2019/04/27 - 2019/04/27
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河内温泉大学名誉教授さん
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五色台(休暇村讃岐五色台)の朝は誠に清々しい。本日も盛り沢山の行程が控えているので、旅装束に着替えて食堂へ。食堂接待のおばさんから「瀬戸大橋の虹をみましたか・・・」と聞かれるも、カーテンで覆い部屋を真っ黒にして寝る習慣故、空を見たのが今ですと応える。早朝雲間に見える橋に虹が架かっていたようだ。虹の橋は観られ無くとも、幸先の良い標だろう。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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讃岐の山は**富士と例えられる特徴的な山です。これは百万年以上前に中央構造体帯が地殻変動でもり上がった部分が「瀬」に、凹み下がった部分が「灘」となりました。瀬戸内海がその南北の割れ目で、島が群立するのが「瀬戸」、瀬戸と瀬戸の間を「灘」と呼ばれています。大きく見ると大阪湾や琵琶湖は灘で、生駒山や六甲山が瀬戸です。讃岐富士は、陸地にある瀬戸と云うことですね。これは、タイミング良く旅行直前のNHKBSの放送で知りました。
では、旅の続き五色台を下り一番手短な所の第八十二番札所根香寺です。 -
立派な山門から入りかけたのですが、ここは霊場中10番目の高い場所とか。先の説明だと、瀬戸の上にあるようですね。山門の先の小さな谷のさらに先の尾根に本堂があり、少々手強いので距離を置いてお参りです。相撲で云えば待った、ですかな。
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江戸時代の初め頃、この地には牛鬼がいて人や家畜に危害を加えていた。そこで弓の名手に退治を依頼したという。その退治された牛鬼が脇で睨みつけています。
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山を下りきって平野部を走り第八十三番札所一宮寺です。寺名から推測出来るように、讃岐一宮・田村神社の第一別当から一宮寺となっているようです。明治維新より二百年早く分離したと云うから、先が見えていたのか。
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寺域を拡張して、駐車場等の整備も進んでいる。もっとも、他の札所でも云えることだが、近年のブームに併せた整備は着々とされている。中にはマネキンに装束を着せて販売している所も多くあった。これはやり過ぎとも思うが。
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ここから北に走り、屋島です。源平合戦の大舞台で、何度か訪れている高松ですが初見です。屋島ドライブウエイには源平合戦の標識が立っています。その指し示す方向には、削り撮られた五剣山の痛々しい山肌です。
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やがて登り切ると第八十四番札所屋島寺です。ここでは遍路より源平合戦が主戦場のようで、賑やかな土産物屋のディスプレイが並んでいます。屋島寺はさすがに大刹で山門も荘厳です。しかし、こうなってきますといわゆる外国人が大勢押し寄せ、嬌声というか甲高い声で圧倒されます。これには、空海師も何と仰っているか。私は早々に退散とします。
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屋島寺山内。
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ここからは超時短遍路完結です。第八十八番札所大窪寺と第一番札所霊山寺を一気に偐遍路したらこの旅が完結します。先ずは南下して大窪寺を目差します。県道3号というタイトな道を快調に走っていると、何とも気が抜ける標識です。
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標識に従って横道に入りましたが、昼寝城は見つかりません。山道で何方か車を寄せて昼寝はされていましたが、貴殿が城主様ですかとは尋ね難かったんので県道へ戻りましょう。
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大窪寺へは国道377号に切り替えです。何ともなまめかしい名の女体山の麓に第八十八番札所大窪寺がありました。近年に作られたように見える駐車場から直結の山門が少し不調和です。
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本来の山門近くは狭隘なためバス等が入り難いのですが、趣はこちらの方があるようです。八十八番ともなると門前も市が立っているようで、結願蕎麦やうどん、コンニャクと思い付くもの何でも並べて売っています。
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昼飯時でありましたので、一軒の店に。結願蕎麦はさすがに注文し難く遠慮し「柔らかいうどん」を注文。讃岐のうどんは腰があってと云いますが、老人の歯と顎にはあの腰が難敵です。なるほど、出されたナメコうどんは、ナメコのように柔らかかったです。
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さあ仕上げです。さらに377号を東進して、讃岐街道(国道11号)に切り替えて南下。卯辰峠で県道41号にショートカットしますが、これがこの旅一番の難路でした。何度か対向車に道を譲っていただき霊山寺直前に目に入ったのが、阿波国一宮大麻比古神社。
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大麻比古大神と猿田彦大神の二柱をお祀りしているが、ドイツ橋という方が全国区でしょうか。第一次大戦で捕虜となったドイツ兵が収容されていた「板東収容所」が近く、そのドイツ兵が勤労奉仕で作った石橋が今も神社内に残っている。今回は、残念ながら橋を渡れなかった。ここでも、非常に神神しい楠木が印象的でした。
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ここから霊山寺までは数分です。自身にしてはある程度の艱難を乗り越えてきたつもりだが、山門に立つマネキンには腰が引けた。2011年にも訪れているが、今回はマネキンに加えて販売処も新設されている。
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かつては空海所縁の善通寺が一番札所であったこともあるが、室町後期から江戸時代に近畿方面からお遍路が訪れることが多くなり、阿波徳島から鳴門海峡を越えて四国(撫養港)への道順が一般的になる。そこから一番近い遍路道撫養街道脇の霊山寺が一番になったと聞く。そのため、観光化された遍路者の利便向上のためと色々な装備を調えだして少々行き過ぎたのでしょうか。
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数年前までは、朝の出立時間が過ぎると後は閑散としていたと聞くがこの日は午後2時過ぎでも次々と自動車が訪れます。京都や奈良では駐車したら数時間でしょうが、さすが遍路は判子を押すと先へ急ぐため駐車場の回転が非常に良い。中にはスパッツに白装束というおばさんも居て、ひっくり返えってしまう。
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じっくりと眺めると、このお寺では一番古いとされる多宝塔等すばらしい建物もあるのだが。新旧が盛り合わされた、マネキンから多宝塔まであり得るのが宗教であり遍路・巡礼なのかも知れない。
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前回は、霊山寺を起点として山頭火が歩いた遍路道の室戸岬から土佐経由で彼が果てた松山まで偐遍路。今回は、松山近くから結願の大窪寺と再び起点霊山寺までを偐遍路しました。
観光化云々と多少皮肉めいた表現もありましたが、観光でも時間つぶしはては序で参りでも良いのだと思います。両手を合わせる一瞬、一時に我を思い他人をそして親や子を思うことが「信仰」と云えば信仰なのかも知れません。 -
遍路道ですれ違う「歩き遍路」の老若男女を数人見かけました。その数は前回より増えていると感じます。遍路道を88箇所巡ると1450キロメートルになります。それぞれ心の内に秘めたる何かを携えて、巡礼ではない遍路に出られています。日本各地には沢山の巡礼道がありますが、遍路道と呼ぶのはここ四国88箇所だけです。それだけに厳しい死出での旅であり、結願してこの世に再び生まれ変わる旅でもあります。
そんなことを思い浮かべながら高速を走っていましたら、明石海峡へ差し掛かりました。また、河内人としての日常に戻りましょう。振り返れませんが、西国へ手を合わせつつ。
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