2019/04/06 - 2019/04/06
62位(同エリア76件中)
あおしさん
明治10年に起こった西南戦争。
明治維新最大の功労者・西郷隆盛を総大将とした明治政府に対する最大の反乱です。
熊本城、田原坂の戦いに敗れた西郷軍は人吉から宮崎へ後退し、さらに南からの政府軍から逃げるように北上、宮崎県の北、延岡市・北川で最後の激戦が行われました。
ここでも敗北した西郷軍は、解散を宣言し、これ以降少数の兵とともに、山岳地帯沿いに鹿児島へ帰って行きます。
西南戦争ゆかりの場所をまわってきました。
昨年の大河ドラマ「西郷どん」(主演 鈴木亮平さん)もあったので、そのゆかりの地めぐりです。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 3.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- レンタカー JALグループ JRローカル
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
JALの「どこかへマイル」を申し込んだら今回は宮崎になりました。
羽田発8時の宮崎フライトで出発します。
今日は天気がよく、富士山がとてもきれいに見えました。 -
宮崎空港9時55分着。
宮崎空港駅から10時20分発、特急「にちりん10号」に乗ります。
車両は昔JR九州のエースだった「つばめ」車両です。
いささか古くなりましたが、快適な車内は健在。宮崎空港 (宮崎ブーゲンビリア空港) 空港
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1時間20分、11時39分に延岡駅に到着。
延岡駅は蔦屋書店経営の図書館、「スターバックス」と合体した駅になっていました。
コーヒーを飲みながら図書館の本を読めるのでなかなか快適な時間が過ごせそうでした。延岡駅 駅
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延岡でレンタカーを借りて、延岡市北部・北川郷へ向かいます。
まずは無料の東九州高速道路にのって、観光案内所でもらった観光パンフレットにあった「地下の茶山 展望所」へ。
緑のお茶畑と青い海のコントラストが美しいということで、「美しい日本のむら景観コンテスト 農林水産大臣賞」を受賞したそうです。 -
延岡市、つまり宮崎県最北の横島展望台へ。
青い海がとてもきれいでした。 -
遠くに見える島が横島です。
海が青い! -
海岸沿いを南下して、古江峠というところから。
桜並木が続いていました。
桜の間から海が見えます。 -
「道の駅 北浦」で一息。
この道の駅の裏手には下阿蘇ビーチという美しい海岸が広がっています。道の駅 北浦 道の駅
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下阿蘇ビーチからは島浦島が目の前に。
今は静かですが、夏の海水浴の時期にはさぞかしにぎわうことでしょう。下阿蘇ビーチ 海水浴場 ビーチ
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この海岸では古くから製塩がおこなわれてきました。
無料の「塩田資料館」では製塩についての展示が行われていました。 -
青い海を見た後は、北川郷に戻ります。
「道の駅 北川はゆま」。
北川郷は西南戦争で西郷軍が政府軍と最後の激戦地。
そのゆかりの史跡が多く残っています。
この「道の駅」で史跡の場所について確認。道の駅 北川はゆま 道の駅
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延岡市北川郷は、「平成の大合併」までは北川町という自治体でした。
JR日豊本線の北川駅。北川駅 駅
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小学校、中学校、役場、病院もある相応の町ですが、なんと列車は下り延岡方面は朝1本のみ、上り大分・佐伯方面は朝、夕2本しか列車がありません。
地元の人の大半はマイカーで移動するので不便はないでしょうが、通学の高校生や免許のない高齢者はどうしているんでしょうか。北川駅 駅
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西郷隆盛の滞在した北川町市街、北川小学校の前にある陣営の跡。
明治10年8月12日から14日まで西郷はかつてここにあった農家に滞在しました。
8月15日、西郷軍は南下して政府軍と延岡市街地との境、和田越というところで最後の激戦となりました。
西郷はこの戦いで初めて陣頭に立ちましたが、多勢に無勢で敗北しました。 -
和田越の戦いで敗北した西郷隆盛は8月15日から、ここ児玉宅に滞在します。
西郷隆盛が宿営した農家が現在も残っており、今は資料館になっています。西郷隆盛宿陣跡資料館 美術館・博物館
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この旧児島宅の裏には「ニニギ命」の古墳があります。
「ニニギ命」は天照大神の孫にあたり、地上に降りてきた神様です(「天孫降臨」)
「ニニギ命」の子が海彦山彦、山彦の孫が初代天皇とされる神武天皇です。
西郷はこの古墳のもとで、最後の決断をしようとしたのでしょう。 -
8月16日、敗北を悟った西郷隆盛は軍の解散を宣言します。
その時点でも3千人ほどの兵がいましたが、大半の兵はここで地元に帰ったり、降伏するなどして、実質西南戦争は終わりました。
8月17日、桐野利秋、村田新八など幹部を交えて最後の軍議が行われて、政府軍に囲まれていることから、残った500人ほどの幹部・兵とともに山岳地帯を通って鹿児島に帰ることになりました。 -
西郷はこの旧児島宅の庭で陸軍大将の軍服を燃やしてしまいます。
もはや政府に戻れることは無い、と覚悟を決めたのでしょう。
その燃える火を見ながら、まわりの兵たちは、「日本でただ1つの陸軍大将の軍服が焼けるのだ」(当時は陸軍大将は西郷1人だけだった)と涙にくれたと伝えられています。 -
旧児玉宅の前の家は西郷に次ぐナンバー2、実質的には西郷軍を指揮していた陸軍少将・桐野利秋(幕末は「人斬り半次郎」と言われた中村半次郎)の宿営となっていました。
昨年の大河ドラマ「西郷どん」では桐野は大野拓朗さんが演じていました。 -
旧児玉宅と日豊本線の線路を挟んだ家は西郷隆盛の息子、西郷菊次郎が療養していた家がありました。
当時は日豊本線はまだ開通していなかったので、旧児玉宅の隣家でした。
菊次郎は西郷隆盛が「島流し」になっていたときに、島の女性との間に生まれた息子です。
長男でしたが、庶子の扱いで、西郷の功績で与えられた「侯爵」は西郷の正妻の糸夫人の生んだ弟の寅太郎が受けています。
菊次郎は「西郷どん」では語り手で西田敏行さんが演じていました。 -
説明板を読んでいたら、この家の奥様が「中に入っていいですよ」と言ってくださったので、お邪魔しました。
家は拡張したそうですが、菊次郎が右足を失い療養していた部屋が残っていました。
「西郷どん」でも、紹介されたんですよ。10秒ほどでしたが(笑)とおっしゃっていたので、再度DVDを見たら、確かに10秒ほどでした。
右足を失った菊次郎はもはや動くことができなかったので父・隆盛とここで別れて、政府軍の西郷隆盛の弟、菊次郎には叔父にあたる西郷従道に降伏して、保護されました。
菊次郎には父・隆盛との今生の別れとなりました。
菊次郎は後年、京都市長などを歴任します。 -
飫肥藩・小倉処平の療養の地。
西郷軍には薩摩武士たちだけではなく、九州の諸藩からも武士たちが参加していました。
小倉処平は飫肥藩の武士たちのリーダーでしたが、負傷してここで療養していました。西郷が鹿児島に向けて北川郷から去った後、自決します。
小倉の弟子には、当時留学中で、日露戦争時の外務大臣・小村寿太郎がいます。
小村は後年「もし、あのとき留学中でなければ、小倉先生に従って西郷軍にいたでしょう」と語っています。 -
ひととおり、北川郷をまわった後、大分県との県境へ向かいます。
大分県に入ったところが、大分県佐伯市宗太郎地区です。
JRの「宗太郎」駅があります。
名前が面白いですね。宗太郎駅 駅
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宗太郎地区は家が20軒ほどの小集落。
と思ったら歩いてみると、ほとんどが空き家で、住んでいる家は2軒ほどのようでした。 -
そんなわけでこの駅の利用者は1日0.5人ほど。
いわゆる「秘境駅」とされています。
駅前の公衆電話に「秘境駅訪問証明スタンプ」がありました。 -
宗太郎駅を特急が通過していきました。
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延岡に向かって戻っていきます。
途中、最後の戦いの場所である和田越の戦いの場所へ。
ここで西郷軍3000人と山県有朋陸軍中将率いる5万人がここで戦い、西郷軍は1000人近くが戦死して、北川郷まで撤退しました。 -
和田越の戦いの戦場跡。
手前の工場が邪魔でした。 -
延岡でレンタカーを返却して、延岡駅へ。
ライトアップされた延岡駅はきれいでした。津山食堂 グルメ・レストラン
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1日2本の普通電車に乗ってみました。
特急の車両を使った普通電車でした。
乗客は私を含めて5人。
うち2人が隣の駅である北延岡駅と日向長井駅で下車して、3人が残りました。 -
終点の大分県佐伯駅。
この駅まで来たのは、延岡駅から乗車してきた3人だけでした。
今晩は佐伯市で宿泊しました。佐伯駅 駅
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