2018/09/19 - 2018/09/19
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カンゲンさん
9月20日パラオ4日目、「ペリリュー島戦跡ツアー」に参加しました。
75年前の1944年9月11日、ペリリュー島に集結したアメリカ軍が艦砲射撃を開始しました。
海兵師団長であるリューパス少将は記者団に、「3日ないし4日で落とす」と、見通しを示したそうですが、見通しをが甘く後に解任されます。
ソロモン諸島、アッツ島に続き東条英機首相が「難攻不落」と、言っていた
サイパン島も1ヶ月で玉砕し4万4000名の尊い命が失われました。
中川州男(くにお)守備隊長率いるペリリュー島守備隊は、陸海軍合わせて1万1000名、米軍兵4万2000名を迎え撃ち、
70数日間の攻防戦で玉砕しました。
「サクラ サクラ サクラ」は、昭和19年11月24日の夕刻にバベルダオブ島の井上貞衛集団司令あてに発信した最後の電文でこのあと中川州男守大佐、村井権治郎少将は地下壕に入り自決しました。
人名等は、今回の旅行に先立ち読んだ岡村 青著の「サクラ サクラ サクラ 玉砕ペリリュー島」(潮書房光人新社)を参考にさせていただきました。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 船 自転車 徒歩
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9時過ぎ、マラカル島のブルーマリーンに隣接する桟橋から出航
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ツアーガイドは陸上自衛隊出身の方です。
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外洋に出ると少し波が高く、時々波しぶきがかかります
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出港から1時間、左手にペリリュー島が
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10時10分
ペリリュー島のノースドック(北波止場)に到着 -
対岸は、カドブス島
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大戦時は、ガルコル波止場と呼ばれていました。
北波止場 散歩・街歩き
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カドブス島への橋、米軍の攻撃で破壊されたまま残っています。
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1000人洞窟
戦局が厳しくなった1994年、ソ・満国境の警備にあたっていた関東軍の歩兵第2連隊(水戸)と歩兵第15連隊(高崎)が4月から5月にかけ
パラオ諸島の防衛のためペリリュー島に着任する。
ペリリュー島は海水の侵食でできた洞窟や、燐鉱石の採掘跡が多数あり、
中川守備隊長はこれらの自然条件を考慮し、珊瑚岩礁に新たな洞窟を掘ることで複郭陣地を構築することにしました。千人洞窟 史跡・遺跡
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洞窟の中
背を屈めないと歩けないとこが大半です。
将兵がツルハシとハンマーで、ほとんど掘った聞き驚くばかりです。 -
トーチカです
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戦没者慰霊碑は島民の墓地の一角にありました。
戦没者慰霊碑(みたま) 史跡・遺跡
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慰霊碑
中川州男守大佐が自決し、大山の守備隊本部に残る将兵は56名、弔い合戦に望むも武器もなく11月27日玉砕する。
井上集団司令は12月31日、ペリリュー島守備隊全員戦死と認定する。 -
「三十四会」みとし会
大山の南1キロにある天山を守備していた第二大隊の残余兵、
中川州男守備隊長の自決後も日本軍が無条件降伏し、将兵が全員日本に引揚げたことも知りませんでした。
米軍の拡声器での呼びかけや、チラシでの説得にも応じず、残された日本軍兵士は未だ戦闘状態だと思っていました。
生存者の34名が、元海軍第四艦隊澄川参謀長の説得に応じ帰順したのは
1947年4月のことです。
第二連隊の本部があった、水戸市にちなみ「みとし会」と読むそうです。 -
中川州男中将の碑
戦死後に2階級特進して陸軍中将に任ぜられました -
ペリリュー第二次世界大戦記念博物館
(Peleliu World War II Memorial Museum)
日本軍の通信局として使用されていた建物です。 -
博物館内には、日米両軍の武器などが展示されています。
歩兵第二連隊旗 -
九六式二十五粍対空機銃
九六式は、皇紀2596年(昭和11年)西暦で1936年の製作 -
九九式歩兵小銃
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日本軍の占領地域
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米軍兵士の写真もありました
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日本軍総司令部跡
海軍航空隊の司令部として使用されていた建物です -
米軍の空爆や艦砲射撃の凄さを感じます
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イチオシ
爆弾で破壊され、建物の天井に大きな穴が
銃弾の跡も見られます日本軍総司令部跡 史跡・遺跡
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旧日本軍の九五式軽戦車
日本軍戦車 史跡・遺跡
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ペリリュー飛行場滑走路跡
ペリリュー飛行場 史跡・遺跡
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車窓から
アメリカ軍慰霊塔 -
米軍が最初に上陸した「オレンジビーチ」
(米軍が使用したコードネームが名前の由来)
日本軍は北から「イシマツ陣地」・「イワマツ陣地」・「クロマツ陣地」を設けていました。
9月14日、米軍が上陸時の陸揚げで混乱し、陣形を整えるまでの僅かな隙きを突いて第一波の上陸部隊を撃滅しました。 -
ジャングルの中へ、零戦の残骸を見に入ります。
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零戦の残骸
ペリリュー島の零式艦上戦闘機 (零戦) 史跡・遺跡
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昼食の弁当をいただきました
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給食後、自由散歩
この一帯はサウスドック -
水深が浅いのでボートしか入れないようです。
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アンガウル島がかすかに見えます。
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2015年4月9日 天皇皇后両陛下がご休憩された建物
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建物の中には、たくさんの写真がありました。
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ペリリュー平和記念公園で「西太平洋戦没者の碑」
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日本語と英語で碑文がありました。
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こちが英文
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アンガウル島を望み黙祷
アンガウル島は、豊富な燐鉱石が採れるため燐鉱石会社があり、1300人もの日本人が住んでいました。
これらの邦人、老人・婦女子の島民をすべて戦闘前にバベルダオブ島に引き揚げさせたそうです。
1200名の歩兵第五十九連隊(宇都宮)守備隊は、米軍歩兵部隊2万1000人との戦闘(9/11~9/18)で玉砕した。 -
米軍水陸両用戦車
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イチオシ
ペリリュー神社に登る崖に高射砲が
艦船から外して据付けられた「海軍短二十糎砲」です。 -
ペリリュー神社
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天皇皇后両陛下の御歌
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何この看板
Bloody Nose Ridge:鼻血まみれの尾根
大山の守備隊本部を制圧したのは、第81歩兵師団の山猫部隊
日本軍守備隊の抵抗により多数の犠牲者をだしました。 -
イチオシ
大山に登る山道で
不発弾が残っている恐れがあり紅白の標柱が
白と白の間は安全、赤の外に出ないように注意して歩きました。 -
歩兵第二連隊ペリュー島守備隊への顕彰碑
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たくさんの洞窟陣地の跡があります。
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中川州男守大佐と村井権治郎少将が自決した地下壕
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ツアーの皆さんとお線香あげさせてもらいました。
左下に備えられている赤い封書
大佐の出身校の熊本県立玉名高校の「同窓会報」のようです。中川大佐自決の地 文化・芸術・歴史
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15時、北桟橋からコロール島に戻ります。
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小さな子が手を振ってくれました。
アンガウル島と同様に、ペリリュー島でも中川守備隊長の命で、軍属を除く島民の婦女子や児童のバベルダオブ島避難措置が取られました。
多くの島民の命が救われたことで、この子達が生を受ける事が出来たのかと思うのは私だけでしょうか? -
パラオ最後の夜、ディナーは昨日予約したレストラン「マリーナ・カフェ・ヴィータ」でホテルまでの送迎をしてもらいました。
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キンキンに冷えたビールが美味い
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おすすめサラダ
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マグロのたたきドラゴンフルーツソースかけ
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マングローブ貝
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キャッサバの焼酎も飲んでみました。
改めて戦争の虚しさ、犠牲者はいつも市井の人、と思った一日でした。
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