2012/04/29 - 2012/05/03
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西安・敦煌の世界遺産旅行の3日目~敦煌の鳴沙山、莫高窟の観光~
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<敦煌観光の朝と朝食>
朝、6時に目覚ましをセットしていたが、6時前には目が覚めた。
まだ、冨田君は寝ている様なので、ベッドから出ず、暫く時間を潰す。
昨日は疲れていると思っていたが、意外にすっきりと目覚めた。
少しすると目覚ましがなり、冨田君も起きた。冨田君は直ぐにベッドから出て、顔などを洗いに行った。
私も起き、顔などを洗う準備をし、冨田君の後に洗いに行く。
洗面も済ませ、今日の準備を行う。
今日は一日、敦煌の観光である。本旅行の最大の目玉である敦煌・莫高窟の見学である。
荷物はそのままホテルの部屋に置いておけるので、必要な物のみを選別し、リュックサックに入れる。
ま朝食の時間までには少し時間があるので、ガイドブックなどで今日の莫高窟の情報を頭に入れる。
しかし、今日の最初の観光地は、莫高窟ではなく、この敦煌のもう一つの名所である鳴沙山と月牙泉である。
7時30分過ぎに冨田君と共に部屋を出て、1階のレストラン“太陽宮”に向かう。
レストラン入口でルームキーを見せ、中に入る。
朝食はバイキングである。当然中国なので、中華料理のバイキングである。
最近中国の日本人観光客などが宿泊する高級ホテルでは西洋式のバイキング(ブッフェ)形式が定番であるが、ここでは中華料理のみのバイキングである。
2人で空いている席に着く。席に荷物類を置き、料理を取りに席に立つ。
料理は然程多くはないが、中華バイキングの定番的な料理は並んでいる。
大体以下の様な料理を取り、席に戻る。
<敦煌太陽大酒店内の太陽宮での朝食(中華バイキング)>
①目玉焼き
②野菜スープ
③中華風焼きそば
④青菜の塩炒め
⑤人参の塩炒め
⑥饅頭(肉、野菜入り)
⑦牛肉麺
⑧小饅頭(餡入り)
⑨カステラ風パン
⑩揚げパン
⑪フルーツ(黄桃/梅/リンゴ)
⑫飲物(オレンジジュース/珈琲)
中華風焼きそばは、なかなか美味しかった。激辛麺ではあるが、暑い土地ならではの辛さである。
饅頭はパサパサした感じで何か汁物と一緒でないと少し食べにくい。また、中国の西域でよく食べられている牛肉麺(ニュウロウミェン)があったのは嬉しい。
この麺は数回、中国で食べた事あるが、非常にあっさりとしたスープの麺で美味しい。
ここの麺も非常にあっさりとしたスープである。
パンは定番の揚げパンとカステラ風パンである。揚げパンはこれまでもよく食べたパンであるが、あまり美味しいものではない。
この様な料理を30分程掛けて食べる。
その間に何組かの同ツアーの人達がレストランに現れ、朝の挨拶を行う。
食事を終え、その後、一旦冨田君と共に部屋に戻る。
部屋に戻ったのは、8時10分頃で、集合の8時30分にはもうあまり時間はない。
部屋に戻ってもする事もなく、ただソファで冨田君と今日の観光の話や今晩の予定などを少し話す程度であった。
そして、8時20分頃には準備を済ませ、部屋を出て、再び1階ロビーに下りる。
1階ロビーには既に数組が集まっていた。馬さんも既にいる。 -
出発前に冨田君が両替を行いたいとの事で、フロントへ行くが、まだ両替が出来ない時間だった様で、両替が出来なかった様だ。
程なくツアー客全員が揃い、8時25分頃には馬さんを先頭にホテルを出る。
バスは既にホテル近くの路上に待機していた。そのバスに乗り込む。
敦煌の街はまだ車も人通りも少ない。
全員が乗り込んだ事を確認し、バスが出発する。
バスは、ホテルから飛天像のあるロータリーまでの行き、その交差点を右折し、そして更に少し走ると今度は左折する。先日、街を散策した際に見つけていた道路標識通りである。
道路脇の標識を見ると、この通りは“鳴山路”と言う様だ。
地図で確認すると、バスは敦煌の街から南の方向に進んでいる。鳴沙山は敦煌の南東に位置する。
ここからバスは道なりにを進む。今日は少し風がある様で街中でも砂塵が舞っている。
暫く走ると、もう敦煌の街を抜け、砂漠の中の造られた道になる。
道の両脇には防砂林の様に木々が並ぶ。
何の木かは判らないが、先日街郊外で見た、背の高いポプラの木とは違う。
ホテルから10分も走ると前方に大きな砂山が見えて来た。
これが鳴沙山である。 -
<鳴沙山と月牙泉>
更に少しバスが走ると前方に門の様な建物が見えて来た。
バスはその手前に設けられたバリケードの近くの道路脇に停車した。ここで降りると言う。
この場所から、前方に見えている門の様な建物まで歩くのである。
必要な荷物を持ち、バスを降りる。
やはりバスを降りると風が少しあり、砂塵が舞う。
見れば門の様な建物から両側に壁が延びている。砂色の壁でバス内からは判らなかった。
その門の様な建物前まで歩き、ここで馬さんの入場手続きを少し待つ事になった。
その間にこの辺りの景色の写真を撮る。
冨田君にお願いし、門の様な建物、実際には鳴沙山と月牙泉の入口であるが、この門をバックに写真を撮って貰う。私も冨田君のカメラで同じ様に冨田君を撮る。
5分程で馬さんが戻り、我々一人一人に入場券を渡し、この入口門に向かう。
入口門は左側が団体の入場口になっている。その入場口から入る。
この門を抜けると、前は敷石で舗装された大きな広場になっている。 -
その中央付近でツアー客全員が入場を待ち、ここで一旦集合する。
時刻は8時50分頃である。
全員が集合すると、馬さんからこの鳴沙山と月牙泉の説明が始まる。
馬さんの説明を要約すると、
この鳴沙山は、砂山といっても全体では南北20km、東西40kmに広がるという途方もなく大きなもので、山の高さは様々な数値があるが、最高峰は、約250m。その山の全てが細かい黄金色の砂で出来ている。 -
“砂でできている”というのは、“砂に覆われている”という意味ではなく、文字どおり“砂で築かれている”という意味である。
この話は、ちょっと日本人には想像できない大自然の造形である。
この乾ききった細かい砂は風によって流され、時々刻々とその姿を変える。
日本人のイメージとして、月の砂漠を進む隊商のイメージの最も合う風景の一つである。
この黄金色(実際は、赤・黄・白・黒・橙の5色の細かい砂粒で出来ている)の砂が作り出す鳴沙山のシルエットを最高に際立たせてくれるのが沈む夕陽に照らされている時なのだと言う。
今回のツアーでもその時間に組まれているものと思ったが、朝一番の観光とは少し残念である。
その美しさは本当に言葉では表現できない壮大さと優美さがあるそうだ。
鳴沙山という名前は、乾ききった細かい砂が流れるときに音を立てることから来ている。
この鳴沙山には自由に登ることが出来るそうだが、砂の上を登るには非常に体力が必要で、実際は砂が細かすぎて足は滑り、そして埋もれ、とてもとても普通の靴では登る事は出来ないそうだ。
その為にところどころに登山道が設けられている。
登山道といっても木製の梯子を敷いたような階段が尾根まで続いているが、この階段は有料だと言う。
また、この鳴沙山には言い伝えられている話があると言う。
この鳴沙山に昔、軍隊が野営をしたが、一晩のうちにその軍隊は砂に埋め尽くされたと言われている。 -
この様な説明の後、馬さんから「普通の靴では、この鳴沙山は歩き辛いので、歩き易くする為と靴内に砂が入らない様にする為に有料ですが、あちらで靴カバーを付けて貰えますが、どうですか?」と言う。
砂の上を歩いている人の半数くらいが明るいオレンジ色の靴カバーを付けている。
靴カバーを付ける前に丁度、敷石で舗装されたから少し砂漠に入ったところに“鳴沙山”の文字が刻まれた石碑があるので、その前で記念写真を撮る。
そして、靴カバーをはめて貰う為に入口右手の場所に行く。
木製の長椅子が幾つも並んでいる。ここで足に靴カバーをはめて貰う。
料金は20元(約250円)である。
慣れた手つきで靴カバーを付けてくれた。そして、この脇には多くのラクダが屯している。
ここからラクダに乗りる事が出来る。
我々もここからラクダで鳴沙山を登るのである。
そのラクダ乗り場に一列に並び、順番を待つ。
見ていると、ラクダは何頭かが隊になっている。これも演出なのか、隊商体験も含め、出来るのである。一つの隊にラクダは5~6頭で形成されている。
ラクダは2こぶラクダである。我々の順番になり、一人一人が座ったラクダに乗り込む。
乗り込む前に馬さんが、「私はラクダには乗りません。ラクダは砂丘を登り、そこで一旦降りて、その後また、ラクダに乗り、戻って来て下さい。私はラクダの降り場で待っています。」と言い、離れていった。
時刻は9時過ぎである。
意外とラクダはおとなしく、人の言う事をよく聞く。丁度、こぶの間に鞍が置かれ、そこに座る。
隊のラクダに全員が乗ると、ラクダが前足から立ち上がる。その際にガクンと一旦後方に大きく揺れ、鞍を持っていないと振り落とされてしまいそうだ。そして、後足も上げる。
ラクダが立つと、非常に高い。
隊の全ラクダが立ち上がると、隊が動き出す。先に別の隊も砂漠を進み始めている。
その隊の後ろについて、我々の隊も砂漠を進む。 -
この入口辺りはまだ平坦であるが、前方は緩やかに上りになっている。砂漠の中に一筋の道の様なものが出来ている。これはラクダの隊が歩いた跡である。その上を我々の隊も進む。
坂に差し掛かり、少し登った坂の途中で、隊が停止する。
見ると、隊の横には何人かのカメラを持った人が一人一人のラクダに乗った写真を撮っている。
記念写真として、後で買う様に進められるものだろう。観光地では良くある事である。
平坦なところではあまり揺れなかったが、少し坂に差し掛かると、揺れが大きくなり、鞍をしっかり掴んでいないと振り落とされそうだ。鞍を離し、カメラを構える余裕がない。
暫くはこの揺れに慣れる事が必要である。
低い砂山の尾根部分まで登り、その尾根伝いに隊は進む。
少し平坦になったのか、揺れが少なくなったので鞍から手を離し、揺れる中で写真を撮るが、思う様には撮れなかった。
更に隊は尾根伝いに進み、前方の大きな砂山の中腹辺りまでもう少しである。
そこには多くのラクダが集まり、休んでいる。そこまで行く様だ。 -
やっとの事、その場所までたどり着き、隊が停まる。
そして、隊の前のラクダから順番に砂の上に座り始める。
座る時も同じ様にまず前足から折り、そして後足を折る。
ラクダが前足を折り、座った時には前に放り出されるのでないかと思う程、大きく揺れた。
しっかり鞍を掴んでいたので、何とか放り出される事は無かった。
完全にラクダが座ったのを確認し、ラクダから降りる。
周りを見ると、もう同ツアーの人達も殆どがラクダから降りている。冨田君も前方で降りていた。
冨田君と合流する。時刻は9時30分頃である。
馬さんがいないので、この場所でどれくらい時間があるのか?また、これからどこへ行けば良いのか?
判らないまま、その場で暫く、ここからの景色を楽しむ。
ここからは前には更に大きな砂山が聳えている。
その斜面を多くの人が登っているが、非常に登るのに苦労している。
少し離れた斜面には登る為に登山道が見える。
一定間隔に木が置かれた階段がかすかに見えている。そこを登る人も多い。
冨田君とこの目の前に聳える砂山を登るかどうかを相談するが、互いに登れる自信もなく、ここからの景色も雄大なので、この辺りから景色を楽しむ事にした。
同ツアーの人達の何人かはこの砂山登山に挑戦を始めている。しかし、登るそうそうに砂に足を取られ、苦戦をしている。
丁度、我々がいる場所の後方には屋根のある場所があり、その場所の少し先では板をソリ代わりの砂山の斜面を滑り下りている。
やっているのは殆どが大人で、子供用のアトラクションではない様だ。
ここでは何もする事がない。
砂の上に座っていると偶に強い風が吹き、砂が舞う。
非常に細かい砂なので、カメラが心配である。使わない時は、なるべく、カバーを掛けた状態にしておく。 -
砂山を登っている同ツアーの人達を見ると、1/3程登ったところで、休憩をしている。
あまりに登り難いので、登るのか、止めるのかを思案している様である。
その人達を見ていると、半数以上の人が下り始めた。やはり、登るのを諦めた様だ。
我々の乗って来たラクダ達は本当におとなしく砂の上で休憩をしている。
どのくらいの時間でまたラクダに乗るのであろうか?馬さんもそれくらいは教えて欲しかった。
更にこの辺りを少し散策するが、周りは砂山ばかりで何も変わったものはない。
見えるのは砂ばかりである。
登って来た方向を見ると、砂漠の途切れたところからが街になっている。急に緑の木々が増える。
ここから見ると敦煌の街は思いの外、緑が多い、というよりはここからは街全体が緑で覆われている様に見える。飛行機の窓から見えた敦煌の街は、砂色の大地が広がっていたが、そうではない。
もうこの場所に到着して30分くらいが経った。すると、ラクダの隊が動き始めた。
同ツアーの人達もそれを見て集まり始め、砂山に登っていた人達ももう戻って来ている様だ。
再び、ラクダに乗り込む。時刻は10時過ぎである。
そして、今度は、来た道ではなく、砂山の斜面に造られた道を進み始める。
左手に多くの観光客が登っている砂山が聳えている。
もうラクダの背にも慣れて来た。鞍から手を離し、写真も撮れる様になった。
左手に聳える砂山の尾根には多くの観光客が歩くのが見える。
ラクダはこの砂山に沿う様に歩き、そのまま月牙泉の入口付近まで行くのである。
再び、ラクダに乗ってから20分程で月牙泉の入口に到着した。ここでラクダを降りる。
その場所に馬さんが待機していた。この場所は人口に造られたオアシスである。 -
見れば、人口池や畑などがある。
月牙泉はここから更に砂漠を歩き、200m程先にあるそうだ。ここからは歩きである。
このオアシスはトイレや売店などがある施設である。
トイレに行きたい人はここで済ませ、木々の木陰で馬さんから簡単な月牙泉の説明が始まる。
この場所のもう一つの観光地である月牙泉は、鳴沙山の谷合に湧く三日月形の泉で、東西が約200mで、幅は広いところで約50m、深さは5m程度との事である。
月牙とは中国語で三日月を意味する言葉である。
古くは漢代の遊閑地として史書にも出てくる。この泉は枯れる事がないそうだ。
砂漠の中に湧く泉は不思議な現象である。
しかし、近年その水位が下がって来ている事から、この人工のオアシスから水を供給していると言う。
また、この月牙泉のほとりには楼閣が復元されているそうだ。
この場所は古来から神仙が住む場所とされ、寺院が建てられていた。
その寺院を復元しているのである。
この様な説明を受け、更に「ここから少し自由時間にします。今が10時35分過ぎなので、集合は11時15分します。月牙泉の観光に行かれる方は、ここから歩いて10分程で観光して、往復しても30分程度で帰って来れると思います。そして、集合場所は先程ラクダを降りた場所にします。それでは月牙泉を観光される方は行って下さい。ここで休憩される方は売店などもあります。」と言う。
冨田君と相談し、我々は勿論、月牙泉まで行く。早々に歩き始める。 -
道と行っても砂漠が広がるだけで道らしいものはない。既に前方に月牙泉とその畔に建つ楼閣が見えている。その楼閣に向かい、我々も砂漠を歩く。多くの観光客がその月牙泉の周りにいる。
歩き初めて5分程で月牙泉の端に到着した。
途中、右手に大きな砂山が聳えていたが、その麓には柵が設けられ、その砂山には登れない様にされていた。崩れやすい砂山なのであろうか?
月牙泉は砂漠から一段低い位置にあり、その周りも柵で囲まれている。
砂のところまで柵が続いている事から、今は水がないがこの柵の近くまで泉があったのかも知れない。今の泉は、その柵の3分の2くらいの大きさしかない。
確かに水が然程多くない様に見える。この程度の水が枯れる事がないとは信じがたい。
その月牙泉の畔に沿い、楼閣の方へ歩く。この楼閣の周りにだけ、緑の木々が少し生えている。
-
その楼閣の見学を行う。建物は最近造られたのか、綺麗である。
中国で良く見かける原色を使用したカラフルな建物ではなく、砂色のシックな建物である。
建物群の中心には3層の楼閣がある。一番上だけ屋根が二重になっている。
時間は然程ないが、一通り、建物内を巡る事にした。
建物内は観光する場所というよりは、休憩場所になっている。中には売店もある。多くの観光客がここの日陰で休憩をしている。 -
我々は2階に上がり、楼閣の2層部分の回廊に向かう。
楼閣の2層部分の回廊部分が展望台の様になっている。楼閣内には入れない。 -
その場所まで行き、あまりに混雑しているので、回廊を廻る事は諦め、月牙泉が見える場所まで行き、写真を撮る。
また、ここから鳴沙山の砂山を見ると、その斜面を多くの観光客が登っているのが見える。
この楼閣からその反対側の回廊を使い、1階に下りる。
そのまま、時間もないので、この建物を出て、集合場所に向かう。
行きには気が付かなかったが、建物の近くに土で固められた遊歩道がある。 -
帰りはその場所を少し通る。その近くにはなぜか石碑が所々に置かれている。
何の石碑なのかは判らないが、中には非常に新しいものもある。一文字だけ彫られたものや誌が刻まれたものなどがある。
途中に置かれた幾つかの石碑を撮り、時間を見ながら歩く。
その後、砂漠を通り、集合場所に急ぐ。
砂漠を歩いていると少し風が吹くだけて多くの砂塵が舞い上がり、視界を遮る。少し朝に比べ、風が強くなって来ている。
ラクダを降りた場所には11時10分頃に到着した。もう殆どの人が集まっていた。
同ツアーの人達が揃うのを少し待ったが、程なく全員が揃うと、馬さんが、「それではまた、ラクダに乗って入口に戻ります。」と言う。 -
また、ここから再びラクダに乗るのである。ラクダはもう終わりだと思っていた。
ラクダに乗り込み、入口を目指す。ラクダに乗った頃から風が非常に強くなって来た。
ラクダの上でも砂塵が舞い上がり、砂が顔を叩く。
5分程で入口の最初にラクダに乗った場所に到着した。その場所でラクダを降りる。
ラクダを降り、靴カバーを長椅子に座り、外す。
見ると長椅子の後ろに先程ラクダ乗った際に上り坂で撮られたと思われる写真が並べてある。
ツアー客の何人かが、自分の写っている写真を探している。
私も自分の写っている写真を探す。そして、自分の写っている写真を見つけた。
冨田君の写真も近くにある。冨田君に聞き、買うかどうかを相談する。
馬さんに価格を聞くと、1枚は140元(約1800円)だと言う。
少し高いが、記念なので買う事にした。冨田君も買った。
見れば、同ツアーの人達も多くの人が買っている。ラクダに乗っている自分の写真は、撮る事が出来ない為である。
写真を購入後、入って来た入口門から出る。時刻は11時20分過ぎである。
そして、待機しているバスまで歩く。
風は更に強くなり、砂嵐の様になって来た。全身を細かい砂が叩く。
それでも、まだ目は開けていられる。
待機しているバスに乗り込み、やっと砂嵐から逃れた。時刻は11時30分前である。
バスが走り始めると、馬さんが、「これから昼食場所に移動します。ここから30分くらいで到着する予定です。今日の昼食は敦煌の郷土料理です。」と言う。
バスは砂嵐が吹く中を進む。 -
<昼食の敦煌郷土料理>
バスは30分程で街中のある建物の前で停車する。砂がまだ舞っている中をその建物に向かう。
建物の1階部分がレストランになっている。入口には、“陽関食府”と書かれた大きな看板が見える。
その中に入り、奥の個室に案内される。
丁度、10人くらいが座れる大きなテーブルが中央にある部屋である。適当にみんなが席に着く。
席に着くと、みんながテーブルに置かれたおしぼりで顔などを拭き始める。 -
鳴沙山で砂を全身に被り、更にその後の砂嵐で全身砂だらけである。
おしぼりで顔を拭くと、細かな砂でおしぼりが黄色になる。腕などにも多くの砂が着いている。
みんなが顔などを拭いている中で、馬さんが飲物の注文を取り始める。
喉が渇いているはずが、然程飲物を欲しいと思わず、私は飲物は注文しない事にした。
みんなは麦酒などを注文している。
そうしていると最初の料理が運ばれて来た。最初の料理はスープである。
肉だんごとつみれの入った野菜スープである。肉は何の肉なのかは不明で、つくねも何のつくねなのか不明である。
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出て来た料理は以下の様な内容である。
<陽関食府での昼食>
①肉だんごとつみれの野菜スープ
②シシカバブー
③花巻
④酢豚
⑤草魚のオイスターソース煮
⑥野菜(人参/ピーマン/筍)と鶏肉のケチャップ炒め
⑦青菜の塩炒め
⑧きゅうりと人参の卵炒め
⑨カレー風味の重ね揚げ(中には肉のすり身の様なものが挟まっている)
⑩酸辣麺
⑪卵と青海苔のスープ
敦煌料理は四川料理に近く、味付けが辛い。
敦煌も西安と同じくさまざまな民族が生活しているので、イスラム風の料理も多い。出て来たシシカバブーなどもイスラム圏の代表的な料理一つである。
しかし、出て来た料理にはガイドブックなどに書かれている様な敦煌料理の代表的な料理は出ていない。寧ろ、西安料理に近い様な料理類である。
敦煌料理は、中国新八大料理の一つに数えられる。
地元の羊や牛などの素材を生かしたもので、先程も書いたが四川料理と似ているが特徴で、唐辛子や花椒などの香辛料を効かせた場合が多い。
因みに一般に“中国八大料理(新八大料理ではない)”は、山東料理(魯菜)、四川料理(川菜)、広東料理(粤菜)、福建料理(閩菜)、江蘇料理、(蘇菜)、浙江料理(浙菜)、湖南料理(湘菜)、安徽料理(徽菜)である。
敦煌の食文化のもうひとつの特徴は胡食である。
中国の北部や西部の異民族(とくに遊牧民族)の食べ物である。我々に馴染みのあるものは、黄麺などの麺類である。
花巻などは中国の全土で良く出てくる代表的な料理である。
単なる肉まんの皮であるが、これは中国では良く出てくる。
また、酢豚ももうかなり中国の旅行に来たので、この豚肉を揚げた豚肉のみの酢豚も非常に慣れた。
草魚は中国の代表的な淡水魚で鯉の一種である。
大味の泥臭い感じの魚であまり好きではない。淡水魚なので、小骨が多い。
また、黄麺が出て来た。少し太めの麺で敦煌など西域では有名な麺である。
この敦煌では、駱肉黄麺が最も有名であるが、その麺ではない。黄麺とスープが出て来た。
このスープを掛けて食べるのである。スープは酸辣スープである。色は赤くはないが、酸っぱく、少し辛いスープである。
敦煌の黄麺は“龍のひげのように細く、金線のように長く、食べると香りが口に広がる”と人気の麺だとガイドブックには書かれているが、普通の太麺である。
最後はまたスープが出て来た。
あっさりとしたスープで、口直しには最適である。青海苔の様なものが入っているが、この中国の奥地で海苔が手に入るのであろうか?日本の川海苔の様なものが中国でもあるのか?
観光客向けに出てくる料理であるので、敦煌では定番に近いスープなのだと思われる。
料理の量としては、充分である。
しかし、この食事中に少しトラブルが発生した。
同ツアーの半数近くの人達のカメラが動作不良を起こしているのである。
多くの人はカメラのレンズが動かなかったり、カメラのオートフォーカスが効かない様である。
何が原因かは明白である。砂漠を歩いた事と砂嵐の為に、カメラに細かな砂が入ったのである。
私や冨田君のカメラは被害を受けていないが、カメラには細かな砂は付いている。
同ツアーの人の中には、カメラを1台しか持っていない人が多く、これから写真が撮れないと言う人が多い。これでは旅行の楽しみが半減である。
私が持つカメラ用の細かな埃を取る為の道具類を希望する人に貸すが、それでレンズ周りの細かな砂を除くが、それでもカメラが作動しない様だ。
料理を食べ終わる頃には、みんながカメラを何とか作動させられないかと苦心している異様な光景であった。
その様な中で、馬さんが、「皆さん、砂漠と歩いた事と少し風が強くなった事で全身に砂が着いていると思いますので、ここから一旦ホテルに帰り、着替える事にしましょう!その後、この敦煌観光のメインである莫高窟の観光に向かいます。宜しいですか?」と言う。
みんなが同意し、飲物を飲んだ人はその精算を済ませ、個室から出る。 -
街中でもこれだけの砂塵が舞うのである。
再び、バスに乗り込む。時刻は12時35分過ぎである。
バス中で馬さんにこの様な砂嵐は良く発生するのかと聞くと、「この時期には砂嵐はよくありますが、これ程酷い砂嵐は今年初めてだと思います。」と言う。
バスは5分程でホテルに到着した。
バスを降り、ホテルのロビーで再び集合し、馬さんが、「それでは部屋で着替えを済ませて下さい。再集合は13時にします。」と言い、解散し、みんな部屋に戻る。
我々も部屋に戻る。時間は20分程しかない。急ぎシャワーを簡単に浴び、着替えを済ます。
それで時間いっぱいいっぱいである。髪は乾かないままではあるが、仕方がない。
再び、荷物を確認し、13時ギリギリに部屋を冨田君と共に出る。
1階ロビーに行くと、集合時間ではあるが、まだ全員は揃っていない。
やはり我々と同様に簡単にシャワーなどを浴びている人がいるのであろう。
13時5分頃に全員が集合し、再びホテルを出て、バスに乗り込む。 -
<いよいよ莫高窟観光へ>
砂嵐は止む気配がない。
馬さんによると、ホテルから莫高窟までは30分以上掛かると言う。
ここで少し莫高窟について説明を行う。莫高窟は、“ばっこうくつ”と呼ぶ。
莫高窟は中国の甘粛省敦煌市の近郊にある仏教遺跡である。
中国で最も有名な仏教遺跡の一つで、この中から出て来た敦煌文書でも有名な遺跡である。
莫高窟は、敦煌石窟あるいは敦煌千仏洞とも言われている遺跡で、1961年に中国の全国重点文物保護単位になり、1987年に世界遺産(文化遺産)に登録された。
敦煌市の東南25kmに位置する鳴沙山の東の断崖に南北に1600mに渡って掘られた石窟で、その中に2400余りの仏塑像が安置されている。
壁には一面に壁画が描かれ、総面積は45000m2になる。
この石窟が作られ始めたのは、五胡十六国時代に敦煌が前秦の支配下にあった時期の355年あるいは366年とされる。五胡とは匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の五つのことである。
前秦はこの五胡の“氐”の国である。
仏教僧・楽僔が彫り始めたのが最初であり、その次に法良、その後の元代に至るまで1000年に渡って彫り続けられたと言われている。
現存する最古の窟には5世紀前半にここを支配した北涼の時代の弥勒菩薩(みろくぼさつ)像があるが、両脚を交差させている姿は中央アジアの影響を示している。
それ以前のものは後世に新たに掘った際に潰してしまった様である。
石窟のうち、北部は工人の住居となっており、ここには仏像や壁画は無い。
壁画の様式としては、五胡十六国北涼、続く北魏時代に西方の影響が強く、仏伝(ブッダの伝記)、本生譚(ジャータカと言われる説話であるが、単なる説話文学ではなく,過去と現在の行為の因果関係を明らかにする教説となっている)、千仏(ほぼ同形同大の仏像を 数多く配列した彫刻や絵画をいう)などが描かれ、北周・隋唐時代になると中国からの影響が強くなり、“釈迦説法図”などが描かれる様になる。
期間的に最も長い唐時代のものがやはり一番多く225の窟が唐時代のものと推定され、次に多いのが隋時代の97である。
北宋から西夏支配時代に入ると、敦煌の価値が下落したことで数も少なくなり西夏時代のものは20、次の元時代の物は7と推定されている。
この頃になると敦煌はまったくの寂れた都市となっており、以後は長い間、莫高窟は忘れられた存在となる。
この様に莫高窟は中国の多くの王朝(五胡十六国時代~元時代頃まで)に渡り、造られたがその後忘れられたのである。
因みに時代としては大まかではあるが、
五胡十六国時代
北涼時代(420年~)
北魏時代(439年~)
西魏時代(535年~)
北周時代(557年~)
隋時代(581年~)
唐時代
初唐時代(618年~)
盛唐時代(712年~)
中唐時代〔吐蕃支配期〕(781年~)
晩唐時代〔張氏支配期〕(848年~)
五代時代(907年~)
宋時代 (960年~)
西夏時代(1038年~)
元時代 (1271年~)
に分けられる。
この莫高窟が再び脚光を浴びるのが、1900年による敦煌文書の発見によってである。
しかし、その後も莫高窟自体にはあまり注目が集まらず、その価値が認められ、保護が行き届く様になるのは中華人民共和国成立以後の事となる。
敦煌は、古代シルクロードの交通の要所に位置した事から、東西の宗教、文化および知識を融合しあう接点でもあった。
外来の様々な文化芸術と中国の各民族の芸術が融合された莫高窟は、豊富多彩な芸術風格を持ち、これにより芸術宝庫と言われている。
歴史の変遷と破壊に会ったにもかかわらず、今尚500の洞窟が砂漠の大画廊として残っている。
東西の文化が融合したこの壁画群は“砂漠の図書館”とも呼ばれている。
この敦煌を有名にしたのが、先程も書いたが1900年に大量の経文を保存した洞窟が偶然に発見された為である。
この石窟は“蔵経洞”と呼ばれる第17窟で、長さと幅がそれぞれ3mであるが、漢語、チベット語などの文字で書かれた経典、古文書の巻物類、絹や紙、麻布に書かれた仏画類、拓本などの文化財など5万点に上る遺物が発見された。
年代は、紀元4世紀から11世紀にかけてのもので、その題材は中国、中央アジア、南アジア、欧州などの地域の歴史、地理、政治、民族、軍事、言語文字、文学技術、宗教、医学、科学技術などすべての分野に及び、“中古時代の百科全書”と称されている。
しかし、この第17窟は謎が多い窟である。
なぜ、この窟に多くの遺物が詰め込められ、隠されていたのか?
“敦煌”の映画でも、そのシーンは描かれている。
西夏がこの敦煌に攻め入った際、戦火による略奪を恐れて、逃げ出す直前にこの窟に手当り次第に経典などの文書を詰め込み、壁で塞いだというものである。
これは、この窟の発見者である王円籙の見立てによるところが強く、史実ではない。
確かに王円籙の見立ての通り、この第17窟の前窟である第16窟には西夏時代の壁画が描かれている為に、西夏時代の前に窟を塞いだ事を暗示はしているが、のちの研究ではこの塞いだ時期はもう少し新しく、西夏時代ではないかとの見方も出てきている。
また、西夏は仏教を弾圧したとの史実もなく、なぜこの様に遺物を窟に封じたのか?
西夏人が仏教に興味がなく、貴重な遺物の価値が判らず、それを物置に物を放り込む様にこの窟に遺物を放り込み、それを塞いだと言う説もあるが、この説にも謎が残る。
なぜ、その為に新たな窟を造り、わざわざ封じたのか?しかもその後、800年も発見されないくらいに厳重に封じた理由が判らない。
西夏時代に余程の賢者がいて、この貴重な遺物を保存したいと言う思いから、封じたという考え方も出来るが今も正確な理由などは解明されていない。
この蔵経洞発見後、世界各国の探検家が群がってやって来た。
20年も経たないうちに、これらの“探検家”により、4万点に及ぶ経書や珍しい壁画、塑像などを盗み出され、莫高窟は多大な災難に見舞われた。
現在、イギリス、フランス、ロシア、インド、ドイツ、デンマーク、韓国、フィンランド、アメリカなどの国で敦煌莫高窟の文化財が収蔵されており、その数は蔵経洞にあった文化財の3分の2に相当する。
蔵経洞の発見と同時に、中国の一部学者が敦煌文書の研究を始める。
1910年に中国で、敦煌を研究する著作が初めて出版され、“世界の著名な学説または学派”と称される敦煌学が生まれた。 -
その後、世界各国の学者は敦煌芸術に大きな興味を持ち始めたのである。
バスは砂漠の中の道を進んでいる。
砂漠に入ると、砂嵐が更に酷く、バスの車窓も砂で視界を遮られている。
バスはホテルから40分程で莫高窟のゲートらしき建物前で一旦停車する。
ここからが莫高窟のエリアである。そのゲートを過ぎ、少し走ると大きな駐車場に入る。
ここでバスは停車する。
バスから降りるとやはり午前中よりも砂嵐が酷い。容赦なく、強い風による砂塵が体全体を叩く。
駐車場脇には建物もあり、またその建物前には、小さな舎利塔がある。 -
馬さんの説明によれば、これはこの敦煌莫高窟を有名にした蔵経洞を発見した“王道士”の墓なのだそうだ。
ここから舗装された石畳みの道を進む。少し歩くと、水の無い河が右手に現れる。
そして、莫高窟の文字が刻まれた碑と世界遺産のマークの碑が現れる。
そして前方左手に大きな近代的な建物が見えて来た。これは莫高窟陳列館という建物である。 -
その脇を抜けると、水の無い河に橋が架かっている。その橋の向こうには門が見える。
この水の無い河は“大泉河”と言う河である。見えている門は中門と呼ばれている門である。
この中門辺りから観光客が多くなる。
この中門前まで行き、同ツアーの人達が個々に記念写真を撮る。
我々も記念写真を撮り、この中門を抜ける。
中門の先には木々が増え、道の両側には大きな並木が並ぶ。
その並木道を更に進むと、前方の断崖が見えて来る。
この断崖に彫られた窟が莫高窟である。
馬さんの説明では、まずはチケット購入に向かうと言う。
チケットは正面ではなく、少し離れた場所の様だ。
中門を真っ直ぐ進むと、右手に事務所の様な建物が見えて来た。
ここがチケット売り場である。
その前で暫く、馬さんがチケットを購入するのを待つ。 -
その建物前には、また門がある。見れば、断崖の手前には延々と柵が設けられている。
この柵で区切られているのである。
見えている門には、“莫高窟”と書かれた額が掛かっているが、現在ここは入口として使用されていない様である。
その右手に近代的な門があり、入口の文字が見える。
この門前で暫く待つ事になる。
この間に周辺の写真を撮る。まだ、中に入っていないが、断崖に多くの窟が見える。 -
馬さんがみんなの所に戻って来た。
馬さんが、「これから莫高窟の見学を行いますが、カメラを持っては中には入れませんので、ここでカメラを預かります。」と言い、全員のカメラを集める。
また、「ここからは莫高窟の専用ガイドがみなさんの案内を行います。」と言う。
そして、男性の専用ガイドが現れる。この男性が流暢な日本語で、「それではみなさん、私について来て下さい。」と言い、柵沿いの遊歩道を歩き始める。 -
見えていた入口からではなく、柵沿いに左手に進み始める。
馬さんに聞くと、先程見えていた入口は中国人専用の入口で、外国人の入口は別にあり、そこに向かっていると言う。
そして暫く歩くと、この莫高窟のシンボル的な建物である九層楼が見えて来た。
この九層楼前まで来ると、また入口がある。ここが外国人用の入口である。
ここから馬さんとは別れ、莫高窟の専用ガイドについて、この入口から柵内に入る。 -
時刻は14時15分頃である。
柵内に入ったところで、専用ガイドから説明が始まる。
「今日は出来るだけ多くの窟が見られる様に説明を行いますが、見学する窟はこちらで決めさせて頂きます。その事はご了承下さい。また、現在北側にある僧侶の生活場所の窟は未公開になっています。また、窟によっては他の観光客と一緒になる可能性があるので、迷子にならない様にお願いします。」と言う。そして、先頭に立ち歩き始める。
まずは正面に見える九層楼の脇にある窟に入る。ここは第94窟である。
窟の中は非常に暗い。
照明などもなく、専用ガイドが持つペンライトの明かりがたよりである。
我々もペンライトを持ってくれば良かった。
この第94窟は、晩唐の窟で、晩唐の代表的な窟だと言う。
9世紀後半に造営されたと見られ、中央に如来像が立ち、その前には仏弟子像が左右に2体、更にその前の左右に菩薩像が2体並ぶ。菩薩像は右に文殊菩薩、左に普賢菩薩が並ぶ。
また、部屋の主室の四方には千仏図が描かれている。
これは宋代に描かれたものとの事。
その下には唐代の壁画が描かれていたと言う。その一部もわずかに残っている。
専用ガイドの人は日本語も上手く、説明も判りやすいが、あまりに窟内が暗いので、メモを上手く取れない。少し覚えて置き、窟を出るとその場でメモに取る。
第94窟を出て、次はその隣に聳える九層楼の第96窟の見学に入る。
この第96窟は、この莫高窟のシンボル的な建物で、大仏殿とか大雄宝殿などと呼ばれている。
43mの大楼閣で覆われている。その内部に窟が造られている。
この九層楼内には別の観光客の一団が既に説明を受けている。英語で説明を受けているので、欧米の人達であろうか?
窟内に入ると、見上げる大きさの大仏が中央に鎮座している。この大仏は弥勒仏である。
奈良の大仏は盧舎那仏で少し顔などが違う。
奈良の大仏の倍くらいの大きさはあるのではないかと思う。
専門ガイドさんの説明によると、その高さは約35mとの事、後で調べると奈良の大仏は、高さが約14.7mなので、やはり倍以上の大きさである。
しかし、奈良の大仏はあぐらを組む様に座っているが、この弥勒仏は椅子に座った様な姿勢である。
この第96窟の弥勒仏は通称“北大仏”と言われ、中国国内では、3番目に大きな大仏である。
塑像で出来ている。これで中国国内3番目との事であるが、それよりも大きな大仏として思い浮かぶのは、雲崗、龍門と楽山の大仏であるが、見学していないのでその大きさは判らない。
この大仏は初唐時代に山を削り、その上に土を塗り付け、彩色を施したもので、清代に修復されているという事である。しかし、初唐の原像の面目を残しているそうだ。
大きな仏像であるので、その両サイドには足場を組んだ柱穴が残る。また、大仏前面の床の高さも時代により違うと言う。確かに、入口部分と大仏が鎮座する場所とは少し高さが違う。
また、右膝の上には書物らしきものが乗っている。
写真が撮れないのが本当に残念である。
あまりに高いので、見上げていると首が疲れる。
ここも中が暗いので、顔部分の色合いが少し判り難い。説明では真っ白な顔との事であるが暗く、そこ事が良く判らない。
この弥勒仏は、仏三世の中の未来仏である。
仏教経典では、弥勒仏がこの世に降りると、戦火が消え、穀物も一回種を蒔いたら、七回まで収穫ができ、樹木から衣が作られる。泥棒もなければ、戸締りも要らない。女子は五百才で結婚し、人々は八万四千歳まで長生きできる。病気も災害もなく、すべての人は幸せに暮らせるという極楽世界がもたらされるそうである。
死後、この理想の世界に入るためには、人々は弥勒仏を虔敬に信じなければならないと言う。
また、この弥勒仏を造らせたのは、日本の世界史の教科書にも名前が出る則天武后(武則天とも言われる)である。
則天武后は、中国封建社会唯一の女帝で、敬虔な仏教信者だったことでも良く知られている。
則天武后は、女として皇帝になる為にはさまざまな障害があったが、唐の李氏子孫を迫害したと同時に自分が女帝になる為に仏教を利用し、側近の薛懐義、法明など十人に「大雲経疎」を作らせ、降りてきた弥勒仏で、李氏の唐に取って代わるべきだと人々を騙し、自ら女帝になった。
その後「大雲経」を世に分布させ、諸州にそれを供う為の「大雲寺」を建設させ、自ら「慈氏越古金輪聖皇帝」と称した。この第96窟は、恐らく当時沙洲で建造された大雲寺で、大仏像の右膝にあるのが「大雲経」ではないだろうか? -
壁画は、1000年前の唐時代のオリジナルのままで、赤は赤土、緑は孔雀石、青は群青であるが鉛の入っていたものは黒く変色してしまっている。
この第96窟をじっくり鑑賞後、窟を出て、今度は正面入口から向かって、左側の方向に歩き始める。
幾つかの階段を上り下りして、次の鑑賞窟に到着する。次は第103窟である。
この窟の入口の表札には第104窟、第105窟も併記されている。この窟内から移動出来るのだろうか?中は然程広くはない。
この第103窟は盛唐時代のもので、唐時代に流行った山水画の壁画で有名な窟なのだと言う。
まず、窟を入ったところで、専用ガイドさんが天井をペンライトで照らす。
その天井は壁画でびっしりと埋め尽くされている。モチーフは葡萄、鱗など様々なものが見える。
この天井は廻りの仏像の天蓋も兼ねて描かれたものの様である。
中央にある塑像は清時代のものだと言う。 -
この窟入口上の壁画は、唐時代の李白や王維なども好んだ、弁論がしたいと言う思想の人“りゅうまこじ”(こう発音していたと思うが、どのような文字を充てるのかは不明)が描かれているのだと言う。
この“りゅうまこじ”と文殊菩薩との答弁を聞きに多くの人達が集まる様子を表した壁画なのだそうだ。
その中には、中国の皇帝や朝鮮人などもいると言う。日本人なもいるのかは現在ではまだ判っていないそうだ。室内の壁にも山水画が描かれている。
向かって右手の南壁には法華経変(ほっけきょうへん)、左手の北壁には観無量寿経変(かんむりょうじゅきょうへん)、手前の東壁には維摩詰経変(ゆいまきつきょうへん)が描かれている。
経変とは、仏教経典の内容を絵画化したもので、変または変相とも言われる。
法華経変は、お釈迦様が法華経を説く情景を描いたもの、観無量寿経変は、極楽浄土を表現したもの、維摩詰経変はお釈迦様が維摩詰という俗人に化して法を説いた情景を表現しているものである。
そして奥の西壁には、青緑山水画が描かれている。
専用ガイドさんの説明では、この奥の山水画は莫高窟で最も有名な山水画なのだと言う。
この山水画は、化城喩品(けじょうゆひほん)と言い、苦しい悪路を行く隊商の指導者が、途中で幻の城を現して、部下たちに希望を抱かせ、目的地への旅を続けさせるというたとえを表している。
仏教の世界観は奥が深く、理解に苦しむ。もう少し、この様な世界観が判れば、ここに描かれている壁画の意味も理解出来るのだと思うが?
また、この第103窟は一般公開窟にはなっているが、案内する事が少ない窟なのだそうだ。
本当かどうかは不明であるが?
この窟を出る際に窟の前室部分の奥にまた部屋がるのを発見した。
その部屋には入れない様にされているが、ここが第104窟か、第105窟なのであろう。
第103窟を出て、更に左手に進む。
多くの窟は2階以上の高さにある為に、迷路の様に階段や通路が断崖に造られている。その通路を伝い、次の窟に移動する。
次は、第172窟である。この第172窟も盛唐時代のものである。
第172窟は、南北の壁にそれぞれ、観無量寿経変が描かれている。
広大な楼閣、亭台は“七宝蓮池”の中に聳え、さまざまの姿勢をしている菩薩が座ったり、立ったり、穏やかな表情を浮かべている。天真爛漫な童子たちが蓮の周りを駆け回り、琵琶を抱える舞子が音楽に合わせて舞い踊り、飛天が楼閣の間を軽やかに飛び回っている情景が、優雅で、幻想的世界が描かれている。
北壁の観無量寿経変は、代表的な大型な建築図の一つである。
大規模な寺院の全貌が、浮き彫りされている。壁画には透視画法(遠近法)が取り入られ、高く聳える殿宇、楼閣、開放的な庭園などは立体感に溢れている。
見る人は、目の前に現れている極楽浄土の世界に吸い込まれそうになる。
中央には弥勒菩薩、右に観音菩薩、左に勢至菩薩が描かれている。
描かれている建築は、日本の平等院鳳凰堂に似ている。建物の前には水がふんだんに描かれている為である。
敦煌は砂漠地帯なので、作者は海が近い地域出身者だと思われる。
実際、本当に最高浄土の様子を見た者はいないので、作者は当時の建築、王様、人々の生活を見て描いている。
壁画はもともと白い部分が多かったとの事であるが、鉛白を使用していた事から今は成分の鉛が変色し、黒色化している。
この壁画は、当時の様子を知る上で重要な資料になのだと言う。
建物の上では、飛天が楽器を弾いている。
飛天は、敦煌の街のローターで見た反弾琵琶の飛天である。
この壁画には非常に様々な楽器も描かれている。
ある敦煌学者が莫高窟にある様々な楽器を調べ、数えたらしく、この莫高窟に描かれている楽器の数は46個もあったそうだ。そのうちの幾つかが、この第172窟にも描かれている。
この窟は壁画が有名であるが、奥には塑像が並ぶ。
中央にお釈迦様が、その一つ前には左右に1体ずつの弟子、その前には左右に普賢菩薩と文殊菩薩が、更に前には四天王像が並んでいる。
第172窟は本当に壁面全体に多くの壁画が描かれている。
第172窟を出て、更に階段で上に上がる。断崖のかなり高い場所まで来た。 -
ここにあるのが、第158窟である。本日最初の特別窟である。
特別窟は一般窟の料金に更にプラスしないと入れない窟である。特別窟の鑑賞料金は1つの窟に対し、大体約3000円/窟くらい必要なのだと言う。非常に高額の鑑賞料金である。
第158窟に入るとまず目に飛び込んで来るのが、部屋いっぱいに横たわる涅槃仏である。
この第158窟は涅槃窟である。涅槃仏は西壁の仏壇いっぱいに横たわる。
そして、その涅槃仏の背後に数体の塑像が見えている。
専用ガイドさんの説明によると、この涅槃仏の大きさは、15.23mで、莫高窟にある5体の涅槃像の中で最も大きな涅槃仏なのだと言う。
この涅槃仏には、仏様にある32の体の特徴(三十二相)が忠実に表現されていると言う。
幾つか紹介すると、
1. 足下安平立相(そくげあんぴょうりゅうそう):足の裏が平らで、地を歩くとき足裏と地と密着して、その間に髪の毛ほどの隙もない(偏平足)。
2.長指相(ちょうしそう):10本の手指(もしくは手足指)が長くて細いこと。
3.正立手摩膝相(しょうりゅうしゅましっそう):正立(直立)したとき両手が膝に届き、手先が膝をなでるくらい長い。
などである、また、この他にも、仏様には八十種好と言われる特徴もある。
1. 耳が肩まで届く程垂れ下がっている(俗に福耳である)。
2. 耳たぶ(耳朶)に穴が空いている。(耳朶環状)
3.のどに3本のしわがある(三胴)。
などである。
涅槃像は綺麗に装飾が施されている。
仏壇の基台は良く見ると岩である。
この洞窟の岩盤を基台に用い、その周りを粘土で補正しているのである。
背後の塑像は、仏様の弟子である。
説明によると、摩訶迦葉(まかかしょう)や阿難陀(あなんだ)なのだと言う。
また、涅槃仏の両サイドには菩薩が並ぶ、前世と来世を表していると言う。
この窟は涅槃仏を中心に窟全体が巨大な棺桶を表現しているのだそうだ。
天井や両サイドの壁には多くの壁画が見える。天井付近には綺麗な飛天が描かれている。
専用ガイドさんの説明によると、この窟で最も注目すべき壁画は、右壁に見える壁画なのだそうだ。
ここには、釈迦入滅(お釈迦様が死ぬこと)を聞きつけた各国の王様や信者などが集まり、その悲しみを自身の体を傷つけて、表現しているところが描かれていると言う。
見れば、耳を割く人、胸を掻きむしる人、腹を割く人などが描かれている。
この窟は中唐に造られた窟で、丁度唐時代の安禄山・史思明の乱の後の時代に造られたとされている。この時代は、唐の混乱に乗じ、この河西回廊付近は、異民族である吐蕃王国が支配をしていた時代で、この莫高窟も約80年間をこの吐蕃王国が管理をしていたと考えられている。
吐蕃王国は仏教信仰を進め、この時代に多くの窟が造られた。
しかし、この涅槃仏の顔は、ふっくらとし、目は半眼(目を閉じかけている)で、少し微笑みを浮かべている様に見え、本当に優雅で美しい。
本当にカメラが持ち込めないのは残念である。写真が撮りたくでうずうずするが、フラッシュを持って来ていないので、カメラがあっても上手く撮れるか疑問ではあるが?
第158窟を出て、今度は階段を用い、地上に降りる。そして、更に少し歩いたところで窟に入る。
ここは第152窟である。
この窟に入ると、直ぐに専用ガイドの人がその入口付近で立ち止まり、説明を始める。
そして天井をペンライトで照らし、説明を始める。
入口付近の天井の壁画は少し色合いが違う部分があり、当時の壁画に使用した顔料が不足していた事が伺えるのだと言う。その顔料不足の為に当時は地元の顔料を使用した痕跡があるそうだ。
また、落書きの様なものが多いのも特徴だと言う。
その落書きは簡体字(中国で用いられる簡略化した字体である)で書かれており、1000年程前に既に簡体字があった事を示している。
素人ではあまり区別し難いが、そう言われて注意深く見ると色合いの違いが判る気がする。
この窟は宋時代に造られた窟で、この時代に造られた大きな窟の一つである。
窟中央に壇が設けられ、中央に釈迦像とその左右に弟子である摩訶迦葉や阿難陀が並ぶ、この塑像は唐代に造られた塑像だと考えられていると言う。また、その脇には菩薩像が立つ。
このお釈迦様の特徴は獅子の台に乗っている事であるが、当時の人達は獅子(ライオン)を見た事が無かった為に、犬をモチーフに獅子を表現している。
また、その他にも象をかたどったと思われるものも山羊がモチーフになっている。
お釈迦様の像の後背には宝蓋図(仏像の上に描かれた天蓋)があり、飛天なども描かれている。
天井と左右の壁面には千人仏が描かれているが、これは西夏時代に描かれたものなのだと言う。
この千人仏が壁画を少し単調な感じなっているのが、残念である。
窟の天井四方には四天王像が描かれ、この窟全体を守護する様に窟全体に睨みを聞かせている。
専用ガイドさんが、今度は床を見るように言うので足元を見ると、タイルの様なもので床が覆われている。これも宋代のものなのだと言う。宋代の窟の特徴の一つなのかも知れない。
この第152窟を出ると、更に正面から見て左手奥に進む。 -
この辺りで外の景色ならカメラに収めても良いのではないかと思い、入場時に回収されなかったコンパクトカメラで、莫高窟の断崖の窟の外観を写真に収める。
そして、少し歩くと次の見学窟に到着した。今度の窟は第148窟である。
この窟を入るとまず左右に仁王像が立っている。仁王像、いわゆる金剛力士像である。
日本では“阿吽”と言い、左右に開口した阿形と閉口した吽形が並ぶ。
専用ガイドさんが、「日本では“阿吽”と言いますが、中国では“ウンハ”と言います。」と教えてくれる。
私に馴染みのある金剛力士像と言えば、東大寺南大門の金剛力士像であるが、ここの金剛力士像は少し趣が違う。何か全身がスリムな感じで、東大寺南大門の様な力強さは感じない。
奈良に住む人間の贔屓目であろうか?
この金剛力士像は手に蛇、足下には邪鬼と夜叉が見える。
東大寺南大門の金剛力士像の足下には邪鬼や夜叉は居ただろうか?帰ったら見に行こう!
この窟も第158窟と同様に涅槃窟である。
この窟は、盛唐時代のもので、ここも窟全体が棺桶の形になっている。
涅槃仏は、莫高窟で2番目に大きな涅槃仏で全長が14.8mである。この涅槃仏の奥には菩薩、十大弟子、八部衆や各国の王子など72体の像が残っている。
また、奥の壁には、涅槃の世界観(涅槃経変)が表現されている。この涅槃経変には60のテーマが描かれており、この経変画の中の人物は500人に達する大作である。
その他にもこの第148窟は薬師経変や観無量寿経変なども描かれている。
中でも観無量寿経変は、この莫高窟最大の壁画である。
また、入る時には金剛力士像に目を取られ、気が付かなかったが、入口近くには閻魔像もあり、更に天井部分には綺麗な千手観音菩薩が描かれている。
第148窟を出て、今度は中央部分に戻る様に歩き始める。
ここでも少しコンパクトカメラで莫高窟の窟が並ぶ断崖の写真を撮る。 -
また少し歩くと次の窟に到着した。今度の窟は第130窟である。
第130窟は北大仏と呼ばれる窟である。既に見た莫高窟中央部分にある九層楼の南大仏と双璧を成す大仏である。
この窟も盛唐時代のもので、窟は方錐型で、高さは約29mもある。
この中にある北大仏の弥勒大仏の高さは約26mで、莫高窟では2番目に大きさの大仏である。
この北大仏も南大仏と同じ様な工法で造られているそうだ。
また、この窟内の壁画の総面積は1130mにも及ぶそうだ。
この窟は窟の造窟と大仏の製作を同時進行されたと言われている。
大仏は高さの視覚差を無くす為に大仏の頭の部分を大きく造り、また目や口も特殊効果を施している。その為に大仏の頭の部分だけでも7m近くあるそうだ。
もう一つの大仏の特徴としては、手の指の関節部分が4つある事だと言う。
宋代に補修されているが、それでも1200年の年月が経っているのに非常に保存状態の良い塑像である。
この第130窟の壁画も有名で、特に右の壁に描かれた2mを超える飛天図は圧巻である。
この莫高窟最大の飛天図である。
また、窟天井部分に描かれた金龍の天蓋も見事である。その他にも壁一面に壁画が施されている。
この窟の床も特徴的で、窟の入口付近の壁には建築の足場の穴跡も残っている。
大仏前の床部分は煉瓦と言うよりはタイル状に近いもので覆われ、その保存状態も良い。
その為に年代による床の違いも良く判る。一部時代の違いによる段差が出来ているところもある。
この窟を出て、再び中央部分に戻り、九層楼を越えて更に進む。
これまでで最も窟間の移動である。
やっと窟の前に到着した。今度の窟は第251窟である。
この窟は北魏時代の窟である。専用ガイドさんによると、この窟は莫高窟で一般公開されている窟(特別窟を除いた窟)の中で最も古い窟である。
そうすると北涼時代の窟は一般公開されていないのである。
この窟は中心柱を持つインド様式の回廊型の窟で、屋根は切妻型になっている。
粘土でその形状を造っている。インドではストゥーパ様式が継承されている。インドで円形のストゥーパも中国では方形になっている。
この中心柱の周りを廻ると長寿やお金持ちになると考えられている。
壁画も特徴的でインド様式の壁画で隈取をされた人物画が描かれている。
元は赤い隈取がされていたが、顔料が変色し、その部分は白くなっている。
また、この窟の飛天図は男性的な飛天である。
顔料も非常に多くの種類が用いられている。緑は孔雀石、白は化石、赤はベンガラ、青はトルコ石(ラピスラズリ)、肌色は鉛などが混ぜられたものが使用された。
顔などが黒いのは、この鉛の顔料が黒く変色した為である。
この窟を出て、今度はこの窟の直ぐ近くの窟に入る。ここが第275窟である。
この第275窟は特別窟である。今迄の窟に比べ、奥に深い窟である。
専用ガイドさんによると、この窟は莫高窟最古の窟で、長方形の窟で、北涼時代に造られた窟である。
この窟には中原地方の木造建築様式(宮殿様式)が取り入れられたお墓の形をしている。
中央には燭台がある。正面奥には大きな弥勒菩薩が座している。
この弥勒菩薩は3.42mもあり、この莫高窟初期の最大の弥勒菩薩なのだと言う。
この弥勒菩薩像は、交脚弥勒菩薩と言われ、足をひし形に交差させて台座に座っている。
弥勒菩薩はペルシャの王様の様な髪形で、顔の表情などはガンダーラ美術の特徴を備えている。
また、頭には三面宝冠を戴いている。
粘土で土台を造り、それを彫り起こしたものである。しかし、下半身は弱々しい姿で、これは西方の遊牧民族の人達の特徴を表しているそうだ。
この様に莫高窟の仏像は、初期の頃から中央アジアの影響を大きく受けていた事がこの仏像からも判る。
その台座の下には綺麗なタイル状の煉瓦が敷き詰められている。
この菩薩が着ている透明の羊腸服は当時、この敦煌付近で流行っていた服なのだそうだ。
台座の両側には獅子が鎮座している。壁画は宋時代の修復されている。
右手の壁画には、お釈迦様の修行図などが描かれている。
例えば、鷹が鳩を捕まえ、食べられ様としているところを助ける為に、自分の身を差し出す様子なども描かれている。また、この壁画にも多くの飛天が描かれている。
この窟を出て、またすぐ近くの窟に入る。今度の窟は第57窟で、この窟も特別窟である。
入る前に専用ガイドさんから、「この窟は美人窟と呼ばれる窟です。なぜ、そう呼ばれるかは入って頂ければ判ります。」と言い、窟内に入る。
今迄の窟に比べると多少小さ目の窟で、その中央奥には、仏壇があり、その中央にお釈迦様が鎮座している。そして、その前の左右に弟子像、その更に前の左に普賢菩薩、右に文殊菩薩、更に前にも菩薩像が見える。
しかし、この窟で見るべきものは、この仏壇の塑像ではなく、その左側の壁画である。
この壁画には、3体の仏様が描かれている。
これが敦煌で最も美しい菩薩像と評される壁画である。
中央に阿弥陀如来が描かれ、その両脇に左側に観音菩薩、右側に勢至菩薩が描かれている。
この左側に描かれた観音菩薩が、この莫高窟で最も美しいと評される菩薩像である。
平山郁夫画伯に“恋人”と言わしめた菩薩である。
顔はうっすらと化粧を施し、口には紅をさし、伏し目がちで、目には2重のアイシャドウが見える。
この観音菩薩は法隆寺の弥勒菩薩と顔が似ている事から姉妹菩薩と言われている。
また、この観音菩薩は立体感を出した描き方がされている。
使用した顔料には、金などを混ぜて、厚みを持たせている。
本当に後輪の緑色や水色は本当に鮮やかな色で、また身に着けている装飾品類は金を混ぜた顔料で装飾されている為に鮮やかな金色である。
良く見ると、観音菩薩の周りにも多くの菩薩が描かれていて、中心に立つ観音菩薩を強調している。
この観音菩薩は、下から見るとより顔の表情が柔らか味を帯びて見える。
これは元々、跪いて拝むものである為である。
右側の勢至菩薩と中央の阿弥陀如来は、顔料が黒く変色しているのが残念である。
黒く変色していなければ、この2体の像も非常に魅力的なものであったと思われる。
また、この壁画の上にも飛天が描かれている。また、この枠には千人仏が描かれている。
この窟は隋の時代に造り始め、初唐の時代に完成した窟である。
この窟は莫高窟の窟様式で代表的な2つの造りの一つである伏斗(ふくと)形方窟(枡を伏せた様な形:正方形の形)である。
この窟は特別窟の中でも最も人気のある窟なのだそうだ。確かに、この窟は一見の価値がある。
この窟を出て、再び少し歩く事になった。更に進行方向(北側に)少し歩いた。 -
して、最後の見学窟である。第46窟に到着した。この第46窟は一般窟である。
この第46窟は盛唐時代の窟で、すべての壁に仏壇がある。
正面には、お釈迦様を中心に、その前の右に摩訶迦葉、左に阿難陀が立ち、更にその前に菩薩像、更にその前には四天王像が立っている。
お釈迦様の顔にはかすかに金色の顔料が残っている。
また、その両壁の壁画には、菩薩の壁画があるが、右側は非常に綺麗な色が残っているが、左側は色の変色が酷い。これは使用した顔料の違いによるものであろうか?良質の顔料不足の時期があったのだろうか?
そして、正面左側の仏壇には、涅槃仏がある。この涅槃仏は専用ガイドさんの説明では、莫高窟で最も小さな涅槃仏だと言う。全長は約1.9mである。
唐時代の造りで、その涅槃仏の足元には、お釈迦様の母の像が、その顔の近くにはお釈迦様の祖母の像がある。
正面右側の仏壇には、過去七仏(かこしちぶつ)の塑像がある。
過去七仏とは、釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。
古い順から毘婆尸仏(びばしぶつ)、尸棄仏(しきぶつ)、毘舎浮仏(びしゃふぶつ)、倶留孫仏(くるそんぶつ)、倶那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)、迦葉仏(かしょうぶつ)、釈迦仏(しゃかぶつ)又は釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)の七仏。
いわゆる過去仏信仰の代表的な例である。
しかし、現在はその塑像のうちの6体が残っているが、何か欠けているのかは判らない。
説明を注意深く聞いていたが、専用ガイドさんからは説明が無かったので判らなかった。
また、この左右の壁の上部には、朱書きで唐時代と五代時代の詩文が残っているとの説明があった。
見れば、かすかに文字の様なものが見えるが内容は判らない。
当然漢文であるが、漢字自身が良く判らなかった。
それから天井部分が煤けている。
これは、この窟で探検家などが暖を取る為に焚火をした後で、その為に貴重な壁画の一部が壊れている。
これで窟の見学は終了である。
窟を出て、出口に向かい、歩き始める。
残念なのは、最も有名な窟である第16窟、第17窟に入れなかった事である。
第16窟、第17窟は前述した様に、この敦煌の莫高窟を有名にした敦煌文書が出て来た窟である。
出口に向かう際に専用ガイドさんに現在、見学が出来る窟はどれくらいあるのかを聞くと、莫高窟には462の窟があるが、一般に公開されているのは、そのうち40窟で、その他に今回も3つの窟を見たが、特別公開窟としては、約20窟あるとの事。
しかし、特別公開窟は年によって、公開窟は変化しているとの事。
現在は保存が優先で、公開窟も減っている様だ。
今回、見学出来たには、一般窟が9窟、特別窟が3窟の計12窟である。
聞くと、大体の1回の見学ツアーではこれくらいの窟の見学との事である。
好きな人は午前と午後の2回のツアーに参加されるそうだ。 -
今回の旅行日程では莫高窟の見学は1日であるが、確かにツアーによっては2日間あるものもある。
出口は、九層楼近くにあった。そこから出て、出口で待っていたガイドの馬さんと合流する。
時刻は16時10分頃で約2時間の見学だった。
馬さんは体に多くのカメラをぶら下げている。ツアーの人達のカメラである。
そのカメラを全員がここで受け取る。
カメラを返して貰ったので、ここで記念撮影を行う。 -
丁度、この莫高窟のシンボル的な建物である九層楼の前であるので、この九層楼をバックに記念撮影を行う。
他のツアーの人達も同様に写真を撮っている。
この九層楼の前には、非常に多くの観光客が集まっている。
今日の観光客は多いと馬さんは言っていた。最近、中国国内でも人気が出て来た観光地の一つなのだと言う。
ここで少し記念撮影の為に時間を取った後、この前の道を戻り始める。
そして、少し歩いた先に土産物店があり、ここに立ち寄る。
この土産物店前には大きな飛天像が建っている。
この飛天は非常にポピュラーな構図の飛天なのであろうか?
私の中での飛天の構図は、奈良の薬師寺の西塔の法輪にある飛天(笛を吹き、舞う飛天)や法隆寺の飛天などで、その構図とは違う。 -
その飛天像の前を過ぎ、土産物店に入る。中に入ると、壁には多くの書画や絵画が並ぶ。
数人の店員がいて、流暢な日本語で土産物を勧める。
特に熱心に勧められたのは、やはり飛天に関するものである。飛天の書画などを熱心に勧められた。
小物類は意外に少ない。この土産物店は高級品が多い様だ。
まず、ここで購入したかったのは、この莫高窟のガイドブックである。
ガイドブックも数種類ある。その中で、手頃な大きさの本を選ぶ。価格は120元(約1800円)である。少し高いとは思ったが、購入する事にした。
その他では小物で何か買いたかったが、絵葉書などを数点購入するだけにした。
これが合計で100元(約1500円)である。
これで土産購入は終了する予定であったが、店員が熱心に飛天の絵画を勧める。
仕方なく、その数点の見る事にした。先程、見た土産物店前の飛天像の構図での絵画などを見せてくれる。やはり、この構図が莫高窟ではポピュラーな構図の様だ。
価格を聞くと、400元(約6000円)もする。それでは購入出来ない旨を言い、要らない素振りをすると直ぐに350元(約5250円)くらいまで下げて来た。
基本購入するつもりもなく、適当に話を聞いていたが、更に少し小さ目の絵画を出して来た。
先程と同じ構図の飛天画であるが、こちらの飛天画は非常に繊細に書かれており、少し興味が湧く。
価格を聞くと、これも350元と言う。
高いと言うと、これは先程よりも小さいが、良い画であるとの説明で、この価格なのだと言う。
しかし、興味が湧いたので価格交渉する事にした。
ディスカウントしてくれないと買わない旨を伝えると320元まではOKと言うが、私が300元以下にならないと購入しない旨言うと、少し待ってくれる様に言われ、店の奥に戻り、相談をしている。
そして、再び戻り、300元でと言うが、300元以下にならないと買わない旨再び言うと、また店の奥に戻り、相談している。もう無理なら購入しないつもりであった。
店員が再び戻ってくると、それでは特別に280元(約4200円)で良いが、これ以上ディスカウントは無理だと言う。少し考えた後、少し高い気はしたが、記念品として購入する事にした。
ここでお金を少し使い過ぎた。合計で500元(約7500円)も使ってしまった。
店内にいると、更に土産物を勧められそうなので、早々会計を済ませ、店前に出る。
まだ、ツアーの数人の人達は土産物を見ているが、店前で飲物を購入して、寛いでいる人も多い。
ここで全員が揃うのを少し待つ事にした。
冨田君も何か土産物を購入した様である。
暫く待った後、全員が揃うと、再び駐車場方向に歩き始める。
河に架かる橋を渡り、駐車場方面に歩くのかと思ったが、橋の奥に建つ敦煌芸術陳列館に向かい、馬さんが歩いている。それについて、その建物前まで行く。
ここを見学するのかと思ったが、そうではなく、この入口付近のみ入り、そこに展示されているパネルを見学するだけであった。
この敦煌芸術陳列館は、国内外からの増える観光客から莫高窟の重要な文化財を保護する目的で建てられたものである。
ここには莫高窟の大きな全景写真などもある。
ここにも少し土産物を売っている売店があるが、売っているものは、写真やガイドブックなどである。
建物前に出て、その入口付近の1m程の高さの塀沿いに登る様に馬さんに勧められる。
この様なところに登っても良いのかと思いながら、登り、そこから見える景色の説明を馬さんが始める。
丁度、この敦煌芸術陳列館の奥には前の大泉河を挟み、莫高窟と対峙する様に三危山と言う岩山が聳えているのが見える。 -
また、先程見て来た莫高窟の断崖が木々の奥に見える。かすかに九層楼も見える。
ここから以外に遠いのに驚いた。
しかし、ここでトラブルである。やはり、この場所には登っていけない場所なのである。
館内職員に注意されて、全員が慌てて降りる。
そして、再び駐車場方面を大泉河沿いの道を戻る。
砂嵐が更に酷くなり、歩いていると顔にも砂が当たり、痛い。
漸く、駐車場に到着し、トイレに行きたい人はここでトイレを済まし、バスに乗り込む。
もう夕方近いがまだ非常に暑く、バス内の冷房が心地よい。時刻は17時を過ぎている。
暫く、全員がバスに乗り込むのを待ち、バスは17時10分頃に走り始める。
これで中国国内の世界遺産のうち、15か所を制覇出来た。
砂漠の中の道に入ると、砂嵐が酷く、バス前方の視界は10m先も判らない。
砂漠の砂嵐はこんなにすごい事を今回、体験出来た。貴重な体験である。
これで今日の観光は終了である。
これから敦煌市街に戻り、夕食である。今日は宿泊ホテルである敦煌太陽大酒店内のレストランでの食事ではなく、別の場所で夕食を採る予定である。 -
<夕食の敦煌名物料理>
旅行日程表では、夕食は敦煌名物料理となっている。
バスは砂嵐の中、市街地に向かう。砂嵐で車窓からの景色が楽しめないのは残念である。
バスは30分程で市街地に入った。市街地に入ると、砂嵐もおさまった様に感じる。
そこから更に10分程走ると、あるホテルの前の駐車場でバスが停車した。
時刻は17時50分過ぎである。
このホテル内のレストランが今日の夕食場所である。ホテル名は、陽光大酒店である。
ホテル入口を入り、ロビー手前の左側にあるレストランに入る。
レストラン内を更に進み、奥の個室部屋に通される。個室と言ってもかなり広めの部屋である。
その部屋の丸テーブルのひとつに全員で座る。 -
まずはお決まりの飲物の注文を馬さんが聞き始める。
暑い中を歩いたので、みんな喉が渇いているのか、殆どの人が麦酒を注文している。
私は然程喉が渇いていないので、出て来た暑いお茶で良い。
ソフトドリンクは意外に少なく、飲みたいものもない。冨田君も麦酒を注文していた。
飲物と同時にまずは前菜が運ばれて来た。
前菜としては、チャーシュー、青菜炒め物、生きゅうり、生トマト、木耳と玉ねぎとピーマンとの炒め物が出て来た。チャーシューが何の肉かと思い、馬さんに聞くと、驢馬の肉だと言う。 -
その後、続々と料理が運ばれて来た。出て来た料理は以下の様なものである。
<陽光大酒店での夕食>
①前菜:驢馬肉のチャーシュー
②前菜:青菜炒め
③前菜:生きゅうり
④前菜:生トマト
⑤前菜:木耳/玉ねぎ/ピーマン炒め
⑥シシカバブー
⑦羊肉のから揚げ(ピリ辛)
⑧ナツメの煮物
⑨花巻
⑩ラクダ肉のうま煮(メレンゲ添え):雪山駝掌
⑪黄麺とスープ(驢馬肉、豆腐、トマトのあっさりスープ付き):驢馬黄麺
⑫焼きパン(チャパティ風)
⑬木耳/青菜/揚げ豆腐のうま煮(ピリ辛)
⑭北京ダック風焼鳥(アヒル肉)
⑮焼き飯
非常に多くの料理が出て来た。どれもやはり暑い地域なので、辛いものが多い。
特に羊肉のから揚げと木耳/青菜/揚げ豆腐のうま煮はピリ辛である。それと西域でイスラム文化色が強いのか、肉も豚や牛はなく、羊やアヒル、駱駝なのである。
この中で敦煌の名物料理は、黄麺とラクダ肉のうま煮である。
黄麺は“驢馬黄麺”と呼ばれる料理で、驢馬肉のスープに麺を入れて食べるものである。
黄麺は龍の髭の様に細く、金線の様に長い麺という意味である。
ラクダ肉のうま煮は、“雪山駝掌”と呼ばれる料理でメレンゲを雪山に見立てた料理である。
シシカバブーも西域の代表的な料理である。
食材としてナツメが使用されているのも西域らしい。日本では殆ど、ナツメなどは見ない。
中国も何回も旅行しているが、ナツメが食材として出て来たのは初めてである。
また、チャパティ風の焼きパンが出てきたのも特徴的である。
インド料理にも同じ様なチャパティが出てくる事がある。ナンに比べ、薄い焼きパンである。
花巻は中国の定番料理である。花巻は饅頭の皮のみのものである。
冨田君とここで、今日の晩の予定を相談する。昨日は、足裏マッサージに行った。
今日もかなり歩いたので、今日の方が足裏マッサージを行きたいと感じる。それは冨田君も同様で、今日も足裏マッサージに行こうと言う事になった。
料理が多く、かなりの時間を食べるのに要した。それでも19時前には食事を終えていた。
食事を終えた頃に丁度、馬さんが現れ、飲物を注文した人の精算をおこなっている。
飲物の精算が終了した人から席を立ち、部屋を出る。
トイレに行きたい人はトイレに行き、レストランを出る。まだ、日が沈んでいない。
バスはホテル前に既に止まっていたので、ホテルを出た人から順に乗り込む。
全員が乗り込んだ事を確認した後、バスが走り始める。 -
<敦煌最後の夜と土産物>
バスが走り始めると馬さんが、「ここで明日の予定を説明します。明日は帰国される方々もいますので、皆さん集合時間はバラバラです。」と言い、一組一組の集合時間の説明を始める。
東京から来た人達と、我々と同じく大阪から来た人達とで違いがある。
しかし、我々は明日また西安に戻り観光である。西安に戻り観光するのは我々だけの様だ。
他の人達は帰国する。
我々は明日、朝食後、8時25分にロビー集合で、馬さんではなく、別のガイドの人と一緒に敦煌空港へ移動との事である。そして、10時25分発予定の便で西安に移動する。
明日の予定説明が終わる頃に丁度、バスは宿泊ホテルの敦煌太陽大酒店に到着した。
時刻は19時20分頃である。
冨田君と今日も足裏マッサージに行く事を既に決めていたので、その旨を馬さんに告げる。
そして、馬さんに予約を入れて貰う。20時にマッサージ店に行く事で予約を取ってくれた。
既にマッサージ店の場所も判っているので、今日は我々だけで行く事を馬さんに告げる。
まだ、時間もあるので一旦部屋に戻る事にした。
ここで、同ツアーのおばさんが昼食時に我々の写真を撮ってくれたとの事で、写真を送りたいのでメールアドレスを教えて欲しいと言われ、メールアドレスを教える。
その後、部屋に戻り、荷物などを置く。今日は貴重品以外何も持たずに足裏マッサージに行く事にした。カメラなども全て置き、19時45分過ぎに部屋を出る。
ここから歩いて5分程でマッサージ店には行ける。
外はやっと暗くなりかけているが、まだ日は沈んでいない。
ホテルを出て、飛天像のあるロータリー方向に歩き出す。
先程、ホテルを出る時に冨田君がホテル内の売店が気になっていたのか、何時頃まで開いているのかを店の人に確認していた。今日は22時頃まで開いているそうだ。
足裏マッサージからの帰りにギリギリ立ち寄れるかも知れない。
足裏マッサージ店には20時前には到着した。
他の客もいない様でフロントで代金を支払い、我々は直ぐに部屋に案内される。
部屋に案内され、昨日を同じような手順で足裏マッサージをしてくれる。今日は女の子も昨日の女の子達とは違う。
しかし、途中足湯に下げに来たのは、昨日の女の子のひとり(冨田君を担当していたジョジョちゃん)であった。
我々を見て、少し驚いた様子であった。二日連続で来る客は少ないのかも知れない。
今日は冨田君も私の少し疲れ気味である。何の会話もなく、マッサージを受ける事になった。
その為に足裏マッサージがあっと言う間に終了した感じである。
時刻は21時20分過ぎである。早々にマッサージ店を後にして、ホテルへ戻る。
その途中で昨日も立ち寄った便利店へ立ち寄り、飲物を購入し、急ぎホテルに戻る。ホテル内の売店に立ち寄る為である。
ホテルに戻り、売店を見ると開いていた。
売店の店員も我々が開いているかを聞いたので、開けてくれていたのかも知れない。
早々、店内を物色する。私には見たい土産物が一つあった。それは“夜光杯”である。
この敦煌などの西域では有名は石製グラスである。
酒泉の特産品であるが、この敦煌辺りでも多く売られている。
西域では、この夜光杯で葡萄酒を飲むのが王侯、貴族の贅沢であった様で、唐代の有名な詩人の王翰(おうかん)の詩にも、その様子を詠んだものがある。
“涼州詞”という詩で、
葡萄美酒夜光杯 葡萄の美酒 夜光(やこう)の杯
欲飲琵琶馬上催 飲まんと欲すれば 琵琶 馬上に催(うなが)す
酔臥沙場君莫笑 酔うて沙場(さじょう)に臥す 君笑うこと莫(な)かれ
古来征戦幾人回 古来征戦(せいせん) 幾人か回(かえ)る
の七言絶句である。
店内を物色していると、やはりその夜光杯が有った。何種類かの夜光杯がある。小さいものから少し大きめのものまで幾つか置いてある。
ワイングラスの様な形のものから、日本の円筒形の湯呑の様なものまである。
これらを手に取り、見ていると直ぐに女性店員がやって来た。
そして、「夜光杯です。この地方の特産品ですよ。どうですか?」と勧める。
私が、「値段はどのくらいするものですか?」と聞くと、ワイングラス型のものが2つ入ったものを手に取り、「これで、1200元(約18000円)です。」と言う。非常に高い!
私が、「それでは高すぎて買えません。もう少しディスカウント出来ないのですか?」と言うと、「安くできても1000元(約15000円)までです。」と言う。
これでは本当に買えない。是非、買って帰りたい土産物なので、もう少し粘り、交渉を行う。
しかし、このワイングラス型はこれ以上ディスカウントしてもらえそうにないので、円筒形で波打つ様な形状に加工された湯呑の様なものにする事にした。これはどのくらいの値段なのだろうか?
その湯呑を取り、「この値段はどのくらいするのですか?」と聞く。
すると、「これは1000元(約15000円)です。」と答える。これの方が少し安い様だ。
これに絞り、交渉を行う。
まず、ひと声いくらにしてくれるのかを確認する為に、「これはどのくらいディスカウントしてくれるのですか?」と聞く。
すると、「これは人気のある形ですので、900元(約13500円)までが限度です。」と答える。
「900元が限度ですか?」と確認すると、「900元が限度です。」と言われる。
私が不満そうな顔をして、「それでは買えないので、あきらめます。」と言うと、「ちょっと待って下さい。」と言い、店のもう一人の店員と相談している。
そして、「支払は現金ですか?カードですか?」と聞き、「現金で買います。」と答えると、再び、「現金は元ですが、日本円ですか?」と聞かれる。
「日本円が使えるのであれば、日本円で支払います。」と答えると、「それでは日本円で、1万円でどうですか?」と言われる。
日本円で1万円?元に換算すると、約700元である。更に少しディスカウントしてくれる様だ。
時間も遅いので、これで手を打つことにした。
日本円で1万円と聞くと、気持ち的には少し高い気がしたが、これで購入する事にした。
これを購入し、その他に栞と絵葉書を少し購入した。
冨田君も幾つかの土産を購入した様である。もう時刻は、22時頃である。
店ももう閉める様だ。支払を済ませ、我々も部屋に戻る。
部屋に戻ると、22時を過ぎていた。明日の集合時間は然程早くないので安心である。
まず、冨田君に先に風呂に入って貰い、私は荷物の整理を行う。
特に今日は土産物をたくさん購入したので、なるべく土産物などは旅行カバンに収めたい。
旅行カバン内を整理し、その底に夜光杯などの土産物を並べ入れる。
冨田君が風呂から出ると代わり、早々シャワーを浴びに風呂に入る。
簡単に髪と体を洗い、シャワーを浴びて、風呂を出る。時刻は既に23時頃である。
髪が渇くまで、私はいつもの様に今日の出来事などをメモにまとめる。
冨田君は既にベッドに潜り込んでいる。
明日の起きる時間を6時30分として、早々先に寝て貰う。
私はベッド脇にある小さなテーブルで、カメラの写真を確認しながら、今日の出来事をメモに書き込む。
それでも24時前にはベッドに潜り込み、そのまま寝てしまう。
今回はここまで!
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