2019/07/14 - 2019/07/14
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しんちゃんさん
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下野薬師寺の別院として建立されたとして伝えられ、「道鏡塚」「銅造誕生釈迦仏立像」「県指定天然記念物シラカシ」「鑑真和上の碑」等々があるというので見学に行った。
説明版が多々あり、読み応え十分。
「百聞は一見にしかず」一度ご訪問をお勧めする。
遠くて、中々来れない方は「しんちゃんさんの旅行記」で訪問した気になって下さい。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
下野薬師寺跡の「安国寺(薬師寺)」から南南西へ直線距離約650m
「龍興寺」見学
山門です!
境内に入る前に・・・ -
山門前に「守り本尊」の石像がある。
「守り本尊とは・・・生まれ年によって生涯私たちを守護していただけます、ご本尊さまです。ご真言をお唱えしながら、お参りください。」説明版からです。 -
せっかくですから、左側からご紹介します。
子(ね)年生まれ
「千手観音菩薩(せんじゅかんのんぼさつ)」
ご真言
オン バサラ タラマキリク -
丑(うし)・寅(とら)年生まれ
「虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)」
ご真言
オン バサラ アラタンノウ オン タラク ソワカ 以下 略 -
卯(う)年生まれ
「文殊菩薩(もんじゅぼさつ)」
ご真言
オン アラハ シャノウ -
辰(たつ)・巳(み)年生まれ
「普賢菩薩(ふげんぼさつ)
ご真言
オン サンマヤ サトバン -
午(うま)年生まれ
「勢至菩薩(せいしぼさつ)」
ご真言
オン サン ザン ザン サワ ソワカ -
未(ひつじ)申(さる)年生まれ
「大日如来(だいにちにょらい)」
ご真言
オン バサラ ダト バン -
酉(とり)年生まれ
「不動明王(ほどうみょうおう)」
ご真言
ノウマク サマンダ バサラ ダン カン -
戌(いぬ)・亥(い)年生まれ
「阿弥陀如来(あみだにょらい)」
ご真言
オン アミリタ テイセイ カラ ウン -
山門の仁王様
吽形(うんぎょう)像 -
山門の仁王様
阿形(あぎょう)像 -
駐車場には
「大地寶蔵尊(だいちほりぞんそん)」説明版からです
地蔵菩薩は、母なる大地の寶蔵(胎宮)が、 すべての命を生み出し、育み養う力をそなえもつ母性具有大慈大悲の菩薩である。
「一切衆生済度を果たさずば、我菩薩界に戻らじ」との誓願を立てられ、菩薩の中で、唯一出家の姿で六道を行脚し、仏の子供である衆生のあらゆる苦悩を身代わりとなって受けられ、苦難の速いの世界から、大安楽の 悟りの世界へと導き救ってくださる。子供の守護本尊であり、安産成就・子育て 円満の寶力を与えてくださり、また、この世に生を受けることのできなかった子供の魂を父母になり代わって、守り救ってくださる。
ご真言 オン カカカ ビサンマエイ ソワカ -
本堂
Wikipediaによりますと・・・
【薬師寺の跡に建てられ薬師寺不動院の流れをひくという安国寺との間で、天和元年(1681年)から享保4年(1719年)にかけて薬師寺の正統を争う訴訟を起こしている。議論の末、天保9年(1838年)、に「安国寺は戒壇、龍興寺は鑑真墓所を守護する[3]」という合意に達し現在に至っている。 】 -
本堂
龍興寺略?_説明版からコピーです。
「天武(てんむ)天皇が皇后の病気平癒(へいゆ)を願い、勅願(ちょくがん)により白鳳(はくほう)八年(六八〇)祚蓮上人(それんしょうにん)が建立した下野薬師寺の別院であり、聖武(しょうむ)天皇の勅願により戒壇(かいだん)を開いた鑑真和尚(がんじんおしょう)が、天平宝字(てんぴょうほうじ)五年(七六一)の揚州(ようしゅう)龍興寺の舎那(しゃな)殿壇(でんだん)の法を当寺に移し、寺名を生雲山(しょううんざん)龍興寺として開基(かいき)。・・・・ -
手水舎
・・・・・太政(だいじょう)大臣(だいじん)・法王(ほうおう)多削道鏡禅師(ゆげのどうきょうぜんじ)は、宝亀(ほうき)元年(七七〇)八月造(ぞう)下野薬師寺別当職(べっとうしょく)(長官)として着任 したが、宝亀三年(七七二)四月七日歿する。日光開山勝道上人(しょうどうしょうにん)は、天平宝字五年(七六一)栃木出流山(いづるさん)から龍興寺に移住し、四年間の修行の後、天平神護(じんご)元年(七六五)日光へと趣く。
弘法大師空海上人は、弘仁十一年(八二〇)の五月から七月まで龍興寺に逗留(とうりゅう)し、如意(にょい)、恵雲(えうん)等に密教を伝授された。
爾来(じらい)、龍興寺は、六字兼学(ろくしゅけんがく)に加えて真言道場となり、意教流祖(いきょうりゅうそ)頼賢阿闍梨(らいけんあじゃり)や、慈猛流(じみょうりゅう) 慈猛上人(しょうにん)の法脈(ほうりゃく)を現在に受け継ぐものである。」 -
「道鏡禅師(どうきょうぜんじ)の墓所」説明版からです
奈良時代の高僧、道鏡禅師の墓所(道鏡塚)が当所です。道鏡は若くして出家し、葛城山(かつらぎさん)で厳しい修行をし、義淵(ぎえん)、良弁(ろうべん)から法相(ほうそう)を学び、梵文と写経に通じ、如意輪法(にょいりんぽう)・宿曜法(すくようほう)、併せて、薬法や医術にも精通された高徳の僧です。
天平勝宝年間(てんぴょうしょうほう)、宮中?道場(ないどうじょう)の看病禅師となりました。そして、孝謙(こうけん)上皇 の病を療治した功績により、天平宝字(ほうじ)七年(七六三)、少僧都(しょうそうじ)に任じられ ました。
次の年に恵美押勝(えみのおしかつ)(藤原仲麻呂)の乱が起き、道鏡は上皇から大臣禅師に任じられ、乱に勝利した孝謙上皇は、重祚(ちょうそ)して称徳(しょうとく)天皇となりました。新しい政治を進めようとする天皇により、天平神護(じんご)元年(七六五)、道鏡は太政(だいじょう)大臣禅師に引き立てられ、さらに翌年、天皇に准ずる待遇の法王に 任命されました。・・・・・ -
「道鏡禅師(どうきょうぜんじ)の墓所」
・・・・・禅師、宮中に奉職すること十余年、多くの功績を上げましたが、宝亀(ほうき)元年 (七七〇)八月四日、称徳天皇が崩御(ほうぎょ)されますと、同年八月二十一日、 造下野国(ぞうしもつけのくに)薬師寺別当(べっとう)職(長官)に任じられ、平城(なら)の都から遣東(けんとう)されました。禅師は、下野薬師寺に着任後も、各地で積極的に巡錫(じゅんしゃく)や親教(しんきょう)をし、多くの人々を教化(きょうげ)されましたが、宝亀三年(七七二)四月七日、日本三戒壇の一寺であるこの聖地から、天皇のご冥福と、すべての人々の幸せを祈りながら、静かに遷化(せんげ)されました。人々は、これを深く哀しみ、禅師の徳を偲び、すでにあったこの円墳(えんぷん)を墓標(はかじるし) として、手厚く葬りました。私たちは、真実の歴史を探究してこられた先達に敬意を表し、その意志を受け継ぎ、道鏡禅師の更なる顕正をめざしています。
平成二十九年(2017)四月七日
龍興寺
道鏡を守る会
Wikipediaでは
【境内には「道鏡塚」として、直径約38mの円墳が残っている。出土の埴輪から6世紀末頃に作られたと見られる古墳で、元からあった古墳に追葬の形で道鏡が葬られたと伝える。この道鏡塚は下野市指定史跡に指定されている。】 -
栃木県指定 天然記念物
「龍興寺のシラカシ」
樹高20.5m 目通り3.6m
枝張り
東西22.7m 南北17.8m
推定樹齢500年 -
「龍興寺のシラカシ」
-
「礎石(そせき)」_説明版からです。
古代日本の建築様式は、竪穴式住居が主であったが、西暦五三八年に、朝鮮百済(くだら)から仏教が伝来し、五八八年、最初の本格的仏教寺院である、飛鳥寺(あすかでら)(法興寺元興寺) 建立時に基礎石が用いられ、その様式が現在まで継承されており、堂塔伽藍を建立するための土台基礎石である。
この寺の創建当初(奈良時代)の礎石から現本堂(江戸時代)の長い歴史の中で、使用されてきた礎石が一列に並び、円柱や方柱、 中には六角柱の柱形状であったものが確認できるものや、石面が剥れ、火災の痕跡の残るものなどがあり、寺の栄枯盛衰、悠遠長久なる歴史に思いが魅せられる。 -
円柱礎石
六角柱の物は見つけられず! -
「礎石(そせき)」
-
出舟水鉢(でふねみずばち)
水鉢とは手水鉢の略称で、元来、神前仏前で御手を洗い、御口を漱ぎ、身心を清めるための水を確保する器です。桃山時代には茶の湯にも取り入れられ、露地の中に置かれるようになり、「つくばい」と呼ばれる独特の様式が形成されました。
この舟石は、境内西面の五體御手洗の入舟石と、一体であったものが二つに分かれあたかも織姫と彦星が再会したがごとく當寺で邂逅した奇跡の出会い舟石です。
ことらの舟石は、山門に向かって諸々の願いが叶い、願主に届けられる「出舟石」と称されています。(誤字脱字ご了承下さい) -
「大慈大悲母聖観世音菩薩」
-
「五輪北極塔」
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鉢に植えられたハス
-
史跡「雨乞いの池」
龍王権現 吉田ヶ池
「吉田ヶ池」は上池と下池があり、ここは上池です。 -
「吉田ヶ池」上池
「吉田が池」説明版からです。
昔この付近はこんもりとした樹木が生茂っており、池の水は日光の中禅寺湖とつながっていると言われた。どんな日照りの時でも涸れることなく常に水をたたえていた。池に龍神が祭られ、池に住む片目の大きな鯉はその龍神のお使いとして大切にされた。
池は雨ごいの池として、早魃の時には村人たちが集まり、手桶で上の池と下の池の水を汲み出し、八幡宮まで走っていき雨ごいが行われた。その際八幡宮で打ち鳴らす太鼓の音は天にまで響き渡り、必ず雨が降ったそうである。
平成十一年三月
南河内町教育委員会
(南河内町は2006年隣接する下都賀郡国分寺町、同郡石橋町と新設合併して下野市となりました。) -
アメリカザリガニが顔を出してきた。
昨今、田んぼには薬のせいでめっきりアメリカザリガニが減りました。
と言うことより、居ません!見かけません!
アメリカザリガニが生息していると言う事は、「薬害がまだこの池に及んでいない」という事です。 -
本堂裏手
説明版は無かった -
芸術的な塀
-
中禅閼伽井屋(ちゅうぜんあかいや)
仏に供える清水(せいすい)を汲(く)む井戸の覆屋(おおいや)で、東大寺若狭(わかさ)井屋(いや)を原形とする。鬼瓦・蓮弁鐙(れんべんあぶみ)瓦・軒唐草(のきからくさ)瓦は、薬師寺創建時代のものが復元され、艮(うしとら)・巽(たつみ)・坤(ひつじさる)・乾(いぬい)の四方を守護する阿吽(あうん)の龍を配し、特に表鬼門の龍は身を臥(ふ)し、裏鬼門の龍は體(
たい)を翻(ひるがえ)して百鬼の侵入を阻(はば)んでいる。
「閼伽井戸からのお水取りは、東大寺二月堂が知られているが、當(とう)寺も三月十二日に閼伽井屋入口より山門の先に遥拝(ようはい)されます二月堂本尊十一面観世音菩薩にお供えされ、十一面悔過会(けかえん)〔懺悔式(ざんげしき)〕が勤修(ごんしゅう)される。
尚、東大寺若狭井の清水が、福井県若狭川の伏流水(ふくりゅうすい)であるとの伝承と同じく、龍興寺古田ヶ池も日光中禅寺湖より地下水脈で繋(つな)がっており、柄杓(ひしゃく)が浮いた伝承も同じである。
*「柄杓(ひしゃく)が浮いた伝承」ってなんだろう? -
中禅閼伽井屋(ちゅうぜんあかいや)
ぐるりと一回りしたが、入り口の戸が無かった!
どこから入るのだろう? -
中禅閼伽井屋(ちゅうぜんあかいや)の屋根
-
「三国庭(さんごくてい)」
この庭は、天竺(てんじく)・震旦(しんたん)・本朝(ほんちょう)の三国を表現し、釈迦牟尼世尊(しゃかむにせそん)の無上正等覚(むじょうしょうとうしょうがく)の仏法が密教教主 本地法身 大日如来の金剛界・胎蔵界 大曼茶羅(だいまんだら) 方圓不二の万物象輪圓具足し給うを表出し、脈々と三国に渡り、師資相伝されし法燈の行履を顕現する。・・・・ -
「三国庭(さんごくてい)」
・・・・印度は南天鉄塔・ガンジス川・ヒマラヤ杉。中国は大雁塔・五大山・蓬葉松。日本は五重塔・不二山・羽衣松を配す。中央にはシルクロードのタクラマカン砂漠、雨時には幻の湖ロプノール湖が出現する。 -
八葉松(はちようまつ)
申し訳ない、どう見ても、葉は2本であった!
我が家に「五葉松」があるが、葉は5本ある! -
落ちている葉も2本であった。
見間違えか? -
「胎蔵十三層石塔(たいぞうじゅうさんせきとう)」
層石塔は三、五、七、九、十三と奇数が多い。仏教では、割り切れない数が吉祥数(きっしょうすう)として尊ばれる所以(ゆえん)による。以下略 -
「十六善神塔(じゅうろくぜんじんとう)」
-
「鐘楼堂」
-
「増長天」
【仏教の守護神。「ぞうじょうてん」ともいう。四天王,十六善神の一つで,まれには十二天のうちにも数えられる。サンスクリット語の音写で ?楼勒叉天とも呼ばれ,古くからインドの護世神であったが,仏教に取入れられて,須弥山の南方を守護する神となり,南方天とも呼ばれた。須弥壇や,曼荼羅の南隅に配され,忿形の武人の姿で表現されている。持物は一定していないが,普通は右手に剣またはさくを持ち,左手を腰に当てている。十六善神の場合は,『大般若経』を守護する神の一人として金剛杵を持つことが多い。日本最古の像は法隆寺にある。】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説より -
「増長天」
-
境内の飾り?
ほのぼの彫刻 -
一応、「龍興寺」をひと回りしました。
仏教に詳しくなったような気がしました。
でも、直ぐ忘れてしまうでしょう。 -
境内の桔梗(ききょう)
-
境内の桔梗(ききょう)
-
駐車場に石像がまだありました。
「四天王」
四天王(してんのう)とは?
仏像ワールドよりコピーです。
【帝釈天の配下で仏教世界を護る神様です。東方を護る持国天(じこくてん)、南方を護る増長天(ぞうちょうてん)、西方を護る広目天(こうもくてん)、北方を護る多聞天(たもんてん)からなります。 多聞天のみ単独で祀られることがあり、単独では毘沙門天(びしゃもんてん)と呼ばれています。
生前の釈迦の教えを聞いており、釈迦から自分が亡くなった後に仏法を守護するように託されたといわれています。ちなみに、武勇や技芸に優れた4人が「○○四天王」と呼ばれるのは仏教の四天王から来ています。】 -
後日撮り忘れた場所の写真を撮りに行った。
「鑑真和尚碑」
龍興寺北西(駐車場の北側)に「鑑真和尚碑」がある。
お墓群の中、菩提樹(ぼだいじゅ)の下にその石碑はある。
菩提樹を見たのは初めてである。 -
立て札の後ろが「鑑真和尚碑」(鑑真和尚石碑)
説明版からです。
【鑑真和尚は唐代の高僧、日本律宗の開祖で天平勝宝六年(754年)に来朝。
唐招提寺や日本三戒壇(大和東大寺、下野薬師寺、筑紫観世音寺)を建立し、日本仏教のため大きな業績を残された。天平宝字七年(763年)七十六歳にて歿す。傍の菩提樹は、和尚の杖が成長したものといわれている。昭和五十八年十一月】 -
「鑑真和尚碑」北側から眺める。
-
菩提樹(ぼだいじゅ)の実_カメラの調子が悪く、ピンボケしてしまった!
葉の下に、細長い葉に実が数個くっついている。 -
「自治医科大学 聖霊殿」
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「自治医科大学 聖霊殿」
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「自治医科大学 聖霊殿」
説明版をコピーしました。
医の道に
みからだ賜わりし
尊きみ霊
永遠に安かれ
合掌
「自治医科大学 聖霊殿」
聖霊殿は、医学教育発展のために御献体された方々の中で、お引き取りの御遺族がいらっしゃらないご遺骨を納める霊堂で、昭和五十年(1975年)に建立されました。聖霊殿建立当時、御霊に対する慰霊と感謝の意を込めた石碑が建てられましたが、風化により文字が判読できない状態となりました。石碑には、右の文字が刻まれております。
自治医科大学
まだまだ、未投稿の説明版がありますが、これにて一端終了
(誤字脱字ご了承下さい、疲れた!)
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