2012/04/29 - 2012/05/03
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パンダ番長さん
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西安・敦煌の世界遺産旅行の2日目~西安の大雁塔、城壁観光から敦煌への移動までの旅程~
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朝、5時半過ぎに目が覚めた。
目覚まし時計をセットしていた訳ではないが、その時間に目が覚めた。
しかし、そのまま起きず、ベッド内で過ごしていると冨田君が6時前に起きた。
今日の朝食は6時から取れる。
私もそれに合わせ、ベッドを出る。冨田君は既に顔を洗い、また荷物を整理している。
私も顔を洗い、朝食を食べに行く準備をする。
6時10分を過ぎたところで、2人で朝食場所である1階のロビー横にあるレストランに向かう。
入口の受付でルームキーを見せ、レストラン内に入る。
まだ、時間が早いせいか、客がいない。 -
我々が最も早い客の様である。レストラン内の中央にビッフェ方式の料理が並ぶエリアがあり、その左右にテーブルが並ぶ。そのひとつに席を取り、料理を取りに行く。
料理は中国の近代的なホテルでは定番的な料理で、西洋風と中華風の料理が並ぶ。
その中からハムやソーセージ、ベーコン、野菜類などと食パン風のパン、それに中国の肉饅など定番のものを取り、席に戻り、食事を始める。
席に着くとウエイトレスが現れ、珈琲か、紅茶かを聞かれる。
私は珈琲を頼むとそのウエイトレスが珈琲を入れてくれた。
冨田君も私より少し遅れ、席に着き、互いに食事を始める。
食事の内容としては以下の通りである。
<西安君楽城堡酒店での朝食>
①野菜サラダ
②ソーセージ
③ハム2種
④カリカリベーコン
⑤チーズ
⑥肉饅
⑦餡饅
⑧食パン
⑨珈琲
特に不味くも美味しくもなく、ソーセージなどはやはり日本のものの方が美味しい気がする。
また、肉饅は中国旅行をした際にいつも感じるが、生地がパサパサしていて食べにくく、また美味しくない。
肉饅類は明らかに日本で食べるものが美味しい。
一通りの食事を済ませ、最後にフルーツなどを食べ、珈琲を飲み、食事を終えようかと思っている頃になり、客が増えて来た。時刻を見ると7時頃である。
見ると日本人が多い様である。やはり、このホテルに宿泊している人は日本人が多い様である。
今の時間帯で中国人は見当たらない。
冨田君と食事を終え、このレストランを出る。そして、少し1階のフロアを探索する事にした。 -
入口付近に数軒の店が並んでいたが、そのエリアはまだ朝早い事もあり、どの店も開いていない。
見れば、コンビニの様な店もある。それを確認し、部屋に戻る。
今日の朝の集合時間は8時である。
このホテルは旅行の最終日にも宿泊するが、今日は一旦チェックアウトするので、部屋で荷物をまとめなければならない。
そこで、部屋に戻り、荷物の整理を始める。
必要なものをリュックに入れ、必要ないものは旅行カバンに詰める。今日は午前中に西安の市内の観光を行い、午後は敦煌まで移動である。
時刻は7時15分頃である。
もう余り集合時間まで時間はないが、する事もなく、言葉の判らない中でテレビを見ながら、時間を潰す。既に冨田君も準備万端の様である。
少し早いが、7時45分頃に荷物を持って、部屋を出る。1階のロビー前で田さんを待つ事にする。
1階ロビーに下り、フロント近くに行くと、田さんらしき人が既にフロントの人と話をしている。
しかし、田さんとはっきりと確認出来ないので、その話が終わるのを待っていた。
話が終わり、フロントを離れるその人を確認するとやはり田さんである。
朝の挨拶をし、ルームキーを渡し、チェックアウトをお願いする。
特に問題なくチェックアウトを済ませ、田さんとホテルを出る。
時刻は7時50分過ぎである。少し集合時間には早い。
ホテルの入口を出ると、まだ少し集合時間に早いせいか、まだ車が来ていない様だ。
玄関で少し待つ様に田さんに言われる。そして田さんが電話を始める。
運転手の崔さんと連絡を取っている様だ。電話が終わり、また少し待つ様に言われる。
数分後、その玄関前に車が到着した。既に同じ様に出発する人達の車が何台か止まっていたせいで、玄関から少し離れた場所で車に乗り込む事になった。 -
<西安観光へ出発~まずは大雁塔へ向かう~>
今日の観光も我々2人だけの様である。今日から数人の人が同行するのかと思っていたが、違う様だ。我々の車もホテルを出発し、既に交通量が多くなって来た朝の西安市街地を走り始める。
今日の最初の観光地は大雁塔(慈恩寺)である。
我々が宿泊した西安君楽城堡酒店は西安城壁の南門(永寧門)脇にある。
我々の乗る車は、そこからまず南に向かい、走り始める。大雁塔は西安市街の南に位置している。
ホテルを出て、少し走ると大きな通りに出る。地図からすると友誼西路であろうか?
そこから更に南に進むと、正面に大雁塔が見えて来た。
車が走り始めて10分も経っていない。
その大雁塔が徐々に大きくなり、その右手を抜け、更に南に進む。
この辺りは以前に西安に来た際も覚えがあるが、その時は周辺の建物がまだ建設中であった。
その建物も綺麗に出来、多くの店が並んでいる。
その建物を回り込む様に車が進み、大雁塔の入口門のある前に出た。
以前に来た際はこの辺りも工事を行っており、車の駐車場しか無かったが、今はその前は大きな広場になっており、その広場の中央付近には像が建っている。 -
本当に綺麗に整備されているが、車を駐車するスペースは以前の方が多く、この入口門前は然程車を止められない様だ。
駐車場に車を止め、入口門に向かう。時刻は8時15分頃である。
入口門脇にある入場券販売所で田さんの入場手続きを待つ。少し手続きに時間を要している様だ。
その間に冨田君とこの門前の景色を写真に収める。
5分程で田さんが戻り、やっと大雁塔の入口門を入る。時刻は8時20分過ぎである。
門を抜け、少し歩いたところで田さんが、「この辺りでまずは記念撮影を行いましょう!」と言う。
丁度、大雁塔の全景が写真に収められるポイントなのであろう!
冨田君と各々に大雁塔をバックに田さんに写真を撮って貰う。
また、私は入口門側に向いても、1枚写真を撮って貰った。
そして参道の左右に並ぶ鐘楼と鼓楼の手前で、田さんがこの大雁塔(大慈恩寺)について簡単な説明を始める。 -
田さんの説明の要約は以下の様な内容である。
1550年(嘉靖29年)に、現在の大慈恩寺が建立されたと謂われている。
大雁塔は、652年に唐の高僧玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典や仏像などを保存するために、高宗に申し出て建立した塔である。
この大慈恩寺は元々は高宗が、母である文徳皇后を供養する為に建立した寺院であるという様な簡単なものである。
もう少し説明を加えると、
この大慈恩寺は、隋の大興城にあった無漏寺(一説に浄覚寺)の故地に、648年(貞観22年)、皇太子の李治(高宗)が、亡母(文徳皇后)追善のために建立した寺院である。
その名は「慈母の恩」に由来する。各地から、良材を集め建てられ、その規模は、子院(塔頭)10数院を擁し、建築物は総数1,897間、公度僧だけで300名という大寺であった。
帰朝した玄奘は、本寺の上座となり、寺地北西の翻経院で仏典の漢訳事業に従事した。
当寺での、玄奘の訳経活動は、658年(顕慶3年)までの11年に及び、合わせて40部余の経典が漢訳された。
玄奘の弟子である窺基は、師から相承した法相宗を宣教し、「慈恩大師」と呼ばれた。
652年(永徽)、大雁塔が建立される。当初は、玄奘がインド・西域から持参した仏像や経典を収蔵するための塔であった。
この塔の名前は、菩薩の化身される雁の群れから地上に落ちて死んだ1羽を、塔を建てて埋葬したことに由来する。高さは7層64mである。
玄奘の設計により、創建当初はインド様式の5層の塔であった。各階に仏舎利が納められ、経典は上層部の石室に置かれた。玄奘自ら、造営に携わったと伝えられている。
塔の南門には、褚遂良の筆による碑が置かれた。
大雁塔は、当初は表面を磚に覆っただけで土によって作られていた為に、老朽化してしまった。
そのため、長安年間(701年-705年)、武則天の統治時代に、全て磚でつくられ、上まで登れるようになり、現在の7層に落ち着くという変遷を経ている。
この様子は、杜甫や岑参といった詩人たちによって、詠まれている。
唐時代には、進士試験の合格者がここに名を署名したことから、“雁塔題名”の成語も生まれた。
後に宰相になった場合、その名は朱色に書き換えられた。
また、訪れるものに自分の名を書くものもあり、唐代の詩人、李商隠の名が残っている。また、日本から訪れた円仁も登ったことがあった。
その後、熙寧年間1068年-1077年頃に火事に罹災し、1550年頃に重修されており、人民中国成立後にも修築されている。
現在でも、最上層まで登ることが可能である。
この説明の後、左右の鐘楼と鼓楼を見学する。 -
この2つの楼閣は以前にも見学したので、然程感動も無かった。
そして、更に参道を寺院の奥に進む。左右には小さな堂が幾つも並ぶ。掲げられた額をみると、雲水堂や客堂などと書かれている。
田さんに聞くと、2つの堂は共にこの寺院内の僧侶の宿坊の様である。
その奥に建つ本堂が大雄賓殿である。
この大雄賓殿は以前に訪れた際には改修工事中で入る事が出来なかった。今は工事も終わり、近代的な色彩の本堂になっている。
以前訪れた際に改修工事を見ていたが、日本とは違い、宮大工の様な人が改修工事を行っておらず、本当に家を改築する様な工事をしていた事が印象に残っている。
今、見ている色彩も当時ペンキの様なもので塗られていた。
この色もその為に年月が経つと、非常に色彩の変化が大きいのではないかと非常に心配である。
堂中央の扉が開かれ、そこからは本尊である大日如来らしき像が黄金に輝いている。
その仏像の前まで行き、賽銭として日本の5円玉を財布から探し、それを賽銭箱に入れ、手を合わす。何を祈る訳でもないが、この旅の無事を祈る事にした。
堂内には少し入れる程度で、ほぼ堂内いっぱいに仏像が並ぶ。堂内の脇を通り、堂裏に移動する。 -
大雁塔は、この大雄賓殿の後に建っている。
その前には小さな土産物屋があり、この大雁塔関連の土産物などを売っている。幾つか興味深いものを見つけるが、まだ大雁塔に上る前でもあり、購入するのは控える事にした。
大雁塔はその土産物屋の奥の基壇の上に建っている。ここから見上げても、その天辺部分は見えない程の高さである。
ここで、田さんが、「この大雁塔に上りますか?」と聞いて来る。
私は以前に来た時に一度最上階までは上っているので、どちらでも良いが同行している冨田君は初めてである。当然上りたいであろう。
そこで、「上ります。」と答えると、田さんが、「それでは私はこの下で待っていますので、上って来て下さい。今が8時25分前ですので、この先の出口で8時50分に待っています。最上階までの上り降りは15分もあれば出来ます。」と言う。
前に訪れた際のガイドの人も同じ様に一緒に大雁塔に上る事はなかった。
基壇の上に上がる大雁塔の入口は、この土産物屋の隣にある。
丁度、基壇の中央付近に階段があり、入口はその前に造られている。この入口前で、田さんと別れる事になる。
入口では手荷物検査がある。肩から提げているポシェットやカメラなどをX線検査機器に通し、簡単な身体検査を受け、中に入る。そこから階段を上り、基壇を上がる。 -
その基壇の上に大雁塔が建っている。
基壇に上がったところの正面にくり抜いた様に大雁塔の入口がある。
その入口から大雁塔内に入る。
前に来た時は然程注意して見ていなかったが、この入口付近の土壁には多くの文字が刻まれている。
何が書かれているのかは判らないが、場所によっては土壁一面に刻まれている。
その入口を入ると、中は綺麗に舗装された壁が塔の中央付近まで造られ、その通路の壁には石板が幾つか埋め込まれる様に展示されている。
これらが、「大唐三蔵聖教序」及び、高宗撰の序記の石碑である。
「大唐三蔵聖教序」には玄奘三蔵と思われる人の旅姿を記したものなどが線画で描かれている。
この教序には、ここに納められている経典を持ちかえる苦難についての記されているのかも知れない。
その通路を抜けると、塔1階の中央部に着く。 -
塔1階の中央部には土産物屋があり、そこから階上へ上る階段が中央部の四角い空間の壁沿いに螺旋上に造られている。
まずは土産物屋に目もくれず、その階段を2人で上る。
階段は人ひとりが通れるが、2人はそのままでは通れない程の幅である。しかし、上り下り共通の階段なので、上から下りて来た人があれば、その場で譲り合う必要がある。
その階段を上り、2階へ上がる。
2階部分の中央にはお釈迦様の像が置かれ、四方の白壁には仏画が見える。
更に上階へ上る。 -
更に上階へ上がる。4階中央には、この大雁塔の模型が中央に置かれている。
3階の中央には仏塔(ストッーパ)の模型が展示され、更に四方には覗き窓への通路がある。
その一つに向かい、そこからの景色を眺める。
以前に来た際はまだ、この周りを整備中であったので、工事している風景しか見えなかったが、今はその整備も殆ど終了し、綺麗な公園などが見える。
5階の中央には仏足の石版が置かれ、その階の端ではその拓本の土産物が売られているが、今はその場所に人はいない。以前来た時は、それに興味があり、ここで購入して帰った。
6階の中央部分には特に何もないが、四方の白壁には漢詩らしきものが展示されているが、何を書いたものかは判らない。
そして、最上階の7階に上がる。
ここが上れる最上階で、ここにも中央部分には何もないが、天井には仏教の宇宙観を表現した絵柄が見られる。 -
この階にも四方に覗き窓があり、ここからの景色は絶景である。
この覗き窓を南側はこの大雁塔の入口門のある方向で、整備も完了し、綺麗な広場の周りには整然と古都西安の風景に相応しい大唐時代の建物を模した建造物が並んでいる。
北側は市街の中心地方面で風景内には高層ビルが目立つ。
四方それぞれに赴きのある風景であるが、さすがに7階からの景色は爽快で、天気は然程良くはないが、かなり遠くまで見渡せる。
少し気になった事は、遠くがかなり靄って見える事である。スモッグであろうか?
以前(4年程前)にはこれ程霞んだ感じではなかった。
冨田君とこの階で四方の景色を堪能後、1階へ降りる。
降りる時は、一挙に1階まで降りる。途中で何回も上って来る人と階段ですれ違い、その際に壁際に移動し、その人をやり過ごす。
5階にある仏足の拓本が土産物でお勧めであったが、降りる際にも土産物店には店員がおらず、冨田君に勧めるつもりであったが止めにした。
降りる際は早い。あっと言う間に1階まで降りた。
そして、少し1階にある土産物店で土産物を見る。
ここにも5階の仏足の拓本を売っていた。それ以外の他の拓本もあった。これが本物なのかどうかが判らないので、買うのを躊躇する。
以前来た際に拓本を購入したものは、その場で拓本を取ってくれたので価値があった。
結局、何も買わず、入って来た入口から大雁塔から出る。時刻は8時45分前である。
まだ、集合時間までには5分程あるので、まずはこの入口で記念撮影を冨田君にお願いする。 -
その後、入口正面部分から基壇を裏に廻る事にしたが、途中で柵が設けられており、裏には廻れない様である。裏に廻るのを諦め、基壇から下り、待合せ場所に冨田君と向かう。
少し早いせいか、まだ待合せ場所には田さんがいない。
その場所で少し待っていると田さんが現れた。
そして、「大雁塔はどうでしたか?」と聞く。何と答えれば良かったのか判らず、「最上階からの景色が良かったです。」と答えた。その後、大雄寶殿脇にあるこの慈恩寺の歴代僧侶の墓が並ぶ中を抜け、入って来た入口門を目指す。
途中、この境内にある売店を見つけ、そこで少し休憩し、飲物を購入し、そこで飲物を飲む。
私はスプライトを購入し、飲む。
そこで少し休憩後、再び入口門を向かい、9時前には慈恩寺を出る。 -
そして、その前にある公園部分に向かう。その中央には像が建っている。勿論、玄奘三蔵の像である。
以前来た時には、この辺りはまだ工事中で、当然この像も無かった。
多くの観光客がこの前で記念撮影を行っている。
我々もそれに倣い、田さんにこの玄奘三蔵像をバックに、更にその奥に聳える大雁塔も含め、上手く納まる様に撮って貰う。
しかし、中国人の環境客が同じ様に次から次へと像の前に立ち、記念撮影を行っているので、中々撮るタイミングが合わず、結局他の観光客が入っても良いと言い、田さんに撮って貰う。
しかし、像自体をバックにすると今の時間帯では逆光気味になる。
やっと記念撮影を終え、車の止まる駐車場に向かう。時刻は9時5分頃である。
車に乗り込み、次の目的地へ出発する。
次は陝西省歴史博物館である。 -
<中国3大博物館の一つ陝西省歴史博物館>
これから行く陝西省歴史博物館は以前に西安を訪れた際にも行きたかったところだった。その際に立ち寄る時間はあったが、見学には事前に予約が必要との事で行けなかった場所である。
陝西省歴史博物館は中国の3大歴史博物館のひとつと言われている。3つの博物館には諸説あるが、残りの2つは上海博物館と故宮博物館か言ったところか?
最近では4大歴史博物館として、北京では故宮博物館ではなく、首都博物館がそれと蘇州博物院があげられる事が多い様である。
ここで陝西省歴史博物館について少し説明を加える。
陝西省歴史博物館は、1983年より建設が始まり、1991年6月20日に開館した。
かつて陝西省には、唐を含めて13もの王朝の拠点があり、秦始皇帝陵からの出土品や唐三彩などをはじめ、展示品の質、量ともに、中国国内有数の歴史博物館である。
その敷地面積は、中国で最大規模を誇る国家の中心博物館である。その所蔵品は中国で最も多いと言われている。
陝西省博物館、咸陽市博物館にあった文化財の大半を集めて、陝西省歴史博物館として再構成し直した博物館である。主に陝西省で発掘された遺物が40万点弱収蔵され、そのうちの3000点程が展示されている。
展示室は時代別に区分されており、第1展示室は先史時代と周․秦代、第2展示室は漢代と魏晋南北朝時代、第3展示室は隋․唐と宋․元․明․清代の文化財が展示されている。
基本的に中国政府に無料で開放されているが、1~4号館の中で、4号館だけが有料展示になっている。
大雁塔の駐車場から出て、5分程で陝西省歴史博物館の駐車場に到着した。
時刻は9時10分頃である。 -
しかし、この早い時間にも関わらず、陝西省歴史博物館の入口付近には長い列が出来ている。
非常に多くの人が既に入場手続きに来ている様である。一体何時から開いているのであろうか?
田さんに聞くと、「今の時期は朝8時半から開いています。」との事である。
日本もこれくらい早い時間から開けてくれれば、行き易いところもあるのではないだろうか?
車を降り、我々も先程の入口付近の列に並ぶのかと考えたが、そうではなく、全然違う方向に田さんが歩き始める。
そして、入口の建物ではなく、その脇に建つ建物に田さんが入る。
その後について我々も入ると、そこは土産物店で、その中を抜ける。更に本館へ繋がる廊下を進み、本館脇から館内に入った。実際は出口から入り、逆行した形である。
そ本館入口正面ロビーに出る。そこには多くの観光客が既に屯している。
ロビーの中央には大きな狛犬の像が置かれている。 -
どこからか出土したものであろうか?その前で記念撮影をする人も多い。
ここで少し、田さんの手続きを待つ。その後、最初に入ったのは第3室である。
反対側から見て廻る様である。
第3室は、隋․唐と宋․元․明․清代の貴重な文化財が展示されている。
田さんの説明は特になく、自由に展示物を見る様だ。それにしても時間がまだ早いと言うのに、非常に多くの人が来ている。
外国の観光客は少なく、殆どが中国人である。
西安の人か、それ以外から来た人かは判らないが、中国人もそれなりにこの様な歴史的な遺物に興味がある様である。
かつて、中国の雲南地方を旅行した際にガイドの人が、中国人の日本へのツアーにガイドとして同行したそうだが、日本の歴史的な建造物や遺物には中国人は殆ど関心がなく、どちらかと言えば近代的な建物や施設を好む旨の話を聞いたが、そういう人達ばかりではない様だ。
中国人の見物客の間を縫う様に進み、自分の興味ある展示品を見て廻る。
遺構からの出土品が多いが、やはりこの第3室で目を引くのは、唐時代に隆盛を誇った三彩である。
所謂、唐三彩で色彩に溢れた陶器である。
特に唐三彩においては、特徴的な緑色を基調とした作品が多い。この中でも一際、目を引いたのが異邦人の踊る姿を三彩で表現したものである。
非常にエネルギッシュな踊りと色鮮やかな衣装を繊細に表現している。
その他にも食器類なども非常に多い。更に馬を題材としたものが非常に多い。
異邦人を背に乗せたものなど、見慣れたものも並ぶ。この様な陶器類の他には、素焼き類や青銅製品なども並ぶ。 -
余りに展示品が多いので、一つ一つ見ていては時間がない。
殆ど、止まる事なく、歩きながらの見学しか出来ない。
それでも比較的時間を掛けて見て廻れた。
この第3室の最後のところには、明時代の墓から出て来た埋葬品で、兵馬傭の如く、様々の業種の人達を素焼きの人形で表現したものが100体以上並んだ展示は圧巻であった。
明代の貴族の行列を再現したものだと言われている。 -
次は第2室で漢代と魏晋南北朝時代の展示である。
この室には素焼きの埋葬品類が多い。
また、見慣れたものとしては銅鏡類も種類豊富に展示されている。日本に中国から銅鏡が伝わったのもこの時代のものである。
また変わったものでは、印章類でそれも通常のものではなく、多面体の印章類も見られる。
どの様に使ったのかは不明であるが?
時間も余りないので、この第2室は足早に見て廻る事になった。
そして、第1室は先史時代と周․秦代の文化財である。
ここでは版築の模型や遺構の模型などが並び、また青銅器類が並ぶ。
大きな鍋や鼎など、定番の青銅器類である。 -
また、この旅行日程にも入っている兵馬傭の展示も最後にあった。
傭として馬傭や兵士傭など結構な数の傭が並んでいる。本物であろうか?
この展示のなかで興味を引いたのが、用鼎制度についての説明である。
身分により、その容器に入れた食べ物が違うと言うもので、勿論この様な青銅器を持っている事自体が身分の高い人達であるが、その中でも更にその身分で食べた肴が違う様である。
この様な展示を足早に見終えた。時刻は10時10分頃になっている。
それでも1時間程掛けて見た事にある。第3室を出ると再び、ロビーを抜け、来た通路を戻る。
そして、最後にある土産物屋で少し土産物を見る時間を田さんに貰い、土産物を見る。
ありきたりのどこでも売っていそうなものしか置いていない。冨田君もここでは土産物を買うつもりもない様で、興味がなさそうである。
私も一通り見終え、ここでは陝西省歴史博物館の本だけを購入する事にした。
この本が200元(約3000円)である。その会計を済ませ、足早にこの土産物店を抜ける。
その後、車を降りた駐車場へ向かう。車を少し探したが、どこにも見当たらない様だ。
この駐車場には駐車していない。
また、田さんが運転手の崔さんと携帯電話で連絡を取っている。そして、「ここで少しお待ち下さい。」と言い、この駐車場内で待つ事になる。
すると直ぐに車が到着した。時刻は10時20分頃になっている。
みんなで車に乗り込み、この駐車場を出る。 -
入口門辺りでは、入場手続きを行う人の列が更に延び、長蛇の列が出来ている。
もう中国を何回か旅行している人には常識となっているが、現在中国ではこの陝西省歴史博物館の様な国の経営する博物館の類はすべて無料である。
その為に中国人にとっては手軽が観光スポットになっている。
その様子を見ながら、この陝西省歴史博物館を後にする。次は予定では西安城壁の観光である。
どの門に向かうのであろうか?
<西安の城壁観光>
昼に時間が近づいて来た為か西安市内に車が多くなって来た。所々で渋滞が発生している。
渋滞する西安市内を車は進む。
西安城壁の見えるところまで出たが、そこから更に西に進んでいる様で、西門を目指しているのであろうか?時刻は既に10時30分を過ぎている。
少し市街中心地より離れた事もあり、城壁が見えて来るまでに少し時間を要した。
そして、目的地の西門の脇に到着したのは10時40分頃である。
その西門の入口付近で車を降りる。
ここには駐車場はないので、我々は足早に車を降り、車はそのまま門の脇の道に入って行った。
西門の入口横にある入場受付所らしき所で、田さんが入場手続きを行うのを待つ。
お昼に近い時間なので、さすがに門脇の公園付近には人が少ない。
以前来た時は早朝から多くの人達が、この城壁を囲む様に設けられている公園で踊りや太極拳、書道、スポーツ(卓球やバトミントンなど)などを行う光景を見に行った。 -
田さんの入場手続きも終わり、入口に向かう。
丁度、この入口には若い女の子が受付係として立っている。中々の美人である。
田さんに通訳をお願いし、その女の子を写真に収める事の了解を得て貰う。そして、その女の子の写真を撮る。
愛そう良く、笑顔で対応してくれたのが印象的であった。
田さんがその子に何か話をしている。聞くと、その女の子は大学生で、アルバイトでこの仕事を行っているそうだ。
入口を抜けて城壁内に入る。 -
城壁内に入ると中は大きな広場になっていて、多くの車が止まっている。
駐車場になっている様である。
そして抜けて来た入口の上を見上げると、“安定門”の文字が見える。
ここで少し西安の城壁について説明すると、西安の城壁は“長安城”と言われた唐の時代を基礎としているが、その後増築や修復を繰り返し、唐代に造られた部分は南西角部分に残るだけである。
現在の西安城壁は明代のものである。 -
また、西安の城壁の東西南北の各門には物見櫓にあたる大きな楼閣がある。
その内側には大きな広場があり、その外側部分には矢などを射る窓が並ぶ箭楼と言う部分を持つ。
この西門は西方のシルクロードへと続く西安でも最も重要な門なので、その要も堅固で、西安の城門としても最大の大きさを誇る。
通称名称は“安定門”である。
ここから過酷な西方への旅が出発地点で、その旅の安全を祈る意味も込められた名前になっている。
しかし、現在は西域へのシルクロードの出発点とされる地点は、この安定門から更に少し北西方向に行ったところとされている。 -
以前来た時はこの安定門は修復工事中で殆ど見学出来ない状態であった。
今はその修復工事も済み、全てが見学出来る様になっている。
入口脇の階段を上り、城壁の上に上がる。以前来た時も思ったが、この階段がまた辛い!
日本の階段とは違い、勾配がかなり急なのである。
これも防衛上のためであろうか?
城壁の上に上がると、その幅にまずは驚くはずである。
冨田君の感想は聞かなかったが、そう感じていると思う。 -
以前私が最初に感じた印象もこの幅の広さである。裕に3頭立ての馬車が2輌は並んで走れる幅がある。当時は本当にこの上を馬車が行き来したそうだ。
ここで少し、この西安の城壁について説明を行うと、現存する西安城壁は、明代の1370~1378にかけて、唐代の王都の城壁を基礎に造ったものである。
城壁の周囲の長さは13.74キロメートルもあり、壁の高さが12メートルもある。
4階建てのビルの高さに相当する高さを持つ。
これは、中国に現存している古代の城壁の中で最も完全なもので、世界においても規模が最も大きい、最も完全なものと言われている。
この西安城壁は、建設されてから三回の大規模な修繕を行っている。
明代の1568年、清代の1781年、そして最近では、1983年から行われた大規模な修繕である。一度は取り壊された東門、北門矢楼、南門閘楼、吊橋を建て直して、城壁の周りに環城公園も造った。 西安城壁が美しく整備された事によって、この城壁は西安のシンボルになっている。
城壁の四つの隅にそれぞれ櫓があり、城壁の外には外堀もある。 -
4つの城門があり、東西南北にそれぞれ城楼があるが、東西だけが、二重城楼になっている。
シルクロードの起点として西門(安定門)が最も有名で、昔、中国の絹はここから運び出し、西域の品々もここの門を通って中国全土に伝わった。
今も西門の周辺には西域から移住してきた異民族の末裔が多く住んでいると言われている。
最近、この城壁上を使用した西安城壁国際マラソンが行われている。
しかし、この時間は観光客が少ない。城壁の上に上がっても人がいない。
ここで、楼閣などの周りで周辺の景色や記念撮影を行う。
予定ではここで城壁を電気自動車に乗り、走る予定である。
見れば、楼閣横にその電気自動車乗り場がある。どの辺りまで行く事が出来るのであろうか?
以前来た時は南門からこの西門まで人力自転車に乗り、来た。その逆であろうか?
そう考えて、冨田君と話をしていると、田さんが、「写真はもう良いですか?それでは城壁を降ります。」と言い出す。
私が、「電気自動車には乗らないのですか?」と言うと、「乗っている時間はありません。これから空港に移動します。」とあっさり言われ、足早に城壁を降り始めた。
予定が違うが、どうなっているのか判らないまま、冨田君と共に田さんの後を追う。
城壁を降り、広場の駐車場に行くと、既に車はその駐車場に駐車されていた。
車に乗り込み、そのまま徒歩で入って来た入口を車で抜ける。時刻は11時5分過ぎである。
車が走り出すと、再度、田さんに、「旅行の予定では西安城壁上を電気自動車で散策する事になっていたのですが?」と言うと、疑問げな素振りをされただけで無視された。
また、予定表ではこの後昼食となっているが、先程の田さんによれば、空港に向かうと言っていた。
すると予定表に書いてある昼食場所の“西安賓館”にも行かない事になる。
この“西安賓館”なる店がどこにあるかは判らないが、車は確実に空港方面に向かっている様である。
その内、空港への高速道路に入った。もう“西安賓館”に行かないのは確実である。
冨田君とどうなっているのかと話をするも、冨田君は余り関心が無い様である。 -
<西安咸陽国際空港での時間>
高速道路もこの時間帯はかなり車の数が多い、その為に空港まで辿り着くのに予定以上に時間を要した様だ。
空港のターミナル前に到着したのは12時頃であった。
車を降り、航空会社のカウンターに向かう。
予定便は13時25分発の中国南方航空の敦煌行きである。
中国南方航空のカウンターで手続きを行う。
手続きは非常にスムースに終了し、12時10分頃にはチェックインを済ませる事が出来た。
そして、どこに向かうのかと思いきや、そのターミナルを出て、隣の旧ターミナルへ移動する様である。
その際に運転手の崔さんも合流し、何やら田さんと話ながら旧ターミナル方向に向かっている。
我々は訳も判らず、ただ付いて行くだけである。 -
そして、旧ターミナルに到着して判ったが、そこには多くのレストランが併設されているのである。
ターミナルの端の入口近くにある店が昼食場所の様だ。
レストラン名は“空港絲路餐庁”で西安の郷土料理店の様である。
レストラン内に入ると、レストランはほぼ満席に近い状態である。どこに座るのであろうか?
レストランに入ると、田さんがレストランのウエイターと話を始めた。
どこに座るのかを相談している様である。そして、少し経つと、レストランの隅の大きな丸テーブルの一画に案内される。同じ丸テーブルには既に中国人が何人か座って食事をしている。
見れば、トレイの様なものに料理やごはん類が煩雑に乗っている。
バイキング方式の食事の様である。
席には案内されたが、どうして良いのか判らず、冨田君と椅子に座り、暫らく待っていた。
すると田さんが料理のある場所など取り方を教えてくれる。
丁度、レストランの中央付近に料理類が並べられている様で、そこで料理やごはん類を取り、この席で食べる様である。
田さん達もこのレストランの別の場所で同じ様な食事を取る様である。
良く判らないまま、冨田君とこのバイキングの料理を取る人の列に並ぶ。
トレイを探し、皿を数個その上に乗せ、料理を見る。
説明書きの様なものが何もないので、何の料理なのかは見た目で判断するしかない。
中には何の料理なのか判らないものもあり、取るのを躊躇するものもあった。
余りにも客が多く、殆どの料理が残っていない状態である。
その中で少しだけ残っているものを取る。
チャーハン風ご飯が残っているが美味しそうには見えず、その横にあるニラ饅頭風の小さな饅頭を数個取り、席に着く。
結局取った料理類は以下の通りである。
<西安咸陽国際空港絲路餐庁での昼食>
①豚肉とジャガイモの醤油炒め
②豆腐とトマトのうま煮
③烤鳥
④ニラ饅頭
本当に美味しそうなものがなく、今迄の旅行でこんなに質素な食事は初めてである。
余りお腹も空いていなかったので、これでも充分であった。
それでも、高い旅行代金の割には、昼食としても質素すぎる食事である。
時間も余りない気がしたので、10分程で早々に食事を終え、田さんが来るのを冨田君と共に待つが、中々現れない。10分程待った時点で飛行機の便の時間が気になり始めた。
時刻は12時35分頃になっている。フライト時間は13時25分の予定である。
既に1時間を切っている。国内線とは言え、こんなにゆっくりしていて良いのであろうか?
これも今迄には無かった行動である。
今回の西安の旅行ガイド(旅行社)には最悪である。
その様な事を考えているとやっと田さんが現れた。我々が食事を終えている事を確認すると、
「それでは、これから空港に移動しますが、良いですか?」と尋ね、席を立つ。
時刻は12時40分前である。 -
そのまま、再び先程チェックインを行った空港ターミナルに移動する。
その間も田さんは慌てる様子もなく、ゆっくりと空港ターミナルに移動をしている。
そして、搭乗入口まで連れて行かれ、その前で田さんと別れる。
その後、冨田君と共に搭乗入口を入り、手荷物検査所のチェック等に並ぶ。心配した程、この荷物のチェックには時間を要する事はなかった。
冨田君は相変わらず、ベルトが引っ掛かるのか、前もって外している。
荷物チェック場所を過ぎ、搭乗ゲートを探す。
搭乗便は中国南方航空のCZ-6896便である。
掲示板表示を見れば、敦煌とウルムチが交互に表示されるので、最終地はウルムチの様だ。
搭乗ゲートは1番ゲートである。比較的、搭乗ゲートは近くである。
ゲート前に到着したのは12時50分前である。
チケットの搭乗時間は12時55分になっているので、もう直ぐ搭乗が始まる予定である。
少し喉が渇いたので、近くの店で飲物を購入し、暫らく椅子で飲物を飲む。
すると乗客の一部が既に列を作り始めた。
すると定刻の12時55分頃には搭乗が開始された。 -
<敦煌空港行きのCZ-6896便>
本当にぎりぎりの搭乗であった。
それ程長い列が出来る訳でもなく、スムースに搭乗が進む。
ゲートを抜け、機内に移動する。今回もターミナルから直接機内に移動が出来る。
機体はB737-700型である。
席は私のチケットは49Bであるが、窓側の席はいつも冨田君に譲る。
今回は左手3人席の真ん中である。
席に着き、シートベルトを閉めて時間を確かめると13時5分頃であった。
通路側の席には日本人のおばさんが座った。
その後、乗客がバラバラと乗り込み、結局全員の搭乗が済み、機体が動き始めたのは13時15分過ぎた頃であった。
それからがまた長かった。
中国の空港では良くある事ではあるが、国際線や要人の乗った便が優先的に離発着を行う。
今回もそのためか、動き出して、滑走路近くまでは行くが、そこから全く動かない。
その横を別の飛行機が追い抜いて行く。
結局、滑走路に出て、西安の空港を無事離陸したのは、12時40分頃であった。
予定時刻よりも結局、15分程の遅れである。
機体が順調に上昇を続け、真ん中の席からも窓の外の風景が確認出来る。
丁度、西安の西方(正確には西南方であるが)には、かの有名な秦嶺山脈が直ぐ近くに見えている。
その山々を見降ろす様に機体が上昇を続け、暫らくすると水平飛行に入ったのかシートベルト着用ランプが消える。窓の外は既に雲の上で、時々南方に山々が見えるだけである。
既に食事も済ませているので、少し眠る事にし、目を閉じる。
機体は大きな揺れも無く、順調に飛行を続けている。少し寝ていたせいか、席の前のテーブルが出され、おしぼりが出ている。そして、CAが何かを配り始めている。
もしかすると、機内食?見ると、それらしき紙箱を配っている。
冨田君にその事を告げると、あまり興味なさそうに窓の外を見ている。
CAが我々のところに来て、ランチボックス風のものを渡す。
開けて見ると、比較的ちゃんとした機内食である。
<CZ-6896便の機内食:西安咸陽国際空港~敦煌空港>
①じゃがいも、人参、鶏肉の炒め物/ご飯
②ザーサイ
③参と筍の煮物、焼き鶏肉のスライス
④ロールパン/チョコ風味の蒸しパン
⑤燥りんご(チップス風)
⑥飲物(コーラ)
丁度、時刻は14時30分である。
先程、西安空港内で食事を取ってから、1時間程しか経っていない。それでもほぼ完食する。
取り立てて、美味しいと言うものも不味いと言うものも無かった。
少し珍しいと思ったのが蒸しパンである。中国にも蒸しパンがあるのだと始めて知った。どちらかと言うと揚げたパンなどは良く見たが、蒸しパンは何回も中国に行っているが始めてである。
この食事を終える頃になると、冨田君が盛んに窓外の景色を録画している。 -
見ると、眼下に山々が見え始め、その頂き付近には残雪が残る山々である。
その山々が見ると、南方面に延々と続いている。
暫く、その景色を見ていると、その山々の中に光るところが見えて来た。良く見ていると、湖らしきものである。
地図からすると、見えている南方の山々はバヤンカラ山脈の山々で、中国の青海省から四川省に掛けての山々である。そして、見えている湖らしきものは青海湖の様だ。
その奥にも高い山々が連なる。その奥に見えているのは、ヒマラヤ山脈も見えているのであろうか?
その辺りが判らないが視界の入る範囲には山々が連なっている。
この様な光景を窓外に見ながら、30分程飛行を続けた頃に機内アナウンスが流れた。
時刻を見ると、15時15分頃である。あと30分程で敦煌空港に到着するのであろうか? -
地形の色は少し焦げ茶色をした地形の所々に赤茶けた地形が波紋の様に繋がっている。砂漠かあるいは水の無い荒廃した地形の様である。
先程まで見えていた青海湖から推測すると、既に西安から見て、敦煌に至るひとつ手前のオアシス都市である酒泉辺りの上空を飛んでいる様である。
それにしても眼下は殺伐とした風景である。
更に少し飛びと今度は明らかに砂漠らしき地形が眼下に見えて来る。
すると、その砂色の中に同じ様な色合いではあるが明らかに人工的な建物らしきものが見え始めた。オアシス都市である。
その上空を何時の間にか、高度を下げていたのか、かなりはっきりと肉眼で確認出来る様になると、その都市の上空で大きく旋回を始める。ここが既に敦煌の街なのである。
それにしてもオアシス都市と言っても、周りの砂漠の色と都市内の色が同じで、中国らしいカラフルな色合いの建物などは皆無である。
その上空を暫らく飛んでいると、隣の席にいた日本人のおばさんが話かけて来た。
我々も西安経由のツアーである事を告げると、そのおばさんも自身のツアーについて話し始める。
聞くと、福岡からチャーター便で上海まで来て、そこから2手に別れ、飛行機と列車の組で、この敦煌を目指すツアーなのだと言う。
そのおばさん達は飛行機で上海から西安経由で敦煌に移動するという我々と同様のコースである。
もうひとつは西安までは飛行機で、西安からは敦煌まで列車で移動するツアーで、明日の朝に全員が敦煌で合流するそうだ。
その様な話をおばさんとしていると再び飛行機が旋回を行い、着陸態勢に入る。
窓外には街並みは見えているが空港らしきものは見えない。旋回が終わり、再び水平飛行に入ると、既に高度がかなり下がり、砂漠の街がはっきりと判る様なる。
見れば、空港らしきところが見えて来たが、砂色で周りと区別が付かづ、何処からが空港なのかが判らなかった。
程なく、機体が無事に敦煌空港に着陸する。時刻は15時45分頃である。
敦煌空港にはターミナルの建物はあるが、そこに機体が横付けされる様な空港では無い様で、着陸し、滑走路からターミナル方向へ移動すると、そのターミナルの50m程手前で停止する。
ここで機体を降りる様である。
暫らくすると機体から乗客が降り始める。機体からタラップで降りる。 -
降りたところで滑走路方面を見ると、周りは見渡す限り殺伐とした砂漠である。タラップから降りた乗客は思い思いにターミナルの入口方面に向け、歩いている。
ターミナルには2、3つの入口があり、そのひとつに向かい、乗客が歩いている。
我々もその乗客について行く様にターミナルの入口に向かう。 -
それにしても周りを見渡すと、このターミナルの建物以外何も近くに見えない。
見渡す限り砂漠である。
空の上から見て、どこに滑走路があるのかも判らなかったのも、この為である。
滑走路自体が砂漠と同化した様な色合いなのである。
ターミナル内に入ると、直ぐにその入口奥に手荷物受取所のコンベアが見える。
ここでは荷物を受け取るだけである。国内線であり、手荷物などのチェックを受ける事もない。 -
暫らく、ここで手荷物が出て来るのを待つ事になった。
思いの他小さな空港である。国際空港ではあるが、地方空港なので、こんなものなのかも知れない。
程なく、コンベアに荷物が出て来た。時刻は16時過ぎに荷物を無事ピックアップ出来た。
冨田君も問題なく荷物をピックアップ出来た様だ。
荷物を持ち、直ぐ近くの空港出口に向かう。
ここで、この現地ガイドの人が待っていた。
その現地ガイドの女性の人に合流し、他のツアー客が揃うのを待つ。
大きな空港ではないので、殆どの乗客が確認出来る。
直ぐにツアー客全員が揃い、現地ガイドについてターミナルを出て、ターミナル前の駐車場へ移動する。駐車場には殆ど車が停まっていない。
駐車場まで行き、ターミナル方向に振り向くと、ターミナル建物の上の“敦煌機場”の金色文字が象徴的である。みんな、この空港ターミナルの写真を撮っている。私も1枚写真を撮る。
ターミナルの建物を改めて確認すると、まだ新しい空港である。
バスは意外に大きな観光バスである。荷物を運転手に預け、バスに乗り込む。
時刻は16時5分頃である。
全員がバスに乗り込み、荷物の積み込みも完了するとバスが出発する。 -
<敦煌の市街へ>
バスが走り始めると、まず現地ガイドの女性が自己紹介を始める。
敦煌での現地ガイドの女性は“馬麗”さんである。そして、運転手を紹介される。運転手は“芙”さんである。
敦煌空港から敦煌の市街地までは15分程掛かるとの事で、ここで簡単な敦煌の説明が馬さんから行われる。馬さんの説明は大体以下の様な内容である。
敦煌は甘粛省の北西部のオアシス都市で、都市としては3万m2であるが、そのうちオアシスは約5%である。海抜は約1000mで、人口は約6万人。
唐の時代は遊牧民族の拠点であったが、現在の人口比率は漢民族が99%で、少数民族はわずか1%なのだと言う。少数民族としては、回族、ウイグル族、チベット族などである。
気候は内陸性砂漠気候で、一日の温度差が非常に激しく、激しい時は39度差にもなる。
祁連山脈からの雪解け水が2つの河となり、それが敦煌の町の郊外で”党河”と言う河になる。
その雪解け水を利用し、小麦、粟、トウモロコシ、綿、スイカ、メロン、桃、杏子などが栽培される。
特に“李広杏子”が有名なのだと言う。
この“李広杏子”は、前漢の将軍“李広”が西域討伐の際、不作に苦しんでいた敦煌に杏子を伝え、民を救ったという伝説も残っているようで、この名前が付いているのだそうだ。
ここで私のうんちくを書くと、この李広は、匈奴から“飛将軍”として恐れられた将軍で、“弓聖李広”とも言われた弓の達人である。
この様な内容であったが、少し、この敦煌の街の歴史も含め、説明を加える。
”敦煌”を漢和辞典で調べると、「燉」とは、火の盛んなさま、あきらか、「煌」も同様に、輝く、あきらか、の意である。唐時代には、「沙州」とは呼ばれていた。
青蔵(チベット)高原の北縁、河西走廊の西端にあり、古くから中国と西域との出入口として使われている都市で、西にはタリム盆地が広がり、北には戈壁灘(ゴビ平原)、南は祁連山脈とツァイダム盆地を望む。
約250km東に玉門、300km北に新疆ウイグル自治区のクムル(ハミ)が位置している。
昔の関所として、西北約80kmの所にあるのが”玉門関”、南西約70kmの所にあるのが”陽関”である。この2つの関所跡は抑えておきたい観光地であるが、今回の旅行では行く予定がない。
陽関は、王維の唐詩”送元二使安西”でも有名である。
この詩は、友人の西域(安西:現庫車辺り)派遣に際し、王維が咸陽(現西安北西部)で、友人元二を見送る際に綴ったとされている。
最後の行が有名で、「西出陽関無故人(陽関から西へ出れば、もう知る人も無いんだから)」と言い、酒を飲み交わした。
敦煌の名前は後漢の学者応劭によるもので”大にして盛ん”と言う事だが、実際には紀元前からこの地を支配していた月氏の言葉の音訳したものであるようだ。
紀元前2世紀前半に匈奴に冒頓単于が立ち、月氏を攻めて、この地は匈奴の支配下に入る。
冒頓の時代には匈奴に押され気味であった前漢だったが、武帝の代になって西域に対して積極的に遠征を行い、この地に敦煌郡を設置した。
敦煌郡の設置年代は紀元前92年ごろの李広利将軍の大宛(フェルガナ)遠征の際に設置されたとする説が有力となっている。この李広利将軍は先ほど書いた李広将軍とは別人物である。
その後、河西回廊(現在の甘粛省)を漢が制圧すると、敦煌の西に防御拠点の玉門関と陽関が設置され、漢の西域経営の中心地となる。
西方からの汗血馬・葡萄・胡麻などの産物や仏教がこの地を通って漢に運ばれ、漢からは絹が西方へと運ばれた。漢にとっての経済・軍事に於ける重要な拠点となる。
その後の五胡十六国時代には中央から自立した西涼がこの地に首都を置いた。
これ以後は沙州(現在の敦煌市)・瓜州(現在の瓜州県)と呼ばれる。西涼は北魏によって滅ぼされ、北魏に於いても西域に対する拠点として重要さは変わらなかった。
魏晋南北朝時代は仏教が中国に布教した時代でもあり、この地では竺法護などの僧が西方よりやってくる経典の訳に励み、布教に大きく貢献した。
唐代にも引き続き、西域への玄関口として重要であった。
五胡十六国時代から敦煌は、張氏・索氏・令狐氏・范氏・宋氏と言う五家の名族によって実質的に支配されており、名族社会を形成していた。
しかし、安史の乱により唐政府の統制力が弱まり、この地は781年に吐蕃の侵攻を受けて、以後はその支配下に入った。
その後の70年は吐蕃の支配が続くが、唐と対立している吐蕃の支配下では交易が行われず、経済の動脈を絶たれた敦煌は一気に衰退した。
その後、漢人の張義潮が吐蕃に反乱を起こしてこの地に独立し、唐に帰順して帰義軍節度使に任じられた。
北宋代に入り、タングートが力をつけて西夏を建てて、この地を占領した。
このツアーのメインの莫高窟に敦煌文書が、莫高窟の耳窟の中に放り込まれ、入口を塗り込められたのはこの時代と考えられている。
その後にモンゴル帝国が西夏を滅ぼし、引き続いて元の支配下に入る。
しかし、この頃になると中国と西方を結ぶルートがシルクロードから南方の海の道へと移行し始め、この地の価値は下落し、寂れた町へとなっていく。
その後、長らく忘れ去られた町となり、莫高窟も見向きもされていなかった。
しかし1900年、この地にいた道士・王円籙(おうえんろく、籙は草冠に録)が偶然に莫高窟中の第16窟の壁の中に隠されていた耳窟(第17窟, 後に「蔵経洞」と命名)から大量の文献を発見した。
ここから、各国にこの敦煌の町(莫高窟)が注目されたのである。
馬さんの説明を聞いている間も道路脇の景色は砂漠である。
この荒涼として砂漠の中に綺麗に舗装された道が続く。
少し走ると、やっと木々や街並みが見えて来た。木々は背の高いポプラの木が多い。
程なく、バスは敦煌の街中に入る。
中国には珍しく、原色を使った装飾が少なく、砂色の景色はあまり変わらない。
本当に15分程で街中の一画でバスが停車する。ここでバスを降りる様に言われる。
貴重品類を持ち、バスを降りる。時刻は16時20分過ぎである。
このバスが停車した通りは車の往来も少なく、急いでバスを降りる必要も無かった。
通り沿いの街灯の柱には、“盛世敦煌”の文字が見える。“盛世”の意味は、“繁栄の時代”という意味で、“敦煌繁栄の時代”と言う事であろうか? -
ここで、馬さんがこれからの説明を始める。
「ここから歩いて、敦煌の中心街を抜け、ホテルに行きます。ここから少し歩くと漢代風の建物が並ぶ一画を抜け、敦煌の市場近くを行きます。」と言い、馬さんが歩き始める。
暫く、バスを降りた通り沿いに歩くと、大きな門が見えて来た。
ここが、昔風の街並みを再現した一画である。
この門を潜り、この街並み内に入る。
しかし、残念なことにまだ時間が早いせいか、人も少なく、開いている店も少ない。
街並みは非常に綺麗に整備されている。中国奥地の地方都市とは思えない。 -
聞いたところによると北京オリンピックの時に一斉に整備されたと言う。
ガイドの馬さんに聞くと、街はゴミのポイ捨ても禁止で、ポイ捨ては罰金を取られるそうだ。
見れば、ところどころにゴミ箱が見える。
それもゴミ箱には飛天像のプレートが上には付いている。
昔風の街中を進むと、通りの中央に植木が並ぶ。
その植木には見慣れない木々もある。
特に目に付いたのは、4~5mの高さで、丁度紫色の花を付けた木である。
何の木かは判らないが、通りにその木が非常に多い。
その街並みを抜けると、大きな広場に出た。 -
その場所には奥にモスクの建物が見える。
広場の中央にはステージらしきものもある。
また、中央脇には噴水もあり、その噴水には四方に飛天のレリーフがある柱の様なものがある。
その広場を抜け、右方向の通りに入ると、その入口付近には、子供用の遊戯類が並ぶ。
日本では今ではあまり見かけない、円形に線路を敷き、その上を動く乗り物がある。
その通りを更に進む。
この通り辺りからは、店の前に屋台が多く並んでいる。
その屋台で様々なものを売っている。
土産物や特産物、食料品、香辛料、中には印章を売る屋台などもある。
また、その通りの途中に、この通りと交差する様に市場街の通りが見えて来た。 -
特に目に付いたのは、やはり果物類の豊富さである。
この屋台が並ぶ通りの先に、また大きな門が見えて来た。ここでこの昔風の街並みが終了し、大きな通りに突き当たる。
ここは交通量も多く、横断歩道もあり、歩行者用の信号機もある。
中国ではあまり歩行者用の信号機を見ないがここにはちゃんとある。
縦長の信号機で、青の時は人が歩く姿ではあるが、日本とは少し違う。また、同じ場所に色が変わり、赤で止まれの表示となる。
しかし、ここまで歴史や趣はいっさい感じられない。
ぴかぴかのイルミネーションや飛天像、歩道のタイルなど一生懸命演出しようとしているのはわかるが、我々日本人が抱く「敦煌」への憧れや歴史ロマンは、この町中からは感じられない。 -
それもそのはず、現在の敦煌の街自体には、漢の時代に沙州と呼ばれた街の面影が何も残っていないのである。
現在の敦煌は、莫高窟や陽関などの遺跡を観光する為の起点となる地方都市なのである。
歴史ロマンは、この街の周りに点在する遺跡見学の際に堪能することにしよう。
この大きな通りに出て、何か違和感を感じていたら、中国都市で最近名物にもなっているクラクションをむやみに鳴らしている車がいない。
馬さんに聞くと、「市内クラクション禁止」ということで、中国の町にはつきものの「ぶーぶー」鳴らし続ける車のクラクションがほとんどない。
通りを渡り、これからホテルに向かう様である。もう街の中心に近いところに来ている様だ。
通りの先に大きな像が見て来た。近づくと、その像は大きな飛天像である。
琵琶を背に、舞う様に弾いている像である。馬さんに聞くと、この像は“反弾琵琶像”と言うそうだ。
その像を中心に交差点がロータリーになっており、大きな通りが交差している。 -
その通りを渡り、更に進むと、大きなホテルの建物が前方に見えて来た。
ここが、今日の宿泊ホテルである“敦煌太陽大酒店”である。
16時40分過ぎにホテルに到着した。 -
<敦煌のホテル“敦煌太陽大酒店”>
ホテルに入り、入口奥のフロント前で集合し、ここで馬さんがみんなのパスポートを回収する。
私も冨田君と合わせ、馬さんにパスポートを渡す。
そして、馬さんのチェックインをここで待つ事になる。
ホテルのロビー奥には、このホテルの名前にもある太陽をイメージした形状のレリーフに飛天が描かれている。この2つで、このホテルの名前を表現している様である。
それ以上に気になったにが、なぜか天井から多くのカラフルな広がった傘が逆さに吊るされていた事である。これは何を表現しているのであろうか?
ここで入口付近に置かれたチラシを見つける。
パンフレットには足裏のマッサージの案内のチラシである。私も冨田君も興味津々である。
後で馬さんに聞いてみる事にした。
その様な事を考えていると、馬さんがフロントから戻り、各自に部屋のキーと回収したパスポートを返し始める。我々の部屋は5階の524号室である。
解散する前に馬さんから、これからの予定の説明が始まる。
今日の夕食の集合時間18時30分で、ロビー奥にある中華レストランの“太陽宮”で食事を行う。
その食事後、ゴビ砂漠に沈む夕日を見に行くと言う。それまでは自由時間である。
これで簡単な説明が終わり、各自部屋に向かう。
我々もエレベーターで5階に上がる。 -
部屋は中国のホテルとしては、少し狭い感じの部屋である。
しかし、2人で使用する部屋としては十分の広さである。
この敦煌太陽大酒店は、敦煌市の中心に位置する四つ星ホテルで、日本人の団体客の利用が多いホテルである。その為にホテルスタッフには日本語話せる人もいるそうだ。
ホテル内には、大型の中華レストランが3つと、エレベーターに乗る前に日本料理のレストランがある事を確認した。
部屋で暫く、寛ぎながら、今後の予定を冨田君と相談する。
そして、食事の集合時間まで少し街を散策する事にした。
そこで、早々部屋を出て、1階のロビーに下り、ホテルを出る。 -
<敦煌市街の散策とホテルでの夕食>
時刻は17時15分を過ぎているが、まだまだ街は日差しが強い。
ホテルを出て、ホテル前の通りを飛天像のあるロータリー方向に歩く、そしてロータリーの交差点を右に曲がり、大きな通り沿いに歩き始める。
特に目的地がある訳ではなく、街の雰囲気を味わう為に出て来た。
この通りには大きな街路樹が並ぶ。何の木かは判らないが樹皮が白いので、白樺?
また、街路樹の間には、洒落た街灯が並ぶ。また、道路標識などの柱の基部にも飛天のレリーフが見える。暫く、この通りを歩く。
この通りには大きな商業ビルが幾つか見える。
まだ夕方の時間帯なので開いているところが多いが、人の出入りはない。
すると前方に道路標識が見えて来た。表示を見ると、明日訪れる予定の鳴沙山月牙泉の表示が見える。
この通りと交差する通りを左折すると行ける様だ。
この交差する通りを渡ったところで、冨田君と更に先に進むかどうかを相談する。
最初に敦煌の街に到着した際にも感じたが、本当に街並みには歴史を感じさせるものがない。
歴史のある街であるのに非常に残念である。 -
まだ、通り沿いには大きなビルが並ぶが、あまり景色が変わり映えしないので、ここで通りを渡り、反対側に移動し、ホテルの方向に戻る事にした。
そして、先程の道路標識の辺りまで戻ると、その前に大きな庭園を持つ歴史を感じさせる建物の前に出た。ここは郵政局と書かれている。日本の郵便局である。今日はもう開いていない様だ。
また、歩道を歩いていると道路脇に大きな甕の様なものが所々に置かれている。
これもゴミ箱?中には何も入っていない。
その他は特に変わりない街並みである。
再び、飛天像のあるロータリーまで戻って来た。時刻は18時前である。
もうそろそろ、ホテルに戻らなければならないと感じ、冨田君と相談し、ホテルに戻る事にした。
ホテルを出た時には気が付かなかったが、ホテルのある通りは歩道を工事中の所が数か所見える。
ホテル近くでも歩道の敷石を直している。その脇を通り、ホテルに戻る。
ホテルのロビーに戻り、ロビー内を少し散策する。
入口脇にはテーブルがあり、そこにはマッサージの案内チラシが置かれている。
また、ロビー奥には土産物などを売る売店がある。 -
冨田君とその売店に入り、どの様な土産物が置かれているのかを見て廻るが、今日は土産を買うつもりはない。
特に珍しいものはないが、気になったのは、薄い緑色の石製のカップが並んでいたものである。
一通り見た後、店員に幾つか品物を進められるが、それを無視し、冨田君と売店を出て、部屋に戻る事にした。部屋に戻ったのは、18時過ぎである。
食事の集合時間は18時30分まで、まだ少し時間がある。
部屋を出る前には、窓外などを確認しなかったが見れば、窓外には敦煌の古い家などが立ち並ぶ一画が見える。部屋がホテルの裏側に面している為である。
あまり高層階でもない為に、楽しめる様な景色ではないのが、残念である。
少し部屋で休憩をした後、冨田君と共に18時15分過ぎに部屋を再び出て、1階ロビーに向かう。
ロビーに下りると馬さんが居た。まだ、ツアー客の人は数人いるだけである。
ここで、馬さんにロビー内のテーブルに置かれた足裏マッサージのチラシを取り、足裏マッサージについて聞いてみる。
すると、馬さんが、「マッサージをしたいのであれば、このホテル内よりも良いところを知っていますので、案内しますよ!夕日の鑑賞から戻った際に言って下さい。予約を入れますので!」と言ってくれた。
その事を冨田君に告げ、後で相談する事にした。
程なく全員が揃い、ロビー奥にあるレストランである“太陽宮”に向かう。
レストランは思いの外、広いがあまり利用客は多くない。その中の一つのテーブルに全員で座る。
人数は我々も含め、全員で10名である。
まずは飲物の注文と思っていたら、馬さんの説明では、この夕食には麦酒が1杯サービスで付くと言う。麦酒は、敦煌と同じ甘粛省の酒泉の地麦酒の“黄河麦酒”である。
私は特に飲物は注文しなかった。冨田君はこのサービスの地麦酒を貰う様だ。
まずは飲物がくるのと同時に前菜類が用意される。
前菜としては、白菜の浅漬け(細切りの白菜を漬けたもの)、スティックサラダ(きゅうり、大根、人参)、茹でた芽もやし、茹でた白花豆、きゅうりの漬物(薄切りの)、豆腐と赤大豆の煮物などが並ぶ。
そして、最初に出て来たのは、冬瓜と鶏肉のスープである。以下次の様な料理が出て来た。
<敦煌太陽大酒店内の太陽宮での夕食>
①白菜の浅漬け(細切り)
②スティックサラダ(きゅうり/大根/人参)
③茹でた芽もやし
④きゅうりの漬物
⑤茹でた白花豆
⑥豆腐と赤大豆の煮物
⑦冬瓜と鶏肉のスープ
⑧カシューナッツ/木耳/葱/鶏肉の醤油炒め
⑨揚げ豆腐のピリ辛醤油炒め
⑩大豆と羊肉の煮物
⑪かぼちゃ煮
⑫中国菜の唐辛子炒め
⑬花巻
⑭麻婆豆腐風餡かけ麺
非常に多くの料理が出て来たが、然程美味しいと思うものはなく、また西域を感じさせる様な料理もなく、少し残念である。
料理で気がついた点は、中華では定番の肉である豚肉の料理がなかった事である。
肉は鶏肉と羊肉の料理である。
西域にはイスラム教徒が多く、外国人が宿泊する大きなホテルでもメインの料理には豚肉などは使用しないのである。市場でも豚肉を見なかったので、手に入らないのかも知れない。
以前に雲南でも冬瓜のスープを飲んだが、ここの料理でも冬瓜のスープが最も美味しかった。
中華料理で冬瓜のスープは本当にお勧めである。
料理が多かったので、意外に食事に時間が掛かっている。既に19時を廻っている。
既に全員が食事を終えているが、馬さんがなかなか現れない。
近くで食事をしている中にもいないので、このレストランでは食事を取っていない。
冨田君に“黄河麦酒”の感想を聞くと、飲みやすい麦酒であった様で、少し果実酒に近い匂いがした様だ。多くの果物がある西域らしい麦酒だった様である。
やっと馬さんがテーブルに現れ、みんなが食事を終えた事を確認し、「それではこれからゴビ砂漠に沈む夕日を鑑賞に行きます。よろしいですか?」と言う。
各々、荷物の確認を行い、席を立ち、レストランを出て、再びロビーに集合する。
全員が揃うと馬さんを先頭にホテルを出る。 -
<漢代の烽火台見学と砂漠に沈む夕日鑑賞>
ホテル前には既にバスが待機していた。そのバスに乗り込む。
時刻は19時15分頃であるが、まだまだ空は明るい。
バスに全員が乗り込んだ事を馬さんが確認すると、バスが走り始める。
バスは走り始めると馬さんが、「ここから夕日を見る場所までは30分くらい掛かります。今日の夕日が沈む時刻は20時30分頃です。」と教えてくれる。
バスは、飛天像のあるロータリーを過ぎ、敦煌の街中を少し走ると、直ぐに大きな建物も少なくなり、直ぐに敦煌の郊外に出る。
しかし、大きな建物はなくなったが、家々や工場らしき建物は廻りにある。
この郊外に来ると面白い光景が現れる。高いポプラの木々の枝が一定の方向を向いているのである。これは恐らく風が一定の方向から強く吹くためだろう。
敦煌の郊外になると、防砂林として植えられているポプラの木が並ぶ。
もう殆ど家もなく、砂漠の中に続く道をバスが走る。
景色は進行方向の左手に大きな砂の山が見える。これが明日訪れる鳴沙山群である。 -
鳴沙山は敦煌郊外の南に位置しているので、これが左手に見えるという事は、バスは西に向いて走っている様だ。
暫く、砂漠の中の道を走ると、前方の左手に大きな建物が見えて来た。
城郭の様な建物である。
すると道路脇に看板が見えて来た。その看板には“敦煌古城”と書かれている。
見えている城郭は敦煌古城である。
しかし、昔の城郭が残っているのではない、新たに造られたものである。
この敦煌古城は、1988年に公開された日中合作映画『敦煌』の撮影のため、1987年に宋時代の敦煌城を再現したお城である。この映画『敦煌』は、井上靖の小説「敦煌」を原作とし、渡瀬恒彦が西夏王、西田敏行がその西夏の漢人傭兵部隊の隊長、佐藤浩市がその漢人部隊の書記で出演した映画である。
当時としては日本映画界最大のスケールの超大作として話題を集めた作品である。
また、日中合作の映画としても注目された。
この敦煌古城の建築スタイルは、西域情緒にあふれている。
城は東、西、南の3方に門があり、城内には5本の主要街道が通っていて、街道の両側には寺院や質屋、酒屋、住宅などが並び、中国西部の建築芸術博物館と称される。
現在は観光スポットになっている。 -
この敦煌古城を少し過ぎたところでバスは道路を外れ、砂漠の中に入って行く。
ここでバスが大きく揺れ、バウンドする。
今まで走って来た舗装された道路のありがたみが良く判る。
暫く、この揺れに耐え、バスが進むと前方に砂漠の中に古い人工物が見えて来た。
この人工物の近くでバスが停車する。目的地に到着した様である。
時刻は19時55分頃である。ここで降りるのである。
まだ、周りは明るく、夕方にはなっているが、まだ日が沈むには時間がある様だ。
見えている人工物は日干し煉瓦などを用い、造られたものでるが、今もその形はハッキリと判る程残っている。ガイドの馬さんによると漢代の烽火台だという事である。
烽火台は別名、“狼火台”と言われる。
その理由は、狼煙を上げる為に、“狼の糞”を燃やした事から、こう呼ばれている。
なぜ、“狼の糞”を用いたのかと言うと、“狼の糞”を燃やすと、その煙が風に流されず、真っ直ぐ立ち上ると言われていたからである。この狼煙は当時最も早く敵の侵攻の情報を知らせる手段であった。
敦煌から長安(当時の漢の都。現在の西安)まで、約3日でその情報を知らせたと言われている。
この間には山岳地帯などもある為に、当時としては早馬よりも早かったのである。
全員がバスを降りると、馬さんが少し烽火台に近づいたところで、説明を始める。
しかし、烽火台については、私が知っている情報以上の説明はなかった。
また、この烽火台はここからも見えている“敦煌古城”よりも一段高い台地の上に建てられている。
この台地上の場所と鳴沙山からの山々との間の谷合の様な場所に“敦煌古城”が造られている。
ここからは見下ろす様に“敦煌古城”が見えているが、それ以外は何もない殺伐とした砂漠の風景である。
ここで暫く、夕日が沈むまで自由時間となる。
冨田君と共に、烽火台に近づき、まずは記念写真を撮る。どの位置が良いかを暫く考え、写真を撮る。
その後、思い思いに烽火台やその周りの風景の写真を撮る。 -
この辺りは、ゴビ砂漠の一部である。
ゴビ砂漠は、中国の内モンゴル自治区からモンゴルにかけて広がる砂漠である。
東西約1600km、南北約970km、総面積は約130万km2で、世界で4番目の大きさを誇る。古くから匈奴を始め、柔然、突厥、回鶻、モンゴル帝国などの活躍の場であり、シルクロードの重要な拠点都市が幾つか存在している。
また、この鳴沙山から連なる山々から広がる台地が黄土高原で、日本でも春先に良く発生する“黄砂”は、この黄土高原から砂嵐で巻き上げられた砂が広範囲に飛散し、地上に降り注ぐ気象現象である。
ゴビとはモンゴル語で“沙漠、乾燥した土地、礫が広がる草原”などを意味する。
ゴビとは、“砂漠”を意味する言葉で、日本での“ゴビ砂漠”は、“砂漠砂漠”の意味になる。
中国では古くから(秦頃から記載が残る)、この土地は“大漠”と呼ばれ、“砂の海”の様に考えられていた土地である。
中国では、標準時は北京時刻一つだけであるので、経度から考えれば、敦煌では時間が1~2時間ずれているので、この時間でもまだ日が沈まないのである。
しかし、残念な事に少し雲が多く、夕日が沈み方向に夕日は見えず、辺りが少し暗くなって来た20時35分頃までいたが、結局沈む夕日は見えなかった。
ほぼ夕日が沈む時間と言う事であきらめて、バスに乗り込む。まだ、辺りはまだ明るい感じである。
バスに乗り込み、再び砂漠の中の舗装されていない道なき道を進む。何度もバスがバウンドし、席から落ちない様に席にしがみ付く。やっとの事、舗装された道に戻り、敦煌の町に戻る。 -
先程とは反対側の景色で、“敦煌古城”とは逆の景色である。
暫く敦煌の町方向に走ると、進行方向の左手に砂漠の中に人口の建造物が整然と並ぶ景色が見えて来た。近づくとそれが大規模な太陽光発電施設である事が判った。
残念な事に道路から遠く、肉眼では確認出来るが写真では上手く撮れない。
砂漠地帯一面に、太陽光パネルが並んでおり、日本における気休め程度の施設とは、迫力が全く異なり、中国の建築規模の大きさを見せつけられた感じである。
帰国後、調べると、この敦煌郊外の太陽光発電施設は、世界最大級の太陽光発電施設で、2020年頃までに10万キロワットの発電量の施設を完成させる予定との事であった。
敦煌は雨が降らず、日照時間も多いので、太陽光発電には最適の場所である。
また、風も強く、風力発電施設も同規模のものが計画されているそうだが、バスからが風力発電施設は確認できない。
もう、この辺りまで戻ると、暗くなって来た。そして、すっかり日が沈んだ頃に敦煌の町外れに入った。
みんな、疲れているのか、帰りは寝ている人が多い。
敦煌の町は街灯が少なく、あまり町の景色が確認出来ない。
ここで、冨田君とホテルで戻った後の予定を相談する。
予定では足裏マッサージに行こうと思っているが、それで良いかを確かめる。冨田君もそのつもりであった様で了承が得られたので、ホテルに戻った際に馬さんに相談する事にした。
町の中心街になり、やっとネオンなどで周りの景色が判る様になったが、もうホテルの近くであった。
バスは21時過ぎにホテル前に到着した。
バスを降り、ホテルのロビーに入り、ここで集合となる。
馬さんから明日の朝の予定の説明が始まる。
朝は、夕食を食べたレストラン“太陽宮”で朝食が取れると言う。
朝食時間は、7時からである。
ホテルの出発は8時30分予定で、8時25分までにここに集合する様に言われる。
これだけ説明を受け、解散となる。 -
<足裏マッサージへ>
みんなが部屋に戻る際に冨田君と私は、足裏マッサージの予約をお願いする為に、馬さんに近づく。
そして、足裏マッサージについて聞く。
料金は一人200元との事であるが、お勧めの店との事で、予約をお願いした。
その後、一旦部屋に戻り、荷物を置いた後、再びこのロビー集合する様に言われ、我々は一旦部屋に戻る。
貴重品とカメラ以外のものは全て、部屋に置き、再び冨田君と共に1階ロビーに戻る。
再び馬さんと合流する。既に馬さんが、足裏マッサージの予約を入れてくれた様だ。
我々は、馬さんについてホテルを出る。
ホテルから飛天像の建つロータリーの交差点まで行き、更に交差点を過ぎ、次の大きな通りの先で小さな路地に入る。その路地を少し入ったところにあるビルが足裏マッサージの店である。
そのビルの入口階段を上り始める。丁度、入口に看板があった。
その看板には、“敦煌足道中心”と書かれている。漢字の下には、英語で“DUN HUANG FOOT MASSAGE”と書かれている。フットマッサージ専門店である。
階段を上り、2階に上がると、そこには待合場所と受付があった。
待合場所には客がおらず、数人の若い女の子がお揃いの制服を着て、待っている。
我々は馬さんについて、受付に行き、足裏マッサージをお願いする。
時刻は21時10分頃である。
馬さんから、約75分で200元と説明を受け、200元を支払う。ここで馬さんとは別れる。
ホテルから然程遠くなく、道も単純なので、我々だけで帰れるが、馬さんは終了するまでここで待ってくれると言う。
受付から奥のマッサージ部屋に通される。
部屋にはリクライニングの大きなソファが4つあり、その中央の2つに座り、暫く待つ事になる。
まずはこのリクライニングのソファに用意された服に着替える様、女の子が身振り手振りで説明してくれ、我々がその用意された服に着替える。
暫くすると、大きな桶の様なバケツを持ち、2人の若い女の子が入って来た。
この子達も先程、待合場所で見かけた女の子と同じ制服を着ている。
ピンクと黒の横島模様のポロシャツに、ジャージ風のズボンで、胸にはこの店の名前の刺繍が見える。
まずは、桶の様なバケツで足湯である。我々が女の子に促され、バケツのお湯に足を漬ける。
お湯は最初少し熱く感じたが、少し経つと丁度良い温度になった。
その足湯を始めると女の子が我々の腕のマッサージを始める。この様なマッサージは初めてである。肩などを揉まれるのは、日本でもよくあるが、腕のマッサージは初めてである。
この足湯と腕のマッサージを5分程行ってくれた。
足湯を行っていると、別の女の子がジャスミン茶を持って来てくれた。これはサービスの様だ。
そして、足を拭き、右足をタオルで包み、左足から本格的に足裏のマッサージを始める。
マッサージのやり方は日本と同じである。クリームを足に塗って行う。
それにしても若い女の子達である。20歳前後か?少し英語が判る様なので、質問をしながら、マッサージを受ける。
女の子達の名前は、ジョジョちゃんとミンミンちゃん。私の担当は、ミンミンちゃんである。
本当の名前ではなく、店でのニックネームであろう。 -
歳を聞くと、英語が判らない素振りをし、ごまかされた様だ。
マッサージに力強さはないが、非常に丁寧にマッサージをしてくれる。
足裏マッサージなので、痛い場合が多いが、これなら心地よい感じで寝てしまいそうである。
その後も少し会話をするが、ミンミンちゃんは英語があまり判らない様で、冨田君の担当のジョジョちゃんに中国語で確認をしながら、答えてくれるという事が多かった。
少し慣れた頃に我々の事も質問をする様になった。我々もその質問に答える。
その際に写真を撮って良いかを確認し、OKが出たので、2人の女の子の写真を撮らせてもらう。
一通り、質問が終わると互いに会話の内容がなくなる。
我々も英語が堪能な訳でもなく、質問出来る事も限られた。
その後、互いに無口になり、女の子達はマッサージに集中する。左足のマッサージを終え、右足のマッサージを始める。
この頃に再び、女の子が部屋に来て、ジャスミン茶を新しいものに交換してくれる。
マッサージをして貰いながら、支払った200元のうち、この子達にはどのくらいのお金が渡るのかが、非常に気になった。中国の地方都市で200元はかなりのお金である。
上海などの海岸線の都市では、もう日本の半分以上の月給を取る人も多くなって来ているが、まだ内陸部はそうではないと思う。
せいぜい、日本の1/10程度くらの月給の人くらいであろう。そうすると、日本円で2万円程度だ。
それを考えると、200元(約3000円)は非常に高い料金である。地元の人では、この足裏マッサージ店は、余程のお金持ちでないと利用出来ない。
この子達は1/10も貰えれば、非常に高級取りなのではないか?
1日にどのくらの人が客として付くのかは判らないが、3人/日も行えば、60元(約750円)、20日働いて、1200元(1万5千円)/月である。
この程度なのかと考えて、少し質問してみたが、英語が判らなかったのか、店からその手の会話は禁止されているのか、判らない素振りであった。
足裏が終わると、最後にふくらはぎのマッサージを行い、マッサージは1時間程で終了となった。
再度に丁寧に、クリームを熱いおしぼりの様なもので拭く取り、終了である。
終了すると女の子達は部屋から出て行く。我々も服を着替え、部屋を出る。
そして、待合場所に戻り、馬さんと合流する。
馬さんに、「どうでしたか?」と聞かれ、「良かったですよ!明日も他に楽しいオプションが無いのでしたら、来たいですね!」と我々が答える。そして、店を後にする。
時刻は22時半を過ぎている。もう通りを走る車も少なくなっている。
馬さんに敦煌の町の印象などを聞かれ、「敦煌の人達には悪いですが、思いの外、都会なのに驚きました。」と答える。それに対する馬さんの返答は無かった。
途中、ホテルの部屋用の飲物を購入したい旨を馬さんに伝え、帰る道にある便利店に立ち寄る。
便利店は中国版のコンビニである。上海などの大都市には既に日本のコンビニと同じ様な店はあるが、まだ地方都市では便利店が主流である。
便利店は様々で、飲物とお菓子などのみを売る店と生活雑貨全般を売る店など様々である。
我々は飲物とお菓子などを売る便利店に立ち寄り、私はお茶などの500mlのペットボトルを2本購入する。価格は意外と安く、2本で5元(約75円)である。
冨田君も500mlのペットボトルを1本購入した。
その後、再びホテルに向かい歩き始め、寄り道もせず、そのままホテルに戻る。
ホテルには10分程で到着した。時刻は22時45分頃である。
馬さんに礼を言い、我々も部屋に戻る。ホテルのロビー奥にある売店が開いていれば、少し土産物を見る事を考えていたが、今日は既に閉まっている。
仕方なく、部屋に戻る。時刻は23時前である。
冨田君と話し、風呂に入る順番を決める。先に冨田君に入って貰い、その後で私が風呂に入る。
風呂と言っても、簡単にシャワーを浴びる程度である。
風呂から上がり、髪が乾くまで今日の出来事などをメモ帳に纏める。時刻は既に0時を廻っている。
明日は、然程朝が早くないが、今日は非常に長い一日になった。
中国国内では先程も書いたが、時差がないので、時計ではそれ程遅い時間ではないが、西安からでは1時間以上の時差があると思われる。
それを考えると、既に今日は20時間近く起きている事になる。
その為か、冨田君は早々に寝る体制に入っている。明日の起床時間を6時と決め、先に寝て貰う。
私はもう少し髪が乾くまで、今日の出来事などを纏める。
それでも0時半過ぎにはベッドに潜り込み、寝る体制に入る。すると、直ぐに寝てしまった。
今回はこれでおしまい!
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