2019/05/11 - 2019/05/19
407位(同エリア1738件中)
luguさん
東京に住む姪から朝突然、今日仕事でバンコクに行く、という連絡があった。自分は3月頃から、車で何処かを旅行をしたいなと思っていたが、煙害がひどく、外に出る気力をなくしていたところだった。彼女の仕事の都合やスケジュールを確認して、「じゃぁバンコクで会おう」ということになった。チェンマイからバンコクは750㎞ほどで夜行バスだと9時間ほどで行けるのだが、高齢者の運転が何かと問題になっている昨今、安全第一に考え、途中アユタヤを観光して2泊3日の予定でバンコクに向かった。
-
ドライブの途中でランチ。
-
-
一泊目の宿、カンペーンペッのSoda Resort。350㎞、4時間半のドライブだった。
-
-
安いドライブインといった感じ。
-
宿の近くのロビンソンというショッピングモールに買い物に行ったついでに夕飯を食べた。
-
普段よく食べるカオパッガパオだが、バナナの葉を敷いているだけで美味しく見える。
-
-
-
一家で引っ越し?
-
アユタヤに向かっている途中、シンブリでランチ。
-
-
-
タロイモのチップス、好物だ。
-
アユタヤの歴史公園近くのKrung Kao Travellers Lodge到着、オーナーの旦那さんは日本人と云っていた。280㎞、4時間弱のドライブだった。
-
宿でひと休みしてから歴史公園に行ったがみるみるうちに暴風雨になって、30分ほど車の中に閉じ込められた。雨が通り過ぎてから、宿に戻り、お勧めの食堂でディナー。
-
-
夜明け。
-
朝食後、歴史公園に行く。20年ぶりかなぁ。
-
ウィハーン・プラ・モンコン・ポピット
-
-
ワット・プラシー・サンペット
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
ワット・マハータート
-
-
-
-
-
-
-
歴史公園から車で15分の日本人村跡に行ってみた。アユタヤには何度か来ているが、ここに来るのは初めて。
-
ネットのサイトから拝借。
「アユタヤ日本人町とは、1300年代から1800年代までシャム(現・タイ王国)のアユタヤ(王都)にあった日本人が暮らした町です。
特に山田長政がアユタヤに渡った1600年頃は、人口もピークを迎え1500人の日本人が、貿易商や傭兵として過ごしていました。
外国からの攻撃に備え軍事力を高めたいアユタヤ王朝と、「関が原の戦い」や「大坂の陣」で行き場を失った浪人の軍事力がマッチしたのです。」 -
ミュージアムでは、15~17世紀の国際都市アユタヤ及び日本人町の様子がビデオで見ることが出来た。当時は貿易が盛んで、タイからは動物の毛皮や陶器を輸出していたようだ。
-
スンコロクもこの時代にタイから日本に伝わった。
-
-
山田長政像。
ウィキペディアより、、、「駿河の人。通称仁左衛門。1612年ごろシャムに渡り,日本人町(南洋日本人町)を中心に活躍。アユタヤ朝ソンタム王の信任を得て最高の官爵オヤ・セナピモクに登る。王の死(1628年)ののち王子派と王弟派による王位継承の紛争が起こると王子を擁立,日本人隊およびシャム兵2万を率いて反乱を鎮定。しかし王子派の実力者で故王のいとこオヤ・カラホム(プラサートーン)のためリゴール(六崑)太守に左遷され,のちシャム人に毒殺された。遺子オコン・セナピモクが自立して戦ったがカンボジアへ敗走,日本人町はシャム軍に焼き払われた。」 -
-
-
-
-
-
-
日本人村の中でランチ。
-
チャオプラヤ川を挟んだ対岸にはポルトガル人村が見えた。
-
-
-
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
luguさんの関連旅行記
アユタヤ(タイ) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
55