2012/04/29 - 2012/05/03
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パンダ番長さん
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西安・敦煌の世界遺産旅行の4日目~敦煌から西安に戻り、華清池、兵馬俑の観光~
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<敦煌最後の朝と敦煌から西安への移動>
朝、6時過ぎには目が覚める。
起きる時間を6時30分としていたのでベッド内でそのまま時間を過ごす。
そのうち、再び寝ていたのか、目覚まし時計の鳴る音で目が覚める。見れば、既に冨田君は起きている。冨田君がに顔を洗いに行ったので、私もベッドから出て、冨田君が終わるのを待つ。
私も顔を洗い、着替えを行い、7時前には冨田君と一緒に部屋を出て、1階のレストランに朝食を取りに行く。
朝食場所は昨日と同じで、太陽宮での中華バイキングの朝食である。
メニューなどは昨日と同じである。
<敦煌太陽大酒店内の太陽宮での朝食(中華バイキング)>
①目玉焼き
②野菜スープ
③中華風焼きそば
④青菜の塩炒め
⑤人参の塩炒め
⑥饅頭(肉、野菜入り)
⑦牛肉麺
⑧小饅頭(餡入り)
⑨カステラ風パン
⑩揚げパン
⑪フルーツ(黄桃/リンゴ)
⑫飲物(オレンジジュース)
特に昨日とほぼ同じ料理類なので、同じ様なものを取り、食事を終える。
昨日と違う事は、今日はツアーの人達の出発時間がバラバラなので、レストランで食事を取っている人がいない事である。我々の出発が一番早いからである。
7時30分過ぎには、食事を終え、冨田君と部屋に戻る。
昨晩に殆ど荷物の整理を終了しているので、朝は今日の服装と今日の西安での観光に必要と思われるものなどをリュックに入れ、カメラなどの電池を交換する。
その後、西安で観光する兵馬俑や華清宮などを簡単に冨田君に説明する。私は既にこの2つの西安の観光スポットは行った事がある。
そして、集合時間には少し早いが8時10分過ぎには冨田君と共に部屋を出る。
1階のロビーに行くと、既に馬さんは居る。
朝の挨拶を行うと、「今日は敦煌空港までは、黄という女性が案内します。申し訳ありませんが、私は行けません。」と言われる。
しかし、まだ黄さんという現地ガイドの人は来ていない様だ。
8時20分頃になり、黄さんという現地ガイドが来た。馬さんよりも若い細見の女性である。
馬さんに礼を言い、その黄さんと共にホテルを出る。
今日は冨田君と2人だけなので、乗用車で移動だ。ホテル前の駐車場に止まる乗用車に乗り込み、黄さんと共に敦煌空港を目指す。
朝の敦煌市街は、静かである。あまり自動車も多くない。
今日は5月2日の水曜日で、日本では休日の企業が多いが中国では休日ではない。
昨日は中国もメーデーで、仕事を休んでいる人が多かったのかも知れない。 -
敦煌空港までは20分程である。
ここで黄さんが、「莫高窟はどうでしたか?」と尋ねて来た。
私が、「非常に保存状態が良いのに驚きました。もう少し多くの窟を見たかった事とカメラで写真を撮れなかった事が残念でした。」と言うと、「それでもお客様方はラッキーですよ!まだ、その目で幾つかの窟を見る事が出来たのですから。」と言う。
なぜ、その様な事を言うのかと思っていたら、「今、中国政府は莫高窟保護の為に窟の壁画などのデジタル画像を撮り、そのデジタル画像で見学を行い、直接石窟に入る事を制限する事を計画しています。」と言う。
更に詳しく聞くと、「あと数年後にはもしかすると莫高窟への立ち入りを禁止され、全てデジタル画像での見学のみになるかも知れません。」と言う。
これを聞き、今回、莫高窟の旅行を計画して良かったと感じた。
その様な話をしていると、乗用車は敦煌空港に到着した。
黄さんと共に乗用車を降り、空港ターミナルに入り、搭乗手続きを行う。
敦煌空港は朝の早い時間ではあるが、混雑している。
早々に搭乗便の航空会社である中国南方航空のカウンターに並ぶ。
5分程で順番となり、黄さんが手続きを行ってくれる。
席をどうするかと聞かれるが、特に指定がないので並席になる様にだけお願いする。
搭乗便は、中国南方航空のCZ-6895便である。予定出発時刻は10時25分である。
搭乗手続きも済み、旅行カバンも預け、身軽になる。
敦煌空港は然程大きな空港でもなく、また朝の早い時間でもあり、店も一部しか開いていない。
黄さんに礼を言い、我々は手荷物検査を受け、出発ロビー内に入る。
時刻は9時過ぎである。搭乗予定時間は9時55分である。まだ、1時間近くある。
搭乗ゲートといっても2つしか登場ゲートはないので、その近くの椅子を確保し、そこで搭乗開始まで待つ事になる。
出発ロビー内の売店には特に珍しい土産物はない。
特に何もする事なく、搭乗案内があるのを待つ。今日も敦煌は非常に天気が良い。
ほぼ予定通り、9時58分頃に搭乗が開始される。
搭乗ゲートを抜け、その先の出口を抜け、空港ターミナルの外に出る。
空港ターミナルからかなり離れた先に搭乗する機体がある。そこまでは歩いて行くのである。 -
機体まで行き、タラップで機内に入る。
機体はB737-700型で、行きに西安から乗ったものと同じで、片側3席の1列6席である。
私の席は40Hで機体の右側の真ん中席である。窓側席は冨田君である。通路側の席は現時点では空いているが、誰か来るのであろうか?機内は非常に空席が目立つ。
10時10分過ぎにはほぼ全員が乗り込んだ様だ。
結局、通路側の席には誰も来ないので、私は通路側の席に移動する。真ん中の席を空けた。
10時15分過ぎには機体が動き出す。 -
そのまま、滑走路に向かい、大きな空港ではないので、離陸の順番を待つ事もなく、そのまま離陸体制に入る。そして、10時20分には無事敦煌空港を離陸した。
機体は順調に上昇する。10分も経たないうちに上昇を止め、水平飛行に入る。
丁度、南側には中国西南地方の山々が見える。中国の青海省の山々である。行きの機体からも綺麗に山々が見えたが、今日も綺麗に見えている。
その山々を機内から眺めていると、早々にCAが慌ただしく、動き始める。機内食を準備している様である。今朝は朝食を食べたので、あまりお腹は空いていない。
10時45分頃にCAが機内食を配り始める。
我々も機内食を受け取る。
機内食は行きの西安から敦煌への便でも出たランチボックスの様な機内食である。
<CZ-6895便の機内食:敦煌空港~西安咸陽国際空港>
①じゃがいもと肉団子のうま煮/ご飯
②焼肉(チャーシュー)と高菜漬物
③生きゅうり
④パンケーキと米粉菓子
⑤空豆のおつまみ(袋入り)
⑥ザーサイ(袋入り)
⑦飲物(お茶/コーラ)
お腹も空いておらず、少し食べて殆ど残してしまう。
特にまずいと言う事はなかった。ご飯は殆ど手を付けず、おかずだけを食べた。
11時10分には食事を終え、コーラを飲む。コーラを飲み終え、更にお茶を貰う。
ランチボックスを下げて貰い、少し寝る事にした。
直ぐに寝てしまった様で目が覚めたのは、耳が痛くなった為である。時刻は12時10分過ぎである。
すると、機内にアナウンスが流れた。
もう30分程で西安咸陽国際空港に到着する様だ。 -
程なく、無事に西安咸陽国際空港に着陸した。定刻時間よりも約10分遅れで到着した。
それから、空港内を5分程移動し、空港内のほぼ中央付近に機体が停まる。空港ターミナルはかなり先である。それからまた5分程で機内の乗客が移動を始めた。
機内を出ると、地上にはシャトルバスが2台準備されていた。それに乗客が別れて乗車する。
そして、数分でシャトルバスはターミナルに到着し、そのまま国内線なので、手荷物受取所に向かう。
手荷物も直ぐに出て来た。国際線とは違い、非常にスムースである。
13時過ぎには、荷物を受け取り、そのまま出口に向かう。
出口では西安のガイドの田さんが待っていた。
田さんと合流し、これから昼食に行くと説明を受ける。機内食も食べたので、お腹は空いていない。
向かった先は2日前にも食事を行った国内線内の“絲路餐庁”であった。
お世辞にもここの食事は美味しいとは言えない。お腹も空いていないので丁度良い。
レストラン内に案内されると、レストラン内はあまり客がいない。
我々は厨房近くのテーブルに案内される。そして、飲物を聞かれるが、冨田君も私も何も注文せず、お茶だけをお願いした。
客が少ないせいか、2日前にこのレストランで食事をした際には殆ど料理が残っていなかったが、今日はかなりの種類の料理がある。
皮肉なものである。あまりお腹が空いておらず、どうでもよい食事の時に限って料理が豊富とは?
用意されている大きな取り皿に少しずつ料理を取る。
取って食べた料理は以下の様なものである。
<西安咸陽国際空港絲路餐庁での昼食>
①牛肉麺
②揚げ豆腐/豚肉/白菜/青菜/人参/舞茸/肉団子のうま煮
③烤鳥
④ニラ饅頭
⑤青椒肉絲(チンジャオロウスー)
⑥シシカバブ
⑦卵/ニラ/クコの実などの入ったスープ
うま煮は非常に美味しかったが、それ以外はやはりあまり美味しいものは無かった。
空港での時間がスムースだった為か時間は充分にある様で、田さんと運転手の崔さんも食事をしている。
それでもお腹も空いていないので、最初に取った料理のみで食事を終え、その後はお茶を飲み時間を過ごす。
冨田君とは今日の午後の兵馬俑の説明を少し行う。冨田君も兵馬俑はかなり興味がある様である。
私はその後の秦始皇帝陵の方に興味があるが、秦始皇帝陵上には登る時間はないので、以前に来た時と同じく、近くから眺めるだけかも知れないが?
冨田君も食事は早々に終え、お茶飲んで、ガイドブックを読んでいる。
13時40分頃になり、田さんがテーブルに現れ、「食事は済みましたか?」と聞く。
我々が済んでいる事を告げ、席を立ち、田さんについてレストランを出る。
ここから国際線の近くにある駐車場に向かう。
車へ向かう途中で田さんが、「この国際線ターミナルは今日までで明日からは新しく造られた新ターミナルに変わります。明日の帰り便は新しいターミナルから出ます。」と言う
5分程歩き、駐車場で車に乗り込む。 -
<唐代の玄宗皇帝と楊貴妃の離宮:華清宮>
車が走り始めると、田さんから今日のこれからの予定の説明が始まる。
田さんが、「これからまず西安郊外の華清宮に向かい、そこを見学します。華清宮は唐の玄宗皇帝と楊貴妃が過ごした離宮です。その後、兵馬俑坑に向かいます。」と説明してくれる。
また、「ここから西安郊外の華清宮へは1時間近く掛かります。」と言う。
西安咸陽国際空港近くから高速道路で、西安市街地に向かう。
高速道路に入ると車は順調に進む。 ここで田さんが、土産物の斡旋を行う。土産物品一覧のパンフレットを渡され、必要ならそのパンフレットに数量を記載して欲しいと言う。
パンフレットを見ると、お菓子類がメインである。空港で購入しても良いが、少し安く買えると言う事と購入品はホテルの部屋に送付されると言うので、これでお菓子類は購入する事にした。
兵馬俑のチョコなどを購入する事でパンフレットを記載し、田さんに渡す。
冨田君も何かを購入した様である。私は75元(約1125円)分購入した。
市街地に近づくと高速道路上の車も多くなるが、市街地を取り巻く様に造られた環状線に入った様である。日本で言えば、首都高速や阪神高速の様な高速道路である。
その環状線を暫く走り、再びインターチェンジで郊外に出る。ここからは華清宮や兵馬俑坑方向に向かう。そして、環状線から抜けて直ぐに高速道路から降りる。
暫く、西安郊外の新興住宅地を進み、大通りから丘に向かい、道を曲がる。
これから訪れる華清宮は、驪山(りざん)という山の麓に造られている。
以前に訪れた際には、華清宮前の道は舗装もされていない細い道で、歩道もなく、またその細い道の両脇には多くの屋台に毛が生えた様な店が並んでいた。
以前はその様な店の一画にある空き地に車を止めて、そこから歩いて華清宮に向かった覚えがある。
しかし、今走っている道は最近造られた様で、広く綺麗な道である。その道の脇には歩道も造られている。道には昔の様な店も見えない。
そして、華清宮の入口前に到着した。
ここも依然は入口前と言っても、広場などはなく、道に面して入口があったが、今はその前が整備され、道からは大きな広場を挟み、入口門が見える。
車がその前に止まり、我々は田さんと共に広場脇で車を降りる。
車を降りて判ったが、今は華清宮の入口門前は車の通り抜けが出来ない様になっている。車は入口門前の広場に突き当たり、そこから左に曲がらなければならないのである。
今日は休日ではないので、華清宮の入口門前にもあまり観光客はいない。 -
我々は、田さんについて入口門に向かう。その門前で田さんの入場手続きを待つが、観光客が少ないので、それも直ぐに終わり、田さんについて入口門を潜る。
ここで華清宮について少し説明すると、
華清宮は、別名“華清池”、西安の北東約30kmの場所にある標高1256mの驪山(りざん)の麓に位置している。
この場所は、3000年も前の西周時代から驪山を源泉とする温泉地であったと言われている。
秦の始皇帝を始め、歴代皇帝の保養地として利用されている。
最も有名なのは、唐代の玄宗皇帝と楊貴妃にまつわる話である。
玄宗皇帝は747年、温泉地に宮殿式建築の豪奢な湯殿を建て、“華清宮”と名付けられた。そして、ここを舞台に絶世の美女といわれる楊貴妃との享楽生活にふけったのである。
楊貴妃は16歳の時、美人(官名)に選ばれて宮殿に入り、玄宗の子(寿王)の妃となったが、740年10月、玄宗皇帝が華清宮への行幸中に召し出されました。
美人で聡明な楊貴妃は、玄宗皇帝の寵愛を一身に集め、745年に皇后に次ぐ高位「貴妃」となったのである。
以来、玄宗皇帝は毎年秋から春にかけ、ここ華清宮で楊貴妃とともに過ごした。
華清宮には、玄宗皇帝専用の湯殿“蓮花湯”と楊貴妃専用の湯殿“海棠湯”が造られた。
湯殿は大理石で造られ白い玉石で魚や龍、蓮の花などの彫刻で飾られていたといわれている。
特に蓮の花は、まるでお湯の中に芙蓉の花が咲いているように見えるくらい見事なものだった伝えられている。
華清池への入口を抜けた、すぐ左手にある建物が“飛霜殿”である。
ここは玄宗皇帝と楊貴妃が泊まった建物で、温泉の源泉を引き込んであった為(今様に言うなら床暖房?)、冬でも暖かく屋根には霜も付かないということから“飛霜殿(霜も飛んでしまう宮殿)”と呼ばれていた。
玄宗皇帝と楊貴妃の華清宮における愛欲の日々は、唐代の詩人白楽天によって長編叙事詩「長恨歌」に詠まれている。
もう一つ、歴史上でこの華清宮を有名にしている事件は、“西安事件”である。
当時、共産党軍と対峙していた蒋介石が西安を訪れた際の泊まり込んでいたのが、この華清宮(五間庁)で、ここで自軍の将軍の裏切りにあい、捕虜となり、当時共産党軍の幹部であった周恩来と会見を行う事となったのである。
入口門を抜けると、直ぐ横に飛霜殿がある。その前には華清池が見える。
この華清池の前まで行き、ここで記念撮影を行う。 -
この池の向こう側にも建物が見えるが、何に使用されたものであろうか?建物中央の額には“長生殿”の文字が見える。
この池も温泉の池である。この池は、“九龍湯”とも言われる。
今日は少し天気が良くないので、行われていないのかもしれないが、ここで演劇などが行われるようで、その演劇が非常に評判良いそうだ。
上演時間は判らないが、この演劇を見たいのであれば事前に旅行会社などからチケットを購入しておかなければならないと言う。
なお、雨天の場合には中止となる。 -
この池の畔を奥に向かう。その途中には、大きな石で造られた竹簡の複製が池に向かい、置かれている。その右横には石に刻まれた“華清勝池”の文字が見える。
その華清勝池(華清池)の脇を抜け、その左手に建つ建物群に向かう。
ここが華清宮の中心地である。 -
この入口に、また石碑があり、華清御湯の文字が見える。
この奥の建物が玄宗皇帝や楊貴妃が使用した温泉池である。
その脇には大きな楊貴妃の石像がある。少し妖艶な姿の楊貴妃像である。その石像の周りには噴水の様に水(お湯?)が出ている。
ここで田さんが楊貴妃の好きなものを紹介してくれる。
楊貴妃の好きなものは、
① 花:牡丹
② 果物:荔枝(ライチ)
③ 宝石:玉石(翡翠)
④ 衣装:絹衣
⑤ 料理:餃子
なのだと言う。
果物のライチは有名で遠く中国の南方(現在のベトナム辺り)から取り寄せていたと言う逸話がある。
また、田さんの言う宝石:玉石は“翡翠”の事だと思われる。
以前に西安を訪れた際に立ち寄った翡翠販売店で、“楊貴妃が愛した宝石”として紹介されていた。翡翠は長寿の妙薬としても昔から信じられていたと言い、楊貴妃もその粉を飲んでいたという逸話がある。
その像前で記念撮影を行った後、まず、手前の建物に向かう。 -
その入口上には“貴妃池”の額が見える。この中に入る。
以前にもこの華清池を訪れたが、建物の配置などは覚えていない。その中に入ると、見覚えのある石風呂が見える。
地面に石組みで小さな浴槽が造られている。これが、楊貴妃が使用したお風呂である。
建物はそのお風呂を見下ろす様に回廊が造られ、その壁には説明板が掛けられている。
数か国語で説明板があり、もちろん日本語の説明板もある。 -
そこには、“海棠(かいどう)の湯”と書かれている。その説明文には別名が“芙蓉の湯”と呼ばれている事も書かれていた。
“海棠”とは、バラ科の花で、この湯船はその花の形に造られているのである。
その説明文によると、この青い石で造られた湯船は楊貴妃専用の湯船である。
その横の建物は、玄宗皇帝など歴代の皇帝専用のお風呂である“蓮華池”のある建物である。
この建物の中の風呂は、先程の貴妃池よりもかなり大きい。
先程の貴妃池と同じ様に青い石で造られているが、貴妃池よりも傷みが激しい。 -
そして、この建物脇には蔦の覆われた小さいが望楼がある。
この望楼は湯上りに楊貴妃なども夕涼みしたと言われている場所である。小さな望楼なので、二人が立って、涼むには少し狭い気がする。
その望楼の奥には、このお風呂に温泉を引いた源泉がある。
そこには、“温泉古源”の文字が見える。
その奥には仕切られた貯湯槽がある。 -
また、その奥にも丸い貯湯槽がある。ここには、脇迄入れるので、その前でまた記念撮影を行う。
その後、更にその奥の岩盤をくり貫いた洞窟があり、ここも温泉源になっている。
その洞窟の入口には“金沙洞”と書かれている。
中に入ると、暫くは岩盤がむき出しの洞窟が続き、その後少し開けたところに足湯が出来る場所がある。観光客の数人が足湯を楽しんでいた。
田さんに聞くと、この足湯は有料で、20元(約300円)程必要なのである。
この洞窟を通り抜けた先にも建物があり、ここにも風呂場が造られている。
ここのお風呂は“尚食湯”と言い、唐の時代、食事を作る人々や皇帝の生活の面倒を見る人達のための風呂場である。
特に料理人用のお風呂なのだと言う。 -
ここは大人数で使用したお風呂の様で、少し大きめの造りのお風呂である。
また、ここで注目するところがある。
このお風呂の脇にはマッサージ用の石がある。
これがもしかすると歴史上で出てくる初めての足つぼ用の施設かも知れない。
特に料理人は長時間の立ち仕事であった為、この様なものがお風呂に造られたのかもしれない。
ここから再び、楊貴妃像のある場所に出る。
ここにも温泉があり、ここでは花の形をした湯泉が幾つかある。
その湯泉で観光客が記念撮影をしたり、そのお湯を頭からかぶったりしている。
その後、碑文が並ぶ、エリアを抜け、出口に向かう。 -
その途中には敦煌でも見た“反弾琵琶像”も見える。
この碑文の中には、中国歴史上の有名な歌人のものも多いのであろうか?
出口への向かう途中にも大きな建物が多いが、田さんによると全てお風呂関連の建物なのだと言う。
その中でも有名なお風呂としては、唐2代目皇帝太宗李世民の専用風呂場、星辰湯(せいしんのゆ)などもある。
そして、“大門”と言うこの華清宮の正門から出る。
出る前にこの門前で驪山をバックに記念撮影を行う。
この大門を出て、そこに掛かる額を見ると、こちらには“華清池”と書かれている。
入った門には“華清宮”と書かれていた。
時刻は15時15分頃で、40分程華清宮を見学していた。
この大門前で少し車が来るのを待った後、車に乗り込む。 -
<秦始皇兵馬俑博物館見学>
ここから、この旅行のもう一つの目玉の世界遺産である兵馬俑坑である。
ここからは高速には乗らず、郊外の一般道を通り、兵馬俑坑に行く様だ。驪山の麓の丘陵地帯から降り、更に郊外に向かい、車が走る。
直ぐに建物群がなくなり、郊外の田園地帯に入る。
すると華清宮前から10分程走ったところで車が停まる。見るとその前には整備された公園がある。
ここで車を降りると言う。
車を降りて判ったが、公園と思っていたところは、最近建てられたと思われる土産物店が並ぶ場所であった。兵馬俑坑に併設されている施設の様である。
以前に兵馬俑坑を訪れた際は大きな始皇帝像の建つ専用駐車場から入ったが、ここはその場所と違う。車を降り、この土産物店街を歩き始める。
田さんに聞くと、兵馬俑博物館の入口までは5分程歩かなければならない様だ。
土産物店の前には店員が出ているが、特に積極的に呼び込みや売り込みを行う事もなく、その店員の間を抜ける。
土産物店の店員とは別に屋台も出ており、その店員達の方が積極的で様々なものに売り込んでいる。
土産物店街はかなり大きく、階段上の通り沿いに続いている。
しかし、土産物店街には観光客は然程多くない。
時折、屋台で売っている果物に興味が湧くが田さんがさっさと歩いて行くので、立ち止まり見る事も出来ない。
そして、田さんが言った様に5分弱歩くと前方に兵馬俑博物館の大きな入口が見えて来た。
入口と思っていたのは入場券売り場であった。
以前に訪れた時とは少し違うと感じていたが、その為である。ここで田さんの入場手続きを少し待つ。 -
田さんが戻り、入場券となるパスを渡され、再び田さんについて歩き始める。
少し歩くと、前方に大きなゲートが見えて来た。これが正規のゲートである。
ゲートに到着し、パスを使用し、冨田君と共に一人一人ゲートを抜ける。
このゲートから更に兵馬俑博物館前まではかなりの距離がある。
ゲートを抜けると右手に十人乗りの電気カートが見える。
以前に来た時もこのゲートから更に兵馬俑博物館前のゲートまではこの電気カートに乗った。
この電気カート乗車は有料である。
田さんが、「ここからまだ入口門まで約1kmあります。ここから入口まで、あそこにある電気カートに乗る事も出来ます。しかし、別料金で5元(約75円)掛かりますが、どうしますか?」と聞く。
冨田君に私が以前はこのカートに乗った事と田さんの言う様に入口まで、まだ遠い事を説明し、どうするかを相談する。
私がこの電気カートに乗る事を勧めると乗る事に同意してくれた。
田さんに電気カート代の5元を渡し、電気カートに乗り込む。
この電気カートに乗り、少し人数が集まるまで待つ事になった。それでも数人がこのカートに乗り込むとカートが走り始める。
以前は観光客が歩く中をカートが走っていたが、今回はカート専用の道路が造られている。
このカートで数分走ると、前方にまたゲートが見えて来た。
ここからが兵馬俑博物館前のゲートである。 -
ゲート近くでカートを降り、再びパスを使用し、ゲートを抜ける。
ゲートを抜けると、正面に兵馬俑坑で最も大きな坑である第一号坑の建屋が見えている。
時刻は15時50分頃である。 -
まずはこの第一号坑に向かう。
この第一号坑は、最初に発見された坑で、この兵馬俑坑で一番大きな坑である。
この巨大な坑に兵士と馬の俑が整然と並んでいる。
兵士俑が約500体、馬俑が約100頭、現時点では出土しているが、まだ全容は判っていない。
なぜなら、まだ発掘が極一部しか行われていないからである。
全部の発掘が終了するのには、まだ数十年を要すると言われている規模の遺跡である。
予想ではこの第一号坑だけでも6000体近い俑が埋蔵されていると考えられている。
兵士俑は身長178~187cm、1体の重量が300kg以上で、鎧や兜で身を固め、表情は1体ごとに異なり、厳しく、迫力に満ちている。これは実物大に造られていると言われ、秦始皇帝の軍団の勇猛さを表している。
造られた当時は俑全体に彩色されていたといい、出土時に俑の一部に彩色が残されているものもあったが、現在我々が見学出来る俑は全て土色のものである。
黄色い土の中に整列した数千体の像を前にすれば、始皇帝の権力の大きさを実感でき、当時の工芸技術の高さに驚かされる。
また、この兵馬俑坑の建設は秦始皇帝による中国統一(紀元前221年)から死ぬ(紀元前210年)までの約10年間に造られたと推定されている。
始皇帝の近辺を守る近衛兵などの軍団の一部をそのまま地下に造ったのである。
天下統一を成し遂げた秦始皇帝もいつ、自分の地位を脅かす存在が現れるかという妄想などにとらわれ、死後も彼らに守られ続けることを夢見たのかも知れない。
ここでひとつ大きな謎がある。この数千体の軍団は全て東を向いて立っている。
近隣諸国からの侵略を防ぐ目的の軍団であれば、東西南北の全方位に配するのが妥当である。
しかし、全員が東を向いている。
この理由としては様々な説が出ているが、その中でも興味深いものはその理由が日本に関係している説がある事だ。
当時、秦始皇帝は中国統一を成し遂げた後も近隣諸国の併合を進めていたが、その対象の一つに日本もあった。その為に日本にも何度も使者を送っている。
しかし、当時の日本は定まった国家との意識がないとされる縄文時代後期~弥生時代である。
使者を送ったとしても正式な回答が返って来ないには当然である。
また、秦始皇帝は日本に伝わると言う不老不死の薬を求め、徐福という人物を送り込んだ。
その為に日本の各地にはこの徐福の伝説が残っている。
しかし、その望みは叶わなかった為に、死後もその日本に向かい眠り、その秦始皇帝を守る軍団も東を向いていると言う説であるが、あくまでも仮説のひとつで、本当の理由は判っていない。
第一号坑に入ると、入口ロビーにはこの兵馬俑坑のある近隣の地形などが大きな模型で展示されている。ここで、この兵馬俑坑群と秦始皇帝陵の位置関係が良く判る。 -
このロビーの先の入口を抜けると、視界が開け、眼前に第一号坑の全容が目に飛び込んで来る。
以前に一度見ている光景ではあるが、この全容は何度見ても圧倒される。
テレビや写真などで、第一号坑は見ているが、この迫力は実際に目で見ないと判らない。
これまでにも何か所かの世界遺産の遺物を見て来たが、これ程、テレビや写真などで見るものとの違いを感じるものはない。
まず、入ったところで記念写真を撮るつもりでいたが、同じ考えの観光客が多く、その場所はひっきりなしに中国人の観光客が写真を撮っている。順番と思い、待っていると横から遠慮なしに入って来る。
本当に中国人は他人の事を考えないマナーのない。
仕方ないので、その場所で写真を撮る事を諦める。
このツアーでは特典として、この第一号坑の回廊の一段下で写真を撮らせて貰える。
上から見れば、一段下に人が歩ける場所はある。この場所で記念撮影が出来るのである。
しかし、田さんはその場所に案内してくれる様子がない。暫くすると、正面の場所から左手の通路に移動を始めた。一段下での撮影はどうするのか?
そこで、田さんに「この一段下での写真撮影が旅行の予定に入っていると思いますが?」と私が催促すると、田さんが、係員らしき男性に何か話をし始めた。
そして、その男性と話終え、我々のところに戻り、「今日は観光客が多く、撮影は行えないのです。」とあっさりと告げ、再び左側の通路を歩き始める。 -
我々で交渉する事も出来ず、仕方なくこの場所での記念写真を諦めるが、この旅行の目玉企画のひとつであるので、これはクレームである。
そこで、再び田さんにその事を言う。すると少し待つ様に言われ、電話を始めた。どうも会社と話をしている様である。何らかの結論が出たのか、電話を終えると我々に説明を始める。
田さんが、「すいません。ここでの撮影はやはり出来ませんので、別の場所で記念撮影を行います。それで代用します。」と言う。
我々ではどうする事も出来ないので、それで了承するしかない。
左側の通路を歩き始めると、一番手前側の壁のところ(この第一号坑の入口付近の下)に丁度、この兵馬俑坑発見のきっかけとなった井戸の跡が見える。
ここで、この兵馬俑坑発見について少し説明をすると、この場所に昔は畑であった。
その場所に農民の楊さんが井戸を掘り始めた。
井戸を掘り始めると、見かけない土器の様なものが出て来たのである。その土器が兵馬俑のかけらであった。この発見が1974年で、発見からまだ40年程しか経っていない。
この兵馬俑坑には海外から多くの要人が訪れている。
有名なのは、1979年に当時フランス・パリ市長であったシラク元大統領である。
シラク元大統領は、「世界には7つの不思議があったが、兵馬俑坑の発見は8番目の不思議と言える。ピラミッドを見なければエジプトへ行ったとは言えず、兵馬俑坑を見なければ中国へ行ったとは言えない。」と言った。シラク元大統領のリップサービスの一面もあるとは思われるが、確かに幸運な奇跡の発見だった事は事実である。
この第一号坑もその一部が発掘されているだけで、第一号坑内にはまだ発掘されていない場所が多い。丁度、この辺りからも奥の修復作業場所が見える。
この左側に回ると兵馬俑を横から見るかたちである。 -
横から見ると、第一号坑の入口に向かい、整然と並ぶ兵士俑の様子が良く判る。
そして、その最前列から3列目までの兵士俑が横に隙間なく整然と並んでいるのが良く判る。
この3列目までの兵馬俑は秦始皇帝の近衛部隊と言われ、兵馬俑坑の中でも一番大きな兵馬俑なのだと言う。
横からその後に並ぶ兵士俑と比較するが、あまり大きさについては見分けが付かない。
兵馬俑の顔の表情などは勇猛な感じはするが?
この兵馬俑の発見は特に、中国史の研究上、当時の衣服や武器・馬具等の様相や構成などを知る上で貴重な資料となっている。
ただ兵士俑の身長のみは当時の記録よりも少し大きめに造られている。これは勇猛さを強調する意味もあるのではないかと考えられている。
また、始皇帝の思想などを知る上できわめて貴重なものになっている。
その近衛兵の3列から、各部隊の様にその後に5人を1列にした列約30列が一隊として並んでいる。当時の兵編成は知らないが、これが秦時代の兵の隊列と思われる。
ここで気が付く人は判ると思うが、この前列に並ぶ3列の兵士は鎧を着ていない。
これは敢えて鎧を着ない事でその勇猛さを表しているものと思われる。その後ろに並ぶ兵士達はみんな鎧を着ている。 -
その兵馬士俑を見ながら、第一号坑を奥に進む。
途中からは一旦発掘は行ったと思われるが、現在は保存の為に埋め戻された坑がしばらく続き、そして一番奥のエリアの一画で発掘を行った兵馬俑の修復を行っている。
ここには修復途中や修復を終えた兵馬俑が並んでいる。
ここで再度少し、この兵馬俑坑について説明を加えると、この兵士俑の列は穴を長方形に掘った場所に整然と置かれている。そして、その上に木材(丸太)を渡し、蓋をし、更にその上に麻などの布で覆い、その中に土砂などが入らない様に埋蔵されたのである。
この木材(丸太)を棚木(たなぎ)と言い、又この様な遺跡は棚木遺跡と言われている。
2200年経過した棚木は一見、石の棒のように見え、長年の土の重みでみな弓のように曲がっていたと言う。
坑の中の列を区切る大きな土の壁には、それが崩れないように周りに木の杭が打ちこまれていた。
発見時にはその麻などの布や木材などは腐敗し、殆ど無くなり、兵馬俑は土砂に埋もれた状態であったが、完成当時は空間の中にこの兵馬俑が並んでいたのである。
兵馬俑が立つ床部分は煉瓦が敷き詰められており、俑が倒れない様になっている。 -
一番奥から今度は右側に回る。
この辺りには修復が終了した兵馬俑が近くで見る事が出来る。
この辺りから次の坑への移動口がある。ここから第一号坑を出て、次の坑で移動する。 -
次は第三号坑である。
第三号坑は、凹字型の坑で、発掘された三つの兵馬俑坑の中で一番小さな坑で、約500m2程である。
兵士俑66体、馬俑4体、戦車1台と兵馬俑の数は少ないが三つの兵馬俑坑の中で、一番重要な役目をしていたと考えられている。
それはこの第三号坑が、全軍の指揮の中枢である軍幕(司令部)である為だ。
この坑は先程の第一号坑よりもかなり深い様に感じる。近くで見る事が出来る為にそう感じるのかも知れない。その下に第一号坑と同じく、煉瓦で床を造り、その上に兵馬俑を置いている。
第一号坑との大きな違いは、兵士俑の鎧である。
第一号坑では鎧を着ている兵士でも、その鎧は簡単な鎧であるが、この第三号坑の兵士の鎧は頑強な感じの鎧である事が俑からも判る。 -
この第三号坑を半周くらいしたところで、田さんが、「ここで記念撮影を行います。」と言う。
この第三号坑の隅に部屋が造られており、そこで記念撮影を行う様だ。
部屋の入口付近にここでの記念写真のサンプルが置かれている。
そのサンプルは兵士俑の顔が人の顔に置き換えられたデジタル加工された写真である。
ここで我々の顔写真を撮り、デジタル加工をして、顔部分のみを置き換えて写真にする様だ。
子供だましの写真である。
ここでの写真が第一号坑での記念写真の代わりである。
田さんに促され、その部屋の奥の撮影場所で、冨田君と一人一人撮影を行う。
そして、自分の顔を置き換えるベースとなる兵士俑を選ぶのである。私は将軍俑のものを選択する。
写真は後で渡される様である。
ここから第三号坑の残りの部分を見学する。こちら側が正面の様である。第一号坑から近い入口は裏口である。この正面の入口からも観光客が入って来ている。
この正面の入口から入ると、まず戦車の兵士俑が目に入って来る。 -
この第三号坑から出ると、今度は残る第二号坑に向かう予定であるが、しかし第二号坑へは向かわず、別の近代的な建物に田さんが向かっている。
以前にこの兵馬俑坑を訪れた時にも同じルートでこの建物に向かった。
この建物は休憩所兼土産物店である。
以前に訪れた時には、この建物内にこの兵馬俑坑発見のきっかけとなった井戸を掘った農民の楊さんが机に座り、兵馬俑坑の公式パンフレットを購入するとサインを行ってくれた。
この建物で少し休憩する様である。
建物内に入ると、かなり観光客がいる。
ここでまず冨田君とトイレを済ませ、土産物店を少し見て廻る事にした。店員が日本語で商品を進めてくる。日本人と判るのであろうか?
そして、気になっていたのであるが、この兵馬俑坑発見の立役者である農民の楊さんがいるかを確かめると大きな机に座るおじさんを発見する。
しかし、以前に訪れた時の老人とは違う様に思う。
第一発見者の老人は、“楊志発”と言う人であった。
田さんに、「あの人がこの兵馬俑坑の発見者の楊さんですか?」と聞くと、「あの人は以前にここの名誉館長をされていた第一発見者の楊さんではなく、その親戚の人です。第一発見者の楊さんは昨年からこの場所に居られません。」と教えてくれる。
以前に訪れた際にも楊さんはかなり高齢の方と言う印象があったが、田さんの口ぶりから亡くなられた訳ではない様だ。
その代わりに発見者の一人である親戚の人がサインを行っている様だ。
ここで以前来た際に聞いた話を書くと、もといた楊さんは当時、字が書けなかったそうだ。
1998年、米国のクリントン大統領が兵馬俑坑を訪れた際に、この第一発見者の楊さんにサインを求めた。しかし、楊さんは字が書けない。
何かブツブツ言いながら、楊さんは3個の○を本に書いた。
クリントン大統領は驚き、居合わせた中国の指導者たちは自国の文化度を恥じたと言う。
この事があった為に、西安政府上層部の指示で、楊さんは当地の有名な書道家に、自分の名前を書く練習を課せられたと言う。
練習は何ヶ月も続き、字をマスターした彼は、その後この兵馬俑博物館の名誉館長に任命され、ここでパンフレット購入者にサインを行っていたのである。
今回もやはりパンフレットを購入する。パンフレットは少し高く、1冊180元(約2700円)である。
そのパンフレットを持ち、机に座るおじさんにサインをお願いする。
以前はパンフレットを購入すれば、無料でサインや記念写真を一緒に撮ってくれたが、今は違う様である。田さんに聞くと、サインと記念写真を撮らせて貰うには更に20元(約300円)が必要だと言う。
しかし、ここまで来て20元を惜しみ、サインや記念写真を撮らない事の方が後悔すると思い、お金を払い、サインをお願いする。
サインを見ていると、丁寧な字で“楊”なにがしとサインをしてくれる。この人も“楊“さんである。
パンフレットにサインを貰い、一緒に記念写真を撮らせて貰う。
田さんに聞くと、もう少し時間があるとの事なので再度、土産物店に行き、土産物を物色する。
しかし、重たいものは買いたくないので、Tシャツを2枚購入する事にした。
ひとつは兵士俑の顔がプリントされたもの、もうひとつは兵士俑の全体像がプリントされたものを購入した。2枚で300元(約4500円)である。
結局、パンフレットとTシャツを購入し、他には何も買わずにこの建物を後にした。
そして、第二号坑に向かう。 -
二号坑は、第一号坑に次ぐ大きさである。
しかし、第一号坑ほど発掘が進んでおらず、遺跡の全容のみが判る程にしか発掘がされていない。
発掘で出て来た兵馬俑も殆どがそのままの状態である。
また、第一号坑よりも天井が低いせいか、ドーム内が暗い。
第二号坑は、東西124メートル、南北98メートルで面積は約6000m2。
発掘調査から戦車の引き馬350余頭、騎兵用の馬100余頭、その他各種武士俑が900余、合計1300件の俑、木製戦車89台で、これらは歩兵、騎馬兵、軽車等で混編された陣である。
この坑の特徴は戦車が多い事である。 -
入って来た入口の左手側に展示エリアがあり、そこに向かい田さんが歩き始める。
この坑については周回して見学を行わない様である。
その左手に向かう途中で、坑内の様子を見学するが、殆ど発掘されていない。
それでも棚木の撓んだ様子は良く判る。
そして、この坑内で唯一観光客が集まっている。展示エリアに入る。
ここには、実際の兵馬俑が展示されている。
兵士俑、中級軍吏俑、高級軍吏俑、馬俑などが展示されている。どの兵馬俑のショーケース前も多くの観光客が張り付いている。
その観光客の途切れる合間に各兵馬俑を写真に収める。そして、その前で記念写真を撮る。 -
また、ここには銅剣が展示されている。
この長さ90cm程の銅剣は“オーパーツ”と呼ばれるもののひとつである。
“オーパーツ”とはその当時の技術では実現が不可能な物である。
なんと、この銅剣にはクロムメッキ加工が施されている。当時どのようにして、クロムメッキ加工を施したか、書物などにもその様な記載は残っていない。
また、秦以降の漢時代に造られた銅剣も中国国内でたくさん出土しているが、その銅剣はどれもボロボロで、この様なクロムメッキ加工された銅剣はない。
この銅剣は出土時も光沢を放ち、その切れ味は新聞紙を束ねたものでも切る事が出来たと言われている。
この他の出土品である銅製の弩や矢じりなどにもクロムメッキ加工が施されているそうだ。
しかし、クロムメッキ加工は1937年にドイツで発明されたメッキ技術で、銅とクロム化合物を密閉容器に入れ、水素とアルゴンガス下で1000℃以上の加熱処理を行わなければならない。
当時、どの様な方法でクロムメッキ加工を行ったか、謎である。
丁度、この展示エリア前辺りの遺坑は、戦車が並ぶエリアである。
この辺りの見学を済ませ、この第二号坑を出る。 -
第二号坑からその前に見える大きな建物に向かう。
この建物は今までの第一号坑、第三号坑、第二号坑の建屋とは少し違い、博物館の様な建物である。この建物が銅馬車館である。時刻はもう17時前である。
ここで少し銅馬車について説明すると、銅馬車はこの場所で出土したものではなく、この銅馬車のみが始皇帝陵脇で出土したものである。
秦始皇帝の御車の隊列を模したものと考えられている。
1980年に秦始皇帝陵試掘分隊が、秦始皇帝陵墳丘から脇の地下から金製・銀製の塊と金糸の房(ふさ)を発見した。
更に2乗の銅車、8頭の銅馬および2体の御者が出土した。
これらの銅馬車は、出土時には破壊され変形していた。
半年に渡って2号銅馬車の修復作業が行われ、1981年に一般公開された。
また、1号銅馬車は、1987年に一般公開された。
銅馬車は、4頭立ての二輪馬車で、実際の馬車の2分の1の比率で製作されている。
1号銅馬車は、立車といい、車体の右には盾と鞭、前には弩と矢が掛けられている。車上には1本の傘が立てられ、傘の下には高さ91cmの銅御者1体が手綱を引いて立っている。
傘には、夔龍紋あるいは夔鳳紋が描かれている。
2号銅馬車は、安車または轀輬車(おんりょうしゃ)といい、正座した御者1体が手綱を引いている。
車体のドーム式の屋根と四囲の壁には変形龍鳳巻雲紋と雲気紋が描かれている。
後ろの安車は車箱が前後に分かれ、前室は御者の乗る所で位の高い官俑が一体置かれている。
後室は主人に供される座で比較的大きく長さ88cm、幅78cm、四方を囲んであり、後部は戸になっている。屋根はアーチ型楕円の車蓋となっている。
秦始皇帝はこの安車に乗り、いつも巡行していた。
銅馬車は、彩絵、装飾されていて、金銀の装飾部品は四千にも昇る大量の金銀を使用されている。
2号車を例にとると、金部品737点、銀部品983点と、馬車は宝物の如く異彩に包まれ、金銀の光の中に主人の尊い身分を示しているのである。
銅馬車館に入り、まず目に飛び込んでくるのが、大きな世界遺産のマークである。 -
以前に訪れた際にも、この前で記念写真を撮った。
今回もこの前で記念写真を撮って貰う。
この世界遺産マークのある壁の裏が階段となっており、展示室は地下である。
この階段を下り、展示室に向かう。
展示室は博物館になっており、まず大きな木簡の模型が入口にあり、その先には銅馬車のレリーフが続く、その先に銅馬車のショーケースがある。 -
この銅馬車のショーケース前には多くの観光客で、銅馬車が見えない状況である。
暫く、このショーケース前が空くのを待つ。
そして、その銅馬車の写真を撮るが、博物館内が暗く、フラッシュを使用しないと上手く撮れない。
仕方なく、フラッシュを使用すると今度はフラッシュがショーケースで反射する。
何枚か撮るが、上手く撮れず諦める。 -
この2号銅馬車(轀輬車)は、司馬遷の『史記』内の「秦始皇本紀」などの中にも出てくるものである。秦始皇帝は、この中で死去したと記録されている。
この銅馬車を見終え、その先にあるその他の出土品類を見学後、この銅馬車館の地下から別の階段で地上に出る。階段を上がると、直接外に出た。正面入口ではなく、横側に出た。
これで、ここの見学は終了である。
田さんはさっさと兵馬俑博物館の門に向かっている。最後にこの前辺りで記念写真を撮りたいと思ったが、それも出来ない様だ。時刻は17時15分頃である。
門を抜け、また電気自動車に乗るのかと思ったが、帰りは歩いて帰る様だ。みんなが歩いている大きな通りから少し外れ、公園の中の小道を歩き始める。
公園内を歩いていると、見知らぬおじさんが寄って来た。
手にはこの兵馬俑坑に関する土産物を持っている。見ると、小さな陶製兵馬俑の模型である。
我々は立ち止まる事なく、歩き続けているが、そのおじさんはしつこく土産物を売ろうとしている。
あまりにしつこいので、幾らなのかを聞くと、150元(約2250円)だと言う。
これではかなり高い。要らないと言う素振りをすると、値段を下げて来た。
何回か、歩きながら交渉を行い、価格は60元(約900円)まで下げてくれたので、購入する事にした。本当はもっと安く購入出来るのかも知れないが、結局兵馬俑博物館内の土産物店であまり土産物を購入しなかったので、まあ良いか?
おじさんは礼を言いながら、また次の観光客を探しにどこかへ行った。
公園を抜けると、そこは駐車場である。 -
田さんに聞くと、ここからバスに乗り、秦始皇帝陵に行くのだと言う。ここから秦始皇帝陵までシャトルバスが出ているのである。
見れば少し雨が降り始めて来た。
まだ、パラパラ程度であるが、空は曇天で今にも本格的に雨が降りそうだ。
しばらくシャトルバスが来るのを待つ。
5分程でシャトルバスが来て、兵馬俑坑で使用したパスでバスに乗る事が出来る様で、パスを見せ、シャトルバスに乗り込む。
我々の他は数人の観光客が乗り込むだけであるが、シャトルバスはそれでも直ぐに出発した。
雨はまだ小降りではあるが降り続いている。
シャトルバスは専用の道路を使用し、秦始皇帝陵に向かう。少しすると前方に小山が見えて来る。
これが秦始皇帝陵である。しかし、まだかなり遠いと思っていると、シャトルバスは停車した。
シャトルバスはここまでの様だ。ここも駐車場の様なところである。
雨は本格的降り出して来たが、まだ傘を差さなければ歩けないと言う訳ではない。
駐車場からは土産物などを売る露店が通りの両脇に並ぶ。
雨が降って来たせいか、何軒かの店は店じまいをしている。そして通りの先に門が見える。
ここが秦始皇帝陵の入口の様である。門は車が通り抜けられない様に閉まっている。
その脇の小さな扉から観光客が入っている。我々もその扉から入る。 -
そして、左手を見ると、そこには大きなゲートがある。
そのゲートの上には“秦始皇帝陵博物院”驪山(りざん)園”の文字が見える。ここが正規の門である。
田さんと共にそのゲートに向かう。
そして、ゲートに到着すると先程の兵馬俑坑で使用したパスでゲートを抜ける。
ゲートを抜けるが、観光客は誰もいない。もう時間も遅い事と雨が降って来た為だろうか? -
入って少し歩いたところに大きな石碑があり、そこには世界遺産マークと、“秦始皇帝陵”と彫られた赤い文字が見える。
ここで少し秦始皇帝と秦始皇帝陵について説明をすると、秦始皇帝は言うまでもなく、中国を初めて統一した皇帝の秦王の“嬴政”である。
現在、週刊ヤングジャンプで連載中の漫画“キングダム”の主人公のひとりである。
当時の中国は春秋戦国時代と呼ばれる時代で、大小様々な国々があった。
特に“戦国の七雄”と呼ばれた秦、韓、斉、楚、燕、趙、魏の七か国が大国で争っていた。
この七か国を秦始皇帝である“嬴政”が紀元前221年に他国を併合し、中華統一を果たした。
“嬴政”は、統一を果たした際に今迄の一国の“王”という称号を止め、新しい称号を考えた。
それが“皇帝”という称号である。
“皇帝”の地位が、世代継承される様にとの願いを込めて、彼の死後“初代の”という意味を込め、初めての皇帝と言う事で、“始皇帝”という呼び名が使われるようになった。
秦始皇帝は、中華統一を果たすという政治手腕もさることながら、次々と大土木事業も手がけた。
その最たるものは、なんと言っても現在の“万里の長城(1987年に世界遺産登録された)”の基礎となる長城の築城である。
その他にも、同じく2014年に世界遺産登録された大運河や道路などの国の基盤整備事業も次々と行った。
また、秦始皇帝は法家(法律による国の運営を基盤とする)の李斯を登用し、法による国の統治を行い、悪名の高い“焚書坑儒”という事も行った。
法家以外の諸子百家の書物を焼き払い、その様な思想を広める儒者を生き埋めにした。
そして、秦始皇帝陵の建設にも着手した。 -
秦始皇帝陵は、驪山の北麓にあることから“驪山陵”とも言われ、中国最大の墳墓である。
秦始皇帝陵は、秦始皇帝が13歳で即位した時から作り始められたと考えられており、彼の死後までに約70万人の囚人を使い、39年間かけて築かれた。
当時の秦始皇帝陵は、周囲が25km、高さは100mを超えていたと言われているが、現在は風化などにより47mしかない。
秦始皇帝陵は、一面に桃やザクロなどの木々が植えられていて、まさに山という感じである。
秦始皇帝陵の埋葬室は、地下30mの深さに、350m四方の広さと言われ、巨大な地下宮殿だと考えられており、この地下宮殿には木造建築がそのまま納められていると推測されており、腐敗していなければ、世紀の大発見となるであろう。
しかし、司馬遷の『史記』内の「秦始皇本紀」では、埋葬されている墓室や宝物などを盗掘から防ぐため様々な罠が施されている為、過去にも盗掘されていないと考えられている。
その為に現代でもなお発掘が行われていない。
また地下宮殿は、死後の始皇帝の為の新たな世界を作り上げるため、墓室内には宝石をちりばめた天空(宇宙)を模した天井や、水銀で海や川を模した大地などが造られたと考えられている。
この水銀の有毒性なども考え合わせると、少なくともまだ数十年は発掘が行えないと考えられている。
実際に中国が秦始皇帝陵の周りの地質調査などを行った結果、基準値を大幅に超える水銀が確認されたと言われている。
残念ながら、我々の世代では秦始皇帝陵の地下宮殿の見学は難しい様だ。
この大きな石碑の奥に雨で少し霞んで秦始皇帝陵の小山が見える。 -
見れば、その石碑の先には大きなレリーフが並んでいるのが見えている。このレリーフにはこの秦始皇帝陵の建築の様子が刻まれている。
その前には電気カートがある。
見ると、この驪山園の地図を見ると、この電気カートが驪山園を周回している様だ。
そこで田さんに、「この電気カートに乗れないのですか?」と聞くと、「別途料金が掛かります。しかし、それ以上にこれでこの公園内を周回している時間がありません。」と言われる。
時刻を見ると、もう18時近い時間である。ま
だ、辺りは暗くはないが、この周回にどのくらい掛かるのかが判らないので反論も出来ない。
ここでは、この辺りから秦始皇帝陵を眺めるしかない。
雨も本降りになって来た事から結局、15分程でこの驪山園を出る事になった。
驪山園のゲートを抜け、土産物が並ぶ通りも素通りで足早に車に向かう。
そして、18時前には車に乗り込み、市街地に戻る事になった。 -
<夕食の餃子宴と歌舞観賞>
ここで、田さんから今日の夕食について提案があった。
田さんが、「今日の夕食は餃子宴ですが、オプションになりますが、同じ餃子宴でもショーを見ながらの餃子宴の夕食も出来ますが、どうしますか?」と聞いてくる。
我々が、「どれくらいお金が必要なのですか?」と聞くと、「日本円で3000円です。」と言う。
冨田君と相談し、折角なのでショーを見る事にした。すると、田さんが早速、電話をかける。
ここから夕食の劇場までは1時間程度掛かると言う。
今日は少し疲れた。かなり歩いた事もあるが、移動も長かった為である。
いつの間にか寝てしまっていた。目が覚めると、既に西安の城壁が見えるところまで戻っていた。
辺りはまだ明るいが、時刻は既に19時過ぎである。1時間近く寝てしまっていた。
もうすぐ劇場に到着するのであろうか?
すると城壁沿いの道を走っていたが、そこから道を右に曲がり、少し入った一画に大きな劇場が見えて来た。その前で車が停まる。
建物の上には大きな看板が見える。
その看板には“歌舞大劇院”と書かれている。時刻は19時10分である。
車を降り、この劇院内に入る。
すると唐時代の宮廷女官の衣装を着た女性が入口付近で並び、出迎えてくれる。
その女性のひとりに田さんが話をすると、その女性が劇場内に案内してくれた。
その際にここのパンフレットをこの女性より貰った。
そのパンフレットを見ると、この劇場の正式な名称は“陝西歌舞大劇院”である。 -
また、パンフレット表紙には“唐風歌舞プログラム”と書かれている。
劇場内は150~200人くらいが座れる広さで、舞台近い方の半分に丸テーブルが、後方の半分に長いテーブルが並んでいる。
我々は長いテーブルの一番舞台に近い、右手の席に案内される。
舞台の正面ではないが、写真を撮るには非常に良い場所である。
まだ、劇場内の席は半分ぐらいしか席が埋まっていない。舞台近くの丸テーブルは既に満席に近い。
舞台に近い丸テーブルには欧米人が多い。欧州からの観光客であろうか?
舞台では中国琴の“古筝(こそう)”の演奏が続いている。
何の曲かは判らないが、女性が演奏をしている。
しかし、かわいそうな事に舞台近くの欧米人の観光客は関心がない様で、各人で話をしている。演奏を見ている人は殆どいない。 -
この演奏を見ていると、田さんがこれからの夕食の餃子宴の説明を始める。
田さんが、「ここでの夕食は宮廷餃子宴です。20種近くの餃子が出てきます。最後は真珠餃子と言う鍋の餃子が出てきます。これがここの名物です。食事が済んでもショーが終了するまで席に居て下さい。迎えに来ますので?」と言う。
続けて、「飲物の注文は宜しいですか?」と聞く。
冨田君は麦酒を注文し、私はコーラを注文した。
すると前菜らしきものが我々の前に出された。 -
ショーはまだ始まらないが、餃子が出て来た。注文した飲物も出て来た。
田さんに聞くと、まず食事を行った後にショーが始まるとの事である。時刻は19時15分過ぎである。
舞台上での演奏を聴きながら、出された餃子を熱いうちに食べ始める。
すると次から次へと蒸籠で餃子が出て来た。
出て来た餃子は以下の様な内容である。
最後に鍋が出て来たのは、真珠餃子の鍋である。そして、デザートとして2つの餃子が出て来た。
田さんがテーブル脇で出て来る餃子の説明をしてくれた。
<歌舞大劇院での夕食>
①前菜(生きゅうり/チャーシュー/蒸し鶏/青菜ととうもろこしの炒め物)
②チンゲン菜餃子
③豚肉餃子Ⅰ
④人参餃子
⑤水餃子
⑥豚肉餃子Ⅱ
⑦焼き餃子
⑧ピクルス餃子
⑨ハーブ餃子
⑩魚餃子
⑪貝餃子
⑫鶏肉餃子
⑬椎茸餃子
⑭フカヒレ餃子
⑮あわび餃子
⑯干しエビ餃子
⑰真珠餃子(餃子鍋)
⑱胡桃餃子
⑲パイ餃子 -
丁度、真珠餃子の鍋が出る頃には舞台での中国琴の演奏も終了した。
最後に女性が挨拶を行うと今まで無関心であった欧米人の観光客も一応拍手をしていた。
聞いていたのか疑問だが?
真珠餃子が出て来た際にその説明を終えると田さんが、「この後、ショーが始まりますが、終了してもこの席に居て下さい。それではごゆっくりと!」と言い、テーブルを離れた。 -
そして、照明が暗くなると舞台上に唐時代の宮廷衣装を着た男女が現れた。
皇帝と皇后の衣装であろうか?
英語で簡単な挨拶を行い、これからのショーの説明を行っている様である。
英語なので、詳しい説明内容は理解出来ない。とにかく、これからショーが始めるのである。
時刻を見ると、20時過ぎである。
男女による説明が終わると、舞台の幕が上がる。 -
この劇場入口で貰ったパンフレットに見ると、日本語のパンフレットでショーの内容説明が日本語で書かれている。そのパンフレットによると、ショーの内容は以下である。
<陝西歌舞大劇院のショー>
①華清宮
②舞踏(白チョマ舞)
③笙独奏(春鶯のさえずり)
④舞踏(ピクニック歌)
⑤舞踏(金剛の仮面)
⑥舞踏(観鳥蝉取)
⑦チャルメラ独奏(ナツメ割り)
⑧舞踏(虹の羽衣舞) -
⑨太鼓音楽(アヒルの喧嘩、虎の歯軋り)
⑩舞踏(大唐の典礼音楽)
舞台近くの欧米人の観光客は盛んに手を上げ、カメラを向けている。
フラッシュもOKなのか、そのフラッシュが眩しい時がある。
たっぷりと約1時間、ショーを堪能した。 -
最後にショーに出演した人達が舞台上で挨拶を行い、終了である。
時刻は20時15分である。
ショーが終了し、暫くすると田さんがテーブルに来てくれた。
田さんが、「ショーはどうでしたか?」と聞く。
我々が、「堪能しました。」と答え、席を立つ。
劇場の入口付近は帰りの人達でごった返している。
我々は田さんを先頭にはぐれない様に付いて行く。
そのために劇場を出るのに少し時間を要した。そして、劇場前で車を探す。
車は劇場から少し離れたところに停めてあった。
時刻は20時25分頃である。
既に暗くなり、城壁のライトアップが綺麗である。
車が走り始め、城壁沿いに道を走ると、見覚えのある景色が直ぐに現れた。
陝西歌舞大劇院は宿泊するホテルの西安君楽城堡酒店の直ぐ近くである。
しかし、道路の構造上、少し遠回りをしないとホテルには入れない様で、一旦永寧門(南門)脇から城壁内に入り、城壁沿いの道を更に西に進み、次の朱雀門から城壁外に出て、その道路を少し東に進み、ホテルに入った。
ホテル前に到着したのは20時40分前である。 -
車を降りる際に車内に忘れ物がないかを確認し、ホテル内に入る。
ホテルのフロントで、田さんがチェックインの手続きを終えるのを近くの椅子で待つ。
チャックイン手続きが終わり、ウエルカムドリンクのチケットを渡される。
今日もウエルカムドリンクのチケットを貰った。
後で冨田君と一緒に行く事にし、田さんと共に部屋に移動する。
部屋には既に土産物が到着していた。
田さんと共に注文した土産物が必要数届いているかを確認し、代金を田さんに支払う。
そして、田さんに明日の予定を確認し、明日の予定についてお願いをして見る。
明日は、朝食後、特に旅行日程表には予定が組まれていない。
それに西安発の予定時刻は14時である。午前中はほぼフリーである。
時間がもったいないので、どこかへ行けないかと言う相談である。
そこで一つの候補として、漢陽陵へ行けないかと考えている旨を伝えた。
漢陽陵であれば、空港への道程の途中で寄れるからである。
他にも適当な観光地があれば考えておいて欲しい旨を伝えた。
また、漢陽陵に寄るとして、どれくらいの費用が掛かるかも朝教えて欲しい事を伝えた。明日の集合は9時30分である。
今日はこれで田さんと別れる。時刻は22時過ぎている。
少し部屋で荷物の整理をした後、ロビー脇の喫茶スペースに冨田君を一緒に行く。
喫茶スペースは1階の大きなロビー内にある。そこでチケットを見せ、テーブルにあるメニューから飲物を選ぶ。私は紅茶をお願いした。
ここで、冨田君と明日の予定について話し合う。
先程も部屋で田さんと共に話した漢陽陵について、私が事前に調べていた内容の説明を行う。
漢陽陵は前に西安を訪れた際にも既に観光が出来たが、前に訪れた際の帰国便では立ち寄る時間がなかった。その前の西安旅行で同行した広島から来ていた夫婦からこの漢陽陵の情報を教えて貰った。その夫婦は漢陽陵に立ち寄ると聞いた。
冨田君も特に考えがない様で私の希望でOKを貰った。
その様な相談を行い、22時30分過ぎには部屋に戻った。
そして、私が先にシャワーを浴び、荷物の整理を始める。明日は帰国日である。
なるべく、旅行カバンに荷物を詰めたい。特に土産物類は旅行カバンに入れたい。
荷物の整理を済ませ、今日の出来事などをメモにまとめる。
時刻は23時を過ぎた。
冨田君もシャワーを浴びた後、荷物の整理をしている。
しかし、冨田君は23時15分頃にはベッドに潜り込み、就寝した様だ。
私は部屋の明かりを落とし、部屋の隅のテーブルでまとめを続ける。
そして23時30分過ぎまでまとめを行い、就寝した。
今回はここまで!
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