2019/03/27 - 2019/04/03
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jambarayaさん
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パラオ4日目
この日は、太平洋戦争の激戦地、ペリリュー島ツアーに参加した。
ペリリュー島はコロール島近辺に比べて大変海がきれいで、多くのダイバーさんともすれ違った。
表紙の写真は、ペリリュー島にあるオレンジビーチ。
本当に美しく、波も穏やかで優しい。
ここにアメリカ軍が上陸したんだって。
※このページはあくまで旅行記なので、そんなに詳細なペリリュー島戦闘については記載しません。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 5.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 15万円 - 20万円
- 交通手段
- 観光バス 船
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
パラオ4日目。
大変なブルースカイ。そしてブルーウオーター。青の色が濃い。
今日も6時30分起床。
ワンパターンな朝食を済ませ、ロビーで待つ。
今日はロックアイランド主催、ペリリュー島ツアーの日。8時20分、宿へ迎えに来てくれた。
まずはロックアイランドのオフィスがある、マラカル島へ行き、手続き。
今回はベルトラと言うサイトで予約したので、ここでペリリュー島の税金だけ支払い。
これはツアー代金に含まれていないから。
ペリリュー島の税金は15ドル。
ペリリュー島も食べていけないから、維持管理費を含めて観光客からこうやって、金をとっているんだな。 -
マリーナ・カフェ・ヴィータはロックアイランドツアーの経営しているレストラン。
サンセットの時、一番きれいだという。 -
レストラン・オフィスの前は港。ここから出港。
今回の参加者は8名。
9時、出発。 -
マラカル島からペリリュー島まで高速ボートで70分。
ものすごい風。写真を撮る余裕なし。
ちょっとスピードが弱まったときに、何枚か撮影した。 -
ペリリューの戦いは、太平洋戦争中の1944年9月15日から11月27日にかけペリリュー島で行われた、日本軍守備隊(守備隊長:中川州男陸軍大佐)とアメリカ軍(第1海兵師団長:ウィリアム・リュパータス海兵少将、第81歩兵師団長:ポール・ミュラー陸軍少将)の陸上戦闘である。
要塞化した洞窟陣地などを利用しゲリラ戦法を用いるという、日本軍が見せた組織的な抵抗戦術はアメリカ軍を苦しめ、後の硫黄島の戦いへと引き継がれていくことになる。 ペリリュー戦は唯一第1海兵師団が壊滅した戦いでもある。
ペリリュー島に近づけば近づくほど、海は徐々に美しさを増していく。
こんなきれいな海で、ひどい戦いが起こったのかと想像しただけで、胸が痛くなる。 -
非常に女性的な色合いの海。
結構振動が激しい。船を操縦してくれているのはパラオ人。
この会社には日本名で、「きんとき」さんがいるという。
そう言えば昨日お世話になったインパックツアーには、「ごんぞう」がいると言っていたなぁ。「きんたろう」「いちろう」「まりこ」とか、昔、日本統治時代にお世話になった人の名前をそのまま今を名付けている人たちがいるという。
面白いのは、「いとうたかはし」さんという人がいること。
高橋は苗字だという認識がなかったみたい。(笑) -
10時15分、ペリリュー島、北波止場に到着。
大変な揺れでした。 -
このバスで廻ります。
車におけるナンバープレートは、前後ついていなくても、どっちが付いていればOKというパラオ。
パラオならではですな。 -
北波止場に税金の支払い場があり、ガイドさんがまとめて支払っていた。
元々はペリリュー島、リン鉱石が取れるところだった。これはドイツに支配されている時代からね。
今は仕事がないから、ほんとこの観光客の支払う税金が良い収入源なんだ。 -
北波止場は日本が作ったもの。
元々炭鉱の街だったこの島には、今300人ほどしか住んでいない。
やっぱり仕事もないし、みんなコロール島へ行ってしまうんだって。 -
ここが税金を納める建物。
ガイドさんが支払っている間、写真撮影とトイレ。 -
ここがメインストリート。
ここしかない。
ここにホテル数件と売店数件があるだけ。
長閑と言えば聞こえはいいが、戦跡以外は何にもない島なんだなと言うことが、このストリートからもよく分かる。 -
パラオ政府はこの戦跡を観光資源としてそのままにしているから、撤去もできない。
つまり、戦跡がこの島の進化を妨げているんだろうな。
これ、トーチカ。2人しか入れない。
北方面では銃撃戦がなかったから、この手のトーチカがいっぱいきれいに残っている。 -
千人洞窟。
水戸山と呼ばれる岩山を南北96メートル、東西36メートル掘り進めた防空壕で、負傷者が続出したペリリューの戦い後期は日本軍の野戦病院になっていた。 -
文字通り千人を収容できる規模の防空壕。
懐中電灯を片手に中に入っていく。 -
蟻のまま残されている防空壕の中。
さっきまで誰かがいたような気配がまだ残っている。
ビンには「キリンビール」と書かれていた。 -
日本から来た遺族の方が、飾って行ったのだろう千羽鶴。
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ビール瓶が散乱している。
水分補給でもあったのだろうが、火炎瓶作りでも使われたのだろう。 -
野戦病院跡。
充分な治療もできなかっただろう。
ほんと気休めの施設なんだね。 -
手作業で掘り続けたんだろう。
結構入り口付近から黒ずんでいる箇所が多い。
ここは出口付近の写真なんだが、黒くなっている箇所は、アメリカ兵に火炎放射器で焼かれた跡らしい。 -
トーチカがきれいに残っている。
銃撃戦はなかったものの、千人洞窟では多くの死傷者も出た。
南ほど激しい戦地ではなかった、と言うことにすぎない。 -
メインストリートを南へ。
途中、この島唯一の小学校と出会う。
ここは昔、日本人が通う学校だった。
パラオ人はもっと内地に別の学校があり、そちらに通っていた。
もちろんそこでも、皇民化政策。 -
戦没者慰霊碑をおがむ。
墓地のその一角に日本政府の慰霊碑が建之されている。
慰霊碑には球状の石がいくつも乗せられている。
五輪塔のようにも見える。 -
沖縄から連れてこられた兵隊さんもいっぱいいたから、沖縄の慰霊碑もあったし、あと水戸、茨城あたりから集められた兵隊さんも多くペリリュー島で散っているから、そのエリアの遺族の方が作った碑もあった。
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ここで線香を焚向けて、手を合わせる。10000人越えの死傷者を出したペリリュー島の戦い。
生き残ったのは34人だったという。 -
ペリリュー第2次世界大戦記念博物館。
元は日本軍の燃料倉庫だった。燃料倉庫だったがゆえに米軍の攻撃にさらされていたのが一目で分かるが、戦後はアメリカ軍の病院になっていた。
それくらい、建物がしっかり作られていたんだ。 -
アメリカ軍にボコボコニされた直後の写真。
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アメリカ軍の病院時代の写真。
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看板下にあるのは、日本軍が海中に仕掛けた機雷
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内部だけでなく、外部にもいろんな兵器が展示されている。
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ガイドの平野雅人さん。ペリリュー島ガイドでは大変有名な方。
警察→自衛官と歩んできて、今、ツアーガイドとして、特にペリリュー島ガイドをしている人。
使命感を持ってやっている、とおっしゃっていた通り、ガイドの姿勢、語り口、対応など学ぶことが多い一日だった。 -
米軍はペリリュー島は三日で陥落させる予定だったのが、日本軍の激しい抵抗によって戦いは3ヶ月にも及んだということで、その凄まじさが、この記念館からも伝わってくる。
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兵器類のほか、日米両軍の遺留品、ペリリュー島での戦闘の経過を記した日本語での展示もあった。
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日本軍の機銃
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天井を見ただけでも頑丈に作られているのは分かる。
やはり日本の技術力は、昔からすごかったんだな。 -
日本軍総司令部跡
ここに米軍が攻めてきた際には、日本軍は洞窟等他の場所へ移動していたため、ここでの戦闘は行われず、戦死者も出ていない場所とのこと。 -
このような看板もついている。
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爆撃も受けているので、天井がなかったりもするが、柱はちゃんと残っている。
やはり頑丈な作りだ。 -
アメリカ軍が占領した後に設置された、かまぼこ型の格納庫
プレハブ式なので移動にも使用可能だったみたい。
主翼を折り畳んだ航空機などの格納にも使用したのだろう。 -
トイレ
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手洗い場
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浴室
四角い堀は立風呂方式。 -
階段もきれいに残っている。
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韓国のメディアが撮影に来ていた。
このような廃墟は、日本のコスプレーヤーも好きそう。
御霊の怒りを買いそうだから来てほしくないけどね。 -
日本軍戦車
3人まで乗れる。 -
ボディが薄いのがよく分かる。
だから、アメリカ軍の球が貫通しているんだ。 -
バスの中からだが、電力工場跡。
こんなものまで日本は戦前、作っていたんだね。 -
ペリリュー飛行場。
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滑走路跡。
2015年4月に天皇両陛下が慰霊訪問の際に海上保安庁巡視船からヘリコプターにてこの飛行場に降り立った。 -
この滑走路は「+」要は、十字に造られていたんだ。
いろんな方向へ飛行機が飛ばせるようにね。
ペリリュー島とその向かいにある、アンガウル島は飛行場がったからアメリが軍に狙われたと言われている。
この飛行場がなければ。、利用価値のない島だったんだな。 -
アメリカ軍が大量に上陸したオレンジビーチ。
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本当に穏やかな表情の、美しいビーチ。
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ここは戦争時,血で真っ赤に染まったという。
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52gata 零式艦上戦闘機
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が、破壊された跡。
ゼロ戦もここに来ていたんだなぁというのが驚き。 -
サウスドック。南波止場。
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ここの休憩所でお昼ごはん。
なかなかおいしかった。
お弁当は、コロール島にある、「どらごん亭」と言う居酒屋さんが作ったもの。 -
ここは天皇陛下も訪れた場所であり、その時使用された休憩所が残されていた。
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陛下ご夫妻が来られたのは、2015年の4月9日。
その時の様子が、展示されている。 -
ただ、結構簡易的に作ったのだろうか、たった4年しか経っていないのに、もうガタが来ていた。
陛下はパラオのホテルに泊まらなかったことは有名な話ですよね。
パラオは観光で食べている国。自分たちが泊まるとホテルを貸し切ることになり、収益に影響が出るだろう、と言うことで海上自衛隊の船に宿泊されたという。 -
ペリリュー平和記念公園
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美しいビーチが広がる場所に造られた公園。
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日本語表記もあります。
西太平洋戦没者の碑は日本政府が建立した。 -
平和のモニュメント前で1枚。
やはり直立不動になる。これは自然と。
欧米諸国の人、どこでもだけど、たまにピースサインとか、ふざけてこのようなメモリアルの前でポージングする人がいるんだよね。
前にカンボジアの平和の像の前で、そのようなスタイルで写真を撮られている人がいて、本当に怒りを覚えたよ。
その場にふさわしいポーズってありますよ。 -
天皇陛下、皇后陛下も、ここで黙とうされた。
昭和天皇はペリリュー島の戦いを結構気にされていたといい、この島で戦った兵隊に対して、御嘉賞を11回も贈られたという。
御嘉賞・・・天皇陛下が直々に、良いとほめること。 -
半眼の目。
これは真っすぐ、日本に向かっている。 -
向こうに薄く見える島、アンガウル島。
芸人の今田耕司さんのおじいちゃんは、あの島で郵便局長をされていた。 -
南洋マツ。
これは花粉がないのかな。
私はアレルギー、花粉症が酷い。
でもパラオに来てから、まったく症状が出ない。
普段私を虐待してくる花粉が飛んでいないのだろう。 -
ここも、戦争時は焼け野原になった場所。
今は緑が生い茂っている。
戦争があった場所には見えない。
午後は徐々に内部に迫っていく。 -
アメリカ軍の水陸両用戦車・米軍LVT-A1型
米軍の星印も残っている。 -
これも意外にボディが薄いから、日本軍から撃ち抜かれている。
だからか、ペリリュー島の戦闘が終わった後、ここに捨てられていった。
使えん、と思われたんだな。 -
ガイドの平野さんが危惧していたのは、このようなツアーではなく、勝手にこの島に来て見学していく人たち。
この国は、野ざらしに戦跡を放置しているから、触ってはいけないのに、上に乗ったりとかして、撮影したりする人たちもいるんだとか。
だんだん朽ち果てていく、戦跡。
どうにか保存する方法はないかな。
金のかからん方法。 -
日本軍防空壕・大砲跡
階段を上って向かう。 -
岩山をくり抜いた防空壕の先の窪みに高射砲が設置されている。
平野さんによると、これは一度も使われないまま終戦を迎えたそうだ。 -
-
これ、捕虜収容所。
日本が作っていたんだけど、アメリカ軍が日本人をこの中に入れた。
この収容所に入っていて、のちに脱走したのが、本のデパート・大盛堂書店を開店させた船坂弘さんだ。
この船坂さんに関しては、ここじゃ語れないので、ぜひ、みなさんググって欲しい。ともかく勇敢では片付けられない軍曹だ。 -
ペリリュー神社
1982年に清流社という団体によって建てられたという新しい神社で、ペリリュー島での戦いで命を落した日本軍兵士の魂が祀られている。 -
賽銭箱まである。
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由来を記した碑。
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ペリリュー戦死者慰霊供養塔
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第1海兵師団長:ウィリアム・リュパータス海兵少将、第81歩兵師団長:ポール・ミュラー陸軍少将、陸上戦闘記念碑
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では最後、このペリリュー島の戦いを仕切っていた、中川大佐の最後の地へ向かう。
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地雷撤去中ですよ!と言う看板。
地雷はもちろん、日本が埋めたのだろうが、撤去してくれているのはオーストラリアの団体。 -
半分白、もう半分が赤に塗られた木杭は、左側が白い方は安全、右側半分は危険の為に立ち入り禁止と言う安全標識。戦時中の地雷若しくは爆弾が残っている為に、調査済み、未調査の印なんだ。
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顕彰碑。この石碑は天皇陛下より功労のある部隊にお褒めの言葉が与えられた証拠のもの。ペリリュー部隊は多く受けた。それだけ功績信頼が厚かったんだ。
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防空壕がいっぱい。
-
防空壕は、司令部としていた。ここで中川大佐が自決の地と言われているそうだが、実際はこの山の裏手で米軍によって発見された。
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ここにも慰霊碑が建てられている。ここで線香を手向けた。
ちょっと平野さんと話していたんだが、どうして日本は憲法9条にて「戦力の不保持」を約束させられたのかってこと。
日本国憲法はマッカーサー主導で作られたのは学校で習ったが、「戦力の不保持」を何故、表記したのか、もう二度と戦争しません、となぜ約束したのか、ちょっと気になっていたのね。
アメリカ的には日本と闘って、やっぱり日本軍、半端ないな、こんな国にこれからも戦力を持たせることを許したら、大変なことになるな、と直感したんじゃないかな。
平野さんの口から日本軍の戦闘エピソードを伺い、なぜ憲法はあのような表記になったのか、と言う話になり、二人で合点していた。 -
中川大佐(中川州男 なかがわくにお)さん。
ペリリュー島に洞窟を作り、要塞を作っていた日本軍。
そこに友好関係を築いていた現地人が現れ、「一緒に戦いたい」と志願してきた。
しかし、これを聞いた中川州男は一喝!
「我ら帝国軍人が貴様らなどと戦えるか!!」
こう言って、現地の人達に島を去るように命じる。
驚いた現地人は日本人の冷淡さに落胆し、パラオ本島へ向かう船へと乗り込んだ。
現地人を乗せた船が出発。海上を進む。
すると、ペリリュー島から大きな声が聞こえてきた。
振り返ると、海岸には日本兵がびっしりと並び、手を振っていた。
その中には中川州男の姿もあったという。
なぜ、返すようなことをしたのか。
中川州男さんには、にはサイパン島の悲劇が刻まれていたからだ。
サイパンでは避難できずに残った多くの民間人が戦闘に巻き込まれ、1万人以上の民間人が亡くなっていた。
「この悲劇を2度と繰り返してはいけない!」
そう考えていた中川は、現地の人達を戦地から遠ざけたのだ。
こうして、ペリリュー島では民間人の犠牲を一人も出さずに戦闘を終えた。
パラオの人が、異常なくらい親日な理由、そして今も日本語を愛し、日本の名前を子どもに授けている理由が、少しわかった気がする。 -
帰り、マユミインでトイレ休憩。マユミさんは日本語教育を受けた方、非常に日本語が上手だった。
-
南国の桜・・・。
色が鮮やかでかわいらしい。 -
こっちは日本があげた「にっぽん丸」
日本船舶が贈呈したそうだ。
こっちは、私たちが乗ってきた船と同じくらいの速さで、海上を走ってくれる。 -
こっちはパラオ本島まで2時間30分かかる船。
-
15時20分、パラオ本島へ戻りましょう。
-
今日はいろいろ腹がいっぱいになるような出来事も多かったから、ダウンタウンへ繰り出す気力も残っていなかったから、宿からチャリで5分のところにある、ストアーで簡単な物を買い、夕飯を済ませた。
どうも防空壕で虫に刺されたようで、この日は足首がかゆくて仕方なかった。
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