
西灣大橋を渡る
マカオタワー、その右に変な形のビル
変な形はホテル「グランド・リスボア」
マカオでの私のランドマーク -
西灣大橋を走る車内からの夕陽
なぜ?美しいと思うのだろうか?
物欲はない感動を求めている -
バスはホテル・リスボアの玄関前に停まった
ホテルを背に前を写す
「金碧?樂場」・・・カジノがあった
マカオはカジノだらけだった
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■「ホリデイ・イン マカオ」
空港から16分、17:48分ホテル・リスボアの玄関前にバスは停まった。何食わぬ顔で下車しホテル玄関方向に向かわず歩く。このホテルが明日朝の半日マカオ観光オプショナルツアーの待ち合わせ場所なので、自分のホテルである「ホリデイ・イン マカオ」までの道は「Google・map」ルート検索で調べてきた。
「ふ~ん、これがマカオか・・・」金ぴか娯楽場(カジノ)があって色形とりどりの高層ビルが立つ。路地に入れば中国大陸同様の店舗が並ぶ。歩道は歩道として機能し歩道上の駐車もない。そして驚いたのは車のハンドルが右で日本と同じく左側車線を走ってた。香港は英国の植民地だったので英国と同じなのは知ってたが、ポルトガルも?
と、思って調べたら「世界の左側通行の国・右側通行の国の一覧」 ポルトガルはハンドル左、車は右側通行。世界では圧倒的に左ハンドル・右側通行が多いようだ。
https://www.traveltowns.jp/rentacar/side-of-the-road/
ホテル方向に歩きながら小さな両替店を見つけて2万円を両替する。計1741パタカでマカオ四日を過ごした。今回の旅では「1パタカ=日本円14円」とする。
両替店の並びですぐ傍だった「ホリデイ・イン マカオ (Holiday Inn Macau:澳門假日酒店:Àomén jiàrì jiǔdiàn)」に18:00分無事到着。9:04分自宅出発から9時間56分で異国のホテルに着いた。五百年前と今、今と五百年後を思えば地球どこでも瞬間ワープも実現してもおかしくない。
ホテルロビーカウンターで「旅工房」のホテル・バウチャー(Voucher)を提出。服務員の若い女性が英語で私に問う。「听不懂(Tīng bù dǒng)分からない」と中国語で返事しても英語で返ってくる。互いに分からないままでやりとりが続いたが、そのうち彼女が「信用卡・Xìnyòngkǎ」と中国語で言ったので「クレジットカード」を出せというのが分かった。
日本で旅工房にツアー料金全額振り込んでいるのに?何でと「???,我在日本已?付?了(ホテル代は日本ですでに払ってる)」と言うと、また英語で何か話してきたが「听不懂」というと「押金・Yājīn(保証金)」というのでやっと分かった。「そういえば、説明にそんなことが書いてあった」と思い出す。
マカオでの旅では私が外国人だと思えばまず相手は英語で語り掛けてくる。こっちが拙い中国語で問い掛けても真剣に聞いてくれない。流暢ならそうでもないかもだがマカオに一人で旅するなら「まず英語くらい話せよ・・・」という感じだった。海外を旅するなら英語が少しでも出来た方がいいといつも思うけどなァ・・・。
部屋は服務員の「喫煙部屋ですが」という問いに「いいですよ」と言って26階の19号室「2619」カードキー2枚を受け取りエレベーターへ。このエレベーターもカードキーを最初に挿入しないとボタンが反応せず上には上がらない。以前どこかで学んだので慌てず対応。
そして部屋に入った瞬間「アカン、この部屋こんなにタバコの臭いが強烈なんか!」と焦った。「これじゃあ気分悪くて寝れないかも・・・」と、すぐにロビーに降りてさっきの服務員に「部屋替えて」と頼んだ。すぐ調べてくれたけど「今日は空きがないので明日替えます」とのこと。
20年前くらいなら日本でもどこに入ってもこんなタバコの臭いがしていたと思うけど、最近の日本ではこんなタバコの臭いの強烈な部屋がないのでビックリした。仕方なく部屋に戻って小休止。部屋は広くてバスタブもありで文句はない。
出掛ける準備をしているうちに段々臭いに慣れてきて「もうええわ、部屋替えるの邪魔くさいし」と、この部屋に三泊した。そして部屋を出て向かった先は、「長崎街」との名称が付いた通り。日本人の足跡巡りの一つ。「ホリデイ・イン マカオ」から近いので地図も持たずデジカメだけ持参して部屋を出た。 -
どんな形の高層ビルも建てれる時代になった
建築設計者は楽しいだろうなァ 形はなんでもありか
作る方は大変だろうけど
若き頃、断熱保温工事の丁稚奉公だったことがある
施工の順番では最後だったのでなにかと大変だった -
ホテル傍の両替店「百匯兌換」
ここで2万円の両替をした
空港内よりレートは悪かった -
迷わずホテルに到着ホッとする
マカオ空港着陸17:00
ホテル到着18:00
1時間でスンナリ到着 -
26階19号室「2619」
入った瞬間 強烈なタバコ臭
「アカン、無理やこの部屋」
と、思ったけどすぐに慣れてきた -
バスタブがあったのでラッキー
透明ガラスで部屋から丸見え
一応シャッターも降ろせて見えなく出来る -
ウオシュレットの普及はまだまだ先か
もう日本ではウオシュレットなしは有り得ない
幼き頃ボットン便所で新聞紙だった
バキュームカーもなく柄杓で便ツボから汲み取り
天秤棒を担いでトラックに足場板を掛けてタンクに入れていた
道にはしずくが落ちまくり臭かった -
長崎街を探してホテルを出て東に歩く
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■ホテル近くで夕飯を食べる
時間は午後6時半(日本時間7時半)まだ夕食を食べてないので「長崎街」を探す前にホテル近くの「聚鮮居」という食堂に入る。メニューが写真掲示されてたので焼きそば風の「南昌炒粉」指さして頼む。
まごまご注文する外国人の来店に店のお姉さんが私に「韓国人or日本人(コリアン?ジャパン?)」と英語で聞いてきた。私は「リーベンレン(日本人)」と中国語で返事した。日本人だと言うと大概ニッコリ微笑んでくれる。大陸中国でもそうだ。
「韓国人?日本人?」と聞いて来るときは、みんな「日本人だろう」と思いながら質問してくるのだと思う。そして日本人ということを確認すると誰もが微笑んでくれるのは日本や日本人に好感を持ってくれているのだと思う。私は少なくともそう感じる。日本人が嫌いな奴は聞いてこないはずだ。
絶対先に「韓国人か?」と聞いてくるのが面白い。今まで数えきれないほど聞かれたが「日本人か?中国人か?韓国人か?」で「日本人か?」が先になったことはない。日本人か?が先になるのは単独の「日本人か?」の時だけだ。
マカオは日本人観光客も沢山来るだろうが、この小さな大衆食堂に入って来る日本人は珍しいのかも。日本人と分かって早速そこにいたお兄さんが「ありがとう」と日本語の練習。私も応えて「謝謝・ありがとう」「再見・さようなら」と日本語を発する。
焼きそば風の「南昌炒粉」はピリ辛で美味しかった。コーラと合わせて¥61パタカ(¥854)。この食堂では物価の高さは感じない。腹ごしらえをして東に向かって歩いた。 -
北京街と交わる上海街(南⇔北)
-
ホテル前の道は北京街(東⇔西)
-
夕飯がまだだったので、この店
「聚鮮居」に入る -
メニューも写真入りなので助かった
焼きそば風の「南昌炒粉」を頼んだ
店のママさんに「韓国人or日本人?」と聞かれた -
南昌炒粉(焼きビーフン)、ピリ辛で味はまあまあ
コーラと焼きそばで満足す -
長崎街 発見!
アズレージョの通り名標示 なんか美しい
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■長崎街
大体この辺りだろうと思っていると案の定「長崎街」の表示板を見つけた。
案内表示はタイル張り。アズレージョ (ポルトガル語:azulejo)という「上薬をかけて焼かれたタイル」でポルトガルの文化ここにあり。通りの名前が「長崎街」だった。昨日急遽手に入れた「地球の歩き方・マカオ」に「長崎街という日本語をルーツとする通りもある」と書かれていたので「日本人の足跡なのか?」と思っていたが・・・。
帰国後分かったけど、この辺りは「40年ほど前に埋め立てた新興エリアで通りに世界各地の都市名が付けられている」ということのようだ。なるほど「Google・map」を見れば「?敦街ロンドン」「??街ローマ」「巴黎街パリ」などの名前ばかり。といってもその中に「長崎街」という名前を付けてくれたのは日本人として嬉しい。
でもその時は「この辺りに日本人が暮らしていたのだろう」「ふ~ん、当時はどんな風だったのだろうか?」と往時を忍びながら旅の一歩を楽しんでいた。そしてそこからの帰り道「セブンイレブン」に入って「水とジュース(¥16.5パタカ)を買って袋代1パタカ計17.5パタカ(¥245)」を払った。
部屋に戻ったのは19:30分 日本時間午後8時半。やはり海外旅行の初日は近くといっても遠い、移動で終わる。三泊四日のマカオの旅も正味二日間。明日は午前中「マカオ半日周遊」ガイドさんが案内してくれる。
湯船にお湯をためて浸かる。テレビはNHKが見れるけど、私にとってNHKなんて国賊放送局であり解体ありきの見る気もしないテレビ局。日本と日本国民にとって「百害あって益なし」早く潰せ!さあ明日は歩くぞ! -
長崎街にある萬豪軒
朝9時から開いている飲茶の中華レストラン。
「萬豪軒」
ここで食べれば良かった。残念 -
長崎街(南⇔北)を写す
この時はこの辺りは日本人の「ゆかりの地」なのか・・・と
感傷にひたりながら歩いていたけど・・・
帰国後、埋め立ての新地だったことを知る -
まがい物のセブンイレブンではない
れっきとしたセブンイレブンだ -
「ホリデイ・イン マカオ」に戻ってきた
初日のマカオ観光?これにて終了 -
歩数計は7645歩
『歩くときの1歩はおよそ70cm程度』
ならば
7645歩×70cm=535,150cm
今日歩いた距離 約 5,4キロ -
マカオではNHKが見れた
NHKは一日も早く解体民営化しろ
公営放送はニュース・天気予報・その他災害情報等だけで良い
解説もコメントも不要、奴らの主観が入り偏向が酷い
NHK社員に反日の「在日・帰化人・外国人」を雇うな
明日に続く
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