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姫路旅行の二日目、天気は予報通りの雨だったが、出発前の予報でも雨と出ていたので一応雨天時プログラムも準備してレンタカーで相生、龍野、牛窓方面に向かって出発した。忠臣蔵で有名ではあるが赤穂城は復元でもあり、当初、訪問予定は無かったが、赤穂城への道路標識を見ると、せっかくここまで来たんだから行こうと思い立ち、急遽訪問することにした。もともと行く予定がなかったため全く予習をしていないので、行き当たりばったりの訪問となった。<br />

播州赤穂城周辺を散策

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2018/05/13 - 2018/05/13

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sio爺

sio爺さん

姫路旅行の二日目、天気は予報通りの雨だったが、出発前の予報でも雨と出ていたので一応雨天時プログラムも準備してレンタカーで相生、龍野、牛窓方面に向かって出発した。忠臣蔵で有名ではあるが赤穂城は復元でもあり、当初、訪問予定は無かったが、赤穂城への道路標識を見ると、せっかくここまで来たんだから行こうと思い立ち、急遽訪問することにした。もともと行く予定がなかったため全く予習をしていないので、行き当たりばったりの訪問となった。

旅行の満足度
3.5

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  • レンタカーで赤穂市内に入り赤穂城・大石神社の看板を見て、急遽、訪問を決定。駐車場に車を置いて神社に向かうと、参道の両脇に義士の石造がズラリと並ぶ様は壮観というか迫力がありすぎた。<br /><br />

    レンタカーで赤穂市内に入り赤穂城・大石神社の看板を見て、急遽、訪問を決定。駐車場に車を置いて神社に向かうと、参道の両脇に義士の石造がズラリと並ぶ様は壮観というか迫力がありすぎた。

  • この迫力は画像にすると伝わらないが、圧倒されながら境内に入っていった。

    この迫力は画像にすると伝わらないが、圧倒されながら境内に入っていった。

  • 大石神社の創建は大正元年で、四十七義士の活躍した江戸期の建築ではない。さすがに江戸幕府の統治下では、表立って四十七士を顕彰することは難しかったようだ。

    大石神社の創建は大正元年で、四十七義士の活躍した江戸期の建築ではない。さすがに江戸幕府の統治下では、表立って四十七士を顕彰することは難しかったようだ。

  • 明治元年(1868)、明治天皇が赤穂浪士の墓のある泉岳寺に勅使を遣わして、これを弔って以降、赤穂と京都に赤穂浪士を祀る神社が創建された、ということがウィキペディアに記載されている。<br /><br /><br />

    明治元年(1868)、明治天皇が赤穂浪士の墓のある泉岳寺に勅使を遣わして、これを弔って以降、赤穂と京都に赤穂浪士を祀る神社が創建された、ということがウィキペディアに記載されている。


  • ここは義士宝物殿。大石神社を参拝してから赤穂城跡の方に向かった。<br />

    ここは義士宝物殿。大石神社を参拝してから赤穂城跡の方に向かった。

  • ここは長屋門赤穂藩家老、大石家3代の屋敷の長屋門で、屋敷は畳数にして308畳の広大な邸宅だったそうだ。浅野内匠頭の刃傷事件の際、その知らせを持って早カゴで駆けつけた早水藤左衛門、萱野三平が第一報を知らせる時に叩いたといわれるのが、この長屋門だということだ。<br />

    ここは長屋門赤穂藩家老、大石家3代の屋敷の長屋門で、屋敷は畳数にして308畳の広大な邸宅だったそうだ。浅野内匠頭の刃傷事件の際、その知らせを持って早カゴで駆けつけた早水藤左衛門、萱野三平が第一報を知らせる時に叩いたといわれるのが、この長屋門だということだ。

  • 赤穂浪士の討ち入りでお家断絶後、永井氏の家老篠原長兵衛が入居し、森氏に引き継がれ、享保14年(1729)に屋敷が焼失したが長屋門は残った。

    赤穂浪士の討ち入りでお家断絶後、永井氏の家老篠原長兵衛が入居し、森氏に引き継がれ、享保14年(1729)に屋敷が焼失したが長屋門は残った。

  • 江戸時代の面影を偲ばせることから、大正12年に国の史跡に指定された。

    江戸時代の面影を偲ばせることから、大正12年に国の史跡に指定された。

  • ここは近藤源八宅跡長屋門で、大石旧宅長屋門の向かいにある。中庭を通ると往時を偲ばせる瀟洒な建物があり、ここは外から家屋内を見学することができた。<br /><br /><br />

    ここは近藤源八宅跡長屋門で、大石旧宅長屋門の向かいにある。中庭を通ると往時を偲ばせる瀟洒な建物があり、ここは外から家屋内を見学することができた。


  • 立て看板の説明によると、<br /><br />

    立て看板の説明によると、

  • 近藤源八正憲は甲州流軍学を修め、千石番頭の重職にあった。近藤源八の妻は大石内蔵助の叔母にあたり大石家とは姻戚関係にあったということだ。

    近藤源八正憲は甲州流軍学を修め、千石番頭の重職にあった。近藤源八の妻は大石内蔵助の叔母にあたり大石家とは姻戚関係にあったということだ。

  • 近藤源八宅跡長屋門は「源八長屋」の愛称で親しまれているが、現存している建物は長屋門の長屋部分だということだ。

    近藤源八宅跡長屋門は「源八長屋」の愛称で親しまれているが、現存している建物は長屋門の長屋部分だということだ。

  • そして城内に残された江戸期の建築物は大石良雄宅跡長屋門と近藤源八宅跡長屋門だけだそうだ。

    そして城内に残された江戸期の建築物は大石良雄宅跡長屋門と近藤源八宅跡長屋門だけだそうだ。

  • 旧大石宅と旧近藤宅の二棟を見学した後、道なりに進んで行った。

    旧大石宅と旧近藤宅の二棟を見学した後、道なりに進んで行った。

  • 石垣は枡形になっていた

    石垣は枡形になっていた

  • この門を通ると、

    この門を通ると、

  • 有名な、大手隅櫓に出た。

    有名な、大手隅櫓に出た。

  • ここでしばらく写真撮影などをした。

    ここでしばらく写真撮影などをした。

  • 片岡源五右衛門高房宅址

    片岡源五右衛門高房宅址

  • 説明の掲示には源五右衛門のことが記されており、浅野内匠頭の側近中の側近であったことがわかる。<br />源五右衛門は、浅野内匠頭長矩公とは同年齢で、幼い頃から君側に召し出された寵臣であった。(中略)元禄14年(1701)3月14日の内匠頭の登城に従い、江戸城に赴いた源五右衛門は下乗で供待(ともまち)中、主君の刃傷を知らされ、鉄砲洲上屋敷にとって返し、藩邸留守居の諸氏に大事を伝え事態の収拾にあたった。田村邸において切腹直前の内匠頭に拝顔、内匠頭も源五右衛門に気付いたが、主従は共に声なく、今生の別れを惜しんだのであった。(後略)<br /><br />

    説明の掲示には源五右衛門のことが記されており、浅野内匠頭の側近中の側近であったことがわかる。
    源五右衛門は、浅野内匠頭長矩公とは同年齢で、幼い頃から君側に召し出された寵臣であった。(中略)元禄14年(1701)3月14日の内匠頭の登城に従い、江戸城に赴いた源五右衛門は下乗で供待(ともまち)中、主君の刃傷を知らされ、鉄砲洲上屋敷にとって返し、藩邸留守居の諸氏に大事を伝え事態の収拾にあたった。田村邸において切腹直前の内匠頭に拝顔、内匠頭も源五右衛門に気付いたが、主従は共に声なく、今生の別れを惜しんだのであった。(後略)

  • 掲示物「よみがえる旧赤穂城庭園 二の丸庭園」<br />城内の敷地は広く、あちこちで復元工事を行っていた。

    掲示物「よみがえる旧赤穂城庭園 二の丸庭園」
    城内の敷地は広く、あちこちで復元工事を行っていた。

  • なんか新しそうな建造物が見える

    なんか新しそうな建造物が見える

  • 本丸外側の高麗門

    本丸外側の高麗門

  • 本丸外側の濠

    本丸外側の濠

  • 本丸門の内側に位置する櫓門

    本丸門の内側に位置する櫓門

  • 門を出ると、このような表示があったので、櫓門の入り口に向かう。

    門を出ると、このような表示があったので、櫓門の入り口に向かう。

  • この石段を昇っていくと、

    この石段を昇っていくと、

  • 櫓門の入口に出る

    櫓門の入口に出る

  • 櫓門の内部は、このようになっていた

    櫓門の内部は、このようになっていた

  • 天井の梁が良い雰囲気だった

    天井の梁が良い雰囲気だった

  • 「日本百名城」認定証

    「日本百名城」認定証

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